いじめ問題は、現在学校を含めた社会全体の大きな問題である。
本研究は、いじめ問題解決を目指した道徳授業論のパラダイム転換へのプロ グラムであった。そこで、このプログラムを進めるにあたって、いじめ問題を取
り巻く社会的状況やいじめが主に発生する学校教育の問題点及び、現在の道徳教 育の問題点などを明確にし、その解決の方向をハーバーマスのコミュニケーショ
ン的行為の理論に求めるための理論的考察を行った。そして更に、その考察をも とに、実際の道徳授業の実践化を通して、その有効性について考察した。
第1節 理論的考察
理論的考察においては、まず最初に、いじめが発生する要因について明確に するために、いじめ発生の視点から現代社会と学校教育の問題点について批判的 に検討した。その結果、現代社会や学校教育においては、私事化の進行や学校の
自明性の崩壊、主体一客体関係の流布などの大きな問題点が明確になった。これ らの要因は、個々に考えてみるならば、それぞれ個別的な問題であるように思わ れる。しかし、筆者にとって、これらの問題点は、究極の所ある一つのものに集 約できるのではないかと考える。すなわち、ハーバーマスの言う「成果志向的態 度」のみに一元化されてきた教育的行為の帰結であると言えるのではないだろう か。現代社会も学校も、「無駄」ということが嫌われる。大人も子どもも効率的 と言われるものに規定されてしまっている。効率的なものでないものは、「無駄 なもの」として切り捨てられるのである。
学校においても、他の子どもとさまざまな活動を通して、時間をかけて議論 を重ねながら取り組む活動も、受験や自分自身の学力にとっては、「無駄」なこと
として排除されていくのである。また、友達が、いじめられていたりしても、い じめを止めさせようとしても、どうせ無駄だからといって無視されているのであ
る。
しかレ現代は、この一見「無駄」と思えるようなことが大切な時代ではない かと考える。なぜならば、現代社会は学校も含め、効率性の原理が支配している からである。すなわち、目的合理性に取り込まれてしまっているからである。そ こで、「無駄」と思えるような活動を学校現場においていかに再生していくかが、
重要になってくるように思われる。このことにより、いじめ問題において重要な タームであった、子ども相互の関係性の回復も図られてくるのではないかと考え
る。なぜならば、効率性の名のもと切り捨てられてきた「無駄」と呼ばれるような 活動は、前述したように、子ども相互の関わりに基盤を置く活動であるからであ
る。このような活動を従前のように意義あるものとしていくならば、子ども相互 の関係も改善され、筆者がいじめの原因であると捉えた「歪められたコミュニケ ーション形態」も必然的に解決されるものと考える。
それでは、このような関係を回復するのは、どのような場で行われるのか。
それはやはり道徳教育であろう。なぜならば、道徳というのは、人と人、すなわ ち子どもと子どもの間の問題を考えるものであるからである。道徳教育において、
この「無駄」と思われる活動は保障されているだろうか。否、やはり、道徳教育に おいても、効率性のもと、価値の伝達が中心的に行われているのである。そこで は、子どもたちは、価値を伝達される客体として、存在しているのである。その ため、子どもたちが自律的に、さまざまな活動を通して主体的に関わるという道 徳教育は行われていないのである。それでは、道徳教育において、このような活 動はどのようにして回復していったら良いのだろうか。筆者は、そのことを、ハ ーバーマスのコミュニケーション的行為の理論に求めた。
そこで、新しい道徳授業のパラダイム転換のプログラムの第2階梯として、
コミュニケーション的行為の理論及びディスクルス倫理学の考察を通した、その 教育的意義を明確にした。コミュニケーション的行為とは、コミュニケーション 的合理性のもと、了解を目指して行われる発話行為である。了解を目指す過程に おいては、前述の成果を志向する行為ではなく、ある議論の参加者たちが、妥当 性要求のもと合意を目指していく活動が志向される。そのため、この活動におい ては、議論が必須条件なのである。このことを考えるならば、効率性のもと、道 徳教育において軽視されてきた議論という授業形式に再び光を当てるものと言え
よう。
そして、その議論において、参加者間の合意を促す架橋原理としての普遍化 原則について考察し、その有用性を認識した。現代の子どもたちは、「無駄」と思 われる活動を排除され、子ども相互の関係が希薄なものとなり、効率性のもと歪 められた関係を強いられてきている。このような状況において、この普遍化原則 の適用は、子どもの関係性を回復する上で大きな役割を果たすものと考える。
このような、ディスクルス倫理学を根拠づける普遍化原則のもと、コミュニ ケーション的行為である議論の過程を設定するならば、子どもたちは、そのなか で、自己のアイデンティティを形成するとともに、子ども相互の連帯も高まるの である。このことは、筆者が道徳授業構想上のねらいとした「教室という社会も
発達する」ということにつながるのである。
第2節 実践的考察
実践的考察においては、実際の授業においてこのような考え方を、いかに具 体化していくかについて考察を行った。そこで、まず最初に、上記のような根拠 付けのプログラムをもとに、道徳授業の再構築の視点を以下のように設定したの
である。
①成果志向的行為から了解志向的行為への転換 ②相互行為調整能力の育成
③妥当性要求の意識化
④論議における普遍化原則の導入
そして、このような再構築の視点をもとに、道徳授業の新しいモデル図を形成 し、道徳授業実践を行ったのである。
この授業実践においては、従来の心情を中心とした、価値の伝達の道徳授業 ではなく、再構築の視点に基づいた話し合いを通して、学級全員で時間をかげな がらも、学級全員で共有化できる規範について話し合っていったのである。その 過程で、子どもたちは、さまざまな活動を行いながら、了解を目指した活動を行
っていったのである。
すなわち、従来の道徳の授業においては不可能であった、子ども達の学級の 連帯に目を向けた活動が具現化されたのである。そのことにより、子ども達は、
道徳の授業に意欲的に参加するとともに、楽しい道徳の授業を行うことができた
のである。
そこで、このような考察の結果からも、これからの道徳教育においては、前 述したように、一見「無駄」と思われがちであった活動をいかに回復していくかが、
重要な視点となってくるのである。ただし、その場合は、ただ漫然と「無駄」を回 復するのではなく、「教室という社会も発達する」という視点、すなわち、子ど
もの関係性を密なものとし学級集団の質を高めるような方向で、このことを考え ていく必要があると考える。そして、このような活動を継続していくことによっ て、目的合理性のもと歪められた子ども相互の関係性に原因をおく「いじめ問題」
も解決の方向へ向かうものと考える。
このような理論的考察及び実践的考察において、いじめ問題解決を視野に入 れた、コミュニケーション的行為の理論にもとつく道徳授業論の新しいパラダイ ムの構築がなされたのである。
おわりに
いじめ問題の解決は、現在の学校教育において、非常に重要な課題である。
現職教員という筆者の立場に立ってみると、それはとりわけ大きな意味を持つも のである。なぜならば、教育現場において、筆者が必ず直面せざるを得ない問題 であるからである。ここで、必ずと規定したのは、それだけいじめが、特殊な例 ではなく、どこの学校、どこの学級においても起こり得る問題だからである。そ のような意味においても、本研究は、筆者にとって意味のある研究だったといえ
る。
現代社会や学校教育の特質を考察するなかで、今まで自明のこととわれわれ 教師が捉えてきたことが、なんら根拠のあるものではなく、また逆に誤った考え を妥当なものとして受け入れてきたことを思い知らされた。一つ例にとって見る ならば、子どもを教育することによって、子どもの自律性を損ねているというこ となど、今まで、考えてみることもできなかったのである。このことは、教師の 教育観のパラダイム転換を図る上で、非常に有意義なものであった。
また、いじめ問題に関わって、現在のいじめ対策が、余りにも将来の展望の 少ない、対症療法的措置であるかということが認識できた。このことは、「いじ め」という現象の特質を十分に押さえることができたからだと考える。そのよう に考えるならば、現状のいじめ対策から逆に考えると、現在の「いじめ問題」に対 する多くの人たち(特に教師をはじめとする教育関係者)の認識が、いかに不十 分であるかがはっきりしてくるのである。その意味でも、いじめという問題につ いて適切な認識を持つことが重要であると思われる。
更に、このようないじめ問題を解決するための道徳授業モデルづくりにおい て理論的依拠としたハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論によって、
今までの自分の教育的行為が、いかに問題性を含むのであるか痛感できた。今ま で筆者は、ハーバーマスの言う成果志向的行為を教育の唯一の行為類型であると 思って、日頃の実践を行ってきた。子どもに知識を伝達し、子どもの知識を増や
していくことが教育の本来的目標であると考えていたのである。しかし、それが、
いかに誤った考えであるかが理解できるのである。教育とは、本来子どもの自律 性を育てていかなければならないのである。しかしながら、今までのように成果 を志向し、目的合理的に教育を行っていくことでは、このことは決して為し得な いのである。ハーバーマスも述べているように、教育においては、了解を志向し ていくことが重要であるということが認識できた。