第三章 コミュニケーション的行為の理論と教育的意義
第2節 コミュニケーション的行為の理論の教育的意義
野蛮からの解放を目指した啓蒙が新しい野蛮を生み出してしまった。また、社 会は、「鋼鉄の橿」となってしまった。これらの言葉で象徴される社会は、アド ルノやホルクハイマー、ウェーバーの見た社会進化のペシミスティックな結末で あった。すなわち、理性の限界を見てしまったのである。しかし、ハーバーマス は、これらに抗してコミュニケーション的行為の理論という概念を駆使して、批 判理論を展開したのであった。コミュニケーション的行為とは、さまざまな利害 や相違を抱えた人々が、相互に離反し合うのではなく、たがいの一致点を話し合 いによって了解し合い、そこに新しい関係を打ち立てていこうとするものである。
このことによって、目的合理的行為では為し得なかった新たな社会統合を目指し ていこうとするものである。そこに、さまざまな成員たちの共同によって社会を 変革していこうとするハーバーマスの理論的思惟を見ることができるのである。
さて、それでは、ハーバーマスの社会理論であるコミュニケーション的行為の 理論を教育という場でどのように適用できるのであろうか。本節では、この問題 について考察を加えていきたい。
筆者が、コミュニケーション的行為の理論の教育的行為への適用を図る際の基 本的パースペクティブは、「教室という社会も発達する」(59)という言葉で象徴 的に表現できると考える。従来の教育観では、「個性を大切にする」とか、「一人 一人を大切にする」というようなスローガンが声高に叫ばれてきた。すなわち、
個々人の能力をいかに伸ばしていくかということに視点が置かれてきた。そのた め、学校教育においては、個々人の学力をどのような方策で高めていくか、個々 人の心をどのような方策で育てていくか、という個人に視点をあてた、技術的方 法論がその中心を占めていたように思われる。しかし、このことは、教育現場に おける教師と子どもの関係を目的合理的理性のもと、主体一客体関係に押しとど めることになってしまったのである。
このように、今までの教育観においては、個性尊重という美名のもと連帯なき
個人主義が展開され、そのことに対して、教師も何の疑問を感じることなく、そ れに遙進してきたように思われる。そのため、第1章でも述べたように、子ど
も相互の関係についてもあまり関心が払われず、子ども相互の関係性も希薄なも のとなってしまったのである。そして、そのような教育の帰結として、いじめ、
登校拒否などのさまざまな学校病理が発現したと考えられた。
そこで、この様な問題点を考えた場合、第1章でも述べたように子どもの関係 性に視点をあてた教育観が必要になってくるものと考える。このように子どもの
関係性に視点をあてた場合、そこには、子ども個々人の発達を個別的なものとし て捉える発想から、子ども同士の関係性の質を高めることによって、子ども集団 の質を高めることへの発想の転換が重要になってくるであろう。そしてこの様な 集団の質を高めることを通して、子ども個々人の能力も高まってくるものと考え る。この様な発想の転換により、子ども個々人に視点をあてた「子どもの物象化」
という現象を避けることができるようになると考える。
このように考えてくると、「連帯なき個人主義」の追求ではなく、「集団の質を 高める」ことの重要性が認識できるのではないかと考える。ここに、筆者が、新 しい道徳授業のパラダイムを「教室という社会も発達する」と規定した所以があ る。このように、教室という空間を一つの社会と設定することにより、ハーバー マスが、アドルノ、ホルクハイマーやウェーバー等の合理化論の狭さであった目 的合理性を乗り越え、社会統合の新しい枠組を設定した、コミュニケーション的 合理性に基づくコミュニケーション的行為の理論の教育的意義が明確になると考
える。それでは、この「教室という社会も発展する」というパラダイムにおいて、
コミュニケーション的行為の理論は具体的にどのように適用していったらいいの か、その基本的立場を明確にする。
1教育的行為の再考 成果志向的行為から了解志向的行為への転換一
今までの道徳教育の中心は、すでにある価値を子どもたちにいかに効率よく伝 達してくかにその中心があった。それは、価値伝達という成果を志向する教育で あった。すなわち、今までの教育観は、第1節の3の(1)にもあるように、ハー バーマスの行為類型による戦略的行為モデルであったと考えられる。ハーバーマ スによれば、戦略的行為は、行為類型としては、コミュニケーション的行為と同 じく社会的行為である。しかし、戦略的行為は、行為者自身の成果をいかに達成 するか、自分のねらっている行為成果をいかに他者に対して達成させるかという 点で、自己中心的な行為である。すなわち、今までの道徳教育においては、価値をいかに子どもたちに効率よく伝達するかという目的合理性に一元化された授業 構造であったのである。そこで、その効率性のために、一時間の授業が教師によ って一方的に設定され、教師の設定した枠組みから逸脱する恐れが少ない「心情」
を中心とした授業構造が展開されてきたのである。
このような戦略的な行為モデルによる道徳授業は、価値の伝達という目的合理 性により、子ども相互の相互行為という視点を欠いたものになってしまう。その ため、このような行為類型が長期にわたって継続されるならば、ハーバーマスも 言うように(60)、社会を担っている人と人との関係、すなわち、子どもと子ども の関係は孤立したものとなってしまい、子ども相互の関係性も希薄なものとなっ てしまうであろう。
そこで、21世紀を目前に控え、価値多様化の時代において、周りの人や社会 との関わりにおいて、どの行動や考え方が今の自分にとって大切なのかを、子ど も同士が意見を交わしながら自分達で獲得していくためにも、押しつけでない教 育、すなわち、了解志向的なコミュニケーション的行為による道徳授業への転換
が必要である。
それでは、この様な成果志向的行為から了解志向的行為への移行はどのような パラダイム転換により可能となるのだろうか。以下この点について考察を加える。
(1)主体一客体関係から主体一主体関係への転換
現在の学校教育においては、教育行為の目的が、前述したように子ども個々人 に帰せられていた。そのため、教育内容を子ども個々人にどのように伝達するか、
理解させるかといったように、その技術面の効率性に視点が置かれていた。そこ では、教育のねらいとするものは、知識の伝達方法の追求という技術的方法論に のみ視点が置かれてきた。そのため、教師と子どもの間には、歴然とした線が引 かれていたのである。すなわち、教師は子どもに教育内容を教える存在であり、
子どもは教師から教育内容を教えてもらう存在であったのである。すなわち、教 師と子どもの関係は、主体一客体関係であった。この様な教師一子ども関係にお いては、教育における意図というものは、教師サイドのみであり、子どもの意図 というものは考えられてこなかったのである。すなわち、教師が教育内容につい てどのような考えを持って行なうかに視点があてられ、今現実に子どもたちが、
教育内容に対してどのような考えを持っているか、教育内容に照らして、子ども のたちの現実はどうであるのか、今子どもたちにとって何が必要であるのかとい ったことは、考慮されていなかったのである。そして、このことに教育現場の教
師は、何ら疑問をもっことなく、教育的行為において、子どもの意図性というも のに対してはほとんど認識がなかったと言えよう。このことに対して、渡邉も次 のように指摘する。
今日教育を困難にしているのは、理念を求めることにあるのではなく、必 要性にのみ自らの正当性を託して、自らの行為の妥当性を問題にできないこ となのではないか。さらには行為の妥当性を問わないで、子どもへの現実的 な接近のみが追い求められていることなのではないか。それは自らのあり方 を問わないで、子どもを単に操作の対象とみなすことにすぎない。それはも はや「実践」ではない。技術の合理的な行使に他ならないのである(61>。
このように、従来のパラダイム、すなわち主体一客体関係の枠組では、子ども 個々人の自律性の育成は困難である。そのため、現在のように教育の困難な時代 にあって、教育の諸問題の抜本的解決は不可能であるように思われる。そこで、
教育そのものを目的一手段の構造から切り離し、教育を主体一主体関係の枠組と して捉えることが必要であろう。そのような枠組への転換によって、技術的行為 としての教育的行為からの転換が可能になるものと考える。
さて、このように教育の構造を主体一客体関係から、主体一主体モデルへの転 換と考えた場合、重要になってくるのが、子ども相互の関係のあり方の問題であ る。仮に、主体一客体モデルからの転換を主体一主体モデルと考えてみよう。こ の場合、この教育モデルでは、今までの教育の客体に過ぎなかった子どもから、
教育の主体者である子どもへの転換を意味する。すなわち、教育において、子ど もの意図というものを重視していこうとするモデルである。その場合、教育にお いて、子どもは教えられる存在から自分で学び取っていく存在であると考えられ る。それでは、どのようにして子どもたちは学び取っていくのか。それは、子ど もたちが、さまざまな状況において、他者と関わりながら学び取っていくしかな いのである。このように考えた場合、この主体一主体モデルには、次のような意 味がある。すなわち、この主体一主体モデルの根底には、子ども相互がそれぞれ の意図に従いながら、お互いに主体一主体として関わるとともに、教育的意図を 持った教師と関わり合うという構造である。この様な構造をモデル図で表わすと、
渡邉も指摘するように、「[大人(教師)一『子ども(生徒)一子ども(生徒)』]
一対象(世界)」という構造になるのではないかと考える。(62)すなわち、「主体 一主体モデル」には、このように、「教師と子どもの主体一主体関係」及び「子