第四章 コールバーグ理論とディスクルス倫理学
第1節 コールバーグ理論の基礎的理解
ハーバーマスのディスクルス倫理学は、カント以来の認知主義倫理学の伝統 を継承するものである。その意味において、ピアジェ理論を基礎として、それを 更に発展させたコールバーグの認知理論について明確にすることは、ハーバーマ スのディスクルス倫理学の明確化にもつながると考える。
1コールバーグ理論の特質
コールバーグが、道徳1生の発達理論を構築した背景には、次のような事情が ある。すなわち、当時のアメリカにおける道徳教育の現実である。その当時のア メリカにおいては、「伝統的な道徳教育」と「価値の明確化による道徳教育」の 大きな流れがあった。しかし、コールバーグにとって、この二つの流れは大きな 問題を孕んでいると捉えられた。伝統的な道徳教育においては、それはしばしば、
ある特定の価値の注入主義に陥ると考えられた。すなわち、コールバーグにとっ て、ある一つの価値を彼の言う「徳目袋」から取り出して教育していくことに、
あまり多くの望みを期待していなかったのである。このことは、コールバーグの 戦争体験ということが影響しているように思われる。
また、伝統的な道徳教育を批判して登場してきた、もう一つの流れである価 値の明確化の道徳教育は、相対主義に陥ると考えられたのである。このような相 対主義のために、現代のさまざまな問題が露呈してきていると考えられたのであ
る。そのため、コールバーグは、曖昧で抽象的な道徳的言葉である「善さ」など を道徳教育の前提におくことはできなかったのである。そこで、このような抽象 的な概念の代わりに、万人に共通に備わっているであろう「道徳性」という概念 にその前提を求めようとしたのである。すなわち、「この『道徳性』が万人に備 わっていて、その発達に人間共通の法則や順序があるとすれば、道徳教育は、そ の『道徳性』の発達を援助・促進すればよい」(1)ということになると考えられた のである。そしてこのような道徳性を前提とした道徳教育は、個々人の感情や民 族や時代や社会等による相違を考慮することなく、普遍的なものとして捉えるこ
とができると考えられたのである。すなわち、道徳教育の大きな問題点である価 値の相対主義を克服することができると考えられたのである。なぜならば、コー ルバーグは現代が価値相対主義の時代であるので、さまざまな困難があり、この 困難を普遍主義と相対主義の統合によって解決していこうとしたのである。
そこで、コールバーグは、道徳判断の過程に注目しながらも、その判断はそ れを導く心の構造によって左右され、その心の構造は、人の成長によっていくつ かの段階があり、その段階の発達を図ることが道徳的判断の発達を図ることであ ると考えたのである。このような考え方のもと、コールバーグは道徳教育の目標 を次のように措定したのである。
私は、デューイやピアジェの説に従って、道徳教育の目標は、一人ひとり の子どもの道徳判断と道徳能力の「自然の」発達を促進し、それによって、
子どもが自分自身の道徳判断を用いて自分の行動をコントロールできるよう にすることであると主張します。道徳教育の目標を、決められた規則の教授 ではなく発達の促進と規定する場合の魅力は、それが子どもになじみのない 行動様式を押し付けるのでなく、子どもがすでに向かいつつある方向へさら に一歩前進するのを援助することを意味している、という事実にあります(2)
コールバーグは、このような考え方のもと、道徳判断の発達段階を措定する ために、まず、人々の道徳判断の構造を調べようとする。そのために仮想の道徳 的葛藤場面を作成し、主人公が取るべき行為と、その理由を詳しく尋ねるのであ る。彼は、このような方法を75人の被験者に提示し、その葛藤にどのように対 処し判断するかを15年間追跡調査することによって、道徳性の発達段階モデル を作成したのである。そして、コールバーグは、このような調査結果をもとに、
道徳性の発達段階の特質を次の4点に規定したのである。(3>
①段階とは、思考と選択における質的に異なる構造と形式であって、その 内容とは区別されるものです。
②段階は「構造を持った統一体」すなわち、思想の組織化された体系です。
個人の道徳判断のレベルは、葛藤場面や規範が違っても一貫しています。
③段階は、一定不変の連続性を示しています。極端な衝撃的経験を除くあ らゆる条件下で、段階の移行は常に前進的で、後退はありません。個人は、
段階を飛び越えることもありません。発達の速度に違いはあるにしても、
文化による発達の段階の違いはありません。
④段階は「階層的に統合されたもの」です。高次の段階の思考は、低い段 階の思考をその内に包含もしくは統合しています。可能な最も高い段階で 思考し、また最も高い段階を好む傾向があります。
すなわち、コールバーグは、道徳問題に対して示される人々の思考の違いが、
年齢と共に一定の順序に従って現われてくることを示し、上記のような構造的特 質を持つことを明確にしたのである。このようなコールバーグの道徳性の発達理 論について、内藤は次の5点をあげその特質をまとめている。(4)
○ 発達段階における各々の段階の内容は、一つの全体として構造化された ものである。
○ 前の段階の要素は次の段階のより広い範囲の枠組の中で、新たな意義を 与えられ、新たな形で意味づけられる。その結果、前の段階では解決でき なかった問題を安定した方法で解くことができるようになる。各段階は、
そのような過程つまり階層的統合の過程という形で一続きの発達の過程と して順序づけられる。
○ どのような環境(文化的条件)であっても人間は発達段階に従って同じ 順序で変わっていく。段階の飛び越しや退行という現象はない。
○ 道徳性の発達段階は、道徳判断の内容ではなく、その形式に注目するこ とによって得られたとされる。
○ より高い道徳性の段階への発達によって、倫理学的にも道徳的判断はよ り優れたものになる。
コールバーグの道徳性の発達理論は、このような道徳判断の構造的発達の把 握として特徴:づけることができるが、このコールバーグ理論には従来の道徳教育
と比して、どのような意義があり、そしてどのような限界があるのか、次にこの ことについて考察する。
2コールバーグ理論の意義と限界
コールバーグの理論は、その道徳性の発達の構造化という枠組みによって、
ハーツホーンとメイによる品性教育研究の結果の公表によって衰退していた道徳 教育に対して、道徳理論上の新たな根拠づけを与えることができたのである。コ ールバーグは、道徳性において重要な要素は人々の行動の背後にある考え方であ るという立場から、人間の道徳判断に共通の発達段階が見られることを明らかに したのである。このことにより、人々の道徳教育に関する基準が明確化されたの
である。
すなわち、コールバーグは、彼の緻密な思考実験を通して、人の道徳的思考 には、成長とともに次第に複雑化し、統合されていく一定の思考パターンがある ことを明らかにしたのである。そして、それらは、道徳性の発達段階を構成して おり、その発達段階は国や文化の違いをこえた普遍的なものであると主張したの であった。さらに、道徳性の発達段階が高くなるとともに、道徳問題をより広い 視野から捉え、より適切に処理することができるようになり、また、思考と行動
の結びつきが強くなることも示したのである。このようなコールバーグの考え方 を考慮に入れるならば、道徳教育というものは、あれやこれやの価値を子どもに 内面化する必要はなく、この法則にしたがって、低い段階から高い段階へと上昇 させていくことであると考えられるようになったのである。
このような考え方により、伝統的な道徳教育の価値の押し付けの問題や、価 値の相対化の問題に解決の方向を示したのである。すなわち、ある価値に視点を
あてた今までの内容重視の道徳教育から、判断の形式に視点をあてた形式重視の 道徳教育への転換を図ることができたのである。このようなコールバーグ理論の 意義について、村井は、コールバーグ支持者にとっては、という前置きをおいて 下記のように述べているが、筆者が考えるに、このコールバーグ理論の意義は、
日本の道徳教育の現状を考慮したとき、非常に大きなものがあると考える。
この考え方は、少なくともこれに同調する人々の間では、大人や教師、あ るいは国家が勝手に「善い」と決めた徳目を子どもたちに押し付ける危険性 がないと見える点において、はるかに民主的であり、その意味で優れている
と自負されている。また価値主義との比較では価値主義での「価値づけ」の 訓練がとかく価値の主観主義や相対主義におちいり、容易にそれを越ええな いという不安に対して、ここでは、子どもたちによる「価値づけ」が、もっ ぱらそれ自体普遍的である「道徳性」の発達として行われるという点におい