新島襄の母とみとその先祖
著者 関口 徹
雑誌名 新島研究
号 104
ページ 69‑101
発行年 2013‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013410
関 口 徹
1.資料提供の事実確認
新島襄の母とみの先祖については、昭和
60
(1985
)年に韮塚一三郎氏 が『埼玉の女たち 歴史の中の25人』の25人目に「同志社の創設者新島 襄の母とみ」を発表して以来、こんにちで四半世紀以上が経過した。近 年、再び研究対象にとり上げられる機会が多い。韮塚氏の発表以降でと みの先祖について公にされた研究は、当誌『新島研究』において外には 見あたらないと思われる。列挙すると、1.籠谷次郎「安中藩士岡田源七郎と新島家 ―関口徹氏の所説にふれ て―」『新島研究』第99号(2008年2月)、
2.籠谷次郎「近世新島家の儀礼と贈答の人びと ―「新島家祝物到来 覚帳」の考察―」『新島研究』第100号(2009年2月)、
3.籠谷次郎「鍵屋六之丞考」『新島研究』第
101
号(2010
年2月)、4.関口徹「新島襄の母とみと浦和宿の中田家 ―籠谷次郎氏の所説に ふれて―」『新島研究』第
102
号(2011
年2月)、5.籠谷次郎「関口徹氏『新島襄の母とみと浦和宿の中田家 ―籠谷次 郎氏の所説にふれて―』を読んで」『新島研究』第
103
号(2012
年 2月)、6.関口徹「新島襄の母とみとその生地」『新島研究』第
103
号(2012
年 2月)、以上6論文である。論文全体が対象の発表誌になっているものは「3」
から以降の4論文である。以下誌名『新島研究』は、しばしば参考や引 用として採り上げるので、その誌名と「第」は省略し、号数と頁(
p.
)・行(1.)で示す表記をとりたい。
まず本論に入る前に、資料提供の事実確認をしておきたい。籠谷氏は
103号(p.141、 l.17)に① 「同史料を最初に取り上げたのは韮塚氏であ
る」 と書いている。この史料とは、『短才見聞録』に記された「三十 鹿嶋神主寺之事」(資料1)を指している。
さらに同頁(
l.21
)で② 「両人の関係を論じたのは関口稿(102
号の拙 論を指す:筆者)が最初ではない」と断定している。この両人とは同資 料「鹿嶋神主寺之事」に「此本紙ハ中奉書半切ニ而御座候、浦和宿中田 伝十郎殿方ニ有之、宮崎写し置者也、今ハ中田善五郎殿事也」と記され た、中田伝十郎、中田善五郎という二人の関係を指している。籠谷氏の この二つの指摘の確認である。筆者の韮塚氏との交わりについては、
102
号1章「韮塚一三郎氏と『埼 玉の女たち』」と103号「はじめに」にとりあげた。特に102号(p.61)では、韮塚氏がとみの浦和宿における資料が見当 たらないと話されたとき、筆者は前述の「鹿 嶋神主寺之事」を載せた「埼玉と同志社」1)
を韮塚氏に提供した状況を記した。
「埼玉と同志社」 の発行について、籠谷 氏は103号(p.141、
l.23)で「刊行年は不記、
昭和
57
年カ」と疑問を投げている。しか しこれについて筆者ははっきりと、102号(
p.62
、l.23
)に「『埼玉と同志社』は昭和57年7月2日、第2回埼玉支部総会のとき
に参会者に配付され」と記しており、これ を詳しく求める道筋を「『同志社タイムス』350
号5面」(同l.24
)と明らかにしている。配付したということはその時までに活字化 されていなければならない。韮塚氏の『埼 玉の女たち 歴史の中の25人』の出版は、
102
号(p.62
、l.2
)に記述してあるように、「昭 和60年1月1日」である。この間、配付と 資料1. 「鹿嶋神主寺之事」『浦和市史』第3巻近世史料Ⅰより
出版には2年半ほどの時間的な隔たりがあるのである。
この同志社校友会埼玉支部総会の様子は『同志社タイムス』第350号 に次のように掲載されている。「総長迎え華やかに」という見出しで、
昭和57年「七月二日、東京市ヶ谷会館に三三五五集い合った七十余名は、
関口徹君(
42
文卒)の『埼玉と同志社』の研究論文、……を読みつつ開 会を心静かに待った。」この時の来賓は上野直蔵総長、津下東京支部長、小出東京事務所長、沼田神奈川支部長であった。この記事から
70
数名の 会員と4名の来賓に 「埼玉と同志社」 は配付されたものであることは間 違いない事実である。韮塚氏はこの 「埼玉と同志社」 を見て、昭和54年12月に初版を刊行し た『埼玉の女たち 歴史の中の
24
人』に新島とみを追加して、増補版『埼 玉の女たち 歴史の中の25人』(以下、『埼玉の女たち』と略す)を昭和60
年1月に出版したのである。このことは102
号(p.62
、11.2-4
)に記した。ここで確認しておかねばならないのは、「鹿嶋神主寺之事」の最初の指 摘は 「埼玉と同志社」 であり、そこに載せた「鹿嶋神主寺之事」を韮塚 氏が『埼玉の女たち』(p.279)に使ったのである。
さらに韮塚氏とのやり取りを記しておく。「埼玉と同志社」 を韮塚氏 に提供してから後に、お宅から引き下がるとき玄関先で氏から、「関口 さんの事は本文で触れないけど、参考文献に載せるので、それでいいか ね」と言われたことを思い出す。このとき韮塚氏は新島とみを執筆中で あったのであろう。埼玉県の教育界、さらに郷土の歴史と文化に大きな 業績を残され、何にもまして、同志社から遠く離れた地で新島襄を研究 されておられる氏に、当時
30
代の筆者は喜んで「結構ですよ」と答えた ことを思い起こす。後日新島とみを追加して「歴史の中の
25
人」となった『埼玉の女たち』を手にしたとき、お話の通り同書の参考文献に筆者の名前とタイトル 名 「埼玉と同志社」 が掲載されており(同書
p.299
)、筆者が指摘した史 料(「鹿嶋神主寺之事」)を韮塚氏がそっくり本文の中に使用していたの を目にして、102
号(p.62
、11.20-21
)に記述したように「とみの祖先に つながる史料を浦和宿において最初に発見したのは私だ、という喜びを感じたのである」。それゆえに、籠谷氏の「韮塚氏に向けられた疑問は、
筆者に投げかけられたものと受け取」(同p.63、
l.6)り、102号の拙論発
表にいたるのである。籠谷氏が103号で「同史料を最初にとり上げたのは韮塚一三郎氏であ る」との指摘は誤りで、「同史料を最初にとりあげたのは関口である」
というのが、私事で恐縮だが正しい。
さらに、とみの先祖に係わる中田伝十郎と中田善五郎の「両人の関係 を論じたのは関口稿が最初でない」と断定されたが、筆者は「埼玉と同 志社」に 「鹿嶋神主寺之事」を掲載し、「中田六之丞の祖先は、この中 田善五郎―中田伝十郎と結びつくのではないか――と推論できなくはな い」(
102
号p.66
中段)と説明した。この伝十郎、善五郎が中田家と結び つく人物だと言及したのは、韮塚氏の『埼玉の女たち』の出版より約2 年半前のことである。筆者によって発表され、韮塚氏の目に触れたこと は時系列的に明らかで、従って、とみの家系の中で「両人の関係を論じ たのは関口稿が最初である」というのが正確な捉え方であるといえよう。2.三界万霊塔ととみの先祖
籠谷氏は、とみが口述で「中田六之丞女むすめ」と称しているのは明治期に 入ってからのことで、江戸期にはとみの実家は鍵屋を名乗っていたとい う。確かに新島家の過去帳(出典資 料13)には六之丞の戒名と一緒に俗 名鍵屋六之丞と記されている。また 新島家に残る祝物到来覚帳(出典資 料
26
・28
・30
・31
・33
・36
) に は、とみの子供たちの誕生と成長の祝 いに浦和から贈呈した記録として 鍵屋六之丞、六之丞亡きあとは、鍵 屋金蔵の名が記されている。とみ実 家の菩提寺、玉蔵院過去帳(資料2、
資料2. 「玉蔵院過去帳」の内容(一部)
以下、玉蔵院過去帳の内容は韮塚氏の
『埼玉の女たち』による)には、死者伝 兵衛の項に、鍵屋六之丞親と書かれて いる。一方玉蔵院過去帳をみた韮塚氏 は、金蔵の子と思われる人物が明治9 年に死去したが、この者は中田富蔵と 記されているという。これらからみて 籠谷氏は江戸期のとみの実家では、鍵 屋はあっても中田姓の記載はなく、中 田の記録があるのは明治期に入ってか らのものである。過去帳の富蔵は明治 9年を記し、とみの口述も明治23年の 記録ではないかと。さらに口述に触れ ながら籠谷氏は、「明治に入ってからで
も、すでに
23
年の歳月が過ぎていた。人間の記憶には、過去の記憶を 新しい記憶の中で語ることがある。人にはよくあることである」(99号p.18
、l.13
)と述べている。はたして、とみは過去の記憶を新しい記憶 の中で語ったものとして「とみの口述」が遺されたのであろうか。
これは、新島襄の母とみに係わる 大事な事項なので、検証を要する。
102号(p.71)に筆者はひとつ の江戸期の石造物を提示した。玉 蔵院境内に建っている三界万霊塔
(資料3、4)である。とみの先祖 を語るに重要な史料なので再度こ こに掲載する。
この塔は享和3(1803)年7月 に玉蔵院
22
世玄盛が願主となって 建立した。「齢としの端はや三みつのさかい界の霊たまま資料3.享和3(1803)年造立の 三界万霊塔
資料4.塔の台石部分(正面左側)
つり」と読める句が塔右側面に刻まれている。宿住人を中心に近村の人 びとが施主となり、亡きものの霊を慰め供養したものである。上部に戒 名、その下方に死者を弔う施主の名が一行ずつ刻まれている。
71
人の名 が塔を取り囲むように台石に刻まれているのである(102号p.90、注6 参照)。そのなかの台石の正面左側に「樂□頓圓清信士」の戒名が刻まれ、その下方に「中田善五良」と確認できる一行が刻まれている(資料5)。
200
年以上の時を経て、これら12
文字は何を我々に物語るのであろうか。玉蔵院過去帳によって我々は享和3(1803)年5月17日に、六之丞の 父である伝兵衛が
71
歳で死去したことを知った。その戒名は「楽定頓円 清信士」である。そして伝兵衛が死去したとき、伝兵衛の父は97歳で存 命しており、母も93
歳で存生していると記されている。つまり伝兵衛は 両親より先に亡くなってしまったのである。この過去帳の内容を、伝兵衛が死去して2カ月後に造立された三界万 霊塔と照らし合わせると、万霊塔に刻まれた戒名の「樂□頓圓清信士」
は伝兵衛そのものを現わしているのであり、供養した人物は子の六之丞 ではなく、97歳で存命中の伝兵衛の父親を意味している。その名は中田 善五郎(「良」は「郎」に通ず)であることが、おのずと理解できるの である。これは後述する善五郎の居宅地と照らし合わせるとよりはっき り合点がいく。
とみの父・中田六之丞の、そしてその父・伝兵衛を供養している者は 紛れもなく伝兵衛の父、
97
歳で存命中の中田善五郎なのである。これに より、とみの実家は中田姓を苗字に使用していたことがわかる。三界万 霊塔はそれを証する貴重な一次史料である。ここで大事なことは、とみの実家の中田姓と善五郎の立ち位置である。
籠谷氏は
102
号の拙論「を読んで」と題した103
号で、新島家文書、新島 家の過去帳を根拠に、江戸期おけるとみの実家は苗字「中田」姓を認めず、屋号「鍵屋」を使用し(
103
号p.139
、l.25
)、明治期になって「中田」姓 を名乗るようになったとしている(101号p.10、l.24)。この姿勢は99号
(
p.18
、l.21
)から続いている。しかし三界万霊塔で明らかなように享和 3(1803)年には、とみの先祖はすでに中田姓を名乗っていたことは疑資料5.資料4の部分の拓本、左から4行目に伝兵衛の戒名と 中田姓の善五良(郎)が見える
いの余地がない。
また氏は101号(p.10、
l.30-p.12、 l.3)で「善五郎は鍵屋の系譜の中で
は六之丞の父伝兵衛、六之丞の時期と重なる。善五郎が鍵屋の人として 入り込む余地はない。伝兵衛、六之丞が善五郎を名乗ったことは確認で きないので、同系譜で見る限り、善五郎は鍵屋六之丞家とは別家と思わ れる。」 と書いている。しかし、これまで当時の史料で確認したように、善五郎は伝兵衛の父であり、六之丞にとっては祖父なのである。入り込 む余地がないどころか血のつながった父親であり祖父である。ましてや 善五郎は別家ではなく、一家、一族の重要な位置を占める存在であった のである。
さらに付言するなら、籠谷氏は「『とみの口述』を含め、これらはす べて明治期の記載である。これらを根拠に近世にまでさかのぼり、同家 を中田とするのは早計である。……史料は一次史料によることが望まし い」(101号p.6、
l.7)と要望している。とみの実家の中田姓と善五郎の
存在について、筆者は江戸期に記録され、造られた紛れもない一次史料 に基づいて論じている。3.中宿中田善五郎
とみの先祖については、浦和宿におけるその居宅地を確定する作業の 中で、より一層明確にされる。韮塚氏が『埼玉の女たち』(
p.278
)で「中 田家のあった処は玉蔵院の黒門の前通り、中山道を隔ててやや北寄りに あった。……その跡地には浦和警察署があったが今、商工ビルが建って いる。」と記している。これはとみの生地を明確に指摘した嚆矢である。筆者はとみの生地の確認作業を
103
号に報告した。韮塚氏がいう「玉 蔵院の黒門の前通り、中山道を隔ててやや北寄り」の場所は、①平成6(
1994
)年「浦和市詳細図」で「浦和商工ビル」が示され(103
号p.133
、 資料20)、②明治35(1902)年「浦和町営業便覧」図で「浦和警察署」が示され(同
p.130
、資料15
)、③「弘化期(1844-48
年)浦和宿図」で「鍵 六穀問屋商」宅が示され(同p.124、資料11)、④「文化八(1811)年浦和宿絵図」で「善五郎」宅が示され(同
p.123
、資料9)、⑤明和3(1766
) 年「玉蔵院境内図」『短才見聞録』で「鍵や善五郎」宅が示され(同p.121、資料6)ている。これらは元図を掲げながら記述してきた。
ところがその際、文化8(1811)年の浦和宿絵図と平成期現在の浦和 市街図を重ねることで、とみの先祖の土地がこんにちでも一致すること を試みたが、両図の写真資料の扱いが小さすぎて重ね合わせること自体 が難しいとの読者からの指摘があった。改めてここにスペースを戴き、
頁大で掲出したので、江戸期の宿並図と現代市街図とを比較して戴きた い。
1811年の「文化八年浦和宿絵図」(資料6)と平成22(2010)年の「さ いたま市浦和区詳細図」(資料7)とは、ほゞ
200
年の時が流れる。両図とも街道中山道では上方が北で京(京都)方面、下方が南で江戸
(東京)方面である。資料6図の、中山道と玉蔵院の北側の道との交差 点(A)を東へ進み、中山道と並行する南北の道との交差点(B)まで の長さが両図とも同じになるように縮尺してみた。すると「文化八年浦 和宿絵図」のA交差点から中山道に面して南へ、友五郎、冨助、又四郎、
と続き4軒目に「善五郎」が見える。ここで思い出すのは三界万霊塔で ある。資料5には「中田善五良」の次に 「小泉又四良 板倉冨助」 が刻 印されていた。享和3(
1803
)年7月造立の三界万霊塔に描かれた人物 が、文化8(1811)年4月の浦和宿絵図にも現われていることは注目に 値する。善五郎宅の間口と、「さいたま市浦和区詳細図」のA交差点から同じ ように、中山道を南下して4区画目の「浦和商工ビル」の間口とがほぼ 一致することが解る。善五郎の居宅地は「屋敷五畝廿七歩 藪十八歩 同七歩 上畑三畝十八歩」と記され、合計
310
歩(坪)であったが、浦 和商工会議所の資料には、「昭和37年4月20日 旧浦和警察署の跡地(現 在の浦和商工ビルの底地)の土地売買契約締結 浦和市仲町1丁目32
番(面積474坪)」(103号p.138、注23)となっているので、浦和警察署の時 代に土地は拡大されたものであろう。従って「さいたま市浦和区詳細図」
の方が広くなっている。
資料6.善五郎の居宅地が示された「文化八年浦和宿絵図」(部分、「玉蔵院、中山道、A、B、善五郎→」を加工した)
善五郎↑ 中山道
A B
資料7.㈲新特殊地図発行「さいたま市浦和区詳細図」(部分、2010年版、「旧中山道」の文字を上部から移した)
1811
年「文化八年浦和宿絵図」に、善五郎の名で示された場所は、1844-48年「弘化期浦和宿図」に「鍵六 穀問屋商」と書かれた位置と
同じなので、伝兵衛も六之丞も金蔵も、そして14
歳で江戸に奉公に出る まで、とみも生活してきたところなのである。かつてとみの先祖が生活していた中山道の場所が、
200
年を経てこん にちに至っても、街道に面した間口の広さがほゞ同じ位置を示すことが できた。「文化八年浦和宿絵図」のB交差点を南北に通る裏道は、とみ を始め彼女の先祖の人びとが通った道で、浦和駅やデパートに近いこの 道は中山道と同じく現在も、大勢の市民が行き交っている。浦和宿のなかで「玉蔵院の黒門の前通り、中山道を隔ててやや北寄り」
にある善五郎宅は、上町・中町・下町のどの位置に属するのであろうか。
1811年の「文化八年浦和宿絵図」には、残念ながら宿場を区分する印 は描かれていない。上町の一部を欠いている元禄
10
(1697
)年の「浦和 宿高見世場絵図」には街道に○で区分杭を示し、下区分杭・上区分杭が見える。
1844-1848
年の「弘化期浦和宿図」では区分は街道に縦線で印をつけているので上町・中町・下町の区域を知ることできる。この両図 から、玉蔵院の黒門の前通りと中山道とのT字で交わる地点から、北へ 本陣敷地内の問屋場までが中町とされている。『浦和市史』は通史編Ⅱ
(昭和
63
年3月発行)に「浦和宿復元図」を作成し宿全体を示している(p.287)。そこには中山道沿いの玉蔵院も示されているので宿の区分は 理解しやすい。この「浦和宿復元図」は籠谷氏の
101
号「鍵屋六之丞考」(p.14)にも載録されている。
とみの先祖が生活した「文化八年浦和宿絵図」の善五郎宅、「弘化期 浦和宿図」の「鍵六 穀問屋商」宅は、いずれも「玉蔵院の黒門の前通 り、中山道を隔ててやや北寄り」にあり、そこは浦和宿の中町を示して いることが江戸期の宿並図によって明らかである。これは記憶にとどめ るべき大事な事項である。文化8(
1811
)年は、42
歳の六之丞、そして 将来新島襄の母となる5歳のとみが、ここに住んでいたのである(資料 12参照)。ところで玉蔵院過去帳に記された伝兵衛の父は、97歳で存命中で、彼
資料8.『短才見聞録』に記された「善五郎」の表記
記載年号 記事の表題 表 記 場 所
宝暦4(1754)年 卅二 神主寺向ノ今ノ重兵衛小家始 中宿善五郎
p.62上段
宝暦11(1761)年 卅三 掃除役 中宿善五郎p.62下段
明和元(1764)年 卅四 大門駒寄より神主寺 善五郎p.63上段
明和3(1766)年 三十 鹿嶋神主寺之事 今ハ中田善五郎殿p.61上段
明和3(1766)年 七十四 玉蔵院境内図(目次から採る)善五郎p.61上段
明和3(1766)年 七十四 玉蔵院御朱印鹿島台惣畑 之図 善印ハ善五郎世話p.84下段
明和3(1766)年 七十四 (同上の図の中) 善p.84下段
注1.記載場所は『浦和市史』第3巻近世史料Ⅰによる。2.記載記事の関連と出典は本論後方の資料12を参照。
の父は善五郎を指していることは前述した。伝兵衛が死去した享和3
(1803)年に97歳であることは、善五郎は宝永4(1707)年の生まれになる。
すると 「鹿嶋神主寺之事」に出てくる「今ハ中田善五郎殿事也」とは、『短 才見聞録』が成った明和3(1766)年を示しているので、この 「今ハ」
とは善五郎が
60
歳のときであるということになる。『短才見聞録』には 善五郎が48歳の宝暦4(1754)年からの記録がある。『短才見聞録』に 善五郎が記述されている個所は7
個所見られる。それらを一覧にしたの が資料8「『短才見聞録』に記された「善五郎」の表記」である。この 中の2個所、宝暦4(1754
)年と宝暦11
(1761
)年に善五郎の居宅地を 現わした表記がされている。すなわち「中宿善五郎」である。『浦和市史』第3巻に掲載された『短才見聞録』はA5判
24
字×20
行×2段組で1頁 を構成し、62頁を要している。その大量の文字情報のなかに6文字「中 宿善五郎」の2個所は、とみの先祖を指摘するに貴重な記録となってい る。すなわち、善五郎は浦和宿の中町に居住していたという文書におけ る事実である。くどいようだが、享和3(1803)年5月に六之丞の父伝兵衛が71歳で 死去したとき、伝兵衛の父は
97
歳で存命中であった。玉蔵院境内の享和 3(1803)年7月造立の三界万霊塔により、死去して間もない伝兵衛の戒名を刻印して慰霊したのは、この時
34
歳の子の六之丞ではなく、97
歳 の父でその名を中田善五郎と刻んだ。この善五郎は文化八年浦和宿絵図 に「玉蔵院の黒門の前通り、中山道を隔ててやや北寄り」の中町に310
坪の居宅地を有しており、明和3(1766)年の『短才見聞録』には「中 宿善五郎」と記録されているのである。一方伝兵衛の子、六之丞は1844-1848年の「弘化期浦和宿図」では「玉 蔵院の黒門の前通り、中山道を隔ててやや北寄り」の中町の位置に「鍵 六 穀問屋商」で現わされている。文化7(1810)年11月の 「祠堂金貸 附帳、貸附金標目次第」 には「中宿六之丞」、翌年の 「祠堂金貸附帳、
当院祠堂金貸附之覚」 にも「中宿 六之丞」と、2個所記録されている
(出典資料
19
・23
)。つまりとみの父六之丞も善五郎と同じ位置に居住し、弘化期をさかのぼる文化期の玉蔵院文書の中に「中宿六之丞」と、その 居宅地を中町と記録されているのである。善五郎、伝兵衛、六之丞と続 く人物はとみの先祖であることが居宅地からも証されるのである。中山 道浦和宿中町、中田善五郎の存在はとみの先祖を解明するに重要な人物 といえよう。
4.籠谷氏の見解
伝兵衛と六之丞について、籠谷氏は1811年「文化八年浦和宿絵図」に 触れながら、次のように捉える。
文化八年浦和宿絵図(211軒)には六之丞の住まいは見えないが、
父伝兵衛の住まいが見える(
101
号p.13
、l.14
)。……伝兵衛は同絵 図作成8年前の享和3年に死亡。同家は六之丞の時代に入ってい るが、まだ六之丞を名乗る人物の住まいは見えないので、同所が 伝兵衛時代および六之丞初期の住居と思われる(同頁11.25-27)。籠谷氏が指摘する「文化八年浦和宿絵図」での伝兵衛の住まいは、宿 場の下町最南端に位置し、通常の宿住人より奥行が短い。これまでの宿 入口杭より外れ、新たに
10
軒が集まって人家を為している。絵図では一 軒一軒に「新屋敷」と書き記されている。この10軒を籠谷氏は101号(p.16)に「文化八年浦和宿絵図最南端(西六軒・東四軒群)」として翻刻して いる。氏はその中の一人伝兵衛がとみの先祖につながる人物であると主 張する。新屋敷の伝兵衛死去後、六之丞もこの新屋敷に住み、やがて六 之丞の働きによって「玉蔵院の黒門の前通り、中山道を隔ててやや北寄 り」の、弘化期浦和宿図に描かれた場所に移動したのであると結論付け ている。はたしてそうであろうか。
1811
年「文化八年浦和宿絵図」の新屋敷に伝兵衛の名があるからと いって、享和3(1803)年に死んだ伝兵衛が8年後に完成した大絵図(縦
5.21m
、横3.41m
)に書き記されるであろうか。この絵図の裏面には、名主を始め町役人、すべての住人が立ち会って各自の屋敷、田畑、山林 などの広さと境界を確認し合っている。今後の境界あらそいに類する争 議が起こらないように、各家の代表者である家長が立ち会って押印して いるわけである。死後8年を経た人物を家長として絵図に名を連ねるこ とに他の住民は納得したであろうか。死後の家督はすみやかに家継承者 に移譲される。この場合六之丞であるが、彼が家督を継いでいるのであ るなら、「文化八年浦和宿絵図」に六之丞の名が記されなければならない。
宿場町の運営上、街道の維持管理ひとつ例にとっても、清掃と補修、
橋や樋の修理、急場の増員の対応など、普請や動員の決めごとに家長の 決済が必要である。また寺との決めごとに家長の直裁が要求されよう。
そのようなとき死者の空席は考えられない。玉蔵院過去帳に出ている伝 兵衛と名が同じだからといって、この人間を死後8年経過した「文化八 年浦和宿絵図」に投入させることは如何なものであろう。籠谷説の新屋 敷の伝兵衛は、とみの先祖の伝兵衛であるといえるであろうか。
籠谷氏は、六之丞が新屋敷から「市の繁栄、商いの活発化とともに中 市場の中町、玉蔵院門前街道向かいの元善五郎の地に移ったと考える」
(101号p.16、
11.5-7)という説も、筆者はとらない。
また伝兵衛に関して、籠谷氏は
101
号注41
(p.21
)で、浦和宿文書の①元禄13(1700)年4月の「町中困窮につき定使屋敷売渡証文」に、② 宝永8(
1711
)年1月の「問屋場賄所敷地引替証文」に伝兵衛の名が載っ ているが、「この伝兵衛が鍵屋六之丞の父伝兵衛につながる人物かどうか現在のところ、判定できな い。 今後の課題として記憶に値 する人物である。」といわれる。
しかし①1700(元禄13)年の伝 兵衛も、②
1711
(宝永8)年の 伝兵衛も、六之丞の父伝兵衛は1733
(享保18
)年生まれである。生まれる前の伝兵衛は鍵屋六之 丞の父につながる伝兵衛ではな い。これは自明の理である。
「文化八年浦和宿絵図」に戻 すと、籠谷氏は101号注40(p.21)
でこの絵図の中に「伝十郎のす まいは見えないが、同絵図の署 名欄に伝十郎の署名捺印があ る。この年、彼はすでに死亡。
相続人がいたと読める。」と記
している。しかし、伝十郎は「見えない」のではなく、この宿絵図の街 道東側、上町、成就院の右前にしっかり居住している(資料9)。従っ て裏面に署名した伝十郎は表面絵図にも確かに存在しているので、「彼 はすでに死亡」はしていないし、彼に「相続人がいた」と読むことは如 何なものであろう。この伝十郎がとみの先祖につながる人物であるかに ついては、次章で再度触れることになる。
5.『短才見聞録』と伝十郎、善五郎
『短才見聞録』は浦和宿の中町に位置する新義真言宗の古刹玉蔵院に 残された近世文書である。玉蔵院18世快尊(在位は宝暦8(1758)年~
明和3(
1766
)年)の代に院の家老を務めた宮崎喜六が編したものである。少し著者を紹介すると、俗名は市右衛門といい、貞享3(1686)年の 資料9.浦和宿上町に「伝十郎」が記されて いる(左から2軒目)
生まれ。享保
11
(1726
)年41
歳のとき、母親が浦和宿下町弥五右衛門の 出なので、附木売買を生業としている親と一緒に江戸から引っ越してき た。折々院の墓所を掃除しているのを14
世光星(在位は享保8(1723
) 年~元文5(1740)年)の目にとまり、境内に小家をつくり住むように なった。元文3(1738
)年53
歳のとき剃髪し、法名覚順房を名乗った。『短 才見聞録』を完成させたのは明和3(1766)年、81歳のときである。約40
年間の玉蔵院の日常を記録したもので、その最後には「自ラ日毎月毎 に見聞しをしるし侍るのみ」と記している。
87
項目からなる内容は寺の法事、書状の様式、書状の書留め、境内の 配置、歴代住職の履歴、諸堂宇、寺宝、朱印地の耕作図など院に係わる ことから出火、事件、人事往来、門徒、末寺など多岐にわたり、来るも の拒まずの書き留めようである。先に記した宮崎自身の経歴もそれとな く記されている。出入する人間は浦和宿住人だけで約130
人、近隣農民、江戸商人などを入れると数多くの江戸時代中期の人物が紙面に現わされ ている。それは宮崎喜六という人物が五十を過ぎて、俗人から僧侶にな り、僧職ばかりでない一般の住人も彼の周りには出入りが見られたので あろう。
この約130人の宿住人の中に、とみの先祖に係わる二人が描かれてい る。「三十 鹿嶋神主寺之事」(資料1)に記されている二人、「浦和宿 中田伝十郎殿……、今ハ中田善五郎殿」である。
この二人についての筆者の捉え方の変化について、籠谷氏は
103
号(pp.141-142)で言及する。いずれも筆者が、
・「埼玉と同志社」(
1982
年)では「中田六之丞の祖先は、この中田善五 郎―中田伝十郎と結びつくのではないか――と推論できなくはない。」・「同志社創立者新島襄とその母浦和仲町生まれの『中田とみ』につい て」)(さいたま市立浦和博物館館報 あかんさす76号、A4判2頁、
2001
年)では、両人が「父六之丞につながる祖先名」と述べている。・そして「当初の推論は稿を重ねるごとに変化し、関口稿(102号、
2011
年)では親子となる。しかし変化の根拠は、いずれも明らかでな い。」と。氏の稿を重ねるごとにという、①「結びつくのではないか」、②「つ ながる祖先名」、③「親子」という捉え方の変化は、それぞれ1982年、
2001
年、2011
年の時間経過とともに学習内容の変化も当然起こってくる わけで、捉え方の変化はむしろ成果と見るべきもの。かつて筆者は新 島民治ととみの媒酌人は岡田源七郎であるとしたが(98
号4章)、籠谷 氏から、「親類岡田氏」を岡田源七郎の岡田家とすれば、媒酌人は源七 郎でなく、父の耕助と見るのが自然であろう(99
号pp.18-19
)と指摘さ れ、いまでは媒酌人は源七郎ではないと理解している(102号p.89、注2)と報告させていただいた。
さて、伝十郎と善五郎の関係である。「伝十郎と善五郎の関係および 初期六之丞との関連表」(資料10)は浦和宿文書、玉蔵院文書(『短才 見聞録』もその一部)、玉蔵院過去帳から両者に該当する事項を年代順 に並べたものである。伝十郎の年齢は仮である。過去帳などの史料から、
善五郎は27歳のときに伝兵衛を得、伝兵衛は38歳のときに六之丞を得て おり、その六之丞は
38
歳のときに第4子のとみを得ている。これらを参 考にし伝十郎の事績を考慮して、伝十郎の生年を寛文10(1670)年とし て作表した。金蔵の生年も仮である。とみは生前、自分は「兄弟四人 男三人末 子」と口述している。とみからみて、家督を継いだ金蔵とは何歳違うの であろうか。幸い新島家の民治とみ夫婦は6人の子を得ており、天保3
(
1832
)年の長女くわ(一説に天保2年生まれとも)、まき、みよ、とき、七五三太を得て、次男双六は弘化4(1847)年の生まれである。これを 参考にとみが生まれたとき、兄金蔵は
10
歳と仮定した。とみと金蔵の年 齢差がこれより数歳多くても少なくても、事績には影響ないと思われる。関連事項の出典資料は、本論後尾の資料12「新島とみ中田家五代の関 係年表」に記した。
資料10「伝十郎と善五郎の関係および初期六之丞との関連表」から 解ることは、同じ中田姓を名乗りながら、伝十郎が史料に名を記してい る元禄
13
(1700
)年から延享2(1745
)年までの期間には、善五郎の名 は現れない。ところが善五郎の名が宝暦4(1754)年から文化8(1811)資料10.伝十郎と善五郎の関係および初期六之丞との関連表
関連年号 関 連 事 項 伝十郎 善五郎
元禄13(1700)年4月 町中困窮につき定使屋敷売渡証文 ●31歳
宝永4(1707)年 善五郎生誕
38歳 1歳
宝永8(1711)年1月 問屋場賄所敷地引替証文 ●42歳
5歳
享保18(1733)年 伝兵衛生誕64歳 27歳
元文4(1739)年9月25日 月読月山寺修覆ニ付岸村浦和宿及出入 ●70歳33歳
寛保2(1742)年11月 三十 鹿嶋神主寺之事 ●73歳36歳
延享2(1745)年12月 割元・年寄・帳付等取極につき口演覚 ●76歳39歳
宝暦4(1754)年 卅二 神主寺向ノ今ノ重兵衛小家始 ●48歳宝暦11(1761)年 卅三 掃除役 ●55歳
明和元(1764)年 卅四 大門駒寄より神主寺 ●58歳 明和3(1766)年 三十 鹿嶋神主寺之事 ●60歳
明和7(1770)年 六之丞生誕
64歳
寛政10(1798)年 金蔵このころ生誕
92歳
享和2(1802)年8月 神主寺より御本寺へ寄附金証文 ●96歳 享和3(1803)年5月17日 伝兵衛死去
97歳
享和3(1803)年7月 三界万霊塔建立 ●97歳 文化4(1807)年10月10日 とみ生誕 〔101歳〕文化7(1810)年5月 玉蔵院入寺交代之記に「鍵屋六之丞」の名 〔104歳〕
文化7(1810)年11月 祠堂金貸付帳に「中宿六之丞」の名 〔104歳〕
文化8(1811)年4月 文化八年浦和宿絵図 ○(上町)● 文化8(1811)年 祠堂金貸付之覚に「中宿六之丞」の名
注1.●印は掲載史料に名がある場合、○印は名が同じでも別人の場合を意味する。
2.伝十郎の年齢は仮定。一族の生誕年齢と本人の事績を考慮して寛文10(1670)年 を生年としてある。
3.金蔵の生年も仮定である。とみは末っ子の四番目に生まれた。民治とみ夫婦の新 島家は6人の子を得ていることを参考に寛政10(1798)年ころをその生誕として ある。
4.善五郎の年齢部分の〔 〕はその歳まで生存していた場合の推定年齢。
5.延享2(1745)年の「割元・年寄・帳付等取極につき口演覚」には「伝重郎」と 記すが、「重」は「十」の替用として使用される例がみられるので「伝十郎」に入 れた。
6.関連事項の出典は本論後方の資料12を参照。
年までの期間には、伝十郎の名はまったく史料に現れていないことであ る。これは伝十郎から善五郎に家督の移譲が為されたことを意味してい るのではないか。この史料と「鹿嶋神主寺之事」に記された「此本紙ハ
……浦和宿中田伝十郎殿方ニ有之、……今ハ中田善五郎殿事也」を関連 付けると、この同じ姓を名乗るこの両者は親子であると結論付けてよい と思われる。
貞享3(
1686
)年の生まれの著者宮崎喜六は、仮定寛文10
(1670
)年 生まれの伝十郎とは16歳位の差がある。宝永4(1707)年生まれの善五 郎とは21
歳ほどの差があり、年齢高順は伝十郎、喜六、善五郎となる。さて鹿嶋大神宮に祈願した木札の本紙を伝十郎が保持していたのを書き 写した寛保2(
1742
)年のとき、伝十郎は73
歳で、喜六は57
歳、善五郎 は36歳のときであった。書き写したときは伝十郎と喜六は面談したであ ろう。それが明和3年では伝十郎はすでに亡く、善五郎は60
歳、喜六は81歳になっていたのである。喜六が書き写してからすでに24年が経って
いたのである。この時間の経過が「今ハ善五郎殿」になり、「事也」と 確認しているような表現になったのである。また「宮崎写し置者也」という表現は、『短才見聞録』(以下、頁数は『浦 和市史』第3巻近世史料Ⅰによる)の他の場所ではどのように記されて いるであろうか。写し置くという内容表現は、ほかに6個所ある。書き 出すと、①p.66「……写有之候」、②p.68(これは本陣星野権兵衛が出 てくる事項で)「右者武州浦和宿市場御朱印御本陣星野権兵衛殿方ニ有 之写置者也」、③p.75「……証文二通共釜屋善兵衛殿方ニ有之写置也」、
④
p.79
「……写し置」、⑤p.84
「……写置申候」、⑥p.93
「……写之候也」である。「宮崎写し置者也」という氏名を入れた、宮崎が特に写し置く という表記はどこにもない。②の本陣星野家に対しても入れていない。
この表現には宮崎喜六の思い入れがあったのではなかろうか。関東地方 に甚大な被害をもたらした風水害が二度と起こらないように「風水除 五穀成就」を鹿嶋大神宮に祈った木札は、なまなましい災害の直後のこ となのでその本紙を写し録り、中田伝十郎の事だったけれど
24
年経って それは中田善五郎の事になっている。大事な本紙は親から子へ伝えられたのである。
資料10「伝十郎と善五郎の関係および初期六之丞との関連表」で、
文化8(
1811
)年4月をみると、「文化八年浦和宿絵図」に善五郎が記 されている(生きていると105歳)。しかし前年の文化7年5月、玉蔵院 文書の「玉蔵院入寺交代之記」(出典資料18
)に、24
世住職となる無相 を迎える祝儀の支度に料理方の一人として「鍵屋六之丞」の名がある。また同年
11
月の「祠堂金貸付帳、貸付金標目次第」にも「金弐両 中宿 六之丞」と記され、善五郎の名は無い。従って文化7(1810)年には 既に、中田家の家督は善五郎から六之丞へ継承されていたと見てよいと 思われる。
1811
年「文化八年浦和宿絵図」は約17.8
㎡の広さに鳥瞰した浦和宿全 体が描かれ、宿住人の名前と屋敷ごとの面積、宅内の藪畑の面積、まわ りの田畑は一筆ごとに等級と面積が記され、本陣や玉蔵院はじめ寺院な ど色彩を施して描いている。この大絵図の製作には相当の時間を費やし たと思われ、絵図の完成と実生活にはタイムラグが生じているはずであ る(102号p.84参照)。絵図完成のころと家督の移譲が重なり合っていた と思われる。また資料10「伝十郎と善五郎の関係および初期六之丞との関連表」の
「文化八年浦和宿絵図」に伝十郎の名を○印で示した。この伝十郎は、籠 谷氏が絵図裏面の署名押印には存在するが、表面には見あたらないと指 摘した伝十郎である。前述した資料9に示した街道東側、上町の伝十郎 である。この上町の伝十郎は、元禄13(1700)年から延享2(1745)年 に記録されているとみの先祖の伝十郎とは全く異なる人物である。した がって籠谷氏が「文化八年浦和宿絵図には別紙裏書の住人署名211人のな かに、伝十郎、善五郎の名も見える。伝十郎と善五郎も別家の可能性が 高い」(101号p.12、
11.3-5)というこの伝十郎は善五郎とは別家である。
しかし、「鹿嶋神主寺之事」の伝十郎をこの絵図のなかの伝十郎と同一視 しているのなら、それは誤りである。資料10の表で明らかなのである。
翻って「中田姓」にもどると、とみの高祖父にあたる伝十郎はじめ、
曾祖父の善五郎も、江戸中期には中田と称していたことは、これまで検
討してきたとおり史実が証している。時代は江戸から明治へと大変革を 起こした。文化4(1807)年生まれのとみは明治23(1890)年6月に、
その年の1月に逝った愛息襄を悼みながら、養孫公義に自分の江戸期か らの半生を語ったのである。とみは、籠谷氏が言うように「過去の記憶 を新しい記憶の中で語」ったものではなく、祖父伝兵衛、父六之丞、兄 金蔵ら、先祖代々名乗った中田姓を公義に口述したのである。口述に示 された「父中田六之丞」の娘として過去の記憶を生きて、新しい新島家 に嫁いだのである。
6.「玉蔵院境内図」と善五郎
つぎに、『短才見聞録』「七十四 玉蔵院境内図」上部(102号p.78、
資料
11
)に、「善五郎」の右上に記された「鍵や」か「鋤や」かの判読 である。浦和宿文書、玉蔵院文書、市内に遺る造物のなかに善五郎にか かる語を付した記録は、『短才見聞録』の本文中に「中田善五郎」、「中 宿善五郎」があり、三界万霊塔の「中田善五良」である。そのほかにあ げると、「玉蔵院境内図」の上部の「鍵や善五郎」か「鋤や善五郎」か、判読の問題提起がされている部分である。
埼玉県立文書館で許可を得て『短才見聞録』を拝見すると、「玉蔵院 境内図」上部の文字(資料11)のなかに下地が紙そのものと、紙の上 が部分的に白くなっている所とがあることに気付く。向かって右から、
①彦四郎、②釜屋 ③十兵衛、④東、⑤善兵衛、⑥□や ⑦善五郎、⑧ 又四郎、⑨又四郎、⑩忠次郎とある(便宜上○中スージを付した)。こ のうち② 「釜屋」と⑥ 「□や」と⑧ 「又四郎」の3個所は、紙面に書か れた文字とその周辺の部分が白く塗ったようになっているのである。こ の3個所が白く塗られた事象は何を意味するのであろうか。
資料11「玉蔵院境内図上部」の写真は、筆者が平成6年9月
21
日に 埼玉県立文書館において依頼し、マイクログラフィーセンターがコピー したものを撮影した。撮影元版がコピー物なので上記3個所文字の周辺 の白さは写し出されていない。なお、現在は『短才見聞録』のすべてが複写も撮影も許可されていない。
『短才見聞録』(以下、頁数は『浦和市史』第3巻近世史料Ⅰによる)
のなかに、他に白く塗ってある部分を探すと
p.67
下段、「天正十八年」の下方に「太閤様御朱印」とあり、原典にはその横に「虎之巻ト云」の 5文字が白く塗られているが、『浦和市史』ではこの部分は活字組して いない。
しかし
250
年ほどの時間の経過ゆえか、こんにち墨文字ははっきりと それと判読できる。同様な内容で次頁p.68下段、囲みの外の文字「御朱 印 虎ノ巻ト云 太閤公秀吉様」は、原典では3行で書かれている。こ こは白く塗られていないので、『浦和市史』では2行組みではあるが組 版されている。このことから推して、白塗りは訂正(削除)を意味する と捉えるのであろうか。②釜屋 ③十兵衛、⑤善兵衛に触れると、『短才見聞録』では善兵衛 は4個所に記録されている。示すと、
p.62下段「請人 釜屋善兵衛」、 p.75
資料11.「玉蔵院境内図上部」(一部)
下段「釜屋善兵衛殿」、
p.81
下段「中 釜屋善兵衛」、p.86
上段「月宮御 朱印字行ノ下嶋畑」の畑図面のなかに「浦和 釜屋善兵衛畑」とある。P.81
の「中」は中町を指す。従って玉蔵院前の⑤善兵衛はただ単に「善兵衛」ではなく、「釜屋 善兵衛」でなければならない。一方、十兵衛はp.86の「月 宮御朱印字天神免ト云畑三反七畝拾四歩」の畑図面に
1
個所でてくるの みで、釜屋を冠した記録はまったくない。境内図の②③「釜屋 十兵衛」は誤りなのではないかと思われる。「釜屋」は善兵衛の右肩上に書かれ なければならなかったのではなかろうか。すると十兵衛にかかっている 語の②釜屋の下地が白塗りされているのは削除を意味してくる。
また⑧の又四郎は隣の⑨の又四郎より小さく書かれて、その⑧部分の バックが白みを帯びているのである。なぜ又四郎を2度も隣り合わせで 書き留めたのであろうか。その意図は不明である。小さく記した⑧の又 四郎を削除する意味で白塗りをしたのであろうか。
同じく⑦善五郎の右肩上の⑥ 「□や」も同様に文字の周りが白いので ある。⑥ 「□や」を明和3(
1766
)年までに宮崎喜六が書いたのか。あ るいは後から別の人物が書き入れたのであろうか。『短才見聞録』を翻 刻した『浦和市史』第3巻p.73
下段には、玉蔵院住職の履歴「十九世隆 恕」以降三代を「異筆」と記している。この三代は明和4年以降で宮崎 没後の住職だからである。さらに原典をみると異筆の部分が見当たる。筆者がみてはっきり筆跡の異なる部分が2個所ある。
p.44下段、 11.8-9
「行 人……配当」の部分であり、p.88
上段の「七十五 ○月宮」の下方小文 字で組んである7行は異筆である。別人の筆が入り込んだ形跡が認めら れるのである。この⑦善五郎にかかる⑥ 「□や」は宮崎喜六が訂正(削除)したので あろうか。あるいは後から別の人物が訂正(削除)したのであろうか。
残念ながら不明である。「鍵や善五郎」なのか、「鋤や善五郎」なのか、
あるいはこれらが削除された「善五郎」なのか。現在の段階では確実な 答えは出せないように思える。
『浦和市史』第3巻近世史料Ⅰの
p.84
の「玉蔵院境内図」では、これ ら② 「釜屋」、⑥ 「□や」と⑧ 「又四郎」の3個所は活字化されていない。資料12. 新島とみ中田家五代の関係年表 年 号
伝 十 郎 善 五 郎 伝 兵 衛 六 之 丞 金 蔵 と み
関 連 事 項出典 資料 № 元禄10年(1697)6月25日「浦和宿高見世場絵図」に上町の一部を欠いて宿住人107人を記す。1 元禄11年(1698)29歳 元禄12年(1699)30 元禄13年(1700)314月「町中困窮につき定使屋敷売渡証文」(129人)に「伝十郎」の名がある。2 <~6年間省略>
~
宝永 4年(1707)381歳善五郎生まれる(玉蔵院過去帳)。父は伝十郎(短才見聞録)。34 宝永 5年(1708)392 宝永 6年(1709)403 宝永 7年(1710)414 宝永 8年(1711)425正月「問屋場賄所敷地引替証文」(135人)に「伝十郎」の名を見る。5 <~21年間省略>
~
~
享保18年(1733)64271歳伝兵衛生まれる(玉蔵院過去帳)。父は善五郎(三界万霊塔)。36 享保19年(1734)65282 享保20年(1735)66293 元文元年(1736)67304 元文 2年(1737)68315 元文 3年(1738)69326 元文 4年(1739)703379月25日「月読月山寺修覆ニ付岸村浦和宿及出入」(10人)に「伝十郎」の名が見7 える。
(仮)<注1>
年 号 伝 十 郎 善 五 郎 伝 兵 衛 六 之 丞 金 蔵 と み
関 連 事 項出典 資料 № 元文 5年(1740)71348 寛保元年(1741)72359 寛保 2年(1742)73361011月「短才見聞録、三十鹿嶋神主寺之事」に、大水害の不実から五穀成就祈願4 をした木札の本紙が「浦和宿中田伝十郎殿方ニ有」と記す。 寛保 3年(1743)743711 延享元年(1744)753812 延享 2年(1745)7639132月8日「短才見聞録、三十鹿嶋神主寺之事」に「伝十郎」の名を見る。8 延享 2年(1745)76391312月「割元・年寄・帳付等取極につき口演覚」(64人)に「伝重郎」と記す。9 延享 3年(1746)↓4014 延享 4年(1747)4115 <~6年間省略>
~
~
宝暦 4年(1754)4822「短才見聞録、卅二神主寺向ノ今ノ重兵衛小家始」に「中宿善五郎」とある。10 <~6年間省略>
~
~
宝暦11年(1761)5529正月14日「短才見聞録、卅三掃除役」に「中宿善五郎殿」と記される。10 宝暦12年(1762)5630 宝暦13年(1763)5731 明和元年(1764)5832「短才見聞録、卅四大門駒寄より神主寺之脇江向馬通し」に「善五郎」と出てくる。11 明和 2年(1765)5933 明和 3年(1766)6034「短才見聞録、三十鹿嶋神主寺之事」に、鹿嶋大神宮に五穀成就祈願した木札の4 本紙に触れ、「今ハ中田善五郎殿事也」と記す。
?