• 検索結果がありません。

新島襄の福島伝道 : 会津若松教会の設立を巡って

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "新島襄の福島伝道 : 会津若松教会の設立を巡って"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

著者 山下 智子

雑誌名 新島研究

号 108

ページ 46‑60

発行年 2017‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000216

(2)

新島襄の福島伝道

―会津若松教会の設立を巡って―

山 下 智 子

Ⅰ.はじめに

本研究は新島襄が福島伝道についてどの様な考えを持っていたか、またそ れが実際の伝道にどの様に反映されたか、現在の日本基督教団会津若松教会 へとつながる日本組合基督教会若松教会(以下単に組合教会、若松教会のよ うに記す。同様に組合教会から日本基督教団へとつながる教会に関しては、

以下教団名を略した現在の教会名で記す)の設立に注目し検証することを目 的とする。なお「会津若松教会の設立」という言葉は、若松教会の創立日

(1891年1月22日)を指しているわけではなく、もう少し広義に若松教会 が組織されていく前史も含めた草創期を指し用いている1)

具体的には、1882年7月27日から8月、新島のはじめての会津訪問と、

この時代の会津の自由民権運動に注目する。そして新島が会津で出会った

「気骨アル人間」である民権家たちへの関心が、新島に若松を伝道地として 意識させたことを主張する。

本研究は今後、引き続き若松教会の設立に注目し、新島や若松教会の設立 に関係のある会津の民権家達を取り上げ、彼らのネットワークが後に若松伝 道の大きな力となり、1882年時点では民権運動の激化により果たせなかっ た新島の若松伝道の志を現実のものにしたことを検証していくことを目指し ている。また若松在住でキリスト教に興味を持った中村衡三及び照井正六 と、1885年9月にかれらの招きで若松を訪れ伝道師派遣を依頼された「美 以美教会の信徒」の飯田勇記に注目する。その後1885年10月13日から15 日の小崎弘道の若松訪問を経て、1886年1月21日に日本基督伝道会社(以 下、伝道会社)派遣の牧師達により第一回キリスト教演説会が行われ、1886

(3)

年5月23日に再び会津を訪れた新島から十四名が洗礼を受け若松教会最初 の信徒が誕生することになったが、若松伝道がメソジスト教会ではなく伝道 会社によって行われることになったのには熊本洋学校のネットワークの影響 もあることをあわせて検証していくことを目指している2)

本論で「会津」といった場合は会津地方全体をさす。会津若松に関しては

「若松」と記す。

Ⅱ.民権家への関心

(1)板垣退助への共感

新島襄が民権家に関心を持っていたことは比較的よく知られている。たと えば自由民権運動の中心的な指導者であった板垣退助との交流がそれを示し ている。1882年4月に岐阜で暴漢に襲われた際には、4月17日に新島はわ ざわざ板垣を大津まで出迎え京都まで汽車に同乗している。さらにその後4 月19日及び21日の2度にわたりで静養する板垣を見舞い、牛乳と卵で飲み 物をつくり喜ばれている3)

新島と板垣との交流について、1882年12月14日に同志社の学生であっ た原田助が日記に書きとめた新島の講話によると、この時、新島は板垣がキ リスト者ではないものの、「基督教ノ真理」に通じる「公平無私ノ精神」に より自由民権運動を推し進めていると確信しており、それゆえ欧米視察の資 金に関して疑惑の渦中にあった板垣を「師ハ維新ノ功臣ニシテ公平自ラ処シ 氏ノ主義トスル所ハ豪モ世ノ軽藻ノ輩ト同時カラズ 世ハ決シテ師ノ真意ヲ 疑ハズ」と擁護している4)

本井康博は新島と板垣との交流について、この同志社での講話を根拠に以 下のように論じる。

新島が板垣に期待し、彼に異例の関心を抱くのは、実に「基督教ノ真 理」による「公平無私ノ精神」こそ「自由制度」の大前提なり、との信 念があったからである。いずれにせよ、学生へのこの講話は、板垣が総 理を務める自由党への密かな共感を新島が持っていたことを示す。こう

(4)

した自由への関心と抱負とは、後年、教会合同問題で新島が依拠した反 対理由に直結するものである。5)

では、新島は会津で出会った民権家達に対してはどのような考えを持った のだろうか。新島が妻の八重と、八重の姪で山本覚馬の娘の峰、峰の夫の横 井(伊勢)時雄と共にはじめて福島や山形を訪れたのは板垣が襲われた同年

(1882年)の7月から8月にかけてである。この時期は自由民権運動が全国 的に見ても盛んであった福島県で最も激化していった時期であり、特に会津 では、7月27日に若松に到着し七日町の清水屋に滞在した新島が、その後8 月1日に若松をたち高湯(現米沢市関)や米沢を訪れている間、8月18日 に同じ清水屋で地元の民権家の宇田成一らが襲われ大けがする「清水屋事 件」が起こるなど緊迫した状況があった。

新島の会津や、その土地に生きる人々への印象、会津における活動は、実 は自由民権運動との関係で見ていく必要がある。

(2)新島襄、最初の若松訪問と会津の自由民権運動

1882年7月27日、若松に到着した新島は「日抄」に彼らしい好奇心と共 感をもって当時の会津の状況を次のように記録している。

若松着ス(中略)士族中多クハ貧困、政府ヨリ授産金下附ノ沙汰アルニ ヨリ、何人カノ誘導モアリテ漸々乎ト帝政党ニ入ルモノアルヨシ。然ル ニ北方ニ於テハ、農民中往々自由党ニ加入シ頗ル民権皇張ヲ望ムモノア ルヨシ。此ノ党ハ僅カノ下附金ニヨリ左右サレサル資産持ノ民権家タル ヨシ6)

新島が記した会津の状況は『会津若松史』、『福島県史』等と照らし合わせ てもかなり正確である。1868年の戊辰戦争の際、若松市内は戦場となり会 津藩士たちは鶴ヶ城に籠城し戦った。白虎隊の悲劇や、八重が男装断髪で銃 を持って戦ったのはその時のことである。結局、会津藩は敗れ、藩士の多く は斗南へ移住させられ辛酸をなめた。新島が会津を訪れたのは戊辰戦争から

(5)

十四年後のことで、若松はいまだ戊辰戦争の影響があり、旧会津藩士は生活 に困窮していた。

この頃の福島県令は旧薩摩藩出身の三島通庸である。1882年2月、三島 は山形県から自由民権運動が盛り上がる福島県に県令として着任すると、

「某が職に在らん限りは、火付け強盗と、自由黨とは、頭を擡げ申さず」と、

旧薩摩藩士を多く県の要職に採用し、さらには経済的に困難な状況にあった 旧会津藩士も登用し政治的な基盤を固めた。そして着任後すぐに三方道路の 工事を強引に推し進めていった。三方道路とは会津から山形、新潟、栃木の 三方に向かう道路で経済の活性化などが期待されたが、その一方で会津の 人々に過度の金銭的肉体的負担を課すものだったので、人々との対立を生ん だ。三方道路の件は三島の政治的な姿勢を示す顕著な例であり、5月には強 硬に県政を推し進め県会に出席すらしようとしない三島に対し、県会議長で 自由党の河野弘中ら民権家達が中心となり県会がすべての議案を否決すると いう事件が起こった7)

しかし、三島は三方道路の建設に関してますます強気の姿勢をとり、6月 には民意を無視した道路査定や代夫賃徴収を命じた。それに対して会津、特 に喜多方周辺の自由党の民権家達が中心となり道路工事服役に反対し、組織 的かつ激しい運動を繰り広げた。三島はそうした民権家達に対抗し「帝政 党」を組織、困窮する旧会津藩士救済の授産金を用意することで、若松の旧 会津藩士を多く帝政党に取り込んでいった。そうした状況の中で起こったの が、8月18日に帝政党の人間に民権家の宇田成一らが襲われた「清水屋事 件」である。

喜多方周辺の民権家達は村落の長である肝煎だったものなど土地の有力者 が多く、河野弘中と親しかった安瀬敬蔵が喜多方町戸長となったことから、

安瀬が正幹事となり政治結社・愛身社が結成され、さらに自由党会津部が組 織されるなど、早くから民権運動が盛んだった。まさに新島が若松の士族ら と比べて「僅カノ下附金ニヨリ左右サレサル資産持ノ民権家タルヨシ」と記 録した通りである。

新島が会津を去った後、彼らの抵抗運動は更に激化し、11月24日に抵抗 運動の指導者であった宇田らが逮捕されたことに抗議し、11月28日に千名

(6)

を超える農民が弾正ヶ原(現喜多方市塩川町)に集まり、その後喜多方署に 向かった。これがいわゆる「喜多方事件」である。そしてこれがきっかけと なり、三島は県内の自由党員の一斉大検挙を行い、河野弘中らも逮捕される

「福島事件」へと発展した。さらには1884年、福島の民権家の中で急進的に なった青年達が中心となり栃木県の県令となった三島の暗殺を企てた「加波 山事件」へと発展した。

さて、若松に到着した初日、新島の日記は分量的にそれほど多くはなく、

内容的にも特に詳しいものでもない。そうした中で記録の半分ほどを占める のが先に引用した士族と民権家について述べた部分であるところに、新島の 関心や共感が見て取れる。

なるほど新島にとって政府から経済的支援を受けることは「政府の下僕」

になることであり、自由や権利に直結する事柄であった。たとえば新島はか つて留学中の1871年3月21日にO. フリントにあてた手紙の中で次のよう に言っている。

もしハーディー氏が(新島の留学費用の)リストを渡し、森氏から支払 いを受けることがあればそのお金のために私は日本政府に束縛されるこ とになるのではないかと心配です。むしろ私は自由な日本市民のまま で、主の御用のために私のすべてを捧げたいのです8)

そしてこうした新島の自由への強い思いは、先に述べた板垣退助への共感 はもちろん、やがては、たとえば次に示す1887年11月22日付で新島が徳 富猪一郎にあてた手紙に見られるような教会合同運動への反対にまでつなが っていくものである。

私は一致論[教会合同賛成論]にはますます賛成できません。わが組合 教会の自由が欠けるくらいならば、むしろ分裂する方がいいのです。わ ずかな情実のためにこれから百年、千年と私たちの子孫が享受する自由 を売り飛ばすべきではありません9)

(7)

このような考えを持っていた新島は、実は会津の民権家や自由民権運動に 大きな関心を払っており、それらは新島の会津での言動にも影響している。

(3)新島の嘆き

新島は8月1日に八重と峰を残して横井と共に若松をたち、高湯の東屋に 8月3日から20日まで逗留した後、21日に米沢に向かった。23日には米沢 を発ち若松への帰路についた。この日は喜多方の手前、大塩の坂本屋(現耶 麻郡北塩原村)に泊っている。

新島は8月23日から「遊奥記事」に米沢や会津で見聞きしたことを記し はじめた。一番頁が割かれているのは、米沢に関する事柄だが、その次に多 く記されているのは、民権家の宇田成一や、道路建設、三島県令と帝政党を 巡る事柄である。

新島は若松への帰路、まず大塩の手前の桧原(現耶麻郡北塩原村)で道路 工事を巡る人々の不満を聞き、そのことを詳しく記している。

檜原ニテ道路開鑿ノ苦情(中略)檜原辺ノ人民ノ考ヘニハ、北方ノ方ニ 道路ノ開鑿ニナリシハ、費用ノ如何ヲ問ワス路ノ便不便ヲ問ス、修繕ノ 費ノ大小ヲ問ス、田地ノ興壊ヲ顧ミス、地方人民ノ望ミヲ問ワス、賄賂 ノ多少ニヨリ差(査)定セシヨシ云々、嗚呼10)

新島の「嗚呼」という一言に、民意をまったく無視した横暴な道路工事の 進め方に対する新島の嘆きが込められており、新島はこの件で間違いなく県 令の側ではなく工事に反対する桧原の人々、さらには土地の民権家達の側に 立っている。

「遊奥記事」の中で、新島が「嗚呼」または「アア」と感情をあらわに嘆 くのはここ以外には二か所のみであり、共に維新後に増加した米沢の妓楼・

席貸屋と喜多方の芸娼妓についてである。そして喜多方については風俗の乱 れを心配して嘆いているのに対して、米沢については「登楼スルモノハ官吏 ヲ以テ最モ多シトス」と公の立場にある官吏のあり方について「嗚呼」と嘆 いており、道路工事に関する「嗚呼」と同様の嘆きがある11)

(8)

(4)宇田成一との面会

新島は桧原で清水屋事件のことを聞き、予定を変更し横井と別行動でわざ わざ下柴(現喜多方市関柴町)に宇田成一を訪ね、事件とその背景を詳しく 聞き記している。宇田とはおそらく初対面で、横井とも別行動であることか ら、ここでも新島の民権家や民権運動に関する強い関心が見て取れる。なお 新島は宇田を訪ねたのを8月23日と記しているが、恐らく宇田のことを聞 いたのが23日で、実際に訪ねたのは24日と考えられる。

新島は宇田から桧原の人々の、一方的に土地の人々が望まない工事の計画 が決まった、との苦情を裏付ける県令の横暴なやり口を更に詳細に聴くこと になった。新島の記録は他の資料と比べて見ても多少の齟齬こそあるが、事 実関係が正確に記されている12)

宇田は1850年の生まれ、下柴の庄屋で県会議員でもあった。県令に対し て議案毎号否決の賛成票を投じたひとりである。愛身社創立以来、会津の民 権運動の中心におり、自由党会津部の事実上の指導者であり、六郡連合会の メンバーであった。新島の記録によると「六郡連合会議長」となっている が、実際には議長は同志である中島友八であった。六郡連合会とは、道路工 事を行うために当時の会津六郡の代表者により構成された組織であったが、

その実態は三島県令の厳命により極めて短期間のうちに組織と規則をつくら されたもので、三島が道路工事を強行するための「隠れ蓑」としてつくった 形式的なものであった。しかしながら、この六郡連合会の中から、県令の民 意を無視した強硬な道路工事への反対活動のリーダーとなっていくものがあ らわれた。宇田はその中の一人である13)

宇田ら、六郡連合会のメンバーの中でも自由党会津部に属する民権家達は こうした状況について県側の説明を聞くための場を設けようと努力した。と ころが8月18日、仲間たちと共に宿泊した若松七日町の清水屋で、突然、

深夜寝ている所を帝政党の一団に襲われた。巡査官が駆けつけてきたが、彼 らも県令側の人間であり、結局は宇田らをひどく殴り怪我をさせた人々が捕 らえられることはなかったという。

興味深いのは新島が、卑劣な暴徒を訴えるべきだという意見が強かったこ とと、それを宇田が頑として聞き入れなかったことを合わせて書とめ「宇田

(9)

成一氏ハ徳義上ヨリ此等ノ事ヲ世上ニ公ニスル事ヲ会津地方ノ恥辱トスルヲ 以テ、之ヲ穏便ニ付シ敢エテ告訴セサリシ」としていることである。官憲の 暴挙は全くの無政府状態で「会津地方ノ恥辱」だという宇田の嘆きと、先に 見た官憲の態度に対する「嗚呼」との新島の嘆きは類似している14)

なお宇田はその後11月24日に捕らえられ、それをきっかけに「喜多方事 件」「福島事件」が起こり、国事犯として東京に送られたが釈放された。し かし三島が別件逮捕をしようと待ち受けていたので2年以上の逃亡生活を余 儀なくされた15)

Ⅲ.会津伝道への関心

(1)夏期伝道報告会

新島襄は会津伝道の可能性についてはどう考えていたのだろうか。新島が 会津から京都へと戻ってしばらくたった1882年9月22日、京都第二公会

(現同志社教会)において夏期伝道報告会が開催された。学生たちが夏期伝 道の報告を次々とする中、新島も安中を経て会津、米沢まで赴いた自分自身 の夏の旅について語った。新島はこの時「伝道報告ニハアラズ、漫遊中ノ目 撃ヲ告ケント欲ス」と断りつつも、岐阜・加納・大垣は「(伝道)着手ノ地」

とし、日光街道、宇都宮、白川(白河)の様子に触れ、さらに会津の状況に 関しては次の通りかなり詳しく報告している。

会津ニ至ル、当地の如キモ以前文武ヲ以テと称セラレシ跡ハ更ニナシ、

士族ハ貧窮、平民ハ卑屈ナリ、近頃政党団結アリ、当地ノ人ハ県令ノ勧 メニヨリ帝政党ニ加入シタル者多しトカ、生ハ当地ノ有志輩ニ面会シ テ、少シク道ノ必要ナルヲ悟リタルカ如キモアリし、帰途亦其人之ヲ請 ハント欲セシニ、其人アラズ、其故ハ近頃帝政党ノ者暴ヲ以テ迫リ加入 ヲ絶ルガ故ニ、其難ヲ避タルナリト云シカタキ、予ノ志ヲ尽ス能ハサリ キ16)

この新島の報告でも、すでに述べてきたとおり若松に住む士族の多くが困

(10)

窮し、帝政党へ加入していることが語られるが、重要なのは新島が若松で土 地の有志に会い「道」について話した事実が述べられていることである。こ こでいう「道」とはもちろんキリスト教のことであろう。しかも新島は後日 その人物に更に伝道しようとしたが、その人がいなくなってしまい「予ノ志 ヲ尽ス能ハサリキ」とその無念を報告していることは注目に値する。

新島は「遊奥記事」の中に「奇怪の風説」として当時の会津の噂を複数記 しているが、そのすべては三島県令と帝政党が士族はもちろん、民権家たち さえも様々な手段を講じて自分たちの味方に引き入れようとしていることに 関するものである。実際、新島が伝道の可能性を感じたその有志者は帝政党 への加入を力ずくで迫る人々から逃れるために新島の前から姿を消してしま ったのである。

伝道報告会に出席していた原田助によると「新島先生東北地方漫遊ノ所感 ヲ述ベラレ其道徳ノ腐敗ヲ嘆ゼラルゝニ至リテ人ヲシテ感涙ニ咽バシム」だ ったという。前述の資料では記録が途中までしか残されていないが、原田に よるとさらに新島は以下のように言ったという。

諸君ハ為スアラントスル士ナリ諸子ハ日本ノ魂ヲ有スル男児ニアラズヤ 昔日ノ男子ハ君ノ為ニ忠ヲ尽スヲ最上ノ務メト思ヘリ、諸子ハ天地ノ主 宰タル上帝ノ為ニ働ク者トナラザルベカラズ、之ヲナスニハ神ノ道先ズ 諸子ノ心ニ入ルニアラズンバ盖シ不可ナリ矣17)

これまで新島の1882年の会津訪問はこれまで、旅の同行者が妻の八重と、

八重の姪で山本覚馬の娘である峰、峰の夫である横井時雄であることなどか ら、「山本家に関わる何らかの用務」のように見られてきた。もちろんそう した面は確かにあっただろう。ではそれ以外の面、この旅には伝道や教育に 関する面は全くなかったのだろうか。新島の「日抄」や「遊奥記事」に若松 に関する記載があまり多くなく、それもあまり前向きな内容でないことか ら、伝道の可能性に関して「失望したに違いない」とみられることもあっ た18)

しかし実際には新島はこの時若松で出会った人々に可能性を感じ積極的に

(11)

伝道しようとしていた。確かに若松にいた士族の多くは保身のため帝政党に 加入し県令の手先となっていたが、そうした中、あえて民権活動に身を投じ る者もいた。新島が伝道の可能性を感じ接近したのはそのような人々だっ た。ただ当時は道路工事を巡り会津の民権家と三島県令側の対立が深刻化し ていたので、新島が願った通りすぐに伝道を行い、その成果が表れるという わけにはいかなかった。

(2)若松教会の見解

新島は1882年の旅で、若松を伝道に適さない地と考えたわけではなく、

伝道の可能性を大いに感じつつも、自由民権運動の激化により伝道できなか ったことは会津若松教会所蔵の用紙六枚をつづった手書き資料によっても裏 付けられる。「福島県会津地方若松市基督教新教伝道開始日本組合基督教会 若松教会」と題されたこの資料には次のようにある。

夏期休業中新島氏夫婦当若松ニ来リ当市ノ有志者斗リ基督教ノ伝道ヲ開 セントシタルモ遇々自由民権論漸ク勃興シ官民ノアツレキ甚シキタメニ 伝道ヲ開始スル能ハズ果セルカナ19)

前述の新島の伝道報告会での証言記録よりさらに積極的な表現で、新島は 有志者と共に伝道を開始しようとしたことになっている。しかし新島の証言 同様に「官民ノアツレキ甚シキタメニ伝道ヲ開始スル能ハズ果セルカナ」だ ったという。

なおこの資料には教会記録の大半がそうであるように著者名がなく、さら には記録年月日もない。しかし、1917年に若松教会が設立した博愛幼稚園 の開園まで触れられているのでそれ以降の資料である。教育の重要性が強調 されているので開園時のものとも考えられる。また「組合教会ノ主義特長ハ 自由教育自治教会両者並行国家万歳ト故ニ我教会ハ設立当初ヨリ自給独立シ 宗教ト教育両者並行進歩発展ヲ期スルモノナリ」と新島の「畢生の目的」を 引用し教会の自給独立、宗教と教育の大切さを語っており、会津若松教会は 新島の死後約三十年たってもなお新島の思想を強く意識し、色濃く受け継い

(12)

でいたと言える。当時牧師は兼子重光(常五郎)であり、1882年頃には自 由民権運動の闘士として宇田成一らと行動をともにしていた人物である。兼 子は後に同志社で学び新島との出会いから牧師となった。当時の会津の自由 民権運動の状況と新島の思想の両方をよく知っている人物であるため兼子が 関わっている可能性も高い。なおこの資料は新島の1882年の若松訪問を明 治14年(1881年)としている点は明らかな間違いである。

(3)伝道への情熱

1882年の訪問が、新島にとって伝道の可能性がないと失望するどころか、

伝道の熱意を刺激するものだったことは新島の死の直前の手紙からも明らか である。1890年1月17日、新島から新潟長岡伝道中の時岡恵吉への手紙に は以下のようにある。これは新島最後の手紙である。

小生ハ明治十五年初メテ会津若松ニ遊ヒ官軍之為メニ陥イラレタル孤城 ヲ一周シ、又生キ残リタル人々ニモ面会シ、当時ノ有様ヲ聞キ、会津藩 人ノ如此モ宗家徳川氏ノ為ニ官軍ニ抵抗シ、白骨ヲ原野ニサラスモ顧ミ サルノ勇気ニハ大ニ感服致シ、其時ヨリ会津人ニ向ヒ非常ノシンパセー を顕ハシ、其レヨリ該地伝道ノ事ヲ主唱シタリ 但シ余ハ気骨アル人間 ヲ称賛スルナリ、会津ヲ称賛シテ官軍ニ抗スル訳ニハアラサル也20)

つまり、新島は亡くなる直前に至っても1882年のはじめての若松訪問に ふれ「其レヨリ該地伝道ノ事ヲ主唱シタリ」と言っており、新島にとっての この旅が、いかに新島の伝道のビジョンに大きな影響をもたらしたかを明ら かにしている。この箇所は、妻・八重をはじめとする戊辰戦争を闘った会津 藩士への共感、「シンパセー」と理解されることが多かった。それも「生キ 残リタル人々ニモ面会」しての感想だから間違いではないが、1882年訪問 時の日記等によるならば、新島は当時僅かな金銭のために帝政党に加わり、

県令の手先となっていた旧藩士にたいしては実に批判的であったのだから、

新島が手放しで「会津ヲ称賛シテ官軍ニ抗スル」わけではないことがわか る。そうではなく新島が称賛しているのはあくまで「会津人」の中の「気骨

(13)

アル人間」であり、「白骨ヲ原野ニサラスモ顧ミサルノ勇気」ある人である。

つまり1882年の訪問で出会った会津人の中でいうならば、弾圧や金銭の 誘惑に揺るがない民権家たちであり、旧会津藩士の中では、後に同志社英学 校に入学することになる望月興三郎など、困窮していても帝政党に加わら ず、あえて危険を顧みずに民権運動に身を投じ、良心にしたがう行動をして いた人々への評価と共感といえる。

このことに関して、1885年10月17日、二度目の渡米中の新島襄から東 北伝道旅行に向かう小崎弘道への手紙も参考になる。新島が1882年、最初 の会津訪問で抱いた若松伝道への情熱は、その後新島渡米中の1884年末位 からかなり緊迫感を持った具体的な東北伝道のプランとなり熱を増していっ た。小崎の東北伝道も新島のこうした熱い思いを受けて、伝道会社の決定を 経てなされたものである。

新島は小崎の東北伝道を大変喜び、様々なアドバイスをするが、その中に 伝道地として「スパルタン人種ニ近き人間之ある福島県下ニ地を撰ふへき や」とあり、新島が福島県内には「スパルタン人種ニ近き人間」がいると考 えていたことがわかる。ここでいう「スパルタン人種」とは「気骨アル人 間」とも重なり合うものである。そして特に「福島県下之内若松、山形県下 之内米沢随分人物ノアル地ナリ」とも記している21)

前述の通り、新島が1882年訪問時に若松には伝道の可能性が低いと失望 したととらえられてきたのは、同時期に訪れた米沢に比べると若松に関する 記述が少なくあまり好意的な内容でもないようにみえることからである。し かし、新島は伝道に協力してくれる可能性のある有力者がいる場所として若 松と米沢をあげている。

よく見てみると、新島は米沢に関しては「山形、新庄、酒田辺リニハ往々 自由党ニ加入スルモノアルモ、米沢ニハ未タ政党ノ精神波及セサルカ、何レ ノ政党ニ入ルモノモナク、故ニ絶テ政談ヲナスモノモナシ」「政治ノ志操ハ 至テ乏キ」としており、また「時事自由等ノ新聞ハ絶テナキヨシ」と、自由 党や民権運動に関心のある人がいないことに物足りなさを表している。

対照的に、会津に関しては新島がわざわざ訪ねた宇田成一はじめ、新島が 興味と関心を持ち、記録にも残した民権家達が複数いたのである。

(14)

Ⅵ.おわりに

本研究では新島襄が福島伝道についてどの様な考えも持っていたか、また それが実際の伝道にどの様に反映されたかを探るため、若松教会の設立に関 する出来事の中でも1882年7月27日から8月、新島のはじめての会津訪問 と、この時代の会津の自由民権運動に注目し論じてきた。そこから見えてき たのは、この時出会った「気骨アル人間」である民権家達へ深い関心と共感 が、新島に若松を伝道地として強く意識させたことである。

1882年、最初の若松訪問により生まれた新島の若松伝道にかける熱意は、

その後、伝道会社による1885年10月の小崎弘道の若松訪問と、1886年1 月からの具体的な若松伝道を現実のものにした。そして1886年5月には若 松を再訪した新島により洗礼式が行われ最初の信徒十四名が誕生し、若松教 会の設立へつながっていく。

この若松教会の設立にむけた歩みの中で、新島や伝道会社が大きな働きを なしたのはもちろんだが、加えて民権家達も興味深い役割を果たしていくこ とになる。たとえば、望月興三郎、兼子重光(常五郎)、杉山重義、安瀬敬 蔵、小島忠八といった人々である。こうした民権家たちの新島や若松教会に 関係する活躍に関してはまた別の機会に論じることとする。

さらに若松教会の成立を巡っては、草創期の中心信徒となった若松在住の 中村衡三や照井正六の自発的な求道の動きも重要である。とくに彼らが小崎 弘道に出会う以前に、若松伝道を依頼した飯田勇記は民権家であるととも に、「熊本バンド」には含まれない熊本洋学校の関係者であり、熊本時代に 小崎弘道と交友があったと考えられる。これらの人々の活躍についても前述 の民権家達とあわせてあらためて論じることにする。

なおさらに長期的な研究の課題としては、今後注目する範囲を若松周辺地 域(喜多方、坂下、大沼(高田)、本郷)、さらに福島及び郡山へと広げ、最 終的には福島伝道について新島の東北伝道、教会合同問題での主張を踏まえ 検証することを目指すこととする。その際には1882年の会津訪問の際に新 島が抱いた若松伝道への熱意が、なぜしばらくたった1884年の年末ごろか

(15)

ら会津、福島を含めた東北全体の性急かつ具体的な伝道計画へと膨らみ、

1885年の小崎の東北伝道旅行へとつながるのかという点などについても見 ていくこととする。

1)若松教会の創立日は自給独立宣言式を行った1891年1月22日とされている。こ れは会津若松教会創立百周年記念事業百年史編集委員会編『会津若松教会百年の 歩み』(日本基督教団会津若松教会、2001年、以下『百年の歩み』)によるなら ば「自給独立教会の宣言をした日を以て教会の創立日とするという組合教会の建 前によるもの」である。なお他教会では、同じ組合教会の伝統を持つ教会であっ ても、伝道教会設立日などを「創立日」としている場合もあり、若松教会が自給 独立を特に重んじてきた事の一つの表れである。たとえばほぼ同時期の1885年 10月に講義所が開設され日本基督伝道会社の伝道地となった緑野教会は、創立 日を1889年4月19日としているが、これは捧堂式及び伝道教会設立式を行った 日であり、教会独立宣言式を行ったのは1908年10月11日である。『日本組合教 会便覧 明治34年』(日本基督傳道會社、1901年)による日本組合基督教会明 治三十三年度統計表による設立年月日は、若松教会が1891年1月22日、緑野教 会が1889年4月19日であり、こうした創立日の解釈の違いは、日本基督教団の 設立によるものというよりは、日本基督組合教会時代までにさかのぼるものであ る。

2)新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』8(同朋舎、1989年)、pp.242-245. 以下

『新島襄全集』8 : 242-245のように表記する。『百年の歩み』、pp.51-52. 土肥昭夫

「初期の小崎弘道日記(1)」、『キリスト教社会問題研究』47(同志社大学人文科 学研究所、1998年)、pp.194-197.

3)『新島襄全集』8 : 234-235.

4)原田健編『原田助遺集』(河北印刷、1971年)、p.29.

5)本井康博『新島襄の交遊 維新の元勲・先覚者たち』(思文閣出版、2005年)、

pp.219-220.

6)「日抄」『新島襄全集』5 : 159-160.

7)板垣退助監修『自由党史(中)』(岩波書店、1958年)、p.246.

8)学校法人同志社現代語で読む新島襄編集委員会編『現代語で読む新島襄』(丸善、

2000年)、p.96.

9)『現代語で読む新島襄』、p.204.

(16)

10)「遊奥記事」『新島襄全集』5 : 218-219.

11)同前 5 : 213、223.

12)会津若松史出版委員会編『会津若松史』(会津若松市、1966年)、p.111.高橋哲夫

『福島事件』(三一書房、1970年)、pp.111-112.

13)高橋哲夫『福島自由民権史』(歴史春秋社、1981年)、p.63、『福島事件』、p.108- 110、197-199.

14)同前 5 : 218-222.

15)『福島事件』、pp.197-199.

16)『新島襄全集』8 : 246.「伝道報告会筆記」、1882年9月22日、目録番号0500、画 像フ ァ イ ル 番 号10500012-10500013、「新 島 遺 品 庫 資 料 の 公 開」、同 志 社 大 学、

〈http : //joseph.doshisha.ac.jp/ihinko/html/n02/n02010/N0201005G.html〉

17)『原田助遺集』、p.28.

18)『百年の歩み』、p.11.

19)「福島県会津地方若松市基督教新教伝道開始日本組合基督教会若松教会」(若松教 会所蔵資料)

20)『新島襄全集』4 : 353.

21)『新島襄全集』3 : 365.

参照

関連したドキュメント

今日のお話の本題, 「マウスの遺伝子を操作する」です。まず,外から遺伝子を入れると

この条約において領有権が不明確 になってしまったのは、北海道の北

本プログラム受講生が新しい価値観を持つことができ、自身の今後進むべき道の一助になることを心から願って

本事業は、内航海運業界にとって今後の大きな課題となる地球温暖化対策としての省エ

さらに体育・スポーツ政策の研究と実践に寄与 することを目的として、研究者を中心に運営され る日本体育・ スポーツ政策学会は、2007 年 12 月

航海速力についてみると、嵯峨島~貝津航路「嵯峨島丸」が 10.9 ノット、浦~笠松~前 島航路「津和丸」が 12.0

〇及川緑環境課長 基本的にはご意見として承って、事業者に伝えてまいりたいと考えてお ります。. 〇福永会長

社会学研究科は、社会学および社会心理学の先端的研究を推進するとともに、博士課