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新島襄の教育 : 智育、徳育、体育

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新島襄の教育 : 智育、徳育、体育

著者 森永 長壹郎

雑誌名 新島研究

号 106

ページ 84‑105

発行年 2015‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014632

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新島襄の教育

―智育、徳育、体育―

森 永 長壹郎

はじめに

この論文の意図するところは、新島襄の教育である。その基本は彼がアー モスト大学で受けたリベラル・アーツ教育であり、その中心をなすものが、

智育、徳育、体育の3本柱であった。智育では開発主義を取り入れ、生徒を して自ら学ばしめ、徳育ではキリスト教精神による自己犠牲や奉仕を中心と した「与える」精神を養い、体育では健全な身体に宿る健全な精神を植え付 けた。このリベラル・アーツ教育は人格形成を目指すものであった。

同志社英学校の教室や寮生活での生徒の姿は、まさに当時の学校生活を物 語っている。生徒たちは自己実現のために新島や教師とぶつかりながらも尊 敬の念を忘れず、上級生は下級生の面倒を見る姿がある。生徒が新島をどう 見ていたのか、新島が生徒にどう接したのか。本論に描かれているのは生徒 側から見た同志社英学校の姿である。

Ⅰ.時代背景

1865年に新島襄が上陸したニューイングランドのボストンはピューリタ ンの本場であった。ピューリタンの信仰において聖書を読むことには大きな 意味があり、「神の意志はすべて聖書の中に明らかであり、人間生活にとっ て本質的なことはすべて聖書の中に」(「アメリカ教育史Ⅰ」『世界教育史体 系』17、p.275)あると考えられた。礼拝への出席、安息日を守るなどは

「ピューリタン倫理」(同上、p.282)と呼ばれ、信仰の妨げとなるような

「肉的・世俗的な快楽や感情をひきおこすようなことがら(演劇・宗教的音

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楽・恋愛についての詩など)は禁じられていた。質素・困苦に対する忍耐・

勤勉・貯蓄・権威への服従などの倫理を彼等が守ったのも、聖書がそれを要 求している」(同上、p.283)と考えたからであった。

1620年に清教徒が北米に移住すると、1636年にはハーヴァード大学

(Harvard College)が設立された。ここでは「牧師養成を希求する熱意」(同 上、p.21)があった。また牧師だけではなく、「将来この共和国において指 導的役割を担う青年を教育する学校」(同上、p.22)であることを意図して いた。ここではラテン語やギリシャ語が重要な科目であった。なぜなら学位 授与資格の中に「学生は、旧約聖書および新約聖書の原典を読み、ラテン語 に翻訳し……」(同上)という項目があったからである。しかし17世紀末に なると、海岸地方の商人たちは林業、造船業などによって次第に富と力を蓄 えていった。商人の台頭により、実際的教育−「航海術、測量術、簿記など の商業的・数学的科目および、フランス語、スペイン語などの現代語が中心 になったカリキュラム」(同上、p.34)は古典中心のグラマ・スクールと比 較したとき対照的である。1751年にはベンジャミン・フランクリンと仲間 によりフィラデルフィア・アカデミー(Philadelphia Academy)が設立され、

「実際的、科学的な学習計画」(同上、p.38)が創られていく。その第2期と なる1778年には新島が学ぶフィリップス・アカデミー(Phillips Academy)

が創設された。その教育目的は第1に「純粋な敬虔と徳行の助長であり、第 2に書き方、算術、音楽、話し方とともに、英語、ラテン語、ギリシャ語の 教授を行い、第3に実際的な幾何、論理学、地理学を教えること、第4には 将来機会や能力が認められるような、そして理事者たちが命ずるような、そ の他の一般教養や科学あるいは言語を教えること」(同上、pp.161〜162)と なる。とはいえ、アカデミーが古典語学習を重視していたことも明らかであ る。一般に著名なアカデミーでは「カレッジ準備コースが全組織の中核であ り、新しい立場でラテン・グラマ・スクールの伝統をむしろ積極的に継承し た」(同上、p.165)のであった。このように19世紀のアメリカはリベラル

・アーツ教育を重視し、専門教育の基礎を固めたのである。このような背景 のもと、アーモスト大学(Amherst College)は1821年にマサチューセッツ 州に創立された。アメリカのリベラル・アーツ・カレッジの世界においては

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「豊かな教養の習得」(同上、p.271)が重視された。

アーモスト大学は、「基本的に『幅広く、かつ深く、しかしまだ職業的で ない』知的探求の場であり、同時に新しい人格形成の場」(同志社大学人文 科学研究所編『アーモスト大学と同志社大学の関係史』、p.87)である。テ キストをよく読み、「自分のことばで語れ」(同上、p.89)といい、「徹底し た分析と比較」(同上、p.90),「読書力と思考力」(同上、p.93)を身につけ るよう訓練する。

新島はこのような環境の中でフィリップス・アカデミーを卒業後、アーモ スト大学に入り、3年間学んだ。彼の「教育観はもとよりキリスト教観、或 いは理想国家像もこの3年間でほぼ固まったと思われる程アーモスト・カレ ッジから大きな影響を受け」(井上勝也「同志社の創立者 新島襄の生き方

・考え方(建学の精神)」『!儻不羈なる書生ヲ圧束せす』Doshisha Spirit Week

講演集2012、p.137)、更にアンドーヴァー神学校で学び、1874(明治7)年

に帰国した。

新島が帰国した日本は明治維新を経て、明治新政府は「差し迫った近代化 や産業化」(天野郁夫「帝国大学の時代」『大学の誕生』(上)、p.18)を進め ていた。帝国大学の成立は「専門の育成を目的」(同上、p.32)に官費で専 門学校が設立された。絶え間なく増大していく「専門人材への需要からすれ ば、育成、供給数は明らかに不足していた」(同上、p.60)。帝国大学にはア メリカのリベラルアーツ・カレッジのような「本格的な教養教育」(同上、

p.112)のための配慮はほとんどなかった。

このような時代背景の中で新島襄の教育の理念は1888(明治21)年に出 された「同志社大学設立の旨意」に見られるように、教育は「決して一方に 偏したる智育にて達し得可き者に非す」(『新島襄全集』1, p.132,以下『全 集』とする)、「基督教主義を以て徳育の基本」(同上)とするという。「徳育 智育二つながら並行して、決して偏僻なる教育に陥らざる」(同上)ことが 主張された。これが新島のいう知徳併行主義である。デイヴィス(J. D.

Davis)は新島の教育について「日本国の為に徳育、智育、体育の三者を兼 備せる、有為の人物を薫陶養成し、健生なる品格と実力ある智識を供へたる 是等有為の青年に依て日本の開明文化を確立」(J. D.デビス「新島先生を懐

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う」、『新島研究』No.54、p.4)しようとしたのだという。新島の大学設立の 目的は、技術や才能のある人物を育てるだけではなかった。その旨意は欧米 の文明の基礎がキリスト教にあり、それによって国民が教化されてきた事を 挙げ、日本でもキリスト教主義に基づいた教育によって徳性を磨き、品性を 高尚にするというものであった。当論文では創設当初の同志社英学校の教育 がどのように行われていたか、卒業生や生徒の初期の証言を用いて述べた い。

Ⅱ.知育

1875(明治8)年8月に出された同志社英学校の開業願いに列記された科

目は次の通りである。

英語(綴字、文法、作文)、支那学(史類本朝史、支那史)、算術、点算、度 量学、三角法、地理、天文、窮理、人身窮理、化学、地質学、万国歴史、文 明史、万国公法、文理学、経済学、性理学、修身学(『全集』1、p.4)

この項では授業が英語で行われたこと、上級生が下級生を指導したこと、

生徒は大いに予習し教師をいじめたこと、教師と生徒が教室で取っ組み合い の喧嘩をしたことなど驚かされる。授業では新島をいじめたものの、人間新 島への尊敬の念は失っていない。

英学校での授業のやり方は啓発主義とか開発主義という表現が使われ、授 業はすべて英語で行われた。日本人も皆英語で教えた。当時の生徒である岸 本能武太は「教科書は無論の事総て英語のを用ゐたのであるが、教場の用語 は教師も生徒も総て英語でやった」(『創設期の同志社−卒業生たちの回想録

−』、p.17、以下『創設期の同志社』とする)と言う。岸本は更に「数学も 歴史も地理も総て英語でやった」(同上)と回想している。当時の「稽古」

(同上、p.18)の様子を見ると、「失敗すれば直ぐに席が下り、成功すれば席 が上る」(同上)ので、「級末から三席に昇進した」(同上)と述べている。

岸本によれば「学生の間には随分競争心が強くて、皆負けぬ気になって先き を争ふた」(同上)と言う。一方、次のような回想もある。吉川潤二郎は

「学問は出来無くとも人格の高い人が重く用ゐられ……教室に於て、亦試験

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に於て、良い成績を得様等と思ふ人は一人も無い」(同上、p.185)と回想し ている。

森次太郎は先生に教えてもらったのではなく、自分で勉強したので「学校 の御世話にはならなかった」(同上、p.161)と言って学校を去って行った。

彼は夏目漱石の『坊ちゃん』が1906(昭和39)年に発表されたとき、松山 にいる渡辺政和にこの本を読むように勧め、「『山嵐』というは、いかにもよ く君に似ている。もしまだ見ていなければ、是非一読すべし」(近藤英雄

『坊っちゃん秘話』、p.103)と手紙で知らせた。渡部は「小説は面白いが、

山嵐は面白くない。でたらめが多過ぎる。しまいになるほど気に入らない」

(同上、p.105)と怒っている。渡部は松山中学校に31年間勤めた数学の教 師である。森は同志社で弘中又一と同級生で、弘中が松山を退いた「翌年か ら3年間、松山中学の英語教師を」勤めた(同上、p.84)。弘中は坊っちゃ んのモデルと言われている。

池田寅次郎は英語を読むことに没頭した。辞書も引きまくったので「英和 大辞典は三年間用ゐて居る間に、何時と無く角が丸くなった」(『創設期の同 志社』、p.140)という。

生徒は非常に勉強した。松尾音次郎は次のように回想している。4時半に 夕飯が済むと暫く散歩をし、5時半ころには勉強にかかる。「用達し」(同 上、p.225)に出て見ると、どの部屋もランプがついていて皆勉強している ので、すぐに部屋に入って劣らず勉強した。

生涯を社会福祉事業に捧げた留岡幸助にとって同志社の教育で一番良かっ たことは、上級生が2、3人の下級生を受け持って導いてくれたことで、会 計もやってくれる上級生もいた。「出来れば同室して、運動にも教会にも一 所に行くという風で、上級生が下級生の一切の世話を」(同上、p.258)し た。吉田清太郎も「1年生丈けには、夜自修時間に皆集って、上級生が来て は質疑ニ応じて呉れた」(同上、p.269)と言っている。

当時、同志社英学校の生徒がよく勉強することは知られていた。夜10時 には消灯するので、特に勉強したいものは、押し入れに入って灯をつけた り、教室へ行って勉強した。皆が寝た後、広い教室でやるのは面白くないの で、起床は規則によると午前5時半だが、真夜中の「1時、2時に起きても

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はや后前であるとした。……冬の寒い時、2時頃に起きて井戸の水で頭を洗 ふて櫛づると、櫛ニ氷ニなって落ちる」(同上、p.299)のを知ったと語るの は松波仁一郎である。

1884(明治17)年入学の安部磯雄は「同志社は創立以来演説を正科」

(『社会主義者となるまで』,p.64)として第3学年から課していたと言う。

第1の理由は同志社の教育がアメリカを模範にしていたからである。アメリ カやイギリスでは小学校時代から演説の練習をする。演説が教師に指導され ると、発音についても注意される。日本人には「不明瞭なる発音」(同上、

p.65)をする人が少なくないが、「言語は極めて明瞭に且つ歯切れよく発音 されねばならない」(同上)と安部は主張する。第2の理由は、「同志社が基 督教宣伝を目的として創立された」(同上)ので、基督教的文明を我が国に 輸入するにあたり「同志社が演説の練習に重きを置いたのは何の不思議もな い」(同上)とは安部の意見である。演説では「弁論と思想」(同上、p.67)

を考えていたので、読書を必要とした。4年生になると図書館の英書を借り て読んでいる。演説では美辞麗句を並べるのではなく、できるだけ平易な演 説を理想とした。聴衆に理解してもらい、且つ面白いものでなければ学問の 無いものに感動を与えられないからである。漢語を避けて、出来るだけ日本 語を用いるように心がけたという。

熊本バンドの横井時雄は、岩手県水沢市出身の山崎為徳の思い出を語る。

山崎は熊本洋学校で学び、漢文の才があり、英文学も良くできた。4年勉強 して開成学校へ転校した。彼はクリスチャンだが、「伝道と云ふよりも教育 と云ふ方面で貢献した」(『創設期の同志社』、p.266)。横井は、同志社が宗 教面のみでなく学問も盛んになったのは山崎の力がかなり与っていると見て いる。山崎は肺病で24歳の時に亡くなった。食事のほかはいつも書物を見 て運動はしない。新島先生の家で養生し、先生の家で亡くなった。

はじめ

松波仁一郎は、大西祝について述べている。大西は最上級生で教員の代理 として、下級生に「代数、幾何を教へた。最も頭の良い人で、文学、哲学は 勿論、数学にも秀て居た」(同上、p.303)。試験のとき残りの時間が3分し かなく、書く時間が足りないので、松波が大西に「口頭で説明してよいか」

(同上)と尋ねると、大西は「よし」(同上)と言うので説明した。すると満

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点がもらえたという。試験では学力を知れば十分であったのだろう。熊本洋 学校では、ジェインズ(L. L. Janes)がすべてを1人でこなしていただけ に、上級生を使って下級生に教えさせ、しかも成功した例である。同志社で も上級生が下級生に教えていたが、大西の例はその1つである。これは助教 法(monitorial system)といわれ、上級生が助教生(monitor)として下級生 を教える学習指導法である。

山本徳尚は「先生を困らすために図書館で非常に皆勉強した。教科書に無 い事を勉強して、教場へ出てむづかしい質問を」(同上、p.55)して先生を へこませたと語る。例えば、藤田[愛二]先生についてである。先生は体が 丈夫ではなく、おとなしく授業が下手な先生であった。クラスの生徒は図書 館で大いに勉強して、ひどく先生を困らせた。先生は苦しんだ挙句、とうと う病気になり明治22年に亡くなられた。生徒が「先生を殺したと云ふ訳で も無いが、確に先生の病勢を重らせたのは」(同上、p.55)生徒の罪にもあ ったと言う。

岸本能武太が語る森田[久万人]先生は「授業が下手であるのみならず、

頭脳が透明でないらしく、説明が曖昧なのは」(同上、p.23)常々生徒に不 満であった。数学を習ったとき、「不平の上に不平が積んで遂に排斥運動と なり、1年の終りになって森田先生は学校を辞せられる事となった」(同 上)。しかし「其夏休みの中に山崎先生が逝かれたので」(同上)森田先生は 同志社に留まる事になった。

沢辺四郎のケイディー(Chauncey M. Cady)の思い出である。「ケジー先 生は厳格と云ふよりは非常に意地悪るの先生で、教室へ1分遅れると内側か ら鍵をかけて入れてくれなかった」(同上、p.93)という。後年日銀総裁と なる深井英五が思い出すケイディーは「評判が悪く、生徒から非常に攻撃を 受けた。……自分が一番良いと思う事を強いてさせて、一向斟酌しなかっ た。……先生の流儀を押し付けられた為に、同志社の学生の英語の智識は正 確になった」(同上、pp.124〜125)と回想する。三宅驥一はケイディーは

「英語の教授法が非常に厳格で、上手であった。……他の先生に2年かかっ て教えられる事をケデー氏は1年で立派な力をつけた」(同上、p.156)と述 べている。

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これひろ

蔵原惟郭は不破唯次郎について「先生は英語の教師で……非常に喧嘩好き で、生徒を圧制的」(同上、p.108)にしたので、先生と生徒で1学期の内に 2、3回は教室でつかみあったり、組打ちをやったりしたと語る。生徒の中 には並外れて出来るものがいて、先生も閉口したらしいときもあった。解釈 の間違いで咎めあい、「自由の空気が教室内を極度迄に」(同上)緊張させ周 りの生徒には愉快であったという。教室の中は無秩序の所もあったが、「此 溌剌たる気分は、精神修養、学術研究の良い指導者であったから、学科も進 み勉強も出来た」(同上)と言う。

吉川潤二郎は次のように回想している。会話の教師のビールは気短かで、

生徒が一寸間違ふと、 You are foolish. (同上、p.189)と怒鳴るのが常であ った。蔵原が会話で間違いをやったら、 You are foolish. と怒鳴られた。

蔵原も短気だったので、怒鳴られると同時に自分の席を飛び出し、「是でも

your[you are]foolishか、九州男児蔵原の面を見い」(同上)と、自分の顔

を先生の目の前に突き出すが早いか、ビール先生の襟元を掴んで組討ちが始 まった。他の生徒は面白がって見物していた。新島が蔵原に書いた手紙があ る。卒業を目前に、蔵原は病気になり熊本に帰らざるを得なかった。新島は 手紙の中で、蔵原はクリスチャンでその志操高尚、目的は幽遠で「間然スル 所ナシ」(『全集』3、p.218)と褒めながらも、「君ノ性タル過激ニシテ恰モ 烈火噴水ノ如シ、君ニシテ之ニ加フルニ沈思熟慮ヲ以テセサレハ、他日事ヲ 為スノ日ニ於テ或ハ大ニ誤ル所アランカ、……君ニシテ爾後弥意ヲ注ギ一言 一行ダニモ思フテ而シテ後言ヒ、慮テ而後行ハゞ君ノ事必ラス成ルヲ期ス可 シ」(同上)と忠告し、励ましている。阿蘇山の噴火を目の前に育った蔵原 であった。

志垣要三は訳読の教師で乱暴な人であった。生徒の読み方が悪いと無暗に 罵詈雑言を発した。「其読方は何だ、も一度顔洗て来い」(『創設期の同志 社』、p.189)、「寝惚けるな」「うどんを一体何杯食た。余り喰ひ気に夢中だ から読めないのだ」、「ふざけるな」(同上)などと、遠慮なく言うので、生 徒も黙ってはおらず、「何時己れがうどんを食べたか言て見ろ」「どっちが寝 惚けて居るのか」(同上)と口答えするので、授業はそっちのけで教室は

「喧嘩や、組打ちで、先生と生徒の立ち回り」(同上)の場となった。見てい

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るものには随分面白かったようだ。

清水泰次郎が語るのは広津友信が校長心得であったときのことである。清 水は常に広津と意見の衝突ばかりしていた。清水は校長の非を挙げて不平を 唱えた。グリーンは清水の意見に賛成したが、アルブレヒト(George E.

Albrecht)はどうしても清水が主張することがわからないので、遂に喧嘩と なり、殴り合いまでやった。このために清水は「職を免ぜられて、其後6年 理事の職にあった」(同上、p.168)。教員の職は解かれたが理事になった人 もいたのである。

村上小源太は新島先生から天文学を教わった(同上、p.63)。

小崎弘道が新島先生から福音書の調和について教わったときのこと。新島 がアルフォードの注釈を用いているのを知った生徒がその注釈を読み、また 他の注釈書を読んで議論を持ちかけた。時には1つの問題について、そのこ とが当然であると主張し、先生の賛成を得た。すると反対の意見を出して先 生をいじめた。しかし「先生は忍耐を以てこれニ激動せらるゝ事なく、益々 勉強して授業ニ勉められた事は大ニ感ずべき」(同上、p.233)ところがあっ たという。森田久万人は熊本洋学校のジェインズの教育法は健康な肉体と人 格形成を強調し、「教師に必要なのは学識の高さなどより熱意とエネルギー」

(ノートヘルファー著『アメリカのサムライ』、p.190、以下『サムライ』と する)とした。浮田和民は、「先生の才は学才に非ず……人各々能あり、不 能あり、是の如きは固より先生の長所に非ず。……故総長は衆教員に教師た るの才なり、衆生徒に父母たるの人なり、豈に教場の成敗を以て先生の品性 を高下するに足らんや」(『追悼集』Ⅰ−同志社人物誌 明治10年代〜明治 40年−、pp.46〜47、以下『追悼集』Ⅰとする)と言う。

吉川潤二郎の思い出はアメリカ人教師につけたあだ名である。

デビス氏 「眼のデビス」怖るべく近づく可らざる威厳を以て、特に眼光 極めて鋭かった。

ラーネッド氏 「頭のラーネッド」頭脳明晰の学者で、実に頭の人であっ た。

ゴルドン氏 「腹のゴルドン」腹の大きい、非常に度量のあった教師。(以 上『創設期の同志社』、pp.191〜192)。

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Ⅲ.徳育

徳育ではキリスト教精神がいかんなく発揮されている。クリスチャン教師 とノン・クリスチャン教師の間に葛藤があったことも明らかである。生徒た ちもクリスチャンになるか否かで悩んでいるし、新島が生徒を叱り、励ます 姿も赤裸々である。

新島の教育は精神主義教育であった。知識を運用するにも品行と精神を根 底とする教育で、その精神はキリスト教に則るものであった。

露無文治の思い出である。彼は「毎朝の礼拝は信仰養成、精神修養上著し き功果を与へ」(同上、p.4),「同志社スピリットを受ける最上の好機会」

(同上、p.5)であったことを疑わない。日曜日には、「精神修養、信仰養成、

身体安息の為に、聖書研究、礼拝説教、校外散歩、伝道訪問等に」(同上、

pp.6〜7)一日を過ごした。露無が「デヴィス教師より受洗したのは、明治 十八年のこと」(同上、p.7)であったと回想する。

岸本能武太の思い出。岸本は「始めは基督教は何となく厭ひで、又、日曜 日を守ったり祈祷をしたりするのが窮屈で馬鹿らしく、こんな学校には居り たく無いと思ふた事もあった。……学校の空気に慣れ、又、基督教の悪るい もので無い事が判ったので、続けて学校に止まって居った」(同上、p.14)。

ところが、夏休みに帰省した時、同志社の習慣で食事前に神に祈祷していた ので、家でも「祈祷するかせぬかが大問題」(同上、p.15)であったという。

なぜなら岸本は「基督教を信じ無いと云ふ条件で」(同上、p.14)同志社に 行く事を許されたからだった。祈祷をすればクリスチャンになったと思われ るし、せずには心に恥じて箸をとれないと迷った末、「断然頭を下げて感謝 の祈祷をして食事を始めたら、母が変な顔をして、お前は船の疲れで頭痛で もするのか」(同上、p.15)と言った。その後の母の様子は「前程基督教を 嫌ふ様子も無いので、その後は遠慮無しに祈祷をして」(同上)食事をした と語る。その翌年(1881年)、岸本は新島から洗礼を受け、クリスチャンに なった。

中島力造は、同志社の当時の特色ともいうべきは、新島先生の精神および

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先生の感化であったという。「外国人と日本人の間に在って、困難に打ち勝 ったのは、誠に先生の偉い所」(同上、p.37)であったと回想する。

村上小源太は新島先生は「非常に情的の人で、然も熱心の余り、何時も話 の始めから終り迄泣き通しで語って我々を教育せられた」(同上、p.63)と 言い、智が尊いか、徳が尊いかという議論が起こったとき、新島先生は「智 徳論は車の両輪のようなもの」(同上、p.64)と言われたと語る。

新原俊秀はリバイバルの思い出を語る。新原のクラスに木村経夫がいた。

「木村はリバイバルに加入して、其結果気が違って死んだ」(同上、p.73)と いう。木村については安部磯雄も書いている。木村は晩学で熱心な男であっ た。夜10時、木村が祈っている時、「非常ニ変ニなって来て、基督の様ニな った。そして足を洗ふなどの事迄した。……それから木村はとうとう気が変 ニなって終った」(同上、p.263)と安部はいう。新島の家に連れていき、み んなで看護したが、ついには精神病院で亡くなったというのが安部の木村に ついての思い出である。

次は湯浅一郎の思い出である。キリスト教主義が同志社の生徒の上に表れ ているのは、「粗暴にして簡易、且つ独立の気象に富み、難儀に打ち勝つと 云ふ風は、一面校風となりて活動して居たと同時に……余りにすべてが純粋 であった為め、人間本来の娯楽、趣味、肉慾等に関して非常なる圧迫を感 じ、円満を欠いた」(同上、p.96)と回想する。生徒はある意味において

「感化院に収容された感」(同上)があったという。

深井英五が新島について感じたことは、先生に一度会って「一種の高尚な 気分と、揮って出来るだけの努力をして見たいと云ふ元気を移されたような 感をもった」(同上、p.123)という。

池田寅次郎は新島先生の演説説教は諸先生のように雄弁ではないが、ひと 言ひと言が心より出て、「至誠迸り、学生は咳払いする者さえ無く、誰も随 喜の涙を流した」(同上、p.145)と言い、「始終温情を披歴し、諒々として 人生観等を物語られた」(同上、p.145)と述べている。

吉川潤二郎の思い出。チャペルで徳育についての訓話があった。森田久万 人氏は新島先生の高弟で、キリスト教信者であったので、酒、たばこは自分 はむろん、生徒にも絶対に禁止した。一方、須田勝三郎先生はキリスト教信

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者ではなく、禁酒禁煙主義者でもないので、チャペルの当番が回ってきたと き、「精神の鈍[っ]た時は少量の酒を飲むと気分を爽快にする」(同上、

p.187)と語った。森田氏はこの話の途中「如何にも不愉快気に、併も腹立 たしげに席を蹴[っ]て起ち去[っ]た」(同上)。翌日、森田氏が訓話の番 であった。森田氏は「キリスト教主義を以て任じて居る我校に、飲酒主義を 主張し、併[然]も学生に飲酒を説き勧める」(同上)教師がいることは怪 しからんと言うばかりでなく、誠に遺憾に堪えぬと述べた。学生の加藤達平 は、森田氏に同情していなかったので、加藤は「森田教師の前日の行為を真 似、訓話半に席を起[っ]て、大手を振り足踏み鳴らし、怒りの表情を持っ て立ち去[っ]た」(同上、p.188)ことがあった。

吉田清太郎にとって日曜日は最も淋しい孤独な時であった。彼が1883

(明治16)年に同志社に行くことになったとき、彼が通っていた塾の先生に

「耶蘇教ニなってはいけない」(同上、p.269)と言われたからだ。しかし同 部屋の岸本能武太に勧められ日曜日の聖書研究に出た。そこでは市原盛宏が ルカ伝を講義していた。そこで「奇跡の齟齬して居る点を調べて困らしてや ろうと思ひ」(同上、p.269)自分でも少し調べたところ、「其の齟齬する点 が一致して居たので恐ろしくなり中止して終ひ、同時に聖書の研究もよし て」(同上)しまったという。

吉田清太郎は、新島先生はクラスの中で「一番出来ないと思ふ様な人を非 常ニ大事ニ」(同上、p.276)されたと言う。先生は「謙遜な柔和」(同上)

の方であったが、一方には「愛国心の強い、信仰心の強い国士」(同上)の ような方であったとも言っている。「俊秀を愛すると共に凡庸を棄てない」

(魚木忠一『新島襄−人と思想−』、p.120)ことは新島の教育の1つの特質 であった。新島は「小魚も生長セしめ、大魚も自在ニ発育セしめ、小魚大魚 各其分に応し、其身を世に犠牲となし……元気なきものも、御見捨なく」

(『全集』4、p.306)と横田安止に書いている。新島にとって大切なものは才 能よりも人間であった。武市庫太は「子弟の間は……情が厚く、教師と生徒 の関係は親子の様で、学生同士は兄弟」(『創設期の同志社』、p.134)の感が あったという。

山室軍平が伝道に行く途中の出来事である。彼は貧乏で、門番をしたりし

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て生活していた。入学して2年目の秋、「11日許りは殆どろくに食物を口に しなかった」(同上、p.235)ことがあった。その時、伝道に行ったという。

疎水のそばを歩いていると、柿があり、とうとう堪へられなくなって一つ叩 き落して喰ふて見ると渋柿であった。そこで「心に非常に恥ぢて、遂に土に 膝づいて神に謝し悔ひ改めた」(同上、p.237)という。

松尾音次郎の思い出。ある金曜日に祈祷会を済ませて仙洞御所の裏を通っ て同志社に帰る途中、門のかげで堪えられず小便をした。ところが運悪く巡 査に咎められた。巡査がなかなか許してくれない。そのうち後の組がやって 来るので、気が気でなく、あやまって勘弁してもらったことがあった。同志 社の生徒は恰好は乱暴でも行いは立派であったから、「自分がこう云ふ事で 巡査などに咎められた」(同上、p.227)ことは非常にはずかしいことと思っ たと告白している。松尾のもう1つの思い出である。新島先生は朝の会には 必ず出席し、話をしたが、涙と共に話をしたので、非常に感じたという。あ るとき、酒を飲んだ生徒がいて、朝の会で新島がその生徒の名前を呼んだの で、その生徒は立った。「先生は同情をもって其の退学に処さねばならぬ理 由を述べ」(同上、p.226)た。みんなの前で処分されたので本人もつらかっ たろうが、聴いているものは、そのようなことはすまいと思ったと回想す る。

次の話は新島先生が生徒1人1人は大切だと退校させられた生徒を思い出 しながらのスピーチで、「人1人ハ大切ナリ」(本井康博著『ひとりは大 切』、p.154)と会衆の胸を打った。1884(明治17)年12月23日に新島が八 重に送った手紙に「七人の書生放逐のよし、甚気の毒、別して林の為に大迷 惑申候。併し今更致し方なし」(『全集』3、p.323)とある。退学の理由はわ からない。林は北垣知事から新島を保証人として奨学金を出してもらってい た。知事が出した奨学金が林の退学時まで継続したとすれば、「およそ三十 ヵ月にわたって百五十円もの学資が一学生に無償で支給」(同上、p.106)さ れたことになると本井康博氏は言う。創立10周年記念式典には北垣知事も 出席していた。新島の心の中は複雑だったに違いない。しかし式辞で、新島 が開口一番学校の不祥事を知事をはじめとする来賓の前にさらけ出したの は、知事に対する申し訳なさを告白し、許しを乞うたのではないかと思う

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し、同時に、林にも心をかけていたのではないか。貧しい学生に対する新島 の優しさを示す一例である。

1891(明治24)年、新島の一周忌が同志社公堂で行われた。一青年が述

べた新島像がある。「吾嘗て雨夜新島先生を其邸に訪ふ、辞し去るに臨みて 先生自ら燭をとりて玄関に到り、吾が門外に出で去る迄其道を照らし給ひた り」(「追悼集Ⅰ」p.64)とあり、続けて、新島が「乾燥無味なる器械的の社 界にありながら能く人を見、人を待ち、人を重んじ、人を愛する」(同上)

が故の行動で、「先生の先生たる所以実に此等の辺にある」(「追悼集Ⅰ」

p.64)とある。公堂には「彼等は世より取らむとす吾等は世に与へむと欲 す」(同上、p.57)という言葉が勝海舟によって書かれた額がかかっていた。

蘇峰が新島を敬愛する気持ちを自伝の中で述べてる。蘇峰が新島から洗礼 を受けたのは数え年の15歳の時であった。「総ての事に不平であり、不安で あり、不快であり、不足であったけれ共、新島先生に対しては、日一日と敬 愛の情をたたへて来たのではないか」(『蘇峰自傳』、p.88)と蘇峰は思って いた。彼が洗礼を受けた主な理由は「キリストを信ずると言ふよりも、新島 先生を信ずる」(同上)ことからであった。蘇峰は新島に対して不平を抱い たことはなかったと言う。彼によれば新島は「頭の人でなく、心の人であっ た。先生は山をも動かす信仰を有って居り、石をも泣かせる情熱」(同上、

p.124)を持っていた人であったと回想している。これほど新島を慕ってい た蘇峰であったが、卒業を前に退学し上京した。その蘇峰に新島は手紙を書 いた。「足下之才智ヲ以テ万一此世ノ事ニノミ注目アリテ唯ゝ此世ノ人タラ ン事ノミヲ是レ求テ、他年上天ノ民タルノ用意ヲ為サス、又随テ上天皇帝ニ 対シテ敬虔ノ心ヲ抱カズ、又自己良心ニ照シテ現行合一セシムルノ点ヲ勤メ サルノ憂ヲ生ゼハ、是レ所謂半世界ノ人ニシテ、其才能ナリ学力ナリ事業ナ リ、尽く世ト共ニ腐敗シ去リ空滅ニ属セン事(中略)ヲ恐ルナリ」(『全集』

3、p.223)と忠告している。

足利尊氏の子孫・足利武千代が同志社普通学校に来るようになった経緯は 武千代と新島の出会いにある。武千代は新島に会うとお辞儀をした。すると 新島は小学生の武千代に帽子を脱いで丁寧にお辞儀を返したという。武千代 がキリスト教の同志社に入りたいと言うので問題になった。まわりは反対し

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たが、当時の相国寺住職・荻野独園は「新島の耶蘇教ならよいだろう」(加 藤延雄「新島先生に魅せられた少年−足利武千代のあゆみ−」『新島研究』、

44号、p.36)と許可した。同志社はキリスト教主義教育はするが、入学者に は信仰が何であれ、それを問うことはなかった。新島は小学生にとっても魅 力ある人物であったし、独園が新島の人格を見抜く力も間違っていなかった のである。武千代は1891(明治24)年同志社普通学校を卒業後、政法学校 に進学し、1895(明治28)年に卒業した。

Ⅳ.体育

体育では、生徒が歩いて京都を見て回り、近県までも足を延ばしているこ とがわかる。上賀茂での運動会の壮絶な闘いの様子が生き生きと描かれてい る。人生の困難にぶつかった時、体を張って闘ったことを思い出し、生きる 糧とした卒業生もいたのである。

イーフレイム・フリント・ジュニア(E. Frint, Jr)は新島のアーモスト大 学入学に当たり、1867年、J. H.シーリー教授に宛てて推薦状を書いた。そ の中でフリントは、「[新島の]運動については、彼はそれをしすぎるという より、しなさすぎる傾向があります」(『全集』10、p.80)と書いた。

アーモスト大学は2011年をもって150周年となるアメリカで最初の大学 の健康プログラム(Nation’s First College Health Program)(Amherst College, 08/2011)を確立した。エドワード・ヒッチコックJr.(Edward Hitchcock, Jr.)

である。彼は学生に Old Doc と呼ばれた。彼は時代に先んじ、先見の明 があった。1861年以前、大学の健康管理はばらばらで(sporadic)あったも のを、系統立てた(structured)のが彼であった。

1830年、エドワード・ヒッチコックSr.(アーモスト大学長,1845〜

1854)が力説したことがある。日曜日には、室内で運動すること。寮内を数 時間(a couple of hours)歩くこと。椅子を頭上に数百回(a few hundred times)持ち上げる(swing)こと。(同上)

1861年、エドワード・ヒッチコックJr.(Dr. Edward Hitchcock, Jr.)を雇 い、保健体育を置く。(同上)

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1876年、田中不二麿、日本初の文部副大臣(Japan’s first vice minister of

education)が訪米し、帰国後、 Amherst Plan を日本の学生の為に体育

(physical education)として奨励した。(同上)

新島はアーモスト大学時代に体育の授業を受けている。「珍奇をあつめ置 所(ジムネージャム)此は身をかためかつ書生の腹こなしをいたす所」(『全 集』3、p.45)とあり、「日に1度ツゝ彼ジムネージャムニ参り玉をころがし 色々の遊びを致し候」(同上)と伝えている。

同志社は1879(明治12)年に木造体育館と遊技場(グラウンド)をキャ

ンパス内に設けた。同じ年の5月28日の京都府学務課員の同志社視察之記 には「東西翼の間を運動所トシ秋千[注:ぶらんこ]アリ又体操ニ用ル木製 ノ玉棒及ヒ投擲ニ用ル袋アリ袋ハ木綿ヲ用ヒ中ニ豌豆ヲ入レタリ」(『同志社 百年史 資料編Ⅰ』、p.125)とある。

陸上競技部は、英学校開校と同時に始まった。12名の学生が新島先生を 中心に賀茂の河原で走ったり跳んだりした。世間では「同志社のキリスト教 徒が戦いの稽古をしている。今に天草騒動の二の舞をしでかすぞ」と言いふ らすものもいて、「府庁の密偵が学内に潜り込んでくる有様で、この運動会 も2、3回で中止になり……スポーツ振興の機運も、外からの圧力で途絶え てしまった」(『同志社陸上八十年の歩み』、p.43)とある。

明治12年9月29日の第3回同志社視察之記には「体操ハ放課後ニ玉ヲ擲 チテ雌雄ヲ決スルコトヲ除クノ外各生ノ任意ニ任ス」(同上、p.129)とい う。誰が体育を担当していたのか。D. W.ラーネッド(Learned)は訣別の 辞の中で「私は経済学、物理学、天文学、歴史、体操等を教え、又フットボ ールヲ此学校に紹介した」(D. W.ラーネッド『回想録』、p.52)と述べてい る。ラーネッドは日ごろの散歩と書斎にダンベルや棍棒を備え体操をして健 康に気を遣っていた。

同志社の生徒たちは月曜日から金曜日までは学業に精を出し、土曜日は健 康作りに励み、日曜日は精神修養に努めた。休日には遠足や登山をした。山 科、東山、比叡山、鞍馬貴船、琵琶湖、嵐山、栂尾、保津川、清滝、石山、

宇治、愛宕、稲荷山、大原へ出向いた。愛宕山の猪狩りや伏見稲荷山の兎狩 りの話など、今日では考えられないことである。京都から箕面迄歩いて往復

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した生徒もいた。安部磯雄はよく遠足に出かけている。「4ヶ年の寄宿生活 中殆んど全部京都附近の地に足跡を印した。登山だけに就いて言へば、比叡 山、鞍馬山、愛宕山、大文字山、笠置山、及び近江の三上山がある。比叡山 の如きは幾たび登山したか記憶して居ない」(『社会主義者となるまで』、

p.56)という。提灯を提げ大文字山を越えて大津に行ったともあると回想し ている。安部は後年テニスに熱中することもあったが、「結局散歩が生涯を 通じて私の唯一の運動法となった」(同上)と書く。

体育のことについて卒業生の回想録を見ると、上賀茂神社での運動会のこ とが出てくる。この運動会は11月3日の天長節の日に行われた。多くの卒 業生が懐かしんでいるのが旗奪いであった。これは実に「乱暴で無鉄砲」

(『創設期の同志社』、p.101)なものであったが、全精神を打ち込んだと言 う。坂上安蔵は「後日、吾人が社会に奮闘するに際し、運動会で鍛えた心身 は大いなる力となり、また新たに元気を出そうという気になった」(同上)

と回想している。

旗奪いのやり方は、生徒が2つのチームに別れて旗を奪い合うのである。

2つのチームは「源平」、「東西」、「黒龍、白虎」等と名付けられていた。9 尺の竹の先に旗を立てて、それを奪い合うものであった。服装はシャツ、パ ッチ、後鉢巻で、ルールは何もなかったようだ。開始の合図と共に両軍入り 乱れ、押し合い、殴り合い、柔道の手や相撲の手を使う者、ただ力任せに闘 う者、鉄拳を食わせる者など、皆必死であった。髪の毛は勿論、髭をひっぱ たり、眼鏡を叩きこわしたり、引っ張られ、引っ張られて、果ては褌まで取 られてしまうという、全く裸体のゲームであった。ゲームは1時間位続け て、しばらく休み、又始めるという風で、3、4回位やったが、勝敗が決す るのは3、4年に1回位で、大抵は引き分けていた。普段はおとなしい松浦 正泰は運動会でも余り働かないのに、旗持ちになると中々強くて、彼から旗 を奪うことが出来ず、皆を驚かせた。旗持ちになるのは強いものでGiant

(木原勇次郎)は身長6尺あった。彼はこのゲームで歯を折った。4時頃、

運動会を終えて帰ってきた。加藤の話では、彼は「一回ハ一党ノ大将、他ノ 大将ハ木原ナル大男」(『池袋清風日記』(下)、明治17年、p.206)であった という。2回とも加藤の方が勝って、「負ケタル方ハ甚激セリ」(同上)と回

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想している。運動会の後、1週間位は体中が傷んだという。運動会では「走 りっこ」もあった。藤田嘉五郎には一目置いていたと東郷昌武は回想する。

同志社は「創立以来、上賀茂神社の境内の広場を借りて秋季運動会(春季は 唐崎や瀬田でのボートレース)を行っていたが、1906(明治39)年からは 運動場が拡張され、校内で行うようになった(『創設期の同志社』、p.84)。

三宅驥一によるとボートレースは毎年あり、最初は石山の流れで行われ た。しかし急流で危ないので1回でやめて、次の年から大津で行われた。同 志社と第三高等学校のボートレースが毎年あった。時には喧嘩したこともあ る(『同志社ローイング100年』p.25)と追想している。近藤賢二は「最初 石山で和船の競争(漕)をやったのが起因で、それより大津の疎水口でやる 迄に進歩した」(同上、p.26)と談じている。

ラグビーの母体となったア式蹴球(アソシエイション・フットボール、即 ちサッカー)が始められたのは1889(明治22)年で、「ダートマス大学を・

・・卒業したバートレットが赴任すると、蹴球選手でもあった彼から正規の ルールにより競技し、勝負することを教えられ学生の間でスポーツの関心が 高まって来た。しかしながらバートレットはその後健康を害してアメリカに 帰国し、また対戦相手を学外に求めることが不可能であったためにこれより 後の10数年間は学内での玉蹴り遊びに終わったものと推測される」(『同志 社ラグビー70周年史』、p.18)という。

課業の中には兵式体操があった。三上真吾は、制服を着る人は1人もな く、袴をつける人とつけないひとがいたと回想する。深井英五は「休職軍人 が聘せられて教えられたが、洋服を着る方がよかろうと云ふので作った人も あったが、貧乏人も沢山あったので日本服の仲間も可成あった。日本服の人 達は下駄履きでコロコロ兵式体操をやったが、中には高下駄で鉄砲をかつい だ人もあった」(『創設期の同志社』、p.125)と述べている。

河辺久治の思い出。土曜日と日曜日を除く毎日、午後4時から5時(3時 から4時とも)まで、バイブルクラスの人たちも含めて学生全体が2隊に別 れて玉を投げ合った。これは「狙撃」(同上、p.46)で、玉が少しでも着物 をかすめると「戦死」(同上)したことになって、鉢巻を解いた。非常に乱 暴な運動で目に玉が当たってひどく腫れた人もいたほどで、あまりに殺伐と

(20)

した運動であったので、「戦争の練習では無いか」(同上)と京都府から密偵 が入って調べられたことがあった。非常に乱暴な運動なのでラーネッドはこ れを止めさせるために人のひと尋の長さの棒を鉄砲の代わりに持たせて兵式 体操を教えた。

村上小源太も「毎日学科の後には球投げを致し、両組に分れ大に雌雄を 争」(『同志社大学野球部史』前篇、p.7)ったと述べている。

1876(明治9)年秋、熊本バンドの連中が編入学した時、同志社の運動は

「鞠投げ」(『同志社五十年裏面史』、p.328)であった。鞠といっても当時は

「糸屑を巻いて円くした手毬であった。この鞠投げの首領は金森通倫と市原 盛宏とで、妙手は古賀啓吉であった」(同上、p.328〜329)という。

近藤健二は新島先生が御所の内を折々乗馬で運動し、4時の体操時間に

「海老茶色の腕抜きを嵌め、和服に靴を履いて毎日散歩」(『創設期の同志 社』、p.82)される姿を見たと語る。

おわりに

授業中に教師と生徒が取っ組み合いの喧嘩を頻繁にしていることなど驚き である。ここには型にはまらない授業があったと言える。一所懸命に予習し て来る生徒に対応しようとすれば、教師の学力も問われるわけで、生徒から 排斥運動にさらされた教師もいた。生徒の学問に取り組む姿勢には凄みさえ 感じられる。授業中、眠っている生徒は1人としていなかったであろう。今 日の学校は注入方式で教えられるのが普通である。質問は生徒が先生にわか らないところや知らないところを質問をし、教えを乞うものであるが、現在 の学校ではよく知っている教師が知らない生徒に質問をする。下手をする と、教師が生徒をためすという結果を招きかねない。

当時の生徒の中には貧しい生徒がいた。このような生徒たちは教室の掃 除、門番、授業を知らせる鐘叩き、宣教師に日本語を教えたり、翻訳をした り、賄い方の手伝いや牛乳配達をして学費を稼いだ。ランプの掃除やストー ブ焚きには困ったと回想している卒業生もいる。死んだ猫の皮をむいて焼い て食べた生徒もいた。新島は病人の世話を自分の家でしている。このような

(21)

生徒に対して新島はやさしい心をもって接している。彼は人の痛みがわかる 人であった。貧しい生徒に着物を与えたり、知事に頼んで授業料を出しても らうよう交渉するなど行き届いた配慮ができる人であった。

徳育については、毎朝の礼拝、三十番教室での聖書講義と日曜日の教会で の説教、聖書研究会や祈りの会などがあげられる。そして生徒が寮生活をし ていたことが効果を上げる原因でもあった。新島が重きを置いたのは自己犠 牲や奉仕の精神であった。「与える」精神を育てることであった。ラーネッ ドは、新島先生は「その私心を捨てゝ、同志社を以て自己一人の事業となさ ず、たゞ学生と国民の為に尽くされた」(『追悼集』Ⅰ、p.130)のはキリス ト教的謙遜の模範と述べた。新島に初めて接した人でも感動したのは彼の私 心のない愛情のためであった。

健全な身体に健全な精神が宿ると言う。生徒たちはよく歩いた。それも長 距離を汗をかき、県外までも足を延ばした生徒がたくさんいたことは驚きで ある。生徒の生活を見ているとけじめがある。全員がそうであったとは言え ないのだろうが、回想録はけじめのある生徒の姿を描きだしている。

維新以後の日本の学問・教育は帝国大学をはじめ、専門教育や知識の吸収 と利益の追求に偏っていたのに対し、新島は広い視野と正しい判断力を持っ た人物を知育、徳育、体育という3本柱を中心に、リベラル・アーツ教育に より養成しようとしたのである。新島の教育の基本方針はあくまで智徳併行 であり、徳育はキリスト教に基づいていた。しかし、入学して来る者につい ては、「吾人は敢て其信仰の如何を問ハす仏者なり儒者なり神道家なり又無 宗旨家なり其品行にして方正なるに於てハ我大学は喜んで之を入れ其望む所 の学術を教授し以て国家有用の人物たらしめんと欲す」(「同志社大学設立の 大意」『同志社百年史』資料編Ⅰ、p.188)とし、「我大学の空気は自由なり」

(同上、pp.188〜189)と主張している。

先行研究(筆者が読んだもの)

井上勝也著『国家と教育−森有礼と新島襄の比較研究』(晃洋書房、2000年).

加藤延雄「新島先生に魅せられた少年(足利武千代のこと)」『新島研究』44号(1975 年).

(22)

徳富蘇峰「新島自責の鞭」『新島研究』52号(1978年).

井上勝也「新島の教育思想」『新島研究』59号(1980年).

徳富蘇峰「裏から観た新島先生」『新島研究』60号(1981年).

森中章光「偉人の出遭−山本覚馬先生と新島襄」『新島研究』64号(1983年).

原田久美子「山本覚馬−おぼえがき・人と思想」『新島研究』64号(1983年).

本井康博「悲哀のしもべ・新島襄」『新島研究』64号(1983年).

梁瀬 健「現代大学教育と新島精神」『新島研究』66号(1984年).

秋山哲治「新島先生の教育理念と現代の教育」『新島研究』69号(1986年).

鏑木路易「安中藩制と新島家の人々」『新島研究』69号(1986年).

北垣宗治「熊本バンドと新島襄」『新島研究』71号(1987年).

丸本志郎「小田時栄(元覚馬夫人)考」『新島研究』71号(1987年).

井上勝也「強い同志社人に−新島襄の生涯を通して考える」『新島研究』71号(1987 年).

河野仁昭「新島襄と会津」『新島研究』73号(1988年).

井上勝也「新島襄の畢生の事業−開始に当たっての努力・忍耐・苦悩・祈り−」『新 島研究』100号(2009年).

大越哲仁「大学医学部設置は新島襄の悲願だったのか」『新島研究』105号(2014 年).

井上勝也「アメリカン・ボードの資料を通して見た初期の同志社」『同志社談叢』創 刊号(1981年).

北垣宗治「新島襄の英文の自叙伝」『同志社談叢』2号(1982年).

露口卓也「新島襄ノート−『創設期の同志社』に見る学生意識の一考察−」『同志社談 叢』12号(1992年).

佐野安仁「同志社英学校の開発主義教育」『同志社談叢』13号(1993年).

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井上勝也「同志社の創立者 新島襄の生き方・考え方(建学の精神)」『!儻不羈なる 書生ヲ圧束せす』Doshisha Spirit Week講演集

2012(同志社大学キリスト教文化

(23)

センター、2013年)

上野直蔵編『同志社百年史』通史編一(同志社、1979年).

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近藤英雄『坊っちゃん秘話』(青葉図書、1983年).

近藤英雄「『坊っちゃん秘話』に寄せて」『新島研究』67号(1985年).

金森太郎編『金森通倫回顧録』(1957年).

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同志社ラグビー

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年史』(同志社ラグビー部 発行、同朋舎印刷、1983年).

同志社ローイング

100

年記念誌編集委員会編『同志社ローイング

100

年』(同志社艇 友会、同志社ローイング

100

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西貞一、上田昌三郎、桑原一弘、蔭山靖夫監修『同志社陸上八十年の歩み−時代を駆 抜けた若者達の熱い感動−』(同志社陸友会、1998年).

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同上『元祖リベラリスト 新島襄を語る(五』(思文閣、2008年).

参照

関連したドキュメント

ではどちらかと言えば「宗教」という意味合いに重きが置かれていたとはいえ「教育

乗る。途中雨に会うが傘もさせず、辿り着いた茶屋で背ゴザを求め和田まで。ここで昼食後、人力車五台を雇うが、峠越えは困難なため山の裾を回り小村長瀬で投宿。一一日長瀬村から善光寺街道の田中に至り、

新島の演説の記事が出ていると考えられる The Rutland Daily Herald 紙の 1874 年 10 月 10 日(土)号を American Antiquarian

なおさらに長期的な研究の課題としては、今後注目する範囲を若松周辺地

新島がつくろうとした Christian college と Christian university  すでに論じたとおり、新島は、帰国当初から Christian

 韮塚氏はこの 「埼玉と同志社」 を見て、昭和54年12月に初版を刊行し

延雄(『新島襄先生略伝』京都:日本観光美術出版社、1956)にまで及ん

と後に述べている。また、有島武郎によると、大島は、当時避暑で札幌に