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道徳授業論の再構築 : コミュニケーション的行為の理論にもとづくモデルづくり

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Academic year: 2021

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(1)学位論文.        道徳授業論の再構築 一コミュニケーション的行為の理論にもとつくモデルづくり一. 学校教育研究科 学校教育専攻. 生徒指導コースM96153B 井 上 正 広.

(2) 目次 1. はじめに. 問題の所在. 3.  第1節  現代社会の問題点. 3. 第一章.   1. 近代化と私事化現象. 3.   2. システムによる生活世界の植民地化. 6 8.  第2節  現代教育の特質と問題点 1. 学校の自明性の崩壊. 8. 2 3 4 5. 教育のパラドックス. 10. 学びの共同空間の喪失. 12. 知識と生活世界の乖離. 15. 主体・客体関係一教育の意図をどこに置くか. 16 17. 第3節  いじめ問題について.  1. 課題としてのいじめ問題. 17.  2. いじめに対する基本的認識. 18.   (1)いじめの定義   (2)いじめの原因.  3 いじめ問題解決に向けた道徳教育の可能性   (1)いじめ問題解決の方向   (2)いじめ問題解決に向けた道徳教育の可能性. 23.  第1節 内容重視の道徳授業諸理論の概観と問題点. 30 30.    1伝統的な道徳授業論. 30. 第二章 道徳授業諸理論の概観と問題点.    (1)伝統的道徳授業論の概観    (2)伝統的道徳授業論の問題点.    2価値観の類型による道徳授業論    (1)価値観の類型による道徳授業論の概観. 32.    (2)価値観の類型による道徳授業論の問題点.    3押谷由夫の総合単元的な道徳学習    (1)総合単元的な道徳学習の概観    (2)総合単元的な道徳学習の問題点. 34.  第2節 過程重視の道徳授業諸理論の概観と問題点. 39.    1モラル・ジレンマによる道徳授業論    (1)モラル・ジレンマによる道徳授業論のねらい. 39.    (2)モラル・ジレンマによる道徳授業論の問題点. 1.

(3)   2井上治郎の道徳授業から道徳学習へ   (1)道徳学習理論の概観. 44.   (2)道徳学習理論の問題点.   3取り得る行為の選択による道徳授業改革   (1)取り得る行為の選択による道徳授業論の概観   (2)取り得る行為の選択による道徳授業の問題点. 50.   4宇佐美寛の道徳授業論. 53.   (1)宇佐美寛の道徳授業論の概観   (2)宇佐美寛の道徳授業論の問題点.   5伊藤啓一の統合的プログラムによる道徳授業の創造   (1)統合的道徳教育の概観   (2)統合的道徳教育の問題点 第3節 道徳諸授業論の問題点にもとつく再構成の視点 第三章 コミュニケーション的行為の理論と教育的意義.  第1節 コミュニケーション的行為の理論    1目的合理性からコミュニケーション的合理性への転換. 58. 62. 66 66 66.    (1)道具的理性批判    (2)ウェーバーの社会理論    (3)ハーバーマスによるウェーバー理論の再検討    (4)コミュニケーション的合理性概念 76.    2社会的行為の四類型    (1)目的論的(戦略的)行為    (2)規範規制的行為    (3)演劇的行為    (4)コミュニケーション的行為.    3普遍的語用論による言語論的転回    (1)成果志向的行為と了解志向的行為. 81.    (2)普遍的語用論    (3)妥当性要求と三世界. 90.    4システムと生活世界    (1)生活世界の概念    (2)システムと生活世界.  第2節 コミュニケーション的行為の理論の教育的意義    1教育的行為の再考一成果志向的行為から了解志向的行為への転換. 94 95.    (1)主体一客体関係から主体一主体関係への転換    (2)相互作用から相互行為へ 100.    2生活世界の再構成    (1)システムによる生活世界の植民地化    (2)生活世界の再構成. 11.

(4) 第四章 コールバーグ理論とディスクルス倫理学. 106.  第1節 コールバーグ理論の基礎的理解. 107.    1コールバーグ理論の特質    2コールバーグ理論の意義と限界  第2節 ディスクルス倫理学の基礎的理解. 107.    1ディスクルス倫理学の背景    2道徳原則の根拠づけのプログラム. 112. 110 111. 114.    (1)論議規則としての普遍化原則    (2)道徳原理としての普遍化原則の根拠づけ    (3)ディスクルス倫理学の意義.  第3節 コールバーグの道徳性発達段階の再編. 120.  第4節 ディスクルス倫理学の教育的意義. 126. 第五章 道徳授業実践. 129.  第1節 道徳授業のパラダイム転換. 129.    1問題状況の再考    2道徳授業再構築の視点. 129 130.    (1)成果志向的モデルから了解志向的モデルへの転換    (2)価値重視の道徳授業から規範重視の道徳授業への転換 136.    3新しい道徳授業モデルの構築    (1)道徳授業構築の視点    (2)新しい道徳授業モデル. 139.  第2節 道徳授業実践    1授業実践における視点. 139.    2授業展開例    3授業考察. 142. 第六章 総合的考察. 149. おわりに. 152. 資 料. 155.   (1)道徳授業「ぼくは後悔しない」の資料内容. 156.   (2)道徳授業「ぼくは後悔しない」の授業記録. 157. 144. 111.

(5) はじめに  今日、学校教育の場では、登校拒否・いじめ・校内暴力など、さまざまな問 題が露呈している。これらの学校病理の原因については、地域の教育力の低下、 高度資本主義社会による物質主義、学校の管理体制の強化や受験制度の固定化な どによる人間性の喪失などが述べられてきた。しかし、これらの問題は、現在解 決されるどころか、ますます混迷の状況にある。.  特に、「いじめ」の問題に関しては、日本国憲法で保障されている人間として. 最も根源的な「生存権」さえも脅かす現状である。1994年11月27日の大河内清 輝君の自殺に象徴されるように、いじめが原因と思われる自殺の例も跡を絶たな い。最近では、1996年の千葉県流山市の中学校三年生男子生徒の飛び降り自殺、. 滋賀県近江八幡市の県立高校三年生の男子生徒の飛び降り自殺、1997年の北海 道旭川市の中学校男子生徒の自殺などがある。しかし、このように表面的な自殺 という悲しい結果を伴って現象化してくるいじめは、そのなかの僅かなものであ. る。このことについては、「第1章問題の所在」で詳述するが、いじめという現 象は、いつ、どこで、誰におきるか分からない状態にまで深刻化しているのであ る。.  このような深刻な事態を、社会の誰もが変えなければいけないと考えている のは確かなことであろう。また、そのように考え、実践してきた良心的な教師や 教育者がいることも事実である。このことは、多くのいじめに関する著作に見る. ことができる。また、1996年には、第15期中央教育審議会の審議のまとめ及 び答申において、深刻化するいじめ対策として、「転校条件の緩和」「欠席手段の. 容認」「クラス替え促進」の三点が打ち出され、いじめ問題の解決の方向性が示 された。.  しかしながら、このようなさまざまな関係機関の努力にもかかわらず、いじ め問題が解決の方向に向かっているという声は、どこからも聞こえてこない。そ. れどころか、現実には、かえって深刻化するいじめの報告ばかりである。つい最 近も、筆者は、このような現実を突きつけられるようなニュース報道を耳にした。. そのニュース報道によると、いじめを受けていると思われる子どもの母親が、子 どもに内緒で本人に盗聴器を持たせ、いじめを暴き出したという例がいくつもあ るということである。更に、そのような盗聴器を貸し出している会社が、十分経. 営として成り立っているというのである。このような事例は、学校現場からの直 接的な報告ではないので、かえって、いじめの現実を表わす真実味さえ感じてし 1.

(6) まうのは筆者だけであろうか。.  このような現状を考えたとき、われわれ教師は、この事実にどのように対応 していったら良いのであろうか。いじめが発生しているのは、子どもが実際に生 活している学校という場においてである。そこで、子どもたちと毎日接し続けて いるわれわれ教師は、どのような態度で、この事実に取り組んだらいいのであろ うか。.  われわれ教師は、ここで改めて問い直さなければならないのではないだろう か。「学校に何か問題があるのではないか」、「自分たちの行っていることは正し いのだろうか」、「子どもたちはどうしていじめをおこすのだろうか」、「いや起こ. さざるを得ないのだろうか」等ということを。すなわち、今まで自明のものとし て、何の疑いもなく取り組んできた教育というものを改めて問い直していくこと が、われわれ教師にとっては、これから最も重要になってくるのではないだろう か。.  そこで、本論文では、このような問題意識に立ち、現在の学校教育を含めた 社会の現実をしっかり見つめ、その問題点を明確にすることにより、いじめ問題 の解決の可能性について考察していく。なお、その際、このような学校教育にお けるいじめ問題の解決の可能性をドイツの社会哲学者ユルゲン・ハーバーマスの コミュニケーション的行為の理論に求めていくこととする。そして、このコミュ ニケーション的行為の理論に基づいて、道徳授業のパラダイム転換を図り、いじ め解決に向けた新しい道徳授業のモデルを作成することが、本論文の課題である。. 2.

(7) 第一章 問題の所在 第1節 現代社会の問題点 学校は社会の縮図である。なぜならば、学校は社会の要請によって成立し、そ の要請に応えるように展開してきたからである。すなわち、佐藤学も言うように、. 学校のあり方を深く規定しているのは日本社会そのものなのである(1)。その意. 味において、近代化された日本社会の特質、特にその問題点を考えることは、現 在学校現場において急務となっているいじめ問題の解決に向けて、重要な示唆を 与えてくれるものであると考える。そこで、現代社会の特質とその問題構造につ いて「近代化と私事化現象」「システムによる生活世界の植民地化」という二つ の側面から考察し、教育学的に問題点を明確にする。. 1近代化と私事化現象  21一世紀を目前に控え、日本社会は、高度の近代化を果たした。国民の生活水 準は、世界のトップクラスであり、豊かさと物あまり現象がこれを象徴している。. この近代化は、都市部だけではなく、農村部を含め広く日本社会全体に浸透して いる。お金さえ出せばなんでも欲しいものが買える時代である。そのため生活の 目的がお金を得るためという方向に縮減されてきてしまった。お金を得るという. 目的一般関係の中に人々が取り込まれてしまったために、他の人と協力して何か をなすということが副次的なものになってしまった。すなわち、アーレントの言. を借りれば、かっての「活動→仕事→労働」という人々の行為が逆転し、労働 が第一義的なものとして尊重されることとなったのである。アーレントによれば、. 労働とは、消費財を生み出す活動であり、仕事は、芸術作品などを生み出す活動 である。そしてく活動とは、行為者の卓越を示す行為だとされる。このように、. かつては、行為者間で他者と関わりながら、自分自身の存在を確認する行為が第 一義的なものとして考えられていたが、現在においては、この関係が逆転し、行 為者間に何も生み出さない行為である労働が、第一義的なものとしてみなされる ようになったのである。そのために、上記のような協力関係というものが縮減さ せられてきたものと捉えることができよう。.  また、お金さえあれば一人でも十分生活していけるという考え方が広く流布し てしまったために、 「人に迷惑をかけなければ何をやってもいいだろう。」とい. った個人主義的・利己主義的な考え方が社会全体に支配的となった。また、近代 化による科学技術の発展によって、農村部においても機械が導入され、以前のよ 3.

(8) うな農作業の共同によって育まれてきた共同体意識が薄れてきた。都市部におい て、このことはより一層顕著に見られる。それぞれの家族が自分だけの家族の中 に閉じこもってしまっているのである。佐藤慶幸はこのことに関して次のように 的確に指摘している。. 経済成長によって、生活水準は全般的に上昇し、消費生活における平等化が 進んできた反面、われわれは多くのものを失ってきた。他者への思いやりや共 感能力にもとつく相互扶助的な連帯や共同の生活が解体し、もっぱらモノとカ ネにもとつく私生活主義が人々に共通の生活スタイルとなってきた(2)。. また、西も同様な考え方のもと、現代社会の特質を次のように述べている。. かつては、共同体への貢献が人間として価値ある生き方とされてきた。けれ ど、だんだんそうではなくなってくる。「自分のやりたいことをやって充実感 を味わいたい」という姿勢で生きる、というほうがごくふつうの生き方になり、 実際、広く認められようになってきた(3)。.  このような現代社会の特質を森田は、「私事化」と定義づけし、このことを「簡. 単に言えば、『公』重視から『私』尊重への転換であり、社会が近代化していく 過程で、生きる意味や価値を私的な生活世界に求める傾向が強まることである」 (4)と規定している。このような私事化という現象は、社会に埋没し、自分自身. の生き方を見失ってきた個人を見つめ直し、自分自身を大切にしていこうとする 価値観の表出であると捉えることができる。その意味においては、この私事化と いう現象は、現代社会において十分意義のあるものであると言えよう。しかし、 この私事化現象では、このような肯定的な側面よりも否定的な側面のほうがより. 顕著に見られる。社会という全体的なものよりも私生活という個人的なものを重 視するために、人々の生活において、社会や集団との関わりを避けるようになっ てしまい、そのことが自分以外の他者に対する無関心を呼び起こしているという 面である。すなわち、 「自己の中の他者性」(5)というものが希薄となり、自己. と他者との密接な関係を保つことが困難になってきているのである。このように 他者に対する無関心が強くなることによって、他者に対する傍観者意識が人々の 間で確実に進行しているものと考えられる。今、教育現場で大きな問題となって いるいじめ問題についても、人と人との関係の問題という視点をふまえて、現代. 4.

(9) 社会において大きな流れとなっている「私事化」という現象の中で考えていくこ とが重要であろう。. なぜならば、このような私事化という現象は、子どもたちの生活の中でも確実 に進展してきているからである。その顕著な例は、子どもたちにとって身近な遊 びの中に見ることができよう。すなわち遊び空間の喪失である。. 現在でも子どもの中に遊びはしっかりと根づいている。しかし、その遊びの形 式が変化してきているのである。以前は、どこでも「かくれんぼ」や「鬼ごっこ」. など集団を通しての遊びが主流であった。しかし、現代においては、テレビやテ. レビゲームといった個人ないし、2∼3人物小集団による遊びが主流となってき ている。この遊びの形式の変化について深谷は、調査結果をもとに次のように述 べている。. 子どもたちの遊びが、 r静止型」へ、そして、. 「群れ」から「孤独」へ、あるいは、 「活動型」から. 「自発」から「受身」へと、変質してきたとみなすの. が妥当であろう(6)。. このように、子どもたちの本質的活動である遊びにも見られるように、子ども 社会の中にも私事化現象が見られるのである。すなわち、私事化による遊びの空 間の喪失と言えるであろう。このような遊びの変化は、近代化により縮小された 空間の中で、子どもたちが必然的に生み出してきたものであるかもしれない。し かし、このような遊びの変化は、子どもたちの集団形成に大きな影響を与えてい るのではないかと考える。以前は遊び集団の中で、年長者は、集団を引っ張って いく力や年少者に対する思いやりの気持ちを培ってきた。また年少者は、年長者 との遊びの経験を通して、生活の仕方や規則などを体得していったのである。こ のような遊びという集団活動を通して子どもたちは、自分自身はどうあるべきか という自己自身のアイデンティティを確立してきたのである。しかし、現在のよ うに遊び集団が限定されたり、同年齢集団に一面化されることにより、そのよう な体験の場を喪失してしまったのである。そのことにより、佐伯が言うように「個 人のアイデンティティの危機」をもたらすことになったのである(7>。このこと. が、現在学校現場において、自分の生き方を見失ってしまった、いわゆる浮遊す る子どもを生み出しているのではないかと考える。. また、近代化によって、子どもたちによる情報獲得の方法も大きく変化した。. 近代化以前においては、情報の獲得は、主に直接体験によるものであった。直接 5.

(10) 体験においては必ず対象が存在するのである。それも生きた対象である。子ども たちは情報の獲得において、様々な人や事物と相互関係を保つことを通して、様々. な伽験の場と機会を得ることができたのである。そのような活動を通して、他者 との相互行為のあり方を自然と体得していったのである。現代においては、情報 の量は以前に比べてはるかに増大し、子どもたちは様々な知識を所有している。 しかし、その知識の獲得の方法は主にテレビなどの間接体験である。間接体験は、. いわばモノローグの体験である。そこにおいては、相互行為を行う相手が存在し ないのである。ゆえに知識の量は増えても、自己と他者との間の相互行為という 経験が極端に縮減されるのである。このことは、現在の子どもたちの遊びが、「友 達の顔が見えない孤独型の遊び」(8)であるのと同じように、「友達の顔が見え ない孤独型の情報獲得」ということができるであろう。、.  このように、近代化による私事化の現象は、社会全体に留まらず、遊びや情報 獲得といった子どもたちの具体的な生活の場面においても見ることができる。子 どもたちは、近代化以前のような他者との関係を保持することができなくなって しまったのである。その意味においても、この私事化という問題に視点を当て、. 子どもと子どもの関係を捉え直していくことが、学校教育に課せられた重要な課 題ではないだろうか。.  しかし、現在そして未来に生きる子どもたちを、共同体意識がしっかり根づい ていた近代以前に後戻りさせることはできない。ましてや、今、子どもたちが生 きている現代社会をそのような時代に移し返すことは不可能である。それでは、. 子どもたちが実際に生きている社会を変えることが困難であるならば、どのよう にしたらよいであろうか。それは、教師と子どもが共に生きている学校という場 において、教師と子ども、子どもと子どもの真の連帯・共同性というものを回復 するほかに方法はないのではないだろうか。そしてこのような真の連帯・共同性 を回復するためには、他者との対話を抜きにしては考えられない。. 他者との連帯の第一歩は、他者に語りかけることによってある問題について の理解と共感を得ることである。他者に語りかけ訴えることを通して相互了解 に達する行為が、まさしく「対話的行為」にほかならない(9)。. すなわち、 「対話的行為」をいかに学校教育の中で実現していくかが、現代社 会の特質から捉えた教育学的課題であると考える。. 6.

(11) 2システムによる生活世界の植民地化 近代化と私事化現象の項において、人々が私的な生活世界の中に個人の生きる 価値や意義を見出しているのが、現代社会の大きな特質であると述べた。その意 味でも、生活世界は、子どもたちが生きる現代社会の特質を捉える上で重要な概. 念となる。生活世界については、第3章第1節において、システムとの関連で詳 述するが、ハーバーマスによれば、生活世界とは、コミュニケーション的行為に おける知識のストックを形成するものである。コミュニケーション的行為におい ては、さまざまな事象について行為者達の間で妥当要求がなされ、討議が行われ、. 共同のものを創り出していこうとする。その時、妥当性要求である正当性要求・. 真理性要求・誠実性要求といったコミュニケーション的合理性の背景をなすもの が生活世界である。その意味において、生活世界とは、子どもたちがコミュニケ ーション的行為を合理的に行う上での基盤である。コミュニケーション的行為の 連関で生活世界を考えることは、私事化という問題点克服に向けた学校における 「対話的行為」の実現につながる重要な視点である。すなわち、生活世界が子ど. もたちに十分保障されているならば、生活世界を基盤とする「対話的行為」の実 現も可能となってくるのである。.  しかし、この生活世界も現代の急激な産業化と都市化の影響を受け、大きく変 容を遂げてきている。すなわち、システムによる生活世界の植民地化である。シ ステムとは、経済活動や政治活動において効率性を追求するために構築されたも のである。現代産業社会においては、このシステム制度は非常に有効なものであ る。そのため、このシステム合理性は、その効率性により現代産業社会を制御す るものとなってきている。すなわち再生産システムとしての経済システムと官僚 制に典型的にみられる政治行政システムである。更に、この経済システムと行政 システムの複合システムは、産業社会だけではなく、社会全般にまで浸透し、子 どもたちの活動の中心である家庭や学校といった生活世界にまで越境してきてい るのである。学校における受験体制、家庭における企業戦士としての父親の存在 などにその顕著な例を見ることができる。このようなシステムによる生活世界の 植民地化について、ハーバーマスは次のように述べている。.  目標や関係やサービス、それに生活空間や生活時間までが金銭に換算され、. 意思決定や義務と権利、責任や依存関係のすべてが官僚化され、私的生活態度 や文化的・政治的な生活形式を構成する諸要素が、生活世界の記号的な構造か ら切り離されるに及んで始めて、貨幣や権力の媒体による機能の被拘束性がま 7.

(12) すます顕わになってくる(10)。. すなわち、「対話的活動」の基盤である生活世界において、コミュニケーショ ン的合理性からシステム台理性への変質をきたしているのである。このように、. システム合理性に一元化された生活世界を基盤とする学校教育において、現在表 面化しているさまざまな問題は、高橋が述べるように、「子どもの生活世界の側 からの拒絶的反応」(11)と捉えることができるであろう。. そこで、このようなシステムによる生活世界の植民地化を教育学的な視点から 捉えた場合、子どもたちの実際の生活において、システム合理性に取り込まれた 生活世界に対して、いかにしてコミュニケーション的合理性を回復していくかが、 今後の重要な課題になると考える。. 第2節 現代教育の特質と問題点 現代教育の中心である学校は、今どのような状況にあるのか。このことに関す る佐藤学の指摘は示唆的である。. 学校は、子どもたちが学び成長し合う場所というよりも、むしろ、学ぶ歓び を見失い、自分自身をも見失う場所となっているのではないだろうか。学校は、. 学びの連帯を形成し、民主主義を実現する場所というよりも、むしろ、排他的 な競争を通していびつな優越感と劣等感を醸成し、階級や人種や性の社会的・. 文化的な差異を拡大する機能しか果たしていないのではないだろうか。更に学 校は、子どもたちの多様な学びを効率性の基準で画一的に統制し、一人ひとり の個性と創造性を抑圧する機能しか果たしていないのではないだろうか(12)。. 佐藤学の学校教育の現状に対する指摘は、次の三点に集約できるであろう。.  ①子どもの自己アイデンティティの喪失した場になっているということ。  ② 学習能力の一面的重視による子ども相互の関係性の喪失した場になって   いること。.  ③ 効率性を重視したシステム合理性に取り込められた場になっているとい   うこと。.  このような状況の中、校内暴力やいじめ、登校拒否といった学校病理が頻発し てきた1970年以来、学校教育はそれらの諸問題が顕在化するたびに批判され、 また、そのための改革論などが発表されてきた。しかし、それは時と場所は違え. 8.

(13) ても、内容的にはほとんど差異のあるものではなかった。すなわち、偏差値教育 や学校の管理強化に原因を求めるものがほとんどであった。そこで、佐藤学が提 起している視点から、現在の教育の問題を根本的に問い直し、その問題を捉え直 すことが重要になってくるだろう。そして、そのことによって現在のいじめ問題 に関する解決の方向性も見えてくるのではないかと考える。. 1学校の自明性の崩壊  現代は教育の困難な時代である。それは学校の自明性の崩壊という、以前に は問題にされなかったことが一つの原因と考えられる。以前は学校へ行って勉強 をすることに対して、大きな疑問を持つことはなかったように思われる。善きに つけ悪しきにつけ、学校で勉強をし、更に良い学校、そして良い仕事に就くとい うのが社会の一般的考え方であったように思われる。しかし、現在では多様な価 値観が混在し、 「学校へ行くことがすべてではない」とか「学校へ行って勉強す. ることにどのような意味があるのか」ということを子どもたちが、真剣に考える ようになってきたのではないか。すなわち、学校へ行くのは当たり前のこと、学 校で勉強するのは当然であるといった学校の自明性が、近年崩壊しているのであ る。このことは、各地に見られるフリースクールの出現、中教審答申の緊急避難 の容認や登校拒否児を対象とした適応指導教室に見ることができる。また、学校 においても、 「自分は何のために勉強しなくてはいけないのだろうか」どいった. 思考形式を多くの子どもたちが、持ち始めているのも事実である。.  このように、子どもたちの中に多様な価値観が育っていくことは非常に良いこ とである。しかし、このような子どもたちの価値観と、大人社会、特に親や教師 との価値観との間にずれが見られることに大きな問題があると思われる。親の中 には、学校の重要性をあまり認めばしないものの、子どもの将来のことを考える とやはり学力ということを第一義的に考えてしまわざるをえないのが現実ではな いだろうか。また、教師においても、より上位の学校に多くの子どもを進学させ るという一元的な考え方に縛られてしまっているのが現実であろう。このような 親や教師の思いに対して、大きな疑問を持つことなく毎日を生活している子ども たちにとっては、学校生活というものはさほどストレスを感じる場ではないだろ う。しかしながら、上述したように、学校そのものの自明性に疑問を持ち始めた 子どもたちにとっては、自分自身のアイデンティティをどこに見出していいのか 分からず、そのために、学校での生活は耐え難いものになってきているのではな いだろうか。すなわち、学校の自明性に疑問を持ちながらも、その学校から自分. 9.

(14) 自身がはみ出してしまう恐れを子どもたちは、常に内包して学校生活を送ってい るのである。このことの最も大きな原因は、浜田が述べるように、現在学校とい うものがあまりに「制度上、絶対化」(13)されてしまったことにあるだろう。.  しかし、子どもたちはその解決の糸口を模索しているのである。その結果が、. 学校教育に画一化された現代社会において、自分達の居場所を見つけることがで きなくなった子どもたちのはけ口としての校内暴力やいじめとして表面化してい ると考えられる。. 2教育のパラドックス  学校の自明性の崩壊と共に、大きな問題として教育のパラドックスがある。 この問題は、教育において歴史的に必然的に背負わされてきたものである。この ことは、中世以降に学校がどのようにして成立し、それがなぜパラドックスを持 たざるを得なかったかを明らかにすることによって明確になってくると考える。 そこで、 「中世には子ども期はなかった」と言うアリエスの論述を通してこの問 題を考察する。. アリエスは、その時代時代の人々の持っている意識や感情などは、絵画にも表 れてくるだろうという考えのもと、絵画に描かれている人物の特徴を丹念に調べ. ることを通して、18∼19世紀に大きな転換があったと指摘している。大人と子 どもの服が、これ以前にはほとんど区別されていないが、この時期を契機に変わ っていくというのである。子どもが大人と区別される観念が、この時代につくら れたのである。すなわち、これ以前の中世においては、人々には子ども期という 意識は存在しなかったのである。宮澤が言うように、中世においては、現代の大 人・子ども・幼児という三分法は存在せず、大人・幼児という二分法が成立して いたのである(14)。そのため、幼児期を脱した子どもたちは、 「小さな大人」. として大人と同じような存在として意識されていたのである。そこで、子どもた ちは幼児期を抜けると、大体7∼10才頃には、自分の家にいないで外で徒弟とし て働いたのである。. 子供期に相当する期間は、「小さな大人」がひとりで自分の用を足すにはい たらない期間、最もか弱い状態で過す期間に切りつめられていた。だから身体 的に大人と見倣されるとすぐに、できる限り早い時期から子供は大人たちと一 緒にされ、仕事や遊びを共にしたのである(15)。. 10.

(15) いわゆる徒弟制度であるが、この制度を支えていた背景には、このことを可能 にする農村共同体が存在し、相互扶助システムの存在があったのである。このよ うなシステム中で子どもたちは、大人と共に生活することにより、さまざまな知 見を通して文化を獲得していたのである。すなわち、学校というものは特殊なも のであったのである。. 見習いによってある世代から次の世代へ直接に伝授がなされていた時代には、. 学校の占める余地はなかった。じっさい、聖職の見習い者やラテン語の学習者 のみを対象としていた学校、すなわちラテン語学校は、ごく特殊な人々を対象 とする、孤立的な例に見えるのである(16)。.  しかし、社会の中に徐々に商品経済が導入されるにしたがい、農村共同体が崩. れていった18∼19世紀に、子ども期という観念が人々の中に生まれてくるので ある。すなわち、今までの「小さな大人」であった子どもたちが、大人とは違っ たものとして区別されるようになるのである。そのため、子どもは、大人と違っ た「未熟なもの」という観念が生まれてくるのである。そこで、子どもたちは大 人になるように教育されなければならない、と考えられるようになったのである。 すなわち、学校という場の形成である。. 教育の手段として、学校が徒弟修行にとって代わった。つまり、子供は大人 たちのなかにまざり、大人と接触するうちで直接に人生について学ぶことをや めたのである。多くの看過や遅滞にもかかわらず、子供は大人たちから分離さ れていき、世間に放り出されるに先立って一種の隔離状態のもとに引き離され た。この隔離状;態とは学校であり、学院である。こうして開始された子供たち. を閉じ込める長期にわたり存続していく過程は、今日まで停止すること帯く拡 大を続け、人はそれを「学校化」とよんでいる(17)。. ここに教育のパラドックスがうみだされるのである。すなわち、高橋が言うよ うに、 「18世紀の子供の発見以来、おとな=成熟、子ども=未成熟という枠組み. がすでに出来上がっており、子どもはつねに教育を必要とする人間、発達途上の 未成熟な存在として」(18)みなされたために、子どもは、未熟で「保護」しな ければならない存在として刻印されてしまったのである。しかし、いつまでも未 熟ではいけないので、大人にしなければいけない。そのためには学校で大人にな 11.

(16) るために教育しなければならないと、学校の中で「囲い込まれる」ことになった のである。しかし、この大人にするための「配慮」は、それまで子どもたちが「小. さな大人」として、社会の中でさまざまな大人たちと関わりながら、自主的に学 んできた相互的な学びの過程を喪失し、学校において知識を単に受容的に伝達さ れていくという過程を生み出してしまったのである。ここに、現在の教育におい て最も大きな問題である、子どもを教育の客体という存在に一面化してしまった 大きな原因があると考える。このことに関して、渡邉は、次のように的確に指摘 している。. 配慮(保護)と「未熟な」人間と見ることは裏腹であり、保護が強化されれ ばされるほど、子どもを未熟とみなす度合いが強くなる。結局子どもの自立の ための配慮は、子どものままに配慮の下に押し留めるという逆説が帰結してし まうのである(19)。.  このように、教育のパラドックスは、学校の誕生以来教育に内在してきたもの である。しかし、われわれはこのことに関してあまり意識してこなかったのが現 実であろう。それ以上に、学校で子どもたちにさまざまな知識を伝達していくこ とが、子どもたちを大人に近づけることであると誤解してきたのである。そこで、. 「子どものために」という言葉を盾にして、子どもの自主性を損ねる伝達の教育. を行ってきたのである。しかし、教育においては、アリエスの指摘からも分かる ように、さまざまな知識を子どもたちに伝達することが、必ずしも子どもの社会 化にはつながらないという事が理解できる。高橋が言うように、現代は「一方で 教育が過剰気味の時代でありながら、他方では子どもが一人の人間として自立を 遂げていくことのきわめて困難な、まことに逆説的な時代」(20)なのである。. いじめなどのさまざまな学校病理も、このような教育の一面的見方から、文化の 伝達にのみ終始した結果として捉える事ができるであろう。そこで、学校教育に おいては、この教育のパラドックスを念頭に置いた考え方が、今旦に重要になっ ているのではないかと考える。. 3 学びの共同空間の喪失 現代社会の特質である私事化という文脈の中で、現代の家族は、それぞれの家 庭の中に閉じこもってしまい、共同体意識というものを喪失してきた。そのため に、その中で生活してきた子どもたちが、いざ学校という共同体社会の中に投げ 12.

(17) 込まれたとき、それまでの生活経験の中で醸成されてきた殻を打ち破り、学級全 体に目をむけ連帯を築いていくことはなかなか困難である。このことに関して、 森田も次のように指摘している。. 子どもが学校の中へ持ち込む人間関係は、家族的な関係の延長でしかない。. せいぜい2、3人の仲間と付き合い、その視線は自己の外側へ向けられず、常 に内側に向いている(21)。. そこで、従来の文化の伝達に一面化された学校教育を改善し、子ども相互の共 同性をいかに回復するかが重要である。すなわち、学びの共同空間が確保される 必要があるだろう。その場合、「学び」や「共同空間」とはどのように考えるべきか。. また、現在の学校教育における実状はどうであるか。このことを把握する必要が あるだろう。. 学びをどのように捉えるか。このことは教育の本質と関わって重要な問題であ ろう。筆者は、「学び」を「社会化」と捉える。本来学校教育は、子どもたちが社会. の成員として十分な資質を形成する機関として誕生した。その意味で、学校教育 における「学び」を「社会化」と捉えることに問題はないであろう。もっと切りつめ. て考えれば、佐伯が言うように、他者との関わりで自分はどうあるべきか、自分 とはどういう存在であるかという「アイデンティティ形成」として「社会化=学び」. を考えることができよう(22)。しかし、教育のパラドックスにおいても論じた ように、従来の学校教育は、子どもを大人にするためには、既存の文化を伝達す ることであるという一面化された考え方のもとに展開されてきた。文化の伝達と いう意味においては、その効率性にもっとも重点が置かれた。そのために、発達 段階にあまり差のない同年齢集団が形成され、一人の教師により、ある一定の数 の子どもに一斉に伝達する方法が取られてきたのである。すなわち、一斉授業の 展開である。教師による効率陸を重視した伝達と、その成果を効率的に図るため の評価、すなわちテスト、この連続的繰り返しである効率性の論理が、子どもた ちの学校生活を支配してきたのである。そこにおいては、本来の自然や事物、他 者との関係性を重視した「社会化」が、効率性の名のもと切り捨てられてきたので ある。このような考え方においては、「学び」は個々人の個別的能力に一元化され. てしまう。ゆえに、親も教師も、さらには子どもたちも自分だけの学び、すなわ ち学力をいかに伸ばしていくかという考え方に取り込まれてしまっているのであ る。そこでは、他の人との関係性のもとに「学び」を考えるという視点は、払拭 13.

(18) されてしまっているのである。このことが、級友がいじめられていても、そのこ とを他人事と考えてしまい、自分との関わりで解決していこうとする力を持たな い、傍観者としての個人を育ててしまったのである。 次に、学びが発現する学びの「共同空間」について考察する。「学び」を「社会化」. と捉えた場合、その社会化が促される場は、子どもたちの生活場面のすべてであ ると考えられる。すなわち、家庭、地域社会および学校である。しかし、家庭や. 地域社会の現状については、第1節の現代社会の問題点においてすでに指摘して いるので、ここでは、子どもたちが生活の大半を過ごし、筆者がもっとも関わり のある学校生活に限定して考察する。. 学びの本質を「社会化=アイデンティティ形成」と考えたとき、その学びがな される「共同空間」を、筆者は、高橋も言うように「自己形成空間」と定義したい。. 自己形成空間について高橋は、 「子どもが、さまざまな他者・自然・事物とくか. かわりあう〉中で、徐々に形成されてくる意味空間であり、相互に交流しあう舞 台である」(23)と述べている。この場合、このくかかわりあい〉という言葉の 意味をどのように捉えるかが重要であろう。子どもたちが単に学級の中で、一緒 に生活し合っているくかかわりあい〉という消極的な側面だけではなく、<かか わりあい〉を通して自分自身とはどういう存在か、自分はどうあらねばならない かを主体的・自律的に考える〈かかわりあい〉という積極的な側面と捉えることが. 必要であろう。このような自己形成空間において、子どもそれぞれが、自然や他 者と密接な関係を保つことによって、自己のアイデンティティを確立していくの である。すなわち社会化がなされるのである。.  しかし、現在の学校教育においては、前述した様に「学び」が子ども個々人の学 力に還元させられてしまっているために、学びのための「共同空間」が、単に知識. の伝達のための「システム空間」になってしまっているのである。すなわち、学 びのための意味空間が、知識の伝達のための制度空間に置きかえられてしまって いるのである。更に、この制度空間を支配しているのは、評価という競争の原理 である。子どもたちは常に、学級の仲間との競争を強いられているのである。こ のような状況においては、級友は連帯して学びの共同空間を一緒につくりあげて いく仲間とはなり得ないのである。すなわち、本来学級において対等であるべき 子どもたちが、学力という一面化された観点のもと分断されてしまっているので ある。このことに関して、清永は次のように象徴的に述べている。. 教室のなかが、いくつかの円筒で仕切られ、その円筒の高さがそれぞれ異な 14.

(19) ってふぞろいだということである。円筒の高さと容量は、子どもの学業成績や 運動能力など要するに子どもを分ける能力や資質という基準にしたがって決め られる。子どもたちは、朝登校し、この円筒の中に分かれて入っていく。能力 や資質の高い子どもは高くて大きな円筒へ、そうでない子どもは順次小さな円 筒へと自然に進む(24)。.  この清永の言葉に象徴されるように、現在の学校教育は、子どもたちが共同・ 連帯していこうとする「学びの共同空間」とはなり得ていないのである。すなわ ち、現在の学校は、子どもたちが真の学び(社会化)の喜びを見出すことができな. い、そして、その過程において関わり合う他者を見出すことができない、そして そのために、自己のアイデンティティを確認することができない場所となってい るのではないかと考える。そこで、これからの学校教育においては、この「学び の共同空間」をいかに回復していくかが大きな課題であると考える。. 4 知識と生活世界の乖離 学びの共同空間の喪失の項においても述べた様に、現在の学校教育においては、 効率性の原理が支配的である。そのために、学校教育の中心的働きである「学び」 という活動においても、その効率性の論理のもとに知識の伝達が行われてきた。 そこでは、学校で伝達される「知識」と子どもたちが現に生活している「生活世界」. との間との結びつきは、あまり考慮されていないのである。. 現在の学校教育における学びの中心は、何と言っても教科書による一斉授業で ある。この一斉授業においては、学習内容をいかに効率よく、多くの子どもたち に伝達するかに重点が置かれる。限られた授業時間と膨大な学習内容という現実 の前に、教師は効率性の原理に取り込められてしまっているのである。そのこと により、効率的な伝達のために必要でないものは、排除されるのである。学級の 友達と議論を重ねながら学習を進めたり、社会や自然の事象と関わりながら学習 を行うという場が、非効率的であるという理由で、きわめて縮小されてきている のである。現在の学校教育は、 「知識・技能の習得に追われて、子どもたちが自. 然や動物と身体で交わり、それらの変化の意外性に驚いたり、イメージ豊かに捉 えたり、表現したりする機会が失われている」(25)のである。すなわち、学校 における知識が、子どもたちの存在という文脈を軽視した抽象的な知識になって いるのである。このような抽象的な知識を中心とした学びにおいては、子どもた ちの実際の生活との間とのつながりを維持することは不可能である。教科書とい 15.

(20) う画一化された媒体を通しての知識の獲i得により、子どもたちの学びは、対話的. な学びではなく、個人的・モノローグ的学びになっているのである。佐藤学及び 高橋も、抽象化された知識の伝達に関して、次のように指摘している。・. 知識の人為的で効率的な組織は、教育内容と実在との関係を希薄にし、その 知識を構成している知的共同体のディスコースとの連続性を捨象し、さらには、. その知識が実際に機能している社会的文脈との関係も捨象して、学びの実践の 意味を抽象化させている(26)。.  これまでの学校においては、子どもが「生きる」という基盤自体が衰弱化して. いるにもかかわらず、そうした現実を直視せず、あいも変わらず抽象的な知識 の伝達だけに終始してきた(27)。. そこで、学校におけるこのような知識と生活世界の乖離の弊害を縮減するため には、教師が教科書を使って、子どもに一面的に伝達していくのではなく、子ど もたちにさまざまな対象と関わらせたり、取り組ませたりするという経験をさせ ていくことが大切である。すなわち、 「抽象化された学び」を「現実感のある学 び」に変えていくことが、今後の大きな課題であると考える。. 5 主体・客体関係  教育の意図をどこに置くか 教育のパラドックスにおいて論じたように、学校教育においては、子どもの社 会化のための知識の伝達が一面的に行われてきた。知識の伝達は、ハーバーマス のいう戦略的行為である。なぜならば、戦略的行為においては、行為者の目的を いかに達成させるかが重要視され、行為者の目的とされる対象者の意図性は無視 されるからである。すなわち、教育において、教師が知識や規範などの文化を子 どもたちに伝達していくとき、いま子どもたちには何が必要か、子どもたちはど のような状況にあるのか、子どもたちは何を欲しているのか、といった子どもの 側の現実に目をむけることなく、ただ単に教科書の内容をいかに子どもたちに理 解させるかという視点でのみ、学びの活動に取り組んでいるのである。ここでは、. 子どもたちは、知識や規範といった文化をただ伝達されるだけの教育の対象、す なわち客体として把握されているのである。そして、教師は、その文化を教える 者、すなわち教育の主体として位置づけられているのである。すなわち、教師と 子どもの関係は、主体一客体関係となっているのである。主体一客体関係におい 16.

(21) ては、教師と子どもの関係は一種の権力関係を持っているといって良いであろう。. そこでは、教える者と教えられる者とが明確に区分されているのである。このよ うな権力構造においては、佐藤学も言うように、教師と子どもの対話的行為を行 うことは不可能である。. 教師と子どもが権威と服従を基本とする関係で組織されている教室では、. 対話的実践を子どもが展開することは困難である。対話的な人間関係は、他 者の思考や意見に対する関心と敬意を一方の基礎とし、自己の思考や意見に 対する反省的思考をもう一方の基礎とした、対等で平等な人間関係を前提と しているからである(28)。.  このように、対話的行為を行うには、教師と子どもが対等な立場に立脚し、相 手になんでも言えるという平等な関係が基盤になければならない。教師と子ども のこのような対等な関係は、子どもと子どもの対等な関係を育成する上でも必須 条件である。なぜならば、教師と子どもの権力構造は、確実に子どもと子どもの 権力構造に反映するからである。しかし、現実には、このような対等な関係では なく、主体一客体関係が教室の中を支配しているのである。.  このような主体一客体関係、すなわち、戦略的行為類型による教育が行われて きたことに、子どもの主体性を軽視した現在の学校教育の問題があると思われる。. その意味においても、教師と子どもの関係を主体一主体関係としていくことが今 後の重要な課題であると考えられる。. 第3節いじめ問題について 第1節において、現代社会の特質と問題点を主に「私事化」と「システムによ る生活世界の植民地化」いう視点から分析し、現代社会および教育の問題点を明 確にした。すなわち、私事化による傍観者意識の増大、システム合理性により画. 一化された教育の2点である。また、第2節においては、学校自体に関して、従 前の自明性が崩壊し、教育のパラドックスの中、学びの空間を喪失した教育現場 の問題点を考察した。その中で、子どもたちが主体一客体関係としての位置にお. かれてしまっていることの問題点についても触れた。この第1,2節の考察をふ まえ、このような社会および学校教育の現状の発現として、現在教育界において 大きな問題となっているいじめの問題があるのではないかと考える。そこで、こ のような教育の課題としていじめ問題を取り上げ、その現状や原因を分析するこ 17.

(22) とにより、いじめ問題の解決に向けた道徳教育のあり方を模索することを通して、. 現在の教育の問題性を根本的に解決する方策を考えたい。. 1課題としてのいじめ問題 学校現場におけるいじめは、1980年代、校内暴力の鎮静化と平行して問題化 してきた。そして、1994年11,月末、愛知県西尾市立東部中学校の二年生の大河 内清輝君がいじめを苦に自殺したことから、マスコミに大々的に取り上げられ、 それ以来いじめに関する論議は今も続いていると言って良いだろう。このように、. 学校を含め社会の大きな問題となっているいじめの現状はどうであろうか。文部. 省の報告によれば、1994年には全国の公立学校において、約57,000件のいじめ が発生したことが報告されている(29)。また、1995年には、94年度を3000件 も上回る60,000件以上のいじめが発生している(30)。このように、いじめに関 する報告例は確実に増加しており、この傾向は今後も続くものと思われる。また、. いじめと大きな関連があると考えられる不登校の数も年々増加している。同じ文 部省の調査によれば、学校嫌いを理由に学校を長期に欠席した全国の小・中学校 の子どもの数は、1996年には約94,000人に達した(31)。発表によれば、前年度. より13,000人も多く、中学校においては、60人に一人の割合で不登校の子ども がいるということになる。これらの不登校の原因を直接いじめに還元することは できないが、この不登校の大きな原因にいじめがあることは確かなことであり、 このことからも、いじめの数が増加していることが伺える。. このように、現在いじめの問題は、どこの学校でも、またどの子どもにも起こ りうる問題であり、学校教育現場において、早期に解決の方向を見出さなければ ならない緊急課題であると言えよう。このような学校教育の現状において、いじ め問題解決における道徳教育の果たす役割は、非常に大きなものがあると考える。 なぜならば、いじめという現象は、子どもと子どもの目常生活という基盤の上で、. 子ども同士の関係性のもと発生するものでり、道徳教育は、そのような人と人と の、すなわち子どもと子どもの間の関係のあり方を考えていくものだからである。. 更に、道徳教育は、道徳の時間を中心とした全ての教育活動において実践される ものであり、それは子どもたちの生活すべてに関わってくるものであるからであ る。そこで、いじめ問題を道徳教育の課題として捉え直し、現在の道徳教育の批 判的検討を通して、その解決に向けた道徳教育の新しいパラダイムの構築を図る ことが重要である。. 18.

(23) 2いじめに対する基本的認識 (1)いじめの定義. 現在、いじめ問題論議が活発である。そのため、いじめ問題に関する著書も数 多く出版されている。そこで、それらの著書を手がかりとしていじめの特徴につ いてまとめてみたい(32)。. まず、いじめの第一の特徴に、「集合現象」があげられる。現在のいじめは、個. 人対個人の一対一としての行為ではなく、集団内における優位な多数派が、一人 ないし、少数派に対して行われる行為なのである。次に、第二の特徴:として、い じめの「継続性・反復性」があげられる。いじめは、多数派が、ある固定された個 人ないし少数派に対して、ある一定の期間くり返し継続される行為なのである。 第三の特徴としては、それがある面では閉鎖された「教室空間」という場で主に展. 開されるということである。確かに学校外において起こる場合もあるが、それら は、学校内において発生したいじめの派生的部分であると考え、いじめの主な展 開部分を教室として捉える。. また、いじめの構造的特徴としては、基本的4層構造があげられる。いじめの 当事者である「加害者」と「被害者」、いじめをはやしたてる「観衆」、いじめをただ. 眺めている「傍観者」の4層構造である。ここで4層構造を基本的と定義したのは、. この4層構造に関わって、教師や家庭という立場がいじめに重要な関わりを持つ 場合もあるからである。このようないじめの構造からも分かるように、いじめは、 学級内の成員による人間関係を通して捉える必要があるのである。.  このように、現在問題となっているいじめは、学校内における子ども相互の関 係性の歪み、すなわち子どもと子どもの「歪められた相互行為」と定義づけるこ とができるのではないかと考える。しかし、ここで注意しなければならないこと は、このような子ども相互の関係学の歪みは、被害者と加害者という二層構造と しての関係性の歪みではなく、学級全体における全ての子どもの関係として把握 しなければならないということである。なぜならば、現在のいじめは、学級の誰 でもがいじめの対象となり得る現象であるからである。すなわち、いじめの本質 は、 「いじめている生徒といじめられている生徒の関係にあるのではなく、いじ められている生徒が集団の中で孤立無援状態になるということ」(33)にある。. そこで、このような歪められた相互行為の原因は何か、その解決の方向は何か を考えることが、いじめ問題の解決の方向につながると言えるだろう。. 19.

(24) (2)いじめの原因. いじめの原因をどこに求めるか。これは非常に難しい問題であろう。いじめの 原因としては、学校起因論、社会起因論、子どもの特性論などさまざま考えられ る。しかし、(1)いじめの定義でも明らかにしたように、いじめは、子どもと子 ども、あるいは子どもと教師の歪められた相互行為という特徴が考えられるので、. これらの原因論の中の学校起因論、特に子ども相互の関係性の視点から、いじめ 問題の原因について考察していきたい。. まず最初に、いじめが発生する際の原因について、子ども相互の関係性から考. 察してみたい。この関係性のあり方については、第1節のところで具体的に論述 した。そこでは、私事化という社会の大きな流れの中、子ども相互の関係性が分 断され、浮遊する個人を生み出してしまっていた。また、システムによる生活世 界の植民地化により、子どもたちの学校生活は、システム合理性によって一元化 され、効率性の原理が支配的となり、子ども相互の活動や、自然や他者との活動 が縮減させられてしまい、他者との共同性の喪失、自己の中の他者性の喪失を生 み出してしまっていた。このような状況の中、多くの子どもたちは、自己のアイ デンティティの存在証明を求めることが困難な状況におかれている。すなわち、. 自己の存在を確認する方法を求めているのである。その存在証明が、学級の誰か をいじめの対象とすることによって、自分の存在を確認する行為として表面化し ているものと考えられる。このような子どもの関係性のあり方について、芹沢は 次のように述べている。. 学校という子ども社会、教室という子ども社会において、子どもたちは、ひ とりの仲間を孤立させる。そうすることによって、子どもたちは自分たちの間 に適切な距離が取れていないことから生じる相互の緊張関係を緩和しようと図 ろうとする(34)。. このことに関しては、尾関も同様の立場として、次のように指摘している。. 今日では、学校、教室という枠が子どもにとって全世界になっているから、 そこにおける友達を求める欲求はきわめて強いものになっている。したがって、. 私なりの表現を用いるならば、今日のくいじめ〉の一因として、共同性欲求コ ミュニケーション欲求の充足の疎外された形態がそこには見られるということ である(35)。. 20.

(25) この事に関して、渡邉は次のように端的に指摘する。. 今まで、いじめは「排除の暴力」と見られていた。確かにそう見える部分も 存在している。そうであれば被害者が転校したり不登校を起こしたりしたら、. いじめはもう起こらないはずである。ところがそうはいかない。いじめの対象 が入れ替わって継続していく。そのことを考えるなら、いじめは排除なのでは なく、いじめそれ自身が加害者達にとって意味を持つ行為なのではないか。つ まり、いじめることによって加害者達のアイデンティティを何らかの形で確認 しているというふうに解釈することができるのではないか(36)。. すなわち、いじめの発生要因として、子どもと子どもの相互の人間関係におい て、適切な関係が維持されていないために、それを緩和する制御機構としていじ めが発生することが考えられるのである。この観点からも、子どもの関係性を良 好なものにしていくことが、いじめの発生を防ぐ大きなポイントであることが認 識できる。なお、この子どもと子どもの関係性に視点を当てるとき、重要な問題 として、教師と子どもの関係性のあり方があげられるだろう。なぜならば、菅野 の報告にもあるように、いじめに関わる教師の役割は、善きにつけ悪しきにつけ 大きな影響があるからである(37)。すなわち、教師と子どもの関係が、主体一 客体関係として教師に認識されているならば、子どもはあくまでも教育の客体に 過ぎず、そこにおいては、教師と子どもの関係にはある種の権力関係があり、教 師と子どもの対等な相互関係は成立しないからである。このことは、教師と子ど もの関係に留まらず、子どもと子どもの関係にも影響を与えてくるものと思われ る。なぜならば、教師と子どもの権力構造が支配している学級の中で、共同的な 対等関係を形成することは、非常に困難であると考えるからである。 次に、いじめの大きな特徴:の一つである継続性の原因について考察する。現在. のいじめは、いじめの対象が一過性のものではなく、ある程度長期にわたって継 続される。学級においてある特定の子どもが、学級の集団から疎外された状況で 長期にわたる差別的状況を被るのである。このようないじめの長期化の原因とし ては、「加害者」と「被害者」の関係性の問題もあるが、さらには、このようないじ. めを長期化させない学級の抑止力の低下が大きな要因として考えられる。以前に も確かにいじめはあったが、そのような場合では、学級の誰かが、そのいじめに 対して抑止力となり、いじめを止めさせる力が働いていた。しかし、現在におい ては、この抑止力が希薄化しているのである。このような学級における人間関係. 21.

(26) は、第1節現代社会の項でも述べたように、私事化による傍観者意識の増大によ るものと考える。すなわち、人に迷惑をかけなければ、人のことはどうでもよい。. とか、人のためにあえて、問題を抱え込むことはない、といった個人主義が子ど もたちの間に蔓延してきているのである。そのため、学級の友達がいじめを受け ていても、自分に直接関わってこない限り、黙して語らずという態度を決め込ん でしまうのである。このような抑止力の衰えた学級の実態について、「匿名的空 間」という言葉を使い、森田は次のように述べている。. 現代のいじめの場では、多くの子どもたちがいじめを見ても知らないふりを している。それは、互いに学級という共同生活の場を営みながら、かかわりを 恐れて一時的に関係を遮断し、見知らぬ他人になりすまそうとする行動である。. 学級集団でありながらそこで生活している子どもたちは大都市の中の人間関係 のように匿名的空間を築こうとしている。彼らは、学級という集団の中に集ま ってはいるが本質的には結びついていない「群れ」であり、集団に問題が発生 したときには何の反作用も対処機能も作動しない状態一(中略)一である(38)。.  このように、現在の学級においては、傍観者意識の増大により、いじめが起き ても、誰もそのことについて批判したり、やめさせようとしたりすることが難し くなってきているのである。すなわち、学級集団が、いじめは悪いことであり、 やめさせなくてはいけないという規範意識の衰えた集団となっているのである。. そこで、この規範意識の衰えた集団において、集団の規範意識をどのように回復 していくかが重要なポイントになると考える。. 以上、現在のいじめについて、その発生の原因、および、いじめの長期化・継 続性の原因について考察してきた。その分析の結果、次の点が現在のいじめの大 きな原因であり、学校教育において解決していかなければならない問題点ではな いかと考える。.  ①歪められたコミュニケーションによる子ども相互の関係性の喪失.  ②傍観者意識による学級集団の規範意識の喪失  ③主体一客体関係による教師と子どもの権力構造 いじめの原因をこのように考えたが、この問題は、いじめだけに限らず、現在 の学校教育におけるさまざまな諸病理の最も根源的課題ではないかと考える。し かし、この問題の解決は、従来のいじめ問題における子ども個々人にのみ視点を あてたカウンセリングなどの対症療法国取り組みでは不可能であろう。なぜなら. 22.

(27) ば、これらの問題は、子ども相互の関係性のあり方の問題であるからである。そ の意味において、これらの問題の解決は、道徳教育に課せられた課題であると言 えよう。しかし、従来の心情主義や個人主義の道徳教育では、この問題の解決は 不可能であろう。このような学校教育の根源的課題に答え得るのは、子どもと子 どもの関係性に視点をあてた相互主体的な考え方に基づく道徳教育であると考え る。そこで、次の節においては、このいじめ問題の原因の考察を通して浮かび上 がってきた学校教育の問題点について、主に道徳教育の立場からどのようにアプ ローチし、どのように解決の方向を見出していったらいいのかについて検討をお こなう。そのことを通して、いじめ問題だけに限らず、現在の学校教育において、 今生が重要であるかを明確にしたいと考える。. 3 いじめ問題解決に向けた道徳教育の可能性 (1)いじめ問題解決の方向. 人は、一人置生きていくことはできない。様々な他者との関わりの中で自己の アイデンティティを確立しながら、人は成長していくのである。子どもたちは、. 様々な場面で様々な子どもたちとのトラブルや葛藤を経験する。しかし、このよ うな子ども同士間の葛藤状況は、子どもがより良い人間関係を形成し、成長して いくために必要なことである。このことを考慮しないで、子ども間の問題をすべ て悪いことだと断言し、教師が介入していくことは、子どもの健全な発達を阻害 するものとなるのである。その意味において、いじめは絶対に悪いことであると いう認識のもと、教師が一方的に介入することは、子どもたちの自己発達の可能 性を疎外することにつながる恐れがある(39)。しかし、子どもたちの現実生活 においては、いじめによって自殺にまで追い込まれたり、心的に深い傷を受けて しまうという厳しい状況がある。そこで、このような問題の解決にあたって、従 来のいじめに関する指導についての問題点を明確にすることにより、いじめ問題 に向けた指導観のパラダイム転換を図ることが重要になってくるものと考える。. 平成8年7月に、 「児童生徒の問題行動などに関する調査研究協力会議」の最 終報告がまとめられ、文部省に提出された。文部省はこれを受け、各県にこの旨 を通知した。そこでは、いじめ問題の取り組みにあたっての基本認識について改. めて確認された。その中で特に学校教育に関わりが強いと思われる点が次の3点 である(40)。. ① 「弱い者をいじめることは人間として絶対に許されない」との強い認識に.  立つこと。. 23.

参照

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