日本の船舶事故調査制度に関する一考察 : 海外先 進諸国と比較しつつ
著者 大須賀 英郎
発行年 2020‑03‑31
学位授与機関 関西大学
学位授与番号 34416甲第784号
URL http://doi.org/10.32286/00021331
2020 年 3 月
関西大学審査学位論文
日本の船舶事故調査制度に関する一考察
-海外先進諸国と比較しつつ-
関西大学大学院
社会安全研究科
17D7501 大須賀 英郎
論文要旨
日本の船舶事故調査制度は、1947 年以来、運輸安全委員会が設立された 2008 年に至るま で海難審判制度によって行われてきた。事故調査制度としての海難審判は、事故の原因調査と懲 戒調査とを裁判に類似した一つの手続きの中で行うものであったが、2008 年に SOLAS 条約の改 正により、原因調査と懲戒調査を分離することが IMO 船舶事故調査コード(IMO コード)によって 国際標準になったことから廃止され、懲戒を行うための制度となった。こうした海難審判を含むわ が国の船舶事故調査制度について、国際的・歴史的視野から、総合的な考察を行った研究はこ れまで皆無といってもよい。また、実際の事故の原因分析の成果について総合的な評価を行うと いう意図で行われた研究もない。本論文では、海外先進国の歴史的な船舶事故調査制度や現代 の船舶事故調査制度との比較・分析を通じて、わが国の海難審判制度が占めていた位置を相対 的に比較することを企図した。
本論文は、終章を含む 9 章で構成されており、各章の概要は次のとおりである。
第1章では、事故調査の規範となる IMO コードについて考察した。同コードは、締約国間の調 査協力を容易化し、事故調査へのヒューマンファクター分析の援用を促進するため、各国が標準 化された手法で船舶事故調査を行うことをめざした。こうして同コードは、世界の船舶事故調査に おいてパーソンモデルからシステムモデルへの転換を促し、パラダイムシフトをもたらした。同コー ドが指向する事故調査制度の要件は、船舶事故を防止することを目的とし、原因と安全上のリスク を明らかにし、国際海運界での安全上の問題への取り組みに資するものであり、責任の所在とそ の軽重を決定することを目的とした調査ではないこと、背後要因まで探求すること、利害関係国に 参加の機会を与えることなどである。これらは、わが国の海難審判制度の業績評価を行う際の基 準となるものである。
第 2 章では、船舶事故調査の起源に遡り、日本の海難審判制度の形成に影響を与えた、イギリ スを中心とする 19 世紀の先進諸国の船舶事故調査制度とその現代的意義を考察した。他国の制 度に対して多大の影響を与え、わが国との関係でも重要なイギリスの「正式調査」について、当時 イギリスで出版された文献や「タイタニック号」などの事故調査の記録に拠り、その実態について検 討した。正式調査は、わが国の海難審判とは全く異質のものであり、事故調査の論点を早くから網 羅し、現代の知見に照らしても傑出したものであった。一方で、ドイツの海難審判は組織を整える ことに重点を置き、日本の海難審判のモデルとして共通点が多く認められた。
第 3 章では、海難審判制度に先行する海員審判制度の意義と限界、及び松波仁一郎などから 提起された「海員懲戒制度」批判について考察した。海員審判制度は、海難防止の目的意識が 低く、取り扱う事件の範囲が極めて狭く、調査の内容は船員の過失懈怠や不当の所為行為に限 定され事故調査制度としては甚だ不十分で、事故防止効果も極めて限定的であった。
第 4 章では、戦後になって成立した海難審判の制度上の特徴について考察した。海難審判は、
海難の防止を初めて法目的にうたい、海難それ自体を審判の対象とし、あらゆる角度から原因を 究明し、海難の防止を図ろうとする崇高な理念に基づいていた。しかし、海難審判は、自らの手続 きの中に懲戒を内包し、海員懲戒制度の仕組みをそのまま利用したことにより、裁判の論理や手 続きを取り込んだ。その枠組みは、現代の事故調査の考え方や原則に相反することが多く、それ が制約やバイアスとなって事故調査の理想の実現を妨げた。
第 5 章では、60 年間の海難審判裁決の内容を、当時の論文や運輸省船舶局などの調査報告 書に拠って考察し、制度上の問題点を明らかにした。取り上げたのは、海難審判が行われなかっ た重大事故、青函連絡船「洞爺丸」事故、大型貨物船折損・沈没事故、東京湾における衝突事故、
通常事故である。その結果、管轄権の問題、不十分な工学的分析、船員の過失の認定と法令解 釈への傾斜、多面的な背後要因に遡った分析の欠如などの弱点があったことを指摘した。IMO コ ードを基準にして海難審判制度を評価すれば、それは不十分な分析、制度変更のための提言の 欠如、懲戒との不分離、利害関係国とのトラブルなどの問題を含み、再発防止への寄与は極めて 限定的であり、IMO コードの多くの要件を充たさない不十分なものであった。
第 6 章では、海難審判制度の機能不全の背後にある構造上の問題点について考察した。海難 審判はシステム的な見方に欠け、人の過失や欠陥の認定という観点をベースとしていた。同制度 が孕む構造的な問題点の多くは、懲戒手続きを内包することから生じる「懲戒バイアス」とも言える ものであった。1965 年から 1973 年にかけて着手された海難審判庁による制度見直しが不発に終 わったあと、海難審判は形骸化し、運輸省船舶局や海上保安庁といった関係官庁が独自に安全 施策を推進した。
第 7 章では、先進諸国の船舶事故調査制度の 1990 年代以降の変化について考察した。各国 では NTSB を手本とし、航空事故の分野での進展を踏まえ、再発防止を唯一の目的にし、ヒュー マンファクター分析の考え方に基づく調査を行うために、規制当局や刑事上の手続き、懲戒制度 からの分離を実現すべく制度の改編が行われた。
第 8 章では、運輸安全委員会発足後の成果と課題について考察した。運輸安全委員会の発足 により、海難審判庁では援用されなかったような手法(システマチックな分析、工学的解明)による 調査の実現、制度改正に結びつく提言の発出などの成果が上がったが、勧告に関する姿勢には 問題があり、その運営は未だ安定的でない。また、同委員会全体としては、従来から存在していた 問題(透明性、委員人事、被害者支援、鑑定嘱託など)があり、それらについて、2011 年 4 月の
「JR 西日本福知山線事故調査に関わる不祥事問題の検証と事故調査システムの改革に関する提 言」を踏まえて概説し、それらに対する筆者の見解を述べた。
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はしがき
筆者は、1978 年に運輸省に入省し 2013 年に退職するまで、海事や安全・事故関連の様々 な業務を経験する機会を持った。それは、1983 年にはじめて海上保安庁に勤務したときに 始まったが、海上保安庁では警備救難、水路、総務の三つの部にわたって勤務し、総務部で は政務課長と国際課長の職を行った。国土交通省では船員部で海技資格制度と水先業務に 関する業務を行い、のちには労政課で内航海運の船員不足問題懇談会のとりまとめを行っ てから海外赴任となった。在ロンドンの国際油濁補償基金に 1993 年から 1997 年まで勤務 した。同基金は、タンカー事故に係る補償を行う政府間国際機関である。赴任の半年前の 1993 年 1 月にはスコットランドでタンカー「ブレア号」の事故があり、同基金の理事会も 騒然とした雰囲気に包まれていた。同じ建物の中にある国際海事機関では、タンカーの事故 対策など技術的な問題が熱く議論されていた。帰国の半年前には、日本海でのタンカー「ナ ホトカ号」とイギリスでの「シー・エンプレス号」の事故が発生し、帰国直前までその処理 に追われた。帰国後は直ちに内閣官房の勤務になったが、「ナホトカ号」事故は国の危機管 理の必要性を認識させ、官房では官邸機能強化のための組織改正の準備が行われており、翌 年、内閣危機管理監が設置され国の危機管理体制の整備が開始された。官房で 2 年間勤務し た後、鉄道関係や国際関係などの業務を経て、再び海上保安庁政務課に勤務していた 2005 年 4 月に海難審判庁首席審判官への配置換えを命ぜられた。海難審判庁では、海難審判の業. 務改善...
を検討することが国土交通省から筆者個人に与えられた任務であったが、同月 25 日 には JR 西日本福知山線の脱線事故が発生し、全ての運輸分野での安全対策が急務となり、
翌年、運輸安全マネジメント制度も創設された。
海難審判庁では、審判官としていくつかの海難審判の第二審にも実際に参加した。審判の 傍ら、福知山線事故後の業務改善に携わった。その背後では世界的な動きとして、国際海事 機関で船舶事故調査コードを条約化する検討が進展していた。海難審判庁から、国際的な事 故調査官会合の合宿に 3 年連続して参加し諸外国の機関に知己を得るとともに、制度の改 正を見据え、各国の制度の勉強のためにいくつかの機関を訪問しインタビューを行った。
2007 年に旧運輸省の外局全体の組織再編成が課題として浮上すると、海難審判庁の取り扱 いも問題となり、世界的な流れに呼応した事故調査体制をわが国でも樹立するために必要 な組織要求と法律改正を行うこととなった。こうして 2008 年に運輸安全委員会の設置を見
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た。筆者は、これらの業務に従事し、新設の運輸安全委員会では事務局審議官として、船舶 事故調査への円滑な業務の移行に携わった。2009 年には、運輸安全委員会事務局長に任命 されたが、ほどなく、旧航空・鉄道事故調査委員会で JR 西日本福知山線事故調査に際して 発生した不祥事が明らかになり、遺族や学識経験者による事実の検証が行われ、業務改善の 提案を受けた。これを実現するために、運輸安全委員会では業務の改善を企画し、いくつか の実現をみた。国土交通省での最後の 1 年は、運輸安全マネジメント制度を担当する危機管 理・運輸安全政策審議官の職を務めた。以上が、本論文に関係する範囲での筆者の個人的な 履歴である。
海難審判庁から運輸安全委員会への移行の業務を行う中で、海難審判が通常の事故の再 発防止を十分に取り扱えないことは審判の経験から自明であった。しかし、時間的な制約の ために、海難審判に関する歴史的な経緯を十分に把握することはできなかった。例えば、海 難審判が過去の大事故をどのように調査し、その結果をどう評価するかという視点からの 研究はなかった。海難審判と併行して旧船舶局・海事局による技術的調査が過去においてな されていたが、それらと海難審判との関係は両者を突合した研究がないために、両者の関係 は判然としなかった。それらは、異なった学問分野に属し、相互の交流もなかったからであ った。歴史的な観点から見ると、海難審判制度はその前身の海員審判制度の観点を転換して 成立した画期的な制度であると言われてきたものの、両者の関係も不分明で、この見解が妥 当なのかどうかは疑わしかった。また、19 世紀のイギリスの船舶事故調査制度は、日本の 模範になったイギリスの海難審判.........
であると認識されていたが、同制度についての研究は 1960 年代以降更新されていなかった。1990 年代から先進各国で行われてきた船舶事故調査 制度の一連の改革は、鉄道事故調査制度ほどの関心も持たれなかった。今日の視点に立脚し た船舶事故調査制度の通史も当然ながら存在しない。総じて、筆者が不満だったのは、船舶 事故調査制度に関する学問的な関心が一般に希薄で、その結果、海難審判制度の事故調査制 度としての評価についての学問的研究が不在であり、研究者一般の認識も過去の定説を乗 り越えるものではなかったことである。船舶事故調査制度について、歴史的及び国際的視点 を持つことは、今日の運輸安全委員会の船舶事故調査業務にとっても必須のことであり、事 故調査官は、事故調査について明確に自覚された問題意識を持っていないと、運輸安全委員 会で、はじめてシーマンと船舶技術者の知を融合できる組織が生まれても、実際には容易に 旧制度へ先祖返りしてしまう危険をはらむものであった。
筆者は、このような意識を持ちながらも、国土交通省に在勤中は毎日の業務上の課題の処
iii
理のみに追われ、学問的空白を埋めることをめざして自分自身の認識を総合的なものにま とめあげる機会はなかった。今般、関西大学大学院において学術的指導を受け、これまでに 蓄積した知見や収集した資料に、新たに関連文献を広く調査することによって得た観点を 追加してとりまとめたのが本論文である。本論文が、いま述べたような学問的空白を埋め、
現状をいささかでも前進させることに貢献できれば幸いである。
iv 略語表
外国語略語 外国語名称 日本語名称
AAIB Air Accident Investigation Branch イギリス航空事故調査局
AIS Automated Identification System 船舶自動識別装置
ARPA Automatic Radar Plotting Aids 自動衝突予防援助装置
ATSB Australian Transport Safety Bureau オーストラリア運輸安全局
BEAmer Bureau d’enquêtes sur les événements de mer フランス船舶事故調査局
BRM Bridge Resource Management ブリッジ・リソース・マネジメント
BSU Bundesstelle für Seeunfalluntersuchung ドイツ連邦船舶事故調査局
CPP Controllable Pitch Propeller 可変ピッチプロペラ
CTSB Canada Transort Safety Board カナダ運輸安全委員会
CVR Cockpit voice recorder コックピットボイスレコーダー
DSB Dutch Safety Board オランダ安全委員会
DTSB Dutch Transport Saety Board オランダ運輸安全委員会
EMSA Euroean Maritime Safety Agency 欧州海事安全庁
EU European Union 欧州連合
FRAM Functional Resonance Analysis Method FRAM
FSI Sub-Committee on Flag State Implementation 旗国小委員会
FTA Fault Tree Analysis フォールトツリー解析
ICAO International Civil Aviation Organization 国際民間航空機関
IMCO International Maritime Consultative Organization 政府間海事協議機関
IMO International Maritime Organization 国際海事機関
ISM code International Safety Management Code 国際安全管理コード
LL Load Line Convention 満載喫水線に関する国際条約
MAIB Marine Accident Investigation Branch イギリス船舶事故調査局
MAIIF Marine Accident Investigator’s Forum 国際船舶事故調査官フォーラム
MEPC Marine Environment Protection Committee 海洋環境保護委員会
MOU Memorandum of Understanding on Port State control ポートステートコントロールに関する覚書
MSC Marine Safety Committee 海上安全委員会
NTSB National Transport Safety Board 国家運輸安全委員会
P&I Club Protection and Indemnity Club 船主責任保険組合
PSC Port Satete Control 寄港国検査
RVS de Raad voor de Scheepvaart オランダ海難審判所
RAIB Rail Accident Investigation Branch イギリス鉄道事故調査局
SOLAS International Convention on Safety of Life at Sea 海上安全人命条約
STAMP System-Theoretic Accident Model and Process STAMP
STCW Convention International Convention on Standards of Training, Certifiction and
Watch-keeping for Seafarers 船員の訓練、資格及び当直基準に関する条約
USCG United States Coast Guard アメリカ合衆国沿岸警備隊
UNCLOS U.N.Convention on the Law of the Sea 国連海洋法条約
VTS Vessel Traffic Service 船舶通航支援等業務
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目次
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1第 1 節 問題の所在
1第2節 本論文の構成 3
第1章 国際標準としての IMO 船舶事故調査コード・・・・・・・
8第1節 本章の課題
8第2節 IMO コードの背景
9 1.国際海事機関(IMO) 92. 海上人命安全条約(SOLAS 条約) 10
第3節 IMO コード策定までの動き
111.1997 年 IMO コードの策定に至るまで 11 2.1997 年 IMO コード 12
(1)1997 年 IMO コードの基本的考え方 12
(2)調査主導国と実質的利害関係国 12
(3)1997 年 IMO コードの限界と海難審判庁の関与 13 3.ヒューマンファクター指針の策定 14
4.IMO コード策定の経緯 14 5.SOLAS 条約の改正 16
第4節 IMO コードに見る船舶事故調査の基本的考え方
17 1.船舶事故調査の基本的考え方 172.改正の主要な目的 18 3.国際協力の必要性 19
(1)船舶事故調査の国際条約上の根拠 19
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(2)国際化の進展の状況 20
4.「船舶事故調査」の定義とコードの目的 22 5.「船舶事故調査」の要件 24
(1)一貫した方法論・安全上のリスクの解明・情報の共有 24
(2)他の調査からの独立性・責任の推定との関係・国際規則と調査義務の関係 25 6.原因など各用語の定義 26
(1)原因 26
(2)船舶事故 27
(3)船舶インシデント 28
(4)船舶事故調査報告書 27
(5)船舶事故調査実施国、実質的な利害関係国 28 7.各国間の調整及び調査の原則 29
(1)各国間の調整に係る規定と調査の原則に係る規定 29
(2)各国間の調整に係る規定 29
(3)調査の原則に係る規定 32 8. その他の重要な考え方
(1)行政の責任 32
(2)調査の原則 33
(3)調査の調整 34
9. IMO コードに基づいた事故調査制度の要件 35 10. ヒューマンファクター指針 37
(1)ヒューマンファクター指針作成の趣旨 37
(2)分析の手順 38
第5節 リーズン・モデルからみた IMO コードの意義
41 1. リーズンの四つのモデル 41(1)疾病モデル 41
(2)パーソンモデル 41
(3)法律モデル 43
(4)システムモデル 43
(5)モデルが充たすべき基準 44
vii 2.IMO コードの歴史的意義 45
第6節 小括
45第2章 19世紀先進諸国における船舶事故調査制度の創設・・・
57第1節 本章の課題
57第2節 19 世紀のイギリス船舶事故調査制度
58 1.イギリスにおける船舶事故調査制度確立までの経緯 58(1)産業革命とイギリス海運の発展 58
(2)イギリス船舶事故調査制度の展開 60
(3)Merchant Shipping Act 1854 の制定までの経緯 61
(4)Merchant Shipping Act 1854 66
2.Merchant Shipping Act 1894 による正式調査の確立 68
(1)正式調査の基本的性格 68
(2)1894 年法の重要な規定 69
(3)調査の流れ 77
第3節 「タイタニック号」事故の正式調査
78 1. 調査の経緯と報告書の内容 782.勧告とその根拠となった事実 85 3.正式調査の成果 89
4.イギリス船舶事故調査制度の特質 91
第4節 19世紀におけるその他の先進諸国の船舶事故調査制度
93 1.ドイツの船舶事故調査制度 94(1)船舶事故調査制度の創設と展開の経緯 94
(2)ドイツ船舶事故調査制度の組織 95
(3)1877 年法及び 1935 年法の重要な規定 96 2.他の欧米先進国における船舶事故調査制度 99
(1)オランダ 99
(2)フランス 99
viii
(3)アメリカ合衆国 100
第5節 小括
101第3章 近代日本における海員審判の意義と限界・・・・・・
111第1節 本章の課題
111第2節 「海員懲戒法」以前の船舶事故調査
112 1.明治9年規則 1122.明治14年規則 113 3.判定例 114
第3節 「海員懲戒法」による船舶事故調査の分析
116 1.明治期における海事法制の整備と「海員懲戒法」の成立 116 2.「海員懲戒法」の主な内容 1173.海員審判制度の特徴 119
4.海員審判制度の下での裁決例 121
5.海員審判制度の下での重大海難発生状況 125
第4節 戦前における「海員懲戒法」改正の動き
130 1. 大正時代の海難調査論 130(1)時代背景 130
(2)松波仁一郎の海難調査論 131
(3)1916 年の「海事審判法案」 133 2. 昭和戦前期における海難調査論 135
(1)森清の「海難審判制度の基本問題」 135
(2)1938 年の「海難審判法案」 136
第5節 海員審判制度の評価
137第6節 小括
141第4章 海難審判制度の分析
149ix
第1節 本章の課題
149第2節 海難審判制度の概要
149 1.「海難審判法」制定の契機 1492.「海難審判法」による制度改正の要点 150
(1)改正の要点 150
(2)本質的な性格の変更に係る改正 151
(3)新憲法との関係で必要となった改正 155
(4)その他審判手続き上の理由から改正された事項 156
(5)時効の廃止と除斥期間 158
(6)海難審判の対象船舶 159
3.改正後の海難審判手続きの流れ 161
(1)審判前の手続 161
(2)第一審の審判開始後の手続 162
(3)第二審の手続 163
(4)裁決の執行 163
(5)裁決に対する訴え 163
第3節 「海員懲戒法」改正に至る経緯
164 1.海員懲戒法改正委員会 1642.内閣法制局等による審査 166
(1)「法律批判」という論点 166
(2)「審判当事者は被告人」という論点 167
(3)その他の論点 168 3.その他の機関との調整 168 4.国会による審議 169
第4節 審判の基本原則
170第5節 海難審判所の組織の概要と「海難審判法」制定後の改正
174第6節 海難審判法の「立法精神」と制度上の問題点
176 1.海難審判法の立法精神 1762.海難審判の制度上の問題点 177
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第7節 小括
178第5章 海難審判制度の実績評価
184第1節 本章の課題
184 1.問題の所在 1842.海難審判所の指定する「日本の重大海難」 185 3.分析の手法 185
第2節 海難審判がカバーできなかった重大事故
186 1.3件の重大事故 1862.「ナホトカ号」折損沈没事故 186
(1)事故の概要 186
(2)事故調査の体制 187
(3)ナホトカ号委員会の調査報告書の概要 187
(4)ロシアの調査結果の概要 189
(5)海難審判と運輸省の委員会が果たした役割 190 3.「えひめ丸」・「グリービル」衝突事故 191
(1)事故の概要 191
(2)事故調査の体制 192
(3)NTSB の報告書の概要 194
(4)わが国の果たすべき役割 195
4.「トリ・アルディアント号」座礁事故 196
(1)事故の概要 196
(2)事故調査の体制 196
第3節 重大事故の調査に関する分析 197
1.本節で取り扱う重大事故 197
(1)重大事故の類型 197
(2)考察の手法 198
2.青函連絡船「洞爺丸」転覆・沈没事故 199
xi
(1)事故の概要 199
(2)事故調査の概要と分析の方法 199
(3)裁決の概要 200
(4)「洞爺丸」裁決の問題点 207
(5)船長の過失認定に関する問題 211
(6)不十分な工学的分析 216
(7)「洞爺丸」裁決の評価 221 3.大型貨物船折損・沈没事故 223
(1)事故の概要 223
(2)事故調査の概要 224
(3)裁決の概要と問題点 225
(4)運輸省の「大型専用船海難特別調査委員会」 231 4.東京湾における衝突事故 236
(1)事故の概要 236
(2)事故調査の概要 237
(3)裁決の概要 239
(4)航法に関する判断 240
(5)裁決の問題点 244
第4節 通常事故の調査に関する分析
2541.分析の対象 254 2.衝突の原因 254
(1)見張り不十分 254
(2)見張り不十分-他の作業 255
(3)見張り不十分―死角の存在 256
(4)居眠り防止措置不十分 257
(5)信号不履行、形象物不表示 258
(6)その他の問題 259
第5節 小括
266xii
第6章 海難審判制度の構造的問題
288第1節 本章の課題
288第2節 海難審判制度に対する批判
288 1.福島弘のモデルによる海難審判制度の考察 288(1) 船舶事故の発生条件 288
(2) 福島による「第五北川丸」の事故調査批判 289
(3) 「海難審判法」の原因探求分野についての問題点 291 2.森清の海難審判批判 292
(1) 森による批判の概要 292
(2) 審判官の構成要件 292
(3) 指定海難関係人の権利の縮小 294
(4) 懲戒処分の廃止 294
第3節 海難審判庁による制度の見直し
295 1.制度の見直しの経緯 2952.各検討会の内容 296
(1) 海難審判法改正準備懇談会 296
(2) 海難審判制度調査委員会・海難審判業務改善懇談会・海難審判法研究会 297
(3) 調査委員会審議の内容 297
(4) 調査委員会答申の内容 299
(5) 調査委員会による対策の提示 299
(6) 業務懇談会審議の内容 300
(7) 海難審判法研究会による検討内容 300 3.制度の見直しについての評価 301
第4節 制度の見直し後の海難審判制度と行政当局による再発防止施策の展開
303 1.海難審判における相当因果関係の援用による刑事裁判への近似 303
(1) 洞爺丸船長の過失の認定 303
(2) 利害関係者の参加拡大の要請 303
(3) 研修内容の刑法への傾斜 304
xiii
2.技術的原因究明の運輸省船舶局へのシフト 305
(1) 「ぼりばあ丸」、「かりふおるにあ丸」と同種の事故の発生 305
(2) 「尾道丸」の事故調査 306
3.海上交通安全行政の展開と海難審判による航法判断 308
(1) 海上交通安全センターの設置 308
(2) 海難審判庁による事後的な責任認定 310
(3) 船員の常務に関する考察 310
(4) 航法に関する事故調査機関の役割 312
第5節 海難審判制度の構造的問題
3131.海難審判に関する問題点 313 2.背後にあった構造的問題 314
(1) 海外制度の根本理解を欠く導入 314
(2) 海員..
審判制度の構造の基本的踏襲 314
(3) 過失の認定に際しての相当因果関係の援用 315
(4) 勧告の発出と責任の認定との関連 315
(5) 弱小官庁としての権威の不足 316
(6) 裁判制度を模したことによる多重の手続 317
(7) シーマンに偏った人事構成とシーマンズマインド 318
(8) 事故調査の場としての審判廷の環境 319
(9) 調査の正確さと直接主義 319
(10) 海難審判と国際協力 320
第6節 小括
321第7章 1990 年代以降の先進諸国における船舶事故調査制度の展開 とわが国の対応・・・・・・・・・・・・・・・・・・
330第1節 本章の課題
330第2節 現代の先進諸国の船舶事故調査制度
331 1.統合型事故調査機関と単独型事故調査機関 331xiv 2.アメリカ合衆国 NTSB の船舶事故調査 332
(1) 各モードの調査の起源 332
(2) NTSB の設立 332
(3) NTSB の独立委員会化 333
(4) NTSB の業務の拡大 333
(5) NTSB の組織と機能 334
(6) 海上安全局の組織と機能 334
(7) NTSB の調査システム 336
(8) NTSB の調査システムの特徴 341
(9) NTSB が扱った事故 342
3.アメリカ合衆国沿岸警備隊(USCG)の船舶事故調査 343
(1) USCG の任務と組織 343
(2) USCG による船舶事故調査の起源と目的 343
(3) USGC の事故調査制度の構造 345
(4) USCG の調査の手法 346
4.イギリスの船舶事故調査制度 348
(1) 船舶事故調査局(MAIB)の設立 348
(2) MAIB の任務と組織 349
(3) MAIB の事故調査の流れ 350
(4) イギリスの事故調査の特徴 354
5.ドイツ連邦共和国の船舶事故調査制度 356
(1) ドイツ連邦船舶事故調査局(BSU)の設立 356
(2) BSU の任務と組織 356
(3) BSU の事故調査の流れ 358
(4) ドイツの事故調査の特徴 359
6.その他の先進国の船舶事故調査制度 362
(1) フランス 362
(2) カナダ 366
(3) オーストラリア 370
(4) オランダ及びその他のヨーロッパ諸国 374
xv
第3節 海難審判庁による国際化への対応
380 1.IMO の動きへの対応 3802.ヒューマンファクターの研究 382
3.「運輸安全一括法」による「海難審判法」の改正 384
第4節 小括
387第8章 運輸安全委員会の成立とその評価・・・・・・・・・・
405第1節 事故調査の役割
405 1.船舶事故調査制度の歴史の概観 4052.海事におけるヒューマンファクター分析の展開 406
(1) 1990 年代以前の状況 406
(2) 1990 年代以降の状況 407
(3) 論文数に関する研究 408
(4) IMO におけるヒューマンファクター分析の採用 409
(5) 事故調査機関と事故モデル 411
第2節 運輸安全委員会の事故調査
413 1.法律改正 413(1) 運輸安全委員会の性格 413
(2) 改正前の政治的な動向 413
(3) 国会審議の内容 414
(4) 付帯決議の内容 416
(5) 運輸安全委員会発足の原点 417 2.運輸安全委員会の事故調査の体制 420
(1) 運輸安全委員会の組織 420
(2) 船舶事故調査の手順 422
(3) 調査官の権限 423
3.運輸安全委員会の到達点と課題 424
(1) 運輸安全委員会の船舶事故調査の概要 424
xvi
(2) 運輸安全委員会による漁船沈没メカニズムの解明 426
(3) 海難審判による漁船遭難事件の調査と運輸安全委員会の調査 429
(4) 運輸安全委員会の漁船沈没事故調査の問題点 431
(5) 運輸安全委員会の提言数の推移と問題点 432
(6) 運輸安全委員会の提言の効果の例 436
(7) 利害関係国としての事故調査 438
(8) 地方事務所の事故調査 440
(9) 残った問題点と全般的な評価 443
第3節 運輸安全委員会の諸問題
4451.航空・鉄道事故調査委員会の不祥事と検証メンバー会合 445
(1) 福知山線事故調査における情報漏洩とその検証 445
(2) 検証報告書 446
(3) 検証メンバー会合の提言 448 2.運輸安全委員会の諸問題 448
(1) 透明性の確保 449
(2) 委員人事のあり方について 453
(3) 被害者支援 455
(4) 鑑定嘱託の問題 457
第4節 小括
464終章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
487第 1 節 本論文で明らかにしたこと
487第2節 結論と残された課題
497参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5001
はじめに
第 1 節 問題の所在
本論文では、従来、ほとんど研究の対象とされてこなかった、わが国の船舶事故調査制度 を考察する。四面を海に取り囲まれたわが国においては、国家が機能するために必要な資 源や工業製品などの貨物輸送を行う上で、船舶による海上輸送が果たす役割の重要性が高 く、内航海運及び外航海運が早くから発達した。また、旅客輸送については、陸上輸送の発 達により、かつてのような重要性はないものの、船舶による交通が不可欠の地域も存在す る。更に、水産物に対する需要は旺盛で、漁船の活動も活発である。
このため、船舶に関する法制度も、1867 年の明治維新以降、わが国が近代国家として成 立・発展していく過程で早期に整備されていった。船舶の運航にはリスクが不可避的に伴 い、船舶の事故は古くから「海難」と呼ばれ、その発生は国家的な損失であると認識されて きた。既に 19 世紀から、工業化の進展した欧米先進諸国では、海難に対し対策がとられて きた。イギリスで成立した制度の影響を受け、わが国においても 19 世紀末に、「海員懲戒 法」に基づく海員審判....
制度が確立した。この制度は、事故を起こした海員を懲戒すること によって、海上の秩序を図ることを意図したものであった。しかし、事故の防止という観 点からは制度上の問題点が指摘され、第二次世界大戦終了後まもなく、海員を対象にした 審判制度に代えて、海難そのものを対象にして海難の原因究明を行う海難審判....
制度が発足 した。
この制度は、海難そのものが対象となり、事故の原因究明が行われるという点で画期的 であるとの評価を受け、2008 年に運輸安全委員会の船舶事故調査が開始されるまでの約 60 年間、わが国の公式な船舶事故調査制度として継続した。海難審判制度の特徴は、一つの 制度の中で海難の原因究明と船員に対する責任追及(懲戒)とが同時に行われることであ り、わが国では、これが効率的であると肯定的に評価されてきた。しかし、1990 年代以降 に、航空事故調査の進展を受けて船舶事故調査の革新が大きな流れとなったことや、船舶 事故調査の関係国間の調整を図る必要が生じてきたことなどを背景に、各国共通のプラッ トフォームを設ける必要が生じた。このため、2008 年に国際海事機関(以下、IMO という)
において、事故調査コードの大幅な改正を行うとともに、同コードを条約に関係づけた上
2
で強制化するための改正が行われることとなった。これを契機に、わが国でも制度改正と 所管官庁組織の再編が行われ、伝統的な「海難審判制度」に代えて、1990 年代以降の先進 諸国で取り入れられたものと同様の手法による船舶事故調査が行われることとなった。こ のため、事故調査を行う組織としては、従来の「海難審判庁」が廃止され、「航空・鉄道事 故調査委員会」を母体にして運輸安全委員会が設置されることとなった。
運輸安全委員会による船舶事故調査制度は、海難審判に付随する従来からの問題点に対 しては一定の解を与えた。しかし、海難審判から船舶事故調査への制度改正は、国際条約 への適合という必要性に対応したものであったため、長い間存続した「海難審判制度」の 業績に対する評価は行われることなく、条約との整合性を確保できるような、組織と制度 の改編が進められた。こうして、この分野は内実の上でも、学術的にも研究がほとんど存 在しない空白の領域になっている。
一方で、現代における事故調査については、遺族の不幸な体験を繰り返さないために、事 故そのものを減少させるとともに、事故が発生した場合でも可能な限りその被害の程度を 軽減させる取組みを推進するために不可欠な活動である(1)、と認識されている。結論を先 取りすれば、本論文で証明していくように、海難審判制度はこのような目的のために十分 な制度ではなかった。
本論文の主題である「船舶事故調査」を制度論として扱ったものとしては、戦前の 松波仁一郎
ま つ な み に い ち ろ う
の論文(2)、ならびに森清の戦前から戦後にかけてのいくつかの論文と大著であ る『海難審判制度の研究』(3)があるが、同書では 1960 年代前半までの状況が扱われている のみで、近年の動向までも含めた海難審判制度全般を扱った先行研究は存在しない。ただ し、制度の事実関係をとりまとめたものとして『海難審判制度百年史』(4)と題する、海難審 判を所管する高等海難審判庁が自ら編纂した組織の歴史と、それに先行する『海難審判史』
(5) 並びに『改訂版 海難審判史』(6)がある。それ以外には、森島逸男の『海難審判制度史』
(7)と、伊藤喜市による「日本近代海難調査史話」(第 1 話-第 8 話)等の記事(8)がある。
後者は 2008 年の海難審判所と運輸安全委員会設置の時点までの事実関係を取り扱ってい る。一方、『海難審判制度百年史』は、平成期の海難審判庁の視点から記述しており、海難..
審判制度の意義を高く評価し、先行する海員..
審判制度との相違を強調するものとなってい る。これが従来は、通説となっていたが、筆者は現在の視点からみるとむしろその内容に は偏りがあると考える。なお、海難審判制度の実務に関する全般的な解説としては、今西 保彦の『海難審判の実務』(9)がある。
3
筆者は、このような学術的空白を埋めるために、以下に示す目的と構成によって本論文 を作成した。本論文の目的は、公式な事故調査制度であった、わが国の海難審判制度を対 象にその功罪と限界を明らかにし、海難審判制度の実績に対する評価を与えるとともに、
その考察を通じて、今後の運輸安全委員会の船舶事故調査の運営に有効と考えられる知見 をあわせて提供することにある。
第 2 節 本論文の構成
本論文の構成は以下のとおりである。
第 1 章においては、海難審判制度から船舶事故調査制度への移行の契機となった IMO の 船舶事故調査コードの特徴的性格と意義について述べる。また、同コードは、各国の船舶 事故調査の規範となる性格を有していることから、そもそも船舶事故調査制度が具備すべ き要件について明確にしておくこととする。これは、海難審判制度の実績の評価を行う際 の基準となるものである。
第 2 章においては、船舶事故調査の起源に遡り、わが国の海難審判制度の手本になった とされる 19 世紀の先進諸国の船舶事故調査制度について考察する。その中でも特に他国の 制度に対し多大の影響を与え、わが国の制度との関係でも重要性の高いイギリスの制度に ついて、その特色と現代的意義について考察する。
第 3 章においては、わが国に視点を移し、海難審判制度の基本的な性格を明らかにする ために、明治維新後にわが国が近代国家として成熟する中で導入した事故調査の諸制度に ついて概説する。1896 年に創始された海員懲戒法に基づく海員審判制度は、海難審判制度 の直前の制度である。その意義、限界と、その限界のために戦前に既に提起されていた「海 員懲戒法」改正に向けた動きについて述べる。
第 4 章においては、第二次世界大戦後にようやく制定された「海難審判法」に基づく海 難審判制度について、その制定の経緯をたどりつつ海員懲戒制度との関係に焦点を当て、
立法時の思想から読み取れるその意義と、現実の制度上の問題点とのギャップについて述 べる。
第 5 章においては、海難審判制度の問題点を具体例に即しながら明らかにし、海難審判 制度が 60 年の間にどのような成果を挙げたのかについて考察する。そのうえで、事故調査
4
制度としての海難審判制度の実績を、IMO の事故調査コードを基準として評価を行い、懲戒 を内包した事故調査の欠陥を明らかにする。
第 6 章においては、前章で指摘した、海難審判制度の欠陥が生じることに関係した海難 審判庁に内在した構造上の問題点について考察する。
第 7 章においては、第 2 章で述べた各国を含む先進諸国の船舶事故調査制度が、制度の 創設から 1 世紀を過ぎた 1990 年代以降になってどのように変化したかについて述べ、それ との対比の中で、当時の海難審判庁が採った対応について考察する。
第 8 章においては、運輸安全委員会設立の経緯について述べ、設立当初の理念とその後 の 10 年の実績を考察し、船舶事故調査制度の歴史と国際比較の中から明らかになる、運輸 安全委員会が当面する課題について述べる。
筆者は本論文によって、海難審判庁の公式見解及び海事関係者の間で概ね共有されてい たが、あまり正面から検証されたことのない「常識」について反証を試みた。海難審判庁の 公式見解は、『海難審判制度百年史』などに述べられている。同書は、明治時代の海難審判 前史から説き起こし、20 世紀末までの審判の歴史について述べた、いわば、海難審判庁に よる正史である。しかし、ここで、E.H.カーの言葉を引用すれば、「過去は、現在の光に照 らして初めて私たちに理解できるものであり、(中略)過去の光に照らして初めて私たち は現在をよく理解することができるもの」(10)である。運輸安全委員会が設立されてから約 10 年が経過した現在、現在の視点に立って、過去の船舶事故調査の歴史を振り返り、見直 すことによって新たな発見が生まれる。今後の事故調査のあり方を考える際にも、「現在 と過去との間の尽きることを知らぬ対話が必要」(11)なのである。筆者は、正史もまた書き 直されなければならないと考える。
このテーマに関係して通説となっている論点を列挙すれば、以下のようになる。
①わが国の海難審判制度は、イギリスの海難審判制度...........
にならったものである。
②運輸安全委員会が設立された 2008 年当時でも、イギリスにおいては裁判方式による船舶 事故の原因調査が行われていた。
③わが国の海難審判制度は、学者の提言に基づき海員懲戒制度を廃止して成立したもので あり、審判の対象が「海員」から「海難」に変わったので、その内容は決定的に異なってい る。
④海難審判制度は、海難の原因調査を行う制度として問題なく機能しており、かつて「海 難審判制度にのらなかった......
」(海難審判制度で処理できなかった)「海難事件」はなかっ
5 た。
⑤海難審判制度においては、勧告制度があり有効に機能していた。
⑥「海難の原因調査」には、当事者の責任の軽重を決めることが含まれるべきである。
⑦同じ事故(事件)であれば、原因は同一であるはずだ。
これらの論点については、本論文の中で順次、筆者の見解を明らかにしていく。なお、論 述を始めるに当たって、予め重要な用語の使用法について述べておきたい。
日本語の「事故調査」という語には広義と狭義があり、狭義の事故調査は、運輸安全委員 会の行う事故調査のように、事故の再発防止のみを目的に行う事故の原因究明を指す。広 義の「事故調査」は、原因究明に加え、懲戒などもあわせて目的とする事故調査も含むもの である。本論文において、海難審判制度も事故調査制度として扱う場合の用法がそれであ る。英語では、狭義の事故調査に相当する単語は、casualty investigation と safety investigation である。船舶事故調査については、従来、marine casualty investigation が使われてきたが、2008 年からは、航空事故調査に対し air safety investigation が使 われていることに呼応して marine safety investigation が使われている。直訳すれば、
前者は、「海上事故調査」であり、後者は、「海上安全調査」となるが、本論文においては、
わが国の用例にならい、両者とも、「船舶事故調査」と訳した。なお、safety investigation は、同様に船舶事故を対象に行われる disciplinary investigation (懲戒調査)や criminal investigation (犯罪捜査)に対峙する概念である。なお、各国においては、船舶事故に関 して marine という用語を使用する例は多い。
6
[注]
(1) 安部誠治「事故調査制度」『事故防止のための社会安全学』(関西大学社会安全学部編)
ミネルヴァ書房、201-202 頁。
(2) 松波仁一郎(1912)「海難調査論」『法学協会雑誌第 31 巻第 11 號』法学協会。
(3) 森清 (1968)『海難審判制度の研究』中央大学出版部。
(4) 高等海難審判庁 (1997)『海難審判制度百年史』 海難審判協会。
(5) 海難審判協会(1964)『海難審判史』海難審判協会。
(6) 海難審判協会 (1983)『改訂版 海難審判史』海難審判協会。
(7) 森島逸男 (1979)『海難審判制度史』成山堂。
(8) 伊藤喜市(2013)「日本近代海難調査史話(第 2 話)明治初期:海事法規の制定・海員審 判制度の起こり」『ふねとうみ』海難審判・船舶事故調査協会、173 号。伊藤喜市(2014)
「日本近代海難調査史話(第 3 話)海員審問の時代:不平等条約下の海員審問」『ふねとう み』海難審判・船舶事故調査協会、174 号。伊藤喜市(2014)「日本近代海難調査史話(第 4 話)海員懲戒法の時代(その1)海員懲戒法の制定及び施行」『ふねとうみ』海難審判・船 舶事故調査協会、175 号。伊藤喜市(2015)「日本近代海難調査史話(第 5 話)海員懲戒法 の時代(その 2)海員審判制度のこと」『ふねとうみ』海難審判・船舶事故調査協会、178 号。
伊藤喜市(2015)「日本近代海難調査史話(第 6 話)海難審判法の時代(その 1)昭和戦後 期:海難審判法の制定・充実の時期」『ふねとうみ』海難審判・船舶事故調査協会、179 号。
伊藤喜市(2016)「日本近代海難調査史話(第 7 話)海難審判法の時代(その 2)海難調査 の国際化と海難審判庁」『ふねとうみ』海難審判・船舶事故調査協会、180 号。伊藤喜市(2016)
「日本近代海難調査史話(第 8 話)第 3 話の補遺等:審判判定書及び正誤表」『ふねとうみ』
海難審判・船舶事故調査協会、181 号。伊藤喜市(2018)「明治 9(1879)年 6 月 6 日太政大臣 布告第 82 号『西洋形商船船長運轉手機關手試験規則』第 10 條等に依る審問のこと(第 1 回)拙稿の意義・『海員審問』とは」『ふねとうみ』海難審判・船舶事故調査協会、187 号。伊藤喜市(2018)「明治 9(1876)年 6 月 6 日太政大臣布告第 82 号『西洋形商船船長運轉 手機關手試験規則』第 10 條等に依る審問のこと(第 2 回)初期の『審問判定書』・『お 雇い外国人』逓信省時代の『海員審問』」『ふねとうみ』海難審判・船舶事故調査協会、188 号、伊藤喜市(2019)「明治 9(1876)年 6 月 6 日太政大臣布告第 82 号『西洋形商船船長運轉 手機關手試験規則』第 10 條等に依る審問のこと(第 3 回)『海員審問』から『海員審
7
判』へ」『ふねとうみ』海難審判・船舶事故調査協会、189 号。
(9) 今西保彦(1977)『海難審判の実務』成山堂書店。
(10) E.H.Carr (1961)
WHAT IS HISTORY
, PALGRAVE P.49/ 清水幾太郎訳(1962)『歴史と は何か』岩波書店、78 頁。(11)
Ibid,
, p.24/ 同上書、40 頁。8
第1章 国際標準としての IMO 船舶事故調査コード
第1節 本章の課題
船舶事故調査は、航空事故調査と同様に国際的な性格を有している。このことについて は、わが国の関係者の間では、あまり意識されていないように思われる。運輸安全委員会 が航空事故やインシデントの調査に関して、アメリカ合衆国の国家運輸安全委員会(以下、
NTSB という)と協力・連携関係にあることは航空関係者の間では、当然の常識になってい る。しかし、運輸安全委員会が、外国船の関係する事故について、航空事故と同様に NTSB などの海外の事故調査機関との間で協力・連携関係を有していることは、海事関係者の間 で十分に知られているとはいいがたい。このことは、わが国海事関係者は、国内の海難審 判のことは熟知していても、世界共通の枠組み(フレームワーク)の中で各国の機関によ って行われている船舶事故調査についての認識が比較的乏しいことを示しているものと思 われる。
ところで、国際海事機関(International Maritime Organization、以下、IMO という)
が、2008 年に策定した船舶事故調査コード(「海上事故又は海上インシデントの安全調査 のための国際基準及び勧告方式に関するコード」(CODE OF THE INTERNATIONAL STANDARDS AND RECOMMENDED PRACTICES FOR A SAFETY INVESTIGATION INTO A MARINE CASUALTY OR MARINE INCIDENT,略称 “CASUALTY INVESTIGATION CODE”、以下、IMO コードという)は、
船舶事故調査制度の新たな国際標準を設定したという点で画期的なものであったが、これ までのところわが国には、筆者の知る限りではこれをテーマとして扱った先行研究はない。
このことは、わが国では船舶事故調査の国際的な枠組みに対する関心が高くない、という 実情を反映したものと考えられる。
IMO コードは、前述の船舶事故調査制度の国際標準としての規範を提示している。同コー ドは、1990 年代に急速に進展したヒューマンファクター研究の成果と先進各国でのベスト プラクティスを背景に作成され、2000 年代に入った頃から多くの諸国で取り入れられ一般 化してきた慣行を踏まえたものであった。IMO コードは、それまでの各国の伝統的な調査制 度と比べると革新的な要素を多く含んでおり、わが国の海難審判制度と比較対照する意味
9
は大きいものと考えられる。そこでまず、IMO コードによって確立された国際的な制度的枠 組みの策定の経緯や内容などについて概説し、同コード策定の意義を明らかにする。
第2節 IMO コードの背景
1. 国際海事機関(IMO)
IMO は海事分野における国際連合の専門機関(specialized agency)であり、海運に関す る安全と保安(safety and security)、船舶に起因する海洋と大気の汚染防止を担務し、そ の分野における世界的な標準を設定する権限を有している。IMO の主要な役割は、海運産業 のために国際的に受容され、かつ実施可能で、公正かつ効率的な規制の枠組みを創設する ことにある(1)。
国際海事社会においては、19 世紀以来、海上における安全を向上させるための最上の方 法は、全ての海運国が遵守する国際規則を発展させることである、と認識されてきた。そ のために、海上安全に関する国際条約がいくつか採択された。その際に、海事関係の国際 機関を創設すべきであるとの意見を表明する国もあったが、実現には第二次世界大戦後の 国際連合自体の設立を待たなければならなかった。1948 年に国際連合海事会議で政府間海 事協議機関設置のための条約が採択された。1958 年に発効した同条約に基づき、国際連合 が、「政府間海事協議機関」(International Maritime Consultative Organization、以 下、IMCO という)を設立し、1982 年に、現在の「国際海事機関」へと改称された。
IMO は技術的な事項を担務し、その議事について審議するため、図 1-1 のとおり、組織内 に加盟国から構成される各委員会や小委員会を設置している。なかでも、全加盟国で構成 される海上安全委員会(Maritime Safety Committee、以下 MSC という)が、総会、理事会 と並び、技術的機関としては最上位に位置づけられている。MSC は、IMO の所掌範囲内の直 接に海上安全に影響を与える事柄については、船舶事故の調査の他、船舶の建造と装備、
安全の観点からの船舶への配乗、衝突予防規則、危険物貨物の荷役、海上安全手続と要件、
水路情報、救難など、いかなる問題であっても審議することができる。また、MSC は、総会 での採択に向けて勧告やガイドラインを審議し、提出する責任を有している。IMO の船舶事 故調査の方式についての審議は、MSC 及びその下部の、現在では改称されている「旗国小委
10
員会」(Sub-Committee on Flag State Implementation、以下 FSI という)において行われ ていた(2)。
図 1-1 IMO の会議の構成
出所:国土交通省「IMO(国際海事機関)の概要」(国土交通省ホームページ)より作成。
http://www.mlit.go.jp/maritime/maritime_tk1_000035.html(2019 年 10 月 2 日アクセス)
2. 海上人命安全条約(SOLAS 条約)
IMCO は、発足後はじめての国際会議を 1960 年に開催した。そして、同会議において「海 上安全人命条約」(International Convention on Safety of Life at Sea. 以下 SOLAS 条約という)の 1960 年改正条約(1960 年 SOLAS 条約)を採択した。これは、先行する 1948 年 SOLAS 条約を代替するものであった。SOLAS 条約は、そもそも 1914 年に初めて採択され て以来、たびたび大改正がなされてきた。当初の 1914 年 SOLAS 条約は、1912 年の「タイタ ニック号」の事故を契機とし、船舶の安全確保をめざし救命艇や無線装置の装備等の規則 を定めるために締結されたが、第一次世界大戦勃発のために発効しなかった。次の 1929 年 SOLAS 条約は、1914 年 SOLAS 条約に新たな安全規制を追加するなどの修正を加え、1933 年 にようやく発効した。わが国は、同条約の批准のために 1933 年から 1934 年にかけて「船 舶安全法」(法律第 11 号)の制定と関連法規の改廃を完了させた。(3)
戦後の改正について述べれば、1948 年 SOLAS 条約が 1952 年に発効し、続いて前述の海 運・造船の安全領域を広くカバーした、1960 年 SOLAS 条約が 1963 年に発効した。現行の条 約は 1974 年 SOLAS 条約で、1980 年に発効した。わが国は、これらの条約に発効の年に批准 又は加盟している。1974 年 SOLAS 条約以降は、技術の進歩があるたびに大改正を行い、煩 瑣な条約加入の手続を繰り返すのではなく、発効までの期間を短縮させようという意図か
総会
(Assembly)
理事会(Council)
海上安全委員会
(MSC)
小委員会海洋環境保護委員会
(MEPC)
法律委員会
(LEG)
技術協力委員会(TC)
簡易化委員会(
FAL)
11
ら、簡易な手続で一部改正を行う仕組みが導入されている。それは「暗黙の受諾」を意味す る tacit acceptance(タシット方式)と呼ばれるもので、一定期限までに一定数の反対意 見が締約国政府から IMO に対し通告されない限り、受諾されたものとみなし自動的に発効 に至るという仕組みである。これによって技術的進歩を反映した改正条約の発効が容易に なった(4)。
第3節 IMO コード策定までの動き
1.1997 年 IMO コードの策定に至るまで
IMO コードに先行して、船舶事故調査に関するいくつかの総会決議と任意のコードや指 針が存在する。図 1-2 に、IMO コード策定までの流れを示した。IMO が採択した最初の決議 は 1968 年にリベリアの提唱により採択され、その後も 1975 年、1979 年及び 1989 年に採択 された。それらは、公的船舶事故調査への参加、事故調査の実施、情報交換、人員及び資 材、国際協力など、個別のテーマについての決議であった(5)。1997 年になって、これらの 決議は総会決議 A. 849 (20)「船舶事故及びインシデントの調査のためのコード」(以下、
1997 年 IMO コードという)として一つのまとまったコードに集約された。
図 1-2 IMO コード策定までの動き
出所:高等海難審判庁 (2008)『IMO 海難調査官マニュアル』海文堂より作成。
12 2. 1997 年 IMO コード
(1) 1997 年 IMO コードの基本的考え方
1997 年 IMO コードの基本的な考え方は、同コード採択の決議本文から読み取ることがで きる。その概要は以下のとおりである(7)。
・船員及び旅客の安全や海洋環境の保護は、船舶事故及び船舶インシデント(以下、船舶事 故等という)の事実と原因を明らかにする適時かつ正確な報告により促進されること。
・調査と適切な解析によって船舶事故等の原因を認知し、安全性の強化のために効果的な 訓練を含む是正措置を導くことができること。
・船舶事故等の原因や潜在的原因を正確に明らかにするという唯一の目的をもって、国内 法の許容する範囲で、船舶事故等の調査のための標準的手法を提供するコードを定める必 要性があること。
・海運の国際的性格と、事故調査を行うための各政府間協力の必要性を認識すること。
決議では、各国際条約に基づいて、旗国に対し重大な船舶事故及び非常に重大な船舶事 故の全てを調査することを要求していることも、併せて指摘しておきたい。1997 年 IMO コ ードは、決議本文に附属書として添付されており、2008 年の IMO コードと比較し条文の数 も少ない。その本文から、以下のことに重点が置かれていたことが分かる。つまり、事故調 査(casualty investigation)の目的及びその実施のための指針(guiding principles)とと もに、各国間の協議(consultation)と協力(co-operation)の枠組みを明確に規定し、各国 における船舶事故調査のための共通手法の採用を促進する。このことにより、個別の国レ ベルのみならず、国際的なレベルでの再発防止措置が取られる助けとなり、海上安全の強 化に資することである。
(2) 調査主導国と実質的利害関係国
1997 年 IMO コードの本文では、旗国に対して重大事故等の調査が確実に行われるよう求 めている。船舶事故には複数の国が関与するため、調査が確実に行われることを確保する には、どの国が調査を行うかについての調整規定を設けておく必要がある。そのため、船 舶事故が一国の領海内で発生したときには、事故船舶の旗国と事故の発生海域の沿岸国と の協議により、調査に責任を持つ主導国(lead investigating State)を決定するという規 定が設けられている。更に、実質的利害関係国(substantially interested State)という 概念が導入され(8)、旗国や沿岸国以外に、領域内で環境破壊が生じた国や自国の国民の生 命が失われた国も、実質的利害関係国として調査に招請され、調査手続の当事者として、