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絶頂期〈大正3(1914)年〜大正11(1922)年〉

ドキュメント内 鈴木商店と台湾開発-樟脳事業を中心に- (ページ 50-92)

 前節では台湾への進出によって「神戸の鈴木商店」が「日本の鈴木商店」へと脱皮して ゆく過程について論及した。本節では、第一次世界大戦の勃発によって「日本の鈴木商店」

が「世界の鈴木商店」となりゆく過程を見る。鈴木商店が歴史にその名を残したのもこの 時期の大躍進のゆえであり、胸の空くような豪快かっ華麗な商取引や、大胆な産業部門へ の投資の有り様は、大正7(IgI8)年の焼き討ち事件、昭和2(1927)年の昭和金融恐慌、

あるいは金手直吉という稀代の経営者をテーマとした先行研究や小説が、繰り返しその素 材として取り上げてきた。したがって新たに論考を加える余地は乏しい。しかし一方で、

「台湾」を切り口とした鈴木商店の「この時期」に関する論考はほとんどないのである。

世界的規模で活動する鈴木商店にとって、台湾での事業はすでに幾多の事業の一部となっ ており、華々しい活動の陰に隠れてあまり注目されなかったことによる。しかし、鈴木商 店の台湾における事業拡張は「宜蘭殖産」「大正製糖」「日本拓殖」「台湾炭業」の設立が 示すようにこの時期も依然積極性を示している。大躍進の陰に隠れた台湾での活動を見る。

(1)世界的貿易商社への飛躍 a 大戦景気

 大正3年7月の第一次世界大戦勃発によって、日本経済はいわゆる「開戦ショック」に 見舞われた。当時の日本経済は金融面でも、機械などの重工業品の供給面でもヨーロッパ の工業国に依存する度合いが強かった。このため、外国為替取引が途絶え、海上輸送の不 安から貿易が難しくなり、戦局に対する見通しの不確実さから、経済界全体が混乱し(1)、

明治40年恐慌以来低迷にあえいでいた日本経済は一層苦境に立たされたのである。この ような不透明な状況下にあって、いち早く動き出したのが金子直吉であった。彼は世界に 張り巡らした拠点(2)から続々と送られてくる報告と国内で入手した情報から総合的に 判断して、開戦3ヶ月後の11月、すべての商品船舶に対する買い出動を決定、実行した。

そしてさらに3〜4ヶ月後には、金子の予想どおり銑鉄、鋼材、船舶、砂糖、小麦などが 一斉に暴騰し、鈴木商店は一挙に1億数千万円を得たのである。さらに大正4,5年と順 風が続き、大正6年頃には鈴木商店の財産は1億、2億をもって唱えられるようになった

(3)。『金子直吉伝』は次のように言う(4)。

大正三年十一月に入るや金子氏は恰も霊夢に種かれた如く黄金の洪水が日本に押し寄 せて来つつあることを予感し、この時氏は男子として緊揮一番すべきは将にこの時だ と考えた。須らくこの千載一遇の好機に乗じて鈴木商店を天下に大ならしめようと、

即ち氏は世界の商品、殊に軍需品は必ず暴騰するにちがい無いという判断の下に当時 の会計主任目野誠義に命じ今日以降は鈴木の信用と財産とを充分に利用して出来るだ けの金を携え極度の融通を計って貰い度い。又如何に行詰まるとも自分の戦斗力をに ぶらせるようなことはいってくれるな。盲目滅法だ、藩地に前進じゃ、いよいよいか ぬときには俺だけにゾッといえ、鈴木の大を成すはこの一挙にあるといい渡し、すべ ての商品船舶に対して一斉に買思惑を立てた。

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 金子が第一に目を付けたのがイギリスの鉄であった。金子はロンドン支店長高畑誠一

(5)にBUY ANY sTEEL,ANY QUANTITY,AT ANY P㎜cE(鉄なら何でも金に糸目を 付けず買いまくれ)と打電し、次いでアメリカの鉄に手を伸ばした。第二の着眼は船舶だ った。三菱造船所に1万トン級の貨物船を」度に3艘も注文して世間を驚かせた。松方幸 次郎率いる川崎造船は船舶暴騰を見越して海軍からの注文を断り、ストックポート(6)

を計画したが、そのための鉄の大部分を鈴木商店が供給し、100万トン近くの船舶を建造 した。このほか三菱造船、石川島造船所、大阪鉄工所等にも鉄の供給を行い、その上鈴木 自らも播磨造船所、鳥羽造船所を経営し、船舶建造に従事した(7)。この他当時の華麗 な取引の様子を示すエピソードとして、桂芳男は、ロンドン支店長高畑誠一が行った対イ ギリス・連合国輸出を取り上げ、次のように紹介している(8)。

戦争で一日平均五万トン洗められると言った有様で、イギリス政府は船舶不足に悩み、

政府自ら買い付けにのりだし、手付け金としてイギリス人さえ見たこともない実に五

〇万ポンドという小切手を振り出し、高畑に渡すといった一幕もあった。また、イギ リス政府は連合国の食糧品注文が殺到し、高畑はこれをさばくために北海道の豆類、

澱粉、雑穀等を満載し、その船もろとも売り渡すという豪快ないわゆる「一船売り」

を敢行するといったはなれわざもみせた。高畑が、大戦中に神戸本店麦粉部を介した 分だけで、イギリスに売り込んだ小麦粉は五〇〇万袋。満州小麦は五○万トンに達し た。当時欧州の戦場で璽壕の土嚢に鈴木商店の「S Z K・イン・ダイヤモンド」のマ ークがついた麻袋が大量に用いられていたというが、このことは鈴木の連合軍への食 糧品供給のスケールの一端を示している。

 「五〇万ポンドの小切手」「一船売り」「S Z K刻印の土嚢袋」。いずれも当時の鈴木商 店の豪快な商取引を示すに十分な迫力をもっている。そしてとうとう『朝目経済史』(1928 年)に見えるように、「大正6年における同商店の商取引高を聞くに、内地外国間貿易十 二億円、外国間の貿易、いわゆる出商業高三億四千万円の巨額に達し」(9)、ライバル三 井物産の1O億9,500万円をはるかに凌駕することになったのである。『金子直吉伝』はこ

う続ける(10)。

三井物産の昭和三年に於ける商売高は十二億六千万円で、其の時は物産創立以来の最 高記録であったが、前大戦前後は十二億円位であったから、当時はさすがの三井も鈴 木には及ばなかったと見える。当時スエズ運河を通過した船舶積み荷の分量から言っ ても鈴木関係は日本出入の約一割を占めていた。そして前大戦中に鈴木の手で正貨を 我国に吸集した額は無慮十五億に達した。以て鈴木が如何に我が国国際貸借に偉大な 貢献をしたかがわかる。

この年、金子は6月11日付けをもってロンドン駐在の高畑らに一書をしたためた。堂々 たる長文で、当時の鈴木商店と金子、そして店員たちの気迫と抱負を示すものして、今日 でもよく取り上げられる文書である。その最終部に次のような記述がある。この部分をも        一47一

ってのちに「天下三分の書」と名付けられ、高畑のみならず、鈴木関係者に大きな感銘を 与える内容となった。まさに鈴木商店絶頂期を象徴する一文である(11)。

(前略)此戦乱の変遷を利用し大儲けを為し三井三菱を圧倒する乎、然らざるも彼等 と並んで天下を三分する乎、是鈴木商店全員の理想とする所也。小生兵是が為め生命 を五年や十年早くするも縮小するも更に厭う所にあらず…  (中略)一…  此書を 認むるは、日本海々戦に於ける東郷大将が彼の「皇国の興廃此の一挙に在り」と信号

したると同一の心持也

b 民間外交 一日米船鉄交換一

 大正6(1917)年8月アメリカが鉄材輸出禁止令を発令した。連合国内の船舶不足に対 応する為の銑鉄確保と、輸出した鉄材が中立国を経て敵国ドイツに流出することの防止が 必要だったからである(12)。当時日本の造船業の発展はめざましく、大戦による船舶不 足に支えられて、年間建造量は大正3年の8,5万トンから大正7年には64.1万トンに増加、

総トン数1,OOOトン以上の造船能力をもつ造船業者も大正2年の5社から大正7年には52 社へと増加していた(I3)。イギリスはすでに大正5年に鉄材禁輸に入ったため、アメリ カの禁輸措置発令の時点では、日本の造船用鉄材の対米依存度は90%に達していた。そ の影響は甚大で、造船業者はせっかくの注文に応じられず、したがって海運業者は船舶の 増強ができず、事業の拡張が頓挫する可能性が出てきた。この状態はr鉄飢誰」と呼ばれ、

禁輸措置で注文済みの造船用鉄材46.3万トンが積出不能となった。これは建造可能船舶 120トン、時価約8億5,O00万円に相当し、鈴木商店鉄材部の扱高はこのうち11.6万トン

(14)、約1億円と最も多くの買付をおこなっていたのでその打撃もまた大きかったので

ある(15)。

 業界では、川崎造船所、大阪鉄工所、三井物産、鈴木商店が発起人となって米鉄輸出解 禁期成同盟会を立ち上げ、マスコミも動員し、陳情活動を展開した。金子はその委員長と なり、同盟会の事務局を鈴木商店本店に置き運動をリードした。この間、外務省・逓信省 による政府間交渉、それに続く浅野総一郎による民間交渉が不首尾に終わったため、金子 は米大使モリスと単独交渉することを決意した。内務大臣後藤新平の紹介状を取り付ける とともに、通訳にジャパンタイムズ記者頭本元貞を同行させ、外遊中の松方幸次郎とも連 携をとりながらの交渉の中で、金子は「日本が国際連合国の一員としての責任上、船腹供 給の義務を果たすには是非とも貴国より鉄材を供給して貰わなけれぱならぬ。而してお互 に有無相通じて世界の平和に貢献したい」と熱意を伝え、従来の日本側提案よりも譲歩し た内容となったものの、アメリカの世論によって契約が覆ることのないよう、ナショナル シティバンクが保証するという異例の約束を取り付けることに成功したのである(16)。

この結果、第1回契約(大正7年3月締結)はr鉄材1トン」対r船舶1重量トン」の交 換で、日本側が手持ちの船舶15艘(12万7,800重量トン)を先に提供し、アメリカから 同量の鉄材を引き取る内容である。これに対し、第2回契約(大正7年5月締結)は「鉄 材1トン」対r船舶2重量トン」の交換で、日本側が12万3,150トンの鉄材を引き取り、

のちに船舶30艘(24万6,300重量トン)を提供することとなった(17)。こうしてr鉄飢 誰」は解消され、余剰鉄材によって膨大な国内残留船舶を確保し(18)、船舶の大量輸出、

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ドキュメント内 鈴木商店と台湾開発-樟脳事業を中心に- (ページ 50-92)

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