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余論―西求女塚古墳と内場山墳丘墓の埋葬施設の比較―

第7章 埋葬施設からみた弥生墳丘墓と前期古墳 -播磨地域の事例研究 -

第7節 余論―西求女塚古墳と内場山墳丘墓の埋葬施設の比較―

考古学の世界では、大王墓の移動論(白石 2000)は様々に論じられているのに、門脇禎二氏が提 唱されていた「地域国家」や「地域王国」(門脇 2000)の王墓が移動する場合があることを、何故、

等閑視されていたのであろう。

筆者は「王権と海上交通・序説―大阪湾と播磨灘に面する古墳を中心に―」(山本 1998)をまと めていたときから、この課題につきまとわれていた。小論の発表直後のある研究会で、福岡澄男、

藤田憲司、和田晴吾という友人の各氏に、前述の小論に書き得なかった想いを話した。その想いと は、「西求女塚古墳が丹後地域の王墓の可能性が高いのでは」ということである。三氏の反応は、す ぐに「却下」であった。言外に何をアホなことを考えているのだという雰囲気であった。

それから、この課題は封印していた。

9年後に、「タニワ(兵庫)の長刀と墳墓」の発表を依頼されたとき、内場山墳丘墓を検討してい るうちに、再び、地域国家の王墓の移動が沸々と沸き起こってきた。今回は弥生時代の王墓の移動 である。

そして、第 24 図を作成して、その類似に驚いている。でも不思議な比較図である。

西求女塚古墳は摂津地域の出現期古墳で、墳長約 95m の前方後方墳である。内場山墳丘墓は丹波 地域に弥生時代終末期の長辺 21.6m、短辺 19.5m の方形墓である。前者の埋葬施設は竪穴式石室で あり、後者の中心埋葬 SX10 は舟底形木棺の可能性が高い木棺直葬の埋葬施設である。

西求女塚古墳からは三角縁神獣鏡7面、神人龍虎鏡1面、画文帯神獣鏡2面、半肉彫獣帯鏡2面 の計 12 面もの多くの舶載鏡が副葬されており、内場山墳丘墓の埋葬施設からは鏡は一面も副葬され ていないが、中心埋葬 SX10 からは全長 93.5cm の素環頭太刀と同型式の鑿頭式鉄鏃が 17 本も副葬さ れていた。素環頭太刀は弥生時代のものとしては最大級の長刀の秀品で、舶載品であろう。

このように、墳墓の内容が大きく異なる弥生墳丘墓と出現期古墳(Ⅲ-1 段階)の埋葬施設の比較 検討を想い至ったのは、遺物内容や複数埋葬のあり方から、両者の披葬者が丹後地域の王の出自で ある可能性がきわめて高いという筆者の推論(山本 2007)による。

比較するとその類似に驚いているのであるが、そこには飛躍がある。その飛躍とは、内湯山墳丘 墓における中心埋葬 SX10 の木棺部分の構造が、西求女塚古墳の竪穴式石室の基底部構造に採用され ているごとくに捉えられることにある。

本質論的に種類の異なる埋葬施設の部分を比較して、類似するという推論は無理があるのではな いかという批判を研究発表時に受けている。そのとき、両者の被葬者が、自分達の故事来歴を間違 ってくれては困るという声を聞いたのだと、鰯の頭も信心というような宗教的感覚で逃げた。このこ との当否は、遺物内容や副葬埋葬のあり方の解釈にかかっており、今後の新たな研究法の導入の視 点等が必要であろうが、筆者の鉄鏃型式や土器型式を検討したところではその可能性がきわめて高 い。このことが、丹後地域に網野銚子山古墳、神明山古墳という 200m クラスの巨大な前方後円墳 2 基を築かせ、墳長 145m という大規模な蛭子山古墳という丹後地域の古墳前期三大前方後円墳を築造 された遠因にほかならない。

出現期古墳の前方後円(方)墳に採用される長大型竪穴式石室の基底部構造をみれば、いくつか の類型が地域性をもってすでに存在している。

西求女塚古墳の副葬鏡と同じく古式の三角縁神獣鏡、福永伸哉氏がいうA・B段階の三角縁神獣 鏡(福永 2005)を出土した古墳で、竪穴式石室が調査され、その内容が判る古墳として次の諸例が ある。兵車県吉島古墳、兵庫県権現山 51 号墳、奈良県黒塚古墳、滋賀県雪野山古墳である。

これらの竪穴式石室の墓壙の形状をみれば、吉島古墳と他の三古墳は異なる。吉島古墳は墓壙底 中央をU字形に掘り込んでいるのに対し、三古墳は墓壙底四周を少し掘り下げ、墓壙底中央に低い 台形の基台を造り出している。他に、三角縁神獣鏡を出土していないが、特殊器台形埴輪や特殊壺 形埴輪の存在から西求女塚古墳と同時期の築造と捉えられる岡山県・都月1号墳は平坦な墓壙底で ある。

すでに出現期古墳の段階から墓壙の形状をみても三形態が存在していることが判り、地域性をも ってと前述したことはこのことを指している。

これらの諸古墳の中では、西求女塚古墳の竪穴式石室はきわめて特異な構造である。特異な構造 のひとつは、石室内に仕切り石を立て、主室と遺物埋納用の副室を設けていることであり、最古段 階の竪穴式石室としては希有な存在である。ふたつ目は、墓壙は下部で二段墓壙状に大きく掘り窪 め、そこに厚く礫石を充填し、礫石上に平坦な粘土棺床を設置している。粘土棺床の途切れから北 側にも仕切の施設が存在していたと推測することができる。そして、平坦な粘土棺床からは割竹形 木棺は採用されておらず、組合式木棺を想定せざるを得ないことである。

また、石室上部からは山陰系土器群で構成された供献祭祀を行っていることも注目される。

このような西求女塚古墳の特異な竪穴式石室の構造は、その以前にもみられず、その後にも発展 して行かない。

それに比較して、黒塚古墳・権現山 51 号墳、雪野山古墳は、岡林孝作がI群主グループ(岡林 2009)と捉えられ、その後の畿内地域の竪穴式石室の基底部構造として大きく発展していく構造で ある。

吉島古墳の墓壙底をU字形に掘り込む型式は、吉島古墳以前の徳島県・西山谷墳丘基や香川県・

奥 14 号墳丘墓にすでに出現しており、その後も三角縁神獣鏡は副葬されていないが、出現期古墳と 捉えられる吉備地域の七つグロ古墳にも採用されており、その後も京都府・平尾城山古墳や大阪府・

弁天山 C1 号墳などに拡がり発展していく構造である。

平坦な墓壙底をもつものも、平坦な墓壙底に粘土棺床を設置し竪穴式石室を構築していく手法は 主に摂津地域の基底部構造の特徴としてつながっていく可能性が高い。

以上、みてきたように西求女塚古墳の特異な構造が、内場山墳丘墓の埋葬施設と関連していると 推定している理由である。

(図出典)

第1・2図 各報告書等から山本作成。

第3図 個々の墳形図は岸本道昭 2000 文献のものを用いて山本が作成した。

第4図 『加古川市史』第 1・4 巻と『三木市史』および山本 2008 から作成。

第5回 『龍野市史』第 4 巻から作成。鏡の写真撮影と実測図作成は山本。

第6回 佐用郡教委 1999 文献から作成。

第7回 上郡町教委 1996 文献から作成。

第8図 御津町教委 2005 文献から作成。

第9図 山本作成

第 10 図 龍野市教委 1996 文献に拠る。

第 11 図 近藤議榔 1983 文献に拠る。

第 12 図 御津町教委 2005 文献から作成。

第 13 図 真野 1983 文献から作成。

第 14 図 安田・山本 1988 文献から作成。

第 15 図 揖保川町教委 1985 文献から作成。

第 16 図 権現山 51 号刊行会 1991 文献から作成。

第 17 図 近藤義郎編 1985 文献から作成。

第 18 図 『加古川市史』第 1・4 巻から作成。

第 19 図 北山惇 1989 文献から作成。

第 20 図 櫃本 2001 文献に拠る。

第 21 図 岸本道昭 2000 文献から作成。

第 22・23 図 古瀬 1985 文献から作成。

第 24 図 山本 2007 に拠る。

第 25 図 山本 2007 に拠る。

第 26 図 山本 1998 を改変して作成。

第 27 図 兵庫県教委 1993 文献と神戸市教委 2004 文献から作成。