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第7章 埋葬施設からみた弥生墳丘墓と前期古墳 -播磨地域の事例研究 -

第5節 加古川下流域の日岡古墳群の評価

日岡古墳群はⅢ-2段階からⅢ-4段階に築造された播磨地域を代表する重要な古墳群である。

加古川下流域左岸の丘陵上に立地する。墳長 75~90m クラスの4基の前方後円墳が一代一墳的に有 力首長系譜がたどれる播磨地域では唯一の前期の古墳群である。盟主的な有力首長が、Ⅲ-1段階 の揖保川下流域から加古川下流域の日岡古墳群ヘと播磨の地域権力の交替した現象と把握している。

初期倭政権の意思が強く動く政策的意図であろうと捉えている。

前方後円墳の占地や内容をみれば、日岡山1号墳(褶墓古墳)→南大塚古墳(2~3期)→西大 塚古墳(3期)→北大塚古墳(4期)と播磨地域における大首長の系譜の系譜がたどれる古墳群で

ある。勅使塚古墳(前方後円墳、墳長 54m)、東車塚古墳、西車塚古墳、狐塚古墳は円墳で傍系的首 長であろう。

日岡古墳群は加古川下流域の地域政治集団の墓域であり、複数系列型古墳群の類型(広瀬 1987・

1988)と理解できる。

南大塚古墳には、後円部と前方部に畿内的な整備な竪穴式石室(山本 1980)が構築されている。

前方部石室の主軸は南北方向で北頭位と推定される。後円部にも竪穴式石室が露出しており、その 基底部構造は判らないのであるが、前方部石室は不幸なもとでの破壊された前方部石室の構造から、

後円部石室も同じ基底部構造をもつ長大型石室と類推している。

前方後円墳の複数埋葬のあり方は寺戸大塚タイプと類型化(山本 1983)できる。前方部竪穴式石 室の基底部構造はB型を採用している。このタイプの基底部構造は河内地域の玉手山古墳群で発達 する構造と共通している。両地域の有力首長間には親縁な政治的関係が成立していると捉えられる。

日岡1号墳は、現在、「景行天皇皇后播磨稲日太郎姫命陵」として管理されている。「播磨風土記」

に褶墓の伝承が記載されている。「日本書記」にも同様な記載がみられ、播磨地域では唯一の陵墓と されている古墳である。

北大塚古墳は、日岡古墳群の中では、最後の前方後円墳である。日岡古墳群では唯一、周濠をも つ前方後円墳である。周濠の形態は、墳丘と相似形の鍵穴形周濠であり、方形革綴短甲型埴輪など の埴輪と鉄鍬先を採集している。

西大塚古墳の墳丘の流失は、はなはだしく、粘上槨の基底構造と捉えられる礫石が観察でき、畿 内的な粘土槨が構築されていた推測できる。

まとめると、有力な前期古墳が集中する播磨地域では唯一の古墳群であり、5基の前方後円墳と 3 基の円墳から構成されている古墳群である。大形の前方後円墳は、南大塚古墳(90m、Ⅲ-2~Ⅲ -3 期)→西大塚古墳(75m、Ⅲ-3 段階)→北大塚古墳(90m、Ⅲ-4 段階)と変遷していることが 断片的な資料からでも読み取れる。

日岡山1号墳(褶墓古墳 85m、2 期)、勅使塚古墳(54m、3 期)の位置付けは情報不足であるが、

占地と立地から日岡山1号墳を日岡古墳群の中で最も古く位置付けた。

埋葬施設の構造(竪穴式石室や粘土槨の構造)の特質と複数埋葬のあり方、及び、副葬品の内容 から捉えて、畿内地域の盟主的な有力首長が累世的に前方後方墳を築いている山城・向日町古墳辞、

河内・玉手山古墳群、摂津・弁天山古墳群と類似する構成や内容をもっており、大和地域の狭義の 柳本・萱生古墳群のヤマト政権の一翼を担っていた有力な首長墓群であると。

加古川下流域左岸の低地の海岸部に近くに築造された古墳として、聖陵山古墳(前方後円墳、70m)

がある。臨海性の古墳と捉えられ、日岡古墳群の首長層が制海権の確保を目指して築造した古墳と 理解される。

この時期の加古川下流域右岸域の状況をみれば、分散的に小形前方後墳や円墳が築造されている。

長慶寺山古墳(前方後円墳、34m)、竜山5号墳(前方後円墳、約 35m)、天坊山古墳(円頂)であ る。いずれも竪穴式石室であるが、畿内様式の竪穴式石室ではない。他に、三角縁神獣鏡の出土を 伝える牛谷天神山古墳がある。これら右岸域の古墳は日岡古墳群との関係で築造されているとみら

れる。日岡古墳群が中央のヤマト政権との政治的関係(第一次政治的関係)を契機にして古墳を造 営していると捉えれば、右岸域の古墳は、日岡古墳群との地域内部の政治的関係(第二次政治的関 係)のもとで築造されている。

加古川下流域の政治集団における支配階級の首長層の階層構成を墳形と規模で捉えれば、80m 前 後級、50m 級、30m 級の前方後円墳、そして、円墳の4階層ほどと把握できる。いずれも竪穴式石 室を採用している。このことは畿内地域における前期古墳の埋葬施設のあり方とは著しく異なる。

古備地域や讃岐地域の埋葬施設の様相と類似する。このことは、弥生墳丘墓の段階に竪穴式石室を 採用していることとの関連するのであろう。

なお、畿内的な整備な竪穴式石室(畿内様式の竪穴式石室)をもつ古墳として、兼田古墳と丸山 1 号墳がある。兼田古墳は市川下流域の丘陵上に築かれた墳長 48m の前方後円墳であり、丸山1号 墳は加古川上流域の加古川と篠山川の合流点を見下ろす独立丘陵頂部に造営された墳長 48m の前方 後円墳である。

他の播磨地域のⅢ段階(古墳時代前期)の主要な古墳をみていきたい。

明石川流域は、20m を超えない小形の長方形墳を古墳時代前期の期間、継続して造り続けている 地域である。割竹形木棺直葬墓とする地域である。天王山4号墳に続き、堅田神社1号墳、西神 44 号墳がある。

明石川流域では、前方後円墳が最初に築造されるのは前期後半であり、明石川支流の伊川中流域 の白水瓢塚古墳である。白水瓢塚古墳は丘陵上に築かれた墳長 68m の前方後円墳であり、長大で重 厚な粘土槨を埋葬施設としている。

古墳時代前期後半には、明石海峡を睥睨する 200m クラスの巨大な前方後円墳の五色塚古墳が垂 水丘陵上に築かれている。白水瓢塚古墳の築造も五色塚古墳の築造が契機になっているとみるのが 正鵠を射ているであろう。

加古川中・上流域では、岡ノ山古墳と前述した丸山1号墳がある。岡ノ山古墳は岡ノ山丘陵頂部 築かれた墳長 51m の前方後円墳であり、柄鏡式の形態を採る前方部を採用している。

市川下流域では、前述した兼田古墳、御旅山1号墳(前方後円墳、48m)、御旅山3号墳(円墳、

約 10m)がある。いずれも丘陵頂部に築かれている。

市川中流域では、清盛塚古墳(前方後円墳、40m)が丘陵頂部に築かれている。

古墳出現期で興盛を誇った揖保川下流域には前述した龍子三つ塚1号墳が前期前半のⅢ-2 段階 に築かれているのみである。古墳時代前期後半に築かれた輿塚古墳は眼下に播磨灘を臨海性の古墳 であり、五色塚古墳と類似した性格を有する古墳とみられる。

揖保川中流域には、吉島古墳の継続首長とみられる市野裏山古墳(前方後円墳、30m)が築かれて いる。

千種川流域では、下流域に三角縁神獣鏡が出土した西野山3号墳(円墳、17m)があり、上流域に は、播磨一宮の伊和神社を望む伊和中山1号墳(前方後円墳、62m)がある。

以上のように、播磨地域の主要な前期古墳を通覧すれば、50m クラスの前方後円墳が各地域的な 政治集団の有力首長を構成していたのではと捉えられる。ヤマト政権の関係から播磨地域を代表す

る盟主的な最有力首長は日岡古墳群における 70~90m の前方後円墳の披葬者であると考えられる。

日岡古墳群の首長系譜が安定しており、ヤマト政権との直接的な政治関係が考えられる。

第6節 まとめ

弥生墳丘墓と出現期古墳を分ける最も重要なポイントは、三角縁神獣鏡の副葬の開始であると捉 えている。三角縁神獣鏡の副葬の開始が大きな画期であり、長大型竪穴式石室の基底部構造に畿内 様式とも言える整美な竪穴式石室の成立と連動していると捉えている。Ⅲ-1段階の出来事である。

そして、200m クラスの巨大前方後円墳が出現している時期であり、大和地域東南部に列島内に中心 が形成された時期である。これらの現象、政治的文化的様式の成立も捉えられるこれらの現象の成 立をもって古墳時代の開始と理解している。

三角縁神獣鏡と伴出する古墳から出土する土器の時期は、すべて布留式期以降である。古式の三 角縁神獣鏡と伴出する土器を検討していきた。

西求女塚古墳の無文の二重口縁壺形土器は布留式古段階である。ただし僅かしか出土していない。

鼓形器台、有陵系小型丸底壺、竹管文を押捺する特殊な土器が圧倒的に多く、埋葬施設上での供献 土器儀礼も丹後地域の墳丘墓・古墳に通じる丹後地域の王墓の南進と捉えている。

権現山 51 号墳から採集されている二重口縁壺形土器は、吉備系統の形態で、胎土からみても吉 備地域産であり、時期は亀川上層式に比定される。畿内地域の土器様式の関係は、布留式古段階と 併行しているとみて問題はないであろう。

神原神社古墳の竪穴式石室から出土した土器は、小谷2式の典型であり、布留式期古段階と併行 していると捉えられる。

黒塚古墳出土土器も布留式期古段階で捉えられている。

庄内式期の土器と伴出する三角縁神獣鏡は、現状では知られていない。

播磨地域のキーポインの土器と捉えた讃岐産大型複合口縁壺と三角縁神獣鏡は共伴した例はない。

三角縁神獣鏡の大きさをみれば、舶載内行花文鏡や舶載画文帯神獣鏡等のように、大形鏡、中形 鏡、小形鏡という区別のない鏡種であり、22~23cm 前後の大型鏡しか存在しない特異な鏡である。

播磨地域において、弥生墳丘基と出現期古墳を分別する要素を個々に検討していきたい。

三角縁神獣鏡の副葬の有無が大きなポイントのひとつである。吉備産の二重口縁壺形土器・特殊 器台埴輪をもち、古式の三角縁神獣鏡群を副葬していた権現山 51 号墳が播磨地域の出現期古墳であ ることに異論はないであろう。吉島古墳も古式の三角縁神獣鏡 4 面を副葬する古墳であり、出現期 古墳の候補である。

長大型竪穴式石室の基底部構造の型式も判断基準のひとつである。

権現山 51 号墳は低い基台を造り出し、「代用」粘土棺床を設置する型式であり、奈良県黒塚古墳 や小泉大塚古墳と同型式を採用している竪穴式石室の基底部構造を採用していると言える。

出現期古墳(Ⅲ-1段階)から伴出する土器は、布留式古段階であることは前述したとおりであり、

良好な土器資料は前述した権現山 51 号墳しか知られていない。

図 3 で、前方後円形墳丘墓と出現期前方後円墳の墳丘形態を比較すれば、前方後円形墳丘墓では