新島襄の米欧教育視察
著者 井上 勝也
雑誌名 新島研究
号 109
ページ 3‑12
発行年 2018‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000245
基調報告
新島襄の米欧教育視察
井 上 勝 也
発表要旨 はじめに
大越哲仁会員をはじめ、岩倉使節団については多くの先行研究者 がおられるので、私は、新島襄が使節団に随行して米欧8カ国の教 育視察をしたことが、彼の教育観、国家観にどのような影響を及ぼ し、1874(明治7)年11月帰国した後の彼の教育活動にどのよう につながるのかを主に述べようと思う。
1)密航
2)新島のNew England体験−キリスト教とデモクラシー
3)Alpheus Hardy, Julius H. Seelyeからの影響、感化 4)Phillips Academy, Amherst Collegeで学んだこと
5)使節団の田中不二麿文部理事官に随行して米欧8カ国の教育視
察から得たもの
6)新島のNew England滞在中の仮説の実証
おわりに
新島は1874(明治7)年11月帰国後1890(明治23)年1月亡く なるまでの15年間、キリスト教を全国に布教するとともに、同志 社大学の設立を畢生の事業とした。彼は明治国家が東京大学を設立 して、人材の育成に邁進する中で、私立大学を設立し、人物を育成 することが近代国家に不可欠であることを米欧の教育体験及び視察 を通して実感した。岩倉使節団への随行が彼の教育観、国家観の妥
当性を確認し、帰国後の彼の生き方を方向付けたということができ る。
文学部にいました井上勝也でございます。
私は1960年代の大学紛争時からこれまで50年以上にわたって同志社の創 立者新島襄(1843-90)を研究して参りました。
今日は「新島襄の米欧教育視察」と題して私の考えを申し上げます。
発表要旨の番号順でお話いたします。
1)密航
新島を考える場合、やはり何故彼が国禁を犯して密航を企てたのかという 問題を無視する訳には参りません。先行研究者は「自由を求めて」だという 人が多いですが、私はそれを否定しませんが、もっと大きな目的があったの ではないか。幕藩体制崩壊寸前の江戸で青年期を過ごした下級武士の新島 は、イギリスやアメリカ、フランスやロシアの極東への侵略の意図を理解 し、日本の将来について危惧していました。当時いろんな桎梏(pressure)
で押しつぶされそうになっていた青年たちは、尊皇攘夷を揚げて現状の克服 を考えていましたが、新島はもう少し広く極東の状況や先進国の軍事力の日 本との格差を認識していました。21歳の彼は日本はこのままではダメにな る、新しい日本の在り方を模索しなくてはと考えていたように思います。彼 は「密航」は国家のためにやったのだと繰り返し申していますが、当時、彼 は未だ新しい国家観をもっていた訳ではありませんが、彼に「脳髄が頭から とろけ出る程驚いた」と言わしめた『連邦志略』の影響がRobinson Crusoe などよりもよっぽど強烈でした。物事が合議制によって進められることや、
国の最高指導者を国民が選ぶ国に行って見たいと彼は思ったのではないでし ょうか。
新島に密航を決断させたものは藩主や親と密接に繋がることを強く求める 儒教の中心概念である忠孝の倫理をキリスト教の「天父」を信ずることによ って断ち切ったという彼の精神革命があったからです。我々の会員である布 施田哲也先生の研究では、新島が漢訳聖書の抜粋である『真理易知』を読
み、その第一章には創世記の天地創造が入っており、第九章にはヨハネ伝三 章十六節が入っていると『新島研究』第103号(2012年2月刊)に書かれ ています。幕末に密航を企てることは通常不可能でしたが、私は自由という 個人的な問題よりも、崩壊寸前の我が国の情況や先進国からの侵略を阻止し なくてはならないという武士の大義名分、即ち行動の理由づけとなるはっき りした根拠があったからだと思います。彼は密航が露見すれば、自分は死刑 になるかも知れないし、一族郎党にも難が及ぶという不安をかかえながら、
大胆な行動を決断したのだと考えます。
2)新島の New England
体験−キリスト教とデモクラシー新島はluckyなことに太平洋岸のサンフランシスコではなく、大西洋岸の
ボストンに着きました。彼が到達したニューイングランドは1620年以降キ リスト教とデモクラシーが常に革新(innovation)されてきた地域です。ヨ ーロッパはもとよりアメリカでもニューイングランド程キリスト教とデモク ラシーが常に革新されて人々の生き方、考え方の中に定着していた地方はな いと考えます。1620年に祖国イギリスからの迫害を逃れ、信仰の自由を求 めて危険な大西洋を渡ってきた主体的なPilgrim Fathersの子孫たちは先祖の 伝統を受け継いでいました。例えば18世紀の中葉にニューイングランドを 中心に始まった信仰復興運動(Great Awakening)は1776年7月の独立宣言
(Declaration of Independence)を惹起し、ニューイングランドに革新する力 が根底に働いている証拠を示しています。
近代国家の実態を自分の目で確かめ、日本のモデルにしようとしていた新 島はWild Rover号の船主であるAlpheus Hardy夫妻の保護を受け、とりわ
けAmherst Collegeでは東洋からやってきた一留学生を家族の一員として大
切にしたJ. H. Seelye教授夫妻やニューイングランドの人々の生き方からニ
ューイングランドの特徴であるデモクラシーとキリスト教を肌身で理解でき たことは、新島に大きな意味がありました。
デモクラシーとはギリシャ語でデーモスのクラティア即ち「市民の力」を 意味します。新島は帰国後しばしば「愛」をテーマにした説教をしました が、彼は「耶蘇教ハ何ソト人問ハレタレハ答テ曰ハン、愛以貫之」と申して 新島襄の米欧教育視察
います。これは愛をキリスト教の本質と捉えた表現です。この説教は『新島 襄全集』第2巻の宗教編に入っています。
新島はニューイングランドに来て、デモクラシーとキリスト教を目の当た りにして、雨水が大地に染み込むようにニューイングランドの良さとして、
自分の世界観及び宗教観に取り込んでいますが、彼はPhillips Academy時代 ホームステイしたHidden家のMiss HiddenやHidden家に 下 宿 し て い た
Flint夫妻など、当時女性として高い学歴と教養をもっていたMiss Hidden
の知的な行動や元academyの校長として豊かな教育経験をもつFlintなどか ら、ニューイングランドの知的レベルの高さや庶民の生活レベルの高さをも って彼らが主体的に町の活動や教会の役員を引き受けてニューイングランド を活性化していることを目の当たりにして、新島は彼の近代国家像を構築し ていったと思われます。
新島は1866年12月、ニューイングランドで生活し始めて1年5ヵ月目に 洗礼を受けて正式なクリスチャンになり、ニューイングランドの人々の仲間 入りをしました。
さて、新島はニューイングランドでアメリカの良い部分しか見ていないの ではないかという批判がありますが、私もそう思います。彼は父民治にニュ ーイングランドの人々の生活を克明に手紙で伝えています。これは慶応3
(1867)年3月29日付の手紙で、『新島襄全集』第3巻に入っています。彼 が生活した江戸での桎梏と正反対の理想的な生活が描かれています。
アメリカの歴史を研究すると、アメリカ人はdouble standard(二重基準)
をもっているということが判ります。例えば1620年にPilgrim Fathersがプ リマスに上陸し、新しい自由な植民地をつくったが、1636年には彼らの生 活の規範である聖書を正しく教える牧師を自前で養成するためにHarvard
Collegeをつくったというアメリカの栄光の歴史がある反面で、彼らは1636
年には原住民(American Indians)と大きな戦争(ピークオート戦争)をし ているし、原住民の豊かな土地を奪って厳冬のさ中、チェロキー族はジョー ジアとアラバマから3,000キロ離れた西部に追いやられ、15,000人のチェロ
キー族が4,000人の犠牲者を出し、アメリカ史では「涙の旅路」(Trail of
Tears)と言われています。
新島が理想視したデモクラシーもキリスト教もアメリカの原住民や黒人の 存在を無視したかのようなアメリカ史がありますが、しかしアメリカでは白 人によるこれらの残酷な行為がなされる一方で、1852年に刊行されたスト ウ夫人の『アンクル・トムの小屋』のように黒人を擁護し、彼らの自由を保 障しようとする白人の運動があります。連邦最高裁は大学への進学率の低い 黒人女性の進学率をupさせるために、入学を優遇する処置をとる大学に対 して2003年に合憲の判決を下しています。
新島が思想形成したニューイングランドが彼のいうパラダイスであったと いう先入観で見ることは危険ですが、江戸で求めていた理想をニューイング ランドに発見して、それを日本に導入して近代国家を建設しようとした新島 はアメリカの歴史の良い部分のみを求め、歴史を相対化することができなか ったのではないかと思われます。
3)Alpheus Hardy, Julius H. Seelye
からの影響、感化新島は1864年7月、上海で1,100トンのWild Rover号に乗り換えます が、Alpheus HardyがWild Rover号の船主であります。一時期17隻の貿易 船を世界の海に走らせていたHardyはAmerican Boardの評議員を30年勤 め、運営委員会の議長を13年勤め、キリスト教が未だ宣教されていない地 域に宣教師を派遣するAmerican Boardの責任者を勤めました。また彼は Phillips AcademyやAmherst CollegeやAndover神学校の理事を勤め、彼の 生き方はアメリカ人の理想とするself-made man即ち独力で立身出世した人 であります。新島は明治20(1887)年8月、札幌でHardyの死を知り、同 年11月に同志社の礼拝堂で恩人Hardyの追悼会を開きました。1815年生ま
れのHardyは72歳で天に召されましたが、新島のHardyを追悼する文章は
Hardyの人となりを完璧にとらえています。彼がHardyを思い、ニューイン
グランドを高く評価する理由が伝わってきます。『新島襄全集』第2巻に
「ハーディー氏ノ生涯ト人物」と題して収録されているのでご覧下さい。
次にJulius Hawley Seelye(1824-95)教授について述べます。Seelyeも新 島にとってHardyと同様に大恩人であり、新島の人徳でしょうか、Hardyや
Seelye程に東洋人である新島を温かく持て成し、家族の一員として、又彼を
新島襄の米欧教育視察
クリスチャンとして、或いは教育者、宣教師となるべく細かい指導をした人 物を私は知りません。二人の新島に対する態度の根底には彼らのキリスト教 とデモクラシーの本質が脈々と流れているというのが私の解釈です。新島は Seelyeの講演集The Way, the Truth and the Life の数章を訳して『宗教要論』
と題して出版するにあたって、彼が序文を寄せ、Seelyeを非常に高く評価し ていますので、『新島襄全集』第1巻の教育編をご覧下さい。
4)Phillips Academy, Amherst College
で学んだこと新島がPhillips AcademyやAmherst Collegeに入学できたのはHardyの人 脈と努力があったからですが、これらの学校や大学はいずれもニューイング ランドの歴史と伝統を純粋に受け継ぐピューリタンを養成する教育機関でし た。Amherst CollegeはCollege Charterに「敬虔(piety)の念と才能をもっ た貧しい青年を牧師にする」と書かれており、キリスト教人格主義教育を目 ざす典型的なliberal arts collegeであります。新島時代のCollegeのカリキュ ラムでは演説法と体育が必修になっているのが特徴です。
新島の人間観、教育観、キリスト教観を構築したニューイングランドの Phillips AcademyやAmherst CollegeやAndover神学校は、彼が同時代にイ
ギリスのpublic schoolに留学しても、これ程強烈な教育的感化を受けなか
ったと思われます。私は、新島の在米中Amherst Collegeの3年間が彼に決 定的な影響を及ぼした時代だと考えています。彼は日本にAmherst College を導入しようとしましたが、帰国後の彼の大学構想ではHarvard Collegeの ような総合大学を考えているのではないかと思われます。
5)使節団の田中不二麿文部理事官に随行して米欧 8
カ国の教育視察から得たもの
1872年3月、新島はワシントンで岩倉使節団の田中不二麿に会い、通訳 等の仕事をメキシコ銀6ドルの日当で引き受けましたが、彼はアメリカを始 めイギリス、フランス、スイス、ロシア、ドイツ、オランダ、デンマークの 教育制度を調査し、教育施設を見学し、教育機関ばかりでなく、アメリカの スミソニアン博物館やブリティッシュ・ミュージアムやウェストミンスター
寺院も見て廻り、国民の文化遺産が大切にされており、教会が立派であり、
ヨーロッパの文化が成熟していることに驚いています。岩倉使節団の他のメ ンバーが世界の工場であるイギリスの造船所やアームストロング砲を発明し
たArmstrongの建てたニューカッスルの製鉄所などに興味を示し、彼らはプ
ロイセン・ドイツでは近代兵器の大砲を造るKruppの兵器工場に関心を示 し、鉄血宰相Bismarckや参謀総長Moltkeの発言に耳を傾け、急速に近代 化に成功したプロイセン・ドイツの秘密を探ろうとしている中で、新島の視 点は彼らと異なっていました。米欧の教育視察で彼が興味を示したのは教育 機関であり、それも主に初等教育機関と高等教育機関でありました。近代国 家の形成はtop-down方式ではなく、bottom-up方式でなくてはならないと考 える新島は、子どもたちが人間としてその能力を円満に伸ばすにはどうすべ きかに関心があり、下から育て上げて主体性のある市民を育成するには、ア メリカのように知・徳・体の調和の取れた、木を見て森も見ることのできる
character buildingがしっかりできる人間を高等教育機関で育てることが国家
の発展に不可欠であると考えました。1876(明治9)年札幌にやってきたマ サチューセッツ州立農科大学のW. S. Clark学長は自分がAmherst College
で学んだcharacter buildingを農業の専門家を育成するために設けられた札幌
農学校に適用して開口一番、細かい校則はいらない、 Be Gentleman! これ が農業の専門家にも必要だと言いましたが、新島もAmherst College在学中 に人間教育の重要性を痛感して、1890(明治23)年1月、亡くなるまでの 彼の教育実践は人間教育を重視したものでありました。ちなみに彼の遺言の 中に「䍸儻不羈なる書生ヲ圧束せす」というのがありますが、彼は天下の人 物を養成するには独立していて拘束されない、才識がすぐれ常軌では律しが たい学生こそ大切にしなくてはならないと考えていました。
新島は、米欧8カ国ではハンディキャップのある子どもも大人も人間とし て尊重され、彼らのもてる能力を最大限に開発する学校や施設があること、
犯罪を犯した人たちの立ち直りを目指した施設が充実していることに驚いて います。人間を大切にする発想は新島の生きた幕末の日本はもとより、1936 年生まれの私の少年時代にもなかったといえます。米欧のこのような学校や 施設を見学して、新島の教育観が固まってきました。ニューイングランドで 新島襄の米欧教育視察
感じていたデモクラシーやキリスト教がヨーロッパの人たちの生き方、考え 方の根底にも浸透していることが判ってきました。ちなみに福沢諭吉(1834
-1901)は1861(文久元)年幕府のヨーロッパ派遣の使節に同行して、フラ
ンス、イギリス、オランダ、ドイツ、ロシア、ポルトガルを巡歴して翌年帰 国しました。これらの国々の西洋文明を1866(慶応2)年『西洋事情』と題 して刊行しましたが、彼の博学多識と啓蒙力の高さを評価する一方で、彼に 新島のような視点は見られません。
『米欧回覧実記』の先行研究は沢山あり、優れた業績が見られる中で、私 は田中彰、高田誠二編の『「米欧回覧実記」の学際的研究』という先行研究 に注目しました。日本キリスト教史を専攻する山崎渾子氏の「岩倉使節団に おける宗教問題」はよく研究されている論文です。彼女は当時の日本の情況 を押さえた上で、使節団のメンバーが米欧の宗教問題をどのようにとらえて いるかについて詳しく述べています。例えば米欧の訪問国で日本に宗教の自 由を要請されたことや、使節団がキリスト教と西洋の歴史またはその文明社 会との関係を見ていること、欧米におけるキリスト教の果たした役割の大き さとその価値を認めていること、そして彼らの評価の基準は①にギリシャ正 教は文明国が棄てたもの、カトリックは文明国のビスマルクが追放したも の、プロテスタントこそ現在の文明国の宗教だと分析しています。②に君主 が民心を把握し、国力を強めようとする時に宗教を利用しました。③にキリ スト教と文明との関係において信仰は富国強兵の源である等、西洋における 宗教は政治と深い関係があることを使節団は見抜いている(同上pp.302- 303)と彼女は分析しています。
『新島襄全集』第1巻の教育編に「理事功程」の草稿が記載されています が、例えば「独乙国ノ公学校学則」(第一)では「プロテスタントヲ奉信ス ル独乙国ニ於テハ、寺院及政府ト共ニ小学校ヲ保護スル事ヲ以テ己ノ職分ト セリ」(p.467)とあり、「プロイセンニ於テハ、学校ヲ支配スル権大ニ寺院 ノ手ニアリ」(同上)と書かれ、〈終論〉では「プロシヤノ学則ハ実ニ斉備シ タル者ニシテ、克ク其人民ノ求メニ応セリト云ベシ」(p.558)とあります。
また「大ブリタン寺院ノリポルト」(pp.592-607)は新島がHardy夫妻宛の 手紙で書いているように、田中文部理事官から依頼されて、イギリスのキリ
スト教会の事情を調査報告したものだと考えられますが、「大ブリタンノ寺 院ハ合衆国ノ寺院ト不同ナルノミナラス、独乙国中ノ寺院トモ亦異ニシテ、
大ブリタンノ中ニハ政府所管ノ寺院ト、又自力保存ノ寺院アリ、然ルニ合衆 国中ノ寺院ハ一切政府ト関係セス、尽ク自力保存ノ者ニシテ、独乙国ノ寺院 ハ更ニ自立ノ者無ク、尽ク政府ノ管轄保存ヲ受クル者ナリ」(『全集』1.
p.594)とあり、「余ハ尽ク自力保存ノ者ニシテ」(同上)と述べて新島が政 教分離のアメリカ方式を是としていることが判ります。
6)新島の New England
滞在中の仮説の実証新島がこの米欧教育視察で得た結論は、彼が信ずるデモクラシーやキリス ト教がヨーロッパではかなり形骸化しており、教会の出席者は少なく、キリ スト教が政治と結びついて利用され、国家宗教になっている国や、カトリッ クとプロテスタントが対立しているといった現象が見られ、世俗化が進んで いる国があるが、しかし庶民の生き方の中にキリスト教が顕在的にも潜在的 にも生きており、それがとりわけ教育機関に見られるということでありま す。例えば先ほどのハンディキャップをもった子どもたちの学校や犯罪を犯 した人たちの立ち直りを目指す施設など、アメリカに見られる現象がヨーロ ッパにも見られることや、国家が国民によって支えられ、国民が国家の発展 に積極的にかかわる近代国家が存在する、いやヨーロッパこそアメリカの先 輩として歴史的に古い伝統をもっているということであります。近代国家は 如何にあるべきかを模索していた新島にとって、ニューイングランドのキリ スト教やデモクラシーが国民の生き方を支え、国家の発展に寄与しているの ではという仮説を今回の米欧教育視察によって再確認したことは新島にとっ て決定的に大きな収穫であったといえます。彼の帰国後亡くなるまでの15 年間の実践は、米欧教育視察によって得られた自信をもとに、日本政府の目 ざす東京大学に対して私立の同志社大学の設立を目ざし、国家の方針を忠実 に受け継いで実行する官僚的な人材ではなく、国家の方針に時には軌道修正 を求め、自らも加わって貧しい人、病める人にも生きる喜びを得ることがで きる国家の形成に寄与する主体的な人物の育成を目ざすことが、教育者とし て、また宗教者としての生き方であると彼は考えたのではないかと思いま 新島襄の米欧教育視察
す。
新島は米欧教育視察によって得た結論を帰国後現実のものとすべく、1882
(明治15)年から大学設立運動を積極的に押し進めましたが、設立理念の集
大成ともいえる「同志社大学設立の旨意」(明治21年11月)に次のような 彼の決意が文章化されています。「欧米文明の基礎は、国民の教化に在るこ とを確信し、而して我邦をして欧米文明の諸国と対立せしめんと欲せば、独 り其外形物質上の文明を模倣するに止まらず、必す其根本に向つて力を尽く さゞる可からざるを確信し、不肖を顧みす、他日我邦に帰らば、必す一つの 私立大学を設立し、以て我が国家の為めに微力を竭さんことを誓ひたりき」
(『全集』1. p.131)と述べていますが、これが新島の米欧教育視察の結論で あります。
ここで1つつけ加えるべき重要な問題があります。それは新島が密航を企 ててニューイングランドで8年間の教育を受けましたが、彼は終始公的な立 場ではなく、私的な立場に徹していたことであります。1871(明治4)年岩 倉使節団のメンバーは公的なnationalな視点で近代国家の在り方を調査し、
早急に近代国家の建設に役立ちたいという願望と使命をもって日本を出発し ました。それに対して新島は岩倉使節団の田中文部理事官に再三にわたって 日本政府の文教政策をすすめる官僚への誘いを受けましたが、かたくなにそ れを拒み、あくまで私の立場で日本の発展に寄与したいと考えていました。
それは彼が明治政府に縛られないで、政府が導入を拒むキリスト教とデモク ラシーによって日本の近代化を進めようという信念をもっていたからだと考 えられます。現に彼はAmerican Boardの宣教師補として帰国することを望 んでいたこともあり、政府が拒否するキリスト教とデモクラシーが近代国家 の形成に不可欠であるとの強い信念をもっていたからであると考えます。
ご清聴ありがとうございました。