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ドイツ脱原発 一社会運動がもたらした政治的成果に関する考察-

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(1)社学研論集 Vol. 9 2007年3月 論. 文. ドイツ脱原発 一社会運動がもたらした政治的成果に関する考察‑. 青 柳 輝 和* ツの原子力政策は,2000年に入り脱原発に向け 1はじめに. て大きな舵を切ることになった。. 2000年6月15日,ドイツにおいて原子力発電. チェルノブイリ原発事故20年目を迎える2006. 所廃棄に関する合意が,政府と電力業界の間で. 年の今年になり,脱原発政策に対する揺り戻し. 成立した。 大々的に報じられたこの出来事は,. とも言える新たな動きも目立つようになってき. ヨーロッパにおける脱原発の動きの一つの頂点. た。本報告では,ドイツの脱原発政策がどのよ. とも考えられるものであった。. 原子力発電が持. うにして実を結ぶことになったのか,なぜドイ. つ危険性は,チェルノブイリ原発事故を待つま. ツにおいて可能になったのか,各国の原子力政. でもなく,1970年代から抗議運動の対象として,. 策が様々に交錯する中で,ドイツ脱原発の持つ. ヨーロッパ社会の撹乱要因となっていた。. エネ. 意味を考えてみることで,原発という技術の持. ルギーを無尽に生み出す技術として,社会に大. つ社会的な意味を考えるうえでの一助とした. きな恩恵をもたらすと思われた原子力発電は,. い。. その能力ゆえにまた社会に深い乳蝶をもたらす 2検討の枠組. ことになった。 しかし,ヨーロッパにおける原発の政治的な 取り扱いには大きな開きが見られていた。. ドイツの脱原発を考えるにあたって,最初に 既に. 検討の枠組を明らかにしておきたい。. 70年代のおわりになると,原発稼動の可否につ. 棄するという政策がどのように実現するに至っ. いて,スイス,オーストリアで国民投票が実施. たかを考える場合,政策形成は政治的な結果と. され,1980年にはスウェーデンで国の原子力政. して現れているが,政治の枠組の中だけで考え. 策の是非が国民投票に掛けられている。. 他方,. 反原発運動はこの間題の. 核心的な要因であるが,新しい社会運動として. フランスでは原発の建設が積極的に進められ, 原発大国の名をほしいままにしてきた。. るわけには行かない。. そうし. の反原発運動は,既に明らかにしたように文化. た中にあって,ドイツの原子力政策は揺れ動. 的側面にその本質的な意味を持つ[青柳輝和. き,核燃料サイクルの完成までを目指したドイ. 20051c政治的な目標を掲げながら,政治的要. *早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程4年(指導教員 田村正勝). 原発を廃.

(2) 因とは別個なところから反原発運動は生まれて. 政治的な目標を名目化してしまう危険性を持. 3t9. しかしドイツでは,運動が政治的な成果を つ。. さらにこの間題を考えるうえでの下地をなす. あげることができた。 ドイツの反原発運動はな. 要因として,社会状況の変化や社会的な出来事. ぜ成果をあげることができたのか,ドイツで行. がある。そこでここでは,問題のありかを政. なわれた運動の状況と内実,そして運動と政治. 治,社会運動,社会状況の3つの側面に分け,. との関わりが検討の対象になるであろう。. それぞれの側面のなかでどのような作用が生じ. てそこでは「緑の党」が媒介項として見えてく. たのか,そして各側面の間でどのような作用が. るであろう。. 生じたのかを考えていく。 それによりこの間題. 原発をめぐる社会状況は,この間題の下地を. の解明を試みていきたい。. 作っており,間接的ながら問題の先行きを定め. 政治的側面については,貴初にどのようなプ. る役割を果たしている。 社会的な出来事や社会. ロセス,政治作用によって脱原発政策が形作ら. 状況の変化が原発政策の方向にどのように影響. れたのか,その中で生じた政治過程をみてい. したのか,社会的な要因が,社会運動や政治的. ドイツで実現した脱原発政策は,同じよう く。. 側面とどのように係わったのかを,チェルノブ. な状況にあるヨーロッパの国々すべてで取り上. イリ事故に代表させて検討していく。. そし. げられているわけではない。 なぜドイツで大々 的な脱原発政策が可能になったのか,という比 較政治学的な検討課題も存在する。. そうした比. 3脱原発の状況 3‑1脱原発への合意. 較により,政策を可能にしたドイツの政治構造. 2000年6月に成立したドイツの脱原発に関す. を総体として眺めることができる0. る合意は,左右からの批判に晒され,野に下っ. しかし,脱原発政策は政治構造の中で完結し. たキリスト教民主・社会同盟(CDU/csu)か. たものではない。社会から政治に対する働きか. らは,2002年の選挙勝利で合意を撤回するとま. けがあり,政治から社会への働きかけによって. で言われながら,2006年のCDU/CSU・SPD. 成立している。文化的側面を持つ社会運動がど. (社会民主党)連立政権でも命脈を保ち,その. のように政治的側面に作用したのか,背景とし. 政策は定着しつつあるといえるのだろう[毎日. ての社会的状況がどのような作用をしたのかを. 新間2006.4.15]cここでは合意の内容と,脱. みなければならない。. 原発に至った経緯を概略する(1). 社会運動としての反原発連動は,政治が生み. 原発廃棄を取り決めた今回の合意の主要な点. 出した問題を対象としながら,本質的な性格は 文化的な側面にあった。 原発の危険性を告発す. は,原発の運転期間と使用済み核燃料の取り扱. る運動は,自己の生活を守ろうとする防衛的な. 原発廃棄の具体的な日時を定める運 いにある。 転期間については,原則として運転開始後32年. 意識から発する。新しい社会運動としての反原. とし,基準とした2000年1月からの残りの期間. 発運動が持つ性格は,運動のH的を無意識的に. を運転可能な時間と見なしている。. 自己の生活の中に転化している可能性が高く,. の運転時間に基づいた発電総量が設定され,原. 一方で残余.

(3) ドイツ脱原発. 3. 発によって確保できる電力の総枠を定めてい. 協点として採用された合意は,2005年以降の輸. る(2)これは将来に渡る発電量の見通しを電力. 送の禁止と,中間処分場の増設である。. 側に持たせ,経済的なリスクを回避させようと. 輸送を停止するためには,国外での再処理をや. する配慮を行ったものである。. める必要があり,そのためには国内での処分の. 経済性の確保を求める電力側には,もう一段. 方法を新たに見つけなければならない。. の措置が与えられている。 それは原発間での発. 再処理施設の建設が放棄され,最終処分場の立. 電量の融通である。 発電効率のよい原発へより. 地さえ目途のつかない状況では,中間処分場の. 多くの発電量を割り振ることを可能にし,運転. 増設しか方法がなかったのであろう(4). の柔軟性を高める措置が取られている。. 使用済み核燃料の再処理と輸送は,2005年以. これに. 燃料の. 国内の. より電力側の負担はさらに軽減されることに. 降は直接処分場‑と限定されることになった. なったが,稔発電量を満たすためには,効率性. が,合意のもう一つの重要な点は原発廃棄の法. のよい原発の運転期間を延長する必要性が出て. 的な位置付けである。 政治スタイルとして法文. くる。この措置によって,32年という原発の停. 化の色彩の強いドイツでは,法の改正も大きな. 止期限が必ずしも守れないという批判に晒され. 対立点として残されていた[Riidig2000:70](5)。. ることなった。 しかし,一方では政権を担う緑. これについては,2002年4月に合意に添った形. の党にとっても有利な条件になっている,とい. で法の改正が行なわれている。. う指摘もある[Riidig2000:68](3) 合意のもう一つの主要な点は使用済み核燃料. 3‑2脱原発に至る経緯. の取り扱いである。 ドイツは当初,核燃料サイ. それではドイツの脱原発はどのような経緯で. クルの完成を目指して,使用済み核燃料の再処. 成立したのであろうか0 既に述べたようにドイ. 理施設の建設を進めていたが,強い反対運動で. ツは核燃料サイクルの確立を目指し,1989年ま. 計画が頓挫した後は,フランスやイギリスに再. でに19基の原発を稼動させる原発大国であっ. 処理を委託していた。 しかし,1998年にフラン. 合意の成立した2000年には,電力の3分の た。. スのラ・ア‑グにある再処理工場に送った使用. 1を賄うまでになっていたが,原発廃棄へ踏み. 済み燃料の運搬容器に放射能汚染のあることが. 出さざるをえなくなった。 その経緯は,反原発. 判明し,燃料の輸送は当面禁止されてしまう。. 運動の歴史と深く重なるものでもある。. 国内に最終処分場を持たないドイツでは,使用. ここでは,脱原発に至る経緯を,反原発運動を. 済み核燃料の処分は原発の運転に直結する問題. 中心においてたどることとする(6)。. であり,輸送の再開は電力側の緊急の課題に. ドイツの原発建設は,1956年の原子力委員会. なっていた。. 発足によって具体的なスタートを切り,58年に. 使用済み燃料に関する合意は,こうした状況. 初の実験用原子炉の発注がなされている。. を打開するために交わされている。 政府側の求. 代に入ると本格的な建設計画が策定され,原発. めるのは,批判の強い燃料の輸送停止であり,. の発注が進められていく。 発電規模は徐々に拡. 電力側は使用済み燃料の円滑な処分である。. 安. そこで. 60年. 大し,69年に初の百万キロワット級の原発が発.

(4) 4. 注され,以後原発は巨大化の道を歩むことにな. 占拠という物理的な手段に訴えた抗議行動. る。. は,市井の農民を強制排除する警官隊の姿と相. 70年代に入ると原発の発注は加速し,70年代. 侯って,ドイツ社会に衝撃を与えることになっ. を通して28基の原発が発注され,16基が運転を. マス・メディアによる全国的な報道がなさ た。. 開始し,14基は現在も稼働中である。. れるようになると,抗議運動の実態が知られる. しかし,. 70年代も後半になると,7基の新規発注が行わ. ようになり,州政府は強硬路線が取りにくくな. れたものの,いずれも稼動するには至らず,後. その後,裁判闘争などを経て,ヴイ‑ル原 る。. 述する反原発連動の高まりとともに,原発建設. 発立地は取り消されることになる。. の減速が明らかになる。. ヴイ‑ルの占拠事件と裁判闘争は,その後の. 反原発運動は,原発建設の始まった50年代か. 反対運動を全国的な規模へと押し上げることに. ら,すでに立地反対運動として現れている。. 60. なった。次の焦点はブロックドルフの原発で. 年代後半,原発の建設が本格化するにつれ,反. あった。 北ドイツ,ハンブルグ近郊に位置する. 対運動も活発化し,70年には200以上の反原発. ブロックドルフでは,73年に州政府が正式に立. 住民グループが存在した。 また,地域活動に限. 地を発表し,74年に電力会社が設置申請をして. 定されていた反対運動が,68年の行政訴訟にお. 州政府の発表直後に,反対運動を担う団 いた。. いて全国的な環境保護団体が初めて運動に加わ. 体として,地元住民を主体にした環境保護住民. り,地域的な広がりを見せるようになる。. イニシアテイヴ(BUU)が結成され,全住民. 反原発運動が全国的な活動として注目される. に対するアンケTトなどを行なっている(8). ようになるのは,70年代に入ってからである。. ブロックドルフの反対運動は,当初街頭行動. 敷地の占拠という物理的手段によって,一躍注. や州政府‑の申し入れといった比較的穏健な手. 目を浴びることになるヴイ‑ル原発反対運動が. 段で行なわれていたが,ヴイ‑ルの前例を憂慮. その始まりであった。. する行政側の強権的な対応が目立つようになる. 南ドイツのフランスとの国境近くに位置する. と,抗議運動も直接行動‑とエスカレートして. ヴイ‑ルは,緑豊かな農業地帯の中にあり,そ れまで立地に対する住民の関心は高いものでは. 76年10月に州政府の部分設置許可が出る いく。 と,電力会社によって要塞化した敷地‑デモ隊. なかったOヴイ‑ル村内の賛成派優位を見て. が突入して占拠する(9)「内戦」と称されるほ. 取った州政府は,74年3月に正式な設置許可の. どの暴力的な衝突は,その後の原発をめぐる動. 手続きを開始した。 聴聞会などの手続きを経. きに決定的な影響を与えた。 教条的な左翼の煽. て,州政府は75年.. 1月に原発設置の部分許可を. 出した。 同年2月に建設作業が開始されたもの の,2日目に抗議集会参加者に占拠される。. 動ともいわれた衝突ではあったが,運動に対す る世論の批判が高まり,運動への見方は二分化. 占. していく。分極化は原発に係わりを持つ側にも. 拠は平和的なもの[Rucht1990:204]ではあっ. 及び,一方ではSPD,FDP(自由民主党)や. たが,工事を止めるための唯一の方法だという. 労働組合内にあった体制内批判派に力を与え,. 認識を占拠側は持っていた[Hatch1991:78](7). 他方で運動内部の亀裂を深めることとなった。.

(5) ドイツ脱原発. 5. 75年から77年にかけた反原発運動は,ブロッ. 再処理の義務付けは,核燃料サイクル施設の. クドルフに代表されるように暴力的な衝突が目. 建設促進を目指す政府の施策の一環として取ら. 立つようになっていた。. こうした状況は,ドイ. れたものだったが,国内での再処理施設用地と. ツの各層にショ,ツタを与えていたが,また原発. して選定したヴァッカーズドルフにおいてち,. 問題が,政治の最重要課題として取り上げられ. 反対運動に遭遇することになった。. るようにもなっていた。. 政治の目が運動に向け. 政府は当面. の対策として,アハウスとゴアレ‑ベンに中間. られるようになり,暴力行為‑の批判が高まる. 処分場を建設し,対応に当った。. なかで,運動は多様な戦術を取るようになって. 社は,再処理を義務付けられた使用済み燃料の. いた[Rucht1990:204‑205]cさらに,当初か. 処分として,英仏の再処理施設への委託も進め. ら反対運動の一環として進められていた行政訴. た[Rudig2000:51]。. 訟で,成果を得る機会が多くなっていた。. こう. さらに電力会. 原発問題の鍵を握っていた使用済み核燃料問. した状況は行政と運動の対立を横和する方向. 題が,当面回避されたことで原発反対運動は. と働き,具体的な政策論争‑と道をつなげてい. 停滞期を迎える(10)82年1月には4年ぶりに,. くことになった。. 建設の遅れていた3つの原発の着工が続けて認. 1977年以降の政策論争で鍵となるテーマと. められたのである[Hatch1990:85]cこの停滞. なったのは,使用済み核燃料の処分問題であっ. を打ち破ったのが,86年に起こったチェルノブ. 核燃料サイクルの完成を. た[Riidig2000:50]。. イリ原発事故であった。. 反対運動は再興し,そ. 目指していたドイツ政府は,当初北部ドイツの. の中心になったのが85年にCDU/FDP政権が建. 田園地帯に位置するゴアレ‑ベンに,再処理施. 設を決定したヴァッカーズドルフの再処理施. 設を含む燃料サイクルに係わる多くの施設の建. 設であった[Joppke1993:176]。. 設を予定していた。. こうした巨大施設の建設. 反対連動が各. 地で頻発するなか,最も大きく高揚したデモが. に,地元のみならず全国から抗議の声が上がっ. ヴァッカーズドルフに向けられ,70年代後半の. ていた。広範囲な反対運動の高まりを危供した. 警官隊との衝突を思い起こさせる激しいものと. 州政府は,79年に連邦政府との協議を求め,最. なった[Hatch1990:87]c. 終的に再処理施設建設の撤回を連邦政府に認め. 反対運動の高まりとともに,経済性の観点か. させた[Rudig2000:50]。. らヴァッカーズドルフの再処理施設建設は89年. 再処理建設予定地を,ゴアレ‑ベンから. に中止される。 当面の対象を失った反対運動で. ヴァッカーズドル7‑と変更を強いられた連邦. あったが,チェルノブイリ事故後の原子力産業. 政府は,同時に使用済み核燃料の再処理義務付. のスキャンダルや事故隠しに助けられて,運動. けを行なった。 ゴアレ‑ベンの反対連動で,最. はその後も力を持ちつづけていた。. 終処分場の建設が覚束なくなり,再処理による. が中止になって以降の,運動の主要な場となっ. 核燃料廃棄物の減量が必須の課題となるなか,. たのは,使用済み核燃料の輸送に係わるもの. 使用済み核燃料間蔦の硬直状態を打開すべく,. と,脱原発に向けた地方政府の動きであった. 州政府との合意を計ったのである。. CRiidig2000:51]。 使用済み核燃料は,英仏で. 再処理施設.

(6) 再処理された後,国内の2ヶ所に建設された中 間処分場に運搬されていた。 中間処分場が建設. 4政治過程一枠組みの変動と緑の党. されたゴアレ‑ベンは,再処理施設の建設は見. 4‑1政治的機会構造論. 送られたものの,最終処分場の候補地として有. ドイツの脱原発は将来にわたって継続の保証. 力な場所であった。 中間処分場の建設が阻止で. された政策とは言いがたいもののようである. きなかった反対派は,最終処分場‑の立地を阻. が(12)現時点ではその政策は立法化され維持. 止すべく,燃料の輸送に焦点を絞ったのである. されている。一時は原発大国と呼びうるまでに. [Riidig2000:52]。. 施設の建設を進めてきたドイツが,さまざまな. 90年代の主要な反対運動の場となった使用済. 抗議活動を受けて,その政策を変更するに至っ. み燃料の輸送問題は,他の問題では穏健な手法. たのは,直接的には政治的な変化の結果として. に拠っていた運動側が,70年代の直接行動を再. 捉えられる。そうした政治の変化はどのよう‑に こう. び取るようになる高揚したものであった。. 生まれたのか,そしてどのような変化が生じた. した行動は,チェルノブイリ事故以降一時的な. のか,について,政治的機会構造論,「政治的. 盛り上がりを見せながら,下火になりつつあっ. 枠組の変動」論および緑の党の3点をキーワー. た反対運動に,再度社会の注目を集めることと. ドにして検討する。. なった。燃料輸送中のコンテナから,放射能漏. 政治的機会構造という概念は,反原発運動と. れの事故が生じたことも追い風として作用した. いう社会運動の挑戦を受けた国々が,同じよう. [Rudig2000:52](id。 使用済み燃料輸送問題は,. な社会状況にある西欧の中で,なぜ国によって. 98年の合意に至る主要な要因の一つであった。. 政治的な対応が異なるのか,という問題意識を. 90年代は地方政府の動きが反対運動に大きな. 解き明かすものとして用いられている1970年. 力を与えた。すでに88年の新綱領の策定によっ. 代に生まれた反原発運動を含む社会運動は,そ. て,脱原発を党の政策に据えていたSPDは,90. の社会学的な意味が様々な論者によって検討さ. 年代に入るとほぼすべての州で,緑の党との連. れたが[青柳2005],そうした社会運動論的な. 立による政権を樹立していた。 連立政権は,州. 視点からは反原発運動が与えた政治的なインパ. の持つ原発の許可権限によって,MOX工場の. クトの多様さを説明できない,というのである. 運転認可を断念させるなど,脱原発に向けた動. [Kitschelt1986:57‑58,Flam1994]. きを加速させていた。 しかし,ヘッセン州での. これに対し,政治的機会構造という概念を用. 原発停止命令が,連邦政府の干渉によって撤回 されるなど,州政府の権限には限界があった。 州政府を担うSPDや緑の党は,「コンセンサス 会議」を設置して,連邦政府との協議を進めた. いて説明しようとする議論は,社会運動の挑戦 を受けた時の,国における政治的な対応の相違 であり,そこでは外部からのインパクトを受け. 国の政策変更は,98年の政権交代まで待たなけ. 取る政治構造の存在が検討の対象となってい ここでの政治構造の捉え方は,政治的イン る。 パクトを受け取る入力構造と,. 入力されたイン. ればならなかった。. パクトを政策に転換する出力構造の両面に分類. が,整わないままであった[本田2002:115]。.

(7) ドイツ脱原発. 7. することにある(13)この2つの構造をみるこ. 持つ関係者(アクター)が活動する.. とによって,一国の政治的機会構造を特定する. は政府の中だけでなく,外部の独立した存在と. ことができるという。. しても参加する。 アクターは共通の利害や信念. 80年代初頭に原発政策の是非を国民投票に. で結びつき,政策アリーナの中で連合を形成す. よって問うた,スウェーデンの先進的な政治選. アクターの連合はアリーナの中で競合し, る。. 択は,開放的で政策遂行力の強い政治的機会構. 対立し,敵対する。. 造によって説明が可能であり,他方,分権的な. は,連合間の力関係の変化や連合内部での意見. 国家体制の一方で,階級や宗教で区分けされた. の変化に起因するとされる[本田2002:107]。. 政党システムを有する旧西ドイツの政治的機会. こうした政策過程に対する見方は,既存の枠. 構造は,閉鎖的な入力構造と弱い政策能力を持. 組を固定的に見ることではなく,政策単位の場. つものと位置付けられる。. 80年代までのドイツ. アクター. こうした中で政策の変更. を抽出し特定することで,政策過程を柔軟にみ. における,激しい反原発運動と原子力政策にお. ることを主張している。 政策は常に同じ場で決. ける振幅の大きさは,ドイツの持つこうした政. められるものではなく,政策毎の場,政策毎の. 治的機会構造によって説明することが可能であ. 過程が存在する。 さらに場で活動するアクター. る。. も変わる。重要なのは場の存在とアクターの関. しかし,政治的機会構造論の静態的な説明手. 係であろう。どのような場が形成され,どのよ. 法に対する批判[本田2002:106]やその後の. うなアクターがどのような関係を結ぶのか,連. 政治状況の推移によって,政治的機会構造論の. 合と対立のダイナミックな関係が政策の帰趨を. 説明限界もまた明らかになってきた。. 決定する。場と関係という動態的な視点こそ. 特にドイ. ツにおける2000年の明確な政策転換を,社会運. が,政治的挑戦を受けた政治主体の動きを理解. 動の挑戦を受けたそれまでの政治構造の枠組で. するために不可欠なものといえるのであろう。. 説明することは困難であった。. そうした状況を. ドイツが脱原発へと転換させた原子力政策の. 受けて考えられたのが,政治的枠組の変動に. 成立過程は,既存の政治的枠組の中では説明し. よって政策の転換を説明しようとする議論で. きれないものを有していた。. あった。. 変化を見る必要があった。 枠組みの変動が政策. 政治的な枠組みの. 転換へと結びついたと考えられるからである。 4‑2「政治的枠組の変動」論(14). ドイツの原発アリーナは,新たな原発アクター. 政治的機会構造論の固定的な視点の限界を越. として登場した線の党によって流動化が促進さ. える試みとして,政策の形成過程に政治的枠. れ,それが政治的枠組みの変化へと結びつき,. 組の流動化を見る議論がある[Riidig2000,本. 新たな政策の実現が可能になったといえるので. 田2002]。 それによれば,何らかの政策が形成. あるCRiidig2000:46]c. されようとする場合,常に同じ政治過程によっ て検討されるのではなく,その政策に関する場 (アリーナ)が形成され,政策に利害や関心を. 4‑3. 政党としての線の党. 脱原発政策を実現させた緑の党は,新しい社.

(8) 会運動を具体的な政治の場へつなぐという,既. アムを主張する中道・左派の対立は,既存の利. 存の政治的枠組では困難であった役割を担うこ. 害に基づく政治構造が解体される前兆であった. とになった。議会外の運動を重視する「反政党. [Hatch1991:801cそれはまた政策連合の流動. 的政党」[坪郷1989:75]という,一見矛盾す. 化の始まりでもあった。. るような呼称が,緑の党の置かれた役割を如実. 83年に国政の議席を得た緑の党は,85年に. に示している。. SPDとの連立による州政府入りを果たす。. 緑の党は,72年に結成された住民運動協議会. の後,87年の国政選挙では得票を伸ばしたもの. がその母体とされ,75年のヴイ‑ル原発建設. の,ドイツ統一後の90年に行われた総選挙で. 反対連動が党の出発点といわれている[仲井. は,議席を得ることができずに終わる。. 1986:42‑43]c住民運動から出発し,環境保護. の民主化グループが,線の党と提携して作った. や反原発の持つ原理的な要求までを担うことに. 「90年同盟」が,東独地区の選挙で議席を得る. なった緑の党は,それまでの価値観を否定する. と,緑の党と「90年同盟」は93年に統合する。. 理想主義的な性格を有していた。. 新しい問題が. そ. 旧東独. 国政に地歩を固めつつあった緑の党の存在. 提起する事態を解決するためには,既存の価値. は,82年から野に下っていたSPDの政策に大き. 観を転換する必要があったのである。. な影響を与えた。 特に90年代に入ると,旧西. エコロ. ジー‑の危機感,社会の底辺に対する共感,経. ドイツのほとんどの州で,SPDとの連立政権. 済成長に対する批判は,緑の党の根幹をなす主. を樹立させ,州レベルでの脱原発政策を共同で. 張として取り上げられており,いずれも既存の. 推進していた[本田2002:114]c州の政策はこ. 価値観に対する反テーゼとして表明されてい. とごとく連邦政府によって跳ね返されたもの. た。. の[Rudig‑2000:53],SPDの政策変更は,既定. 価値観の転換を求める緑の党の活動は,地方. のものとして積み上げられていった。. 議会で徐々に支持を集めるようになり,78年3. 1998年の国政における連立政権に反映されるこ. 月に都議会選挙で初の議席を得たのを皮切り. とになる。. それは,. に,翌年ブレーメン州で議席を獲得すると,そ の後各地の地方議会で議席を得た後,83年3月. 5社会運動‑その状況と内実. の連邦総選挙で最初の議席を得ることになる。. 5‑1運動の形態. 国政に足場を得た緑の党の存在は,既存の. 反原発運動はドイツだけではなく,ヨーロッ. 政治的枠組を揺り動かす。. パの多くの国で生まれそして影響を及ぼしてい. とくにSPDの変化. が顕著であった。 原発推進政策をとっていた. るが,ドイツの反原発運動は,ドイツがヨー. SPDであったが,政権の場にあった77年に既. ロッパの大国というばかりでなく,電力の30%. に,原発に関する見直し議論が党内で行なわれ. を原発が占める原発大国であることで,生み出. そうした議論は,原発に関する党内の ていた。. した結果の大きさが格段の意味を与える。. 激しい対立を反映していた。 経済成長の確保と. い社会運動という文化的性格を有ながら,現実. 雇用の維持を主張する保守派と,原発モラトリ. の政策を実現する‑ためには,独自の社会,政治. 新し.

(9) ドイツ脱原発 状況に対応した過程を生み出す必要があったの ではないかと思われる0. 9. 害から自由になれ,既存の組織に属さない,い. ここではドイツの反原. わば草の根として活動する人々を組織すること. 発運動の持つ特徴を検討し,さらに運動と政治. ができる。さらに,新たな組織化によって既存. を結ぶ媒介項となった線の党との関係をみてい. の組織との連携も可能になることである。. くことで,運動が生み出した脱原発へのプロセ. 組織として連携することにより,より大衆的な. スを明らかにしていくこととする0. 運動として外部にアピールすることが可能にな. 最初にドイツの反原発運動の形態をみてみよ. る(17). う。 ドイツの反原発運動は,多くの国がそうで. そして,組織すること自体の持つ意味も重要. あるように地元住民による立地反対運動から始. である。既存の権力が行なう力の行使に異議を. まっている。 人口密集地域に隣接したところへ. 唱える運動は,既存の組織に頼ることはできな. の原子力関連施設の建設は,住民の自然な拒否. 既存の組織から離れて,新たな組織による い。. その後原子力. 反応を呼び起こしたのであろう。. 運動の推進は∴運動の形態が意味のあるものと. 発電所の建設が進んでいくと,原発の立地に直. して力を発揮する。 運動に参加すること自体. 接的な係わりを持つ人々以外に,様々な人々が. が,意味のあることとして参加者に受けとめら. 運動にかかわるようになる。. れるのである。. こうした多様な. 人々を運動体として吸収したのが,市民イニシ. しかしこうした組織の持つ欠陥も指摘しな. アテイヴと呼ばれる組織である(15). ければならないだろう。. 下からの民主主義と呼ばれた市民イこシア. するため,ゆるい拘束のもとに組織を成立さ. テイヴの活動形態は,新しい社会運動が示す特. せることは,ともすれば組織のまとまりを欠く. 徴を持つものでもあった。 初期の市民イニシア. ことになり,運動の一貫性を保ち得ない状況に. テイヴは,地域的な原発建設に反対する,その. 陥る。 ドイツの反原発運動では,ヴイ‑ルの敷. 場かぎりの組織として結成されていた[Hatch. 地占拠では市民イニシアテイヴが主導して成果. その後全国的な連携が進み,全国団 1991:78]。. を収めたものの,続くブロックドルフの抗議運. 体を形成して組織的な運動を進めるようになっ. 動では,教条的左翼の跳梁を押さえることがで. ている。市民イこシアテイヴは多様な層の参加. きず,世論の強い非難を受けることになってL. によって高い開放性を有し(16)それにより広. fォE*. 範な運動体‑の成長を可能にしている。. 多様な参加者を許容. 一方. で,運動に参加する活動家もまた,運動の間を. 5‑2運動の戦術. 自由に行き来する拘りのなさを示している[本. 市民イニシアテイヴを核としたドイツの反原. 田2001:511]。. 発連動は,草の根運動を吸い上げるのに格好の. 市民イニシアテイヴの持つ意味を考えてみる. 場を提供することになったが,運動の戦い方は. と,既存の組織と一線を画した別の組織であ. 必ずしも一貫性のあるものではなかった。. る,というとが重要な意味を持っている。 の組織と離れることで,既存の組織が有する利. 別の. 既存. 状況. 対応型とも呼べる嘩動が取った戦術をみてみる と,重要なものが3点指摘できる。. ひとつは運.

(10) 10. 動の先行きを良くも悪くも左右した直接行動で. 動戦術の岐路になったとも言われている[本田. ある。 ヴイ‑ルで行なった占拠戦術の成功は,. 2001:527]。. その後の運動の方向を決定付けるものであった. 地方選挙‑の挑戦も早くから行なわれてい. が,ブロックドルフの「内戦」によって,外部. た。 初期の反対運動の中心であったヴイ‑ル. からの批判,内部の分裂といった負の部分を露. では,1975年4月に行なわれた村議会選挙で,. 呈することになった。 しかしこのことは,別の. CDUが与党の大半を占める北部の州にあって,. 点では運動の利点にもなった。 過激な行動の限. 原発反対派がCDUを超える議席を獲得してい. 界が明らかになり,暴力行為を容認するグルー. る[本田2001:497]cヴイ‑ルに続いて反対運. プは排除され運動の統一と戦術の鬼とおしが. 動の焦点の一つになったグローンデでは,77年. つけやすくなったのである。. 3月に反原発運動団体が中心となってニーダー. 直接行動は,強圧的な行政手法に対する反発. ザクセン環境党を結成し,10月の郡選挙に挑戦. から出てくるものであるが,また既存の組織に. している[仲井1986:48]。. 飽き足らない層が抱える不満の現われでもあ. ヴイ‑ルでの挑戦は運動に対して限定的な役. 体制に組み込まれた既存の組織の限界を感 る。. 割しか果たしていない,という指摘もあるが. じ取った人々は,既存の手法の限界も察知する. [本田2001:497],地方議会への挑戦が,目的. 直接行動は,世論の注目度が高く, のである。. を実現させるための手段になりうる,という認. 運動‑の関心を維持し,高める効果を持つもの. 識を連動が持っていたことは間違いないであろ. であるが,反面運動の意義を大きく損なわせる. う。 分権的な政治制度の中で,地方議会が独自. ドイツの運動が取った 危険性をも持っている。. の権限を持ち,独自の判断を下せる状況にあっ. 直接行動は,如実にその事実を示している。. たことが,議会への挑戦を意味のあるものにし. 一方で,脱原発政策の実現に向けて有効に作. さらに硬直したドイツの政党政治の状 ていた。. 用した戦術として,裁判闘争と地方選挙‑の挑. 況が,新たな政治勢力出現の余地を与えてい. 戦が指摘できる。 裁判闘争は運動の初期から行. た。 運動が行なった地方議会への挑戦と,議会. なわれている活動であるが,ドイツの裁判闘争. に対する活動の積み重ねが,緑の党胎動へと繋. が有効に作用したのは,独立性の強い司法制度. がることになる。. 裁判闘争は,当初から成果をあげてい にある。 たわけではないが[本田2000:282],ヴイ‑ル. 5‑3運動の継続. の訴訟で成果を得て後,運動の有力な手段と. ドイツの反原発運動が成果をあげた理由の一. 分権的な制度のもとにあった地方 なっていた。. つに挙げられるのが,運動の継続である。 ドイ. の裁判所は,裁判所独自の判断を出しやすく,. ツの反原発運動は,大きく3つの波を経験して. はげしい争いのあったブロックドルフでは,行. 最初は勃興期とも呼べるもので,ヴイ いる。. 政裁判所が建設工事を中断させる命令を出す. ルからブロックドルフ,ゴアレ‑ベンの反対運. ことによって,対立を緩和させる効果があっ. 地域運動から全国規模の 動に至る時期である。. ブロックドルフの裁判闘争は,その後の運 た。. 反対運動へと拡大し,敷地占拠を含む直接行動.

(11) ドイツ脱原発. 11. で,国中の関心を集める役割を果たした。. た影響は大きかった。クリージは,多少の差は. 反対運動は,裁判闘争などを併せ,一定の成. あれ同じような被曝の危険にさらされたヨー. 果を上げることができたが,暴力的な活動に対. ロッパ諸国の中で,とりわけドイツの社会運動. する批判や政府の対応能力の向上などから,運. に強い作用をもたらしたのは,運動のおかれた. 動の見直しを迫られるようになり,さらに平和. 当時の社会状況に由来していると述べているが. 運動‑の関心の高まりもあって,運動は最初の. [Kriesi1995:150],運動は事故に後押しされて. 停滞期に向かうことになる。 その中で運動は次. 継続してきたともいえるであろう。. の目標として,ヴァッカーズドルフの再処理施 設を取り上げる。. 5‑4運動としての緑の党. チェルノブイリ事故が起こったとき,運動は. 反原発運動を語るうえで欠かせないのは,緑. ヴァッカーズドルフに向けて動員を増やしつつ. の党との関係であろう。 政党としての緑の党. あった。事故によって新たな社会層の参加を得. は,国政における脱原発政策を実現させるのに. た反対運動は,一挙に拡大の道へと進む。. 核心的な役割を果たしたのだが,「制度化され. 運動. の再興によって,89年に再処理施設の建設中止. た社会運動」[Riidig2000:46]とも呼ばれる緑. を勝ち得ると,運動はふたたび停滞する。. の党の存在は,反原発運動の対面として現れた. 連動. が再度活路を見出したのは,使用済み核燃料の. ものでもあった。. 輸送問題であった。. 70年代から明確な形をとり始めた新しい社会. 2000年の脱原発合意にたどり着くまでに,2. 運動の出現は,既存の政治,社会的な枠組みと. 度の停滞期を経験した反対運動であったが,運. は相容れない,「新しい」要求の実現を求める. 動は継続した。では運動はどのように停滞期を. 動きであった。それはまた制度化への道を求め. 乗り切ってきたのであろうか。. るものでもあった。要求の実現は,いかに要求. ドイツの反原発運動の経緯を振り返ってみる. を制度化されたものにするか,にかかってい. と,成功の要因として挙げられるもののひとつ. 既存の制度的チャンネルを持たない新しい た。. が,運動の目標を継続して維持できたこと,で. 社会運動は,独自のネットワークを形成するこ. あろう。当面の目標が達成されることによっ. とによって,制度化のステップとした。. て,方向を見失ってきた運動であったが,新た. 代に入ると運動の制度化が進行し[坪郷1989:. な目標を見つけるカを有していた。 またそうし. 143],政治的要求を掲げた反原発運動は,緑の. た状況に恵まれた,ともいえるかもしれない。. 党をその制度化のチャンネルとしたのである。. 新たな目標を見定めることで,運動を維持する. 緑の党の,地方議会および国政への進出に. ことが可能になったのである。. よって,制度的なチャンネルを得た反原発運動. もうひとつの要因として挙げられるのは,. は,運動の資源,利害関係といった点で利益を. チェルノブイリ事故である。 チェルノブイリ事. 得るようになる[Riidig2000:461c既存の制度. 故については次章で詳細に検討するが,突発的. 的枠組みにつながりを持たなかった段階では,. な出来事とはいえ,ドイツの反原発運動に与え. 連動が利用できる資源,利害関係の枠は限られ. 80年.

(12) 12. 運動への動員は可能であった たものであった。. ではない。 同じような社会的要因が,国や社会. ものの,直接的な手段といった,限られた手法,. 状況によって作用の強弱を生み出し,また様々. 制度的なチャン 戦術に終始するものであった。. な促進,抑制の要因が混在する。 そうした作用. ネルの獲得は,様々な情報の入手を可能にし,. の全体が,社会の方向性を形作ることになる。. 運動のターゲットとする政府機関や電力会社に. 様々な社会的要因が存在する中で,促進的要. 対する活動の幅を広げることを可能にした。. 因として挙げられるものは,代替エネルギー技. しかし,緑の党と運動との関係は単純に議論. 術の進展,チェルノブイリ原発事故,電力自由. 緑の党は,その成り できない部分も存在する。. 化などである。 また地球温暖化問題など,原発. 立ちから様々な運動体の集合として,党内に. 建設を推し進める社会的要因も存在する。 そう. 様々な意見を抱え,議論を戦わせながら党とし. した中で,最も影響力が強く,ドイツの脱原発. ての活動を行ってきており,党内の議論が党. を決定付けるほどの作用を及ぼしたと考えられ. と連動の活性化につながった[坪郷1989:80],. るチェルノブイリ事故について,ここでは詳細. という指摘のある一方で,緑の党が制度化され. に見ていくことにする。. た主体として政党活動を行うとき,必然的に運. チェルノブイリ事故については,既に何度か. 運動は,政治,社会 動との叡齢が生じてくる。. 触れてきたが,社会的な影響を考えるうえでの. の現状に対する,生活に根ざした異議申し立て. 特性を挙げてみると,何点か指摘できる。 ひと. として,常に社会と自己の歪みと向き合ってお. 電力自由化 つは出来事としての偶然性である。. り,制度化がもたらす生活との東経に無関心で. や代替エネルギー技術といった,社会が積み重. 政党として,「新しい」要求の はいられない。. ねてきた要因とは異なり,事故は社会が具体的. 制度化を目指す線の党との原理的な対立は,避. 偶然に左右される に想定しえる要因ではない。. けては通れないものとも思われる。. 出来事として社会に突然現れる。 そのため,与. 2000年の合意成立後に噴出した,合意に対す. える影響は衝撃的ではあるが,一過性になりや. る様々な批判は,政党と連動の乗離を如実に示. また,そのときの社会状況に左右されや すい。. すものであったが,他方ではそうした連動との. すいものでもある。 ドイツが受けたチェルノブ. 承離が生み出す緊張感が,曲がりなりにも原発. イリ事故の影響は,その強い衝撃とともに高い. の全面廃棄政策の実現‑つながっていったとも. 継続性を保つ一方,他の西欧諸国と同様に,発. いえるではあるまいか。. 生時の社会状況を反映したものでもあった(18). 6社会状況‑チェルノブイリ事故を代 表として. 事故そのもの 二つめは媒介の必要性である。 は,ドイツから700km以上離れたウクライナで 起こったものであり,住民は直接体験をしてい. ドイツ脱原発を考えるうえで,社会的要因は. 事故を知るのは行政やマスコミを通して ない。. その背景をなすものとして,間接的な作用因子. であり,その危険性を理解するのは科学者や反. ではあるものの,社会全体の方向を決定付ける. そうした媒介の存在に 対運動を通してである。. しかし,社会的要因の作用は一律 作用を持つ。. よって,事故は社会的に可視化される[Kri. esi.

(13) ドイツ脱原発. 13. 1995:148]のである。. て,連立政権‑と繋げていく。. そして,事故の結果として生ずる作用もま. 緑の党の躍進と平行して進んだのが,既存の. た,具体的なものとして認識されることはな. 政党の変化である。. チェルノブイリからもたらされる放射能の い。. ら原発をめぐる党内の議論が活発になっていた. 作用は,確率的なものとして捉えられ,また長. のだが,事故直後に党内に検討委員会を設置. 期の作用の結果として出現する。. し,10年以内の廃棄政策の採用を決定している. そうした認識. SPDは,既に事故以前か. 論的な状況の中で,事故の影響が受け取られて. [Hatch1990:88]c. いくことになる。. 事故の影響は政権党であったCDU/CSUにも. そうした事故の持つ特性が,ときの社会状況. 及んだCDU政権は事故後に,原発の安全を. に作用し事故の影響を作り出す。. 原発をめぐる. 図ることを目的として新たな省を創設し,原. 社会状況をみてみると,反原発運動は停滞期に. 発推進体制を維持しつつも,世論の危供に対応. あったものの,ヴァッカーズドルフの再処理施. していくことを明らかにした。. 設建設をめぐって,85年から徐々に高まりをみ. 一枚岩ではなくなっていたのである。. せ始めていた。 こうした中での事故の発生は,. は,88年になると推進,反対,未決のグループ. 運動への強い追い風になった。. で3つに割れた状況を呈するようになってい. 事故の前後に行. われた原発‑の賛否を問う世論調査をみてみる. CDU内は既に 党内世論. mチェルノブイリ事故の影響は,ドイツにおい. と,原発を拒絶する割合が上昇し,7割近くの 人たちが反原発の意向を示すようになってい. て最も顕著に現れたといえるであろう。. こうした世論の高まりに共鳴するように, る。. 連動‑の強い追い風になるとともに,運動に. 運動の参加者,抗議活動の件数は86年に跳ね上. よって可視化された反原発世論の高まりは,既. がっている(19). 存の政治状況を大きく変化させる作用を及ぼす. 87年には運動の高まりは収まってきたもの. ことになったのである。. の,86年以前の状況に戻ることはなかった。 年以降の運動の高まりは,反原発‑と大きく傾 いた世論の動向を,維持する役割を果たすこと. 反原発. 86 7ドイツ脱原発の意味するもの‑まと めにかえて. になる。運動に媒介された社会‑の意思表示. ドイツが成し遂げた脱原発政策‑の過程を明. が,世論の関心を原発‑繋ぎ止め,原発の持つ. らかにするために,政治過程,社会運動,社会. 問題‑の理解を深めていくことになる[Hatch. 状況の3つの側面から検討を行なってきた。. 1990:87]。. 原発政策が具体化した中心的な要因は,反原発. 世論調査で示された反原発意識の高まりは,. 運動の存在にあり,新しい社会連動としての反. 政治状況に大きな影響を与えることになった。. 原発運動の意味は,その文化的な内実にある。. 緑の党の国政での得票率は,事故をはさんだ83. 文化的な基層から発した反原発運動は,原発技. 年と87年の選挙の間で,50%近い伸びを示し,. 術の持つ危険性と,権威主義的な政治的含意に. その後のドイツ統合による落ち込みを跳ね返し. 触発されて生まれたものであり,再帰的な性格. 脱.

(14) 14. を有しながら,政治的主張を表面に纏ってい. は,社会運動そのものの戦いと相まって,ドイ. そうした二面性は,ともすれば目的への具 る。. ツの持つ政治体制が大きく寄与したともいえる. 体的なアプローチを見失いがちになる。 しかし. ドイツ脱原発は,下からの要求 ものであった。. ドイツでは具体的な政策として結実させること. を実現させる道筋を示した,という意味で,今. ができた。. 後の社会の方向に対する一つの指針を作った,. その最大の理由は,脱原発政策を推進する. ともいえるのではなかろうか。. 「緑の党」という具体的な政党の存在にある。. 〔投稿受理日2006.ll24/掲載決定日2006. ll.30〕. 社会運動の主張を具体的に政治へつなぐチャン ネルを得たことで,運動は政治的な成果を手に することができた。. 注 (1)政府と電力側との間で成立した合意内容の概略 は次のようなものである[朝日新間2000.6.22]c. ではなぜ,ドイツで線の党ができ,国政での. ①原発の運転期間を原則として32年とし,2000年. 成果を得ることができたのであろうか。 それに. ②運転停止 1月から残りの運転期間を算出する。 中のミュルハイムケ‑リッヒ原発について,電力. はドイツの政治状況が大きな係わりを持ってい 既存の利害に分断された硬直的な国の政治 る。 体制が,新しい政治的要求を吸収できないでい たのに対し,分権的な地方制度は新しい要求を. 会社が賠償請求を取り下げる代わりに,総発電量 ③稼動中の原発19 に約0.1兆㌔ワット時を加える。 基が今後発電できる総量を,ロを加えて約2.6兆㌔ ④使用済み燃料の再処理は, ワット時と算定する。. 受け入れるのに通していた。 地方で足場を得た. 2005年7月以降最終処分場に直接持ち込むことに ⑤原発建設の禁止などを骨子とする原 限定する。. 線の党は,国政へ進出する力を徐々に獲得して. 子力法の改正に電力側は理解を示す。. 国政に進出した線の党の存在は,政治 いった。. (2)運転開始から32年間のうちの残余期間の発電量. 的枠組みの流動化を促すことになり,政策形成. を算出し,その合計量を発電総量として取り決め ているo個別の発電量は1990年から99年の間で黄. の場の転換を可能にしたのである。. も高い量の5年を基準とし,さらに5.5%が効率. 社会状況は,政策転換に至る背景をなすもの. 性への上乗せとして加算されている[Riidig2000: 67]。発電線量への0.1兆㌔ワット時の上乗せがさ. として欠かせない要因であるが,特にチェルノ. らに認められたミュルハイム・ケ‑リッヒ原発は,. ブイリ事故が重要であった。 突発的な出来事で. 1987年に運転が開始されたものの,住民の提訴に. はあったが,ドイツの社会状況を変えてしまう. よって89年に運転停止に追い込まれていた。 電力 側は運転認可を与えた州政府を相手取って損害賠. 幾度かの波を のに十分な衝撃力を持っていた。. 償の訴えを起こしていた。. 経験した社会運動の継続に強い後押しとなっ. (3)効率の悪い原発の早期停止によって,合意の結. た。. 果を実績としてアピールできるというのである。. こうした3つの側面の総合作用の結果とし. しかし合意の基づく最初の停止は,3年後のシュ タ‑デ原発であり,予定より1年前倒しになった. て,脱原発政策は可能になったのである。 それ. ものの,2002年に行なわれた総選挙では緑の党の. は原発という巨大技術の持つ危険性を察知し. 実績として喧伝することはできなかった。 ただ, 合意の協議が行なわれた2000年の段階では,合意. た,市民からの異議申し立てを,政治に反映さ 好余曲折を経た道ではあっ せる過程であった。 たが,社会運動が成果を得ることができたの. 締結の促進要因として作用した可能性は十分に考 えられる。 その後2基目の対象として. オプリッ ヒハイム原発が,当初の予定より2年半延長され.

(15) ドイツ脱原発. 15. た2005年5月に停止に至っている。. で孤立化してしまう」と発言し,メルケル首相も. (4)再処理のための輸送が2005年まで延長された背. 脱原発の見直しに含みを残す発言をしている[朝. 景には2つの点が指摘されている。. 一つは本文で 述べた中間処分場の整備の問題である。 12ヶ所に. 日新聞2006.4.21]。. 予定された処分場の増設には5年程度かかると考. 定要因として,①政治勢力の数,②行政からの立. えられた。 もう一点は再処理の契約問題である。 契約途中での打ち切りは相手国からの損害賠償を. 法の独立性,③利害の関係するグループと行政を. 請求される恐れがあり,契約量の処分が終わるの を待つ必要があったのである[原子力資料情報室. カニズムの存在,を挙げている。 一方出力構造については,政策能力を左右す. 編2001:59‑60]cまた,この合意により使用済み. る要因として,①国家機能の集中度,②政府の. 核燃料の輸送が再開され,2001年3月にフランス. 市場支配,③司法の権威と独立性,を挙げ,政. からガラス固化体に処理された核廃棄物が返送さ. 策を実現する能力を出力構造として規定している. れたが,大規模な反対運動に遭遇することになっ. [Kitschelt1986:63‑64]c. たo. (14)ここでいう政治的枠組とは,政治の骨格を示す. (5)合意に至った原子力法の改正については,①合 意内容を原子力法で法的に規定する,②1998年の. 大きな仕組み,という意味で使っている。 より詳 細な仕組みを表す構造の上位概念となる。. 原子力法改正を一部を除き破棄,③原子力エネル. (15)市民イニシァテイヴは,1960年代の交通政策や. ギー振興に関する記述を削除,④原子力発電所の. 都市再開発政策に対する地域社会の防衛的反応か. 新設を法的に禁止する,といった内容が盛り込ま. ら生まれている。 この活動形態はドイツ全国に. れていた[原子力資料情報室編2001:69]c. 広がり,72年には全国組織も生まれている[本田. (6)1977年までの経緯については,特に引用がない. 2001:509]c. 限り[本田2000,2001]に依拠した。 (7)占拠は2日後に警官隊によって排除されたもの. (16)反対運動は,立地に反対する住民から,行政の. の,警察の行為に対する一万人規模の抗議デモが. 多様な層を集める,市民運動と住民運動を合体し. 起こり,4日後に再占拠されてしまう。 その後占 拠は9ケ月間続くことになる[Hatch1990:78]。. た運動でもあった[本田2001:510]c. (8)アンケートの結果は,回答率3分の2で,75%. ゆるい連帯が,大衆連動を形作ってきたと指摘さ. が建設反対であった[本田2001:521]=. れている[Rucht1990:204]c. (9)占拠はその日の内に突入した警官隊によって排. (18)クリージは,チェルノブイリ事故のような突発. 除されるが,52名を逮捕し,数名が負傷。 これに 抗議する大規模なデモが翌11月に行なわれ,数万. 的な出来事が及ぼす政治的な作用について,①事. 人が参加する。 警官隊との衝突で500人が負傷, 100人以上が逮捕されるという事態に至っている [本田2001:523‑524]c (10)この時期に運動が停滞したもう一つの原因とし て,中距離核ミサイルの配備問題があった。 運動 の関心が反核運動へと向かい,反原発運動へのエ. (13)入力構造は開放性の度合いを基準とし,その決. 媒介するパターンのあり方,④要求をまとめるメ. 権力的/な行き方を批判する都市の高学歴層まで,. (l乃市民イニシアテイヴの持つ草の根と既存組織の. 故が起きたときの反原発運動の状軌③そのとき の政治状況,③原発推進派と反対派の,巨=こ見え る対立の結果,という3つの要因によって決まる という[K∫iesi1995:152]。 (19)ドイツの運動の高まりは特に顕著であり,参加 者,件数ともに前年の10倍を越える盛り上がりを 示した[Kriesi1995:1491c. ネルギーが損なわれてしまったのである[Hatch 1990:86]。 (ll)この事故によりCDU政権は,燃料輸送の一時的. 参考文献. な凍結と,燃料の扱いに関する全般的な見直しを. anti‑nuclearmovementsintheUSA,FranceandWest. 余儀なくされたのである[Rudig2000:51]. GermanyIndustrialCrisis4,193‑222 "TheImpactofAnti‑NuclearPower ‑,1995. MovementsinInternationalComparison"inBauer,M.. 2006年の連立政権では脱原発政策は維持された ものの,新政権の経済・技術相は「脱原発は欧州. Rucht,D.,1990Campaigns.. skirmishesandbattles:.

(16) 16. ed. Re∫istancetoNewTechnology,CambridgeUniversity Press Kitschelt,H.,1986PoliticalOpportunityStructuresand PoliticalProtest:Anti‑NuclearMovementsinFour DomocraciesBritishJournalofPoliticalScience16, 57‑85 Kriesi,H. etal.,1995. NewsocialmovementsinWestern EuropeUniversityofMinnesotapress Hatch,M.T.,1991Corporatism,PluralismandPost industrialPolitics:NuclearEnergyPolicyinWest GermanyWestEuropianPolitics14,57‑85 Riidig,W.,2000̀̀phasingOutNuclearEnergyin 9,No.3,43‑80 GermanyGermanPolitics,Vol. Joppke,C,1993"MobilizingagainstNuclearEnergy:a ComparisonofGermanyandtheUnitedStatesUniv. ofCalforniaPress Flam,H.,1994ATeoreticalFrameworkfortheStudy ofEncountersbetweenStatesandAnti‑Nuclear MovementsinFlam,H. ed.StatesandAnti‑Nuclear MovementsEinbergUniversityPress 青柳輝和,2005「新しい社会運動と反原発運動」『社 学研論集第六号』早稲田大学社会科学研究科 坪郷賓,1989『新しい社会運動と緑の党一福祉国 家のゆらぎの中で』九州大学出版会 仲井斌,1986『線の党‑その実験と展望』岩波書店 本田宏,2000,2001「原子力をめぐるドイツの紛争 的政治過程(1)(2)」『北海学園大学法学研究』36 ‑,2002,「ドイツ原子力政治過程の軌跡と力学」 『環境社会学研究』8 原子力資料情報室編,2QOl『ドイツ脱原発最新事 情と安全規制』.

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参照

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