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竪穴式石室の基底部構造の機能とその意義

第3章 畿内地域の竪穴式石室の研究―古墳時代前期の政治動向―

第1節 竪穴式石室の基底部構造の機能とその意義

前期古墳における竪穴式石室の基底部構造が研究の対象として注意され始めたのは、1964 年の北 野耕平の論稿(北野 1964)からではないかと考えられる。それまでにも古墳前期の竪穴式石室の構 造を詳細に解明したいくつかの調査例がある。

筆者も古墳前期の竪穴式石室の構造を論じるのに際し、基底部構造を明らかにすることが、古墳 時代の首長間の政治動向を探る有効な手段であろうと考えている。まず、基底部構造の機能や設置 目的について、これまでの考え方を整理しておきたい。

1964 年に、北野耕平は河内地域の玉手山と松岡山の両古墳群の発掘調査で得られた知見に基づき、

竪穴式石室の基底部構造が類型化できることを指摘された。その論稿の中で、排水溝の掘削と礫石 の充填を必備とした基底部構造の採用は、機能的な性質から考えて墳丘の内部施設に対する排湿を 考慮してのことであるとされる。その発生の契機については将来の研究の課題であるとされた。

その後、北野は再び、石室基底部構造諸類型の地域的分布を検討し、その成立を畿内各地で多元 的に発展するもの(北野 1967)であろうと捉えられた。その論拠として、基底部構造が「構築され たのちは全く人目に触れる機会がない」ということから基底部構造の諸類型の成立は「複雑な墓制 の一体系として厳格に踏襲される必要」のために「宗教的加飾」を要求される「秘伝的要素」が強 く働いていると考えられた。すなわち、基底部構造の発生契機を儀礼的な行為の必要性に基づくも のと理解されている。

同年、勝部明生は前期古墳の木棺の観察を通じて、基底部構造に意義を遺体・木棺の保護のため の排水施設と理解(勝部 1967)された。

1973 年に「前期古墳の竪穴式石室構造について」という論考(田中 1973)を発表された田中勝弘 は、勝部の見解を踏襲し、基底部構造は木棺・遺体を保護するための耐湿・排水に対する工夫から 生じたものとされる。

1976 年に春成秀爾は、古墳とは本来即位式の場であるという理解のもとで竪穴式石室内における 祭式過程を復原する。そこでは壁体構築以前の木棺内で、亡き首長と仮首長との間に「首長霊継承 の交感の秘儀」が実修されたと想定されている。木棺を安置した基底部構造上で、首長霊継承の重 要な儀礼行為が実修されたという今までにない斬新な復原(春成 1976)を試みられた。

以上のような研究史から、墓壙底の凹溝および礫石、粘土棺床から構成される石室基底部構造が、

排水機能をもつものであろうとすることでは意見の一致をみている。ただ、排水機能の果たす目的 が、木棺・遺体の保護であるという考え方と、首長霊が継承される祭式の場であり、式場整備の施 設であるという考え方の二つに分かれている。

筆者は後者の考えに立つもので、埋葬施設の構築過程の事例に沿って検討してみたい。

まず、基本的な竪穴式石室の構築過程を復原すると、(1)墓壙の掘削―(2)基底部の構築(註1)

―(3)木棺安置―(4)壁体部の構築―(5)天井石部の構築―(6)墓壙埋土という順に行われている。な お、墓壙掘削以前に墳丘は完成していなければならない。以前とは首長の在世中に築かれていたと 捉えている。古墳の選地場所の決定、山林伐採、山焼きから一定の設計に基づいた墳丘の築成、膨 大な量を必要とする葺石の貼付けなどは、首長の死に際して始めていたら数年以上の歳月が必要で あろう。本来、古墳は首長権継承儀礼の場として出現していたとすれば、このような事態は極力さ けなければならない(註2)。

また、前期前方後円墳の埋葬施設の墓壙は盛土上から掘削されることが比較的多い。京都府寺戸 大塚古墳後円部竪穴式石室(近藤・都出 1971)の墓壙は二段に掘られており、上段の規模が長さ 10.6m、

幅 9.1m であり、下段の規模が長さ 9.0m、幅 5.0m であり、墓壙上面から墓壙下底までの深さが 3.7m にも達するのである。このように深くて傾斜のきつい墓壙を掘るためには、墳丘の完成後、数年以 上が経過していなければならないであろう(註 3)。

(6)の墓壙埋土後に方形壇を造り、方形壇を囲堯する埴輪列が樹立される。以上が埋葬施設の構築 過程であり、ある段階ごとに儀礼行為の痕跡がたどれると捉えているが、ここでは基底部構造を中 心に検討を行っていきたい。

調査例から、棺の安置と副葬品の納置が壁体構築以前の所産であるということが、副葬品の出土 状態から確かめられている(註 4)。埋葬施設として整美な竪穴式石室を築いている兵庫県丸山 1 号 墳後円部南石室(山本、井守 1977)での棺外副葬品は、棺床と壁体壁面の僅かな隙間に深く埋もれ ていた状態で検出されている。これは明らかに木棺を安置し、それとほぼ同時に棺内と棺外に副葬 が行われたことを示している。また、大阪府将軍山古墳でも鉄製品の一部が、粘土棺床と壁体壁面 の間に挟まって出土したと報告(堅田 1968)されている。

以上の事実は、春成が想定した埋葬施設内で執り行われる首長霊継承時点の状況と合致するとこ ろであり、氏の棺安置と壁体構築における関係の把握の正しさを示しているものにほかならない。

また、石野博信も石室横断面の観察から、壁体構築に先立ち木棺を安置した(石野 1977)と考え ている。

古墳の最古グループのひとつに数えられる京都府元稲荷古墳(西谷 1964)は、墓壙掘削の時点で も三回の作業工程をもつ。その結果、墓壙底は中央に長方形の基台、墓壙底四周に排水溝の機能を もつ凹溝が造り出される。次に基台上に粘土棺床を設けるのであるが、粘土の設置は三回の工程に 分けて実施され、その工程ごとに朱彩が施されている。粘土を設置する以前の基台上に朱彩が施さ れているから、朱彩は四回にわたって行われたことになる。

また、元稲荷古墳の基底部では、粘土設置の第一工程後に板石を敷きならべている。粘土棺床設

営が完了した後に、棺床周囲に礫石を充填する。この礫石の充填も二度に分けておこなう。一度目 の礫石充填後に、木棺を固定するためと考えられる断面三角形を呈する粘土帯を置く。この粘土帯 の上下にも朱彩を施す。以上の基底部の構造が完了した時点で木棺を安置し、首長霊継承儀礼をお こなうものと考えられる。その後に二度目の礫石の充填が行われるのであるが、これは竪穴式石室 の壁体基礎構築のための施設と捉えられる。

最近、発掘調査され、古式の三角縁神獣鏡 33 面も副葬されていた奈良県黒塚古墳の基底部でも粘 土棺床設置に際し朱彩を何工程にも分けて丁寧に行われていることが確かめられている。

元稲荷古墳後円部石室の基底部構造がこのように複雑な構造であり、以上のように 入念な作業 のもとで構築されているのは、木棺・遺体の保護という観念のみに基づくものではなく、石室基底 部で執り行われる祭式観念が古墳の出現当初から形成されていることをものがたり、そうしてこの ような基底部の採用はその技術的表現に他ならいものと考えられる。

なお、朱彩をこのように多用する目的は、式場整備の一環である「地鎮の祭儀」(西谷 1964)的 な意味合いを付与することが妥当であろう。

また、熊本県向野田古墳は、舟形石棺を内蔵する竪穴式石室(富樫 1978)であるが、墓壙底に礫 石を充填し、粘土棺床を設ける畿内地域の山城地域や河内地域と同様な基底部構造を採用している。

石棺は腐朽する材ではないのであるから、このことは、礫石等を使用する基底部構造が棺の保護の ための排水施設でないことを如実に表現していると理解できる。

ほかに、次節で竪穴式石室基底部構造 A 型式と類型化する奈良県桜井茶臼山古墳が墓壙底に板石 を載置するのみで、礫石を使用していないことも傍証のひとつとなるであろう。

また、各地域の有力首長を葬ったとみられる竪穴式石室基底部構造後の墓壙底幅の規模をみると、

吉備地域の岡山県金蔵山古墳中央石室の 7.2mを始め、摂津地域の大阪府弁天山 C1 号墳後円部石室 の 5.2m 同将軍山古墳の 4.5m、山城地域の京都府元稲荷古墳石室の 4.1m、同寺戸大塚古墳後円部 石室の 3.9m という数値示し、そこに広い空間が必要であったことが窺える。

こうして検討してくると、基底部構造の礫石等を付設する施設は、木棺・遺体の保護を主目的と するものではなく、そこで執り行われる首長霊継承儀礼の場として、周囲の整備を目的としたもの であるとあると捉えることが整合的であり、合理的であるといえるであろう。

基底部構造に礫石を多量に使用している例が多いのは、式場整備とともに祭式中に壙内に侵入す る水、あるいは、壙内で使用した水(註 5)を下部あるいは壙外に導くための排水機能を具備した