大学医学部設置は新島襄の悲願だったのか
著者 大越 哲仁
雑誌名 新島研究
号 105
ページ 63‑113
発行年 2014‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014144
大学医学部設置は新島襄の悲願だったのか
大 越 哲 仁
はじめに
2012年11月30日、学校法人同志社は大学に医学部(医科大学)を設置す るための学内検討チームを設置することを公報発表した。それを伝えるマ スコミ各紙の報道記事には「医学部設置は新島襄の悲願」、「新島襄の夢」
という見出しが躍った。
これを裏付けるような記述が『同志社百年史』(通史編1)にある。同書 第11章「京都看病婦学校と同志社病院」には、文中の小見出しに「医学部 創始の構想」と題して次のように述べられている。
新島が当初描いていたのは医学部の設立であった。人間を救うに は霊肉両面よりすることが必要で「日本に強大なるキリスト教的 University を設立して、単にキリスト教の教役者〔伝道師〕を養成す るのみならず、またキリスト教徒の医師(中略)を養成するは最も時 宜に適したること」(1879年2月、アメリカン・ボードへの意見書)と 述べているが、彼自身自然科学には関心を有しており、すでに1876(明 治9)年より宣教師テイラー(Wallace Taylor)を同志社に招いて医学 関係の講義をさせる(1878年まで)ことなどがあった1)。
しかし、ここで述べられている1879年2月のアメリカン・ボード宛ての 新島の意見書の原文は次の通りであって、新島は、クリスチャンの医者の みならず、クリスチャンの政治家やクリスチャンの商人さえも養成するキ リスト教の大学を設立すべきである、と述べており、彼は医学部を最初に 設置したい、と述べている訳ではなかったのである。
If I were in the place of Dr. Clark I should put all my effort in founding a strong Christian university in Japan, in order to raise up Christian ministers, Christian physicians, Christian statesmen, and even Christian merchants2).
そうすると、大学医学部設置が本当に新島襄の悲願や夢であったのかど うか、『同志社百年史』を見る限り、その根拠が疑わしくなっている。
そこで、私は本論考でこれを予断無く実証的に検証することとした。
目 次
1) 明治維新当初の医制論争と明治初期の医学界の趨勢 2) 西洋医学と新島
3) 岩倉使節団の一員としての新島の欧米医学教育調査 4) 新島のキリスト教主義私立大学構想
5) 新島における Christian college と Christian university 6) 新島の大学専門部構想における医学部
7) 結論 大学医学部設置は新島の夢であり悲願であったのか
1) 明治維新当初の医制論争と明治初期の医学界の趨勢
戊辰戦争と明治政府におけるイギリス医学の受容
日本における体系的かつ組織的な近代医学教育の嚆矢は、幕府の御雇い 外国人ポムペ・ファン・メーデルフォート(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort (1829-1908))が長崎の医学伝習(所)において 講じたオランダ医学である。ポンペ帰国後はアントニウス・ボードウィン
(Anthonius Franciscus Bauduin (1820-1885))が医学伝習所の後身である 医学所の教頭になるが、ポンペ、ボードウィンの系譜に連なる人として、
松本良順、長与専斎、佐藤尚中、関寛斎、橋本綱常、相良知安等、近代日 本の医学界で名を為した人々が育っていった。ちなみに、山本覚馬もボー ドウィンの診察を受けている。なお、長州藩では、彼らより先にオランダ
医学を学びシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold (1796-1866))
にも師事した青木周弼が同藩の医学教授所・好生館を設立し、松岡勇記や 青木の甥(弟の養子)の青木周蔵も藩命を帯びて長崎で医学修行を行って おり、同藩はオランダ医学を採用することになった。
しかしながら、明治新政府が当初採用した近代西洋医学教育はイギリス 医学に基づくものであり、それは、戊辰戦争を契機とするものであった。
1868年(慶応4)年1月に鳥羽伏見戦争が勃発して負傷者が出ると、薩 摩藩は、現在、同志社大学今出川校地となっている同藩二本松屋敷に隣接 する相国寺養源院に臨時病院を設置する。しかし、薩摩藩の藩医は漢方医 が主力であったために3)、そこに運ばれた百数十人の負傷者のほとんどの 銃砲創に対して処置法が分からず、出血や感染から死者が続出した。
そこで、薩摩藩は、神戸にいた英国公使パークス(Harry Smith Parkes
(1828-1885))に、医官ウィリアム・ウィリス(William Willis(1837-1894))
の派遣を招請した。
同年2月、ウィリスは、通訳官のアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow (1843-1929))を伴って養源院に入り、日本の漢方医を指導しなが ら手術・治療に当たる。過マンガン酸カリウムによる洗浄やクロロホルム による全身麻酔などにより、切開縫合や四肢切断を施したという4)。 西洋医術の優秀さを認めた典薬少允の高階経由とその子経徳は、西洋医 学の採用を新政府に建白する。これを受けて、同年3月31日(陰暦3月8 日)、「西洋医学ノ儀、是迄被止置候へ共、自今其長所ニ於テハ、御採用可 有之、被仰出候事」という綸旨が出され、新政府としても和漢医学よりも 秀でている分野については、西洋医学を取りいれることになった5)。なお、
典薬少允とは、律令制による朝廷での医療と調薬を司る部門である典薬寮 において、そのトップから5番目の位の医師である(典薬頭、典薬助、典 薬権助、典薬大允、典薬少允と続く)。
戊辰戦争が拡大する中の1868年5月(慶応4年閏4月)、東征大総督は横浜 の野毛山に軍陣病院を開設、ウィリスが招聘されて、治療に当たった。そ
の軍陣病院は、10月(明治元年9月)以降、東京の津藩藩邸(藤堂邸)へ 順次移転し、大病院と改称される。
それより先の同年8月(陰暦6月)、新政府は、旧幕府の医学所を接収 して医学校と改称した。
そして、翌1869(明治2)年3月(陰暦1月)、負傷兵の治療のために 越後方面に出張していたウィリスが帰ると、彼は医学校の教師(実質的な
「校長」)に就任し、日本の医学教育のトップを務めることになった。翌月、
医学校と大病院は合併して医学校兼病院となる。
ところが、その4ヶ月後の6月(陰暦5月6))、明治政府は突如として ドイツ医学を採用するとの方針を決定したために、ウィリスの立場は極め て厳しいものとなった。
同年8月、昌平学校が大学校となり、医学校、開成学校はその分局とさ れて、三校が大学校と総称されることになったが、その5ヶ月後の1870年 1月(明治2年12月)、ウィリスは大学校を辞任した。そして、彼は、西 郷隆盛の招きで鹿児島医学校に移った。明治政府におけるイギリス医学は わずか2年足らずで終わり、その後はドイツ医学が席巻することになるの である。
なお、その後の政府の医学教育機関の変遷を述べれば、ウィリスが辞 任した月、大学校における旧昌平学校は大学(本校)、旧医学校は大学東 校、旧開成学校は大学南校に分かれた。そして、1871(明治4)年の文部 省設置と共に大学東校、大学南校はそれぞれ東校、南校に改称(本校は前 年既に閉鎖済)される。東校は1872(明治5)年に第一大学区医学校にな り、1874(明治7)年に東京医学校に改称する。そして、1877(明治10)
年、同校は南校の後身である東京開成学校と統合し、東京大学となるので ある。
以上の変遷を田中不二麿は後年、次のように綴っている。
医科大学の変遷を記せんに、明治元年幕府の夙つとに江戸に経営せる医学 所を再興し、以て大病院に属せしむ、大病院は戊辰東北鎮定の際政府 の経営せる横浜の軍陣病院を下谷に移せるものをいふ。2年医学所及び
病院を合併して医学校兼病院と称し、12月開成校の改称と共に大学東 校と改め、4年7月文部省の新設せらるゝに当たりて其所轄に帰し、
単に東校と改称し、5年8月学区改正の際は第一大学区東京医学校と 称し、7年11月長崎医学校(幕府の経始〔開始〕せる精得舘)を併せ て東京医学校と称し、10年大学の設立に当たりて大学医学部と改称し、
遂に東京帝国大学医科大学と称するに至れり7)。
なお、今日、東京大学発祥の地碑が立つのは、開成学校の前身である開 成所があった辺りの学士会館であるが、学士会館のぐるりは安中藩上屋敷 のあった場所であり、同会館には新島襄生誕の地碑も立つ。日本最初の私 立大学設立を志した新島襄の生誕地が東京大学発祥の地であることは、私 立大学も官立大学も大学として同じであることを示唆するが、その東京大 学の医学部発祥の原点ともいうべき地が同志社大学の校地に隣接する相国 寺養源院であることもまた新島と同志社にとって奇しき縁である。
1869(明治2)年の「医学流派抗争」
なぜ明治政府がイギリス医学からドイツ医学に転じたのか、その理由に ついては、医学校取調御用掛の相良知安がドイツ医学を主張したために廟 議が一転してドイツ医学採用になった、というのが定説である8)。 相良知安は佐賀藩の藩医の出身で、大隈重信、副島種臣、江藤新平等と 共に同藩の弘道館や蘭学寮で学び、江戸、長崎へ出てオランダ医学を学ん だ人物である。江戸では佐藤尚中に師事し、長崎ではボードウィンとオラ ンダ出身のアメリカ人フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck、あ るいは Verbeek、(1830- 1898))に学んでいる9)。
それでは、相良がドイツ医学を主張した理由は何かというと、次のよう な意見によるものであった。
此時蘭は已に国勢弱くして直に独仏の書を読んで翻訳せり、英人は国 人を侮り、米は新国にして医余り無し、独は国体稍や吾に似て且つ此 時未だ亜細亜に馴れず、医は意也、異也、殊に新異に従ひ敢て独を採
れり。(相良知安「医学を独逸学に為したる理由」)10)
維新当時日本と強い関係があったオランダやイギリス、アメリカの医学 は日本が採用するには相応しくないから、未だ関係は浅いものの我が国に 国体が似ているドイツ医学こそ採用すべきである、というのである。
しかし、当時、実績が無いドイツ医学をあえて採用するとするのはいさ さか不自然である。
これに対して、神谷昭典氏は次のように論じる。
すなわち、ドイツ医学採用には、新政府の2大藩閥たる長州藩と薩摩藩 の対立があった。長州藩がオランダ医学を採用し、薩摩藩が鳥羽伏見の戦 い以来イギリス医学を採用していて、いずれも自藩の推す医学流派を新政 府でも採用させようとしてどうしようもなく対立していたために、その争 いをひとまず棚上げにする目的で第3の選択肢であるドイツ医学が採用さ れることになった、と11)。
たしかに、当時、実績としても他を圧倒していたイギリス医学を退けて 実績の無いドイツ医学を採用するには、実績以外の「力学」が働いていた と考えられる。しかし、今述べた通り、当時の新政府内はイギリス医学と オランダ医学が拮抗していたわけではなく、あくまでイギリス医学が主流 であった。なにより、個人による「大岡裁き」のような提案によって一国 の方針が決定されるというのもいささか説得力に欠ける。
一般に19世紀は、フランス医学が光芒を放っていた時代12)であったとい われるのに、それでは、どうして相良はドイツ医学を第3の選択肢に相応 しいと考え、また、新政府は主流だったイギリス医学を捨てて、相良の提 案を受け入れてドイツ医学を採用していたのであろうか。
前者の疑問については、相良の5代目の子孫の相良隆弘氏が、次の4 点を指摘している。
1.オランダ医学書は、ドイツ医学書の翻訳が大半で、当時のドイツ医学 は、基礎医学で世界的発見が相次ぎ発展していた。
2.大学南校教頭で政府の顧問であった恩師フルベッキの「自然科学すべ て、特に医学ではドイツ医学が世界に冠絶している。日本はドイツ医学
を採用すべきある」という証言を得た。
3.日本とドイツは、君主政体で新興国として、国情・民族性に類似性が ある。
4.明治新政府の官僚や医学校と病院の医官は、長崎系の蘭法医出身者で 占められていた。13)
相良氏によれば、知安は、長崎でボードウィンから医学を学んでいた時、
蘭医学書のほとんどがドイツの医学原書をオランダ語に翻訳していたこと に気付いており、その経験から、ドイツ医学こそが世界で最も優れている という信念を持っていたという14)。たしかに知安の意見書に「蘭は已に国 勢弱くして直に独仏の書を読んで翻訳せり」とある。
しかし、このことは実は極めて重要な意味を含んでいる。すなわち、日 本におけるオランダ医学とは、ほぼオランダ語に翻訳されたドイツ医学の ことなのであった。ということは、政府において、イギリス医学とオラン ダ医学の対立を避けるためにドイツ医学が採用されたのではなく、主流と なったイギリス医学によって劣勢に追い込まれた長崎系のオランダ医たち が、オランダ語の翻訳医学ではないドイツ語の原文医学に「着替える」こ とによってイギリス医学を放逐し、勝利したのが実態なのではないか。事 実、相良の師である佐藤尚中は大学東校の初代校長を務めることになるの である。
そして、新政府において相良の意見を支持した政府の要人は、大隈重信、
江藤新平、副島種臣、フルベッキ等であった15)。彼らは何のことはない、
相良も含めて当時の政府の四大藩閥の一つ、肥前佐賀藩の出身者と関係者 である。
結局、政府によるドイツ医学採用は、蘭法医と佐賀藩も含んだ権力争い の結果と考えられるのである。
したがって、1869(明治2)年の政府のドイツ医学採用の経緯は、従来、「ド イツ医学採用紛議」または「医制論争」といわれてきたが16)、私は、政府 内のイギリス医学を掲げた薩摩藩陣営に対する蘭法医と佐賀藩陣営の連合 体による「医学流派抗争」と呼ぶのが相応しいと考える。相良は翌年、不 正を働いたかどで土佐派が仕切る弾正台に捉えられ、その翌年に江藤新平
が彼を助けて復職させているのである17)。
「此ノ学ヲ大学ニ位セシメ永久正税ヨリ費ヲ受ケザルベカラズ」
「医学流派抗争」に勝利した旧蘭法医グループは、医学を大学の地位に 位置づけて権威と資金を確保し、政府内で医師の発言権も得ることを構想 した。
そのことをよく説明するのが、相良の書いた次の文書である。
医ハ純文ニシテ和戦ノ大義ニ与カラズ7百年来武士権ヲ執テ医ヲ賤シミ テ至ラザル処ナシ(相良家文書2)18)
今漸藩士ヲ屈服セシムルモ天下ノ武士医ヲ侮ドリ金ヲ与ヘサルベシ故 ニ先ツ此〔医〕ノ道ヲ王政ニ属シ此ノ学ヲ大学ニ位セシメ永久正税ヨ リ費ヲ受ケザルベカラズト論ズベシ而シテ地方各所ニ医学校病院ヲ作 ルベシ西洋医を政府ヨリ定約セシメ国論ヲ定メ天下ノ学途ヲ一ニスベ シ(相良家文書4)19)
西洋大学ノ盛ナルモノハ独逸ナリ、英仏ハ害アッテ利ナシ、蘭ハ小国 日々ニ衰ルノミ、蘭英ヲ斥ケテ独ヲ採ルベシ(時ニ独ガ仏ヲ破リタル ハ全ク大学生ノ力ナリ)此ニ於テ百方終ニ其志ヲ達シテ医生ヲシテ大 学ノ上流ニ置キタルハ自ラ和戦ノ大義ニ与カラシメントナリ(相良家 文書2)20)
頼朝が政権を執ってから700年来、医師は武士から蔑まれて、国政に参 与できなかった。そこで、医学教育を官立の大学に位置づけて永久に国税 によってそれを賄い、その下に地方の医学校と病院を作り、 西洋医学を学 んだ医師を配置して統一すべきである。そして、医学教育を大学に位置づ けるためには、ドイツの大学に範を執るべきである。ドイツのように医学 を大学教育の主要な学部とすれば、医師も自ずから国政に参与できるので ある、そう相良は主張するのである。
相良の脳裏にあるのは、ドイツにおいて盛んな大学での医学教育だっ た。イギリスの医学教育機関は、後述するように、大学の学部としては位 置づけられていない医学校だから、医師にとっては、「害アッテ利ナシ」
なのであろう。
政府がドイツ医学を採用する方針を決定した1869(明治2)年の翌年、
普仏戦争が勃発した(1870年7月)。その普仏戦争の視察に赴いた桂太郎、
大山巌、品川弥二郎らは、ドイツ軍の圧倒的な強さに驚き、イギリスに留 学する予定だった桂は留学先をドイツに改め、直ちにベルリンに向かっ た21)。その3年後の1873年、岩倉使節団がドイツを訪問し、岩倉具視や大 久保利通、伊藤博文等がビスマルクに邂逅する。そして、それ以降、日本 の政治・軍事・国家思想・哲学・文学の多方面が急速にドイツに傾斜して ゆくことになる22)。
1869年の明治政府のドイツ医学採用は、近代日本のドイツ傾斜の嚆矢と 位置づけることが出来る。ドイツ医学採用が決まったその年に佐藤尚中 の養嫡子・佐藤進はドイツに留学し、ベルリン大学医学部で学び始めた が23)、彼は、政府の公式旅券第一号の受領者となったのである24)。
ドイツ医学採用後の日本の医制
論考を医制に戻すが、ドイツ医学を採用した東校には、1871(明治4)年、
プロシア陸海軍軍医のミュルレル(Benjamin Carl Lepold Müller (1824- 1893))とホフマン( Theodor Eduard Hoffmann(1837-1894))が着任。以降、
前述の通り、第一大学区医学校、東京医学校と校名は変わるが、下記のよ うなドイツ式の教育課程による医学教育が行われる。
明治4年7月以来本校エ独乙国教師両名〔ミュルレル、ホフマンの事〕
御雇ニ相成欧州ノ高上ナル学校ノ規模ニ擬シテ医術ヲ進メンガ為ニ予 科教師数名ヲ雇ヒ羅ら旬てん学独ど乙いつ学算術点竄窮理学ノ初歩等ヲ教授セシメ 期スルニ2年ヲ以テス〔略〕入校ノ士先予科ニ於テ2年間教育ヲ受ケ シメ更ニ本科ニ入テ学ハシムル事5年初メテ其学術ノ深浅ニ応シ欧州 ノ方法ニ倣ヒ卒業ノ免許ヲ与ヘ其学ノ等級ヲ定メ其位置ヲ得セシメン
トス〔略〕25)(明治5年7月 文部省布達第12号)
1872(明治5)年9月(陰暦8月)、文部省は「学制」を公布して医学 教育を大学医学部と専門学校としての医学校の2種類に分け、同時に「従 来府県ニ於テ取設候学校一途ナラス加之其内不都合之儀モ不少依テ一旦悉 令廃止今般定メラレタル学制ニ随ヒ其主意ヲ汲ミ更ニ学校設立致可候事」
(布達13号)26)と定め、以前の府県立学校をいったん廃止し、改めて学制に 基づき、全国の教育機関の再編を図った。
同省は翌月(陰暦同月)、「外国教師ニテ教授スル医学教則」27)を公布し、
「此ノ医学ニ入ルモノ最初予科4級ヲ洋語ニテ授ク是医学ニ入ルノ階梯ニ シテ此ノ限リ2年トス」とし、その予科で学ぶ外国語を「日耳曼学」と「羅 旬(ラテン)学」と明記してドイツ医学採用を徹底した。ただし、同教則 において、「別ニ変則医学ノ一則即ヲ設ク此ニ入ルモノハ年齢20歳以上30 歳以下ニシテ粗医術ノ旨趣ヲ得タルモノ入学ヲ許ス」と定めて、漢方やイ ギリス医学、オランダ医学を変則医学として認める措置を取ったが、あく まで「変則医学ハ本真ノ医学ニアラズ早ク実地ニ就キ智術ヲ得ルノ教則ニ シテ此学科ヲ6級ニ分チ3ケ年ヲ卒業期限トス」28)とした。
その後の1874(明治7)年8月、「学制」の医療・衛生版といえる「医制」
が東京、京都、大阪の3府へ通達される。「医制」の原案は、文部省の医 務課長に就任していた相良知安による「医制略則」であったが29)、相良が 失脚し、長与専斎が新設の医務局長に就任してから修正された上での通達 であった。
その内容は、第1条より11条までは全国衛生事務の要領、12条より26条 までは医学教育、27条より53条までは医術開業試験ならびにその免許、54 条より76条までは薬舗開業試験ならびに免許および取り締まりを規定した ものである30)。
「医制」の主要点を挙げれば、次の4点である。
1.医師の免許制
2.医薬分離を規定(医師の薬販売の禁止)
3.ドイツ医学に則った医学教育と医師開業試験を明記 4.開業済みの医師には暫定措置として学術試験を免じる規定
なお、翌年、医学教育の管轄のみ文部省に残した上で医療事務を内務省 に移すこととなったために、「医制」は改正され、医学教育に関する規定(旧
「医制」第12〜26条)が削除された31)。そして、その後、3府以外にも順次 適用となった。
なぜ医学教育の条文が削除されたのかといえば、管轄の問題に加えて、
太政大臣に対する「医制改正之儀ニ付伺」には、「医制ノ儀3府ニ於テ漸次 着手候処実際不適宜ノ点有之」とあり(1875年3月13日)、長与の自伝に も、「当時あるやんごとなき御方より某大臣に宛て漢方医維持につき翰を 賜り」、それに対する大臣の奉答を代筆して、「従前開業の医師は試験を要 せず云々、明文もこれあり」、「〔開業試験は〕もっぱら実物実景を試験致 し候儀に付き、何流何書につき研究致し候とも、実証にさえ合い候えば及 第仕るべく」と弁明していることより32)、当時の日本には「全国3万有余 の漢法医」33)があって「医制」が定める医学教育をすぐに徹底することは 難しいために、それ以外の規定の徹底を優先したためと思われる。
そして、いったん削除された医学教育に関する規定は、1882(明治15)
年に明確にされた。「医学校通則」の公布である。同通則によって、医学 校は「尋常ノ医学科ヲ教授」する甲種医学校と「簡易ノ医学科ヲ教授」す る乙種に分けられた。
甲種の医学校は、「臨床実験ノ用ニ供スルニ足ルベキ病院ノ准備〔準備〕」
(第3条)があることと、「教員中少クトモ3名ハ東京大学ニ於テ医学士ノ 学位ヲ得タル者ヲ以テ之ニ充テ主トシテ重要ノ学科ヲ分担セシムベシ」(第 10条)とあって34)、ドイツ医学を修めた東京大学卒の医学士3名が重要学 科を担当することが明確にされ、以後の日本の医学は、ドイツ医学が圧倒 し、東京大学医学部が頂点に「君臨」することになった。
その後、各府県で甲乙2種の医学校設置の動きが起こり、府県の半分 が医学校を有する状況35)になると、文部省はこれを整理統合する「荒療
治」36)に乗り出す。
すなわち、1886(明治19)年に「帝国大学令」が公布され、東京大学医 学部が帝国大学医科大学となると、翌87年8月、文部省は、「高等中学校 ノ医科ヲ教授スル所ヲ医学部トシ各高等中学校ニ之ヲ設ク」と定め(公示 第6号)、
第一高等中学校(本部:東京)の医学部を千葉に 第二高等中学校(本部:仙台)の医学部を仙台に 第三高等中学校(本部:京都)の医学部を岡山に 第四高等中学校(本部:金沢)の医学部を金沢に 第五高等中学校(本部:熊本)の医学部を長崎に 設置することに決めた37)。
その翌月(1887年9月30日)、「府県立医学校ノ費用ハ明治21年度〔翌年 の1888年〕以降地方税ヲ以テ之ヲ支弁スルコトヲ得ス」という勅令(第48号)
が渙発される38)。文部省のこの一連の政策の狙いと効果については、後年、
同省自身が次のように述べている。
明治20年9月30日、勅令を以て、府県立医学校の費用は、明治21年度 以降地方税によりて支弁することを禁じた。此の勅令は公立医学校を 禁じて、官立医学校の発達を期するにあつた。明治5年以来、各府県 に於ては争つて医学校を設立したが、同17年頃より経済界の不振と共 に、学校の維持に困難を生じ、これを府県の経営に一任すれば、設備 の不完全なるを免れす、医学教育の進歩を妨げることの尠なからざる を認めたので、政府に於ては、不完全なる府県立の医学校を廃し、完 備せる官立医学校を以てこれに代へ、各府県には更に一層普通教育の 普及に力を盡さしめるため、此の計画を実行したのである。此の勅令 により、府県立医学校は僅かに京都府・大阪府・愛知県の3校を残す のみとなり、他の15校は尽く廃校にして、其の生徒は官立高等中学校 医学部に入学した。残れる3校は授業料又は寄付金によって漸くこれ を維持した39)。(下線引用者)
各府県は普通教育を普及させればよい、医学教育は「完備せる」帝国大 学医科大学と官立高等中学校の医学部が担う、としたのである。
ところで、この勅令は、1903(明治36)年の専門学校令で廃止されたが(第 14条)、上述の通り、日本では、医学教育は大学医学部で行うとするドイ ツ医学が全盛を誇っていたためであろう、管見によれば、専門学校令によ る公立医学校の設立は絶無であった。公立の医学教育機関の総てが、1918 年の大学令以降に設立された公立大学の医学部として誕生している。
なお、当時存在した私立の医学校で大学令によって医科大学に昇格した のは、つぎの3校だけであった。
ドイツ医学を学んだ長谷川泰が1876(明治9)年に設立し、野口英世も 学んだ済生学舎の後身である日本医学専門学校(現、日本医科大学)、イ ギリス医学を学んだ高木兼寛が明治1881(明治14)年に設立した成医会講 習所の後身である東京慈恵医院医学校(現、東京慈恵会医科大学)、ドイ ツ医学の北里柴三郎を科長(のち部長)として迎えて1917(大正6)年に 開設された慶應義塾医学科(のち医学部、現、慶應義塾大学医学部)。
その内、イギリス医学を採用したのは慈恵会だけである40)。
ドイツ医学と英米医学
いままで明治維新以降の日本の医制がドイツ医学に収斂されていった歴 史を概観してきたが、それでは、ドイツ医学、そして明治政府によって否 定されたイギリス医学には、どのような特徴があるのであろうか。
神谷昭典氏は、英米医学が「実技、経験を主とし、学理を従とする」医 学であるのに対して、ドイツ医学は「思弁的であり学理を重んじる」医学 であって、「もともと訓詁の学である日本的、士族的教養にとって、〔ドイ ツ医学が〕より高尚、高遠なものと映じた」ことを指摘している41)。 同氏はまた、英米系の医学教育は大学の外にあって、私学を主とし、「病 院医学校」すなわち病院付属医学校で行われる、特に、アメリカ医学は民 主的体質を持ち、ドイツ医学を推した一派の士族的、官学的体質に合わな い、とも述べている42)。
神谷氏の議論にある英米の「病院医学校」について検証してみよう。
ただし、日本語で書かれた史料では、当時の欧米流の「病院医学校」に ついても、現代の校名を用いて「(大学)医学部」とする場合が多いために、
ドイツ流の大学医学部と区別が出来なくなっている場合が多い。
そこで、当時の原語に基づいて英米の医学校の特徴を見てみたい。
まず、明治政府の当初の医学教育を担ったウィリスは、Edinburgh Medical School を卒業している。
同医学校は18世紀の公立診療所の設置直後に設立されている病院医学校 である。その後、近隣に王立診療所が設置され、世界有数の医学校へ発展 した43)。卒業生のジョン・モーガン(John Morgan(1735-1789))は、後 述するように全米最古の医学校を設立している。
ウィリスの医学が実技や経験を重んじていたのは、ウィリスの講義記録 である『英医偉利士〔ウィリス〕氏口授『日講紀聞』東京医学校官版』(明 治2年10月)の島村鼎甫(医学所少博士)の題辞に「西洋学術ノ盛ナル各 国固ヨリ其所長アリ殊ニ英国ノ如キハ其術其学ヨリ長ス〔略〕又凡テ英国 ノ医籍ヲ閲スルニ其生理病理等ノ説ニ於ルモ必ス実際ニ憑拠シ務メテ冗長 ノ論ヲ載セス故ニ其論簡約ニシテ其事必ス実用ニ中ラサルハ莫シ」44)とあ る通りである。
幕末に来日した長老派医療宣教師のヘボン(James Curtis Hepburn
(1815-1911))は、 The College of New Jersey (現在のPrinceton University)
卒業後、The University of Pennsylvania School of Medicine を1836年に卒 業している45)。同校はもともとベンジャミン・フランクリンが独立前の 1751年に全米最初の病院として設立された Pennsylvanian Hospital の開業 医教育のために Edinburgh Medical School で医学を学んだ前述のモーガン によって設立された全米最古の Medical School である。1765年に設立され、
university という呼称は1779年に附されている46)。モーガンは 医学の講義 を補完するために “bedside teaching” を強調した47)。
同志社の医療宣教師の場合はどうか。
テイラー(Wallace Taylor)は、州立としては全米で最も歴史のある University of Michigan School of Medicine を1871年に卒業している。同
校は1850年創立。アメリカで最初に独自の病院を持ち、最初に女医 ( Amanda Sanford) を生んだ医学校であり、彼女はテーラーと同じ年に卒業 している48)。
ベ リ ー(John Cutting Berry) は、Jefferson Medical College( 現 Thomas Jefferson University)を卒業している。同校は、診療所を併設す る目的で全米で最初に出来た医療専門の college である。1825年設立。当時、
一般的な医学校は講義が中心だったが、同校は患者の看護を正式な科目に 取りいれることで革新を図っている。1877年には、The Jefferson Medical College Hospital を設立した。同病院は、University of Michigan School of Medicine に次いで2番目に設立された大学自前の病院である49)。
以上の例を見ると、幕末から明治維新期に来日した医師は、いずれも出 身国でも一流の歴史ある「病院医学校」(ウィリス、ヘボン)もしくは病 院を併設して臨床を重んじた医科大学を卒業している事が分かる。特に、
ウィリスが卒業した Edinburgh Medical School は、上記のとおり、ヘボン が卒業した全米最古の医学校創設者モーガンを輩出しているが、ほかに も、1782年に Harvard Medical School を設立したベンジャミン・ウォー ターハウス( Benjamin Waterhouse(1754-1846))も輩出しており50)、ア メリカ医学とイギリス医学に密接な関係があるのが明らかである。また、
モーガンの重視した “bedside teaching” や患者の看護を科目に取りいれた Jefferson Medical College のように、アメリカの医学が臨床を医学教育に 組み入れていたことも実証された。
なお、英米の医学教育を特徴付けるものとして、“teaching hospital”
も 挙 げ る こ と が で き る。“teaching hospital” と は、 日 本 の 辞 書 で は 大 学 付 属 病 院 と さ れ る が、 正 確 に は、“a hospital where people who are training to become doctors work and learn”(Merriam-Webster's Collegiate Dictionary)であって、教育訓練を行う病院である。たとえば、Harvard Medical School は、1810年にケンブリッジからボストンに移転したが、そ の後の1821年、Massachusetts General Hospital が Harvard Medical School の teaching hospital として設立されている51)。成医会の高木兼寛が学んだ のは、ロンドンで最も歴史のある teaching hospital の一つの St. Thomas's
Hospital (現、King's College London)である。彼は1875(明治8)年か ら5年間、同病院で医学を学んでいる。そして同病院には、ナイチンゲー ル(Florence Nightingale (1820-1910))が1860年に設立した世界最初の 看護婦(現、看護士)の training school(現、The Florence Nightingale School of Nursing & Midwifery at King's College London)が併設されてい て、高木はそれを学んで52)、1885(明治18)年に有志共立東京病院看護婦 教育所を開設、これが日本で最初の看護学の教育機関となった。なお、同 志社看病婦学校と同志社病院は、翌1886年9月にデイヴィス邸で看護教育 と病院業務を開始しているが(正式開業式は1887年11月15日)53)、新島も また、同志社看病婦学校設立の目的を語ったスピーチで「ナイティンゲー ル」が「看病婦〔学校〕ヲ創設セシ事ハソモヽヽ此学校〔ノ〕原因ト申ヘ ケレトモ」54)と語っている。後述するとおり、新島は高木よりも3年早い 1872年に St. Thomas's Hospital を見学しているのである。新島は記録を残 していないが、その際に「ナイティンゲール」の創った看護学学校を見学 し、高木と同様の着想を得たのは間違いないであろう。新島は、看病婦学 校は、「ナイティンゲール」の「看病婦〔学校〕」同志社看病婦学校の「原 因ト申スヘケレ」と述べているのである。当時の日本では、ナイチンゲー ルは現在の表記のように「ナイチンゲール」と書いたが55)、新島は「ナイ ティンゲール」と英文の日本語表記で表しており、彼は彼女のことはもと もと英文を通じて知っていたことが分かる。
以上が英米の医学教育の概要であるが、他方のドイツの大学はごく一部 を除いて官立であって、医学教育は大学医学部で行われていることは、現 代にドイツで医学を学んだ堀籠晶子氏のレポートでも明らかなとおりであ る56)。そして、ドイツ医学が「研究至上主義」57)であり、日本の医学教育 もそれに倣ったものであったことは、1872(明治5)年の第一大学区医学 校時代から明白であった。同年に開設された私立病院・博愛社医院の開 設広告は「旧大病院〔第一大学区医学校〕ハ医学ヲ主ニシ治療ハ傍ニシ
〔略〕未タ市中医院タル者一モ之ナシ」58)と主張している。京都帝国大学医 科大学の付属病院では、入院患者が教員や学制の研究目的の「学用患者」
として扱われたために患者が入院を嫌い、「医科大学の外来患者が増加す
ればするほど療病院の入院患者が増えるという奇妙な現象が続いた」59)例 もあった。ただし、「研究至上主義」の成果として、病原体の発見に関し て北里柴三郎や志賀潔等が世界的な業績を上げたことを忘れてはならな い60)。
2) 西洋医学と新島
「ロシア病院」の善行と日本の医療の堕落
新島がはじめて洋式病院を体験したのは、1864(元治1)年6月(陰暦 5月)、箱館の所謂「ロシア病院」61)においてであった。
新島は次のように日記(いわゆる「箱館紀行」)に見取り図を描き、そ の病院の様子を詳細に記した。それほど興味深かったのである。その見取 り図を図面化したのが次の図である。
上の図の如く魯国立置きし病院は、医者診療所(但通病人〔通院 患者〕を診察する也)一ケ所、病人部屋12(但大小あり、4人入りの 部屋より7人入りに至る)、魯の士官及ひマトロス〔船員〕部屋各一ツ、
内〔中庭〕によき花園ありて病人をして時々逍遥を為さしむ。〔中略〕
病人院に入れば、高き臥床、飯卓、蒲団(此の上蓋は一値日毎に一新 するなり)、筒ほふ、襦袢、股引等を与呉れ、而して3度の食事は其者 の病気に順ひ食物差異あれど、一様の食物は、煎たる牛肉、牛肉を細
雪 隠
廊下 廊下
病室 廊 病室
下 調 合 所 廊下
雪 隠
通 病 人 出 入 口
日本奴 僕部屋
病 室 病 室
病 室 診 察 所 病 室
物置 物置 物置 病
室 医 者 出 入 口 マ
ド ロ ス 部 屋
病 室
病 室 士 官 部 屋
病 室
病 室 病 室
マトロ ス罪 科あ れば 茲に
ニたゝき丸るめ、豕の油〔ラード〕にて揚たる物、或は鶏卵ソップ(牛 骨を十分の水にて煎、韮等を刻み入れ、其に僅かの塩を加へたる者なり)
等なり。且ツ服薬之義は、医者朝7時(西洋の時)に院に来り、病中 の病人を尽く〔診〕察し、容躰書〔カルテ〕をその病人之臥床上に掛置き、
午後より通辞(魯人)其容体書を取り、調合所へ持行き〔薬を〕調合し、
奴僕〔使用人〕をして銘々の部屋迄〔薬を〕持来らしむ。医者此院中 の病人察視〔診察〕之後に於而診察所に参り通病人を察視す。〔中略〕
扨此病院は魯国の天子〔皇帝〕より総の賄料下るニ依而、日本医者(十 分の八九迄)の病家〔病人の家〕之貧富を見分け薬を差別すると違ひ、
乞者の如き貧なる者ニも病気次第にて高価の薬を与へ、唯病気全快し 其者の魯人を慕ふを望む計なり。右様の手厚き取扱なれど一切謝金を 要セす、全く施しの為なり。然し人々皆全快を得ば、或る品物〔を贈 ること〕にて医者へ謝する由62)。
新島は患者にとって至れり尽くせりの「ロシア病院」の有様を綴った後、
転じて、日本の病院と医者の堕落した姿を想起し、無償で医療サーヴィス を提供するロシアの深謀遠慮に危機感を感じて次のように記した。
日本政府立置きし病院は、魯の病院とハ相反し、喰物宜しからす(俗 吏是ニ依而糊口をなす)、病人第一要する所の薬宜しからす(医者是ニ 依而糊口をなす)。其はさて置、薬を調合し病を視察す肝心なる医者は 竹林より来る〔竹庵、藪医者〕ゆへ、院中甚寥々の由(掃除行届かす、
衣類も時々変へず、施しの主意何にあるや)、其レに相違し魯の病院に は、病人院に満充し、通病人は凡5〔、〕60程なり。予切に嘆ず、函楯 の人民多年魯の恵救を得ば、我か政府〔幕府〕を背にし却って汲々と して魯人を仰かん事を。嗚呼魯の長久の策を我政府察セさるは何ぞや。
茲に堤ていせき堰〔堤防〕あり、水是を破る事少許、然し少許なるを以て早く 是を収めされば、水遂に全堤を破り、田地を荒らし、人家を流かし、
人民を害するに至らん。嗚呼我政府早く函楯の少しく欠けし堤を収め されば、遂に魯国の水全堤を潰ヤし、人民水に順ひ流れ、百万其レを
塞ぐ能わさるに至らん(嗚呼我の嘆息はゴマメの切歯と同し事か)63)
〔下線引用者〕
ここで新島が「我政府早く函楯の少しく欠けし堤を収めされば」という 言葉に込めた意味は何であろうか。ロシアの深謀を警戒して「ロシア病院」
を取り締まることであろうか。または、日本の医療の改善だろうか。
ロシアの病院を取り締まっても日本の医療が腐敗している以上意味はな い。それに、新島自身がロシアの病院で医者から目薬の点眼を受け、丸薬 をもらっている。丸薬については、「予思ふ、此丸薬ハ水銀剤にて予の血 を清めるならん」64)と述べ、洋学者として西洋医学に対する理解を示して いる。
そうであれば、新島の思いは、箱館の人々がロシア人を仰ぎ幕府に背を 向けるようになる前に、幕府もロシアと同等の医療サービスを行う必要が ある、ということであると考えて間違いないであろう。
アメリカ医療と衛生に対する万全の信頼
日本の医療制度にも危機感を持った新島は、アメリカ入国の1年半後に は、既に、アメリカ医学や衛生学に万全の信頼を置くようになって、次の ような書翰を父に送っている。
此国にては医術ひらけ、人々養生の道を弁へ決し而菜漬、たくわん漬、
豆いり等のごとき消化し難キ物は不用候。但養生の義は大切なる事に し而人命の長短にも拘り候間、何卒大人、やわらかき食正ママに相成候物 を御食用被成、且つ御保養の為として折々御他行被成、小子の事は一 切御心配不被成、偏に御身の御養生のみ専一と被成、小子帰錦の節迄 も御存命に被為在候様奉神祈候〔略〕若し御病気の御沙汰御座候ハ丶 よろしく杉田様と御相談被成、一切神仏への願かけ、まじない等は被 成間敷候様奉存候。なせならば日本の神仏は木、銕〔鉄〕、銅、石、紙 等にて造り、目あれ共見得ず、耳あれ共聞得ず、口あれ共食ひ得ず、
手足あれ共働く能ず、是其内に魂のなきハ明白に御座候(1867年3月29
日民治宛新島書簡)65)
この書翰にある杉田様とは、江戸で新島と共に聖書を勉強した杉田廉卿 である。杉田は、『解体新書』で有名な杉田玄白の曾孫であり、彼も蘭法 医であった。
アーモスト大学とヒッチコック
ところで、新島が進学したアーモスト大学は、1861年に、同年に採用さ れたエドワード・ヒッチコック( Edward Hitchcock Jr.(1828-1911)によっ てアメリカで最初に学内健康プログラムが展開された大学であった。
彼は Harvard Medical School で M.D.(医学博士号)の学位を取得した 医学者である。アメリカ大学健康協会は、彼の功績を讃えて、1961年以降、
大学での健康事業に対して卓越した業績を上げた者に「エドワード・ヒッ チコック賞」を贈っている。ヒッチコックは、授業としては、衛生学と生 理学、解剖学を教え、また、医師として学生の診察をしていた。
また、ヒッチコックは、1年生向けの授業で “sex and reproduction” に ついて講義し、それが “smut lecture(猥談講義)” とあだ名されて学生に 人気があったという。このことはアーモスト大学のホームページに掲載さ れている記事だが66)、新島在学時代のアーモスト大学の雰囲気から想像し がたく、記事にはホームページ執筆者の今日流の解釈が含まれているよう にも思われる。
新島は、少なくともヒッチコックの解剖学と生理学の授業を受けてお り67)、また、風邪を引くと彼の診察を受けたり、健康上の指導も受けてい る(足浴、散歩等)。なお、新島がヒッチコックから衛生学や性教育を学 んでいれば、日本人最初の受講者となるが、その実証のためには新島の授 業のノートを詳細に分析する必要があり、今後の研究課題としたい。
3)岩倉使節団の一員としての新島の米欧医学教育調査
新島が訪問した主要な医学教育機関及び病院
新島はアンドーヴァー神学校在学時の1872年3月、ワシントンを訪れて いた岩倉使節団に参加し、神学校を休学して、田中不二麿文部理事官とと もに、アメリカ東部、イギリス、フランス(パリ)、スイス、ドイツ、ロ シア(サンクトペテルブルク)、オランダ、デンマークを巡り、各国で様々 な教育機関や病院を視察している(アメリカ東部以外は、田中の部下も同 道した)。
訪問先の中で、医学教育機関や病院としては主に次を訪れている。なお、
それぞれのコメントは、(かっこ)書きの注記を除き、新島の日記の抄録 である。
・1872年4月6日、Blockley Alms-house(養老院)in Philadelphia。
Surgical Hospital(外科病院)が併設されている。また、Insane Hospital(精 神病院)には、850人の男性患者と500人の女性患者が入院していた68)。 ・同年5月7日、 St. Luke's Hospital in New York。
同病院は、完全な私立病院であり、ホームレスの子ども達や貧しい親向 けの部門を持つ69)(同院は、Columbia University College of Physicians and Surgeons と提携している70))。
・同年5月30日、Edinburgh University(University of Edinburgh) in Edinburgh。
哲学者の Sir William Hamilton とエディンバラ公(女王の第2子)の胸 像等を見る。10万冊の書物を収蔵する図書館や解剖学の学部を見る71)。 ・同年6月21日、St. Thomas's Hospital in London。
・同年7月8日、Oxford、9日 Cambridge。いずれもガイドを雇って、そ れぞれの主要な College や図書館を見学72)。
なお、新島は、イギリスの教育制度に関する印象をまとめており、その 中で、college と university については、次の4つに分けられる、と指摘し、
医学教育もその一つであることを指摘している。
College and University. Like King’s College, University College, and
Colleges in Oxford and Cambridge。
1 General Literature
2 Applied Science, Architect Engineers. Mechanics 3 Medical Department
4 Theological Department73)
・同年8月27もしくは28日 Leyden University in Leyden, オランダ。
「ライデンにはシーボルトと申博物館ありて其内ニ大分日本の画、紙、
塗り物、瀬戸物、其外種々の珍器之有り候、此ハ蘭医シーボルトの取集メ シ者ナリ」74)
なお、新島は同年9月上旬頃からドイツのベルリンに滞在して各国の学 校規則や報告書の翻訳を開始したが、10月以降、秋が深まると共にリュー マチを発症し、病院通いをすることになった。その意味で、彼はドイツ(ベ ルリン)の医療制度に対しては患者として実体験をすることになった。
長与専斎との交流と長与の京都看病婦学校設立支持
ところで、岩倉使節団において田中不二麿文部理事官を長とする教育制 度調査チームには、次のメンバーが所属していた。
長与専斎(秉継)(中教授):医学教育制度調査 中島永元 (少教授):英語圏 教育制度調査 内村良蔵(公平)(中助教):英語圏 教育制度調査 今村和郎 (同 上):仏語圏 教育制度調査 近藤昌綱 (同 上):独語圏 教育制度調査
※新島は、ワシントンでチームに正式に合流し、翌年一月、病気を理由 にそれを辞している75)。
このメンバーのうち、医学教育制度調査を行った長与専斎は、帰国後に 文部省医務局長と東京医学校校長を兼務して医療行政のトップとなり、前 述の通り「医制」を制定する。その後、上述の通り、自ら命名した衛生局(医
務局を内務省に移して改称したもの)の局長として国の衛生事業の指揮を 執った。
ただし、国の医学は、既記の通り、ドイツ医学の採用が既定路線化され ており、その点については、長与も「伯林は当初よりの目的地」76)と考え た上での使節団の参加であって、帰国後に彼が国の医学の流派の選定や変 更に影響を与えることはなかった。その一方で、彼が帰国後の行政に大き な影響を与えたのは、日本における公衆衛生や健康保護に関する事業の創 設である。これらについては、長与が岩倉使節団に参加してドイツとオラ ンダ両国での進展を如実に見て、帰国後の自分の指命と考えたのであっ た。
上記の事情については、長与が自伝で次のように述べているとおりであ る。
元来今度巡遊の命を拝したるは医学教育の事を調査するがためなれ ども、このことはその端緒すでに本邦に開けたれば、一旦その章程を 定めて順序を整えたらんには、他の高等教育制度に伴いて逐次に発達 せんこと疑うべくもあらず。しかるにこの健康保護の事に至りては東 洋にはなおその名称さえもなく全く創新の事業なれば、その経営まこ とに容易のわざにはあらず。しかもその本源は医学に資よれるものなれ ば、医家出身の人なれでは任ずべき様なし、されば畢生の事業として おのれ自らこれに任ずべしと、ここに私ひそかに志を起こし...、77)
新島はベルリンで長与と親交を結んでいる。それは、ベルリンで購入し た家族への土産(父に革手袋1対、母と姉にあわせて革手袋4対、弟双六 に小さき小刀一本)を封物に入れて、先に帰国する「長与氏の荷物中ニ」
その封物を預ける78)程の関係であった。
長与はベルリンで国の衛生事業に開眼する以前も、米英視察中に「サニ タリー〔sanitary〕云々、ヘルス〔health〕云々の語は、しばしば耳聞す るところ」79)だったが、深くは心に留めなかった。ドイツに入ってしばら く後、ようやくその重要性を認識したとき、長与は「廬山に入りて廬山を
見ず、米英以来半年以上夢幻の如く泛遊し、うかうか看過したることの今 さらに悔しくもまた恥ずかしく嘆息の外なかりけり」80)と後悔しているか ら、彼はドイツで改めて英語の sanitary や health の意味を知ろうとした はずである。そうであれば、アメリカに長く住んでいた新島に真っ先に尋 ねたであろう。新島は喜んでその意味を語ったはずである。
ところで、長与とベリー(京都看病婦学校)との関係について、前掲の
『同志社百年史』(通史編1、同章)には、次のような記述がある。
ベリーはかねてより看護婦の専門教育の重要性を説いてきたが、当時 のわが国ではこれに耳をかすものはなかった。このことを内務省衛生 局長長与専斎に訴えたところ、さすがに彼はこれに直ちに賛意を表 し、大日本私立衛生会(会長は長与自身)京都支部長半なか井らい澄さやかに紹介し た。1886年9月20日、同支部総会でベリーは彼の考えている看護婦、
その教育についての講演を行った。〔略〕この会には長与も特別に出席 し...、81)
この記述は少し不正確である。
同年同日、確かにベリーは、長与も特別に出席した同支部の会議で講演 を行ったが、その会議は支部総会ではない。さらに、ベリーはここで、一 般論としての看護婦とその教育に関して持論を披露したのではない。
事実は、長与も出席したのは、「京都看病婦学校の儀」に関して議論し た会議であり82)、ベリーと共に新島も出席している。そして、冒頭に長与 が同学校設立に対して賛成の発言をした後83)、ベリーが「京都看病婦学校 設立ノ演説」を行い、続いて新島が「看病婦学校之目的」84)について演説 している。
この会議が行われた9月は、前述の通り、デイヴィス邸で看病婦学校と 同志社病院が実質的に始まった月である。この一致は偶然だろうか。
ここで想起すべきは、『同志社五十年裏面史』の次の記述である。
同志社病院及看護婦〔看病婦〕学校は京都の医師が例の利己的の動機
によって殆んど挙ってこの設立に反対したが、東山医院の院長半井澄 氏のみは密かに賛成の意を表して百円か2百円か寄付した。85)
それでは、大日本私立衛生会とその京都支部とはどのような会かといえ ば、まず、大日本私立衛生会は、長与が1876(明治9)年に万国医学会出 席のために渡米した折、3ヶ月にわたって、ニューヨーク、ボストン、ワ シントン、シカゴ等の諸都市の衛生行政を視察し、同国が「自治衛生の大 義」を重んじ、「実際の執行に至りては、寛仮〔寛大〕優容の手段巧みに 行われて苛察〔過酷な詮索〕深刻の弊なく、手数の簡易にして事務の敏活 に運ばるる」に「実に感服」したことにより86)、日本に於いても「人民 の側に立ちて」87)衛生観念の浸透を図ろうとして佐野常民を初代会頭に挙 げ、自身を副会頭として1882(明治15)年に設立した民間団体である。また、
その京都支部とは、1883年に京都の医療関係の有志が設立した衛生談話会 が、大日本私立衛生会に合流してその支部となったものである88)。京都医 師会の前身の京都医会の設立は1890(明治23)年であるから、当時、京都 における医療 ・ 衛生関係者を代表する団体は、同京都支部であった。なお、
支部長の半井澄は、和気清麻呂の子孫の和気時雨(ときふる)以来幕末ま で千年間も典薬頭を務める日本の医家の名門中の名門の家柄であり、自身 は京都療病院初代院長を務め、京都医会が設立された際には、初代の会長 となった。
以上のことを考え合わせると、大日本私立衛生会京都支部でのベリーと 新島の演説の背景には、同志社における京都看病婦学校と同志社病院の設 立計画について、京都の医家がこぞって反対したために、困惑した新島 が、自身自らか、前掲『同志社百年史』(通史編1)にあるようにベリー を通じて旧知の長与衛生局長に助力を依頼し、長与がそれに応じて半井と ともに衛生会京都支部の会議でベリーと新島に講演をさせ、自身もその会 議に出席して、冒頭で同病院に対して賛意を示して、医家の反対意見を封 じた動きが透けて見える。そして、長与の思惑通り、その会議で医家の賛 意を取り付けた(あるいは反対意見が出なかった)ことから、京都看病婦
学校と同志社病院は事業を開始することが出来たのである。京都の医家が こぞってその設立に反対した京都看病婦学校と同志社病院だが、翌年行わ れた開業式には、参会者約500名、建物見物者3000人と大盛況だったこと も89)、このときの長与の支持が影響したものであろう。
上述の通り、長与はドイツ医学を学んだが、アメリカの医療衛生制度に 対しては、それを取りいれるほど高く評価していた。そして、同志社が、
そのアメリカ式の医療や看護制度を導入しようとしたために彼は賛意を示 したのであろうが、その一方で、わざわざ入洛して旧友の新島の前で賛意 を表したことに、私は、長与の新島に対する友情を感じるのである。
4)新島のキリスト教主義私立大学構想
新島がキリスト教主義の私立大学を設立しようとした直接の動機 ところで、新島が自分の手でキリスト教に基づく私立大学を設立しよう と考えた直接の動機とはいったい何であろうか。
管見によれば、それは、新島が岩倉使節団の一員としてベルリンに滞在 していた際、同地で80名という大勢の日本人留学生達に出会い、帰国後に 国民を指導する立場にある彼等のほとんどが、西洋文明の皮相面だけを学 んでキリスト教の本質を知らず、クリスチャンをばかにする習慣を身に付 けていることに衝撃を受け、それに危機感を感じたことである90)。 岩倉使節団の一員としてベルリンに滞在していた新島は、その時の衝撃 と決意を次のようにハーディー夫人に書き送っている。それは田中から誘 われ、彼とともに帰国すべきかどうか迷ったあげく、そうせずにアメリカ に帰って神学の勉強を完成することを決めた重要な書簡であり、内面の逡 巡が文面にも表れている貴重なものなので、長文だが重要部分を掲げたい。
ここ5週間ほど、むずかしい問題を考えてきました。よくご存知のよう に、私は田中氏について帰国すべきか、アメリカに帰ってアンドーヴァー での勉強を終えるべきか、まったくきめかねております。長い間その問題 をあれこれと考えてきました。しかしこちらに帰ってきた田中氏は、私に
一緒に帰国するように要望しました。〔略〕私にしばらく帰国をうながす もう一つの事が起こりました。といいますのは、ここ2、3日、ベルリン で寒気がひどく身にこたえはじめたのです。それで、もしきびしい寒さに 身をさらせば、あの持病がまたもやぶりかえしはしないかという気がする のです。こう考えますと、今年アンドーヴァーに帰って勉強を再開するこ とにはどうも気乗りがしないのです。そこで、1、2年間あの温和な気候 のもとでこのリューマチから逃れるために帰国してはどうか、そうすれば 多分、寒いニュー・イングランドの冬に再び対抗していけるようになれる かもしれない、と考えました。〔略〕ご反対でなければ田中氏について帰 国することにきめようと思います。私のとるべき道についてご意見をお聞 かせ下さいませんか。ご存知の通り、私は帰国する前にぜひともアメリカ に戻るということが、お二人様と私との間での諒解事項でありました。田 中氏はスエズ経由で帰国するそうです。その方がアメリカ大陸を経由して 帰る場合よりもうんと暖いからです。しかし私としてはむしろボストン経 由を望んでいます。もし寒い気候が私のリューマチにとってあまり安全で ないとするならば、私は次の春がくるまでヨーロッパの暖い場所にとど まっていたいと思います。けれども田中氏は次の春まで私を待ってくれそ うにありません。なぜなら彼は使節団から全く離れているからです。私が 彼を見捨てれば彼は一人になってしまいます。私はアメリカの友人たちに 会いたいという切実な欲求を満足させて田中氏には不便をしのんでもらう ことにしたものでしょうか、それとも田中氏の世話をして私自身の欲望は 否定したものでしょうか。私としてはアメリカに帰って神学の勉強を再開 し、完成し、宣教の仕事のために完全に備えをなすことにきめます。私は この世的な富や名声を求める気持は毛頭ありません。なぜなら私は自分の 目をキリストの栄光と卓越性にしっかりと注いでいると信じるからです。
ヨーロッパに来て数多くの不信仰の人々を見ましたので、人間の魂にとっ て福音の真理がいかに必要であるかということがはっきりと見えるのです。
ベルリンには今80人ほどの日本人留学生がおります。しかし彼らのすべ てはキリスト教の真理が何であるかを知ることなしに、クリスチャンたち を馬鹿にする習慣を身につけてしまいました。その一人が田中氏の親しい
友人に向かって、田中氏は坊主になったのか、と聞きました。なぜならそ の反宗数的な日本人は田中氏が私と一緒にいて、熱心な興味をもってキリ スト教の書物を読んでいると聞いたからです。田中氏はその侮辱的な言葉 をきいたときそれを意に留めることなく、ただ笑っただけでした。こうい う連中が帰国すると、彼らは日本に存在を始めたばかりのキリストの教会 の大義を大いに妨害することになるだろうと思います。今こそ連中が日本 国のために大きな災いをもたらさない前に、私が宣教師たちのために道を 開き、国民教育をキリスト教道徳の主義でもっておおうようにすべき潮時 ではないかと考えております。
(1872年10月2日 ハーディー夫人宛新島書簡91)下線引用者)
1874年10月9日、ラットランドで開かれたアメリカン・ボード第65回年 次大会の最終日に挨拶に立った新島は、日本にキリスト教の「大学」をつ くりたいと訴えたが、その時に彼が話した内容は、故オーティス・ケーリ 氏が発掘した Rutland Weekly Herald の記事によれば、次のようなもので あった。
私の国は3百人の学生を世界のさまざまな部分に派遣し、その地の 与えうる最上のものを学ばせようとしました。残念ながら、彼らの大 部分はヨーロッパの不信仰の影響の下にあります。しかし私たちは教 育以上のものを必要としています。私の祖国には霊的な教えがどうし ても必要です。日本はアメリカのいちばん下の娘、ないしは、ひよわ な妹です。それでも今日本はすでに自活しつつあります。
日本のような国では悪魔ははやばやと種子をまくのです。ですから 私たちは悪魔を出しぬいて、福音の種子をまかなくてはなりません。
神戸の教会には教育機関〔 educational institution 〕がありません。
その教会には何らかの学校が必要です。日本人にとって金をねだるほ どいやしいことはありません。しかし私たちは今ねだらねばなりませ ん。キリストも、求めよ、さらば与えられん、と言われましたから。
それ故に私は皆さんに対し、約3千3百万人を助けるための教師と説 教者を起こすべく、養成所〔training institution〕を設立するに充分な 程度のご援助をおねがい致したいのであります。
(Rutland Weekly Herald 10/15/1874)92)
新島が造ろうとしたのは training institution か college か
過去は、新島が後年にこの時の演説で自分は「予帰朝ノ後必ラス一ノ大 学ヲ設立し」と語ったことから93)、新島はこの時、大学設立を訴えたと考 えられていた。しかし、ケーリ氏が Rutland Weekly Herald の記事を発掘 した論文を発表して以来、新島はこの時、大学設立を訴えたのではなく教 会付属の「養成所」を造りたいと訴えていたとされ、大学設立については、
同志社英学校を開校した後、新島が大学設立に関する文章をまとめ始めた 1882(明治15)年以降であるとする議論が生じるようになった。
しかし、私の見解では、ベルリンで日本人留学生の行状に衝撃を受けて 以来、ラットランドでの演説も含めて、新島が当初から設立したかったの は、Christian College であった。
このことをこれから説明したい。
まず、Rutland Weekly Herald の記事の training institution(「養成所」)
の言葉が問題である。
同記事によれば、新島は確かに、training institution を造りたい、と 訴 え て い る が、 そ の 理 由 と し て、 新 島 は、 神 戸 の 教 会 に educational institution がないこと、教会にはなんらかの学校が必要だから(she must have something of the kind) と 述 べ て い る こ と よ り、 彼 は、training institution を educational institution と同意義に用いた上で、修辞上言葉の 重複を避けるために言い換えたことが分かる。実際に、同記事で新島が 語った training institution は、“to start this training institution, to raise up teachers and preachers to help some 33,000,000 people.94)“ であって、宣教 師だけでなく、教師も育てるための教育機関である。
したがって、新島の設立したかったのは、training institution よりは、
educational institution であった、と考える方が妥当である。educational