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刑 事 立 法 ( 犯 罪 を 創 設 す る 権 限 ) と 憲 法 理 論

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(1)非犯罪化論︑プライヴァシー権論︑平等保護論. 志. 田. 刑事立法︵犯罪を創設する権限︶と憲法理論. 目次 はじめに. ω理論的諸問題の整理. 一.予備的考察. 図非犯罪化論が提起した諸問題 二.アメリカにおける憲法理論化の試み ω問題の整理と概観 吻基本権と実体的デュー・プロセス. 三.憲法理論化の試みーパッカー︑リチャーズ︑カースト ωパッカーの実体的デユー・プロセス論. ⑥カーストの平等保護論ースティグマ︑自尊︑帰属. 勧リチャーズのプライヴァシー権論と﹁道徳的奴隷制﹂論 四.若干の比較検討 刑事立法︵犯罪を創設する権限︶と憲法理論︵志田陽子︶. 陽. 二八五. 子.

(2) 早稲田法学会誌第五十一巻︵二〇〇二. ωパッカーとリチャーズの実質的な近似性 圖リチャーズとカーストの近似性と分岐点 むすびにかえてー︽安心感の利益︾を憲法上どう扱うか. はじめに. 二八六. 近年︑わが国では︑刑罰威嚇と道徳形成とのつながりを意識した議論︑あるいはこれを改めて問題視する議論が︑ ︵1︶ 少年法改正案など多くの具体的問題をめぐって交わされている︵二〇〇〇年九月現在︶︒たとえば少年法改正論議に. ついて言えば︑少年が人格形成途上にあることを考慮して定められてきたさまざまな法的配慮をむしろ不用のものと. して後退させ︑厳罰化の傾向を打ち出すことによって青少年の重大犯罪行為を減少させようとする動きの中には︑刑 ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 罰威嚇の抑止効果への期待と︑刑罰強化による一般市民︵有権者︶の︽安心感︾保護の要求への応答とが混在してい. る︒︵現在議論されている法改正の重要点は︑一定の重大犯罪を犯した少年の場合︑原則として刑事事件扱いとなる. ところにある︶︒本稿は︑今例示した具体的問題を直接に論じようとするものではなく︑そこに混在する︽心理的な. 安心感の保護の要求︾というものを間題視し︑この要求と本来行なわれるべき法の議論とを区別するべきではない. か︑そうだとするとその適正な線引きはどのように憲法論化され得るのか︑といった問題関心のもとに︑刑事実体法 と憲法理論の関係について行なわれてきた諸議論を検討するものである︒. 近年︑アメリカでも刑事法の重罰化傾向が強まっていること︑そうした重罰化を支持する国民の態度は犯罪率や犯. 罪に対する恐怖よりも︑社会的価値に対する懸念に由来するところが大きいことが指摘されている︵ビール一80 ︒︶︒.

(3) 重罰化を支持する態度は︑犯罪に対する抑止の道具としての刑罰への評価ではなく︑むしろ社会的価値や社会の現状. に対する懸念に支えられている︑との分析は︑価値の不安定な社会に生きることの根源的な不安を刑罰政策によって. 払拭したいという願望に支えられて︑刑事法が重罰化傾向を強めていることを示すものである︒. このようにして︑我が国でも海外でも︑刑法は︑社会統合のメディアとして期待される一面を色濃く持っている︒. しかし︑この統合が︑同質的な社会アイデンティティの形成という形で行なわれるとき︑そこでは異質な者の排除の. 過程が同時に進行することになる︒こうした方向性を危険視する立場から︑刑法に対して向けられる期待がこのよう. な傾向と無原則に結合しないよう︑憲法の原理と理論を確認しておくことが︑今あらためて必要になっていると思わ れる︒. ﹁法︑とりわけ刑法は︑道徳的秩序を形作り︑共同体自体を定義づけることによって︑すべての者に対して語りかけ る︵囚鴛馨お8義①と︒. カースト︵内弩貫寄自の9このこの一文は︑家族の価値や性に関する秩序といった﹁文化戦争﹂の領域において. 法が発揮する権力作用を述べたものである︒ここでは︑このシンボリックな権力作用は不可避的に何らかの程度で一 ︵2︶. 般人の道徳意識や人格の形成に関与する︑という認識を︑まず前提としておきたい︒ここで前提とされる﹁問. 題﹂ーここでは社会問題としての﹁問題﹂を認識するにとどめるーは︑次のようなことである︒ある行為を﹁犯 ︵3︶. 罪﹂として規定しその予防と処罰を実行することは国家の重要な任務である︑との考えは︑社会一般にかなりの程度. 共有されていると思われる︒しかし刑法は︑刑罰という苦痛を行為者に与えることと並んで︑その本質において︑重. 大な副作用を持つ︒一つには︑行為者自身に与えられる﹁犯罪者﹂のスティグマの問題である︒もう一つは︑こうし. 二八七. たスティグマが集団アイデンティティと結合して︑社会を分断する効果を生むことである︒後に見るカーストは︑こ 刑事立法︵犯罪を創設する権限︶と憲法理論︵志田陽子︶.

(4) 早稲田法学会 誌 第 五 十 一 巻 ︵ 二 〇 〇 一 ︶. の分断︵ないし隔離︶を﹁エンパシーの破壊﹂︵ζ曇. 二八八. おo︒吟 謡︶と呼び︑憲法が目指している平等な社会の維持に. とっての﹁害悪﹂と見ている︒また︑近年︑﹁準犯罪者﹂ないし﹁潜在的な犯罪者﹂と目される﹁リスキーな人々﹂. への警戒心から発する社会的隔離状況︵富裕層がこれらの人々が存在する空間から自らの生活空問を自発的に隔離す. る状況︶が観察されている︵ζ翼ごo︒O﹄鱒酒井一80るo︒占O︒ o ﹀が︑こうした観察を受けつつ︑﹁階級や宗教や人種. やライフ・スタイルを異にする多種多様な人びとが交渉し合う︑ハイブリツドな空間﹂が﹁確実に失われつつある﹂. ことを︑﹁政治的コミュニケーション﹂としての﹁公共性﹂喪失の危険としてとらえる議論も出されている︵齋藤 ︒O−o ︒oo︶︒. NOOgo. こうした社会的隔離の議論を採るかどうかは措くとしても︑刑事実体法が社会に対して発揮する抑止効果一般を重. く受け止める立場においては︑︽刑法は︑表現の自由に関わる規制であるか否かを問わず︑刑罰を賦課および告知す. る法であること自体において萎縮効果を持つものなのではないか︾︑との疑問が出される︒法理論上は︑ここから︑. ω臼︶と︑﹁文面上無効違憲判決﹂の帰結が刑罰法規一般へ拡張されることついては疑問とす. 萎縮効果を論拠とする﹁過度の広汎性﹂の理論はあらゆる自由権を規制する刑事実体法に当てはまると見るべきだと する見解︵藤井一〇〇 ︒ぶ. る見解︵門田一8浮︵N︶二8︶に分れることになる︒が︑本稿では︑この問題には立ち入らず︑多くの論者によって. 社会的・政治的問題のレベルで共有されているこのような認識を︑議論の前提として確認しておきたい︒ ︵4﹀ 刑法の持つこのような面は︑通常は︑プラス面︵必要性など︶によって正当化されることになる︒しかし︑この問. 題の重さを考えたとき︑もしもある刑事規制が正当化され得ないものであった場合に︑このような問題に関する何ら. かの対処が︑憲法上の要請として︑概念化されるのかどうか︒とりわけ︑﹁文化戦争﹂鼠葺おミ鶏ないし﹁文化的闘 ︵5︶ 争﹂容一ε葺弩覧ωという用語が今日のアメリカの状況を読み解く一つの鍵概念として語られる今日︑憲法論の立場.

(5) から︑この観点と︑先に述べた︽安全感︾ないし︽安心感︾との関わりを︑どのようにとらえていくべきか︒その指 針を探ることが︑本稿の目的である︒. 予備的考察 ω 理論的諸問題の整理. 憲法と刑法の理論的統合の主題をめぐる︑法理論上の最も大きな分岐点は︑刑法は社会にその根拠をもつ前憲法的. な法であって︑憲法はその外在的な制約原理として働くにとどまるものと見るか︵社会根拠説︶︑それとも刑法の根 ︵6︶ 拠は憲法によって付与されていると考えられるのか︵憲法根拠説︶の問題である︒これについては︑﹁︵歴史考察から. 得られた事実認識の問題としては︶刑罰権の淵源は︑政治的・社会的事実としての国家・権力の存在それ自体の中に. ある﹂が︑﹁正統な刑罰権﹂の根拠は憲法にあり︑﹁実体的刑罰権のあり方は権力正統化原理たる憲法上の原理・原則. とそれを具体化した憲法規定によって基本的に調整される﹂とする見解がある︵平川一89忍−胡︶︒. これと関連して確認しておくべき間題は︑刑事実体法と憲法との問に何らかの程度で理論的な一貫性が見出される. べきだと考える場合︑議論には二つの方向があることである︒一つは︑刑法が人権︵とりわけ自由︶に対して抑圧的. に作用しやすいという危険に照らして︑刑法の謙抑性の要請を︑憲法の自由の要請と結びつける方向である︒これは. ﹁近代的消極的国家観﹂からする関心と結びつく︒いわゆる﹁非犯罪化論﹂は︑この線上にある論題と言える︒もう. 一つの方向は︑憲法は﹁ある行為を刑罰の対象とすべし﹂という犯罪化ないし刑罰化の積極的な要請を含んでいる. か︑という問題である︒とりわけ現代国家化に対応した問題として︑憲法は国家の積極的・福祉的介入を実効化する. 二八九. ために刑事規制を要請するのか︑それとも刑事罰を導入するかどうかは政策の問題であって憲法は導入された刑事罰 刑事立法︵犯罪を創設する権限︶と憲法理論︵志田陽子︶.

(6) 早稲田法学会誌第五十一巻︵二〇〇一︶ ︵7︶. を﹁許容﹂するにとどまるのか︑が問題とされる︒. 二九〇. 本稿では︑この問いに立ち入るのは︑措くこととしたい︒この問題について何らかの見解を採ることは︑本稿で以. 下に扱う諸問題を検討した後にすべきだと思われるからである︒むしろここで留意したいことは︑ある特定の刑事実. 体法が憲法の要請によって正統化されるという場合︑他の手段ではなく刑罰という手段を憲法が要請していることが. 含意される︑ということである︒しかし︑アメリカ憲法学において刑事立法権の限界づけの理論化を試みる論者たち. は︑必ずしもこの思考方法に沿っているわけではなく︑むしろ外在的な制約原理としての憲法上の諸権利の議論を展 ︵8︶ 開する傾向が強い︒しかし一方で︑この傾向をむしろ方法論上の一つの問題として批判する論者もいる︒﹁表現の自. 由﹂への保護を中心的関心とするアメリカの傾向と︑刑罰法規一般に妥当する法原則を構築しようとしてきたわが国. の傾向との問には齪酷があることが指摘されているが︵松井一〇〇︒8門田一8曽︵一︶ 8ふ一︶︑こうした齪鶴は︑後に. 見るパッカーの議論に現れているように︑アメリカの中でも問題とされてきたのである︒. この論題に日本国憲法の解釈の問題として入っていくとすると︑これらの問題を扱うさいの根拠条文の検討ーと. くに憲法三一条は手続的デュー・プロセス︵およびここから派生する要請︶を保障するにとどまるのか︑それとも刑 ︵9︶ 罰内容および犯罪規定の内容の適正性︵実体的デユー・プロセス︶を保障しているのか︑という議論︑また︑刑事実. ︵10︶. 体法の内容の適正性の問題は三一条で論じるべきか一三条で論じるべきか︑という議論ーへとつながる︒こうした. 議論を見るにあたっては︑アメリカの議論状況を参照することが不可欠の作業となっている︒従って本稿でも︑アメ リカの議論を参照する︒. この領域で代表的とされるアメリカの教科書を見ると︑連邦および州に委ねられた刑事立法権に︑﹁叶訂8名霞8. R8$鼠馨︒︒﹂とのタイトルが付されている︵冨評お即oり89這o︒①﹂o︒︒ o ︶︒直訳すれば︑﹁犯罪を創設する権限﹂とな.

(7) るだろう︒本稿では︑この権限と憲法との理論的関係を考察した論者たちを考察する︒異なった三つの時期に試みら. れた議論を見ながら︑そこに一定の共通する間題認識があることを確認したい︒ここで言う﹁異なった三つの時期﹂. およびそれに対応する議論とは︑アメリカの六〇年代から七〇年代にさかんだった非犯罪化論と実体的デユー・プロ. セスとの統合の試み︵パッカー︶︑七〇年代から八0年代にかけて隆盛だったプライヴァシー権論︵リチャーズ︶︑さ. らに九〇年代の平等保護論︵リチャーズ︑カースト︶である︒そこに共通する問題認識とは︑犯罪創設の権限と先に. 指摘した﹁文化戦争﹂とが結合ないし協働しやすい傾向にあることを読み解き︑この結合が社会に与える損失ないし. 害を憲法的観点から﹁問題﹂視し︑この結合の傾向を乗り越えるための理論構築を試みること︑と言えるだろう︒さ. らに言えば︑ここで観察される︽安心感︾保障の要望は︑憲法上正当な利益となりうるのか︒本稿で参照した論者は. 非犯罪化論が提起した諸問題. いずれも︑これに対し否定的な見解をとっている︒. ω. 刑法による過干渉をどのような根拠・基準によって排除するかという問題を︑はじめて近代法の観点から定式化し ︵H︶. ︵12︶. たのはミル︵霞Fざぎεだと言われる︒ミルの﹁侵害原理﹂は︑現在も精練・修正を受けながらも多くの論者に. よって引き継がれ︑あるいは乗り越えるべき概念として挑戦を受けている︒有名なハート︵田芦雰r鋭︶とデヴリ. ン︵U窪5εの論争に見られるように︑イギリスでは﹁非犯罪化号R巨一き壽慧︒三が︑刑法の﹁脱道徳化留目?. 邑苺ぎとと一体をなす形で論題とされてきたが︑そうした議論は通常︑刑法の目的は侵害の防止にあるのか︑そ. 二九一. ︵13︶ れとも道徳の強制的維持にあるのか︑をめぐる論争の形をとってきた︒その背景には︑問題とされる犯罪カテゴリi ︵14︶ がもともとはキリスト教道徳に由来しているといった事情がある︒ 刑事立法︵犯罪を創設する権限︶と憲法理論︵志田陽子︶.

(8) 早稲田法学会誌第五十一巻︵二〇〇一︶. 二九二. 一方︑アメリカで﹁非犯罪化﹂の議論が活発に行われたのは︑主として一九六〇年代から七〇年代にかけてであ ︵15︶. る︒一九六二年には模範刑法典草案が作成され︑さらに一九六七年には大統領諮問委員会の報告書﹃自由社会におけ ︵16︶. る犯罪の挑戦﹄が公表され︑非犯罪化の議論が全米レベルでおこなわれるに至った︒ここでは︑犯罪学の領域におけ. る﹁ラベリング論﹂の台頭をきっかけとする議論が多く試みられた︒その概要は︑次のように言ってよいと思われ. る︒iラベリング論とは︑既存の逸脱の定義︵ないし具体的例示︶を所与のものとした上で当該逸脱行動の発生過 ︵17︶. 程︵原因︶や統制方法を究明しようとする考察姿勢から︑逸脱というラベルの付与過程を考察対象とし︑逸脱の定義. そのものを問題化・考察対象化する姿勢へと︑考察視角の転換をはかる理論である︒この理論には︑一定の行為パ. ターンを持つとみなされる人々へのスティグマ︵逸脱者のラベル︶の付与が︑人々の心理過程に影響を及ぼし︑ラベ. ル付けをされた人々をマイナスの社会的アイデンティティヘと固定させてしまう作用を持つ︑という知見が含まれ. る︒さらに︑このラベルが﹁とりわけ社会的弱者に対して適用されやすい﹂ことをラベリング論の中心的命題に位置. づける議論もある︵徳岡おo︒S G︒㎝︶︒ある行為︵ないしある状態︑ないしある特徴をもつ人々のグループ︶を犯罪. 蝉ヌ︶に代表される. ︵者︶として扱うことの憲法的可否を問題化しようとするカーストやリチャーズの議論は︑その土台の部分に︑こう したスティグマ論を吸収している︵後述︶︒. 非犯罪化論が活発だった時期に︑とくに影響力をもった議論を大別すると︑シャi︵oり巨ぴ. 乙とホーキンス︵浮葵一βρ︶に代表される︑刑事司法の現実. ﹁被害者のない犯罪﹂論︵浮畦む濫︶︑パッカー︵評鼻9鐸こに代表される︑憲法や法哲学に根拠を求める﹁刑 事制裁の法的限界﹂論︵後述︶︑モリス︵ζ畦誘. 的負担と防止目的とのバランスを問題とした﹁コスト・ベネフイット論﹂︵ζ︒三ω俸浮諄募おぎ︶が挙げられる︒. アプローチの違いはあれ︑多くの論者に共通する認識を抽出すると︑次のようになるだろう︒︵1︶現状の認識・評.

(9) 価i既存の刑事政策が期待された効果をあげることができず︑﹁ジレンマ﹂に陥っているとの問題認識︒︵2︶刑罰. ︵犯罪の統制︶に対する︑法学的または倫理的な見地からの再検討の必要性︒︵3︶コスト・ベネフィット!政策 ︵18︶. 的観点からの効率の実証的な検討︒これらのうちのどの観点を強調するかは論者によって異なるが︑この三つの観点. は︑非犯罪化論においておおむね共有されている︒﹁非犯罪化論﹂という用語は︑一時期活発化した後あまり聞かれ. なくなったが︑また︑後に見るリチャーズの指摘のように︑この議論がそのままの形で憲法理論へ吸収されるもので ︵19︶. アメリカにおける憲法理論化の試み. はないことは認めるべきだと思われるが︑同時に︑これらの議論がこうした認識を提供したことの価値は大きいと思 われる︒. ニ ω 問題の整理と概観. それでは︑上のような問題は︑法理論においてどのように構成され組み込まれてきたのだろうか︒まず地図を確認. する意味で︑刑事法領域に向けられた憲法上の要請について包括的な理論化を行なっているアメリカの教科書 ︵冨評毒鱒の8芦9§誉ミい§︶を︑最初の手がかりとしたい︒. a.デュー・プロセスの要請・権利章典による要請. この教科書によれば︑刑法の目的と本質は︑﹁社会への侵害富毒88馨身の防止﹂︑より具体的には﹁公共の保. 健・安全・モラル・福祉に対する損傷三信還8貯冨冨巴葺銘腕Φ9旨曾巴の9且毒蔚お鉱9Φ讐喜εの防止にあると. される︵冨評話俸の8辞一④o︒Φ9ε︶︒つまり︑一般に﹁ポリス・パワi﹂と言われてきたものを土台としつつ︑刑. 二九三. 法固有の要請︵﹁明確性﹂﹁事後法の禁止﹂などの原理︶による絞りを受けたものが︑刑法の本質ととらえられる︒こ 刑事立法︵犯罪を創設する権限︶と憲法理論︵志田陽子︶.

(10) 早稲田法学会誌第五十一巻︵二〇〇一︶. 二九四. れらの刑法固有の諸原理は︑憲法において実定化されているか︑または憲法から導出される法理として一般に承認さ. れているので︑この本質に合致しない刑法規定は憲法によって無効とされる︑と考えられている︒. ここには︑さらに︑憲法によって課される制約がある︒この制約に関するおおまかな枠組みは︑立法の存在根拠自. 体を実体的デュー・プロセスの問題として問う場合と︑特定の刑事立法が権利章典に抵触する場合とに分け︑前者を. 全体に通じる視点としながらも︑後者に該当する場合には後者の方法を優先させる︑というものである︒前者の実体. 的デュー・プロセスを基礎としたアプローチは︑﹁公共社会への損傷に実質的関連を持たない行為﹂への処罰を憲法. ︵第一修正︶など︑とくに刑事法の領域に向けて規定されたわけではない個々の人権保障に実体刑法が抵触するとい. 違反とするものである︵鍔評話廼o︒8辞這o︒9お⑩︶︒後者の︑権利章典によるアプローチは︑さらに︑表現の自由. う問題と︑不当な捜索および逮捕押収を受けない権利︵第四修正︶︑残酷で異常な刑罰の禁止︵第八修正︶など︑権. 利章典中とくに刑事立法権に対する制約として規定された諸条項に実体刑法が違反するという問題とに分けられる︒. b.実質的要請・形式的要請. なお︑我が国で一般にデュー・プロセス︵憲法三一条︶の要請とされているもののうち︑﹁明確性﹂﹁事後法の禁. 止﹂など︑刑法が﹁公正な告知﹂としての機能を果たすために要請される諸原則を﹁形式的要請﹂︑当該刑法が定め ︵20︶ ている内容の適正性を確保するために要請される諸原則を﹁実質的要請﹂として整理している論述が多くみられる︒. ﹁公正な告知﹂を﹁形式的要請﹂と﹁実質的要請﹂のどちらに分類するかについては見解の相違も見られるが︑いず. ︵21︶. れにせよ﹁公正な告知﹂として機能しえない刑罰法規は結果的に実質的内容において正当化されえない部分を包摂し. てしまうことが問題となる点で︑実体的適正性確保の要請が不可避的に結合した問題と考えられている︒さらに第八. 修正を根拠として刑事実体法の限界に関する判断を示した肉&き切§判決も︑形式的要請と実質的要請とを結合させ.

(11) ︵22︶. ︵23︶. たものと見られている︒また︑O誉§ミ判決を評価するにあたって︑第四修正の﹁不当な捜索・逮捕の禁止﹂のコロ. ラリーとして一般人が警察活動に対して持つプライヴァシーの権利が位置づけられ︑このプライヴァシーを侵害する ︵24︶ 形でしか捜索・逮捕されえないような実体刑法規定は違憲となる︑との構成をとる可能性が指摘されているが︑これ も形式的要請がその延長として実質的要請を含むという論法である︒. c.平等保護. を平等保護で論じる可能性についてはとくに言及せず︑その適用範囲が人種. なお︑重要な憲法上の論点として︑平等保護の問題がある︒本稿で参照した教科書は︑ある行為を犯罪とすること. 自体の可否1﹁スティグマの害﹂. その他何らかの条件によって差別的に規制されていることを平等保護の問題とする︵冨評語即の8洋這○︒①一畠−. お﹀︒一方︑後に見るように︑リチャーズやカーストは︑﹁価値低落号鷺区呂8﹂としての名指しの効果を持つ刑事. 実体的デュ!・プロセスと﹁基本権﹂. 立法を︑実体的内容の問題として︑平等保護違反とする︵後述︶︒. ω. 権利章典によるアプローチについては︑権利章典中の個々の権利について立ち入った考察を必要とし︑本稿の課題. から逸れてしまうおそれがあるために︑ここでその詳細を取り上げることはできない︒また︑先に触れたように︑刑. 事規制の憲法適合性の問題を刑事規制としての特性に照らして理論化しようという関心からは︑権利ごとの考察以前. に刑事規制全体に通じる理論を組む必要があり︑そのための根拠としてわが国では憲法三一条による実体的デュー・. プロセス論が提唱されてきたという事情がある︒アメリカでも刑事法学者の立場からする関心はこうした関心と重. 二九五. なっているようで︑ここで取り上げた教科書でも︑実体的デュー・プロセス論が刑事規制に関するハード・ケースを 刑事立法︵犯罪を創設する権限︶と憲法理論︵志田陽子︶.

(12) 早稲田法学会誌第五十一巻︵二〇〇一︶. 二九六. 扱うさいの一般理論を提供しうるものと考えられているようである︒そこで︑本稿でも︑関心をまずこの点に絞る︒. 教科書は︑連邦最高裁が実体的デュー・プロセスのアプローチを放棄していることを認める︒が︑﹁純粋な﹂また. は﹁直接の﹂実体的デュー・プロセスは否定されている︵冨評毒即ω8淳這o︒①嶺ρ一①○︒︶︑との記述には︑一定の. 加工が施された︑問接的な実体的デュー・プロセスが﹁基本権﹂の名のもとに活用されている︑との理解が読み取れ るQ. 経済活動を規制する立法の合憲性について︑教科書は︑﹁公共社会への危害互信蔓89Φ2窪︒に実質的関連を持. たない行為を処罰する立法﹂をデュー・プロセス違反とする理論を︑肯定的に評価する︒しかし︑これによってロッ. クナー時代の結論が擁護されているわけではない︒その分岐をどのように説明するのかについては必ずしも明確では. ないが︑むしろ︑その分岐は︑以下の検討項目を立てることによって説明される︑と考えられているようである︒教. 科書は︑連邦最高裁判所によって放棄された実体的デュー・プロセス論が州レベルで採用されている例を示し︑その 基本にある実体的デュー・プロセスに基づく思考方法を次のように一般化・類型化する︒. ①本来の目的を超える刑事規制の排除︵鍔評お節oっ8辟這・︒9嵩一−認︶︒ポリス・パワー行使の目的について︑制. 限的な目的を掲げ︑ここから刑法の過干渉を切り落とすという考え方である︒しかしこのアプローチは一方で︑公共. の福祉の促進という︑より一般的な目的のもとで︑刑法の制定が拡大的に正当化される方向にも働く︒この﹁公共の. 福祉﹂を制限する手がかりとして︑審美的理由にのみ基づく刑事規制を無効とする考え方︑またはミル︵拐︒峯ε の原理が挙げられる︵鐸︶︒. ②刑事規制を必要とするだけの害悪Φ註が実際に存在するかどうか︑という観点︒州裁判所のケースの中に︑﹁規. 制の対象となる行為によって︑被害者への現実の損害が生じているのかどうか﹂という観点から︑立法者が考えた害.

(13) 悪の存在が否定されたケースがあることが指摘される︵匿評お卸oり8簿ごo︒9まN︶︒. ③害悪の存在が認められた場合でも︑これに対する刑事規制が実効的な手段なのかどうか︑という問題︒法の適切. 性匿2轟昌と実行可能性嘆8浮筈ま蔓について審査することは︑連邦最高裁の否定するアプローチだが︑州裁判所. ではこのアプローチによって立法が違憲とされたケースがあることが指摘される︵9評お即ω8辞這o︒9嶺N6ω﹀︒. ④手段として刑事規制が適切か︑という観点から︑より制限的でない手段︵奮ω冨ω三&話 幕きω一9︒・ 2琶ζ ︵25︶ &の&おど二8ω零話吋Φ馨9&︶が存在する場合には︑刑事規制を違憲とする考え方︵霊霊話飽o︒8簿這o︒①葺器︶︒. 連邦最高裁は︑いわゆるコ一重の基準﹂により︑優越的権利の領域ではこのアプローチを採るが︑経済領域ではこの. アプローチを採らない︒しかし州裁判所では︑経済領域でもこのアプローチが採られた例があることが指摘される ︵鍔3<①@の8菖ごoo①﹂㎝ω︶︒. ⑤立法の真の目的が公共社会︵を窪︒︶よりも特定の利益団体に資することにあることを理由として︑違憲とする. 考え方︵躍評器俸の8窪おo︒①一認ム︶︒これも連邦最高裁の否定するアプローチだが︑州レベルでは︑公共社会の. 利益に名を借りて私的利益に資することを目的とする立法が︑権限の濫用として違憲とされた例があることが指摘さ. れる︒ここでは︑立法がある特定の私的利益団体によって立案されたという事実が必ずしも立法を違憲とするのでは ︵26︶. なく︑ある立法がある行為を禁止する結果︑ある特定の利益団体を助長することになると判断された場合に違憲とな る︑という点に力点が置かれている︒. ⑥ポリス・パワーは正統な一①αq憲暴富活動を絶対的に禁止するために用いられてはならない︑という要請にもとづ. 二九七. 7︶. く判断︒防止しようとする害悪が︑ある行為にとくに付随する傾向があるとしても︑それ自体としては不道徳または ︵2 社会的危険性のない行為を全面的に禁止することは︑実体的デユー・プロセスに反するという考え方である︒ 刑事立法︵犯罪を創設する権限︶と憲法理論︵志田陽子︶.

(14) 早稲田法学会誌第五十一巻︵二〇〇一︶. 二九八. ⑦経済領域・権利章典領域の両方に通じる問題として︑重大な侵害に関連をもつことが想定されるがそれ自体とし. ては無害な行為が︑どのような場合に憲法上正当に禁止・規制されうるのか︑という問題︵冨評奉飽o︒8淳這︒︒9. 一竃6︶︒麻薬使用のための器具の所持を罰する場合や︑未成年者が一定の時刻以降に街路にいたり︑ナイフなど鋭. 利な道具を所持することを少年犯罪として処罰する場合など︑一定の重大な侵害に関連があると仮定される行為を禁. 止・処罰することによって︑当該の重大な侵害︵通常それ自体も犯罪とされている︶を予防・抑止しようとする立法. 者の意図はどこまで正当化されるのか︑という問題である︒教科書は︑この種の刑事規制が本来意図されている害悪 ︵28V. と関連のない行為にまで及ぶ場合︑過度に広汎なものとなる︑としている︒この観点に加えて︑禁止の対象となるそ れ自体では無害な行為の社会的有用性が考慮される︒. 教科書は︑これらのアプローチが連邦最高裁によって放棄される傾向にあることを認める︒第一に︑経済領域で. は︑連邦最高裁はこのアプローチを明確に否定している︒第二に︑経済規制以外の刑事立法の領域で︑従来はこのア. プローチが採られるものと考えられていた諸問題が権利章典に基づくアプローチヘ吸収される︒その典型的な例とさ. れるのが︑9詠§鷺判決である︒ここでは︑実体的デユー・プロセスによる立法の合理性・正当性の審査が斥けられ. ︒一dのミPおω︶︑問題はプライヴァシーという﹁権利﹂への侵犯として構成される︒ここには︑刑事立法に関. ︵ω○. わる政策の賢明さについて裁判所が一般的な評定を下すよりも︑そうした政策が権利章典に抵触すると判断する場合. のほうが望ましいことだとの一般的合意が存在すると︑教科書は指摘する︵霊評毒卿の8暮ごo︒①じ8︶︒. この実体的デユー・プロセスのアプローチと権利章典のアプローチは︑先に見た︑内在的正当化︵刑罰権に関する. 憲法根拠説︶か外在的制約︵刑罰権に関する社会根拠説︶か︑の問題と対応しているように思われる︒デユー・プロ. セス・モデルでは︑刑法の本質︵正当化根拠︶と当該立法とを照らし合わせ︑規制対象や手段の強度がその本質から.

(15) 逸脱している刑事立法をデュー・プロセス違反︵正当な理由によらない自由剥奪︶とするのに対し︑権利章典モデル. では︑憲法上保障される権利が外在的な制約原理として働くのである︒そのどちらにおいても︑その根底では︑刑事. 立法によって保護される利益とこれによって奪われる利益との利益衡量が働いているのだが︑この衡量の方法に︑条. 件の違いが生じる︒デユー・プロセス・モデルでは︑第五修正︑第一四修正の﹁生命・自由・財産﹂にあたる利益の. 重さが︑事件ごとに︑これを規制する刑事立法の可否を判断するための一材料として秤に乗せられる︵&ぎ︒ぎγ. 磐︒帥畠︶︒権利章典モデルでは︑この衡量は︑事件ごとの衡量ではなく︑刑事立法によって奪われる利益に﹁権利﹂ ︵29︶. としての重みがあらかじめ与えられ︑その結果︑刑事立法によって保護される利益が︑たとえばやむにやまれぬ 8旨需田凝程度まで重いものであることが要求される︒. こうした枠組みに素直に沿って言えば︑﹁権利章典モデル﹂は︑憲法上の権利として主張される利益に重みのか. かった議論であるから︑人権保障の観点からは︑実体的デユー・プロセス・モデルよりも進展した議論だということ ヤ. ヤ. ヤ. になる︒しかし︑そこには︑当該利益が優越的権利に包摂されるかどうかの線引きに関する問題が生じ︑この線引き. によって﹁権利﹂のカテゴリーから外れた利益にかかわる刑事規制については︑法的に検討する手がかりが失われて しまう︒次の章で検討するパッカーは︑この問題を重く見ている︒. ただし︑もしも純粋な内在型の限界画定方法のみに依拠しようとする場合には︑先に見た実体的デュー・プロセス. の判断手法の①にあるとおり︑これによって正当化される刑事規制の範囲は︑むしろ非常に広汎なものとなるおそれ. が高まり︑別の原理の導入によってさらなる限界画定が試みられることになる︒そのように考えて︑実体的デュー・. 二九九. プロセスに依拠する判断方法の諸項目を見ると︑完全に純粋な内在型の限界画定方法は存在せず︑それぞれの手法. は︑この欠陥を補う1二段階型の1限界画定手法を定式化したものだと言える︒ 刑事立法︵犯罪を創設する権限﹀と憲法理論︵志田陽子︶.

(16) ω. 憲法理論化の試みーパッカー︑リチャーズ︑カースト. 早稲田法学会誌第五十一巻︵二〇〇一︶. 三 パッカーの実体的デュi・プロセス論. a︒プライヴァシー権への批判. 三〇〇. パッカ!はアメリカの非犯罪化論を代表する刑事法学者の一人だが︑とくに積極的に自説の憲法理論化を試みた論 者でもある︒. パッカーは︑人工妊娠中絶︑ポルノグラフィー︑賭博行為︑逸脱した性的行動︑マリファナの売買といった︑いわ. ゆる非犯罪化論において取り上げられる典型的な領域を取り上げ︑これらをすべて憲法上の実体的デユー・プロセス. 0︶. の問題とする︵たとえばポルノグラフィー規制についても︑﹁表現の自由﹂にかかわるものとしての特殊な理論を立 ︵3 てず︑同じ観点に よ っ て 考 察 す る ︶ ︒. 彼はまず実体的デュー・プロセスを︑﹁立法が合理的な根拠を有しているか否かについての精査﹂ととらえる. む諺. おド総﹀︒この﹁合理的根拠﹂の基準. ︵評畠雪お目一おN︶︒刑法も︑この実体的デュー・プロセスによって︑当該刑事制裁の行使を基礎づける﹁合理的. 根拠篤ぎ葛一富診﹂が存在するか︑という問いに付される︵評鼻段. は︑立法の作用に関する事実的考察にもとづいた利益衡量を内容としており︑立法目的と法規との問になんらかの合. 理的関連を要求する﹁合理性のテスト﹂とは異なる基準である︒先にふれたように連邦最高裁判所は実体的デュー・ プロセスによる審査を放棄しているが︑パッカーは裁判所のこの放棄を批判する︒. 批判の第一点は︑経済立法と﹁基本的権利h§鼠目雪琶二αq耳ω﹂に対する規制立法とを区別し︑前者には合憲性の. 推定がはたらき︑後者には違憲性の推定がはたらくという﹁二重の基準﹂そのものに向けられる︒︵この考え方のも.

(17) とでは︑経済立法については︑立法者の意図した立法目的と法規︵規制手段︶との問になんらかの合理性が認められ. れば合憲となる︶︒パッカーは︑経済規制立法と﹁基本的権利﹂を制限する立法との区別は現実には困難であるた. め︑その無効が十分に論証され得たはずの立法が放任されてきたと指摘し︑経済規制立法とその他の規制立法とを同 一の理論で審査すべきだという︵評良Rおβ一おω︶︒. 先に行なった整理に沿って言えば︑パッカーは憲法を刑法の外在的制約としてではなく︑﹁刑法の目的ないし根. 拠﹂に関わるものと見る立場を一貫させつつ︑その限界を画定するための衡量の場として実体的デュー・プロセスを. とらえている︑と言える︒たとえば︑パッカーは︑﹁自律﹂の原理を根底に置きつつ︑刑罰権の正当化根拠を詳細に. ︵1 3︶. 検討し︵評良震這①o︒一器 O︶︑刑罰権の限界について︑﹁刑法の正当化根拠によって課される限界﹂の議論を要請す. る︒そして︑この﹁限界﹂は︑不合理な刑法に関する社会的諸事実の考察から導かれる︒. パッカーの連邦最高裁判所への批判の第二点は︑いわゆるプライヴァシー権ーその無根拠性1に向けられる︒. 這葺. お鉢︶︒パッカーによれば︑事実に. パッカーは︑9陣箸・こ判決に見られる︑権利の﹁半影需匡9轟﹂﹁放射Φ目き呂8﹂といった概念を︑立法を無効と. する根拠ではなく結果に付けられた名にすぎないと考えている︵評鼻霞. お望霧︶︑これを脱道徳化し︑議論の焦点を社会的事実の認識と法概念化. お㎝︶︒パッカーは︑わいせつ表現︑人工妊娠中絶︑性的逸脱などの領域に︑﹁経済的﹂議論と﹁道徳的﹂議論. よって充填されうる﹁経済的﹂ないし﹁功利主義的﹂議論と異なり︑﹁道徳的﹂議論は証明不可能である︵評畠震 一〇譲. の結合の構造を見た上で︵評島翰む置. へと回路づけようと試みているわけだが︑そのパッカーにとって︑議論がプライヴァシー権へ集中する動きは︑議論 の進展どころか︑この方向性を見失わせる障壁となってしまうのである︒. 三〇一. ただし︑パッカーがここで批判の対象とするのはあくまでも自己決定型のプライヴァシー権に対してであって︑第 刑事立法へ犯罪を創設する権限︶と憲法理論︵志田陽子︶.

(18) 早稲田法学会誌第五十一巻︵二〇〇一︶. 三〇二. 四修正に基づくプライヴァシー権︵私生活領域へ警察から不当な干渉を受けないこと︶に対しては厚い保護を主張し. ている︒パッカーによれば︑刑事司法の活動は︑効率性の要請に基づく﹁犯罪統制モデル﹂と自由の保障の要請に基. .づく﹁デユー・プロセス・モデル﹂の二つのモデルによって理論化される︒二つのモデルが衝突する場面では︑. ﹁デュー・プロセス・モデル﹂が優位し︑﹁絶対的効率性﹂は拒否される︵評畠震這①○︒一頴o ︒占蕊︶︒このデュー・. プロセス・モデルの優位は︑刑事手続の各段階での﹁個人のプライヴァシーの権利﹂を初めとする各種の権利の尊重. という形で具体化される︵評鼻震一霧o︒﹂お占o︒一︶︒このような捜査段階でのプライヴァシー権の尊重という観点を. 押し進めていくと︑︵避妊具使用の痕跡の捜査など︶個人の私生活空問のプライヴァシーを侵害する形でしか捜査し. えないような犯罪類型をその﹁犯罪化﹂自体において違憲と考える可能性が出てくると思われるのだが︑この点を. パッカーは︑コスト・ベネフィット論の中で展開する︒自由とプライヴァシーに重きを置く人々のプライベートな生. 活に刑事司法が介入することで起きる︑警察と一般市民との緊張を︑刑事規制を課すことの損失としてカウントす る︑という論法である︵評鼻震這①o︒蕊o︒㌣o・①︶︒ 2︶. ︵3 b.利益とコスト. パッカーの整理と概念化によれば︑刑事制裁を科すことの﹁利益とコスト﹂の観点からその刑事制裁の合理性が疑 問視される状況には︑次のものがある︒. 侵害からの距離と些事性お蓉冨冨器昏α鼠ぐ巨沖ξ︒防止しようとする真の侵害に対し︑規制される行為がその発. 生因としては離れすぎていたり︑侵害発生の蓋然性の小さすぎる場合︒︵評良巽お①o︒る8−ミ︶︒. 犯罪関税︒﹃馨9三罐︒ある物品またはサービス提供が刑事規制の対象とされることによって︑対象となる物品や. サービスの値段が非合法ルートにおいて不当に釣り上げられることの弊害︒︵評良震ご①o・るミーo・Nじ⑩ご﹂霧ふ︶︒.

(19) 警察と一般市民との緊張関係による警察活動の非効率化︑散発的な執行による刑事司法運用の恣意化︑裁量権の濫 用を発生させやすい漢然とした法律や過度に広汎な法律の問題︒︵評良Φ=霧o︒る○︒ド旨︶︒. この﹁質﹂にデユー・プロセスの遵守が含まれることは前述のとおりであるーの低下を. 流れ作業的裁判︒酩酊︑風俗壊乱︑浮浪︑賭博︑酒類規制法違反︑売春について︑下級審で行なわれる際限のない. 訴追は︑刑事司法の質 招く︒︵評臭巽這①o︒る旨−8︶︒. 隠蔽されつつ機能する︑警察によるハラスメントの問題︒当該刑法の存在により︑一定の人々に対する当該地域か. らの追い出しとなるような警察干渉が可能となり︑これが裁判所による有罪判決の前に事実上の刑罰の効果を発揮す る点で︑疑問視される︒︵評畠霞5①o︒る潟−諭︶︒. 後に見るように︑リチャーズは︑いわゆるコスト・ベネフイット論を︑裁判所が用いる法理論とはなり得ないとし. ︒鱒ε︒しかしここで留意したいのは︑パッカーの﹁経済的﹂﹁功利主義的﹂観点は︑刑 て斥けている︵空9簿こω一りo. 事司法運営に関する人的・時問的・財政的負担の問題に限られるものではないということである︒彼の用いる﹁経済. 的﹂という語は︑法を強制することによって社会に生じるコストと利益全般のことを意味する︒この﹁コスト﹂は︑. 金銭的なコストには還元されない︑﹁弱者が望むものを獲得しようとするのを社会が抑圧しようとするときに付随す るコスト﹂を含む︵評畠霞ご§≦譲︶︒ ︵33︶. さらにパッカーは︑心理学の知見を援用しつつ︑刑法の一般抑止効果︵もともとは刑法の重要な存在根拠とされて. いるもの︶が社会全般にもたらす効果の︑必要﹁悪﹂としての︼面を重く考慮している︒総論部分で示されたこの理. 解は︑各論において︑刑事制裁が社会に課すコストの一材料として引き継がれている︒﹁刑事手続の結果生じるス. 三〇三. ティグマと自由喪失の結合は︑政府が当該個人に課しうるもののうち最も重い剥奪と考えられている﹂︵評良霞 刑事立法︵犯罪を創設する権限︶と憲法理論︵志田陽子︶.

(20) 三〇四. 一①㎝︶︒このような﹁コスト﹂の着想が理論として一貫した意義をもつためには︑何をコストの領域に組み入. 早稲田法学会 誌 第 五 十 一 巻 ︵ 二 〇 〇 一 ︶. ︒. 一Φ①o. れ︑何を利益の領域に組み入れるかについての何らかの判断基準が存在しなければならず︑この点が次の問題とな る︒. 多くの場合︑こうした場面では侵害原理の導入がはかられるが︑パッカーは︑ある実体刑法の存続の︵憲︶法的正. 当性の判断基準としては︑﹁被害者のない犯罪﹂を採らない︵評畠巽這置晒おG︒︶︵問題領域を表わす一般用語として. 採用している︶︒また︑﹁被害者の有無﹂の基礎にある﹁他者への侵害﹂の基準も︑﹁それがあるかないか﹂を問うか. ぎりでは有効な判断基準とはなり得ず︑実際の問題は︑規制対象となる行為がその防止が意図されているところの侵. ご①o︒一ま9雪︶︒パッ. 害の発生因として離れ過ぎていないかどうか︵侵害からの距離︶︑および当該行為がその防止が意図されているとこ ろの侵害をどのくらいの蓋然性で発生させるのか︵侵害発生の蓋然性︶だとする︵評臭霞. カーが︑経済規制立法に関して連邦最高裁判所が採用する﹁合理性のテスト﹂に対し強い批判を表明していることと. 考え合わせると︑この議論は︑﹁侵害﹂の議論が︽立法者がなんらかの侵害防止目的を掲げさえすれば合憲︾となる. ような形式論に終わることを防ごうとして提案された議論であると考えられる︒立法者側がそれらしい侵害防止目的. を掲げた場合でも︑その侵害が当該行為によって引き起こされる可能性と蓋然性が低い場合にはデュー・プロセス違. 反となる︑との考えは︑パッカーが一般論として述べる︽法律の合理的基礎の存在︾の吟味方法の一内容として︑一 貫性を持っていると思われる︒. 次に︑パッカーのコスト・ベネフィットに関する具体的な論述を見ると︑たとえば人工妊娠中絶については︑これ. を禁止・処罰することによって︑無資格者による施術によって母体の健康が危険にさらされ︑また正式な医療行為と. みなされないためかえって施術のための費用が高額になるという犯罪関税の問題が︑﹁損失﹂とされる︵評鼻霞.

(21) ご①o︒ No ︒銅 ︒90. G︒畠−怠︶︒一方︑禁止・処罰によってもたらされる利益としては︑胎児の生命の問題は考慮される. ︒る鳶︶が︑出産を望まない女性に出産を強制することの利益︵道徳パターナリズムを共同体の紐帯形 ︵評畠霞這①o. 成のために承認する観点からは︑これも重要な社会的利益となりうる﹀は︑考慮すべき材料としてとくに取り上げら れてはいない︒. また︑逸脱的な性行動号<㌶暮紹謹鮎常富≦︒﹃について︑パッカーは︑性犯罪と一般に言われるものの中には︑. 行動の逸脱性自体を犯罪とする立法と︑未成年者の保護または一般人の大部分の感情を害する﹁迷惑な崖一ωき8﹂行. 動の禁止を目的とする立法とを区別する︒前者に関しては︑これらの逸脱行動は過去の慣習道徳への侮辱にすぎず︑. 一般人の道徳感情の保護という観点は否定される︒これについては行為の規制に伴うコストを上回るような利益は見. お①︶︒ここでも︑多くの人が﹁従来尊重されてきた道徳が今後も尊重され. 出されないのに対し︑後者については︑立法の目的が現実的な利益を伴っているので︑このコストと利益とが比較衡 ︒曽芦O譲 量される︵評爵Φ二霧o︒る2−︒ ︵34︶. る﹂という見込みによって精神的な安定を確保するという﹁利益﹂を想定することは十分可能だが︑この﹁利益﹂は 衡量の秤に乗せられていない︒. 一方︑賭博行為やマリファナ規制の場合は︑これらを犯罪とすることによって︑これらの流通が非合法ルートにゆ. だねられ︑不当につり上げられた取引価格による収益が︑より悪質な組織犯罪のための資金源となる︵犯罪関税︶. ︵評畠巽這①○︒uミドo︒⑳︶︒パッカーは︑規制がこのような害悪を生み出すことの不合理さを重視する︒しかし︑価. 格が上がっても︵人工妊娠中絶の場合のように︶当該サービスヘのアクセスが止まらずかえって金銭的損失や人体へ ︵35︶. の危険が増す場合もあるが︑一方で︑価格の上昇が人々の当該物品またはサービスヘのアクセスを抑止する方向に働. 三〇五. く場合もあり︑価格の上昇自体を法的に意味のある﹁損失﹂とすることは困難である︒にもかかわらず︑ある行為を 刑事立法︵犯罪を創設する権限︶と憲法理論︵志田陽子︶.

(22) 早稲田法学会 誌 第 五 十 一 巻 ︵ 二 〇 〇 一 ︶. 三〇六. 禁じる刑事立法自体が原因となってしまうような連鎖的な社会現象が︑その連鎖自体において憲法的に有意味な﹁コ. スト﹂として考慮されるのは︑そのような社会的連鎖を﹁社会にとっての損失﹂として認識させる︑なんらかの規範. 的考慮が存在しているからだと考えられる︒ここで意味を持つと考えられるのは︑パッカー自身の記述による︑﹁弱. 者が望むものを獲得しようとするのを社会が抑圧しようとするとき︑これに付随するコスト﹂という考え方である︒ ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. さらに︑パッカーは︑法の議論として自説を根拠づけるにあたって︑﹁人間の自律﹂﹁個々の人間の成長と発展の能. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. カ﹂に言及している︵評畠霞這①o︒一爵−3︶︒従って︑パッカーの﹁利益と損失﹂は︑自律を基本的価値と見る社会. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. を形成・維持するにあたっての利益と損失︑および︑弱者への配慮をその存立の条件とする社会を形成・維持するに. あたっての利益と損失︑という方向性を︑もともと含意しているのではないかと考えられる︒. では︑パッカーが﹁合理性﹂を判断の根拠とすることによって﹁刑事司法の正当な関心事﹂から除外しようとした. ﹁不合理な﹂もの1自律基底的かつ弱者への配慮を組み込んだ社会統合を阻害する﹁損失﹂的状況1は︑何だっ. たのか︒そう問いながらパッカーの議論を見ていくと︑刑法と警察が道徳感情をベースとした排除の作用の増幅装置. として機能する状況︑そして︑刑法が富︵ないし社会的文化的優位性による人生設計上の便益︶の配分に関する社会. 的公正性を担保するよりも︑富︵ないし社会的文化的優位性による人生設計上の便益︶への不公平なアクセスを補強. する方向に機能する状況︵犯罪関税の問題︶といったものが︑見えてくる︒前者の関心はまさに﹁文化戦争﹂の問題. に合致している︒また︑後者の問題は︑次のリチャーズの議論の検討の中で見るように︑ロールズの︑公正な社会維. 持を目的とした制度的議論によく合致している︒︵ロ!ルズはこれによって刑罰という制度が正当化されることを論. じているが︑パッカーはこれらの価値を掘り崩す危険をもつ刑法を除去する議論を展開している︑という実践的関心. の違いはあるが︶︒また︑カーストが文化戦争の結果生じる害として描く︑社会的弱者の立場に置かれた者が有形的.

(23) な財へのアクセスを喪失する状況︵爵簗ごo︒9器も︶とも重なる︒. ㈹リチャーズのプライヴァシー権論と平等保護論−自律︑平等︑中立性. この当時︑その主張内容において︑パッカーと好対照をなしていたと思われるのが以下に見るリチャーズのプライ. ヴァシー権論である︒当時パッカーが批判の対象としていたのは︑連邦最高裁判所およびヘンキン︵田鼻包の議. 論であって︑リチャーズの名はとくに挙がっていない︒しかし︑プライヴァシー権を﹁道徳の議論﹂として斥けつつ. 功利主義的衡量の憲法的正当性を主張するパッカーに対し︑リチャーズの議論は︑憲法と刑事実体法とのかかわりを. 正面から論題としつつ﹁功利主義ではなく道徳の議論﹂を主張する点で︑好対照をなす議論だと思われる︒. おおまかに整理するならば︑リチャーズの議論には︑一九八二年の著作に代表される刑事制裁の限界論︵空9霞房. 一⑩おレ⑩o ︒N︶︑一九八O年代の著作に代表される自律型プライヴァシー権論︵匹9震3おo︒9ごo︒⑩︶︑九〇年代の著. 作で力点の置かれるアイデンティティヘの平等な扱いを核とした平等保護論︵覆9霞房ご器口80︒︶︑という三つの. 論域がある︒この三つの論域は︑常に﹁自律﹂﹁良心の自由﹂﹁寛容﹂﹁中立性﹂という中核原理によって結び付けら ︵36︶. れている︒この原理を導き出すための政治哲学および歴史の考察iアメリカの立憲的アイデンティティの追究ー が︑これら三つの領域に通底する四番目の論域となる︒. a.非犯罪化論への批判と︑自律基底的な﹁刑法の道徳的基礎﹂. リチャーズは︑一九八二年の著作.φ§bミ滲導ミ誉§織ミ鳴卜§︑︑で︑憲法原理と刑法との理論統合を試みてい. る︒その各論として扱われているテーマは︑性︵同性愛および売春︶︑麻薬︑死︵自殺の自由︑安楽死︑安楽殺︶で. 三〇七. ある︒これらは︑非犯罪化論が関心とするところでもあったし︑また︑個人の自己決定の権利ないし人格性に関わる 刑事立法︵犯罪を創設する権限︶と憲法理論︵志田陽子︶.

(24) 早稲田法学会誌第五十一巻︵二〇〇一︶ ︵37︶. 三〇八. 権利としてのプライヴァシi権にとっても中心的なテーマである︒しかし︑リチャーズは︑自らの議論と非犯罪化論. との調和は困難であるとする︒非犯罪化論は基本的に﹁効率基底的な&§窪昌と器a﹂議論であり︑そうした議論. ⑩︶︒また︑非犯罪化論が依拠するコスト・ベネフィット論の前提には︑何を社会にとっての損失とし何を益. は︑裁判所ではなく立法府にのみ向けられるべき議論となる︵法原理の問題となりえない︶からである︵覆魯曽3 ︒N. 一りo. ︵38︶. とするかに関する道徳的判断が存在しなければならず︑この問題を抜きにしたコスト・ベネフィット論は︑すでに出. されている結論を繰り返す議論にしかなっていない︒また︑こうした功利主義的議論は︑多数者の利益によって奪わ. れ得ない個人の自由を画定することを不可能としてしまうはずなのだが︑実際の非犯罪化論者の主張もその根拠とさ. れるミルの議論もそうした結論にはならず︑個人の自由の領域を擁護する議論となっている︵理論的基礎と実践的目. 的との問で齪齪をきたしている︶点で︑一般理論として採用できない︵匹9貧房おo︒卜︒&ふ︶︒. ごo︒即 旨−お旧力喜巽房. ﹁効率基底論﹂ないしコスト・ベネフィット論をこのように斥けるリチャーズが基底とするのは︑自律と平等の道 徳的価値と︑各人の自律的決定を可能とするものとしての政府の中立性である︵困9震房. 一りo︒9N&︶︒一九八六年の著作では︑この一連のコンセプトが﹁宗教の自由と政府の寛容﹂の議論を通じて︑﹁プラ. イヴァシーの権利﹂の議論へと集約されていく︵困9霞房ごo︒⑦器ゲ8N︶︒. ここでリチャーズ自身が﹁道徳﹂﹁倫理﹂の語を使っているとおり︑リチャーズは刑法と道徳を分離することを解. 決の道とはしない︒リチャーズの場合︑人間の批判的理性を信頼・防護する﹁公共道徳2菖︒筥・邑ξ﹂として︑. 一定の憲法原理が擁護され︑﹁卓越したもの﹂とされる︵空︒訂&ω這o︒い︒ ま︶︵その正当化はロールズの議論に負っ. ている︶︒リチャーズは自己の擁護する﹁公共道徳﹂と﹁社会慣習ω︒︒巨8髪霧ぎ三︵通常﹁道徳﹂と呼ばれている. ︒Φ緩おQ︒︶︵このことによって︑多 もの︶とを区別し︑両者の同﹈視を批判する︵霊3畦房お・︒⑲﹂仰覆︒げ帥aω一⑩・.

(25) 数者による党派的な道徳的見解の強制を拒否する道を確保している︶︒従って︑非犯罪化の主張のうち︑後者の﹁社. 会慣習﹂のレベルに属する﹁道徳のコンセンサス﹂の変化を根拠にした議論も採らない︵霞9巽房むo︒⑦器?巽︶︒. そして︑社会慣習レベルの道徳観の差異や変化を超えて妥当する︑実体刑法と憲法の諸原理に共通する﹁倫理的基. 礎﹂について︑次のように論述する︒﹁各人は︑自らの人生の形に対して責任を負いこれを変更する高次の能力を備. えた自由で合理的な存在どして自己に対して要求する尊重と関心と同じものを︑他者に対しても拡張すべきである﹂ ︵霊︒冨こω一りo︒N﹂㎝︶︒. この記述によれば︑﹁自己に対して要求する尊重と関心﹂すなわち﹁自尊﹂が万人に保障されるべき基本的な道徳. 88b昌の最小条件としての人権﹂とも言いかえられている. 的価値とされ︑これをすべての者に平等に拡張するために︑これを侵害する行為に対し刑事制裁を用いることが憲法 の要請となる︵こうした要求は︑﹁人問の品位ど日き. ︵空9貧房這○︒鱒旨︶︶︒この議論によれば︑他者への尊重と関心を刑事制裁を用いて強制することが︑憲法上正当. 化される︑ということになるのだろうか︒これはかなり積極的な刑罰化の方向を許容する理論となるのではないか︑. との疑念が湧く︒実際︑リチャーズの議論は︑一定の犯罪を非犯罪化するという消極的な内容にとどまらず︑一定の. 義務ないし責務を刑事規制の根拠とすることによって︑一定の刑事規制を正当化する方向にも働くことを︑その出発. から含意している︒しかし︑この積極的な要素を︑﹁他者への尊重と関心﹂という内心状態を直接に刑法によって強. 制するという意味にとるべきなのだろうか︒そのように理解した場合には︑この議論は︑リチャーズ自身の主張す. る︑各人の道徳的自律性の確保︵これを侵害する刑事制裁は違憲とされる﹀と︑相容れない議論となる︒なぜなら︑. 他者に尊重や関心を向けるか否か︑どのような他者に尊重の念や関心を感じるかは︑まさに当人の道徳的自律にゆだ. 三〇九. ねられた問題であって︑このような内心状態を刑法で強制することは︑矛盾となるからである︒そこで︑リチャーズ 刑事立法︵犯罪を創設する権限︶と憲法理論︵志田陽子︶.

(26) 早稲田法学会誌第五十一巻︵二〇〇一︶. 三一〇. の議論をそのべースとされているロールズの議論と照らし合わせて︑リチャーズの意図を確認してみたい︒. リチャーズは︑ロールズの﹁基本的善︵ないし基本財︶冥帥露qαq8房﹂︵評註ωG譲お≦ωaΦ野お︶をコ般的. 善︵ないし一般財︶鴨需邑碧︒房﹂と呼び替えつつ︑刑事規制によって保護されるべきものという意味で︑刑事規制. を根拠づけるものとしている︵覆9畦房這Q︒妙器p誤V︒先の﹁自己に対して要求する尊重と関心﹂ ﹁自尊﹂は︑ ︵39︶ ロールズおよびこれを継承するリチャーズによれば︑中心的な座を占める基本的善である︒この自尊は︑他者との相. 互的な尊重の中でしか形成・維持できないものなので︑社会構成員の相互尊重を酒養し維持することが︑社会制度上. の必要として︑承認される︒ロールズによれば︑刑罰は︑社会構成員の相互信頼確保の手段として正当化される︒正. 義の原理を選択した秩序ある社会は︑その構成員に制度上の一定の責務を課すことになるが︑この原理を無視し不当. あるいはそうした疑念をー放置すると︑そうした社会における社会. な利益を得る人々がいるのではないか︑といった疑念は︑理想的な﹁よく秩序づけられた社会≦色6益巽a ωo︒醇≦においても残る︒そうした人々を. 的協力は維持困難に陥る恐れがある︒そこで︑市民の相互尊重を維持するために︑平等な自由および法の支配による ︵40︶. 拘束が不可欠と理解された状況で︑公正な制度の安定的な維持に必要な手段をオーソライズすることは合理的であ る︑とされる︒. こうした考え方と合わせて見ると︑リチャーズの論述は︑各人の平等な尊重を損なう公権力の価値強制を排する方. 向と併せて︑公正な社会制度を維持するための正義感覚を酒養する必要性から︑その手段として︑他者への価値おと. 曾瓜8と制度的責務一拐瓜εけ一8巴. しめの行為に対する刑罰を認める︑という意味に理解できるのではないかと思われる︒. リチャーズは︑こうしたロールズの議論を継承しつつ︑自然的義務轟ε邑. 身浮ωきα ︒び凝畳︒霧のレベル分けに沿って︑刑罰︵実体法︶の正当な内容を根拠づける社会構成員各人の義務.

(27) を︑次のように整理する︒. まず自然的義務は︑道徳レベルの問題であり︑他者と相互的に制度的関係に入っているか否かにかかわらず適用さ. 畳︵人命救助のような重大な善を︑行為者の軽微なコストで確保すること︶︑思慮. れるものである︒ここには︑反有害性昌8ヨ巴Φ浮窪8の原理︵侵害げ9§を与えないことまたは不必要に残酷に扱わ ︵岨︶. ないこと︶︑相互扶助馨ε巴. 8霧箆R豊8︵他者のプライヴァシーを害さないこと︑または不必要に侵害しないこと︶︑パターナリズム︵重大で. 回復不可能な侵害を招くおそれのある︑合理性の弱められたまたは未発達の人問を救済すること︶が含まれる︵霊? 鼠こω一⑩o︒N﹂㎝︶︒. 次に制度的責務は︑正義のレベルの問題であり︑制度と共同体の中の人生︵生活︶によって可能となる特別な便益. のゆえに生じるものである︒ここには︑法システム︑経済システム︑約束の履行や真実の言明といった慣習⁝⁝など ︵42︶. の諸原理が含まれる︒合理的な人間であれば︑自己批判的統合性と自尊とをもって人生を送るための最小限の条件と して︑こうした諸原理が保障されることを望むと想定される︒. リチャーズは︑功利主義と結び付いた侵害9馨概念には刑法の正当な範囲を画する憲法上の原理としての意義を. 認めないが︑このように自律と平等の規範的価値を前提としたコ般的善﹂の保護の観点から再解釈を施した上での. 侵害概念には︑刑事規制間題全体に通じるものとして︑中核的な意義を与えている︵履︒富三ωご︒︒ド 嵩函9 男一?. 鼠こωむo・9曽令ミ︶︒このコ般的善﹂は︑ロールズの論に従い︑合理的な人間が選択すると想定されるものであ. る︵羅畠曽房おo︒⑦Nホ︶︒これを損なう行為が︑﹁侵害﹂とされる︒このようにコ般的善︵ないし一般財︶﹂を組. み込むことによって再構成された侵害原理は︑後の著作においても︑理論の中核に置かれ︵困︒富こω一⑩○︒9器アミ旧. 三一一. ︒璽認⑩山留︶さらに違憲審査論への組み入れられる︒それによれば︑当該行為によって害される利益 覆︒冨こω50 刑事立法︵犯罪を創設する権限︶と憲法理論︵志田陽子︶.

(28) 早稲田法学会誌 第 五 十 一 巻 ︵ 二 〇 〇 一 ︶. 三一二. ︵当該刑事規制によって保護される利益︶は︑刑事規制を課す側︵州︶において立証されるべき﹁やむにやまれぬ利. 益﹂として考えられる︒ここまでのリチャーズの論旨を前提とするならば︑この﹁やむにやまれぬ利益﹂とは︑人々. が自分の具体的状況を知らない状態︵たとえば自分の党派的立場を知らない状態︶で︑社会生活と人生設計の上で不. 可欠のものとして選ぶであろう基本的な諸利益のこととなり︑この諸利益の﹁中立性﹂はこの意昧で担保されること. になる︒こうした中立性の原理によれば︑反中絶の活動家は︑自分たちの見解を実現するために国家権力を利用して. はならないことになる︵霞葺鑛震這濾&ρ訳書○ ︒⑩︶︒. リチャーズは︑︵表現の自由の領域と同様︶︑人間のプライバシーに関わる領域に干渉する実体刑法のすべてに︑こ. のような﹁厳格な審査﹂が適用されるべきだと論じている︒このことは︑この領域に関わる刑法すべての存在を否定. する議論ではない︒現在重大な犯罪として規定されているものの多くは︑当該行為に対抗する他者の権利を保護する. ことを目的としており︑この審査のもとでも存続すると考えられるからである︵困9畦房這○︒9睡曾謹腿︶︒. この主張を︑比較的狭く限定された場所志向型プライヴァシーを前提にして理解する場合には︑憲法上の権利カテ. ゴリーごとに分断された﹁刑事制裁の限界﹂に関する各論のうちの一つにとどまる︒しかし︑リチャーズのプライ. ヴァシー理解は︑いわゆる自律型プライヴァシーであり︑その妥当範囲は︑生活スタイルの選択︑人生設計の選択︑. 道徳観の選択など︑当該個人の人格的生存にとって重要なことがら全般に及ぶ︒リチャーズの議論によれば︑個人が. 行為主体である犯罪類型ー企業や公的立場にある者の犯罪とは区別されるものとしてのーについては︑ほとんど. の場合︑この厳格審査が妥当すべきことになりそうである︒つまり︑実質的には︑諸個人の活動の自由に対する刑事. 規制のほぼすべてに対し︑厳格審査を要求する結果となるのではないか︒︵この時点でのリチャーズの議論が結果的 にそのような内容に至るとして︑その帰結を認める余地もあるのではないかと思われる︶︒.

(29) ところで︑プライヴァシー権論を﹁2奉二・段Φ§&目8﹂との関わりで考察する場合には︑一九八六年︑連邦最. リミ①︶を見ておく必要がある︒この判決の内容には︑ 高裁判所によって出されたbo§築砺§ぎミ§簿判決︵ミ○︒¢o. 性行動の刑事規制からの自由という問題︵行為の選択の自由の問題︶と︑同性愛者という特定アイデンテイテイに対. する選択的な刑事罰適用の可否という問題︵平等の問題︶とが含まれていた︒連邦最高裁判所は後者の問題を敢えて. 考察の外に置き︑前者の問題を﹁同性愛者の性行為の自由が憲法上のプライヴァシー権に含まれるか﹂という問いへ. と限定加工した上で︑憲法はそのような権利を保障していない︵従って問題となったソドミー法は合憲︶と判示し. た︒多くの論者がこの判決を連邦最高裁判所のプライヴァシー権法理の破綻ととらえたが︑同時にプライヴァシi権 ︵43︶. に代わる新たな問題構成・権利構成を試みる議論や︑連邦最高裁判所の法理のレールを放棄して独自のプライヴァ. シー権論構成を試みる議論など︑議論は多様な展開を見せた︒その後︑現実的な課題として︑コロラド州の憲法修正 ︵44︶. ︵45︶. 問題が浮上した︒これは︑コロラド州が︑性的指向に基づく差別を積極的に是正することを︑各公的機関に対し禁止 ︵46︶. することを明記した規定である︒この修正を合衆国憲法における平等保護違反とする議論が活発となり︑一九九六年. に連邦最高裁判所はこの修正条項を平等保護に反し違憲とする判断を示した︒こうした流れの中で︑議論の焦点は刑 事制裁の限界としてのプライヴァシーの自由の議論から︑平等保護論へと移っていく︒. b. ﹁道徳的奴隷制﹂1自律基底的権利論と平等保護論との結合. ヒッティンガーは︑リチャーズの議論の骨子が定まった比較的早い時期の代表作を考察しつつ︑リチャーズの真の. 論点は︑﹁ジェンダーによる役割に関するより広い文化的戦争﹂にある︑と指摘する︵匹窪畠震這漣&鈍訳書 ︵47︶. ︶︒たしかに︑一九八二年の著作において示されたアメリカ禁酒法に関する洞察には︑刑法に対する文化戦争の一 o︒○・. 三二二. 局面としての読み解きがうかがわれる︒そして︑これ以降の著作では︑リチャーズ自身が︑この方向性をより明確に 刑事立法︵犯罪を創設する権限︶と憲法理論︵志田陽子︶.

(30) 早稲田法学会誌第五十一巻︵二〇〇一︶. 三一四. 打ち出している︒とりわけ︑一九九八年の著作では︑﹁文化戦争﹂の用語は使っていないものの︑﹁︵不公正な︶文化. ︒﹂$︶の議論は︑まさにこの関心を憲法理論化したものだと言え 的ステレオタイプ︵からの保護︶﹂︵困9輿房一80. 三易浮Φ﹂︵匹魯畦房. 一りり○︒. 黛︶すなわち﹁道徳的奴隷制目霞巴. る︒一九九八年の著作では︑プライヴァシi権というカテゴリーは使われなくなり︑乗り越えられるべき問題が︑文 化的構成物としての﹁構造的不正義鋒唐εぺ巴 ω一巽の運﹂︵すρ器9ま⑩︶として概念化される︒. この構造的不正義は︑宗教︑人種︑ジェンダー︑性的選好の領野で︑道徳的奴隷制目畦巴ω一巽︒蔓の伝統の無批. 判な強制によって道徳的自由が掘り崩されていることを正当化する尊厳低落状態を︑その中核としている︒そのよ. うな諸伝統は︑価値を下げられたまたは低落状態に置かれたステイタスを︑不正に︑生得的なものとする︒このよ. うなステイタスは︑あるクラスの人々を︑本質主義的なステレオタイプの観点から非人問化し︑またこれを根拠と. ︒一. して彼らの不可譲の権利を縮滅する︒⁝⁝彼ら︵各人︶は︑合理的かつ理性的に︑そうした基本的な不正義から自. ごりo. 自律︵に基. 由な観点から︑自らのアイデンティティを再創造する権利を有しているのでなければならない︒︵霞魯巽房 &令9︶. リチャーズはこうしてアイデンティティ重視型の文化構造論に主張の重心を移したが︑︽良心の自由. 器語貸﹂の理論の中で結合する︒リチャーズは︑﹁不適切な. づく諸権利︶の議論︾と︑これを各人に平等に確保するための︽寛容目中立性︵の原理に基づく疑わしい分類の審 査︶の議論︾は︑維持されつつ︑﹁道徳的奴隷制ヨ︒邑. 理由﹂または﹁不当な理由﹂に基づいて﹁基底的な諸権利げ量︒二讐けω﹂を否定することは﹁道徳的奴隷制﹂にあた.

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