第三章 コミュニケーション的行為の理論と教育的意義
第1節 コミュニケーション的行為の理論
1目的合理性からコミュニケーション的合理性への転換
現在の学校教育においては、さまざまな知識をいかに効率よく多くの子どもた ちに伝達するかという方法論が重視されている。また、子どもたちにおいても、
その伝達された知識をいかに効率よく理解していくかという考え方が支配的であ る。すなわち、教師と子どもが織り成す学校という場は、効率性のなのもと、目 的合理1生に一元化されてしまっているのである。そのため、第一章でも述べたよ
うないじめなどの学校病理が発生していると思われる。そこでこれからの学校教 育においては、目的合理性に代わる新しいパラダイムに基づく教育が必要になっ てくるであろう。筆者は、その新しいパラダイムをハーバーマスの提唱するコミ ュニケーション的合理性であると認識する。このコミュニケーション的合理1生に
よる学校教育の展開こそ、目的合理性に一元化された学校教育の諸問題を解決す る大きな示唆を提起してくれるものと考える。それでは、ハーバーマスが主張す るコミュニケーション的合理性とはどのようなものであろうか。以下、このこと について考察する。
(1)道具的理性批判
道具的理性概念は、フランクフルト学派のホルクハイマーが、現代社会の理性 の問題点を解明するために導入した概念である。それでは、ホルクハイマーは、
現代社会のあり方をどのように捉えていたのだろうか。
現代社会は、よく「脱呪術化世界」と呼ばれる。すなわち、中世伝統社会の宗 教的圧迫や社会のさまざまな慣習からの解放が目指された社会である。科学技術 の飛躍的な進歩をもとに、自然界の制約から自然界へ働きかける営みへの転換が
目されたのである。このような人々の営為のもと、個々人の生活水準は高度な発 展を遂げ、さまざまな制約から解放された自由な存在としての社会が形成された かに見えた。ホルクハイマーとアドルノにとっても現代社会は、野蛮な伝統社会 から合理的で近代的な、すなわち文明社会への移行がなされたかに捉えられたの である。このような文明化に貢献した目的合理性のもと追求されてきた科学技術 の発展に対しても、ホルクハイマーとアドルノは、今後も更なる発展を期待でき る無限の可能性を持っていたのである。
しかし、現実は歴史の示す通りである。より高度な文明化は、より高度な倫理 観を伴う社会の発展が実現されると考えられていたが、世界は人間性を無視した ような大きな災厄を体験するのである。野蛮からの解放を目指した啓蒙が、第一 次世界大戦という新たな野蛮を生み出してしまったのである。ナチスの人間によ る人間の支配や亡命地アメリカでの大衆文化産業を生み出してしまった目的合理 性に対して、ホルクハイマーとアドルノは、人間の自律性の末路を見てしまった のである。すなわち、近代の特徴は、「ホルクハイマーにとっても、宗教と形而 上学が神話的呪術的思惟の段階を克服した、その同じ呪術からの解放過程が、合 理化された世界像それ自身を震撚させている」(2)と捉えられたのである。
このような社会認識のもと、ホルクハイマーは、「道具的理性をく主観的理性
〉として導入し、それをく客観的理陸〉に対立させる」(3)のである。そして、
ハーバーマスも述べるように、道具的理性を次のように規定し、「道具的理性批 判」を行うのである。
主観的理性とは、道具的理性、すなわち自己保存の用具である。ホルクハ イマーは、自己保存の理念を名ざして、主観的理性を狂気にまで駆りたてて いく原理であるとする。というのは、そこでは自己利害の主観性を越え出る ような何ものかにたいする思惟は、あらゆる合理性を奪われてしまうからで
ある。(4)
このように、ホルクハイマーとアドルノは、現代の道具的理性に対して、近代 化という系譜の中で人間性へと近づいていると思い込まれていたその歩みが、実 は野蛮の中にますます深く沈みこんでいく姿を看取したのである。すなわち、ホ ルクハイマー、アドルノの道具的理性批判とは、「自然の脅威と呪縛圏から人間 を解放し、自律性と自由の獲得を目指したはずの啓蒙的理性が、実は人間による 人間自身の支配につながっているという矛盾、理性の自己矛盾を暴き出す」(5)
批判であったのである。
ここにいたって、ホルクハイマーとアドルノにとって理性は、自己保存のため の、そして支配のためのく道具〉としての主観的理性へと還元されてしまったと みなされるのである。そして、理性には現代社会を救済していく力がないのでは ないかという悲観主義に陥っていく。そこには理性の自己破壊しかないという深 いペシミズムを読み取っていくのである。そのため、この道具的理性に一面化さ れた現代社会に対して新たな可能性を主張することができなかったのである。
さて、このような道具的理性批判におけるハーバーマスの位置は、どのような ものであろうか。道具的理性批判を展開したフランクフルト学派第2世代の理 論的旗手であるハーバーマスもまた、「近代が産み落とした技術的合理性の支配 に対する批判を堅持し、そこからの解放を展望するという意味で、彼はフランク フルト学派の伝統の継承者」(6)なのである。しかし、ハーバーマスは、道具的 理性批判の基本的モチーフを受け継ぎながらも、アドルノの持っていた考え方の 狭さ(悲観主義)を克服していこうとする。
ハーバーマスは、ホルクハイマー、アドルノらフランクフルト学派第一世代の 道具的理性批判の問題点について、次のように指摘する。
道具的理性は、主体一客体間の関係を、あくまで認識し、行為する主体の 視座から表現しているのであり、けっして、知覚され操作された対象から表 現しているのではない。そうした意味においても、「主観的」理性なのである。
それゆえに、「主観的」理性は、社会的、内面的心理諸関係の道具化が抑圧
され歪曲された生活連関の視座よりすれば、いったい何を意味しているのか を明らかにするための、いかなる説明手段をも用意してはいない。(7)
ホルクハイマー、アドルノらの道具的理性批判が、主体一客体関係という意識 哲学のパラダイムにとらわれ、主体からの視座だけしかとることができず、その ために、全ての合理性を目的合理1生へと完全に一元化してしまったために、生活 世界における合理化の多様な側面を見落とすことになってしまったのである。そ のため、ホルクハイマー、アドルノ等の道具的理性批判では、理性の全面的批判 となり、ペシミスティックな終末しか描くことができなかったのである。すなわ ち、ハーバーマスは、「現実の社会をいかに批判するか、ハーバマスの理論の根 底にあるものはこの批判への意志であるとも言えよう。しかし、その批判が可能 性としての近代にまで及び、理性の全面的批判となるや、批判はその基盤を失っ てしまう。こうした批判の逆説を、自らの師アドルノ」(8)に見たのである。
そこで、ハーバーマスは、このような文脈のもと、近代の理性批判を道具的理 性の全面否定に求めるのではなく、近代の別の可能性とでも言うべきものを求め
ようとするのである。この事に関してハーバーマスは、次のように述べる。
わたしは、初期批判理論のプログラムが挫折したのは、あれやこれやの偶 然によってではなく、意識哲学のパラダイムの疲弊によるものであることを、
あくまで主張したい。わたしは、コミュニケイション理論へのパラダイム転 換こそ、当時、道具的理性批判と共に中断されてしまった企図への復帰を可 能にするのだということを、明らかにしょうと思う。(9)
ここに、アドルノの道具的理性批判がもっていた狭さである悲観主義を乗り越 えていこうとするハーバーマスの批判理論の思惟を見出すことができるのである。
すなわち、道具的理性からコミュニケーション的理性への転回が意図されるので ある。その際、ハーバーマスは、このフランクフルト学派第一世代の問題点をマ ックス・ウェーバーの「認識関心」、すなわち、社会を担う主体を抜きにしては 社会を考えることはできないという考え方に依拠して説明していったのである。
そこで、次の項においては、ハーバーマスが、ウェーバーの考え方をどのように 批判的に取り込んでいったかを明確にするため、ウェーバーの社会理論の概略に ついて考察する。