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中国裁判事例研究(12)

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(1)

論  説

中国裁判事例研究(12)

中国裁判事例研究会

(代表者 楜 澤 能 生)

中国における罪刑法定

─挑戦,検討そして思索─

聞   志 強

但 見   亮

(2)

 刑事法治の建設と刑法学研究の道のりは,刑法理念を通じて不断に発展 する研究と革新の過程であった。1949年の新中国成立以来,中国における 刑事法治の建設に伴って,刑法学研究は已に60余年の輝かしい歳月を経て きた。その中で,時代の大波による激しい洗礼を受け,おぼつかない足取 りから次第に独立し,堅実な,そして重厚な歩みを遂げてきたのである。

 この時の流れの中で,刑法理念の認識及び研究もまた,全面的に成熟し つつある。とはいえ,それは決して,反復や衝突のないようなものではな い。とりわけ,中国は現在,利益分配の再構築,社会構造の調整,発展形

1) 中国(上海)華東政法大学法学院博士課程(刑法学),一橋大学研究生。

2) 一橋大学法学研究科准教授,早稲田大学比較法研究所招聘研究員。

 

中国における罪刑法定

─挑戦,検討そして思索─

聞   志 強

(1)

但 見   亮

(2)

Ⅰ 直近の中国の刑法領域における「新理論」の出現及び論争

Ⅱ 一つの前提的問題として─刑法の基本理念の内容の構造分解及び範疇の確定

Ⅲ  中国の視野における「新理論」の検討及び思考─罪刑法定原則の罪刑法定理 念への移行の困難

おわりに

(3)

態及び治安管理等等,様々な領域において重要な転換に直面しており,そ れぞれにおいて多重なリスクが併発し,多種の利益が交錯している。

 このような中で,理論にも様々なものが見られているが,国外の理論と 中国社会の実情とを如何に有機的に結合するか,そして煩瑣で喧噪する社 会の現実の中で如何にして独立した明晰な理論的思考を保つか,というこ とは,いずれも刑法研究者の思考を研ぎ澄まし,その知恵を試すものとな っている。

 「リスク社会」の視野の下で,中国の刑法理念の研究は完全無欠ではな く,自らの中に閉じこもることはただ残骸を守るのみとなる。このような 現実の中で,自らの根源を見据え,刑法の基本理念に立ち返り,それにつ いて反省的に考察を加えることはとりわけ必要であり,また切迫したもの ということができるだろう。

Ⅰ 直近の中国の刑法領域における

「新理論」の出現及び論争

 近年,中国の刑法学において一連の「新理論」が出現しており,理論及 び司法実務において議論を引き起こしている。その本質からいえば,これ ら所謂新理論は,いずれも刑法理念の「更新」によるものであり,その

「更新」はいずれも,少なくとも表面的には,刑法の適応性,柔軟性,展 開性そして社会性を重視し,個別事案における正義の実現を重視するもの である。それは事実上,刑法の根幹にある罪刑法定の原則及びその理念に 対して不断に衝撃と腐食を加えるものであるが,そのもっとも明確で直接 的な表現は,以下のような代表的論争において見られている。

1 .刑法の明確性についての論争

 罪刑法定原則の派生原則の一つに,刑法の明確性の原則がある。この明 確性原則を正確に理解し把握するためには,刑法解釈の助けを借りて,明

(4)

確な基準を打ち立てなければならない。この点について,「常情・常理・

常識」(3)を刑法解釈の合理性及び刑法テクストの意味の確定性の判断基準 とするべきであるとする主張が見られている。そこでは,「現代の法治は 突き詰めればヒューマニズム,良心による統治であり,決してこれを機械 的ルール適用としてはならない」のであり,「法治の実行においては,公 平を失してはならず,常理に違背してはならず,人情を顧みないことは許 されない」のであって,「我々の法律は人民の法律であり,およそ人々が 認めるところの常識・常理・常情からかい離した解釈を行ってはならな い」とされている(4)

 思うに,このような「常情・常理・常識」という判断基準を堅持しよう とすれば,それは「情・理・法」の三者の間で,また「法律」と「人民の 認識」との間で,衝突と矛盾を招くこととなるだろう。この点について上 記論者は,「法」のみを論じ「理」を論じないのは,実のところ「悪法も また法である」という思想を堅持するものであって,伝統的法学理論はそ の核心において反民主的であり,科学・人民・法治・ヒューマニズムに反 する,とする。さらに,情にかない理にかなっても,「法」に反する以上 は「法」に従わなければならない,とするようなスローガンは,そのよう な伝統的法治理論の根本的欠落の集中的表現なのだ,と主張し(5),それゆ えに,伝統的法学理論の主張(すなわち悪法もまた法であるとの主張)は,

つまるところ,法は少数者(立法者)の意思を体現するものであり,法治 とは少数者の多数者に対する統治である,と結論付けられる。そして,こ のような理論を堅持する法治は,その実践において必ず「(立法)権限が すなわち法」であり「(立法)権限は必ず法より大きい」という悪果を導 くことになり,必ずや人治そして専制を招く,とされるのである(6)

3) 以下,これを「三常(論)」と略称することがある。

4) 陳忠林「『常識,常理,常情』:一種法治観与法学教育観」太平洋学報2007年 6期。

5) 陳忠林「司法民主是司法公正的根本保証」法学雑誌2010年5期。

6) 陳忠林「『悪法』非法─対伝統法学理論的反思」社会科学家2009年2期。

(5)

 このような見解の実質を正しく理解し把握できるかどうかということ が,目下の中国の刑法理論において情・理・法が衝突する際,すなわち形 式的合理性と実質的合理性が衝突し,それらのいずれをも全うすることは できないとき,罪刑法定原則及び刑法の基本理念を堅持し遵守することが できるか,ということに対する一つの現実的かつ強力な挑戦となるのであ る。

2 .「リスク刑法」に関する激しい議論

 ドイツの著名な社会学者ウルリッヒ・ベックによる「リスク社会」の提 唱及びその名を冠する書物の出版以来,各国の学者は相次いでリスク社会 の視野の下で法学的思考及び研究を展開した。これは同様に,中国の刑法 理論と司法実務において継続的かつ強烈な注目を集めることとなった。し かし,それに対する認識及び思索が不断に深まるにつれ,リスク社会の視 野の下での刑法の位置づけという問題について,理論と実務のいずれにお いても少なからぬ議論及び分岐がもたらされ,賛成・追随の声と疑義・反 対の声が交錯し混合することとなった。ここでは,リスクの内包及び実質 を如何に把握するか,リスク社会及びその本質をいかに正確に認識する か,リスク社会の理論と刑法との関係をどのように見るか,リスク社会理 論に立脚したリスク刑法理念は罪刑法定原則及びその理念と符合するの か,などの諸問題が,社会転換期にある目下の中国において,それに直面 して解決することが避けられない難題となっている。

 これと関連するのが「敵対刑法」の導入である。これは,ドイツの刑法 学者ギュンター・ヤコブス教授により提唱された概念であるが,のちにこ の「敵対刑法」の内容は継承されていき,ついには「敵対刑法」という理 念の出現を促すこととなった。近年,「敵対刑法」理論は中国に紹介され,

刑法学者の注目を集めるに至っている。国内でもこれに対する姿勢は一つ ではなく,賛成するものもあれば反対するものもある。「敵対刑法」の基 本的内容及び実質を正しく理解し把握することは,我々がこの「敵対刑

(6)

法」理念に基づいて罪刑法定原則及びその理念に符合する正しい判断を行 うための前提となるだろう。

3 .理念変化の現実的表現( 1 )─司法による犯罪化

 この説の論者によれば,「司法による犯罪化,すなわち解釈適用による 犯罪化とは,それまで刑法の適用において犯罪として処理してこなかった 行為について,新しい解釈を用いてこれを犯罪として処理することを指 す」とされており,「実際のところ,社会生活事実の変化に応じて,刑法 条文に含まれうる内容の範囲内で,時代の客観的状況に応じた解釈により 得られた結果は,すなわち,刑法の真の内容が不断に変化した結果なので ある。罪刑『法』定とは『立法者』による定立のみを意味するものではな い。立法者の原意に変化がなく,条文上の文言に変化がなくとも,社会生 活事実の変化により,必然的に条文の意味は変化することになる。それゆ え,司法による犯罪化が,条文上の客観的意味からかい離していない限 り,それが立法の原意に違背するとしても,罪刑法定原則に適合すると考 えるべきである」と主張されている(7)。要するに,この見解は客観的解釈 及び実質的解釈の手段を借りて,刑法条文の可能的意味を探求し,以て実 務における司法権の拡張に根拠を与えようとするものである。もちろん,

これが罪刑法定原則及びその理念を遵守するものといえるかどうかは検討 が必要であろう。

4 .理念変化の現実的表現( 2 )─量刑合理性から逆方向に推論し た犯罪認定,とりわけその突出的表現として昨今注目される「量 刑による統制」理論

 この見解は,罪刑法定原則の実現を求める根本的な立脚点は罪刑均衡の 実現にあるとし,量刑の合理性及びその重要性を過度に強調する。例え

7) 張明楷「司法上的犯罪化与非犯罪化」法学家2008年4期。

(7)

ば,ある論者は,罪刑相応原則は罪刑法定原則に換わって刑法の最高原則 となるべきであり,合理性原則は刑法解釈の根本原則とされるべきであっ て,以て最終的に「常情・常理・常識」という判断基準に戻るべきだ,と している。量刑による統制論においては,「刑は罪により生じ,刑は罪を 制す,という罪刑の正方向の制約関係は罪刑の関係の全体かつ排他的な内 容ではない。このような正方向の制約関係という基本的な内容のほかに,

ある種の処理の困難な事例においては,量刑の妥当性の考慮から逆方向に 考察し,ドグマの許すいくつかの可能な選択から,妥当な条文及び構成要 件について解釈及び適用を行うことにより,量刑による犯罪認定の統制と いう逆方向の思考ルーチンが形成される」とされる(8)。つまり,まず一定 の行為について刑罰により規制する必要があるかどうかを検討し,それを 犯罪と認定するという前提の下で処罰の妥当性を考察した結果,どの犯罪 として認定するかが定まる,というのである。このような見解が罪刑法定 原則及びその理念に適合するかどうかについても,我々は慎重にこれを考 察し,分析を深めなければならないだろう。

 総じて,上記の議論及び問題の根源には,刑法理念の実質的内容の把握 が不正確であり,刑法の理論研究及び司法実務において罪刑法定の刑法理 念がしっかりと打ち立てられていない,という事実がある。単に法律テク ストの解読や刑法解釈技術などの側面で解決を求めても,それは対症療法 に過ぎず,病巣の根治には至らない。問題の解決を求めるならば,刑法テ クストという制度的側面及び刑法解釈という技術的側面を超えて,刑事法 治建設の根本的指向を把握しなければならない。罪刑法定という刑法理念 の深層の内容は,その重点中の重点であり,病巣を根治するすべなのであ る。

8) 梁根林「許霆案的規範与法理分析」中外法学2009年1期。

(8)

Ⅱ 一つの前提的問題として─刑法の基本理念の 内容の構造分解及び範疇の確定     

 正確な刑法理念を打ちたてこれを堅持するためには,まず刑法理念にお ける基本的概念及びその内容を明確にし,同時に刑法理念と刑法原則との 関係,そして刑法理念という範疇の作用領域をはっきりと確定しなければ ならない。

1 .刑法理念の内包の構造分解

 人類文明はその発展において3つのフェイズを経る。それは低次から高 次の順に,技術文明,制度文明そして観念文明である。同様に,「一つの 国家における法治建設の過程は3つのフェイズの内容に及ぶ。すなわち,

理念,制度そして技術である。理念は国家の法治を導く役割を果たす。そ こには一連の価値及び基底的なものが含まれ,正確な理念は法治建設の発 展を正確な方向へ導くことができる」(9)。刑事法治建設は中国の法治建設 の需要な構成部分であり,それは刑法理念による導きと発展から離れるこ とはできない。刑法の理論的紛争の背後には,刑法理念の理解についての 差異が突出的に現れているのであり,これに対しては,刑法理念の基本的 内容を正確に確定し把握することが,正確な刑法理念を樹立しこれを堅持 することの前提となるのである。

 では,刑法理念とはなんだろうか。この点について学説は様々であり,

一つの答えがあるわけではないが,思うに,刑法理念とはまず一種の観念 及び意識であり,刑法の各方面の内容に対する主観性の突出した理性的認 識である。それは刑事立法,刑法解釈及び刑事司法など様々な部分を貫き かつ統合するところの指導的観念であり,かつ刑法精神,刑法意識及び刑

9) 陳興良「当代中国的刑法理念」国家検察官学院学報2008年3期。

(9)

法観念の集中的体現であって,刑法の内在的価値訴求である。ゆえに,わ れわれは刑法理念を以下のように定義する。すなわち,それは人々が刑法 を制定,解釈または適用するために,刑事立法,刑法解釈及び刑事司法な ど様々な部分及び方面を貫いて顕彰かつ体現するところの,刑法の内包,

地位,性質,機能,罪刑関係等の刑法上の根本問題に関する基本的認識,

観点,見解及び立場についての理性的認識及び思想的凝結である。

 刑法とその他の部分との関係から見れば,刑法は社会防衛の最終ライン であり,保障法としての地位にある。そのため,その適用は必ずや慎重に 慎重を期す必要があり,そうでなければ,刑法はその「両刃の剣」という 効用がもたらす逆効果─つまり誤用による国家そして個人に対する侵害,

という結果をもたらすことになる。それゆえ,必ず正確な理念による誘導 がなければならない。それがあって初めて,確実かつ有効に,刑事立法,

刑法解釈そして刑事司法を含む刑事法治建設が正確な道を進むよう指導す ることができるのである(10)

 なお,これはまた,基本理念と基本原則との関係にも及ぶものである,

ということも指摘しておきたい。近年の中国における刑法研究において は,司法実務において不断に生じる罪刑法定原則突破の必要に応じて,一 連の「新理論」が創設されており,これらは往々にして刑法の基本原則の 御旗を高く掲げて提唱されている。とはいえ実のところ,刑法には多くの 原則があるが,原則は必ずしも基本理念を直接体現するものとは限らな い。原則というものは全面性を持つものだが,原則同士がその適用におい て衝突するとき,基本理念たる原則が終局性,至上性を有することにな る。それは正に,刑法の適用における混乱が不統一,不調和そして不正義 をもたらすことを防止ないし回避するためである。そして,刑法の三大原 則のうち,罪刑法定原則のみが,基本理念にまで高めうるものであり,刑 法の前の平等原則及び罪刑相応原則に対して,基本理念たる罪刑法定原則

(10) 蘇恵漁,聞志強「我国刑法理念研究的回顧与展望」(趙秉志,張軍,郎勝生 編「現代刑法学的使命(上)」(中国人民公安大学出版社2014年所収),13頁。

(10)

は,優先性,高位性そして至上性を有するのである。

2 .刑法理念の範疇確定

 刑法理念は,そのマクロ性と抽象性のゆえに,適用範囲にはある程度変 則性があり,把握が困難で,あまつさえ過度に汎化する趨勢がある。その 結果,刑法理念が担う機能も過度に拡大され氾濫することがある。この 点,確かに刑法理念にはその内包において漠然性と不確定性があるが,そ のことは,刑法理念の機能領域が無限界である,ということを意味するわ けではない。むしろ,そこには明確な領域的限界がなければならない。刑 法理念は,刑事立法及び刑事司法を導き統合するものであるが,刑法解釈 に対しても間接ないし直接的な指導及び制約の機能を果たすのであり,刑 法解釈は決して刑法理念の作用領域を離れるようなものではない。「刑法 の解釈は必ず刑法理念に指導されなければならず,解釈者もまた,刑法理 念の実現をその任とし,解釈の結論は刑法理念に合致しなければならな い」というとき(11),その意は,刑法解釈は必ず刑法理念の制約及び指導 を受け,そうして初めて,解釈は合理的な結論を得て人々に受け入れられ る,ということにある。

 より深層の意義からすると,刑法理念の作用領域は刑事政策の領域を含 むべきでなく,またそれに延伸されるべきではない。刑法理念は刑事法律 のテクストに基づくものであり,それは規範的基盤という属性を有してい る。これに対し,刑事政策は刑法規範のテクストを離れ,その外にあるも のであって,それ自体,政策的側面が非常に強いものである。そこでは政 策というものの基本的属性が保持されると同時に,権力に依拠してその合 法性を得ることが目指される。

 また,政策はそれ自体変化が多く,変化しやすく,あまつさえ変化を常 とするものですらある。そのため,刑事政策は刑法のテクストのように高

(11) 張明楷「刑法理念与刑法解釈」法学雑誌2004年4期。

(11)

い程度の安定性と連続性を持つことができず,むしろ,そこでは主観性が 鮮明で,随意性が突出しており,さらに政治性・段階性・功利性が称揚さ れることになる。

 このような刑法理念と刑事政策の関係を正確に把握するためには,その 前提として,刑法理念の条文的基礎─すなわち刑法と刑事政策との関係を 理解しなければならない。理論的分析からすれば,刑法と刑事政策には本 質的差異が存在している。刑法と刑事政策とは相補う関係ではなく,むし ろ反比例の関係なのである。

 ここで併せて指摘しておきたいのは,近年,国内の経済,社会など各方 面の迅速な発展と,国際情勢及び環境の変化に伴い,中国の刑事立法は明 らかに頻繁かつ急速になっている,ということである。97年刑法(12)の公 布以来,中国の立法機関は既に9度の改正を行っており(13),各則だけで なく総則も多くの改正が行われている。この点,学説には全国人民代表大 会常務委員会には刑法総則を改正する権限があるか(14),という議論があ る。また,少なからぬ改正は明らかに,共産党の打ち立てた寛大と厳罰の 両用という刑事政策,そして非理性的な民意及び社会世論などといった,

複雑な要素による影響を受けている。刑事立法の時代対応性という特徴も 一層あからさまになり,刑事立法が過度に刑事政策に対応するという傾向 はますます突出し,刑事立法の独立性という品格は損なわれ,刑事立法の

(12) 中国では建国後1979年に始めて「刑法」が制定され,その後1997年に全面改 正されており,それ以外の小規模改正(といっても改正条文数が50を超えるも のもあるが)とは区別して,1997年改正については特にこれを「新刑法」また は「97年刑法」と称することが一般的である(それに対して,1979年制定の刑 法は「旧刑法」または「79年刑法」などと称される)。

(13) 直近の改正は,2015年8月29日に中華人民共和国第12期全国人民代表大会常 務委員会第16回会議で可決された「中華人民共和国刑法修正案(9)」であり,

同修正案は同年11月1日に施行されている。

(14) 憲法及び立法法の規定により,「基本的な法」の制定権限は全国人民代表大 会にあり,常務委員会は「その他の法」についてのみ立法権限がある,とされ る。但し,改正権限についてはこのような法のヒエラルヒー(またはカテゴリ ー)による区別はない。

(12)

統一性,協調性そして謙抑性という基本的な要求に違背し(15),刑事政策 の機能を利用して,功利性,即時性を刑法改正にまで持ち込み,法律と政 策,刑法と刑事政策の関係の境界を明らかにしないどころか,それを混合 ひいては統合しようとすらしているのである。

 思うに,刑事立法と刑事司法を統合する刑法理念は,それ自体刑事法の テクストに基づくものであるという前提の下で,安定性と権威性を維持す るとともに正当性を求めることによって,その根本的な指導的役割を果た すべきであって,流動し変化する功利的な刑事政策との一致を保つことは できないし,また後者の変化や動向を制約または導くこともできない。ゆ えに,刑法理念の作用領域は,刑事立法,刑法解釈及び刑事司法とすべき であって,刑事政策の領域にまで拡張してはならないのである(16)

Ⅲ 中国の視野における「新理論」の検討及び思考    ─罪刑法定原則の罪刑法定理念への移行の困難

 近年,中国の刑法学説に,一連の新しい視点または見解が現れている。

それは罪刑法定原則及びその理念に対する有力な挑戦となっており,生ま れたばかりで足元もおぼつかない罪刑法定原則は,侵食と分解,ひいては

「包囲」され「転覆」されかねない現実的脅威に晒されている。罪刑法定 という理念の建設は,これまで紆余曲折を経て,現在さらに上述の各種

「新理論」の挑戦を受けているのである。

 思うに,その根源には,罪刑法定原則を正しく理解し把握していない,

そして罪刑法定という刑法の基本理念をしっかりと堅持し順守していな い,という事実があるのであって,我々はこれを慎重に研究し理性的に反

(15) 蘇恵漁,聞志強「法治中国視野下的刑事立法理念審思」(李少平,朱孝清,

盧建平編「法治中国与刑法発展(上)」(中国人民公安大学出版社2015年所収),

16頁。

(16) 聞志強「中国刑法理念的前沿審視」中国刑事法雑誌2015年2期。

(13)

省しなければならない。罪刑法定は,単に基本原則の一つとして刑法に規 定されているだけではなく,一種の刑法理念として,刑事立法,刑法解釈 そして刑事司法を指導するものでなければならない。根本的に,罪刑法定 という基本理念を順守することは,刑事法治建設を含む法治中国建設の前 提であり,そのキーなのである。

1 .権力への対応という問題

( 1 ) 罪刑法定の本質は犯罪認定において国家の刑罰権とりわけ司法 権を制限し,人権保障を実現することにある

 罪刑法定原則の立法規定が置かれ,司法者が「罪刑法定原則に基づいて

……」と称するならば,すなわち罪刑法定理念が樹立され遵守されている,

ということになるかと言うと,それに対する我々の答えは「否」である。

 97年刑法は,79年刑法の類推規定を廃止し,法治国家の普遍的コンセン サスたる罪刑法定原則を確立した。しかし,新刑法で罪刑法定原則が規定 されたことは,決して,罪刑法定原則が中国の学説及び実務において一致 した認識に達したことを意味するものではなく,むしろ,その理解と適用 においては,なおも激しい議論と分岐が存在しているのである。また,

人々の意識と観念に残る「類推の害毒」は,理論研究及び司法実務におい てこれを除去することが極めて難しく,とりわけ積極的犯罪認定や強力な 犯罪範囲の拡張といった司法積極主義思想は,今もなお巧妙に隠蔽された やり方で様々に現れている。さらに,犯罪化の重視と非犯罪化の軽視,そ して社会保護の重視と人権保障の軽視,という司法による犯罪化の傾向及 びその背後にある所謂「民意」の支持は,依然として軽視できない激しい 暗流となっているのである。

 司法による犯罪化の立場からは,「現在社会において非正式の社会統制 は弱体化し,刑罰への依存が益々高まっている」,そして「社会における 犯罪の危害は普遍的に重大化し,刑法の事前介入の必要性が益々高まって いる」などとして,「中国は今後かなり長期に渡り,司法による非犯罪化

(14)

に比して,司法による犯罪化が主流の趨勢となるであろう。司法機関は罪 刑法定原則の前提の下で,積極的に司法による犯罪化を推進するべきであ る」,との主張がなされている(17)

 この点について考察すると,そこに現れた本質的問題は,罪刑法定の視 野の下での権力への対応,という問題であることがわかる。つまり,国家 の刑罰権と個人の権利保障との衝突及び調和の問題である。これに対し,

罪刑法定の歴史的進化を見ると,罪刑法定原則を確立したその趣旨及び目 的は,犯罪認定における司法の恣意・専断を抑制し,以って人権を保障し ようとしたところにあることがわかる。とりわけ,強大な国家権力装置を 前にいかにも弱く小さな被告人の人権を,そして強大な国家権力に比して 極端に非対称・不均衡な弁護権と自衛権を保障しようとしたのである。

 形式と実質を統一した罪刑法定原則に基づけば,そこでは立法権と司法 権の双方向に規制が確立されると同時に,犯罪化の方向での犯罪認定が抑 制され,立法面と司法面のいずれにおいても人権保障に強力な根拠がもた らされる。このような論理からすると,罪刑法定原則が,法律に規定がな ければ犯罪として処罰できない,ということの意味は,必ずしも,法律に 規定があれば必ず犯罪として処罰しなければならない,ということになる わけではない。司法による犯罪化の理論は,国家の刑罰権は犯罪認定に慎 重かつ抑制的であるべきだ,ということを強調しながら,表面上「罪刑法 定原則に照らして」と述べるだけにとどまり,実質的には,刑罰権を積極 的に拡張し,刑罰権を顕現させている。そこで言われる罪刑法定は,まさ に表面的でスローガン化したものにすぎない,ということがわかるのであ る。

 形式上,明文の規定があるときそれに照らして犯罪認定と処罰を行う,

ということは自明であり言うまでもないことである。しかし,それはその ようなものすべてを犯罪として処理しなければならない,ということを意

(17) 張明楷「司法上的犯罪化与非犯罪化」法学家2008年4期。

(15)

味するわけではない。

 成文法の限界のために,国家刑罰権はその適用において,罪刑法定原則 がもたらす「文字による困難」に直面することは避けようがない。このよ うなとき,司法による犯罪化によるならば,刑法規範の文意解釈により可 能な意味を探求し,それを回避することができるようにも見える。しか し,このような客観的・実質的解釈は,刑罰権を拡張しようとする内在的 衝動のために,無制限の拡大解釈ひいては類推解釈の深みに落ち込んでし まうのである。「問題の危険性は,拡大解釈と類推解釈,そして実質解釈 と形式解釈といった学説的区分にあるのではなく,むしろ,可能な文意解 釈の範囲が限定できないため,類推解釈と拡大解釈が混同されたり,実質 解釈が無制限の拡大解釈に転化し,以って罪刑法定原則の制限を突破す る,というところにある」のである(18)

 罪刑法定原則の本質的要求は,立法及び司法の2つの角度から,人権特 に被告人の人権を保障することにある。立法と司法を結びつけるものは法 律解釈であるが,罪刑法定原則の要求によれば,「漠然とした法律につい て解釈を行うときは,被告人に有利な解釈を行わなければならない。蓋 し,法律解釈の命脈は,解釈の技巧にあるのではなく,明文の規定がない ときは必ずこれを罪としない,という勇気にあるからである」(19)。  この趣旨を法律解釈の領域において実現すれば,その根本的指向は,被 告人に有利であるという原則を貫き人権保障を実現すること,つまり,漠 然とした規定について法律解釈を行うときは,決して,国家の刑罰権の拡 大という見地から犯罪及び刑罰の範囲を拡大することなく,「疑わしさの 利益」を被告人に帰し,複数の可能な法律解釈の衝突に於いて被告人の利 益に傾斜した解釈を徹底する,という勇気と信念を持つことである。

 このように,司法による犯罪化は,表面上単に客観的解釈そして(超)

(18) 毛玲玲「犯罪化与非犯罪化的価値与辺界」華東政法大学学報2011年4期。

(19) 鄧子濱「『法学研究』30年刑法学論文之研究」(陳興良編「刑法知識論研究」

(清華大学出版社2009年)所収)。

(16)

実質的解釈の反映または表現に過ぎないように見えるが,それは「実は法 律の成文化の趣旨に対するある種の挑戦となっている」のであり,罪刑法 定原則及びその理念の根本的趣旨に違背するものなのである。そのため,

司法による犯罪化は,罪刑法定原則の遵守を掲げ,刑法のテクストにおけ る可能的な意味の探求を旗印にするものであるとしても,それは最終的 に,罪刑法定原則に反逆し,それを愚弄するものとならざるをえないので ある。

 更に深層において,罪刑法定原則の趣旨は,権力制約的な見地から,ま た積極的・能動的国家刑罰権の出動を否定する消極的見地から,国民の予 測可能性の安定を維持し,被告人の人権保障を実現しようとするところに ある。

 この立論において明確なように,罪刑法定は,国家の刑罰権への警戒と その抑制を保持することに傾斜するものであるが,司法が刑法解釈の技術 的手段により刑法テクストの可能的意味を探求することを強調すれば(事 実上それは刑法テクストの意味を「無限に」拡大するのと異ならない),それ は結局国家の刑罰権特に司法権を積極的に拡大することになり,罪刑法定 原則の指向と根本的に違背することになる。

 罪刑法定原則は消極的角度から国家刑罰権の制限を強調し,権力の制約 という角度から国家刑罰権の抑制を強調する。それは根本的に,積極的・

能動的な司法による犯罪化の合理性及び正当性を否定する。すなわち,司 法による犯罪化の背後には,国家権力至上・社会権力至上の刑法理念が突 出しているのだが,これは明らかに,終始国家の刑罰権に対する警戒と抑 制を保ち,犯罪化において国家の刑罰権の拡張を最大限制限しようとする 罪刑法定理念に背馳するものである。

 このように,司法による犯罪化の主張においても罪刑法定原則に依拠す ることが主張されてはいるが,その思考のあり方は,罪刑法定原則の重点 かつ趣旨である国家刑罰権の制限による人権保障からかい離し,国家によ る介入と犯罪化という方向性を強めるものである。このような積極・能動

(17)

主義的指向の下で,司法実務もまた,国家刑罰権とりわけ司法による犯罪 化に対して,罪刑法定原則が予測的に引いた最低ラインを突破することに なる。これは,その思考のあり方そして刑法理念のいずれにおいても,罪 刑法定原則に違背するものである。

 司法による犯罪化同様,近時中国において激しく議論されるものに「リ スク刑法」及び「敵対刑法」理論がある。このうち前者は,中国は既にリ スク社会となり,各種の不確定的リスクは不断に噴出しているのであっ て,法益について最大の保護を行うため,刑法は迅速にリスク規制に介入 すべきだと主張する。実質的には,それは刑法の社会保護機能は権利保障 機能に優先すべきだ,とする主張であり,刑法の規制対象を,実害(結果)

から(潜在的)危険に変化させ,刑法を「後置」から「前置」へと変え,

法律の保護する範囲もそれに応じて拡大・前置され,懲罰と応報から威嚇 と(一般的)予防へと,刑法のあり方を変化させようとするものである。

 後者は,「非人格体」たる「敵」の概念の導入により,早期の規範違反 意識(を持つ敵)に対して,刑法の懲罰を事前に介入させ,あるべき法規 範の状態の維持─すなわち法規範への信頼と遵守─を実現しようとするも のである。

 思うに,「敵対刑法」はその本質に於いてリスク刑法と共通するところ がある。「それは明確な処罰範囲を限定することができず,刑法の謙抑性 という価値指向に反し,罪責主体と罪責基礎にずれがあり,罪責の範囲を 過度に拡張しているのであって,伝統的な刑法の基本原則(罪刑法定原則,

罪責原則,罪刑均衡原則)と抵触する」とされるように(20),この2つはい ずれも,刑法の早期介入と,法益保護の前置を主張するものであり,単に 介入を要する領域及びその向けられる対象が,「リスク社会」下の「リス ク」なのか,「敵対刑法」における「敵」なのか,という点で異なるに過 ぎない。同時に,これらはいずれも,行為者を基礎とした社会防衛理念を

(20) 陳暁明「風険社会之刑法応対」法学研究2009年6期。

(18)

強調し,「新状況」下で社会防衛機能が人権保障機能に優先することを主 張するものであり,刑法の予防機能,とりわけ一般予防機能の重視という 点で突出している。それは国家の刑罰権が社会防衛と一般予防の強化の名 を借りて拡張することを促し,行為者を刑法の威嚇機能強化の道具とする ものであり,実質的に,行為を基礎とし,罪刑法定原則を順守する人権保 障理念に対する挑戦であり,法治に対する隠れたリスクをはらんでいる。

それは国家刑罰権の非抑制・不寛容の現れであり,罪刑法定の基本理念に 違背するものなのである。

 罪刑法定原則は,消極的防衛の角度から国家刑罰権とりわけ犯罪化権を 制限し,国家刑罰権が寛容と慎重を守ることを強調しているが,それは刑 法の人道主義の体現なのである。もし国家刑罰権への警戒を始終保つこと ができなければ,司法の積極・能動主義,功利主義そして重罰主義を再現 させる恐れがある。また,罪刑法定原則が形式的なものにとどまるなら,

それは法律専属主義の外観にとどまり,罪刑法定が顕彰するところの人道 主義と人権保障の実質を把握することはできない。特に,社会転換期にあ る中国においては,各種の利益階層や社会構造の分化と再構築が進み,

様々な理論が立ち現れる中で,後置性と保障性を有する刑法の特殊な地位 そして国家刑罰権の抑制の重要性は一層強まっている。このように後置性 そして保障性を有する刑法は,自己の消極的・抑制的立場を慎重に守り,

積極的介入ひいては過度の介入により法治と人権保障にリスクをもたらす ことを防止しなければならないのである。

( 2 ) 国家の刑罰権における立法と司法との境界には,司法における 法律遵守,及び形式理性と実質理性の統一という本質的要求が含 まれる

 罪刑法定原則は,法に明文の規定がなければ犯罪として処罰してはなら ないと主張する。この点,法というものは無から生じたものではなく,立 法者または立法機関の制定によるものであることから,それはつまり,司 法者又は司法機関は,立法者の制定した法を随意に突破してはならない,

(19)

ということを意味することになり,ある意味で,立法権と司法権の境界を 確定するもの,ということになる。

 しかるに,法治の運用と権力の使用の過程において,立法権と司法権と は決して,「井戸水は川の水を犯さず」安息無事である,というものでは なく,多くの内在的衝突と矛盾をはらんでおり,立法と司法の関係をうま く区分し把握できなければ,人権保障という終局目的の実現は困難になっ てしまう。

 立法者の認識能力の限界のため,立法は有限で遅れがちで,目まぐるし く変化する社会の現実に対し,抜け穴ができてしまうことは避けられな い。権力の区分と帰属という点からみれば,このような抜け穴は,立法活 動において立法者が改正により補てんするべきであり,最高司法機関が公 布する司法解釈などの技術的手段による強行的補てんというような方法に より,それを犯罪そして刑罰の範囲に組み入れるようなことをすべきでは ない。

 「以前のような単行法による立法方式であれ,目下の刑法改正案による 改正方式であれ,それらは法律の安定性を揺るがす可能性があるものの,

法律によって明文化するものであり,司法による犯罪化によりもたらされ る刑法の不確定性に比してみれば,その消極的効果はすこぶる小さい。よ り重要な事は,立法による法律改正という方法は,実質的に,司法権によ る立法権の侵食を回避し,成文法の曲解を防止する,ということであ る」(21)

 司法の立法遵守というのは決して無意味なスローガンではなく,確実に 実現され一時も疎かにせず遵守すべき理念なのである。多くの場合,権力 の傾向は明らかであり,それは決して,罪刑法定原則に固執して許しがた い危害行為を放置するようなことはない。そこにおいて,司法機関及び司 法権は常に「急先鋒」となるのである。

(21) 孫万懐「以危険方法危害公共安全罪縁何成為口袋罪」現代法学2010年5期。

(20)

 司法による犯罪化の主張は,実のところ,実質的解釈の理論及び司法解 釈の技術的手段を用いて,刑法テクストの可能な含意の探求を切り口に刑 罰権を拡張せんとするものであり,「その解釈の触角は既に立法領域にま で至り,実質的に裁判官による立法となっている。司法による犯罪化は,

それが別の形で現れたものに過ぎない」のである(22)

 このような司法の挙動は,事実上罪刑法定原則における立法権と司法権 の区分に反するものとなっている。司法はこのような積極・能動主義を縮 減すべきであり,立法遵守の基本理念を固く打ちたてなければならない。

さもなければ,それは司法の立法不尊重,ひいては潜脱を招くことになる。

 この点,例えば「最高人民法院の交通事故案件処理における法律の具体 的適用に関する若干の問題についての解釈」(法釈[2000]33号)の第5条 第2項の交通事故の共犯に関する規定(23)は,明らかに,刑法総則第25条 の共犯に関する規定(24)を超越ないし違反し,共犯に必要な共同故意の要 件を改め,故意と過失の結合による共犯成立を可能とした。それは表面的 には,解釈技術による法律解釈であるが,実質的には,司法解釈の名を借 りて刑法テクストを突破する脱法ないし「違法」行為なのである。

 この他にも,例えば近時,司法機関はマフィア的組織犯罪やテロ・過激 主義犯罪,薬物事犯,そして贓物事犯など特定の故意犯罪の処理におい て,行為者の認識の要素,とりわけ「明確に知りながら」という要素の認 定基準を徐々に弱め,漠然とした随意なものとする傾向が見られている。

そこでは,「明確に知りながら」との法律の規定が,徐々に「知っていた に違いない」そして「知っていたと推定される」さらには「知り得た」と

(22) 孫万懐「罪刑関係法定化困境与人道主義捕足」政法論壇2012年1期。

(23) 「交通事故発生後,組織体の管理責任者,車両の所有者,請負人または乗車 者が,運転者に指示して逃走させ,よって被害者が救助を受けられなかったた めに死亡したときは,交通事故の共犯として論ずる」。

(24) 「共同犯罪とは,二人以上の共同故意犯罪を指す。二人以上の共同過失犯罪 は,共同犯罪を以て論じない。刑事責任を負うべきときは,それぞれの犯した 罪により区別して処罰を行う」。

(21)

いう程度にまで拡大されている。

 これは上記犯罪についての公訴機関の証明基準を低下させ,証明責任の 一部を被告人側の負担に転換するに等しいというだけでなく,罪刑法定原 則から派生するものとして普遍的コンセンサスのある明確性原則,無罪推 定原則,疑わしきは無罪にの原則,そして国家を代表する公訴機関が犯罪 の成立を立証する責任を負うとする挙証責任原則など,法治の基本原則を 破壊するものである。そこでは,司法権とりわけ訴追権への制限の緩和な いしその欠落という様相が突出し,司法権を国家主義的立場へ過度に傾斜 させ,被告人の合法的権益を害し,罪刑法定原則に集中的に表現される被 告人の人権保障とその利益保護という根本的趣旨の実現を阻むものとなっ ている。

 ただ,中国の司法解釈及び司法実務を鳥瞰すれば,このような現象は特 例ではないことがわかる。そこにおいて見られる司法権による立法権の越 権的行使には,権力の明確な境界線の消滅と立法の不尊重が突出している が,その本質は,罪刑法定原則の突破,損害ひいては瓦解なのである。

 このほかに,2015年にある基層検察機関は,同級法院に公訴を提起する 際,「幼女買春罪」は「汚名の罪」で「特権の罪」である(25),とする学説 と社会の批判に鑑み,訴追罪名を強引に「強姦罪」に改め被告人を起訴し た。そしてさらに驚くことに,最高人民法院の関連の責任者は,メディア でこれを支持するとの声明を出しているのである。

 このとき,事件の一審段階では「刑法改正案(9)」(26)はまだ可決され

(25) 中国の刑法には,4章(「公民の人身の権利及び民主的権利の侵害」)に「強 姦罪」(236条)が規定されると同時に,6章(「社会管理秩序妨害」)に「幼女 買春罪」(360条2項)が規定されていた(後者は2015年の第9改正で廃止)。

とりわけ,幼女に対する強姦罪は重く罰せられるなど,その法定刑には大きな 差があり,また論理上,後者は「強姦ではない」とされることから,権力・財 力のある者は強姦罪とされずに幼女買春罪とされている,という批判があると ともに,幼女に「売春婦」の汚名を着せるものだ,という批判も見られていた。

(26) 97年刑法の成立後,9回にわたって行われた刑法改正は,いずれも元の条文 に対する「修正案」(例えば「1,『刑法〜条を以下のように改める…』または

(22)

ておらず,立法において「幼女買春罪」が廃止されていないため,関連の 事件は刑法の規定に照らして「幼女買春罪」により起訴・審理されなけれ ばならない。最高司法機関である最高人民法院がこのような声明により態 度表明したことは,明らかに立法に対する甚大な不尊重であり,罪刑法定 原則における司法による立法の厳格な尊重という基本的要求に根本的に反 するものである。

 ある行為が犯罪を構成するかどうかの根本的な根拠は,(重大な)「社会 危害性」または「刑事違法性」(27)であるが,果たしてこれらについての立 法者と司法者の判断基準は同一なのかそれとも異なるのか,さらにそれは 一つに連なるものなのか,それともそれぞれ独立のものなのか。それは中 国の刑事立法及び司法活動そして刑法研究において,常に人々の注目と論 争を集める問題であり,同時にある面で,中国の刑法理念の立場の選択,

つまり形式的(合)理性と実質的(合)理性の衝突を集中的に表現するも のである。

 形式的合理性と実質的合理性は,「法は限りあれど情は尽きず」という 矛盾によりもたらされる。この矛盾に対し,形式的理性の優先を強調すれ ば,法律に規定のある犯罪のみについて懲罰し,社会的危害性が重大でも 法に規定がないものは犯罪と認定できない,ということになり,形式的合 理性を獲得するものの,実質的合理性が失われることになる。逆に,もし 実質的理性の優先を強調するならば,法律に規定がなくても社会的危害性 が重大な行為はこれを犯罪として処罰する,ということになり,実質的合 理性は得られるが形式的合理性を犠牲にすることになる。

2,『刑法〜条1項の後に以下の条文を加え,刑法〜条2項とする』など)と いう形式で行われている(但し可決後には,修正案はそれぞれ該当する個所に 書き加えられ,刑法全体が新しくなる)。

(27) いずれも原語。「社会危害性」は概ね実質的違法性を意味し,「刑事違法性」

は同様に構成要件該当性を意味する。そのため,例えば正当防衛なども,違法 性阻却自由ではなく,「社会危害性が排除される行為」と記述されている(高 名宣)。

(23)

 このように,形式的(合)理性と実質的(合)理性との間には,一見シ ンプルであるが実は解決の困難な取捨選択がある。その実質は,社会的危 害性と刑事違法性の関係の位置づけ,及びそこから推論されるところの,

形式的理性と実質的理性の衝突の下での刑法理念の位置づけの問題である。

 思うに,現代法治国家において立法権と司法権が明確に区分されその境 界が引かれるという前提の下において,立法者と司法者には,犯罪認定の 判断において,その思考の論理構成及び順序に違いがある。

 立法者は,より高次・広範な視点に立ち,慎重な比較と取捨選択及び歴 史的経験の蓄積という基礎の上で,抽象,帰納そして概括を行い,行為を 類型化,定型化,モデル化するのだが,その際に依拠する根本的基準は社 会的危害性の判断である。社会危害性の有無・大小は,実質的(合)理性 に基づく前提的判断であり,その後,合法で正当な立法手続きを通じて,

刑事違法性が付随的に発生・形成され,それにより形式的(合)理性が貫 徹されて,実質的(合)理性と渾然一体化する。

 これに対し,司法者は,立法者により法律が生じたのち,初めて有効か つ明確な法律規範の根拠によって相応の判断を成しうる。そこでは,立法 の尊重の主要な基準は形式的判断,すなわち,行為(類型)に刑事違法性 があるかどうかに置かれることになる。要するに,刑法規範という依拠の 有無を判断し,その後にはじめて,社会的危害性の有無・大小という実質 的(合)理性の判断を行うことになる。

 この点に鑑みれば,罪刑法定による権力区分の基本的要求に厳格に従 い,「権力分化の状況下で,立法と司法を厳格に区分し,立法者は実質判 断を行い,司法者は形式判断を行う」(28)べきであり,立法と司法はその職 務に専念するべきである。すなわち,立法者はまず(かつ主に)実質判断 を行い,実質的(合)理性を至上とすべきであって,司法者はまず形式判 断を行い,形式的(合)理性を優先しなければならない。罪刑法定に内包

(28) 陳興良「当代中国的刑法理念」国家検察官学院学報2008年3期。

(24)

される司法の立法遵守という論理の延伸として,まず法律専属主義が堅持 されなければならない。それはある意味で,形式的理性を固守する刑法の 立場であると同時に,中国の学説において多くの学者が,実質的理性に対 する形式的理性の優先という刑法理念を提唱する所以なのである。

 このように,司法実務において,罪刑法定原則を維持・遵守し,人権の 保障を実現するには,事件処理の際,我が司法機関及び司法業務人員がま ず形式的(合)理性により刑事違法性の有無についての判断を行い,それ が確認された後に初めて,実質的(合)理性に基づく社会危害性の重大性 についての判断を行って,その際社会危害性の不在やその重大性の不足が あるときは,それを犯罪の範囲から取り出す,ということが必要になる。

上記のような階層的な思考フィルターによる論理的判断を経てはじめて,

最終的に一定の行為を犯罪と認定できるのである。決して,まず社会的危 害性の判断を行い,そのような社会的危害性の前置的判断に符合するよう 強引に罪名を探し,以て犯罪認定及び刑罰の必要性,合法性を証明しよう としたり,先験的判断の正当性を確証しようとしてはならないのである。

罪刑法定原則を司法実務において確実に行うことの核心及びそのキーは,

司法が立法を尊重しこれを遵守すること,すなわち,形式的理性の実質的 理性に対する優先,そして形式判断の実質判断に対する優先を堅持するこ とにある。

2 .罪名の明確性及び刑罰の明確性の優先的選択及びその衝突の協調

( 1 ) 道徳判断理論はその刑の確定性を優先するゆえに犯罪認定をそ の侍従とするか

 罪刑法定原則の派生原則の一つに,刑法規定の明確性の原則がある。明 確性原則は,漠然性回避の原則とも呼ばれるものであり,それは「犯罪を 規定する法律条文は明確でなければならず,人々が違法行為の内容を明確 に知り,犯罪行為と非犯罪行為の範囲を正しく確定し,規範に明文で規定 されない行為は同規範の適用対象とはならない,という基本的要求を示す

(25)

ものである」(29)

 とはいえ,正にハロルド・バーマンが言うように,「人類の深謀遠慮の 程度及び主語論理能力の限界のために,広大な社会の錯綜した複雑な状況 のすべてを規定し尽すことはできない」(30)。しかしそれでは,罪刑法定原 則の明確性に対する強大な需要及び内在的要求を満たすことはできない。

蓋し,罪刑法定原則は文言形式に重きを置き,文言規範の確定性を追求す るものであるが,言語・文字は抽象的,多義的,可変的であり,かつその コンテクストなどに左右されるということもあって,その内包の正確な理 解には多くの困難がある。

 このように考えると,絶対的明確性は存在しえず,漠然性と確定性との 間には越え難い隔たりもない,ということがわかる。明らかなのは,刑法 の明確性について機械的・教条的な理解はできないし,刑事立法の明確化 を過度に追求し,刑法解釈の必要性や重要性を軽視乃至は無視してもなら ない,ということである。

 刑事立法を明確化しようとすれば,その現実的補てんとして,刑法解釈 が介入することは避けられず,刑法解釈は自らの地位と合理的な発展の余 地がなければならない。とはいえ,刑法解釈は無目的でもなく随意のもの でもなく,刑法テクストに依拠するという基礎の上で,罪刑法定原則及び その理念による指導と制約を受ける。それは,明確性の実現のための必然 的要求なのである。

 このような刑法テクストの確定性を追求するためには,刑法条文の基本 的含意を明確にしなければならない。それは刑法解釈の手を借りて行われ るが,ではその刑法解釈については,何を基準として,刑法の内在的含意 の確定性に到達ないし実現しているかを判断するのだろうか。

 昨今,合理性原則は刑法解釈の根本原則であって,罪刑法定原則に換え

(29) 杜里奥・多瓦尼(伊)「意大利刑法学原理」(陳忠林訳,法律出版社1998 年)24頁。

(30) 哈羅徳・伯曼(米)「美国法律講話」(陳若桓訳,三聯書店1988年)20頁。

(26)

て罪刑相応原則を以て最高原則とすべきであり,合理性の判断においては

「常情・常理・常識」を基準とすべきだとの主張がある。同主張では,「常 識・常情・常理は刑法の天然資源であるが,刑法が真・善・美を求めるな らば,必ず常識・常情・常理化しなければならない」し(31),「所謂『常 識・常理・常情』とは,ある社会で一般民衆が長期にわたり承認し,現在 も誤りとは証明されていない基本的経験,基本的道理,そして当該社会の 民衆により普遍的に承認され遵守される是非の基準であり,行為準則であ る」(32)とされる。

 ではこの「常識」「常理」「常情」はどこに求めればよいのだろうか。

「それに対する答えは,自らの本性の中に,自らの精神の中に,自らの良 心の中に求めよ,というものである」(33)。では良心とは何か,というと,

「良心とはほかならぬ,社会の基本的な是非観,善悪観,価値観の各人の 心の中での反映であり,その社会の常識・常理・常情に対するその人の認 識である」とされる(34)。ここでは,これを道徳判断理論,として帰納し ておこう。そうすることで,この問題を道徳と法理の関係,そして犯罪認 定における道徳の役割に転換することができ,そこで行う判断も比較的シ ンプルなものになる。

 ①論理的視点から分析すれば,道徳が行為準則であり,行為の正当性根 拠であることは否定しえないし,不道徳な法律が不正義であることも否定 できない。ただ問題は,立法の正当性根拠たる道徳は,具体的な法律適用 の根拠またはその核心的根拠となりうるか,ということである。もし司法 者が道徳的な法律を忠実に執行しようとすれば,道徳基準による評価を適 用しようとするのは自然なことである。とはいえ,刑法が権力の制約に多 くの力を注ぐとき,このような基準は,その目標の実現に何の助けにもな

(31) 馬栄春「論刑法的常識,常情,常理化」清華法学2010年1期。

(32) 陳忠林「『常識,常理,常情』:一種法治観与法学教育観」太平洋学報2007年 6期。

(33) 陳忠林「『悪法』非法─対伝統法学理論的反思」社会科学家2009年2期。

(34) 陳忠林・前掲注26。

(27)

らないどころか,司法権の不断の拡張を招くことになる。それゆえ,道徳 的評価と罪刑法定主義を如何に統一するか,ということこそが,最も重要 だということがわかる。

 ②常識には,道徳的基準の不明確性と不統一性という根本的欠陥があ る。常識は是非の基準であり,行為準則であって,「良心」の中に求める べきものとされる。しかし翻って見ると,「良心」とは是非・善悪の価値 に関する観念であり,つまり常識である,ということになる。これは明ら かに循環論の誤りを犯すものであり,論証としては成立しえない。

 確定性原則それ自体から考察すれば,道徳判断理論はその内容の周縁が 明確でなく,そのため,任意に使用すればこの原則自体に反することにな る。その内容は抽象的・概括的でとらえようがなく,適用基準は曖昧模糊 としている。それは表面的には人民大衆の集合的概念であるが,実質的に は抽象的な「(類の)個体」の道徳的価値判断を以て,事実判断および法 律判断に変えようとするものである。もしそれを司法実務において強行す るならば,司法の不統一,不協調,不一致ないし不公正といった混乱を引 きおこすことになり,罪刑法定の基本理念に反することになる。

 本質において,「三常」論は典型的な常識主義刑法観であるが,「常識主 義刑法観の構築する衡量基準にはとるべきところはなく」,「衡量基準が不 明確であるのはむしろ常識主義刑法観の克服しがたい病巣である」(35)。  上述のように,「三常」論者の主張は,「最も基本的」な「是非観,善悪 観,価値観」,「良心」,「一般民衆」,「基本的経験」,「基本的道理」,「基本 的感情」といった類の表現にあふれている。そして,これらの概念及びそ の内包の確定についてはというと,かなりゆるやかで漠然としたものにと どまっている。それは,「常識主義刑法観の主導者を魔術師に例えれば,

『常識』または『常識主義』は,魔術師の手にある不思議なステッキとい うことになり,それは想像どおりの物も,または想像もしなかった物も変

(35) 温登平「反思常識主義刑法観」中国刑事法雑誌2013年9期。

(28)

幻自在に出現させることができる。『常識』または『常識主義』の極端な 不確定性は,実のところ,今日の常識主義または常識主義刑法観の,刑法 学理論および司法実務における命運を予言するものである」(36)と揶揄され ることになる。

 これらの批判は,罪刑法定原則における明確性の要求によるものであ り,それは少なからず合理的なものということができる。しかし,この明 確性の原則もまた,道徳評価理論と同様の弊害を含んでいる。すなわち,

それは一定の合理性を持つと同時に,周縁の不確定性を伴っているのであ る。道徳的判断には一定の存在の余地があるが,ただそれは必ず罪刑法定 の基本理念に符合することを要するのであり,罪刑法定の基本理念に反す る道徳的評価は不合理なものと言わざるを得ない。

 ③道徳的判断を行う際には,「公論」と「民意」の関係を正しく処理す ることが必要である。道徳的評価の理論は常識主義刑法観,司法の民主化 そして司法の大衆化理論の典型的現れであり,道徳的評価を過度に重視す れば,それは罪刑法定原則の下での立法権と司法権の区分に違背し,司法 機関に過大な不相当の機能を負わせ,ひいては司法権による立法権潜脱の 衝動を高めることになる。

 現実的角度から見ても,それは中国の政治の実際とその権力枠組みに反 するといえるだろう。「中国の憲法によれば,人民代表大会制度及び『一 府両院』(37)制度により,人民民主は主に権力機関及び立法機関により完成 されなければならない。これを強化することは,現代の政治体制のよりよ い発育のためにも極めて重要である。そこでは政府の異なる部分がその機 能において区分され,権限において分立される,ということが強調されて いるが,そのことは決して,区分された部分がすべて民意を表現・伝達し 吸収する機関となる,ということを意味するわけではない。それはともす

(36) 温登平・前掲注28。

(37) 国務院(政府)と法院・検察院を指す。これらは「権力機関」たる人民代表 大会の下にあるものとされている。

(29)

れば,民主化された司法が政治部門の立法権を犯す,ということになりか ねないからである」(38)

 民意の極端な追求というのは,決して道徳評価理論の当初の趣旨ではな い。とはいえ,道徳評価理論は容易に,司法実務に対し,民意追求の武器 を与えることになる。法律と人民意思との一致,ないし民意との縫合を求 めることは肯定すべきであるが,「民意」は決して「公論」と同一ではな く,それらには本質的な違いがある。法律は「公論」の体現であって,そ こでの民意の追求は限定的で抑制的でなければならない。蓋し,民意は一 元ではなく多元的で,変わりやすく不安定で,非理性的ひいては無判断の 群衆的無意識だからである。「群衆には五つの特徴がある。それは衝動的,

可変的かつ焦燥的,暗示を受け易く軽信的,情緒において誇張的かつ単 純,変質かつ保守的なのであって,道徳的ではありえないのである」(39)。  このようなことから,法律の理解及び適用,とりわけ人民の権利,自由 ないし生命の「はく奪」に重点を置く刑法の理解及び適用において,所謂

(群衆)民意によることは許されない。蓋し,「民衆の意思は,犯罪の認定 と量刑の根拠たる実体法と手続法を通じてすでに体現されており,事案に 係る民意を再度強調するならば,論理の上で,民衆の意見により民衆の意 思を否定することになるからである。仮に,刑事法治において民衆の意思 が体現されていないとしても,民意を満足させるという方法で法制度の不 合理を改めることはできない。蓋し,民意の考慮を許せば,それは裁判官 の司法行為を徐々に法律の制約から遠ざける,という結果を招くからであ る」(40)

 仮に,刑法が公衆の承認と民意の支持を得ようとすることが,必ずしも 法治への違背と罪刑法定の破壊につながらないとしても,「民意の吸収は 単なる民意への妥協と譲歩を意味するのではなく」「民意の過剰な重視は,

(38) 蘇力「法条主義,民意与難辨案件」中外法学2009年1期。

(39) 勒厖(仏)「烏合之衆」(馮克利訳,広西師範大学出版社2007年52頁)

(40) 孫万懐「論民意在刑事司法中的解構」中外法学2011年1期。

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