• 検索結果がありません。

鈴木商店と樟脳精製

ドキュメント内 鈴木商店と台湾開発-樟脳事業を中心に- (ページ 140-144)

第二章  鈴木商店と台湾樟脳専売制度

第四節  鈴木商店と樟脳精製

(1)松田茂太郎と日本の樟脳精製業

 粗製樟脳を昇華作業により油分、水分、來雑物など不純成分を除去して得られるのが精 製樟脳である。わが国では明治10年代に簡単な昇華装置が考案され、明治20年代に技術 的な進化を遂げ、明治30年代にはいって外国精製品を凌駕する製品を得るようになった。

この方面での権威とうたわれたのが松田茂太郎であった。宮崎県猷肥の出身であった松田 は、明治13(1880)年故郷で製造した粗製樟脳を1OO樽(1樽150斤入り)をlOO戸当10 円でイギリス外商エッチ・ルカスに売却したおり、当時ロンドンの精製樟脳の相場は1ポ ンド(約3739)当10円に近い高値で取引されていることを知り、これが精製法発明の 強い動機となったという(1)。松田は早速ルカスを通じてヨーロッパで用いられていた 精製器を取り寄せて研究をはじめたが、のちに農商務省山林局に在職し、樟脳産地である

高知県での勤務の機会を得ると研究も進み、明治19年にはほぼ精製法の完成に漕ぎ着け

ていた。

 松田のこの技術に着目したのが大阪住友本店総理広瀬宰平であった。松田は明治21年 官を辞して住友本店に入り、神戸市葺合村に樟脳精製工場を建設し、精製法の実験に着手

した(2)。しかし松田の実験は失敗の連続であり、明治25年住友本店は住友別子銅山か ら札幌農学校出身の技術者高木玉太郎を同工場に着任させた。このことは松田を奮起させ、

間もなく「板状」精製品を産出する「乾溜精製法」を完成させるのである。一方の高木に は自らの「粉末式精製法」の成績向上を目的に4ヶ月間のドイツ留学が命ぜられた(3)。

松田の開発した装置による精製品は明治25,26年頃、欧米の国立試験場では外国製品を しのぐ優秀品との折り紙がつけられた(4)。この成功が日本の精製業台頭の契機となる のである。しかし住友本店は、高木が帰朝ののち完成させた「粉末式精製法」を採用し、

明治25年これによって製造した精製樟脳を唯友樟脳」の商標でアメリカに輸出した。

これがわが国最初の精製樟脳輸出であった(5)。松田はこれを契機に翌26年住友精製工 場を辞し、広瀬満正(宰平の子)、池田貫兵衛らとともに「扶桑組樟脳精製所」を設立し、29 年この工場を基盤に「日本樟脳会社」(後年の「日本樟脳株式会社」とは別会社)を創立

した。松田はここで「板状」と「粉末式」の両方の精製法に関する特許を得るが、「板状」

精製樟脳製造における「釜蓋」の特許技術は、これ以降日本の樟脳精製技術の主流をなし たのである(6)。一方住友精製工場では高木が重用されたものの、その経営ぶりは消極 的で次第に業績不振となり、明治36年工場の権利一切を鈴木商店(名義は藤田助七)に 譲渡した。爾後住友は樟脳界から完全に姿を消すことになったが、精製技術完成への貢献 についていえば、松田の技術開発を辛抱強く支援したことの意義は極めて大きいといえよ

う(7)。

 樟脳専売制度導入に前後して台頭してきた精製業者としては藤沢友吉商店がある。藤沢 は明治27年に店を開き、当初は在来製法による精製品を粗製樟脳とともに販売したが、

明治32年に松田式を模倣して精製業を開始したもののその製造は難航し、翌33年には松 田を説得し「釜蓋」技術の使用を承諾させ、製造を本格化させた。藤沢は、創業当初は販 売する粗製樟脳を山製業者から買い受け、さらに台湾樟脳専売制施行後はサミエル商会か

一136一

ら買い受けたが、明治36年2月には台湾専売局から直接払い下げを受けるようになった。

翌37年になると日露戦争に伴う需要増加の影響で払い下げ高も急増し、40年代には大阪 の津垣常吉、向山茂平、小松駒太郎等の精製工場を買収し規模の拡大を図った(8)。

 藤沢の創業に先立っ明治24年、神戸市播磨町にイギリス外商エッチ・ルカスが樟脳製 造工場を建設した。当初はアメリカ人技師ボイヤーに精製を委ねたが、販売に適する製造 がかなわず、明治26年住友工場を辞職したばかりの松田を訪ねて、その技術導入を実現 した。その後は品質も向上し、特にインド方面への小型樟脳需要に応えるかたちで業績を 伸ばした(9)。

 このように明治32年頃は、日本樟脳会社、住友樟脳精製工場、藤沢友吉精製工場、エ ッチ・ルカス精製所が互いにライバル関係を保ちながら併存したが、いずれも松田が開発 した技術と深く関与している。ここに、自らの特許技術を一企業の利益のためではなく、

広く精製業全体に還元するという、松田の国益志向の姿勢が見て取れよう。本章第一節に おいて触れたように松田はまた前年9月、台湾総督府に樟脳専売制導入を決定づける「台 湾樟脳専売私見」を提出したが、国益志向の姿勢はこの「私見」にも通底するものであっ た。上記4社のうち、日本樟脳会社は台湾樟脳専売制が導入されると、台湾総督府が買収 するところとなり、松田は同時に台湾樟脳局神戸出張所主任兼技師として同局樟脳事業の 一部を担当したが、これは松岡の精製業における当時の位置づけがそのまま現れた結果と いえるだろう。日本樟脳会社工場は後年「台湾専売局神戸支局工場」となる。

(2)精製業合同 一目本樟脳株式会社一

 専売制導入後の精製業界の動向を見たい。藤沢商店のほかは名義や経営主体の変更が見 られる。また新規参入者も相次いだ。明治35(1902)年には住友工場で松田の下で研究 活動に従事していた落合牛太郎が後藤勝造らとともに「神戸樟脳精製合資会社」を設立し た。また藤田助七に譲渡された住友工場は、大正2年には日本商業に名義が変更されたも のの、実質的には鈴木商店の金子直吉が経営の中心にいた。エッチ・ルカスは、明治44

(1911)年に自らの製脳所を葺合樟脳精製所に改称したが、ルカス死去後の大正2年にな って会社は鈴木商店に譲渡され、同店窪田恒太郎、北尾直樹が経営を担当した。明治40 年に設立された「朝目樟脳精製合資会社」は竹岡文吉、柳田久治郎の共同出資によるもの であるが、大正期に入って急速に業績を伸ばし、鈴木商店と激しくしのぎを削った。この ほか大正3年からは鈴木系資本の「台湾塩業」(精製業合同直前の大正6年には同じ鈴木 系の「大目本塩業」に吸収されている)が台湾産原料によって本格的に精製を開始し、本 章第三節で見たように鈴木・三井の共同出資による胎湾精製樟脳株式会社」は大正6年 に操業を開始した(1O)。

 【表2..4.1】(資料編p.11に掲載)は日本樟脳株式会社設立に合流した精製7社の原料 樟脳取扱高の推移を、内台共通専売制導入以降についてまとめたものである。資本・販売 関係から合同時において「日本商業」「神戸樟脳」「葺合樟脳」「台湾塩業(大日本塩業)」

が鈴木商店系、「藤沢友吉商店」「朝目樟脳」が三井物産系、「台湾樟脳精製」が鈴木・三 井両系である。これによると、鈴木商店の精製業におけるシェアは、明治40年代に入っ て藤沢商店の好調と「朝目樟脳」の新規参入によって若干の占有率低下が見られるものの、

期間を通じて70〜90%を占め、他を圧倒していることがわかる。中でも鈴木商店と一体        一137一

と考えられる「日本商業」は業界内でカリバ]的存在であったことがわかる。藤田藤七名 義時代の明治41年に台湾産粗製樟脳の内地販売分を独占した関係から、前年度占有率を 倍増させ、「日本商業」1社で61%の占有率を記録している。しかしその後は「日本商業」

に割り当てられる原料はおよそ50%前後であることがわかる。これは内台両専売局によ って、「日本商業」とその他内地4社との原料割り当てがおよそ等しくなるように協定さ れていたためである。この均衡策をめぐって大正4(1915)年度には内合局で大きな問題 が起きている。前節【図2.3.1】によると、内地産粗製樟脳については「日本商業」以 外の精製業者が購入することとなっていたため、「日本商業」は大正3年度まではほとん ど購入実績が見られないが、大正4年突如85.8万斤の大量購入を実現している。これは 内地局が下半期より再製樟脳の販売を鈴木商店の自由販売としたためである(第五節参 照)。この措置によって均衡が大きく崩れることを懸念した内地局は、台湾局に対して「日 本商業」への原料供給割り当てを減らすよう提言してきた。これに対して台湾局はすでに 年度初めに決定している割り当てを途中に減ずることはできないと拒否、両局間に数度の 応酬が続いた。結局この年度は予想以上に内地産粗製樟脳の生産高が伸びたため、これを 朝目外3社に割り当てることで、例年通りの均衡を保つことができた(ll)。

 「日本樟脳株式会社」は上記7社に台湾産粗製樟脳海外販売を請け負う三井物産を加え て大正7年4月に発足した。資本金600万円、発行株式は新旧併せて18万株で鈴木系、

三井系でそれぞれ半分づつを保有したが、8万6,500株を保有する鈴木よねを筆頭に、4 万5,550株の三井守之助とっつき、鈴木商店からは金子直吉、北尾直樹も600株ずつ保有

した(12)。専務取締役には政府推薦の三十四銀行台北支店長長渡武良を起用し、取締役 には落合牛太郎、金子直吉、竹田龍太郎、中村藤一、藤沢友吉、北尾直樹、監査役には堀 尾末吉、楠瀬正一がそれぞれ就任した(13)。創立後直ちに旧精製業杜所有の工場を買収 したが、このうち旧日本商業工場を第一工場、旧朝日樟脳工場を第二工場、旧葺合樟脳工 場を第三工場とし、台湾では旧台湾精製樟脳工場を台北工場としたが、大正9年になって 第一工場を日本樟脳会社工場として製造の拠点とし、第二工場は売却し、第三工場は改造 の上水杜事務所及び倉庫として使用した(14)。粗製樟脳海外販売については既に前節で 見たとおり鈴木・三井で分け合ったが、精製樟脳の販売についても、自社の販売機能を持 っていなかったため、海外国内販売とも大株主である三井、鈴木、藤沢、竹岡(朝目)の 取扱店を通じて行った(15)。販売方法は「神戸渡自由売り」を原則とし、海外向けは、

井桁内に朝目印の新登録商標を付けて輸出し、内地向は、鐘旭印、朝目印、井桁印などを 使用して販売した(16)。大正7年度から昭和2年度までの精製原料樟脳売渡高および精 製樟脳内外販売高は【表2.4.2】(資料編p.11に掲載)のとおりである。これによると、

大正7,8年度は一次大戦の影響で精製樟脳に対する需要が極めて旺盛であった一方、粗 製樟脳産額が不足したため、8年度には精製品の市価が暴騰していることがわかる。翌9 年は反動不況で市価、販売量ともに低迷したが、大正10年度には底を脱し、13年度まで の精製樟脳販売は順調に推移している。しかし大正14年度には台湾産の原料樟脳が著し く減少して国内の精製に打撃を与えたほか、前節で見たようにアメリカヘの粗製樟脳輸出 が需要をまかないきれず、これに乗じてドイツ合成樟脳の進出を許す結果となった。これ 以降わが国天然精製品は、アメリカ市場においては、粗製樟脳の場合同様、合成樟脳を原 料とする精製品との競合にさられることになったのである(17)。

      一138一

ドキュメント内 鈴木商店と台湾開発-樟脳事業を中心に- (ページ 140-144)

関連したドキュメント