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畿内諸地域の複数埋葬と埋葬施設 1.河内地域

第4章 畿内地域における前期古墳の複数埋葬について

第3節 畿内諸地域の複数埋葬と埋葬施設 1.河内地域

前方部に埋葬施設が確認されているものは、第4表に示したごとく、玉手山古墳群の玉手山5号 墳、北玉山古墳、駒ケ谷宮出古墳の3基である。いずれも、前方部の埋葬施設には粘土槨を用いて いる。玉手山3号墳のみが後円部に複数の埋葬施設をもつ。玉手山5号墳(註 4)の後円部には、

類型的な竪穴式石室(B型)を築き、棺は割竹形木棺である。後円部粘土槨・前方部南粘土槨はC 型の構造であり、前方部北粘土槨はB型の範疇で捉えられるものであり、棺形態は、いずれも割竹 形木棺であろう。後円部の副葬品は盗掘・採土により、その全容は知り得ないが、竪穴式石室から は碧玉製管玉、碧玉製鍬形石、巴形銅器、銅鏃、鉄鏃、鉄製工具類が、後円部粘土槨からは斧・鎌・

鉇などの鉄製農工具類が遺存していた。前方部南槨には碧玉製紡錘車型石製品、鉄剣、鉄刀、鉄製 工具類が、前方部北槨には碧玉製石釧、鉄鉇、が副葬されていた。

北玉山古墳の後円部と前方部の2基の埋葬施設は、墳丘主軸と平行に築かれている。第1図に示 しているように、埋葬施設の主軸がみごとに一直線に配置され、計画的に埋葬されていることが判 る。

また、駒ケ谷宮山古墳の後円部竪穴式石室は、墳丘主軸と直交している。それに対し、前方部の 2基の粘土槨は平行して築かれている。墳丘主軸に対して、直交と平行という関係でありながら、

第1図に示しているように、そこには計画的に埋 葬されていることが窺える。駒ケ谷宮山古墳前方 部1号槨はC型の構造であり、後円部竪穴式石室 の基底部構造と類似の構造である。棺は組合式木 棺である。前方部2号槨はE型に属し、棺は 5.15 mの割竹形木棺である。北玉山古墳前方部粘土槨 はE型である。両古墳群の副葬品は第5・6表で 示した。前方部埋葬の被葬者が、鏡1面と数点の 武器類しか保持しえなかったという被葬者の性格 が読みとれる。

玉手山古墳群の中で、後円部に粘土槨を採用し ている古墳かある。玉手山4号墳(註 5)である。

墳丘主軸と直交して築かいている。その構造はC 型として捉えられるが、前方部粘土槨の構造と比 較して、丁寧な構造である。すなわち、平坦な墓 壙底に「12 ㎝程の厚さに礫石を充填し、その中央

に板石を二枚重ねに敷き」、さ らに、その上に粘土棺床を造 る構造である。副葬品として は、紡錘車型石製品、管玉、

勾玉、銅鏃 24、直孤文を施し た木製盾がある。

前述した4古墳は前期後半 にほぼ比定できる。

前期後半の玉手山古墳群の 前方後円墳においては、後円 部に竪穴式石室、前方部に粘 土槨という、畿内における複 数埋葬の典型的な姿態がみと められる。前方後円墳の埋葬 形態としてはⅡ・Ⅲのあり方 を示す。

なお、玉手山古墳群におい て、前期後半以前の古墳は確 認されていないが、未調査の 100mクラスの前方後円墳の 中に、寺戸大塚古墳・弁天山 A1号墳に見られる複数埋葬

のあり方を示す古墳は充分に予想され、今後の調査に期待したい。

大和川と石川の合流点を見下ろす南東の丘陵上に築かれた前期後半の埋葬施設の種類は、松岳山 古墳群(小林 1957、北野 1964)を加えて、次のように整理できる。

後円部の槨としては竪穴式石室と粘土槨が、棺としては組合式石棺(註6)と割竹形木棺がある。

前方部の槨としては粘土槨が、棺としては割竹形木棺と組合式木棺がある。他に、出土古墳は明確 に指摘できないが、安福寺境内に讃岐鷲ノ山(間壁 1975)石で作った割竹形石棺がある。玉手山古 墳群出土と伝える。

石川上流域の真名井古墳(北野 1964)・御旅山古墳(田代 1968)は、後円部に粘土槨1基が築か れていた。御旅山古墳には前方部埋葬は行なわれていない。真名井古墳にも前方部埋葬が確認され ていない。真名井古墳の棺は組合式木棺で、粘土槨の構造は「粘土棺床・側壁・天井石に代ると考 えられる粘土被覆からなり、竪穴式石室を築いて棺を被覆する代りに粘土を使用した」と考える方 が適切であるという指摘がなされている。たしかに、基底部の構造は、竪穴式石室との関連を無視 しては理解しえないものである。副葬品内容も玉手山古墳群の竪穴式石室の副葬品と比べて遜色は ない。北野はこの古墳が、組合式木棺であったために竪穴式石室を築かず、粘土槨を採用したと理 解されているが、組合式木棺で類型的な竪穴式石室を築いている例も存在するし、また、割竹形木 棺で粘土槨という組合せから考えれば、棺によって槨構造が異なるとは考え難い。そこには、山城 地域、大和地域(後述)において分析したように、首長(=披葬者)の同族的関係、あるいは、政 治的立場ということに基因していると理解できる。18 面の小型鏡を含むとはいえ、22 面もの鏡をも つ御旅山古墳においても、その埋葬施設が粘土槨というのは、同じ理由によるのであろう。

2.摂津地域

摂津地域では、前方部に埋葬施設が確認されている前期古墳は、弁天山A1号墳、弁天山C1号 墳がある。

弁天山A1号墳(註 7)は、工事のための採土によって前方部に竪穴式石室の存在が確認された。

竪穴式石室の構造・副葬品は判らない。この古墳は全長 120mの前方後円墳である。前方部は三段 に築造され、葺石をふいているが、埴輪は使用されていない。畿内地域において、前方部に堅穴式 石室を築いているのは、現在のところ山城地域の寺戸大塚古墳とこの弁天山A1号墳の2例のみで ある。

弁天山C1号墳(原口・西谷 1967)は、全長 71mの前方後円墳である。前方部には墳丘主軸と直 交する粘土槨1基が築かれている。後円部には、墳丘主軸と斜交する竪穴式石室 1 基と粘土槨 1 基 が築かれている。

後円部の2基の埋葬施設の関係は、粘土槨の墓壙底が竪穴式石室の天井石の高さに位置し、粘土 槨構築時に一部竪穴式石室を破壊せざるをえない状況が確認されている。故に、粘土槨は追葬とい う概念で捉えられ、古墳築造時の計画的な埋葬とは考えられない。

弁天山 C1号墳の計画的な複数埋葬の配置は、後円部竪穴式石室と前方部粘土槨であったと考え られる。粘土槨の基底部はD型であり、これは摂津地域の竪穴式石室と類似した構造である。竪穴

式石室の墓壙底に直接粘土棺床を設置することは、摂津地域の他の竪穴式石室と同様である。ただ し、基底中央を溝状に掘り込んでいることが、若干他と異なる。棺形態は両者とも割竹形木棺であ る。副葬品は第7表のごとくであり、玉手山・向日町の両古墳群の前方部粘土槨の副葬品の内容と 同質であるといえる。

弁天山古墳群においてC1号墳につづく中期前半の古墳として、弁天山B3号墳(堅田 1967)が ある。全長 41mの前方後円墳である。後円部の同一墓壙内に2基の粘土槨が、前方部にも2基の粘 土槨が確認されている。いずれも、墳丘主軸と直交している。後円部の2基の粘土槨は墓壙底に直 接粘土棺床を設置する構造であるが、礫石の使用はない。複数埋葬のあり方は、弁天山C1号墳よ り複雑化している。なお、弁天山古墳群は前期から中期後半までの棺・槨構造の推移(註 8)の過 程が、明瞭にたどれる貴重な資料を提示している。

次に、前方部に埋葬施設を築いていないが、墳丘内、あるいは、墳丘周囲に埋葬施設を築いてい る古墳がある。将軍山古墳と池田茶臼山古墳である。

将軍山古墳(堅田 1968)は、全長 107mの前方後円墳である。後円部に紀ノ川流域の結晶片岩を 使用した類型的な竪穴式石室(D型)を築いている。前方部の墳丘外側に接して、箱式石棺が確認 されている。後円部と同質の結晶片岩を使用したもので、長さ 80 ㎝である。

池田茶臼山古墳(堅田 1964)は、全長 62mの前方後円墳である。後円部基底近くの墳丘内とくび れ部に各々1基の埴輪円筒棺が確認されている。後円部には類型的な竪穴式石室(D型)が、墳丘 主軸と直交して築かれている。

摂津地域において、前期と考えられる前方後円墳に粘土槨を採用している古墳は、猪名川水系の 流域に認められる。豊中市小石塚古墳は、墳長 49m の前方後円墳である。宝塚市長尾山古墳(櫃本 1971)は、墳長 35m の前方後方(円)墳である。後円部に竪穴式石室をもつものより小形の前方後 円墳といえる。埋葬施設の調査は両古墳とも行なわれていない

3.大和地域

大和地域は前期大形前方後円(方)墳が数多く築かれている地域である。200m を超える前方後円 墳が 13 基も認められ、150m以上を含めると 26 基の多きに達する(菅谷 1967)。大和地域以外にお ける畿内地域の前期古墳のあり方と比較すれば、厳然とした格差がある。しかし、前期の大形古墳