須田清基―新島襄への理解―
山 下 智 子
Seiki Suda: His Understanding of Jo Niijima
Tomoko
Y
AMASHITANiijima Gakuen Junior College Takasaki, Gunma 370-0068, Japan
要 旨 本稿の目的は須田清基(1894−1981)の新島襄への理解を明らかにすることで ある。 なぜ「上毛かるた」で新島襄が「平和の使徒」と詠まれたのか。本稿で は「平和の使徒 新島襄」を詠んだ須田の著書に着目しながら,須田が新島襄を どのように理解していたかを考察する。 Abstract
The purpose of this paper is to reveal Seiki Suda’s understanding of Jo Niijima. Why is Jo Niijima “the apostle of peace” in Jomo Karuta? Because Suda wrote this card, this paper explores his understanding of Jo Niijima in Suda’s books.
1. はじめに 本稿はなぜ「上毛かるた」において新島襄が「平和の使徒」と詠まれたのかを明ら かにするため,この「平和の使徒 新島襄」の読み札を作った須田清基(1894−1981) の新島襄理解を研究するものである。 「上毛かるた」は1947年12月戦後の混乱期にあってせめて未来を担う子どもたちに 明るい希望の持てるものを与えたいとの思いから発行された「いろはかるた」であり, 群馬県を代表する史跡,名勝,産業,文化などを詠み込まれている。1947年から2007 年までの60年間に合計1,297,000組が発行され,年に1度の「上毛かるた県大会」には 1948年から2008年までの60回で合計4,593団体11,147名が参加していることが示すよう に,群馬県民に広く普及し親しまれている。1このような「上毛かるた」の誕生と普及 には,恩賜財団同胞援護会とその後身の群馬文化協会の中心人物であり「上毛かるた」 の「生みの親」と言われる浦野匡彦(1910−1986)の大きな働きがある。 しかしながら,前稿「須田清基―「上毛かるた」への貢献―」で論じたように,牧 師である須田清基の「上毛かるた」の「原案者」としての働きと影響も決して忘れて はならないものである。須田は浦野匡彦に試作品まで持ち込みかるたの制作を提案し ている。現行の「上毛かるた」は多くの人の協力でできたものであり,読み札に関し ては誰がどの札を詠んだか不明なものも多いが,須田は「平和の使徒 新島襄」,「心 の灯台 内村鑑三」「世のちり洗う 四万温泉」を読んだことが明らかになっている。 とくにキリスト教の立場からは須田が「上毛かるた」の制作にかかわったことにより, 須田の詠んだ「平和の使徒 新島襄」と「心の灯台 内村鑑三」の2枚のクリスチャ ン札が採用されたことが重要である。2 須田清基は群馬県安中市板鼻町の出身で,熱心なクリスチャンであった父菊蔵とと もに安中教会の牧師で新島襄の思想を受け継ぐ柏木義円と親しく交わり,1914年柏木 から洗礼を受けた。須田は1911年一家で台湾に移民し,その後徴兵や神学校での勉強, 伝道のため何度か日本と台湾を往復したとはいえ,おもに台湾で伝道に従事し,戦後 1946年に真イエス教会の牧師となって群馬に帰郷した。その間も柏木の『上毛教界月 報』や内村鑑三の『聖書之研究』を熱心に愛読していた。柏木も内村も日露戦争を契 機に非戦論を唱えた平和主義者で知られるが,須田はこの二人の影響もあり,1921年 にトルストイの『わが宗教』をよみ軍隊手帳を破り捨て火に投じ,1923年陸軍大臣に 「軍籍離脱届」を出し良心的兵役拒否をしたことでも知られる。 こうしたことから須田清基は「上毛かるた」制作の際,戦後の混乱期にあった子ど もたちが希望をもち将来の日本社会の担い手として成長していくためには,キリスト の教えに忠実に素晴らしい生き方をした郷土ゆかりの二人のクリスチャン,新島襄と
内村鑑三を子どもたちの人生のお手本として伝えることが必要だと考え,「平和の使 徒 新島襄」と「心の灯台 内村鑑三」を詠み込んだのである。 ところで,なぜ新島襄が「平和の使徒」で内村鑑三が「心の灯台」なのだろうか。 一般的に言うならば,新島は「良心」を大切にしたことで知られているので「心の灯 台」,内村は非戦論を唱えたことで知られているので「平和の使徒」としてもいいよ うに思われるが,そうはならなかったところに須田独自の新島理解,内村理解がある。 なぜ須田は「上毛かるた」において新島を「平和の使徒」と詠んだのか。残念ながら 須田本人がそれについてはっきりと語った文献は今のところ見つかっていない。しか し,須田が記したいくつかの文献から須田が新島をどのように理解し,評価していた かを読み取ることは可能である。 本稿では,まず前稿「須田清基―上毛かるたへの貢献―」では触れられなかった新 島襄の良き理解者,良き語り手としての須田の姿を紹介し,次に須田の編著書『寛容 の使徒 大越鉉吉―伝記と追想―』と著書『隠れた教育者―春山松太郎の生涯―』か ら須田の新島理解を研究していく。 2. 新島襄の良き理解者,良き語り手として須田清基 「上毛かるた」が制作された1947年ころ,周囲の人々は須田清基と新島襄の関係を どのようにとらえていたのだろうか。 須田清基が神田哲雄とともに編集した『新島襄先生の言葉』という本がある。3 「上毛かるた」が発行されたのは1947年12月1日だが,同年9月20日に出版された本 である。この本は共編とはいえ「新島襄先生の言葉」に先立ちおさめられている「新 島襄先生小伝」の執筆を含めその責任の多くを神田が負っている。しかし注目すべき はこの本のあとがきにおいて神田が「昭和22年2月27日,新島先生の郷里たる安中に 赴きたる節,新島学園創立事務所に於て田中省三氏に会するを得,同氏より激励さ るゝと同時に,新島先生伝を執筆すべき適任者として,須田清基氏を紹介されたので あった。ここに,はじめて,新島襄先生の伝記を刊行せんとする端緒を得たのであっ た。その後,幸いにも須田氏としばしば会談するを得て,まづ新島襄先生の言葉を刊 行するのことがまとまったのである。本書はかゝる経緯によりして成ったのであるが, 本書収録の資は須田清基氏の提供によるものであって,私はこれを編纂したにとゞま るものである」と記していることである。4 このことは1946年4月12日に台湾より郷 里安中に引き上げた須田が, 1年もたたないうちに新島についてよく知るものの多 い新島学園創立時の関係者の間でも新島通として一目置かれていたことを示す。特に 田中省三は安中教会員で,1924年金蘭青年会発足時の幹事であり,その後も戦前から
戦中,戦後の困難な時期に,事務的な実務を多く担当し教会を中心にあって支えた一 人である。5 その田中の発言という意味でも,須田に対する評価は意味深い。なぜ周 囲の者が須田を新島の良き理解者,良き語り手と評価するようになったのだろうか。 須田清基は1946年夏から恩賜財団同胞援護会群馬支部の働きにかかわるようにな り,「上毛かるた」の発案と制作にかかわったほか,新島襄,内村鑑三,野口英世, 二宮尊徳などの教育紙芝居を自作自演して群馬県下はもちろん近隣県の多くの小中学 校を自転車で訪れたことは前稿にも記したとおりある。これらの出来事について須田 の発行していた『聖霊時代』第291号にはさらに詳しくこのように記されている。 敗戦とともに,一切を振棄て,一家八人リュック一つで引き揚げて来た。故 郷で迎えるものは上毛の三山だけ,碓氷川の水もかれていた。早速なつかし い小学校を訪ねた。子供達は昔と変わらず嬉々と遊んでいたが,ゴムマリ一 つなく,桜の木のヤニを取って引っ張るのを楽しみにしていた。傍らの男の 子に,「君は将来何になりたい」と尋ねると,「闇屋の大将だい」と答えた。 私はこの時,子供達にこういう人になれよという目標を与えねばと痛感した。 そこで娯楽もかねた教育的な「上毛カルタ」を考案,この中に,「心の灯台, 内村鑑三」「平和の使徒,新島襄」の句を詠みこんだ。これが浦野匡彦氏の 手で県下の小中学校に普及し,三十余年間に五十五万箱も売れたという。次 はカルタでは物足りなかったので,動く紙芝居,「新島襄」「内村鑑三」「野 口英世」を次々と自作自演,全国約五千の小中学校をめぐって,百万人近い 児童の心に新日本建設の夢を吹き込んだ。6 前稿を発表したのち「子どもの頃,須田先生の紙芝居を見た」という声を複数聞い た。教育紙芝居の活動が正確にどのくらいの期間なされていたのか不明だが,戦後の 子どもたちの娯楽が少なかった時代に全国5千の小中学校で100万人の子どもたちが 須田の紙芝居を楽しんだのだ。この紙芝居活動を通して須田が地域の人々に知られ, とくに新島襄の紙芝居を自作自演することにより新島の良き理解者,良き語り手とし て認知されていた可能性がある。 また須田は「上毛かるた」の提案や紙芝居の自作自演と同じ目的から引き上げ直後 に新島襄の記念講演会も行っている。須田の著書『隠れた教育者―春山松太郎の生涯 ―』の自序は「春山先生を知ったのは,私が台湾から引き揚げてきて間もなくであっ た。荒れ果てた戦後の青少年のために,教育会館で「時艱して偉人を想う」と題し, 新島襄先生の記念講演会を開いた時であるから,かれこれ30年近くになる」との一文 で始まっている。7こうした講演活動も新島の良き理解者,良き語り手としての須田
を地域に知らしめるものである。 これらの紙芝居や講演の活動は「上毛かるた」の発案と制作への関与が,「上毛か るた」の「生みの親」である浦野匡彦の働きに隠れ地域の人にはあまり目立たない活 動であったのとは対照的である。どちらも須田の「子供達にこういう人になれよとい う目標を与えねば」との強い思いから行われたものであることは間違いない。それで は,新島襄の良き理解者である須田が,子どもたちに新島のようになれと願い,新島 の良き語り手として伝えようとした,その具体的な内容はどのようなことであるのだ ろうか。次の章で須田の新島理解を詳しく見ていく。 3. 須田清基の新島襄理解 ① 『寛容の使徒 大越鉉吉―伝記と追想―』 須田清基が「上毛かるた」に新島襄と内村鑑三の二人を詠み込むにいたる新島と内 村への理解が最も良く表れているものの一つが須田の編著書『寛容の使徒 大越鉉吉 ―伝記と追想―』である。8この本は上毛愛隣社で献身的に働いた大越鉉吉について まとめたものである。なお上毛愛隣社の前身は1892年岡山孤児院に次ぐ日本で2番目 の孤児院として前橋教会の教会員,宮内文作,金子尚雄らが中心となって設立した上 毛孤児院である。 須田はこの本の緒言においてクリスチャン大越鉉吉の精神的ルーツを示すことから 始める。すなわち「上州が生んだ世界的偉人と言えば,我が国に始めてピュリタン的 キリスト教を植付けた明治の先覚者新島襄と,近代日本の精神的支柱と言われた,キ リスト教界の大先達内村鑑三であると思う」と新島と内村の名前をまず挙げるのであ る。9本文の中では大越鉉吉本人について記す前に,まず大越の直接の精神的ルーツ と言える笛木角太郎,宮内文作,大越米吉の3人のクリスチャンについて1章ずつ割 いている。なお笛木角太郎は宮内と米吉を信仰に導いた聖書販売人で無名の伝道者, 宮内は上毛孤児院の創立者,米吉は鉉吉の父である。 興味深いのは冒頭に資料として写真が納められており「上州に光を放った人々」と して新島襄,内村鑑三,笛木角太郎,宮内文作,大越米吉の5人の顔写真が同じ大き さでおさめられていることである。しかも,まるで写真入りの家系図のように上段左 に新島,上段右に内村,下段に笛木,宮内,米吉が並んでいて,見るものはキリスト 教信仰の遺伝子という意味で新島を父に,内村を母にして,笛木,宮内,米吉が生ま れ,そのもとにさらに鉉吉が生まれたということを想起させられる。須田が本当に家 系図を意識してこのような写真のレイアウトにしたかは不明であるが,信仰の遺伝子 という意味で群馬のクリスチャンは新島を父に内村を母に持つという考えは須田の新
島理解,内村理解を研究する上で助けになる。 内村鑑三についてはまた機会を改め詳しく述べることにして,本稿では新島襄に注 目して資料を見ていく。ここで新島は内村とともに「上州が生んだ世界的偉人」とし て取り上げられ,とくに「我が国に始めてピュリタン的キリスト教を植付けた明治の 先覚者」と評されている。須田は上州人が新島から受けた精神的遺産は非常に大きな ものであったにもかかわらず,多くの上州人がその価値に十分気付かなかったことを 嘆き,新島が郷里安中に建てようとした同志社を京都に移したのはこのためだったと する。実際には新島は所属団体であるアメリカンボートの意向により関西に向かった のであり,新島自身は故郷で出会った人々にとても可能性を感じていたので,これは 須田の主観がかなり入った事実の誤認あるいは脚色である。10 つまり須田清基は,上州人を無頼の徒,侠客のようなものとしながらも,「神の選 びに与り,教育と宗教の手綱によって導かれるならば,無頼の徒安中草三郎も新島襄 となり,侠客国定忠治も内村鑑三となりえるように,短気で怒りっぽい上州人も,寛 容にして平和愛好の聖徒となることを信ずるものである」(下線引用者)ことを強調 するものである。11 そしてその群馬に「寛容にして平和愛好の聖徒」を育てる教育と 宗教,とくに宗教という点においては「ピュリタン的キリスト教」を最初に上州人に もたらしたのが新島であって,近現代の上州人の精神的ルーツという意味でその父祖 は新島であるとの強い思いがある。 それゆえ,須田清基はつづく『寛容の使徒』の緒言で,新島襄が1874年11月26日ア メリカ留学をおえ10年ぶりに帰国し,まず郷里安中へ帰り龍昌寺でキリスト教伝道の 第一声を上げたことを高らかに記すのである。そして新島によって播かれたキリスト 教信仰の福音の種が1878年の安中教会設立へつながり,やがて新島のもとで指導を受 けた同志社英学校の卒業生である海老名弾正や柏木義円らが安中教会牧師に就任した ことにより,群馬県下における福音宣教はさらに推進され多くのクリスチャンが生ま れ多くの教会が設立されたとする。そしてここが最も重要な点だが,新島の影響下に 誕生したこれらの群馬のクリスチャンたちは県下で社会的弱者に寄り添い多様な社会 運動や社会事業を展開した。このことを須田は力強く以下のように記す。 そして明治十五年,キリスト教青年同志会の設立を見ると共に,公娼全廃の 火蓋が切られ,県議会を動かして,全国に魁け,その実現を見たばかりか, 山間僻地に至るまで,禁酒運動の展開を見た。そして明治二十一年には共愛 女学校を創立し,県下女子教育に先鞭をつけ,さらに二十五年には上毛孤児 院を,二十八年には清心幼稚園を,三十六年には前橋養老院を,大正二年に は私立盲学校を,十三年には前橋保育園を創立するなど県社会事業の先駆と
して,百万県民の心をゆり動かした。12 つまり,須田清基にとって「平和の使徒 新島襄」の播いた福音の種により誕生す る「平和愛好の聖徒」とは,具体的には社会的弱者に寄り添う多様な社会運動や社会 事業を行い,先駆けとして県民の心を揺り動かすクリスチャンのことであるといえる。 だとするならば,新島が上毛かるたにおいて「平和の使徒」と詠まれたのは,新島が 群馬に「ピュリタン的キリスト教」をもたらしたことにより,第一には群馬に社会的 弱者に寄り添い社会を改善するための多様な社会運動や社会事業を展開する人々が生 まれ,県民がこうした社会運動や社会事業の大切さに目覚めたことを指している。そ して「平和の使徒 新島襄」の「平和」という言葉は戦争との関係において用いられ ているのではないことが分かる。とはいえ「平和の使徒 新島襄」が全く戦争と関係 がないわけではない。 須田清基は『寛容の使徒』の緒言を,「平和の使徒 新島襄」の影響により群馬に誕 生した当時の代表的な「平和愛好の聖徒」として本文で取り上げる笛木角太郎,宮内 文作,大越米吉を含めた男女36名のクリスチャンをあげ本文への前置きとしている。13 この36名は,先にあげられた公娼全廃や禁酒運動の推進者,共愛女学校,上毛孤児院, 清心幼稚園,前橋養老院,私立盲学校,前橋保育園の創立者などで政界,実業界で活 躍した者も多いが,その中に平和主義者であり非戦論で知られる柏木義円と住谷天来 が挙げられているからである。この点について,須田の著書『隠れた教育者―春山松 太郎の生涯―』から見ていく。 ② 『隠れた教育者―春山松太郎の生涯―』 『寛容の使徒』に表れている須田清基の新島襄への理解を,さらに深める資料が須 田の著書『隠れた教育者―春山松太郎の生涯―』である。この本は群馬県の小学校の 教師であり,晩年65歳の時に須田より洗礼をうけクリスチャンとなった松山春太郎の 伝記である。この本は前述の『寛容の使徒』が出版された1974年の翌年,1975年に出 版された。同じころに相次いで出版された同様の伝記であるだけに,『隠れた教育者』 も松山の精神的ルーツを記すことからはじまる。しかしこの本のはしがきは「徳川治 政三百年間の泰平に眠る,上州人の夢を破って,その魂をゆり動かした人物が三人い る。それは初代の群馬県知事楫取素彦と,明治の先覚者新島襄と,近代日本の精神的 支柱と言われる内村鑑三である」14とあり,この本では新島と内村に加え,楫取の名が 挙げられている。 これは須田清基が『隠れた教育者』で上州人をよりよく導く手綱である「教育と宗 教」を「教育」と「宗教」の各分野にわけ論じようとしたためである。『寛容の使徒』
ではどちらかと言えば「宗教」という意味合いに重きが置かれていたとはいえ「教育 と宗教」をもたらした新島襄という文脈であったのに,なぜあえて『隠れた教育者』 あえて「教育」と「宗教」をわける必要があったのか。『寛容の使徒』の大越鉉吉は 生涯を通してクリスチャンとして歩んだので,その精神的ルーツも新島襄と内村鑑三 という二人のクリスチャンから始めることで何の矛盾もなかった。一方春山松太郎の 場合は65歳で洗礼を受けるまでその生涯の大部分をノンクリスチャンの教育者として 過ごしている。『隠れた教育者』もその時期の松山の生涯を多く扱っているため,新 島と内村というクリスチャンのみから始めるには無理がある。そこで,この本では宗 教と教育に明確に分け,宗教の分野の新島と内村に加え,教育の分野で梶取素彦をあ げることから始めた可能性がある。 しかし,新島襄は「自由教育,自治教会,両者並行,国家万歳」を生涯の目標とし ていた教育者であり牧師である。新島はキリスト教を徳育の基本とした教育とキリス ト教伝道をよりよい社会を作るための車の両輪のように考えていたのだから,松山春 太郎の伝記を記すためとはいえこの試みは須田の新島理解が,実際の新島の目指した ものと食い違う印象をあたえてしまう危険性がある。とはいえ『隠れた教育者』でも 須田の新島は「平和の使徒」であるとの理解を裏付ける,新島の影響により群馬に社 会的弱者に寄り添い多様な社会運動や社会事業を展開する人々が生まれたことにはぶ れることなく力点が置かれつづけている。特に注目すべきはこの文脈において柏木義 円と住谷天来という二人の平和主義者が詳しくとりあげられていることである。 『隠れた教育者』の自序でも,須田清基は「人間も,教育と宗教という二本の手綱 をもって導けば,安中草三郎も新島襄となり,国定忠治も内村鑑三となる」との持論 を展開する。15 そして明治以降,教育の手綱という点では初代群馬県知事の梶取素彦 が教育の普及に努め,宗教の手綱という点では明治の先覚者新島襄が故郷安中でキリ スト教伝道の第一声を上げると共に京都の同志社で精神的人物の養成に努めたとす る。「こうして上州は,明治の黎明とともに,二人の良い指導者を与えられ,教育と 宗教という二本の手綱によって導かれ,当時日本一の教育県と言われた,岡山,長野 とともに「教育群馬」の名を挙げ,さらに全国に魁けて公娼全廃を断行し,県下津々 浦々に至るまで,禁酒運動の展開をみるなど「道義上州」の実を示すに至った」とす る。16 そして次第に上州に優れた人物があらわれてきたが,その中で「典型的上州人 として,われらの範とする所を選ぶことは,容易ではない」としながらも,宗教界か ら「最も苦難な道を歩まれながら,何ら報いも得られなかった人,しかも終始一貫, 節を曲げず,正義人道を叫んでやまなかった人」として住谷天来と柏木義円という二 人の非戦論者をあげ,さらに『寛容の使徒』でも取り上げた笛木角太郎の3名を挙げ ている。さらに教育界からは中島長吉,田部井鹿造,春山松太郎の3名を挙げ本文へ
の前置きとしている。続く本文では1から3章で梶取,新島,内村をとりあげ,第4 章で住谷,柏木,笛木,第5章で中島,田部井,春山をとりあげ,以下春山について 生い立ちから詳しく記している。 『隠れた教育者』の第2章では新島襄の生涯がその誕生から死に至るまで紹介され ている。その中で第3節は新島が故郷安中にて日本伝道の第一声を発したことについ て記している。そして新島の影響下に群馬にキリスト教が広まり,新島の影響下に誕 生したクリスチャンが群馬の社会運動,社会事業の先駆けとなって県民の心を揺り動 かしたことが前述の『寛容の使徒』の緒言とほぼ同様の文章でつづられ,新島により 「道義上州」の名が全国に響き渡ったとする。ここで須田の新島理解という点で特徴 的なのは新島と「道義上州」が結びつけられ語られている点である。 さらに『隠れた教育者』の第4章「上州の生んだ宗教家」,第1節は「非戦論の先 駆住谷天来」について記されている。その中で須田は「住谷は新島襄からピュウリ マ マ タ ン的キリスト教を学び,さらに内村と直接交わることにより,新島・内村という思想 界の巨人の跡を継ぐことができた」としている。なるほどこの本には記されていない が,住谷天来は1888年前橋教会で新島の教え子である不破唯次郎から洗礼をうけキリ スト者になっている。17 そしてその後,内村鑑三との生涯を通じての親しい交流が続 いた。住谷は内村や柏木義円が日露戦争からはっきりと非戦論を唱え始めるのに先駆 け,日清戦争時にすでに非戦論を唱えたのである。 さらに『隠れた教育者』の第4章,第2節は「鉄筆を折られた柏木義円」について 記されている。新島襄とのつながりという点では,柏木は同志社英学校で新島より直 接教えを受け,その後第5代の安中教会牧師となった。そこで『上毛教界月報』を 1898年から1936年までの38年間に459号を発行し,日露戦争を契機に「非戦論」を展 開し,軍国主義の時代にあり鋭い社会批判を行った。須田は「当時のクリスチャンは 毎号『上毛教界月報』を,手に汗して読んだものである」としている。須田も『上毛 教界月報』の愛読者であったのでこれは実感のこもった意見である。 以上のように,須田清基が新島襄を上毛かるたにおいて「平和の使徒」と詠んだの は,新島が群馬に「ピュリタン的キリスト教」をもたらしたことにより,第一には群 馬に社会的弱者に寄り添い社会を改善するための多様な社会運動や社会事業を展開す る「平和愛好の聖徒」が生まれ,県民がこうした社会運動や社会事業の大切さに目覚 め「道義上州」が推進されたと理解したためである。すなわち「平和の使徒 新島襄」 の「平和」という言葉は直接的暴力である戦争との関係においてのみ用いられている のではない。むしろ「平和の使徒 新島襄」の「平和」という言葉はより広い内容を 含んでいる。すなわち社会を改善し真の平和を実現するための社会運動,社会事業の 一つとして平和主義,非戦論があるのである。こうした平和の概念は非常にキリスト
教的なものである。 4. 終わりに 須田清基はその著書『唯一の神イエス―キリストを誰と思うか―』のあとがきにお いて自身の生い立ちに触れ「幼児から安中教会に通い,新島襄,内村鑑三にあこがれ た」と記している。18 須田の「平和の使徒 新島襄」との新島理解はどこからもたら されているのだろうか。すでに何度も述べていることだが,新島の死後に須田は生ま れているので新島との出会いは直接的なものではなく,新島の教え子で最も良き理解 者のひとりと言われる安中教会の柏木義円や,彼が発行していた『上毛教界月報』に よるところが大きい。 柏木義円研究者の伊谷隆一は「柏木は新島を絶えず引き合いに出して人の生きよ うを論ずる」と評する。19 たとえば柏木が福沢諭吉の生きようを論じた『上毛教界月 報』第16号には福沢の生きように対して新島襄の生きようは次のようであるという。 「独り先生に至ては戸毎に説き人毎に諭すてふ所謂迂遠の事を以て個人個人の心霊を 改変し之を聖め之を高むるに非れば到底真正なる文明社会を致す事能はずと為し極力 教育と宣教とに尽瘁さられたり」。20 ここで注目すべきは新島が真の文明社会を作るた めには,教育と宣教,つまり宗教により,個人個人の心霊を改変し,聖め,高めるこ とによると考えていたと柏木が論じている点である。 なるほど新島襄のモットーは「自由教育,自治教会,両者並行,国家万歳」であり, そのために「良心の全身に充満したる丈夫の起り来らん事を」望んで同志社を設立し たのであった。須田清基は子どもの頃よりこうした新島の話を直接柏木義円から聴い ており,また台湾移住前も移住後もこのような『上毛教界月報』に掲載された新島に 関する記事を読んでいる。それゆえ須田は新島が「平和の使徒」であり,新島がもた らした教育と宗教,特に「ピュリタン的キリスト教」により上州人が「平和愛好の聖 徒」なり,平和主義はもちろん,様々な社会的弱者の立場を受け止めた社会運動,社 会運動が推進され「道義上州」が実現することを信じるようになった。ところで須田 のいう「平和」はキリスト教的な意味を持つので最後にキリスト教における平和につ いて考えまとめとしたい。 キリスト教における平和の概念は時代,社会,文化によって多様であり,簡単には 説明できないし,明確な答えを出すことは困難である。しかしキリスト教における平 和の概念を考える際に,根底にゆるぎなく救い主イエス・キリストの教えや十字架と 復活の生涯があることは間違いない。そしてキリストの教えと生涯の目的は「神の国」 という言葉によく表される。このことはキリストがその宣教活動を公に開始する際の
記念すべき第一声が「時は満ち,神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」 (マルコによる福音書 1章15節)であることからも理解できる。 キリスト教における平和の概念と密接な関係にある「神の国」とはどのような状況 を指す言葉だろうか。この場合の「国」は「領域」よりもむしろ「支配」「統治」の 意味合いが強く,すなわち「神の国」とは「神の支配」を意味する。マルコによる福 音書で「神の国」とされている言葉は並行するマタイによる福音書の記事では「天の 国」(マタイによる福音書4章17節)と記されている。つまり「神の国」とは「天国」 のことである。一般的に「天国」は死後の世界をさす場合が多い。たとえば「○○さ んは亡くなって天国にいった」という場合がそれである。しかしイエス・キリストの 「神の国」「天の国」は死後の世界だけを指すのではなく,それ以上には今わたしたち が生きている現実の世界を指すものである。 このことを理解するのに「生き地獄」という言葉を考えてみるとわかりやすい。 「生き地獄」とは今わたしたちが生きている現実の世界の中で地獄のような苦しみが ある状況のことである。同じようにキリストの「神の国」「天の国」は今わたしたち が生きている現実の世界の中でキリストの教えと生涯により神の人間に対する救いの 働きが完成し天国のような平和な状況が実現する,いうなれば「生き天国」のことで ある。 イエス・キリストは最も重要な掟に関して「『心を尽くし,精神を尽くし,思いを 尽くして,あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も,これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体 と預言者は,この二つの掟に基づいている」(マタイによる福音書22章37-40節)と教 えた。すなわち神への愛と,隣人愛が大切だと教えたのである。しかもキリストの隣 人を大切な存在として思いやる愛はその対象を敵にまで拡大する。「敵を愛し,自分を 迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章44節)とあるとおりである。 つまりキリストの「神の国」とはすべての敵対関係をこえた愛の支配する究極に平和 な国であり,そこでは戦争がないのはもちろんあらゆる貧困,差別,抑圧もない。 須田清基が「平和の使徒 新島襄」と詠んだのは,戦争との関係においての平和だ けを意図してのことではない。むしろ上記のようなキリスト教的な広い平和の概念を 踏まえ新島を「平和の使徒」といったのである。ここでは社会に真の平和をもたらす ため,非戦論や平和主義を主張し戦争を否定し根絶こととはもちろん,「人ひとりは 大切である」といった新島の言葉どおりに,あらゆる貧困,差別,抑圧をなくしすべ ての命が大切にされるよう社会を改善するための社会運動や,社会事業の積極的な展 開が意図されている。確かに新島自身が直接的に戦争反対を訴え,良心的兵役拒否を したわけではないが,群馬に非戦論や平和主義を含め,様々な社会的弱者を助け共に
歩もうとする社会運動,社会事業を展開する「平和愛好の聖徒」を生み出し,県民が こうした社会運動や社会事業の大切さに目覚めたという点で新島は間違いなく「平和 の使徒」である。わたしたちは「上毛かるた」の「平和の使徒 新島襄」という札か ら,須田がこの札に込めた「平和の使徒 新島襄」に学び「平和愛好の聖徒」となり 「道義上州」をさらに推進しようとの願いをしっかりと理解し受け止めるものでありた い。 なお,本稿ではなぜ内村鑑三が「心の灯台」なのかには触れることができなかった。 これは今後の課題とする。 注 1 財団法人群馬文化協会『上毛かるた―60年の歩み』(財団法人群馬文化協会,2007年)41頁。 2 山下智子「須田清基―上毛かるたへの貢献―」『新島学園短期大学紀要』第30号(新島学 園短期大学,2010年) 3 須田清基,神田哲雄共編『新島襄の言葉』(青年出版社,1947年)なお本書は旧字体が用 いられているが,本稿への引用は新字体に改めた。 4 同上,121-122頁。 5 新島学園女子短期大学新島文化研究所編『安中教会史―創立から100年まで―』(日本基督 教団安中教会,1988年)。安中教会の第7代牧師である江川栄は金蘭青年会ですばらしい信 仰の先輩として須田清基とその良心的兵役拒否について紹介したとの現安中教会員の証言 もある。 6 須田清基「内村鑑三との出会い」『聖霊時代』第291号(真イエス教会,1981年4月1日) なお『聖霊時代』須田清基が発行していたはがき通信であるが,清基自身の手によるもの としては第290号までであり,第291号から第308号までは清基の息子である須田献東によ り清基の遺稿などにより発行された。 7 須田清基『隠れた教育者―春山松太郎の生涯―』(群馬寛容会,1975年) 8 須田清基『寛容の使徒 大越鉉吉―伝記と追想―』(寛容会,1974年) 9 同上,1頁。 10 同志社編『新島襄の手紙』(岩波書店,2005年)104‐105頁。 11 須田『寛容の使徒』2頁。 12 同上,3頁。 13 同上,4頁。具体的には「安中の湯浅治郎・柏木義円・宮口二郎・清水治郎造・内田久 治/原市の半田平次郎・長加部寅吉・伊藤益吉・永井延次郎/藤岡の高津仲次郎・高山長 五郎/高崎の大越米吉・星野保光・山村暮鳥・熊井常三郎・松本次夫/前橋の深沢利重・ 宮内文作・後藤源久郎・桑島定助・木戸広吉/伊勢崎の森川抱次・森村堯太・外谷清一 郎/渋川の栗原陽太郎/沼田の星野光多・笛木角太郎/高山の有馬俊平」,「婦人界からも, 湯浅とみ,半田かく,小泉たね,金子おなじ,黒田サチ」。 14 須田『隠れた教育者』1頁。なお本書では冒頭に須田による自序とはしがきの二通りが収 められている。 15 同上,自序。 16 同上。
17 住谷一彦他『住谷天来と住谷悦治―非戦論・平和論―』149頁。 18 須田清基『唯一の神イエス―キリストを誰と思うか―』(キリスト新聞社,1965年)148頁。 19 伊谷隆一『非戦の思想―土着キリスト者・柏木義円』(紀伊国屋書店,1967年)70頁。 20 同上。 <参考文献> 伊谷隆一『非戦の思想―土着キリスト者・柏木義円』(紀伊国屋書店,1967年) 伊谷隆一「須田清基」『ドキュメント日本人3反逆者』(学芸書林,1968年) 財団法人群馬文化協会『上毛かるた―60年の歩み』(財団法人群馬文化協会,2007年) 上毛新聞社編『群馬人名大事典』(上毛新聞社,1982年) 須田清基,神田哲雄共編『新島襄の言葉』(青年出版社,1947年) 須田清基『唯一の神イエス―キリストを誰と思うか―』(キリスト新聞社,1965年) 須田清基「内村鑑三との出会い」『聖霊時代』第291号(真イエス教会,1981年4月1日) 須田清基『寛容の使徒 大越鉉吉―伝記と追想―』(寛容会,1974年) 須田清基『隠れた教育者―春山松太郎の生涯―』(群馬寛容会,1975年) 須田清基『二一世紀の世界に捧ぐ』(1996年) 住谷一彦他『住谷天来と住谷悦治―非戦論・平和論―』 田島一郎「須田清基―軍隊を離脱したキリスト者」『シリーズ人と思想1埋もれた精神』(思想 の科学社,1981年) 手島仁『群馬学とは』(2010年) 同志社編『新島襄の手紙』(岩波書店,2005年) 新島学園女子短期大学新島文化研究所編『安中教会史―創立から100年まで―』(日本基督教団 安中教会,1988年) 日本基督教団前橋教会教会史編集委員会編『前橋教会史―120年の歩み―』(日本基督教団前橋 教会,1996年) 萩原俊彦『近代日本のキリスト者研究』(耕文社,2000年) 山下智子「須田清基―上毛かるたへの貢献―」『新島学園短期大学紀要』第30号(新島学園短 期大学,2010年)