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第2章 長大型竪穴式石室の出現と変容

第4節 竪穴式石室の変容

古墳時代前期前半の長大な刳抜式木棺とそれを覆う長大な竪穴式石室に替わって、前期後半には 倭国王墓や地域の王墓や首長層の埋葬施設に大形加工石材を使用した石棺が採用される。この現象 は大和盆地東南部の広義の大和古墳群から大和盆地北部の佐紀古墳群に 200m を超える大形前方後 円墳が移動していく時期に起こっている事象である。

古墳時代前期後半のこの棺の変化は、石棺を覆う竪穴式石室の構造にも大きな変容を起こすが、

それと連動するように木棺を粘土で覆う粘土槨や木棺直葬の埋葬施設が出現し、首長層の埋葬施設 に多様な形態が現れてくる。

古墳時代前期後半に首長層に採用された大形加工石材を使用した石棺には、組合式石棺と刳抜式 石棺がある。古墳時代前期後半に起こった竪穴式石室の構造の変化の現象を、竪穴式石室の第 1 次 変容と捉えておきたい。

畿内地域の前期後半には、何故か、刳抜式石棺は客体しか存在せず、主流は奈良県佐紀陵山古墳 や奈良県新山古墳、奈良県櫛山古墳、大阪府松岳山古墳、京都府妙見山古墳に採用される組合式石 棺である。

これらの組合式石棺の構造には、松岳山タイプと妙見山タイプという二つのタイプが存在する。

前者は、櫛山古墳、松岳山古墳、筑後地域の佐賀県谷口古墳、吉備地域の岡山県花光寺山古墳であ る。後者は、新山古墳、妙見山古墳、山梨県大丸山古墳である。

松岳山タイプの組合式石棺は、古墳時代中期の古市古墳群・百舌鳥古墳群の倭国王墓に採用され る兵庫県の播磨地域のいわゆる竜山石を使用した典型的な長持形石棺の祖形と評価(小林 1957)さ れている。

松岳山タイプの埋葬施設の大形加工石材を使用した石棺を覆う槨的な竪穴式石室においても、三 者の間には、微妙な差異がある。

妙見山タイプは、組合式石棺の蓋石の上に竪穴式石室状の空間を造った複雑な構造の埋葬施設で ある。試行錯誤の結果であろう。このタイプは、その後の中期古墳の埋葬施設としては展開してい かない。

佐紀陵山古墳の埋葬施設はきわめて特異であり、前二者のタイプの中には収まりきれない構造で ある。現在のところこの例しか知られていないので、佐紀陵山タイプの埋葬施設の呼称は控えてお きたい。しかし、この古墳の埋葬施設の評価を的確に把握しないと、前二者のタイプの埋葬施設の 評価は的確に把握できないところがある。また、大和盆地北部の佐紀古墳群の 200m を超える大形古

墳で埋葬施設が判っているの佐紀陵山古墳のみである。

このような特異な組合式石棺と石室を採用する古墳は、規模も大きく有力な首長墳であり、その 中には倭国王墓と目される超大形古墳も含まれている。

前期後半に起こったこの埋葬施設の変化は、古墳時代の倭国内では、最高位の棺が大形加工石材 を使用した組合式石棺であることは、古墳の規模から明らかであろう。この埋葬施設の変化は、何 を物語っているのであろう。政権交替である。

初期ヤマト王権は、弥生時代終末期に、有力な墳丘墓を築いていた政治集団が連合した初期国家

(都出 1991)であると捉えられる。とりあえず、大和盆地東南部にの政治勢力の地域を中心にする ということを定め、連合したのである。当時、東アジアの政治的動乱に対処するために採った処置 である。その中心的な勢力は、大和地域・三河・山城・摂津の畿内諸地域の政治勢力がつくりあげ た政治形態である。

合意という基での中心形成であった。その時期は三世紀の第 4 四半期と把握している。それから、

100 年近くも経過すると、様々な矛盾が生じてくる。このときに起こったことが、大和盆地東南部 から北部への 200m を超える大形前方後円墳の移動である。

竪穴式石室の第2次変容は、播磨地域の竜山石を使用した典型的な長持形石棺の出現であり、幅 広型の竪穴式石室に変化している。その初現は、現在判明している限り、津堂城山古墳である。古 墳時代中期前半に起こったことである。この現象を竪穴式石室の第2次変容と捉えている。

幅広型の竪穴式石室(小林 1941)の出現は、縄懸突起をもつ竜山石製の長持形石棺が大形前方後 円墳に採用される時期の現象と捉えられる。

第1次変容も第2次変容も、大形前方後円墳に採用されている埋葬施設であり、それを契機とし て地域政権の有力首長墳等に波及していく。

この時期、播磨地域の中規模古墳では、前期以来伝統的な長大型の竪穴式石室を採用しており、

中期後半まで継続している現象が認められる(山本 2008)。播磨地域以外でも認められる現象であ る。

竪穴式石室の第3次変容は、古墳時代中期後半の出来事である、この時期にも中期前半以来から 継続して、最高位の棺は、大王の棺ともいわれる長持形石棺(組合式石棺)であり、大形前方後円 墳に採用される埋葬施設である。

第 3 次変容の内容は、竪穴式石室がの中小規模の古墳にも採用されていることである。この時期 の竪穴式石室は、播磨地域の宮山古墳や印南2号墳やカンス塚古墳に採用されている幅広の竪穴式 石室であり、これら3者の竪穴式石室の起源は、朝鮮半島の洛東川流域にその淵源があると見られ る。

次に、第1次から第3における竪穴式石室の変容の過程を検討していきたい。

1.古墳時代前期後半における竪穴式石室の第1次変容

第1次の変容は、墳丘長 200m を超える超大形前方後円墳に採用される埋葬施設の構造である。

極めて特異な埋葬施設を採用している佐紀陵山古墳の埋葬施設の登場から始まっていると捉えてい

たが、副葬品目の組合せの様相をみれば、そう単純な思考の中では納まりきれないところがある。

しかし、この佐紀古墳群に 200m 級の前方後円墳が、大和盆地東南部の広義の大和古墳群から佐紀古 墳群に移動してから、佐紀陵山古墳に採用された埋葬施設に連動して、各地方に石棺が出現するこ とは認めてよいであろう。

畿内地域では、刳抜式木棺(割竹形木棺)から組合式石棺が主流になる。しかし、畿内地域外の 吉備、丹後、讃岐、肥後等の地域では、刳抜式石棺(割竹形・舟形石棺)が盛行する。

棺形態としては、古墳前期の刳抜式木棺の系統を踏襲したのが、畿内地域以外であり、畿内地域 では新たな組合式石棺を創出している。

組合式石棺をみれば、畿内地域では、佐紀陵山古墳、妙見山古墳、松岳山古墳、新山古墳、櫛山 古墳であり、畿外地域以外では大丸山古墳、谷口古墳の7古墳である。

これらの特異な棺・槨をもつ7古墳の墳形と規模をみれば、次ぎのようなことが指摘できる。

最大規模をもつ古墳は、207mの佐紀陵山古墳であり、倭国王墓とも目されている古墳である。次 ぎの墳形・規模の古墳は、大和地域では新山古墳(前方後方墳、126m)、櫛山古墳(双方中円墳、

150m)であり、山城地域では妙見山古墳(前方後円墳、114m)であり、河内地域では松岳山古墳(前 方後円墳、130m)である。

大形石材を加工した組合式石棺をもつ古墳で畿内地域を離れて知られているのは、九州地方の谷 口古墳(前方後円墳、77m)であり、関東地方の山梨県大丸山古墳(前方後円墳、99m或いは 120 m)である。

前方後円墳が 7 基の内、5基を占めており、前方後方墳が1基、双方中円墳1基という構成であ る。

松岳山古墳の石棺は、小林行雄が長持形石棺の祖形であると論述し、櫛山古墳は長持形石棺と報 告されている。

一方、吉備、讃岐、阿波、肥後、丹後、越前等の中部瀬戸内海地域では、刳抜式石棺が盛行する。

吉備地域では、新庄天神山古墳、鶴山丸山古墳であり、讃岐地域では快天山古墳、岩崎山 4 号墳な どある。阿波地域では大代古墳である。中部瀬戸内海地域以外では、九州地方の熊本県向野田古墳 や東海地方の静岡県三池平古墳にも刳抜式石棺を採用されている。

佐紀陵山古墳の構築前後には、不思議な現象が現出している。佐紀陵山古墳はもちろんであるが、

馬見古墳群の新山古墳であり、佐味田宝塚古墳である。この副葬品目は特殊である。この現象が、

備前地域の鶴山丸山古墳にもみられる。

おそらく、その前に築造されている紫金山古墳の副葬品のあり方も特殊である。鏡の副葬品目の 多さに表わされている。

妙見山古墳後円部石室は、墳頂平坦面中央から埋葬施設の構築がはじめられる。その下部から粘 土層、小円礫層、粘土層と順に基礎の整備を行い、さらにその上に小円礫層を配し、その中央に石 棺底石に対応するかたちで板石を敷き、その上にまた小円礫層を作り、その上に石棺底石を設置す るということが報文(梅原 1955)から読み取れるのである。そして、石棺を組み上げ、石棺に覆う かたちで板石を用いて竪穴式石室を構築している。控え積みは小円礫で構成する。棺先置型の埋葬