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雨滝山奥墳墓群の再検討 1.雨滝山奥墳墓群の立地と構成

第5章 弥生墳丘墓から古墳時代の開始へ -讃岐・雨滝山奥墳墓群の再検討を通じて-

第2節 雨滝山奥墳墓群の再検討 1.雨滝山奥墳墓群の立地と構成

標高 253m の雨滝山から四方に支尾根が拡がり雨滝山山塊を形成している。雨滝山の四方の尾根上 に所在する墳墓群を雨滝山遺跡群と呼称されている。

雨滝山遺跡群は北丘陵上に立地する遺跡群を奥墳墓群と呼ばれ、南丘陵に立地する遺跡群を古枝 墳墓群と呼称されている。

今回、再検討の対象とする雨滝山墳墓群の立地と構成を第 1 図によってみていきたい。

雨滝山奥 10・11 号墳丘墓の立地は、同じ支尾根上に立地している。11 号墳丘墓は支尾根頂部に 築かれ、10 号墳丘墓は長尾平野を望む南西方向に延びる支尾根上に築かれている。10 号墳丘墓と 11 号墳丘墓との間には幅約 1.0m、深さ約 0.3m の掘割溝で区画されている。A 支群(註 6)と仮称す る。

雨滝山奥 14・13 号墓は同じ支尾根上に立地し、B 支群と仮称しておきたい。

雨滝山 2~4 号墓も同じ支尾根上に立地しており、これを C 支群としておきたい。

A 支群の雨滝山10・11 号墳丘墓は、

弥生時代後期末から終末期に築造さ れた墳丘墓であり、出土土器から 10 号墳丘墓→11 号墳丘墓の変遷と把 握できる。後述するが、雨滝山奥 1 期と設定しておきたい。

B 支群の 14 号「墳」は、雨滝山奥 2 期に、13 号墳は雨滝山奥 3 期の築 造と捉えている。

そして、C支群の 2 号「墳」は雨 滝山奥 2 期に、3 号墳は雨滝山奥 3 期の築造である。

B・C 支群の構成とその築造変遷 が当を得ているものと見れば、この 小地域の首長墓は、B 支群の雨滝山 奥 2 期の 14 号「墳」から同じ B 支群 の雨滝山奥3期の13号墳という変遷 がたどれる。また、C 支群の雨滝山 奥 2 期の 2 号「墳」から同じ C 支群 の雨滝山奥 3 期の 3 号墳に変遷して

いると把握できる。

このことを整合的に解釈するとすれば、弥生時代終末期後半から古墳時代前期前半のこの小地域 の政治的集団には、二系統の首長系譜をもつ首長達が共同統治していたと分析するこが可能である と言いうことができる。二系統の首長系譜と言っても近接して立地している姿態からみれば、同族 と捉えるのが妥当であろう。

なお、雨滝山奥 1 期の段階に築造されている A 支群は、弥生時代後期後半の 10 号墳丘墓から終末 期前半の 11 号墳丘墓へと変遷しており、同じ時期の墳丘墓が確認されていないことから、単系的な 首長による支配が考えられる。

2. 雨滝山奥墳墓群の個々の具体的検討

① 雨滝山奥 10・11 号墳丘墓(雨滝山奥 1 期)

立地と構成の項で前述しているが、両墳丘墓は近接して築かれており、10 号墳丘墓が先行して築 かれていることは、出土土器の型式的変遷から観て明らかである。

雨滝山 10 号墳丘墓

西側に支尾根と直行するかたちで墳丘を画する掘割溝が掘削されている。南側には人頭大の角礫 や亜角礫が列石状に付設されている。付設の手法は、墳丘の基底に平坦に置かれているようであり、

ほぼ原位置をとどめているとみてよいであろう。この南側によって区画されている施設は、尾根下 方の東側に向かうところで突出部とも捉えられる形状を示している。報告者の古瀬は、この張り出 しを四隅突出墳丘墓の関連で注意する必要があると叙述しているが、「この部分は自然流出が著し く」不明であるとしている。そして、円形墳丘墓か方形墳丘墓かの判断を保留し、一辺あるいは径 約 14m、高さ 2.5m の規模の墳丘墓と記述する。

墳形図を検討すれば、突出部を造り出す方形墳丘墓と捉えることも可能である。第 2 図のように 復原が当を得ているものとすれば、一辺 11.5m の方形丘に長さ 3m、幅 8m ほどの幅広で短い突出部 をもつ方形墳丘墓と把握できるであろう。

西側と北側には、墳丘裾を画する具体的な施設は、発掘調査では確認されていない。

雨滝山奥 10 号墳丘墓は支尾根の自然地形を最大限利用した築成手法を採用しており、確認できる 盛土は墳頂部では 0.7~0.8m のみである。

埋葬施設は前述した筆者の推論があたっていれば、

ほぼ墳丘中心部に外開きの竪穴式石室とその北側に ある壷棺 2 基の埋葬施設で構成されている。報告書 では壷棺を追葬と捉えているが、筆者には計画的な 埋葬形態であると理解できる。

雨滝山奥 10 号墳丘墓の中心埋葬である竪穴式石 室の構造に言及していきたい。

この石室はおそらく盛土を行う以前に、地山(基 盤層)に墓抗を掘削して構築し始めていたのであろ う。このことは、宇垣匡雄が弥生時代後期後半にお

ける竪穴式石室の特質のひとつとして指摘した「墳丘築成のかなり初期、ないしは墳丘の築成開始 に先立って墓抗の掘削がなされている」(宇垣 1987)ということの証左の例であろう。

墓壙形態をみれば、墓壙上面が広く墓壙下面が狭い通常の形態である。墓壙の規模は、上面の長 さ 3.4m、幅 2.7m であり、下底の規模は長さ 2.7m、幅 1.7m である。その深さは 1.1mである。墓壙 底の形態は平坦であるとみてよいであろう。

そして、この外開きの墓抗に沿って角礫を使用した外開きの竪穴式石室が築かれている。木棺の 形態と関連する構造であろう。

石室の床面は、墓壙底上に約 5 ㎝の厚さの良質な赤褐色粘質土を敷きつめ棺床としている。蓋石 は架構されることはなく、角材を使用した木蓋であったとみることが正鵠を射ていると捉えるのが 妥当であろう。

竪穴式石室の最上部の壁体石から約 20 ㎝上部に、石室長軸と一致した方向に拳大から少児頭大の 角礫を使用した集石と供献土器が検出されている。集石中央はほんの僅か窪んでいるが、木蓋であ れば、その腐朽とともに落ち込む状態を示すはずであるが、その姿態は認められない。このことを 整合性のもとに理解するには、木蓋の上下に丁寧に土を使用した状況を想定せざるを得ない。木蓋 や木棺が腐朽しても大きく落ち込まない丁寧な施工であったのであろう。

集石中には土器と鉄器が混在していた。なお、集石西端には長さ 0.5m ほどの板石(平石)が置か れ、完形の壷形土器、器台形土器、高杯形土器が、この板石の上に載せられた状態で出土している。

石室上部において土器と鉄器(おそらくヤリガンナ)と石を使用した儀礼が実修されたのであろう。

木棺の形態を推定すれば、棺底が平坦で、棺側面が外に開く形態を想定せざるを得ない。報告書 では、組合式木棺と記述されている。現在、知られている木棺としては、舟底形木棺に近い形態と 捉える他にないとみてよいであろう。

この竪穴式石室の長さは 2.1m、幅 0.9m であり、その長幅比は 2.3 である。深さは 0.65m を測る。

竪穴式石室の主軸は東西方向であり、おそらく、石室上部の供献儀礼の痕跡から判断して、東頭 位と捉えていいであろう。

副葬品はなんら検出されていない。

雨滝山奥 11 号墳丘墓

この墳丘墓は基盤の地山を成形することによって墳丘を形作っている。盛土は墳頂に 0.5m ほどが 確認されているにすぎない。

墳丘裾には、南・北・東側に幅 1.5m ほどの浅い溝があり、この溝底面には人頭大前後の角礫が浮 いた状態で乱雑に検出されている。この出土状況から墳丘に付設されていた列石が転落したと捉え るのが合理的である。なお、溝の掘削は僅かな盛土を確保するのが主な目的であったのであろう。

これらの造作の結果として、径約 16m、高さ 1.0~2.0m の列石を配した円形墳丘墓が形づくられ る。

この円形墳丘墓の墳頂には、径約 10m の円形を呈する平坦面が形成されており、この平坦面に、

雨滝山奥 10 号墳丘墓と同形態の外開きの竪穴式石室 2 基と土抗墓、壷棺墓の 4 基の埋葬施設(註 7)

が調査されている。

2 基の竪穴式石室は、その主軸をいずれも東西方向においている。両石室とも控え積みは雨滝山 10 号墳丘墓石室と同じく施工されていない。

1 号石室の墓壙は、盛土から掘削されている。墓壙壁と石室側壁石の間に若干の間隙があり、そ こに埋土が存在する。雨滝山 10 号墳丘墓石室のように墓壙壁に接して側壁石材を積み上げる式では ない。供献土器の新古の関係と関連し、石室構造からみても、11 号墳丘墓が後出であることが判断 できる。

石室側壁は上方に大きく開き、外開きに傾斜しているが、東小口壁の最下段石は大きめの石材を 使用し垂直に置かれている。四壁は角礫を乱積みに近い形態で外開きに構築されている。石室床面 には 20~30 ㎝の大きさの壁体を構成する同じ角礫を使用して棺床としている。角礫のより平坦な面 を上面に置いていることは言うまでもない。

石室の規模は下底で長さ 2.2m、幅 0.5~0.6m、上面で長さ 2.9m、幅 1.4~1.5m であり、高さ 0.6m を測る。

蓋石はなく、雨滝山奥 10 号墳丘墓石室と同じく木蓋による架構がなされていたものと捉えられる。

雨滝山奥 11 石室の上部には、供献儀礼に使用した土器が出土している。

2 号石室は 1 号石室より小ぶり竪穴式石室である。使用石材は角礫を使用しており、石材の大き さは 1 号石室と変わらない。1 号石室と併行に築かれている。

2 号石室の側壁は最下段の壁体から約 45 度に近い傾斜をもって積み上げられており、その横断面 をみれば、U 字形に近い形態を呈している。石室床面には中心より西側よりに一石が敷石的に象徴 的に置かれている。東小口壁は下段の 2 石がほぼ垂直に積み上げらており、1 号石室と同様な手法 である。西小口壁はゆるやかに外開きに積み上げられている。ここから木棺形態を推し量るのがよ いのであろう。2 号石室も蓋石は確認されておらず、木蓋を想定せざるを得ない。石室規模は下底 で長さ 1.4m、幅 0.35~0.4m、上面で長さ 2.3m、幅 1.0~1.2m、高さは 0.45m を測る。

両石室とも副葬品はなんら確認されていない(註8)。

土坑墓と報告されている埋葬施設は 2 号石室の南側に近接して併行に配置されている。規模は下 底で長さ 2.6m、幅 0.7m、上面で長さ 3.2m、幅 1.3m で、深さは 0.6m を測る以外の情報はない。壺 棺は 1 号石室の南側に配置されおり、小型の壺形土器を用いたものである。

② 雨滝山奥 14・2号「墳」(雨滝山奥 2 期)

雨滝山奥 14 号「墳」はB支群に、雨滝山奥 2 号「墳」はC支群に築かれている。14 号「墳」の 後円部墳頂には 2 基の竪穴式石室が構築されている。雨滝山奥 2 号「墳」の埋葬施設は、粘土槨と 報文されているが、用語の選択が適切ではなかったのであろう。木棺の設置方法としては、墓壙底 中央をU字形に掘り込んでいることは両埋葬施設も同じであるが、2 号「墳」には、粘土による木 棺上部の被覆は認められない。2 号「墳」からは、何らの遺物出土はなく、両者の先後の関係は論 じられない。直感としては、14 号「墳」→2 号「墳」に変遷すると捉えている。

雨滝山奥 14 号「墳」

『寒川町史』の報文では、墳丘は基盤の地山を成形することによって築成され、墳丘におよぶ調 査が、当時の開発側と埋蔵文化財保存側の力関係等による時間的制約から充分でなく、墳丘裾を特