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第4章 畿内地域における前期古墳の複数埋葬について

第2節 山城地域の複数埋葬と埋葬施設

都出比呂志氏の研究(都出 1974)によれば、山城地域においては、古墳時代前期に古墳群形成を 開始している政治的集団が、10 グループ想定されている。竪穴式石室の分析を通じた拙稿(山本 1980)では、向日グループが、初期倭政権の関係から捉えて、この地域を代表する有力な首長をも つ政治集団と捉えた。ここでは、都出氏の析出したグループごとに、埋葬形態のあり方と埋葬施設 の構造を検討していきたい。

まず、向日グループの元稲荷古墳、寺戸大塚古墳、妙見山古墳のあり方から入っていきたい。

元稲荷古墳(西谷 1964、近藤・都出 1971)は、全長 94mの前方後方墳である。後方部に墳丘主 軸に平行して竪穴式石室が築かれている。前方部は墳丘各所にトレンチを設定して調査されたが、

埋葬施設は確認されていない。前方部墳頂の前端では、特殊器台埴輪と特殊壺形埴輪を用いた供献 区画が検出され、前方部における祭祀の一端が明らかになった。

寺戸大塚古墳(梅原 1955、近藤・都出 1971))は、全長 98mの前方後円墳である。後円部に竪穴 式石室1基と、前方部のほぼ中央に竪穴式石室1基が確認されている。いずれも、墳丘主軸と平行 に築かれ、被葬者の頭位の方向も一致している。両竪穴式石室の基底部の構造も同類型である。規 模については、後円部石室が長さ 6.4m、前方部石室が 5.3mという数値を示し、大きな距たりは指 摘できない。

ただし、後円部石室が埴輪方形区画と方形 壇をもつのに対して、前方部石室には、それ らの施設はない。副葬品の内容についても第 1表に示すごとく、宝器・装身具、武器、農 工具という前期古墳の通有の副葬品を両石室 とも所有しており、そこに明確な格差は指摘 できない。これは、前期後半の時期になると 前方部の粘土槨の副葬品が、鏡1面と、1・

2点の武器、あるいは、玉類のみしか副葬さ

れていないこと(後述)と比較すれば明らかであろう。

以上のことから、両石室の被葬者(首長)は後円部と前方部という埋葬位置の相違から後円部の 首長が優位な立場にあるといえても、そこに質的な格差といえるものは、まだ埋葬施設に反映され ていない。

妙見山古墳(梅原 1955、近藤・都出 1971)は、全長 115mの前方後円墳である。後円部に組合式 石棺を覆う特異な竪穴式石室1基と前方部に粘土槨1基が確認されている。いずれも、墳丘主軸と 直交して築かれている。

向日町古墳群において、先行する元稲荷・寺戸大塚両古墳の首長が採用している割竹形木棺では なく、新たな棺として組合式石棺を採用している。また、墳丘規模が先行する古墳よりも大きくな ったこととともに、前方部に粘土槨を築いている。

これらの現象は、首長階層内部に質的な変革があったことの反映であろう。後円部の特異な竪穴 式石室が、ヒバス媛陵古墳、松岳山古墳の竪穴式石室と類似した構造であり、その意義については、

すでに指摘(山本 1980)している。

前方部粘土槨はE型であるが、墓壙底四周に溝を造り、そこに礎石を入れ、排水施設の工夫を施 している。この構造は、向日町古墳群における竪穴式石室基底部構造の特徴である周溝式との関連 で捉えることができるかも知れない。しかしながら、和泉黄金塚古墳後円部中央粘土槨が、この構 造であることから、現段階では即断できない。副葬品については、撹乱、盗掘等によってその全容 は把握し得ていないが、後円部石室からは、筒形銅器1、碧玉製管玉1、銅鏃 89、鉄鏃 30、鉄槍1、

鉄小札1が出土している。前方部粘土槨は鏡1面しか出土していない。不幸な条件下の比較である が、後円部の被葬者と前方部の被葬者には、副葬品の所有という視点からも、格差があると指摘で きる。

墳形・埴輪の型式及び副葬品の内容から、元稲荷古墳→寺戸大塚古墳→妙見山古墳と順に築造さ れている。この累世的な首長系列をたどれる向日町古墳群では、他に五塚原古墳、北山古墳という 前方後円墳が知られている。

北山古墳は破壊され、前方後円墳という以外にその内容を知ることはできない。

五塚原古墳は測量調査の詳細が報告(和田 1981)され、内容の一端が明らかになった。五塚原古 墳は、墳長 94mの前方後円墳であり、その墳形は、前方部が撥形に開く型式であり、元稲荷古墳よ り先行する可能性をもつ古墳といえそうである。和田晴吾氏によれば、元稲荷古墳・寺戸大塚古墳 とこの五塚原古墳の三古墳は、全長と後円部径(後方部幅)において、きわめて類似した規模をも つ「同規模墳」であるという指摘がなされている。

以上から、前方部に粘土槨を採用した古墳時代前期後半の時期に、向日グループの首長階級内部 に階層の質的な差が、埋葬施設の構造に反映されている。それ以前に造営された3基の古墳は、同 規模墳として、安定した政治勢力をもち、明確な首長階級内の階層差は、一古墳内の埋葬施設間に は顕在化していない。

向日グループでは、前期前半の元稲荷古墳が埋葬形態Ⅰのあり方(註 1)を示し、前期中ごろの 寺戸大塚古墳、後半の妙見山古墳はともに埋葬形態のあり方Ⅱを示している。

この推移の現象は、前方部の機能論を含んだ論として展開された近藤義郎氏の「前方後円墳の成 立と変遷」(近藤 1968)で示された仮説とみごとに一致している。古墳時代前期前半に地域的な政 治集団が最初に築かれる古墳は、一人の首長しか埋葬されていない埋葬形態のあり方Ⅰの形態を示 している。

なお、前方後円墳の埋葬形態Ⅱのあり形を示す寺戸大塚古墳と妙見山古墳では、前方部の埋葬施 設の種類が異なっている。後者は首長層のあり方に格差が生じ、前方部の粘土槨の被葬者がより従 属的になっている。前者にも格差があるが、そこには共同統治に近い支配形態が読み取れる。

また、このグループの後円部の被葬者(=首長)の槨として採用しているのは、前期前半までは 類型的な竪穴式石室(註 2)を築いているが、前期後半に組合式石棺が採用される時期に前述した 首長層の差別化が図られている。初期倭政権の倭国王墓が大和東南部の広義の大和古墳群から大和 北部の佐紀古墳群に移動しても、このグループの政治勢力はバランスをもって、政権交替とも言わ れるこの移動に対処していることが窺い知れるのである。

八幡グループでは、木津川西岸北部の丘陵にある八幡茶臼山古墳、石不動古墳、八幡西・東両車 塚古墳を検討したい。

八幡茶臼山古墳(梅原 1923、堤・高橋 1969)は、全長 50mの前方後方墳である。前方部と後方 部の比高差は2mである。現状をみるかぎり、前方部は不安定な形状を呈す。この古墳からの眺望 は、木津川流域の平野部だけではなく、淀川の上流域の平野部(摂津地域・北河内地域)をも見下 ろすことができる。後円部には阿蘇熔結凝灰岩(間壁夫妻 1975)で造られた舟形石棺を内蔵する竪 穴式石室が構築されていた。竪穴式石室は長さ 4.3m、最大幅 1.95mの規模の幅広い形態であり、

基底部の構造も非類型的な構造である。副葬品は盗掘にあい、碧玉製石釧、鉄刀、鉄鏃が残存して いたに過ぎない。前期後半に比定できる。

石不動古墳(梅原 1955)は、全長 75mの前方後円墳である。後円部に2基の粘土槨が確認されて いる。2基は併行に配置され、いずれも墳丘主軸とは斜行の関係にある。南粘土槨は「粘土床の下 に一部砂利の存在を認めた」とあり、それから推定するとC型の粘土槨とも推察されるが、実際の ところは躊躇せざるをえない。副葬品については、互いに前期古墳の通有の内容をもち格差はない が、北粘土槨になく、南粘土槨にあるものとして、碧玉製石釧と短甲が挙げられる。

八幡西車塚古墳(梅原 1918、堤・高橋 1969)は、墳長 115mの前方後円墳であり、段差のある周 濠をもつ。後円部には竪穴式石室が確認されているが、詳細な構造は判らない。墳丘規模に応じて、

鏡5、車輪石 10、石釧2、鍬形石2等の豊富な副葬品が知られている。

八幡東車塚古墳(梅原 1019)は、前方後円墳である。前方部が破壊され、その全長の正確な数値 は示しえないが、90m前後であろう。梅原末冶氏の調査によれば、後円部に礫石をもつ粘土槨1基、

前方部に簡略な埋葬施設1基があったと報告されている。前方部からは鏡1、鉄剣1が出土してい るのみである。後円部の副葬品と比較すると、その内容に格差のあることが指摘できる。

このグループにおける前記の4古墳は、その立地、棺・槨構造の相互関係において、共通する様 相を指摘することができない。

向日町古墳群が古墳時代前期前半から築造が始まり、前期古墳の期間に、有力な特定の氏族的集