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竪穴式石室の研究 - 王権と埋葬施設 - 熊本大学社会文化科学研究科学位論文 山本三郎

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熊本大学学術リポジトリ

Kumamoto University Repository System

Title

竪穴式石室の研究 : 王権と埋葬施設

Author(s)

山本, 三郎

Citation

Issue date

2010-08-31

Type

Thesis or Dissertation

URL

http://hdl.handle.net/2298/21447

Right

(2)

竪穴式石室の研究 -王権と埋葬施設-

熊本大学社会文化科学研究科 学位論文

(3)

竪穴式石室の研究 -王権と埋葬施設-

目次 序 第1章 竪穴式石室の研究抄史 -問題の所在- ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 1 第1節 小林行雄の業績(1940 年代の動向) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 1 第2節 1950 年代の研究動向 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 2 第3節 1960~1970 年代の研究動向 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 3 第4節 1980~1990 年代の研究動向 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 4 第5節 2000 年代の研究動向 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 7 第2章 長大型竪穴式石室の出現と変容 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 9 第1節 長大型竪穴式石室出現前夜 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 9 第2節 長大型竪穴式石室の分類 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 12 第3節 古墳出現前後の埋葬施設の変化 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 14 第4 節 竪穴式石室の変容 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 18 1 古墳時代前期後半における竪穴式石室の第1 次変容 2 竪穴式石室の第2次変容 3 竪穴式石室の第3 次変容 第3章 畿内地域の竪穴式石室の研究 -古墳時代前期の政治動向- ‥‥‥‥‥‥ 26 はじめに ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 26 第1節 竪穴式石室の基底部構造の機能とその意義 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 27 第2節 竪穴式石室基底部構造の類型と変遷 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 30 1 A 型式 2 B 型式 3 C 型式 4 D型式 5 E型式 6 竪穴式石室の基底部諸型式の消長 第3節 大和地域における前期大形古墳の埋葬施設の検討とその特質 ‥‥‥‥ 48 1 桜井茶臼山古墳の埋葬施設

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2 メスリ山古墳の埋葬施設 3 佐紀陵山古墳(ヒバスヒメ陵古墳) 4 箸墓古墳・西殿塚古墳 5 小結 第4節 埋葬施設からみた山城地域と河内地域そして摂津地域 ‥‥‥‥‥‥‥ 55 1 山城地域の政治動向 2 河内地域の政治動向 3 摂津地域の政治動向 第4章 畿内地域における前期古墳の複数埋葬について ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 68 はじめに ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 68 第1節 前方後円墳の埋葬形態と粘土槨の類型設定 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 69 第2節 山城地域の複数埋葬と埋葬施設 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 71 第3節 畿内諸地域の複数埋葬と埋葬施設 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 78 1 河内地域 2 摂津地域 3 大和地域 4 和泉地域 第4節 まとめ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 84 1 粘土槨の成立事情 2 複数埋葬の類型の設定 第5章 弥生墳丘墓から古墳時代の開始へ -讃岐・雨滝山奥墳墓群の再検討を通じて- ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 88 はじめに ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 88 第1節 周溝墓・墳丘墓・古墳の定義 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 88 第2節 雨滝山奥墳墓群の再検討 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 90 1 雨滝山奥墳墓群の立地と構成 2 雨滝山奥墳墓群の個々の具体的検討 第3節 雨滝山奥1 期から雨滝山奥3期の設定の根拠 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 102 1 出土土器から 2 埋葬施設から ① 墳丘主軸との関係、埋葬主軸の方向、そして頭位 ② 前方後円形墳墓の複数埋葬について ③ 竪穴式石室基底部の構造 ④ 副葬品や墳形・規模の変化

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第4節 まとめ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 108 第6章 阿讃地域の長大型竪穴式石室の出現をめぐって ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 110 はじめに ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 110 第1節 阿波地域における竪穴式石室の概観 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 110 第2節 讃岐地域における竪穴式石室の概観 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 113 第3節 阿讃地域における長大型石室の出現 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 115 1 西山谷2 号「墳」の内容とその検討 2 宮谷古墳の内容とその検討 3 鶴尾神社4 号「墳」の内容とその検討 4 丸井古墳の内容とその検討 5 四古墳の竪穴式石室の構造的特徴 第4節 まとめにかえて ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 121 第7章 埋葬施設からみた弥生墳丘墓と古墳-播磨地域の事例研究- ‥‥‥‥ 125 第1節 はじめに-周溝墓・墳丘墓・古墳とは- ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 125 第2節 播磨地域の墳丘墓の検討 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 127 第3節 古墳出現前夜の播磨地域の墳丘墓 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 129 第4節 古墳出現期(Ⅲ-1段階)の前方後円(方)墳の動向 ‥‥‥‥‥‥‥ 130 第5節 加古川下流域の日岡古墳群の評価 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 132 第6節 まとめ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 135 第7節 余論-西求女塚古墳と内場山墳丘墓の埋葬施設の比較- ‥‥‥‥‥‥ 137 第8章 方墳についての二・三の断想 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 155 第1節 はじめに ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 155 第2節 古墳出現期前後の方形墳墓をめぐって-加古川流域を中心に- ‥‥‥ 156 1 最古級の方形墳の滝ノ上20 号墳の検討 2 滝ノ上20 号墳以前の加古川流域の方形墓 3 滝ノ上20 号墳以降の加古川流域の方形墳 第3節 明石川流域の古墳時代前期の方形墳をめぐって ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 169 第4節 古墳時代中期の方墳をめぐって ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 173 1 古墳時代中期の大型古墳群の中の方墳 ① 玉丘古墳群(加西市) ② 御着古墳群(姫路市) 第5節 まとめにかえて ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 177

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第9章 タニワの長刀と墳墓 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 185 はじめに ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 185 第1節 内場山墳丘墓の内容とその検討 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 185 第2節 タニワ(兵庫)の弥生時代後期から終末期の墳丘墓の実態 ‥‥‥‥ 188 第3節 内場山墳丘墓出土の素環頭太刀と鉄鏃をめぐって ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 190 1 素環頭太刀 2 鉄鏃について 第4節 内場山墳丘墓と周辺の墳丘墓との比較 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 193 第5節 内場山墳丘墓のその後-まとめ- ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 195 第10 章 王権と海上交通・序説 -大阪湾と播磨灘に面する古墳を中心に- ‥‥ 207 第1節 はじめに-研究略史と問題の所在- ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 207 第2節 大阪湾に面する古墳 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 208 1 百舌鳥古墳群と上町台地の古墳 2 難波津から明石海峡までの古墳 第3節 明石海峡を望む古墳 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 214 第4節 播磨灘に面する古墳 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 217 1 東播磨海岸に面する古墳 2 加古川河口付近の古墳 3 市川河口付近の古墳 4 揖保川河口付近の古墳 5 岩見港を望む古墳 6 相生湾付近の古墳 7 坂越湾に面する古墳 8 赤穂湾付近の古墳 9 家島群島の古墳 第5節 淡路島の古墳 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 223 第6節 まとめにかえて-交易と古墳そして地域王墓の造営地問題- ‥‥‥‥ 224 終章 -結語- ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 227 引用文献・参考文献 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 231

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挿図・表目次 第 2 章 第 1 表 長大型Ⅰ-a群の竪穴式石室をもつ古墳 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 13 第 2 表 安芸・太田川流域の弥生墳丘墓・古墳の内容 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 15 第 3 表 吉備地域の弥生墳丘墓・古墳の内容 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 15 第 4 表 安芸・太田川流域の弥生・古墳の竪穴式石室の規模 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 16 第 5 表 吉備地域の弥生・古墳の竪穴式石室の規模 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 16 第 1 図 石棺の埋葬施設の横断面 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 20 第 2 図 石棺の埋葬施設の縦断面 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 21 第 3 章 第 1 図 元稲荷古墳の石室基底部 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 29 第 1 表 関係古墳一覧表 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 31 第 2 図 近江・瓢箪山古墳後円部石室 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 34 第 3 図 山城地域の竪穴式石室 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 34 第 4 図 河内地域の竪穴式石室 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 34 第 5 図 摂津地域の竪穴式石室 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 34 第 6 図 諸古墳の竪穴式石室の横断面図 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 36 第 2 表 竪穴式石室の基底部諸型式の消長 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 43 第 3 表 編年表 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 45 第7図 大和地域の竪穴式石室 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 50 第 8 図 金蔵山古墳の中央石室 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 50 第 9 図 大和地域の粘土槨 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 50 第 4 表 大和地域における大形古墳の埋葬施設の築造過程 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 52 第 5 表 大形古墳の埋葬施設における構造の推移 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 53 第 4 章 第 1 表 寺戸大塚古墳の副葬品の比較 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 71 第 2 表 山城地域の古墳出土の副葬品の比較 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 76 第3 表 山城地域の古墳の墳丘規模と棺長の関係 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 77 第4 表 河内地域の複数埋葬の位置と種類・数 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 78 第5 表 北玉山古墳の副葬品の比較 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 79 第6 表 駒ケ谷宮山古墳の副葬品の比較 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 79 第1 図 北玉山古墳(右)と駒ケ谷宮山古墳(左)の埋葬位置 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 79 第7 表 弁天山 C1号墳の副葬品の比較 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 80 第8 表 摂津地域の埋葬施設の位置・種類・数 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 81

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第 9 表 新沢千塚 500 号墳の副葬品の比較 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 82

第 10 表 和泉黄金塚古墳の副葬品の比較 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 84 第 5 章

第 1 図 雨滝山奥墳墓群位置図 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 90 第2 図 雨滝山奥 10 号墳丘墓 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 91 第3 図 雨滝山奥墳墓の編年(1) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 93 第4 図 雨滝山奥墳墓の編年(2) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 94 第5 図 雨滝山奥 14 号「墳」(左)と丸井古墳(右)の墳形図の比較 ‥‥‥‥‥‥ 96 第6 図 雨滝山奥 14 号「墳」の 1・2 号石室の横断面 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 97 第7 図 黒宮大塚墳丘墓(上段)と雨滝山奥 10 号墳丘墓(下段)出土土器の比較 ‥ 102 第8 図 七つグロ 1 号墳(上段)と雨滝山奥 14 号「墳」の出土土器の比較 ‥‥‥‥ 103 第6 章 第1 表 阿波地域の竪穴式石室の長幅比 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 111 第2 表 讃岐地域の竪穴式石室の長幅比 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 113 第3 表 讃岐地域の長大型石室をもつ古墳の墳形と規模-積石塚と盛土墳- ‥‥‥ 114 第1 図 西山谷 2 号「墳」の竪穴式石室 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 115 第2 図 鶴尾神社 4 号「墳」(左)と宮谷古墳(右)の墳形図 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 117 第3 図 西山谷 2 号「墳」(下)と雨滝山奥 14 号「墳」(上)の竪穴式石室 ‥‥‥‥ 120 第4 図 雨滝山奥 13 号墳(上)と雨滝山奥 3 号墳(下)の竪穴式石室 ‥‥‥‥‥‥ 120 第7 章 第1 図 播磨地域とその周辺の竪穴式石室の横断面の比較 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 141 第2 図 弥生墳丘墓と古墳の竪穴式石室の比較 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 142 第3 図 前方後円形墳丘墓と前方後円墳の墳形の比較 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 143 第4 図 西条 52 号墓 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 144 第5 図 岩見北山 1 号墓 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 144 第6 図 西ノ土居墳墓 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 145 第7 図 井の端 7 号墓 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 145 第8 図 綾部山 39 号墳丘墓 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 145 第9 図 播磨地域における弥生墳丘墓と前期古墳との比高比較図 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 146 第10 図 讃岐産大型複合口縁壺形土器の分布 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 146 第11 図 横山 7 号墳丘墓 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 147 第12 図 綾部山 39 号墳丘墓 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 147 第13 図 経塚山古墳 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 147 第14 図 山戸 4 号墳丘墓 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 147 第15 図 養久山 1 号「墳」 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 148 第16 図 権現山 51 号墳 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 149

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第17 図 吉島古墳 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 150 第18 図 日岡古墳群の変遷 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 151 第19 図 南大塚古墳 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 152 第20 図 日岡山 1 号墳(褶墓古墳) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 152 第21 図 播磨地域の前方後円墳 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 152 第22 図 竹管文を押捺する土器類 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 153 第23 図 摂津・西求女塚古墳と丹後三大古墳の出土土器 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 153 第24 図 西求女塚古墳と内場山墳丘墓の埋葬施設の比較 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 154 第8章 第1 図 丸山 2 号墳・南西小口壁の副葬品出土状態 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 167 第2 図 玉丘古墳群の分布 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 174 第3 図 播磨地域の方形墳 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 179 第4 図 竪穴式石室の変遷と比較 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 180 第5 図 墳墓出土の鉄鏃・銅鏃の型式比較 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 181 第9 章 第1 表 内場山墳丘墓墳頂平坦面埋葬施設一覧 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 197 第1 図 内場山墳丘墓(上段)と寺ノ段 2 号墓の出土土器の比較 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 197 第2 図 篠山市・内場山墳丘墓 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 198 第3 図 丹後・大風呂南 1 号墓第 3 主体部 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 199 第4 図 内場山墳丘墓 SX9 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 199 第5 図 内場山墳丘墓 SX10 の土層図 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 199 第6 図 内場山墳丘墓出土土器の系譜 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 200 第7 図 タニワ(兵庫)地域の墳墓 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 201 第8 図 三田市(摂津)・川除遺跡の円形周溝墓と出土土器 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 202 第9 図 弥生時代後期から古墳時代前期の長刀・長剣・短剣 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 203 第10 図 弥生時代後期から古墳時代前期の西日本出土鉄鏃 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 204 第11 図 弥生時代終末期から古墳時代前期の鉄鏃・銅鏃 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 205 第12 図 弥生時代終末期から古墳時代前期の二重口縁壺形土器の比較 ‥‥‥‥‥‥ 206 第10 章 第1 図 西求女塚古墳と丹後三大古墳出土土器 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 213 第2 図 播磨灘に面する古墳の位置 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 220

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序 古墳の埋葬施設としての竪穴式石室と王権が、如何に結びつき、関連するのか、疑問をいだかれ るであろう。 畿内地域の大型古墳群がその造営地を移動するたびに、埋葬施設も変化していることが指摘でき る。割竹形木棺と竪穴式石室という棺・槨構造をもつ大和盆地東南部にある広義の大和古墳群が、 大和盆地北部の佐紀古墳群に移動したとき、その大首長たちが組合式石棺と特異な竪穴式石室の 棺・槨構造をもつ埋葬施設を創出している。佐紀古墳群から河内・和泉地域にある古市古墳群、百 舌鳥古墳群にその造営地を移したとき、竜山石製の典型的な長持形石棺(組合式石棺)と変容した 竪穴式石室という棺・槨構造に変化している。 古墳時代後期には、刳抜式石棺としての家形石棺が畿内型横穴石室とともに登場している。摂津 地域の今城塚古墳である。 このことから王権と埋葬施設の構造が密接に関係していると理解していただけるであろう。 少しこのことを詳しく言い換えれば、以下のようになる。 長大な刳抜式木棺(割竹形木棺)を覆う長大な竪穴式石室が、三角縁神獣鏡の副葬するという行 為とともに成立する時代を古墳時代の開始と捉えている。この様式の埋葬施設をもつ200m を優に 超える巨大な前方後円墳が大和東南部に三代から四代継続して築造される。古墳前期屈指の大型古 墳群である広義の大和古墳群である。 この考古事象を捉えて、倭国に中枢部が形成され、倭国の中心部から発進される情報に地域政権 が如何に対応するかが迫られ、その対応の仕方が地域ごとに異なっている。このことが地域におけ る墳丘墓と古墳を捉えがたくしている。 このことをケーススタデイーとして叙述したのが、播磨地域を対象として論じた第7 章である。第 2 章の 3 項も安芸地域の太田川流域と吉備地域でこの課題を論じている。また、第6章の阿讃地域 の長大型竪穴式石室をめぐってもこの課題と関係することを扱っている。一定の成果をあげている と思っている。 古墳時代を開始したこの王権はそれほど強力なものでなく、山城地域、河内地域、摂津地域とい う畿内地域の政治集団の首長層が中心となり支えた政権である。そして、吉備地域首長層もこの政 権の中枢部に位置し、支えた王権である。竪穴式石室の基底部構造からこのことを論じたのが、こ の論文の骨子でもある第3 章である。 それ以外にも、覇権を争っていた丹後地域の地域的政治集団も帰趨が決したとみて、参画したこ とを論じたのが、第9 章であり、第 10 章である。丹後地域以西の出雲地域を中心とする山陰地方 の政治集団はこのことを良しとはしていなかったとみられる考古事象が存在している。このことを 論じたのが、第8 章に叙述した方形墳論である。 ことは、三世紀後半に起こった古墳時代開始期のことである。 安定したかにみえた初期ヤマト政権も、百年前後を経過すると、中枢政権内部も制度疲労を起こ

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し膿んできていた。新しい東アジアの政治情況に対応できる体制にはなっていなかった。 巨大な前方後円墳の築造の地が古墳時代前期後半に、大和盆地東南部の大和古墳群から、大和盆 地北部の佐紀古墳群に移動した。東アジア情勢の変化も対応するためにとった体制である。 筒形銅器と巴形銅器そして武器武具の変化を論じた田中晋作(田中2009)の論稿は秀逸であり、 福永伸哉が論じた筒形銅器・巴形銅器論文(福永2005)も良質である。 大和盆地東南部から大和盆地北部に300m クラスの巨大な前方後円墳移動した時、埋葬施設にも 大きな変化を遂げている。その内容は、高野槙を使用した刳抜式木棺(割竹形木棺)と類型的な竪 穴式石室から、特異な組合式石棺と特異な竪穴式石室を採用していることである。この埋葬施設を 採用するのは、畿内地域の山城地域であり、河内地域であり、そして、佐紀古墳群である。北部九 州の谷口古墳、関東甲信越地域の大丸山古墳にも拡散している。 この変化に連動して、刳抜式石棺(割竹形石棺・舟形石棺)を採用したのは、讃岐地域であり、 肥後地域であり、越前地域などである。丹後地域もその中に含まれるであろう。このことを論じた のが第2 章第 4 節である。 この論文の根幹は第3章である。竪穴式石室と王権が関係していることを論じた。 この論文のもうひとつの骨子である第4 章の前方後円墳の複数埋葬論も、この課題と関連し、当 時、支配階級の首長層も任意に埋葬施設を選択できた訳でなく、支配階級内部の身分制的な位置に よって、ある程度採用できる埋葬施設の種類は決められていたことを論じた。埋葬施設の構造を研 究対象とすることは、古墳時代の支配体制を解明するのに有効である視点を提供し、大方の賛意を 得ている。 佐紀古墳群から古市古墳群、百舌鳥古墳群に倭国王墓が移動する。そのとき採用されたのが兵庫 県の加古川下流域に産出地がある竜山石を利用した典型的な長持形石棺である。 古墳時代後期にも竜山石を使用した刳抜式石棺である家形石棺が有力な首長層に採用されている。 古墳の成立という大きな画期をどのような考古事象として捉えるかについては、長い研究の歴史 がある。近年は考古学の研究者も増え、資料も増加し、研究も進展している。地域におけるその時 代を解釈できる豊富な考古資料を通して古墳時代開始期論は、百家争鳴の観を呈している。しかし、 そこに研究史を踏まえた定点がある論が展開されているという状況にはなく、古墳時代開始期の把 握の仕方は、混迷し、ゆらいでいる。このことは第6 章で叙述しており、私もその中の一員である ことは第7 章でも吐露している。カギ括弧付き「古墳」という表現である。初期古墳の概念規定を 避けた表現方法である。 初期古墳という概念の設定は石野博信、寺澤薫などにおいても行なわれているが、その主な根拠 は庄内式土器の危うい暦年代と邪馬台国論を関連させた論理展開に基づいているところがある。考 古学的には危険な論の展開である。 文化伝播である稲作開始論として、従来、縄文時代晩期後半と位置づけられていた突帯紋土器を 伴う北部九州の菜畑遺跡等から稲作水田が調査によって発見され、縄文時代晩期後半を弥生時代の 早期と名称変更しようという提唱なら、まだ容認できるところもない訳ではない。この名称変更を 容認しているのではないが。

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学術用語の名称変更はもっと慎重に行なう必要がある。竪穴式石室を竪穴式石槨と変更しようと いう論にも、民族史の視点からも、研究史の視点からも、出現期古墳に長大型竪穴式石室が成立し その後の竪穴式石室の展開、変容していく姿態からはも、そう簡単に容認できるものではない。こ のことは第2 章で展開しようと考えていたが充分に論が展開していない。 ことは中央集権体制が成立する律令時代の前史であるヤマト王権の政治論である。邪馬台国の位 置論についても文献研究者の間でも解決されていない課題をアプオリ的に大和盆地東南部に求めて 論を展開している論考は危険である。 このような研究情況の中、宇垣匡雅の吉備地域における前期古墳の分析した論稿(宇垣1987)は 秀逸である。また、下條信行は西部瀬戸内地域を対象とした様式レベルで捉えた初期古墳論は良質 な論稿(下條2008)であるが、初期古墳という名称を使用する必要があったのかは解決していず疑 問である。 私は年輪年代学の成果と紀年銘鏡そして庄内式土器論を関連させた福岡澄男の年代観(福岡 2006)に近い考え方をもっている。このことは第 7 章で叙述している。 小林行雄の論は一貫している。伝世鏡論であり、同笵鏡論である 伝世鏡論では、弥生時代に舶載された後漢鏡の伝世をたち古墳に副葬することは、当時の東アジ アの古代帝国として君臨していた後漢王朝の混乱、弱体化により、中国の権威を必要とした時代が 終焉し、倭国において世襲制が確立したことに古墳時代の開始があると捉える。 三角縁神獣鏡の同笵鏡論では、大和盆地東南部に確立したヤマト王権が、地域の政治勢力に三角 縁神獣鏡の同笵鏡を配布することによって、勢力の拡大を行ったと把握する。 配布した古式の三角縁神獣鏡を魏鏡とみることに論理的矛盾がある。世襲を確立したヤマト王権 が、何故、魏鏡という中国権威に依存しなければならないかという矛盾である。そこには、魏志倭 人伝の記された邪馬台国問題が介在している。景初三年銘三角縁神獣鏡の評価にかかわることであ る。 竪穴式石室という埋葬施設は弥生時代後期後半にすでに出現している。この時期の最高位の棺・ 槨構造は木槨墓である。吉備の楯築墳丘墓であり、山陰の西谷3 号四隅突出型墳丘墓である。有力 な首長の墳丘墓の埋葬施設として採用されている。棺・槨の規模は、3.5m を超えるものはなく、 短小なタイプであり、古墳の5m を優に超える長大な竪穴式石室を採用している古墳との間には飛 躍がある。墳丘規模にも飛躍が存在しており、弥生墳丘墓の最大の規模は、楯築墳丘墓であり、約 80m であり、出現期古墳の箸墓古墳は 280m である。 弥生墳丘墓の段階では、埋葬施設の構造も墳丘形態の特徴も、範囲の広い狭いはあるが、地域性 の中に閉じこまれている。埋葬施設上に供献される土器の特徴も地域的な様式で主に構成されてお り、地域性が優先されている。 それに比して、西日本的規模であるが、前期古墳には墳丘形態、棺・槨構造、副葬品の内容に至 るまで、ある画一性な構成要素をもって出現している。そこに、古墳のもつ普遍性が認められるの であり、拠点的であっても、弥生墳丘墓の段階では認められなかった広域性をもって展開している。 そこに大きな画期が存在していると指摘できる。

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このことを地域考古学の視点で論じたのが、第5 章の阿讃地域における長大型竪穴式石室の出現 についてであり、第7 章の播磨地域の弥生墳丘墓と古墳である。対象墳墓の研究の進展により、古 墳群単位の詳細な検討の必要性を観じ、阿讃地域の雨滝山奥墳墓群の再検討を行なったのが第6 章 である 古墳出現前夜から出現期古墳への政治体制の実態を究明するには、各地域ごと、そして、そこに 展開している有力な墳墓群の詳細な研究の必要性をいま痛感している。地域から、また、ひとつの 墳墓群から古墳開始期の実態を照射するという視点である。このことによって、大和中心主義とも 言われる抽象論の古墳時代開始論からの脱出の道があるはずである。その方向性の一定の視点は、 第5 章から第 7 章において提示できたと思っている。 地域王墓の移動について論じたのが、第10 章の王権と海上交通の論稿であり、この課題を扱っ た嚆矢であると自負している。第9 章もタニワ地域のこの課題を論じたものである。 播磨地域の弥生時代の鏡を検討するば、北部九州の勢力が瀬戸内東部の揖保川下流域に政治折衝 の拠点を弥生時代後期後半に置いた可能性が高いことを龍野市白鷺山墳丘墓の箱式石棺の構造と副 葬された鏡から指摘(山本 2008)できる。 今回の論稿は、私の長い研究生活の中で発表した旧稿を出来るだけ現在の研究情況に照らし、改 稿したものである。第1 章と第 2 章は新稿であるが、この論文の骨子である第 3 章は旧論を大きく 書き改め新稿に近い。 この論文を構成している考古学の研究課題は4 つの視点からなっている。 一つ目は古墳時代前期における中枢部の政治構造の解明であり、第3 章と第 4 章で論じている。 二つ目は、列島に中心が形成された以降の地域政治集団の勢力がこの事態に如何に対応したかと いう地域考古学の視点から論じた第5 章から第 10 章の論稿である。 三つ目は地域政権の王墓の移動という課題である。倭国王墓の移動については多くの論稿がある が、地域政権の王墓が移動しているという研究方向は私のオリジナリティーである。第9 章と第 10 章でそのことを論じている。新しい研究分野であるため、充分に論が展開できていないかも知れな いが、きわめて重要な視点である。往還する墳墓という視点で今後も研究を深めていきたい課題で ある。 最後の四つ目は、政治集団がもっている支配領域の課題である。 西日本においては、古墳を生み出す体制は弥生時代後期後半の中に醸成されていると理解してい る。弥生時代中期後半以降の北部九州の奴国、伊都国等の王墓には、前漢鏡や後漢鏡が多量副葬す る勢力がある。その政治勢力は対中国に向いている。すなわち、中国の冊封体制に組み込まれてい く構造である。かつて、文献上で空白の四世紀と言われた時代は三世紀の後半から四世紀代のこと である。畿内地域を中心とする勢力が新たな思惟で列島を纏めあげることを目指した。しかし、律 令時代の用語を使用して、大和地域とか播磨地域とかを使用しているが、その実態はきわめて危う い。そのことを古墳出現前夜で論じたのが、第9 章であり、20 ㎞のエリアの中で、著しく異なる墳 丘墓が作られていることを指摘した。墳墓群単位で古墳出現前後を厳しく見直す必要性を感じてお り、第5章は、この視点で論じたものである。

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第1章 竪穴式石室の研究抄史 -問題の所在-

我が国における古墳時代の埋葬施設の研究において、1941 年に書かれた小林行雄論文は画期的で あった。 それまで、古墳研究を主導していた梅原末治の前期古墳における埋葬施設の研究成果の転換を意 図していた。 1920 年代から 1930 年代の梅原末治の古墳研究は、鬼気せまるものがあった。 『久津川古墳研究』(梅原 1920)の刊行に始まり、『因伯二國に於ける古墳の調査』(梅原 1924) が上程した。私が 38 年間勤務した兵庫県では、「神戸市夢野丸山古墳」、「神戸市板宿得能山古墳」、 「揖保郡香島村吉島古墳」を『兵庫県史跡名勝天然記念物調査報告書第 2 輯』(梅原 1925)に報告 し、続いて、『讃岐高松岩清尾山古墳の研究』(梅原 1933)を刊行している。 その後『近畿地方古墳墓の調査』を 1934 年から 1936 年の 3 年間で計 30 基の調査を行い、順次刊 行した。その時代は前期古墳から終末期の古墳に及び、近畿地方が中心であるが、岡山県 5 基、鳥 取県 2 基の古墳が含まれている。いずれも、重要な古墳ばかりでである。 そして、「本邦上代高塚の内部構造に就いて」を 1940 年に『史林』紙上に発表した。 小林行雄はその翌年に、「竪穴式石室構造論」を提示したのである。その内容は下記に記すとおり である。 以下、小林行雄の業績を基点に、前期古墳の報告書と古墳時代前半期の埋葬施設の論文を絡ませ て、研究の動向を示すことによって、問題の所在を明らかにしていきたい。 いきつくところは、古墳と大和政権の問題であり、私のことばで言えば、古墳と初期倭政権の関 係である。 第1節 小林行雄の業績(1940 年代の動向) 1940 年代は梅原末治と小林行雄の研究の相剋につきる。その後の研究をみれば、小林行雄に正鵠 があったのは明らかである。 太平洋戦争が始まった年に発表された小林行雄「竪穴式石室構造考」(小林 1941)は、本格的な 竪穴式石室の研究の出発点であり、まさに「竪穴式石室を研究する際の古典的な仕事」(都出 1986) と評価される。 小林はこの論考で、石室の長さと幅の関係を整理して、竪穴式石室を 3 つの群に分類した。すな わち、A 群は長さ 1.5~3.5m、幅 0.5~0.9m の短小な石室、B 群は長さ 5.0~8.0m、幅 1.0m 前後の長 大な石室、C 群は長さ 2.7m 前後、幅 1.5~2.0m の幅広の石室である。 そして、B 群が長大な割竹形木棺を納めた古墳時代前期の埋葬施設であること、C 群の幅広の石室 の多くが内部に石棺を納めたものであることを指摘し、長大な割竹形木棺から石棺(長持形石棺) に変遷する状況が竪穴式石室にも影響していると説き、B 群の長大な石室から C 群の幅広の石室に 変遷する現象と捉え、B 群が古く、C 群が新しいことを的確に把握していた。

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また、梅原末治が考えていた埋葬施設の構造の変遷、簡単な粘土槨から竪穴式石室に変遷(梅原 1940)するという進化論的な考え方を廃し、粘土槨が竪穴式石室の省略型であるということ、すな わち、竪穴式石室が古く、粘土槨が新しいという先後関係についても的確な解釈を導き出している。 この論考において、長大な竪穴式石室の特徴を、滋賀県安土瓢箪山古墳中央石室を例にとり、① 扁平な割石を積んで四壁を築く、②天井石を架構、③天井石を粘土で被覆する、④石室の外方に下 部ほど厚く控え積みを設ける、⑤木棺を安置する粘土棺床があり、⑥粘土棺床の周囲・下部に礫・ 板石を配する基礎構造などの要素からなると指摘している。 畿内地域において、古墳の成立とともに創案された竪穴式石室の特徴をみごとに看破していた。 すなわち、これはとりもなおさず、畿内地域における前期古墳の竪穴式石室の特性であり、とく に④から⑥の要素は畿内地域における竪穴式石室の基底部構造の特徴であり、「畿内様式」の竪穴式 石室と称しても大きな間違いはない構造的特質である。 そして、古墳前期の長大型の竪穴式石室において、⑥の要素から逆順に欠落していく現象は、主 に畿外の地域にみられる地域性の反映であり、地域における伝統的な墓制と中心地域からの墓制の 影響との調整の結果にほかならない。このことは、ある程度、時間差を反映していると捉えても大 過ないであろう。⑥~④の要素を採用している石室が古式であることはいうまでもない。 また、小林は竪穴式石室の基底構造についても言及し、A 群の石室には砂・小礫あるいは板石を 墓壙底に敷いたのみの簡単な構造であり、B 群の石室の特質でもある粘土棺床を敷置する石室とは 根本的に異なる葬法であったとする。 これらの指摘によって、B 群の長大型石室が前期古墳の埋葬施設であり、C 群の幅広型石室が長持 形石棺を内蔵する中期古墳の埋葬施設であることを的確に捉えており、A 群の短小型石室が後期古 墳の竪穴式石室であると理解していた。この論稿によって、竪穴式石室の新古の構造上における相 違が把握できるようになった。 その後、古墳の埋葬施設の調査例が著しく増え、A 群と B 群の中間型式の存在も確認され、C 群の 短小型石室が瀬戸内海地域を中心に古墳出現前の弥生後期後半から終末期の弥生墳丘墓に採用され ている竪穴式石室が存在している多くの事例が確認されており、一部に見直しも必要であるが、そ の骨子はいまでも正鵠であり生き続けている論文である。 第2節 1950 年代の研究動向 1950 年代も、梅原末治、小林行雄を中心に前期古墳の埋葬施設の研究は展開している。 小林は福岡県一貴銚子塚の研究報告(小林 1952)、大阪府松岳山古墳の報告(小林 1957)を刊行 し、三重県石山古墳の粘土槨の調査、大阪府将軍山古墳の竪穴式石室の調査等を 1950 年代に行なっ ている。 梅原は京都府寺戸大塚古墳(梅原 1955)や京都府妙見山古墳(梅原 1955)を報告している。後者 の妙見山古墳は、破壊されていく不幸な古墳を大正年間から 20 数年に及ぶ踏査し、そして、観察を 行い、難渋な交渉を通して最低限な期間の調査期日しか確保できないなか、丹念な調査で、この組 合式石棺内蔵する特異な竪穴式石室の構造を明らかにしている。

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両者は京都府椿井大塚山古墳の調査も 1953 年に行こなっている。椿井大塚山古墳も不幸な契機の もとの調査であるが、三角縁神獣鏡 34 面を出土した長大型の竪穴式石室の構造が捉えられた重要な 成果をあげている(梅原 1964) 戦後の混乱期に調査された奈良県桜井茶臼山古墳(1945~1950 年の調査)の報告書は、1961 年に 刊行されており、大阪府和泉黄金塚古墳の報告(末永、島田、森 1954)も 1950 年代の刊行である。 関東では茨城県常陸鏡塚古墳の報告(大場、佐野 1956)も刊行された。両古墳は中心埋葬に粘土 槨を採用している古墳であり、後者において佐野大和が粘土槨論をものにされている。 1959 年には、岡山県金蔵山古墳の報告書(西谷、鎌木 1959)も出版された。1965 年に西谷真治 が報告された京都府元稲荷古墳とともに 1950~1960 年代に竪穴式石室の調査報告ではきわめて秀 逸であり、石室の基底部構造もみごとに捉えられている。 1950 年代の研究成果のしめは、『世界考古学大系』の小林行雄・近藤義郎の「古墳の変遷」(小林・ 近藤 1959)であり、水野清一・小林行雄編の『図解考古学辞典』(水野・小林 1959)である。 第3節 1960~1970 年代の研究動向 この年代の竪穴式石室の研究は、小林の B 群の石室、すなわち長大型石室の研究、とりわけ基底 部の構造の形態を中心に展開した。 基底部と呼称するのは、棺を支える施設と石室壁体の基礎構築の施設を含めたものである。 竪穴式石室はこの他にも、平面形の規模や形態、石室横断面の形状を規制する壁体部および控え 積みの手法、天井部の構造、使用する石材の種類を含めた総体の関係を有機的に捉えて類型化する ことが必要である。 竪穴式石室の発掘調査がそのすべてに及んでいる事例がそれほど多くない。最近では使用石材の 研究や控え積みの構造まで解明している調査例が増えてきている。そして、その総合化の研究(三 木 1995、岡林 2008・2009)もみられるようなってきた。 翻って、基底部の構造に関しては、長い研究の蓄積がある。また、基底部の構造には地域性や時 間的な変化の特性がよく表れており、これを分類し、類型化することは竪穴式石室を研究する上で 有効な手段である。とくに、後述する長大型石室Ⅰ-a 群は 畿内地域の大王墳を含む有力な首長墳 に多く採用される型式であり、そこに地域性や系統差や時間差が認められ、古墳時代前期の政治動 向を論じるひとつの有効な研究対象である。 基底部構造を分類し、類型化した研究がすでに多く発表されている。 1960 年代における古墳前期の埋葬施設の構造を解明した功績の第一人者は北野耕平である。『河 内における古墳の調査』の中で「前期古墳における内部構造の問題」という論文(北野 1964)で、 小林行雄の B 群(長大型石室)の畿内地域の詳細な検討のもと、石室基底部構造に地域性があるこ とを指摘した。 そして、北野(北野 1974)は、石室の基底部構造を、①基台式、②礫敷式、③粘土棺床直接式、 ④板・礫式、⑤周溝式の 5 型式に分類し、地域性と編年上の問題を論じた。地域性については、③ 粘土棺床直接式が摂津地域に主に分布することから摂津型と捉え、①基台式は河内地域を中心に分

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布すること、⑤周溝式は桂川右岸の山城地域に多い型式であると指摘した。編年的には①が②に先 行し、粘土棺床直接式は基台式・周溝式よりも遅れて出現するとし、諸型式の成立を多元的に出現 し、発展するものと解釈した。 同じ 1964 年に、堅田直も、竪穴式石室の基底部構造に着目し、第 1 類を板石敷粘土棺床、第 2 類を地山上粘土棺床、第 3 類は粘土を積み上げた粘土棺床という 3 類に分類し、この分類が時間差 を反映していると捉え、第 1 類から第 3 類の変遷(堅田 1964)を考えた。 田中勝弘は、基底部構造と石室横断面の形状から竪穴式石室を A・B・C の 3 類型(田中 1973)に 分けた。田中の分類を基底部構造から北野の呼称に合わせば、A 類型は粘土棺床直接式に、B 類型は 礫敷式に、C 類型は基台式に相当する。田中はこうした型式変化を排水施設の発達という視点で捉 え、入念な排水施設を配備した基台式を新しく出現する型式と捉えた。この進化論的な考え方のも と特殊器台形埴輪をもつ元稲荷古墳を C 類型の竪穴式石室として新しく位置づけたことから、その 変遷観が他の研究と齟齬をきたしている。 第4節 1980~1990 年代の研究動向 都出比呂志は、粘土棺床の設置方法から基底部構造をSA1 型式、SA2 型式、SB 型式、SC 型式 の 4 型式に区分(都出 1979、1981)した。SA1 型式は北野分類の④板・礫式と③粘土棺床直接式を 一括して型式設定を行っており、前者をSA1 型式―1、後者をSA1 型式―2 に細分している。SA2 型式は①基台式に、SB 型式は②礫敷式にほぼ相当するが、SB 型式も 2 分し、平坦な墓壙底に礫石 を敷き礫石上に粘土棺床を設置するものをSB 型式―1、墓壙底の四周に溝をめぐらすものをSB 型式―2とした。また、都出は同弁天山 C1 号墳後円部石室をSC 型式と設定し、最も新しく出現す る構造と捉えた。 その後、『竪穴式石室の地域性の研究』(都出 1986)では、竪穴式石室の列島規模の集成を行い、 それに基づいて、埋葬頭位や平面形の比較等から前期古墳の地域性を論じている。この論稿によっ て竪穴式石室研究の方向性の転換を主導した。基底部構造を分類の基準にしなかった理由を、列島 規模での研究を行うには、「過去の多くの調査例が必ずしも、この点を正確に解明していないために、 比較研究に資料的なムラが生じるためである。」と叙述する。 筆者は北野の視点に基づいて基底部の構造を分析してきた。山本 1980 の論文では、畿内地域の古 墳時代前期の政治動向を究明するために基底部構造を分析することが有効な手段であるとの思考の もとで検討してきた。基底部構造を A 型~D型の類型化し、畿内地域の中における普遍性のなかに おける地域性と系統差を論じた。 北野の分類との関係は、A 型は④板・礫敷式に近く、B 型は①基台式、C 型は②礫敷式、D型は③ 粘土棺床直接式に相当する。この段階では、都出分類のSC 型式は設定していず、都出がSC 型式の 代表例と捉えた弁天山 C1 号墳後円部石室を、摂津地域の古墳であり、前方部の粘土槨の構造が、摂 津地域の地域性を表わす石室D型式の石室基底部構造と対応する粘土槨D型式(山本 1983)である ことから、摂津地域の地域性を端的に表現している石室D型式の基底部構造の後出的要素とともに その変容する姿態であると捉えた。この考えは後の論稿(1992)では都出のSA 型式を採り入れE

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型を設定し、変更している。 新納泉は、基台をもたないグループを A 類(筆者の石室 C 型式)、基台をもつグループを B 類(筆 者の石室 B 型式)とし、両群を A1・A2・A3、B1・B2・B3 と細分した。そして、石室の基底部構造の 変遷過程をⅠ~Ⅳの 4 段階に分け、Ⅰ段階の椿井大塚山古墳を基点に A・B 群へと派生し、A1~A3、 B1~B3 の順に型式変化したとその変遷過程を系統的に理解した(新納 1991)。その着眼点は、粘土 棺床と壁体構築の開始位置の変化という分析視点を導入したことにある。 その視点は、A 群の竪穴式石室の基底部構造では、壁体構築位置が粘土棺床との関係において、 順に高い位置に変化していくことは、実に整合的である。しかし、B 群では、新納がⅡ段階とする 京都府元稲荷古墳が粘土棺床の肩部に壁体最下段石が位置しており、矛盾を露呈している。新納は そのことを理解しており、「壁体を構築し始める位置についても、両系統のあり方を異にしているた めに、単純に比較できない。」と矛盾点の解決に至る論理過程を回避している。 この論稿において、基底部の板石の使用が竪穴式石室の新古の関係を表現していること、基底部 の礫石の使用に関しても粘土棺床の下部・四周に敷かれる礫石が新しい時期の石室になるほど多量 の礫石を用いていること、粘土棺床についても石室幅に対して両端を大きく広がる方向で発達して いることを解明しており、その指摘は正鵠を射ている。 しかし、長大型の竪穴式石室の成立時期からの地域性の視点を重視すれば、違った展開になった はずである。彼の視点は A 群の石室にのみ当て嵌まるが、畿内地域の大形古墳に採用される竪穴式 石室の原理的意味の政治動向論を展開する視点がみえていないことに課題があるのであろう。 新納の視点は、藤井康隆に引き継がれていく(藤井 1999)。 「竪穴系の埋葬施設」(山本 1992)では、墓壙底中央を U 字形に掘り込む型式を都出の見解を取 り入れ、E型式と類型化し、E型式における粘土棺床の設置手法の違いにより、E1 型式とE2 型式 に細分した。E1 型式は粘土棺床下に板石・礫石を敷くもので、E2 型式は U 字形の墓壙底に直接粘 土棺床を設置するもものである。 また、北野の⑤周溝式の設定の問題を検討していくなかで、B 型式・C 型式も細分する必要がある と考えるに至った。周溝式は、元稲荷古墳後円部石室、寺戸大塚古墳後円部石室、鳥居前古墳後円 部石室という山城地域のある前方後円墳に採用された墓壙底四周隅に排水機能を持たせるために造 り出したもので、粘土棺床の設置とは関連するものではない。都出が指摘(都出 1981)するごとく、 他の型式分類と異なる基準で形式設定しており、分類基準の整理が必要である。筆者も以前から周 溝式の型式設定をしておらず、都出の指摘は当を得ているものと判断している。 しかし、周溝式が山城地域に顕著にみられる特徴であり、山本分類の B 型式、C 型式が、河内地 域と山城地域に採用される竪穴式石室の基底部構造であることを考慮すると、周溝式も無視し得な い。北野の竪穴式石室にみられる地域性の視点は重要であり、墓壙底周囲に幅の狭い周溝を掘るも のは、山本分類の B 型式、C 型式に認められことから、周溝を造りだすものを B1 型式、C1 型式と、 周溝のないものを B2 型式、C2 型式と細分した。前者が山城地域の地域性を、後者が河内地域の地 域性を示していることは北野の推論のとおりである。 摂津地域に顕著に分布するD型式の石室基底部構造とは鮮やかな対照をなし、そこに古墳時代前

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期の政治的緊張を読み取らざるを得ないであろう。 以上の研究は、いずれも、そのほとんどを畿内地域の前期古墳の竪穴式石室を対象としており、 後述する長大型石室Ⅰ-a 群の竪穴式石室における基底部構造の型式分類である。 宇垣匡雄は吉備地域の竪穴式石室を対象に研究の方向転換を計った。 宇垣は、吉備地域の資料を中心に、弥生墳丘墓と前期古墳に採用されている竪穴式石室の構造と 使用石材の両者の比較と分析を行い、良質な研究成果(宇垣 1987)をあげている。 宇垣は両者の本質が、納棺の設置時期の違いがあると捉える。そして、「弥生墳丘墓の竪穴式石室 は墳丘築成に先立って」構築され、「石室が完成して後に棺が納められ、その後に墳丘が完成」する と観る。それに対し、「前期古墳では墳丘がほぼ完成した段階において墓壙の掘削がなされ、棺の納 置後に石室に完成し、墳丘が完成」されていると把握し、墳丘の築成との関係についても正鵠を射 た指摘を行っている。 そして、両者には石室の規模の差があることを指摘し、前期古墳が遠隔地から石材が搬入されて いることを解き、弥生墳丘墓の竪穴式石室の壁体には内傾するものがなく、控え積みも施工されて いないことなどを指摘している。 それ以上に大きな成果は、吉備地域における古墳時代前期前半の前方後円墳の用いられている竪 穴式石室石材と特殊器台埴輪からみた考察である。 弥生時代後期後半からの吉備地域起源の首長墓に採用される特殊器台形土器・特殊壺形土器から 発展してきた特殊器台埴輪・特殊壺形埴輪が吉備地域の多くの古墳時代前期前半の首長墳 に採用さ れていることは広く知られている事実である。列島内のどこの地域よりもその採用古墳は多い。次 に多いのが大和地域の首長墳である。 そのことと、吉備地域における古墳時代前期前半の首長墳 の前方後円墳に採用される竪穴式石室 石材が遠隔地の讃岐地域から搬入された古銅輝石安山岩であることを丹念な現地調査から導き、そ の関係をみごとに整理している。 その関係は、①古銅輝石安山岩と特殊器台埴輪を採用するグループと、②特殊器台埴輪を採用す るが竪穴式石室石材には古銅輝石安山岩を採用しないグループ、そいて、③その両者とも採用しな い備前車塚古墳である。 ①が優位なグループであることは古墳の規模からみて明らかである。このグループには、前期前 半では、吉備地域最大の前方後円墳である浦間茶臼山古墳(138m)を初め、網浜茶臼山古墳(前方 後円墳、92m)、70m 級の前方後円墳 2 基、50m 級の前方後方墳 1 基、40m 級の前方後方墳 1 基が知ら れている。古銅輝石安山岩と特殊器台埴輪を採用するという強い紐帯で結ばれた「吉備南部の首長 連合」の指導部の表徴であったとみることができる。②のグループは 50 級の前方後円墳 1 基と 30m 級の前方後方墳 1 基が知られている。③のグループは三角縁神獣鏡 11 面を副葬していた墳長 48m の前方後方墳の備前車塚古墳(前方後方墳、墳長 48m)が知られているのみで、周辺で産出する砂 質岩、泥質岩互層の角礫が使用されていると指摘する。 前期後半には、竪穴式石室の石材に古銅輝石安山岩を採用する古墳が減少し、前述した①のグル ープにみられたヒエラルキッシュな政治関係は認められないと捉える。

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第5節 2000 年代の研究動向 鐘方正樹は埴輪研究の成果を成し遂げた後、その成果を引き提げて、古墳時代前期の埋葬施設の ことを論じ始めた。2003 年に「竪穴式石槨出現の意義」(鐘方 2003a)の論稿では、竪穴式石槨は中 国の磚室墓を参考にして、奈良盆地東南部で創出された埋葬施設であり、竪穴式石槨は弥生系の竪 穴式石槨の系譜をひいて出現したものではないと論断する。長大型の竪穴式石槨は「木槨から竪穴 式石槨へ」という章を設けて、弥生時代後期後葉から弥生時代終末期においては、岡山県楯築墳丘 墓が象徴的に示すように、木槨墓が列島内では最高位の埋葬施設であるという認識のもとで木槨墓 の詳細な検討を行いそのことを論証している。飛躍は禁じ得ないが、都出が埋葬頭位からみた中国 思想の影響(都出 1986)と通底しているところがある。 経緯は異なるのであるが、後述する岡林孝作も彼が発掘調査を担当した奈良県ホケノ山墳丘墓の 「石囲い木槨墓」から長大型竪穴式石室が出現する(岡林 2009)と捉えている。 鐘方が同じ年に発表した「竪穴式石槨基底部構造の再検討」」(鐘方 2003b)では、都出が北野、 田中、山本が、玉手山 5 号墳とともに玉手山古墳群の中ではその基台式の代表例として把握してい た河内地域の大阪府北玉山古墳(玉手山 10 号墳)を以下の理由によって、礫敷式の範疇に捉えてい ることに異を唱えるのである。 都出は、北玉山古墳を「土壇の上に直接粘土棺床を設置するのではなく、「土壇」の上にも礫を敷 いている上に、礫敷の上に置かれた粘土棺床の横幅は、「土壇」の幅とは無関係に広く作られている ことから、この「土壇」は粘土棺床を設置するための基台と考えるよりも、寺戸大塚古墳などにお いてみられる構造の違いにより、礫敷式と理解している。 その後、この見解は、その後の竪穴式石室の研究に大きな影響を及ぼしている。 新納は北玉山古墳の基台を「棺を支える機能が崩壊」した石室基底部構造であると捉えている。 三木弘もこの見解を踏襲し、竪穴式石室基底部構造の型式から基台式を排除(三木 1992)している。 そこで、鐘方は、斬新な観察視点から、古墳時代前期の竪穴式石室基底部構造には「礫被覆基台」 と「礫盛り上げ基台」があると分析する。礫被覆基台には、玉手山 9 号墳、北玉山古墳、玉手山 5 号墳などの事例をあげる。礫盛り上げ基台には、京都府椿井大塚山古墳、滋賀県安土瓢箪山古墳、 大阪府駒ケ谷古墳、大分県免ケ平古墳などの事例をあげる。そして、基台式の概念規定を「墓壙底 中央に粘土棺床設置のための基礎となる高まりを構築する」という点に置き、基台式の新しい概念 規定を提唱する。新概念からみれば、多くの代表的な竪穴式石室の基底部構造は、鐘方が類型化す る「Ⅱ類の一部を除く ほとんどが粘土棺床下に基台もしくはそれに類する施設を構築している」 という。まさに、斬新な把握手法であるが、実際の観察では著しい困難を伴う。そこをどう解消 していくかが課題である。独断に陥りやすい要素を多分に内包しているところである。 次に、類型化に挑戦し、「墓壙底の形状を横軸に、基底部構造を縦軸に」模式化を行い、12 類型 を設定する。その基準は、礫被覆基台と「土壇基礎」をもつものを A1 型とし、「凸面基礎」をもつ もの A2 型と分類し、礫盛り上げ基台を B 型、U 字形に掘り込む棺床施設を造り出すものを C 型と類 型化し、その細分を行っている。 高松雅文(高松 2005)は、竪穴式石室の横断面形態に着目し、新しい研究視点を提示した。

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竪穴式石室の横断面の形態には、垂直系統と持ち送り系統の壁体構造があると指摘し、竪穴式石 室の出現期からその両者が併存していると捉える。そして、石室の高さと幅の高幅比からⅠ型式か らⅢ型式が存在するとし、Ⅰ型式からⅢ型式に変遷するに従い漸次高さが減少していくと解く。Ⅰ・ Ⅱ型式は a、b と細分している。 両者のそれぞれの高幅比からみた併行関係を論じ、両者の階層差についても言及し、垂直系統が 墳丘規模の検討から優位であると解く。 高松論文にも高幅比の普遍性を説くが、竪穴式石室の重要な要素である地域性の意味するところ には言及されていない。 岡林孝作(岡林 2008、2009)は、竪穴式石室がその出現から典型的な石室の完成まで、石室構築 材の使用法に明確な変化を読み取り、変化の方向性をあとづけることが、竪穴式石室の祖系の問題 により踏み込んだ議論ができるという理解のもとに、木槨墓から竪穴式石室墓への変遷を説く。 竪穴式石室の総体的な機能が、被葬者の遺体の保護を目的とする防排水システムへの整備過程と 捉える。そして、防水施設である石材被覆への着目や粘土被覆の手法に新たらし視点を導入し、奈 良県ホケノ山墳丘墓の「石囲い木槨」から同県黒塚古墳→同県下池山古墳の変遷を解いている。 そして、彼の研究の画期的なところは、竪穴式石室の上部構造、壁体構造、基底部構造を総合的 に捉えて、竪穴式石室Ⅰ群からⅢ群とグループ分けを行い、各群の特質とその変遷過程を西日本的 規模で捉えたことにある。それまで、基底部構造の分析に重きを置いてきた竪穴式石室の研究に方 向転換の必要性を示したことにある。 しかし、上部構造、壁体構造、基底部構造の採用にあったても各古墳には地域性があり、地域の 中においても各古墳に個性的なところが看取される。それは、時間差が反映されている可能性が高 いのであるが。そして、そのことが前期倭王権の中心である大和地域の 200m を超える巨大前方後方 墳とその王権を支えた河内地域や山城地域、播磨地域の 100m 前後の前方後(方)墳の築造の政治的 意味論についての言及が欲しいところである。摂津地域はこの王権構造に参画していたが、絶えず 緊張関係のもとでの関係と私は捉えている。 奈良県立考古学研究所が大和古墳群調査委員会を組織し、同研究所が 1993~2000 にわって発掘調 査された中山大塚古墳、下池山古墳、黒塚古墳、ホケノ山墳丘墓の調査は前期古墳の諸問題の解明 に大きな成果をあげた。

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第2章 長大型竪穴式石室の出現と変容

第1節 長大型竪穴式石室出現前夜 弥生時代後期後半の最高位の埋葬施設は、木槨墓であった。 吉備地域では、墳丘長 80m の双方中円形墳丘墓である楯築墳丘墓が、木槨墓を採用している。木 槨の規模は、長さ 3.6m、幅 1.5m、高さ 1.0m である。この時期、墳丘規模と埋葬施設の規模は列島 内においても傑出している。しかし、継続しない。 同時期の黒宮大塚墳丘墓は、長方形墳丘墓で長辺の長さ 37m である。黒宮大塚墳丘墓は短小型の 竪穴式石室を埋葬施設として採用している。石室規模は長さ 2.2m、幅 0.9m、高さ 0.7m である。こ の時期、竪穴式石室は木槨墓の下位に位置づけられている埋葬施設であった。ただし、継続してお り、弥生時代終末期、まさに古墳出現前夜まで継続している埋葬施設である。その例が、矢藤治山 墳丘墓であり、宮山墳丘墓であり、両者とも前方後円形墳丘墓である。その墳丘規模は 36m と 39m である。石室規模は両者と長さ 2.7m、幅 1.0m である。黒宮大塚墳丘墓石室より、若干長さは増し ている。 出雲地域も弥生時代後期後半の最高位の埋葬施設は木槨墓である。西谷 3 号四隅突出型墳丘墓で ある。出雲・伯耆・因幡地域のナンバー2 以下の四隅突出型墳丘墓に採用される埋葬施設は組合式 木棺(箱式木棺)である。 丹後地域では、今井赤坂墳丘墓に象徴されるように、刳抜式木棺(舟底形木棺)の直葬が最高位 の埋葬施設である。 弥生時代の墳丘墓と古墳時代の古墳を分別する要素は、どのような考古事象をいうのであろう。 私は、首長墓に採用される三角縁神獣鏡の副葬の開始と長大型竪穴式石室の成立をその指標と捉え ている。 ここで、弥生墳丘墓と古墳の定義がいかに行なわれてきたかみておきたい。 周溝墓と墳丘墓と古墳いう学術用語は、日本考古学では、時代区分論とも密接不離に関係してい る。研究史をひも解けば、周溝墓と墳丘墓は弥生時代墓制の種類の与えられた名称であり、古墳は 古墳時代の墓制の名称である。 古墳とは、きわめて政治的な記念物であり、前方後円墳が古墳の代表かつ典型(近藤 1983)であ る。定型化した前方後円墳の出現をもって古墳時代の開始であると捉えることに異論は多くない。 その歴史的な評価は、支配階級の政治的な身分秩序の成立(都出 1991)であると解されている。 言い換えるならば、古代中国文献に記載されている「倭国」というエリアの中で、中心が形成され、 地方首長との間に、広域的な首長の序列が形成されたと言えるであろう。都出比呂志はそのことを 捉え、「前方後円墳体制」(都出 1991)と提唱し、「初期国家」と捉えるべきであると首唱する。 マックス・ウェバー、カール・マルクス、エンゲルス以来の国家の規定とも関連し、国家という 用語の使用には慎重な配慮が必要であるという意見も古代史の文献研究者を中心として提出されて いる。

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多くの考古学研究者が、墳丘長 276m の奈良県箸墓古墳(箸中山古墳)の築造を契機として、古墳 時代が始まると捉えている。異論もある。その代表的な論者は、石野博信(石野 1985・2002)であ り、寺澤薫(寺澤 2000)である。その追随者も多くなっている傾向にある。筆者は同意し難いとこ ろが多くあり、追随していない。 周溝墓、台状墓、墳丘墓と区別して、分類・呼称されていた近畿地方を中心とする弥生時代の墓 制を、いずれも盛土(封土)に重きを成しているのであるから、墳丘墓として統一しようという都 出比呂志の提唱以来、多くの研究者に受け入られているのが今日的状況である。 筆者は集落の位置関係や立地の違いから、周溝墓と墳丘墓は区別する立場をこの 30 年来堅持して いる。ときには、台状墓という呼称も使用している。 周溝墓、台状墓、墳丘墓の違いを指摘されたのは、近藤義郎である。氏は主に周溝によって墓域 を区画している弥生時代の墳墓を周溝墓と捉え、丘陵尾根状に立地する墳墓で、墳丘を主に盛土に よって形成することなく、丘陵の基盤を掘削・成形することによって、墳丘を形造る墳墓を台状墓 と、そして、立地に関係なく盛土をもって墳丘を形成する墳墓を墳丘墓と把握(近藤 1977)してい る。 私は、墳丘の形成手法の違いによる近藤義郎の視点とは異なり、集落と墳墓の位置関係に重きを おいて、周溝墓と墳丘墓は区別する立場を採っている。 周溝墓は、近畿地方では弥生時代前期には出現している。基本的には、弥生時代中期末の拠点的 集落が解体するまでの有力な世帯共同体層の一般的な墓制であると理解できる。その選地は、主に、 集落の立地と同じ低地に築かれ、集落の居住地に隣接した一画に墓域を設定している。方形周溝墓 と円形周溝墓が基本である。畿内地域では圧倒的に方形周溝墓が主流であるが、播磨地域や讃岐地 域では円形周溝墓も一定程度築かれている。 弥生後期後半から終末期には、突出部をもつ形態の周溝墓も出現してくる。この現象は吉備地域 などの瀬戸内地域で発達した墳丘墓からの影響とみられる。 弥生時代前期後半の兵庫県東武庫遺跡例をみれば、沖積地に立地する集落の一画に墓地が形成さ れている景観を呈する。平面の形態は方形を呈し、22 基の方形周溝墓が確認されている。調査外に も築かれていることは確実で、22 基以上の周溝墓が密集、群集している状態と捉えられる。規模を みれば、大・中・小と 3 分類できる。小規模なものは 8 号墓の 3.3×3・5m で、大きいものは 10 号 墓の 14.0×12.3m、そして 15 号墓の 8.5×16.0m である。面積では、10 号墓が最大で、8 号墓の約 15 倍の面積を有する。このことを捉えて有力家族の間にも階層差があるとみるのかは、当時の社会 体制の究明とともに、今後の検討が必要であると思考している。 埋葬施設は大きい 9・10・15 号墓では確認されておらず、中規模な周溝墓には高野槇製の組合式 木棺の直葬が確認されている。これは、大形の周溝墓には盛土が高く、後世の削平によって埋葬施 設が削りとられた結果にほかならない。このことは、大きい周溝墓は、中・小規模の周溝墓よりも 墳丘が高かったと解釈できる。 北部九州地域からの初期農耕文化の伝播は、瀬戸内海の各海上交通の要所からリレー式に伝播し てきたが、弥生時代前期後半の第二次弥生文化の伝播は、リレー式伝播ではなく、前段階の交流の

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