著者 坂井 誠
雑誌名 新島研究
号 109
ページ 16‑32
発行年 2018‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000247
企画報告
新島襄の教育への関心は いつ頃獲得できたか?
坂 井 誠
はじめに
新島襄(1843(元治元)年〜1890(明治14)年)は今では教育者として 冠たる地位を占めている。福沢諭吉と並び称されていることは衆目の知ると ころである。
新島は1864(元治元)年6月に函館から脱国を試み、これに成功する。
翌年7月にボストンに到着した。ボストンの実業家A・ハーディー(Al-
pheus Hardy)夫妻の庇護のもとほぼ9年に及ぶ勉学の機会を得た(フィリ
ップス・アカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校)ことも周知 の事実である。
新島の脱国の理由を特定することは難しい。ニコライ宛の書簡によると、
日本の道徳改革にその主眼があり、その基礎に「キリスト教」を置こうと し、ためにヨーロッパに留学したい旨を記している。この「ニコライ宛書
したた
簡」1)、さらにA・ハーディーに認めた「脱国の理由」2)にもキリスト教を学 びたいとの旨を語っているが、これは本当であろうか。この疑問は常に筆者 の念頭を去ることはなかった。後者の言葉はアメリカでの学問成就のための 手段的発言ではなかったかと考えている。別の機会にこの課題については明 らかにする必要があろうかと思っている。
それはともかくとして、表題のテーマについて考えていきたいと思う。こ れまで新島の教育思想についての研究成果は多く見受けられるが、意外なこ とに、「新島と教育を結びつける原点となるものは何か」との問いについて 語られることが無かったのではないかと思われる。新島研究の隙間となって
いる部分に供することが出来るならば望外の喜びである。
なお、この稿は、2017年8月5日に行われた「2017年度 第1部門研究 8月一日研究会」での報告をもとにしている。
1.いつ頃教育への傾斜があったか?
①新島の第一の関心は「神への奉仕」にあった
青年期の新島は「勉学志向型」の人物3)であったが、彼を取り囲む周囲の 環境変化が勉学を困難にしていった4)。時代は尊皇攘夷運動の嵐が吹き荒れ
しがらみ
ていた。尊攘派に傾斜していた新島は、藩主・家族の柵のゆえにこれにも参 加することができずに、心的鬱積のみを大きくする。
この新島の状況を救ったのは友人杉田廉卿と彼から借り受けた書物であっ た。『漂荒記事』(『ロビンソン・クルーソー』の邦訳 黒田麴廬訳)、『連邦 志略』やキリスト教に関する若干の印刷物(以下、これを「小聖書」と略称 しよう)などを読んで飛翔を期していた。
一つの転機は、備中松山藩(板倉勝静)所有の快風丸での玉島行にあり、
この航海で新島は今まで味わったことのない自由を満喫する。さらに1864
(元治元)年3月、同船で箱館に及ぶ。この箱館行の目的は英語修得にあっ たが武田塾の体制が不十分であったことから、ニコライの知己を得て彼から 語学・キリスト教・西洋史などを学んでいる。このニコライとの邂逅が「は じめに」に記した認識と行為となってくる。
この時期の新島は日本の改革の必要性を感じ取っていた。彼はニコライと の対話の中で次のように語る。「日本がいちばん必要としているのは道徳上 の改革です、そして私の確信するところでは、その改革はキリスト教を通し てもたらされなくてはなりません」5)。
道徳上の改革とキリスト教がセットになっている。ニコライとの交流のな かで新島はキリスト教を学ぶべく、日本脱出の計画を打ち明けるが賛意を得 られないままに、一人で脱国を決意する。福士卯之吉の協力を得て箱館を脱 国するのは1864(元治元)年6月のこと。さらに同年7月に上海でベルリ ン号からワイルド・ローヴァー号に乗換え、翌年(1865年)7月にボストン
に入港したのである。
1865年10月、新島はテイラー船長の紹介で、ワイルド・ローヴァー号の 船主A・ハーディー夫妻に初めて面会している。A・ハーディーは新島にそ の渡米の意図を尋ねたが、語学力の無い新島の語ることが理解できないこと から、暫くの時間を与え、彼に渡米目的を書かせた(「脱国の理由」)。
「脱国の理由」に新島のこの時点でのキリスト教についての思いが認めら れている。彼は友人(杉田廉卿)から借り受けた「小聖書」を読んで、天地 創造譚、三位一体論、贖罪論などを理解したと語るが、これはA・ハーディ ー宛の手記であったれば、リップ・サーヴィスであっただろうと思われる が、杉田から借り受けた一連の書物を通し、キリスト教に関する初歩的な知 識を得たのは事実であろう。
A・ハーディーの庇護を受けるようになった新島は、アメリカ生活のスタ ートを切ることとなった(新島は、1865年10月14日、ハーディ家にひき とられ、同月30日にフィリップス・アカデミーの英語科に入学している)。
新島を支援した人々(A・ハーディー夫妻、ミス・ヒドゥン姉弟、E・フ リント夫妻、S・H・テイラー、W・A・スターンズ総長、J・H・シーリ ー教授)はピューリタンの敬虔なクリスチャンであったし、フィリップス・
アカデミー、アーモスト大学も三位一体論を堅持するキリスト教主義の教育 機関であった。新島はこうしたキリスト教的環境の中にどっぷりと浸かるこ ととなり、否が応でもその影響を受けることとなる。
アメリカ生活が始まって一年が経ったころの新島は、キリスト教への傾斜 を一層強めている。1866年10月27日付のハーディー夫人宛書簡をみると、
「今や私はイエス・キリストが私たちの罪のために死に給うた神の御子であ り、私たちはイエスを通して救われる、と信じています。私は何にもまして イエスを愛しています。私は自己の全部をイエスのために投げ捨て、イエス の御前で正しいことをしようとしています。これが私の誓いです」6)とあり、
この年の12月には受洗し、イエス・キリストの僕となっている。
アメリカでの生活も、時が経て、アンドーヴァー神学校に学ぶ頃になる と、新島の胸中には一つの不安が去来することとなる。帰国問題である。こ の不安は、新島が、脱国者・キリスト者であることの二重の意味で国禁を犯
している身であることから、スムーズな帰国は不可能ではないかとの思いに 由来していた。
しかしながら1871年3月、新島を取り巻く環境に大きな変化、しかも好 転的変化が生じてくる。同月15日、新島は明治政府の要人森有礼(駐米少 弁務使)と邂逅する。森は、いわゆる、岩倉使節団(ことに教育視察団)の 通訳として新島に白羽の矢をたてたのである。これと同時に、新島は留学生 として公認されることとなった。ここに新島の不安は杞憂と帰すこととな る。その時期のフリント夫人宛書簡に新島の関心事の一端が記されている。
「私としてはむしろ自由な日本市民としてとどまり、全力をあげて主の御用 のために献身したいのです」7)。ここにある「自由な日本市民としてとどま り」とは、森と新島の邂逅時の話の中で、森は新島に国費留学生として位置 づける意向を語ったが、新島は国費留学生になることにより、政府の介入
(支配)を受けることを否としたことを前提としている。
この時点の新島の関心事は「主の御用のため」の「献身」にあった。さら に、この書簡の半年後、ハーディー夫人宛の書簡にルカ伝の一節(ルカ伝9 -61〜62)を想起した一文を認めている。「私は鋤に手をかけています。故 に、主の御為に働かなくてはなりません」8)。
森有礼が新島を招いた目的は日本にアメリカ式の学校を創設するにあた り、新島の助力を必要としたことに拠ったが、新島はその責任者になること の返事は保留している。その理由について、彼は「わが主の福音を説くこと をしないのであれば、それはわざわいというものだからであ」9)るとしてい る。
あ り ど
1866年頃から1871年頃のいくつかの書簡から新島の関心の在処を探った が、彼の意識は一貫して神への従順な奉仕にあったとみてよさそうである。
と同時に常に、「神への奉仕」を行動原理の基礎に位置付けていたといえよ う。
②教育への関心
ⅰ.欧米の教育施設視察
当初、「神への奉仕」を第一義としていた新島が教育に関心を持つに至っ
た契機は奈辺にあったか。
やはり田中不二麿との米欧での教育視察が大きなきっかけとなったとみら れる。この教育視察では、多くの教育機関、研究機関、社会施設などを見聞 するが、この視察を踏まえて、新島の中で「何が内在化(課題化)されたの か」を検討する必要があろう。
岩倉使節団は欧米の文物を貪欲なまでもの視察を行っている。久米邦武編
『特命全権大使 米欧回覧実記』(岩波文庫版 全五巻)を見ると、政治・経 済・社会・軍事・産業・教育・文化などの多岐に及ぶ分野での調査が詳細に 記されている。
この岩倉使節団の視察グループの一つに教育視察団があった。そのリーダ ーが田中不二麿(文部理事官)である。
森有礼の紹介で新島がこの田中と出会うのが1872年3月8日(於.アー リントン・ハウス)のことで、新島は教育視察団の通訳として委嘱を受ける こととなった。
『新島襄全集』8の年譜編に依拠して教育視察団の足跡を拾うことにする。
視察団は、3月15日から米国における教育関係者(J・イートン将軍)
を訪問、女学校の見学などを皮切りにその活動を開始している。視察施設を 列挙するにとどめるが、スミソニアン・インスチチューション(3/19)、コ ロンビア・カレッジ(ジョージ・ワシントン大学の前身 3/22)、ワシント ンの墓参(3/28)、ペンシルヴェニア州ヴィッカーソン教育長との会談(4/
2)、フィラデルフィアの自然科学アカデミー、刑務所の視察見学(4/5)、フ ィラデルフィア市内の小中学校視察(4/8)、ハーヴァード大 学 訪 問(4/
14)、ボストン市内の公立学校視察(4/15、16)、ボストンで使用されている 教科書購入(4/17)、製粉工場見学、ブラッドフォードの女学校、フィリッ プス・アカデミー、アボット女学校、神学校などの視察(4/18)……イェー ル大学、(陳列 館、歴 史・美 術 館、Sheffield Scientific School見 学(4/29)、
ハートフォードの聾唖施設、高校、ブラウン・スクール、精神病院、ニュー ブリテンの師範学校、州立感化院、メリデン金メッキ工場の見学(4/30)、
ユダヤ教会、コロンビア大学、ルカ病院、YMCA等の訪問(5/8)。
このように、北米の施設見学などが3月半ばからほぼ二ヶ月の間に精力的
に行われている。見学内容も教育施設を中心としながらも、各種社会施設、
工場、医療機関と多岐にわたっている。広範な視察範囲をうかがうことがで きる10)。
1872年5月11日、新島は田中不二麿とともにアルジェリア号の人とな り、イギリスに旅立った。ヨーロッパでは、英国を皮切りに、仏瑞独露蘭典 の国々を訪れている。ここではイギリスを例にとってどのような施設を視察 したのかを尋ねることにしたい。
5月21日、リヴァプールに到着。マンチェスター大主教のジェイムズ・
フレイザー博士(イェール大学のポーター総長の友人)を訪ね、英国の教育 制度についての話を聴いている(5/24)。グラスゴーにおいては、Established Church Normal School, New Universityを見学(5/27)。Mr. Leitchs Normal
Schoolで宗教の授業の見学(5/28)。エディンバラ大学ではエディンバラ公
の胸像、ダグラス・スチュワードの銅像を見るとともに、図書館、Philo- sophical Room、Anatomy Departmentの見学(5/30)。エディンバラ・アカデ ミー、Collegiate Instituteを訪問(5/31)。キャッスル・ヒルに行き城塞、大砲、
空堀、跳ね橋、ジェームズⅣの誕生地、クイーン・メアリーの居間、王冠、
刀剣などの見学(6/1)。エディンバラを朝10時25分に経って夜8時半にロ ンドンに到着した(6/5)が、ロンドンでは大英博物館、動物園、ウエスト ミンスター寺院、英国議会、ロンドン塔、株式取引所、市長公邸、食肉市場 などを見学している(6/8〜12)。教育機関としては、サウス・ケンジントン のThe schools of art and science、カーゾン・スクールではM・アーノルドに よる教育実習生の試験の見学、聾唖院見学、オックスフォードでは各カレッ ジ、図書館、博物館の見学、ケンブリッジでは各カレッジを見学している
(6/20〜7/9)。7月16日には田中とともにロンドンをたちパリに向かった11)。 イギリスでも多くの施設、大学、学校を見学しているが、新島のコメント は聞こえてこない。例えば、新島らがエディンバラからハーディーに宛てた 書簡(1872年6月3日付)の中には「…マンチェスターの主教(国教会の
主教James Fraserのこと 引用者注)と非常に楽しい会見をし、イングラン
ドの教育について多くの情報を得ました。私たちは東洋人に対する主教の丁 重さと、私たちのこれから先の旅についてのきわめて健全な忠告をとても嬉
しく思いました。」12)とあるけれども、「イングランドの教育について多くの 情報」の記載がないゆえ、その内容は不明である。
ⅱ.「独乙国」の場合
ヨーロッパの教育視察に田中不二麿が新島を同道させる目的は、「ヨーロ ッパの教育制度を研究させ、諸学校における運営をつぶさに視察させ」13)る ところにあった。
端的に言えば「諸学校における運営」の仕方の視察ということになろう。
新島の稿によるとされる『理事功程』の一部分「独乙国公学校ノ規則 第 一」(この「独乙国公学校ノ規則」は第一編から第三編まであるが、ここで は第一編の骨格だけを紹介するにとどめる)の冒頭には「教育局」の表題を 設け、教育の管理の元締めが何処にあるかを紹介する。「寺院及政府ト共ニ 小学校ヲ保護スル事ヲ以テ己ノ職分トセリ、故ニ政府トシテ其保護ヲ辞スル 者ナク、且寺院トシテ其ノ監察支配ノ権ヲ握ラザル者ナシ(下略)」14)とし て、教育管理の中枢は政府と寺院にあることを明らかにした。さらに政府部 内にあっては、全国を八州に分け、各州に知事を設置し知事の権限の一つと して教育事務を管轄させたのである15)。また、各地方には地方令なる官員が あり、その地方の僧官を監督し、教育事務の末端機構の役割を果たすことと なる16)。
ここに「僧」を監督するとあるがどういう意味か。「区内ノ吟味司」の項 に以下のようにいう。「各区ノ牧師タル者、区ノ吟味司トシテ区内ノ学校ヲ 差配スルハ、尚監督ノ地方ノ吟味司トシテ其地方ノ学校ヲ差配スルガ如 シ」17)。すなわち牧師が地方「官」の補助機関としての役割を担っている。
牧師は学校に派遣されその監督にあたるのである。ここに「官」と「教会」
(牧師)とが結びつく姿を示している。まさに「牧師ハ又高級ナル教育懸リ ノ官局ト学校管理局ノ間ニアリ、其官員ノ文通ヲ上下」18)するのである。し かしながら、牧師は「官」の末端にあって管理事務のみに従事していたので はない。学校内において「神学」教授をほどこしていた。「学校ニ於テ生徒 ニ神学ヲ授クルハ多分牧師ノ手ニアリテ、其ノ労スル所甚不少」19)と記して いる。ここで問われるべきは、政治と宗教の関係である。ドイツにあって
は、地方の権利は微弱であるけれども自治権は保障されていることを語りな がら、その権が大きくなりすぎたならば、「牧師」と「管理局」の間で「不 和ヲ生スル」20)可能性を語る。
また、「教育」と「宗教」の関係についてどのようにみているのか。新島 のアメリカでの教育経験から学校における宗教教育(キリスト教育)が必要 であるとの立場にあったれば、これの推進を是とするのは当然であろうと考 えられる。何故なら、宗教(キリスト教)は暴徒を良民へと導く役割を担う からである。ドイツにおいても同様の意図のもとで教育における宗教の果た す役割を容認している様を記す。
「独乙国公学校ノ規則 第二編」21)では束縛法、私学校、幼学校などの記述 があり、「第三編」22)にあっては、教官ノ仕立方、「普魯士ノ公学校(小中共)
の規則」23)では、束縛法、公学校(初歩学校、府学校)ノ規則、公学校保存
マ マ
ノ法方などを紹介している。
ⅲ.米欧での教育視察を通して
新島はこの米欧での教育視察を通して何を獲得していったのであろうか。
この問いに答えうる資料が少ないのが悔やまれる。ハーディー夫妻宛の書簡 を手掛かりに垣間見る以外術がないが、新島が、教育視察を経て獲得してい った事象の個々のシーンを挙げてみたい。
第一に、1872年4月30日付の夫妻宛の書簡に、シーリー教授、ヒッチコ ック博士らの招きでノーサンプトン・インスティテュートを訪れた際、聾唖 者への教育の方法として、「新しい教育法」に関心をもった記述があり、口 のきけない人もしゃべることが出来ると書き残している24)。
第二に、ロシア、サンクトペテルブルクにあった際、ロシアの上流階層の 人たちと下層階級の人たちとの教育間格差の大きいことに着目して次のよう に記した。「上流の人々は非常に知的に見え、彼らの大部分は少なくとも一 つか二つの外国語を話します。一方下層の人々はきわめて無知であり、見ば えもせず、ロシア語さえ読むことができません。他のヨーロッパの都市なら ば馬車の御者はよく新聞を読んでいるのを見かけたものでしたが、ここでは そういう御者はついぞ見かけず、彼らは客待ちしながらいつも居眠りしてい
ます」25)とある。
さらに第三には、オランダ・ハーグで公教育大臣の接見を受け、ハーグの すべての学校参観の機会を与えられ、喜んでこれを享受している。オランダ
(ハーグ)での教育視察は快適なものであった様子がわかる。「嬉しいことに 教室は清潔で子供たちはきちんとしていました。オランダの学校制度はすぐ れたものです。学校は人民の全階級に向けて開かれています」26)。アムステ ルダムでは、「公教育省の役人の案内ですべてのグレイド別の学校を視察し ました。一つの学校は変わっていて、そこでは労働者階級の若者たちが工業 の特定の分野について、理論的・実践的に授業をうけていました」27)と記し ている。
アメリカの教育制度の高度な様子は聾唖学校の教育手法にもみえ、別格の ものと捉えている面がないでもない。ロシアでは、富裕層と貧困層の教育格 差が大きすぎるところに疑問を抱えているようである。これに引き換え、オ ランダでは、所謂、国民皆学の制度化や労働者階級への実学教育の施されて いる様子をも紹介した。
ここに米欧(この場合の欧は西欧)とロシアの比較が顕著に出ているよう に思われる。すでに新島は教育普及の度合いにより、一国の近代化・文明化 の在り方に温度差のあることを看取していたといえる。教育と文明化(近代 化)が不可分の関係性を有していることを見てとっていたのである。
新島は、1872年9月3日付ハーディー夫妻への手紙の中に「ヨーロッパ での学問の府を訪れ、教育の偉大な価値を見出し」28)たという。この「教育 の偉大な価値」とは何を指しているのであろうか。新島の教育についてのテ ーマの一つに、バランスのとれた知と徳の関係を強調するところにあった。
米欧教育視察のなかで田中不二麿との「知徳論争」29)がそれである。知の強 調だけでは、その知性はナイフと同様であって、自他ともに滅ぼしかねない との認識をとるものである。そこにはもう一つの要素、すなわち、道徳上の 主義が必要となると主張した。
いま、この「知」と「徳」の問題を現今日本の教育世界の事例に置き換え てみるとどのように言えるか。現代日本の教育は、競争原理・成果主義だけ が第一義とされる偏向が正義であるかのような実態が跋扈している。一種の
差別主義(優勝劣敗、学歴差別、学校格差、イジメ現象)が蔓延していて、
種々の数値(例えば、○○大学に何人合格したとか、××大学に何人合格し たなどの数値)を示すことのみが評価される事象が主流を占めるようになっ ている。このような「数値に踊らされる教育」は「ゴッコ遊び」でしかな く、教育の本質(「人格陶冶」「人間ノ要道の教示」「批判的精神をもった人 格形成」)とは関わりの無い瑣末な技術論に拘泥しているだけである。異常 としか言いようがない。かかる意味での知性主義(教育)は限界にきている し、いずれ破綻することは眼に見えている。
新島のいう「ナイフ」の中身がそのような現象をもたらすものとなるなら ば一考の余地をもつものであろう。その意味で新島の指摘は正しい。
人間的豊かさ、情操を育むには知性以外の道徳上の教育が必要であると語 る。一理ある。学問・教育の目的を「人ノ徳」の涵養、「人間ノ要道」を教 示するところにありと考える新島の思想は道徳教育に力点を置いたものと言 えよう。かかる知徳兼備の人材育成を肝要とする意識はすでにアーモスト大 学時代に培われていたもので、スターンズ総長、シーリー教授の「教育と道 徳」の関係についての見解30)をみるとき、新島の「知徳論争」の原点を知る ことができる。
新島は欧米の高等教育機関(大学)の視察などから、その社会的意味や影 響を次のように捉えている。すなわち、学問の発達やそれを作り上げるべき 大学の存在が「封建世紀ノ迷夢ヲ覚シ専制政治ノ暴圧ヲ排シ、国民班位ノ別 ヲ敗リ貴族僧侶ノ権ヲ挫キ以テ自主自由ノ気風ヲ喚起シ、或ハ英吉利ノ革命 トナリ、或ハ宗教ノ改革トナリ、全ク欧洲ノ状態ヲ一変セシヨリ文運ノ発達 歳ヲ逐テ鋭進シ、千八百年代ノ今日ニ及ンデハ欧洲中大学ノ総数一百有余校 ニ上リ、其栄光燦然トシテ一世ニ照燿セリ、斯ク欧洲諸国ガ未開暗黒ナル時 代ヲ脱出シテ将ニ漸ク開明清気ノ中天ニ翺翔セントスルノ勢ヲ得シハ、豈大 学ノ以テ世運ヲ開拓シ有為ノ人物ヲ出シ、大ニ文運ニ為スアルノ実効ト云ハ ザルヲ得ンヤ」31)と、近代市民社会形成に多大な影響を及ぼしていることを 看破するとともに、高等教育機関の役割の大きいことを指摘した。
また、アメリカの大学(ハーヴァード、イェール、プリンストン、アーモ スト、ウィリアムス、ダートマス、オベリン)の例を挙げながら、その役割
ママ
を「米国自由ノ制度自由ノ国体ヲシテ永ク太西洋中ニ卓立セシムルモノハ、
一ニ基督教ノ道徳ヲ主本トシテ日新ノ学術ヲ攻究スル大学ノ力ニアリト、斯 ク米人ガ教育ヲ尊重篤信スルノ感情太ダ盛ンナルハ、即チ能ク自由ノ旗章ヲ 翻へシテ不羈独立ノ合衆国ヲ確立スル所以ノ精神ナラズヤ」32)として、アメ リカの自由独立の気風を形成するのに大学教育の果たす役割の大きさや学問 の有効性を強調し、必須要件と捉えていることがわかる。
このように、新島は我国が西洋文明と伍していく意図があるならばその方 法を採用すべきであるとした。彼は「東洋ノ不振ハ自由ト基督教ノ道徳ナキ ニ因由スル」と語り、「欧洲諸国ノ文運ヲ煥発セシ所以ノモノハ他ナシ、要
ママ
スルニ自由ノ拡張ト学門ノ発達ト政事ノ進歩ト道義ノ能力ニ帰セズンバアラ ズ、而シテ此四者を致ス所以ハ何ゾヤ、乃基督教ノ道徳ヲ主本トシテ日新ノ 学術ヲ攻究スルニヨルナリ、今ヤ我邦専ラ泰西ノ学風ヲ振作シ新ニ自由ノ天 地ヲ開拓セント欲シテ独リ其知育ヲ模傚スルニ止リ、曾テ其根底タル純全ノ 道徳ヲ収用セサルニ於テハ、吾人ハ決シテ其得ベカラザルヲ信スルナリ」33)
と述べ、単なる知識偏重、技術主義に陥ることなく、文明社会形成の精神・
思想を確立することこそが肝要であると説き、西洋文明をモデルにするなら ば、その考え方の基礎を何処に置くのか、すなわち、思想的精神的根拠に耳 を傾けよと警鐘を鳴らした。
2.教育の役割・機能
新島における「教育の発見」は、アメリカでの教育体験のなかから培わ れ、田中不二麿らとの米欧教育視察を通して形成されていったものといえ る。最後に、新島の考える教育の役割や機能を如何に捉えていたかを問うて この稿を終えることにしたいと思う。
幕末・維新期を経験した志士たち(青年たち)の喫緊の課題は、西洋列強 の国力・文明力にいかに対峙していけるかとの問いかけであった。その結 果、日本の近代化、文明化の成就が目標として位置づけられる。「富国」「強 兵」が叫ばれ、「殖産興業」、「教育普及」がスローガンとなって多くの試行 錯誤が施される。功罪はあるが、福沢諭吉の教育・言論活動、民権派の目指
した立憲主義国家形成の胎動、渋沢栄一や五代友厚らに代表される経済活動 等々。そのような近代化の一環に新島襄の教育活動をも加えることが可能で
つく
あろう。「国家の為に寸力を竭さん」34)ことをその心中に秘めたナショナリス ト新島が、日本の文明化・近代化のために尽瘁したことはよく知られてい る。ここでは同志社英学校や大学設立の目的などを辿りながら、教育のもつ 力(役割・機能)をどのように捉えていたのかを時系列的に探ろうと思う。
もとより、個々の資料の全文を掲載することは紙幅の都合上不可能であり、
ごく一部分の紹介でしかない。そこから新島の意図を読み取っていくことに したい。
ⅰ.「新島民治宛書簡」(明治8年1月1日付)
新島は明治7年11月29日、ほぼ10年ぶりに安中の両親に再会を果たし たが、その翌年の元旦の挨拶状に次のように記した。すでに何らかの形で学
ママ
校設立の意図を記した後、「此学校出体ニ及候ハヽ日本当今の悪習をも一洗 すべき一機械〔会〕とも可相成義……」35)との思いを吐露した。
学校を設立することにより、日本の道徳的悪習(頽廃)を矯正しようとの 思いが働いていることは明らかである。彼は学校設立や教育の普及は道徳的 悪習(頽廃)を改革しうるものとみていたのである。この時点(明治7年段 階)の新島の意識は、元治元年日本脱国時にニコライに洩らした意図が堅持 されていることがわかる。
ⅱ.「私学校開業、外国人教師雇入につき許可願」(明治8年8月23日)
「……私学校開業之義一日なり共棄置候ハヽ京師近傍ニ於而文明之進歩ニ 小関係なき共不被申ト存候、(中略)志ある少年生徒…をし而普通学科に跋 渉し且傍世聖賢之道をも研窮セしめ、仕官し而は正直之吏、退職し而は純良 民となり我国家日新之一助たらしめん事を望み、(下略)」36)
この「許可願」は宣教師J・D・デイヴィスを雇用する目的を以て京都府
したた
に提出すべく認めた願書の草稿だが、ここでは学校設立は文明進歩の一助と して捉えられており、文明を形成する主体は「正直之吏」「純良民」に依拠 されるべきであるとの認識が示されている。新島は所謂、「良心」をもった
人物の育成の必要性と、「良心」を手腕とする人物によって文明化が推進さ れることを期待した。
潜在的能力を持つ青年(「正直之吏」「純良民」たりうる若者)が、機会を 与えられずに「廃物」と化していく(遊び人になる)ことを止めようとする 意識は、日本の「道徳上の改革」を目論む新島の思いでもあった。
ⅲ.「同志社大学設立之主意之骨案」(明治15年11月7日)
「大学設置ノ如キハ風俗ヲ矯メ教化ヲ興シ、我同胞ヲシテ知徳兼備ノ 民タラシムルニ一日モ猶予スベカラサルモノナリ。夫レ農夫ニシテ好果 ヲ得ントナレハ、必ラス先ツ良種ヲ播カサルベカラス、国人ニシテ其ノ 文化ヲ進メントナレハ、必ラス先ツ文化ノ源因タル大学ヲ設置セサルベ カラス」37)。
この「骨案」は、明治15年11月7日に記されている。この年、新島は本 格的に大学設立へと始動している。この「骨案」部分では、大学設立は風俗 矯正、教育復興、文化促進の重要な役割を果たすことを謳った。ここでも
「道徳的改革」と「文明化」が軌を一にしていることを説こうとしている。
ⅳ.「明治専門学校設立旨趣」(明治17年5月)
ここに扱う資料は先記の資料(1-②-ⅲ項参照)と同じであるが、新島は ここでは欧米の大学がもたらす効果に注目している。大学での学問や教育の 成果はそれぞれの国々に「自主自由ノ気風ヲ喚起」すると見做した。
例えば、彼はアメリカの自由の制度・国体は、キリスト教道徳に基礎を置
ふ き
き、日新の学術研究に邁進するところにありとし、教育を通して、不羈独立 の精神を涵養するところにありとする。すなわち、「米国自由ノ制度自由ノ
ママ
国体ヲシテ永ク太西洋中ニ卓立セシムルモノハ、一ニ基督教ノ道徳ヲ主本ト シテ日新ノ学術ヲ攻究スル大学ノ力ニアリト、斯ク米人ガ教育ヲ尊重篤信ス ルノ感情太ダ盛ンナルハ、即チ能ク自由ノ旗章ヲ翻へシテ不羈独立ノ合衆国 ヲ確立スル所以ノ精神ナラズヤ」38)とあるように、まさに、大学の力、機能
は自主自由の気風をもたらすものとなるものと彼は見做したのである。
ⅴ.「同志社大学設立の旨意」(明治21年11月)
この「旨意」は新島の意図をうけた徳富蘇峰の筆によるものであるが、新 島の言葉として酌みたいと思う。
「…吾人は敢て吾人が赤心を開陳して、全天下に訴へ、全国民の力を 藉り、以て吾人年来の宿志を達せんと欲す、勿論此の大学よりしては、
或は政党に加入する者もあらん、或は農工商の業に従事する者もあら ん、或は宗教の為めに働く者もあらん、或は学者となる者もあらん、官 吏となる者もあらん、其成就する所の者は、千差万別にして、敢て予じ め定む可からずと雖も、是等の人々ハ皆な一国の精神となり、元気とな り、柱石となる所の人々にして、即ち是等の人々を養成するハ、実に同 志社大学を設立する所以の目的なりとす。一国を維持するは、決して二 三の英雄に非す、実に一国を組織する教育あり、智識あり、品行ある人 民の力に拠らざる可からず、是等の人民ハ一国の良心とも謂ふ可き人々 なり、而して吾人ハ即ち此の一国の良心とも謂ふ可き人々を養成せんと 欲す、(下略)」39)。
同志社大学にあっては一握りの英雄を造ろうとするものではなく、一国の 柱石ともならん人格の形成を目指すものである。そこでは「良心」を大事と する人物の養成が図られるものである。この「良心」をもった人物こそが、
人それぞれの役割を担った部分で全力を尽くして、己が使命を果たすところ に開かれた市民社会の源があるとの意識が披露されている。この意識は新島 の政治思想の本質を示している。新島は国家を形成する主体は「良心を運用 しうる人物にあり」と見ており、「良心をもった人物」の形成はキリスト教 倫理を学ぶことによりもたらされ、しかもこのような「主体」形成はトップ
・ダウンで為されるものではなく、種々の立場で訓練を遂げてきた人格が国 家を形成する、いわば、ボトム・アップによる国家・組織形成者を期待する のである。新島の目指した国家形成主体の在りようの一端が覗えよう。
「第1節 ②-ⅲ」項や「第2節」から解ることは、新島が教育体験や教育 視察を経て、教育の齎すものが一国の近代化や文明化と不可分の間柄にある との認識を獲得していることである。彼は米国からの帰国後、キリスト教を 基礎に置く学校建営にその目的を設定するが、日本の近代化を如何に推進す るかを課題とする目的意識がここにきて鮮明に浮び上がってきたと考えられ る。
3.結 語
「新島襄の教育への関心はいつ頃獲得できたか?」との表題の下にいくつ かの論点を提示した。まとめて結語としたい。
まず、新島の脱国時の目的は、日本の道徳的改革を目指すものであり、道 徳的改革の基礎にキリスト教倫理を置こうとするものであった。
新島にあってはアメリカでの教育受容の中から、キリスト教的人格者に多 く接し得たことは大きな収穫であったといえよう。A・ハーディーの無償の 行為、アーモスト大学のスターンズ総長・シーリー教授らの教えがストレー トに新島に影響を与えたことは、田中不二麿との「知徳論争」に見られると ころである。ここに「教育(知育)と道徳」の問題が取り上げられているの だが、「教育」を一つの主題に捉えはじめている証しであると考えられよう。
さらに、田中らとともに米欧の教育視察の機会を得たことが、新島の視野 を拡げることに大きな役割を果たしたことは否めない。
彼は新大陸(アメリカ)の近代とはまた違った旧大陸(ヨーロッパ)の近 代の「重さ」を知ったのである。
ヨーロッパの近代(化)は、宗教からの解放とそのための闘争(ルネサン ス、宗教改革、学問の発達−科学の発見)の結果であった。その意味ではヨ ーロッパは近代をもたらす母体であった。アメリカ近代は、ヨーロッパ近代 の系として生まれる。イギリス国教会の制約を嫌ったピルグリム・ファーザ ーズたちによる第二の「宗教改革」であり、母国イギリスからの分離独立に より獲得される。
新旧大陸の近代形成は、宗教(カトリック)に反発しつつも、これを改変
し受容していく。そしてその上にたった「知」(学校・教育制度・研究機関
/産業革命・技術革新など)を発達させていった。この「知」は目に見える 近代をもたらすこととなる。
明治政府は、一言でいうと自国の近代(化)を物の近代化として先行させ ていったが、新島はこの傾向に違和感を抱く。彼にあっては「知徳兼備」の 近代の成就が課題として用意されることとなる。
新島は米欧での教育視察で、一国の文明化に果たす、教育・学問の、さら に学校制度・高等教育機関(大学)の役割の大きさを実感したものといえよ う。
彼は、故国日本の課題を正面に据えた時、その「近代化」「文明化」の困 難を知りながらも、これへの邁進こそが己が使命と捉えられたに違いない。
ここに「国家の為に寸力を竭さん」との意志をもった新島の課題が明確とな ったと言っても過言ではあるまい。
帰国後、彼が同志社英学校建営、大学設立に邁進したことは周知の通りで ある。
注
1)新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』3 書簡編Ⅰ(同朋舎出版、1987年)、
pp.16-17[以下、『新島全集』3 : 16-17
と略記]2)「脱国の理由」『新島全集』(1985年)10 : 11-18
3)伊藤彌彦「新島襄の脱櫪」、北垣宗治編『新島襄の世界−永眠百年の時点から−』
(晃洋書房、1990年)、p.62
4)坂井誠『二人の近代−諭吉と襄−』(大学教育出版、2016年)、pp.40-43 5)『新島全集』10 : 41
6)『新島全集』10 : 68 7)『新島全集』10 : 116 8)『新島全集』10 : 126 9)『新島全集』10 : 117 10)『新島全集』
8 : 84-92
11)『新島全集』8 : 93-100
12)『新島全集』10 : 158 13)『新島全集』10 : 16214)『新島全集』(1983年)1 : 467 15)『新島全集』1 : 469
16)『新島全集』1 : 471 17)『新島全集』1 : 474 18)『新島全集』1 : 475 19)同上
20)『新島全集』1 : 476 21)『新島全集』1 : 490-507 22)『新島全集』1 : 508-537 23)『新島全集』1 : 538-558 24)『新島全集』(1985年)6 : 109 25)『新島全集』10 : 165
26)同上
27)『新島全集』10 : 166 28)『新島全集』10 : 167 29)『新島全集』10 : 142-143
30)大久保利謙編『森有礼全集』3(宣文堂書店、昭和
47
年)、pp.278-284, 338-343 31)「明治専門学校設立旨趣」『新島全集』1 : 9632)同上『新島全集』1 : 97 33)同上『新島全集』1 : 98
34)「飯田逸之助宛書簡」慶應三年十二月二十五日付『新島全集』3 : 51 35)『新島全集』3 : 123
36)『新島全集』1 : 6 37)『新島全集』1 : 25-26 38)『新島全集』1 : 97 39)『新島全集』1 : 140