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大和地域における前期大形古墳の埋葬施設の検討とその特質

第3章 畿内地域の竪穴式石室の研究―古墳時代前期の政治動向―

第3節 大和地域における前期大形古墳の埋葬施設の検討とその特質

大和地域の前期古墳の規模をみると、200m を超える前方後円墳が 13 基も数えられ、150m 規模の 古墳を含めると 26 基(菅谷 1967)の多くに達する。この現象は、大和地域にのみみられるところ であり、列島規模においても、畿内地域における他地域における古墳前期の前方後円墳の規模と比 較しても、厳然とした格差がそこに存在している。古墳時代の開始期から、大和地域に政権中枢が 形成されていることを物語っているのであろう。

これらの前期大形前方後円墳は、大和地域東南部にある広義の大和古墳群と大和地域北部にある 佐紀古墳群に集中的に築かれている。大和古墳群の南方に桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳が独立的 な様相をもって築造されている。

これらの大和地域における大形古墳の形成過程とその消長を論じた多くの論稿(森 1966、石野 1977、広瀬 1987・1988)がある。それらを参考にしながら、ここでは大形古墳の埋葬施設の検討を 行ない、大王あるいは大王クラスの埋葬施設の構造的特質とその推移をみていきたい。多くの大形 前方後円墳が陵墓に指定され、埋葬施設の構造を知れる古墳は少ないのであるが、その構造を知れ る古墳から検討していきたい。

1.桜井茶臼山古墳の埋葬施設

前方部は低く狭長な柄鏡タイプの墳長 207mを測る前方後円墳である。後円部中央に墳丘の主軸 に対して平行に築かれた埋葬施設が明らかになっている。

1961 年の報告書(上田・中村 1961)によれば、墳丘築成の段階、すなわち、墓壙掘削以前に後円

部に後円部中央に方形壇が造り出されており、その中央に墓壙を掘り、竪穴式石室が構築されてい る。

埋葬施設の築造過程を復原的に示すと、(1)方形壇の築成―(2)墓壙掘削―(3)基底部の整備―(4) 木棺安置―(5)壁体構築―(6)天井石架構―(7)方形壇周辺整備と順に行なわれたと捉えられる。

基底部構造は前述しているとおり畿内石室 A・Eの複合型式である。

なお、後述する吉備地域の石室基底部の関係から、墓壙底中央が若干掘り窪めていることを重視 したい。壁体の横断面形は持ち送り系統でなく、垂直に積み上げられている。北頭位である。

二重口縁壺形土器焼成前に底部中央を穿孔している。壺形埴輪と捉えるのが妥当であろう。1961 の報告書によれば、その出土状態は後円部の方形壇の下部に巡らされた貼石の外側を囲堯する形で 配置され、結果として竪穴式石室を方形に区画している状態を示していた。その方形壇の規模は、

石室の主軸と平行する東西辺が 13.0m、同じく直交する南北辺」が 10.6m である。このような二重 口縁壺形土器の配置は、埋葬施設を方形にめぐらす埴輪樹立と同じ本質をそなえた儀礼が(近藤・

春成 1966)が行なわれたことを示している。

副葬品は鏡・碧玉製腕飾類をはじめ、畿内の他地域では見られない玉杖・玉葉という碧玉製品を 副葬品にもつ 200m 級(=大王クラス)の古墳にふさわしい副葬品が出土している。

2008 年に桜井茶臼山古墳第 7 次の再調査が行なわれ、若干訂正するところも生じているが、基本 的な構図の訂正は必要ないであろう。

訂正するところは、二重口縁壺形土器の配置位置であり、方形壇下部の設置ではなく、方形壇の 上部の縁辺に樹立していると捉えられたことである。

そして、今回の調査の画期的な成果は、方形壇下部の外側に幅 1.5m、深さ 1.5m の布掘りの施設 が確認されたことであり、布掘り遺構の上には蓋石を載置する。その上部に板石を積み上げたとこ ろが確認されたことである。筆者は明器を埋納した施設であろうとみているが、上面を確認してい るのみで、布掘り施設は調査されていず将来に残された課題である。

もうひとつのこの調査の画期的なところは、鏡の出土量である。鏡はすべて細片での出土である が、少なく見積っても 57 面以上、多く見積ると 75 面に達する可能性が指摘されている。列島内で は圧倒的な出土量であり、今まで我が国で最も多く鏡を副葬されていたと言われた黒塚古墳・椿井 大塚山古墳の倍数の鏡が副葬されていたことである。その鏡種の組合せも驚くものであるが、今後 詳しく検討されていくであろう。

2.メスリ山古墳の埋葬施設

墳丘長 224m の大形前方後円墳である。後円部に主軸に対して直交する形に竪穴式石室が築かれて いる。

メスリ山古墳の埋葬施設は、通常の墓壙を穿つ手法を採らず、墳頂平坦面から埋葬施設の構築を 始めている。

副室と呼ばれる独立した遺物埋納のための石室の構築(註 16)、墓壙と同様な機能をもつ石塁壁 の構築(註 17)、方形壇を囲堯する方形埴輪列が二重に配列されていることなどは、200m 級の前期 大形古墳であるメスリ山古墳の埋葬施設を特徴づけるものである。また、椅子形石製品、玉杖と同

じ用途と考えられる十字形翼状飾付石製品をはじめ豊かな碧玉製品をもち、200 口以上にもおよぶ 鉄槍の他に、多様な鉄製武器をもつなど豊富な副葬品が埋納されていた。桜井茶臼山古墳と同様に 大王クラスの古墳と呼ぶのにふさわしい遺物内容である。副葬品の内容から桜井茶臼山古墳よりも 新しく位置づけられ、墳丘から出土した土器も桜井茶臼山古墳の土器よりも新しい時期のものであ る。

埋葬施設の築造過程を順に示すと、(1)墳頂平坦面上に下部石塁壁を構築―(2)基底部の整備と副 室下部の構築―(3)棺安置と棺内及び副室の副葬品の納置―(4)主室と副室の壁体構築―(5)天井部 の構築―(6)上部石塁壁の構築―(7)方形壇の築成―(8)埴輪の樹立と行なわれたと考えられる。

主室の基底部構造は基台を造り出す B 型式と粘土棺床設置部分と U 字形に掘り込むE型式が複合 して成り立っている B・E複合型式である。北頭位である。壁体は桜井茶臼山古墳と同様に垂直に 積み上げられている。石室高は 2.3m であり、石室高としては最も高い椿井大塚山古墳の 2.8m に次 ぐ高さである。

方形壇は礫層で構成されており、規模は石室主軸と平行する南北辺が 13m、同じく直交する東西 辺東西辺が 6.5m である。なお、方形壇を囲堯する埴輪列は南北辺が 15.2m、東西辺が 10.2m を測る。

方形壇の規模は桜井茶臼山古墳よりも縮小し、方形壇の本来的な意義が変質し、それに替わって方 形埴輪列が複雑な様相をもって出現している。

3.佐紀陵山古墳(ヒバスヒメ陵古墳)

三区に区切られた高低差のある周濠をもつ墳丘長 206m の前方後円墳である。墳丘の主軸と平行し て特異な竪穴式石室が築かれている。

梅原末治がその復原図を公にされてから、特異な構造をもつ竪穴式石室と指摘されていた。さら に、1967 年に石田茂輔が過去の記録とともに、この特異な竪穴式石室の構造を詳細に検討(石田 1967)されている。詳細な構造はそれに譲り、築造過程を復原的にみていきたい。

竪穴式石室は墓壙を掘らずに墳頂平坦面から構築しており、メスリ山古墳の構築原理が引き継が れている。

埋葬施設の構築順は、(1)墳頂平坦面に幅約 2.6m、推定長 9.1m、厚さ 0.3m の切石の底石を整備さ れた平坦面に敷く―(2)有孔大板石を底石に嵌め込む、それと同時に有孔大板石の外側に方形にめぐ る石列と砂利が敷かれる―(3)底石上に竪穴式石室の壁体部が構築され、同時に有孔大板石の外側両 方に墓道というべき割石小口積みの両壁が石室幅と同じ幅に構築される―(4)天井石を架構―(5)

方形壇を築成―(6)方形埴輪列を樹立するという過程が推定される。

特異な石室構造の要素として、切石の底石、有孔大板石、縄掛け突起をもつ天井石の存在等が指 摘できる。その内、天井石の縄掛け突起と下部の切り込み及び底石と有孔大板石の組合せ方は 長持形石棺に通じる要素が看取でき、石田が「この石室は竪穴式石室から石棺に移行する過渡的な 姿、時間的には石棺の発生する時期」の竪穴式石室と認識されたのは無理からぬところであろう。

しかしながら、竪穴式石室から石棺に移行するということはありえず、古墳前期から古墳中期に おける埋葬施設の観念が変化する時期の過渡的な形態と捉えられる。

特異な構造を分解して、それぞれの役割を考えてみれば、切石の底石は石室基底部、有孔大板石

は墓壙あるいはメスリ山古墳の石塁壁と捉えることができ、竪穴式石室の基本的な要素は踏襲して いると考えることができる。しかし、いわゆる前期竪穴式石室という概念の中では特異な形態であ ると言わざるを得ない。

方形石垣と呼ばれている板石積みの石列および方形埴輪列が底石の墓底と同レベルの墳頂平坦面 から造られている。

4.箸墓古墳・西殿塚古墳

両古墳とも壇と吉備地域に起源をもち、展開してきた宮山型特殊器台土器、都月型特殊器台埴輪 をもち、前方部が撥形状に開く大和地域に出現した古墳出現期の大形の前方後円墳である。

箸墓古墳はいわゆる典型的な前方部が撥形に開く形態であるが、西殿塚古墳はくびれ部から僅か 30m 付近から前方部が開き、より直線的に前方部が開いていく形態である。墳丘形態からは箸墓古 墳より後出的であると言える。そのことは 2000 年に報告(泉ほか 2000)された埴輪の型式からも 追証できる。西殿塚古墳では有段口縁の円筒埴輪が多く出土しており、埴輪列の存在が推定されて いることからも言える。

両古墳とも埋葬施設の内容は知られていない。後円部に造り出される壇を手懸りに前述した大和 地域の三古墳との関係をみていきたい。

両古墳とも墳形実測図の観察から、後円部の壇の存在は確認できる。

西殿塚古墳は実測図から後円部に方形壇だ造り出されてことは明瞭に読み取れる。前方部にも後 円部よりやや縮小した方形壇が認められる。箸墓古墳は特異な墳丘形態の五段斜面とみるか、墳丘 の一部と捉えるかは意見の分かれるところではあるが、西殿塚古墳およびその後に築造される 200m を超える大形前方後円墳である桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳に方形壇が存在していることから考 えて壇と把握している。その場合、箸墓古墳は墳形実測図からは円形を呈していると観察できる。

以上の想定のもとで、壇の規模をみると、箸墓古墳は 40m を超え、高さ 5m 前後と大きい。西殿塚 古墳でも 20m を超えている。その後の方形壇よりも明らかにに規模の大きいことが判る。

箸墓古墳から多くの特殊器台土器・特殊器台埴輪が採集されており、その位置は円形壇の上部平 坦面および壇下部の平坦面から採集されている。また、壇の上部からは特殊壺形土器、前方部から は焼成前に底部を穿孔した二重口縁壺形土器が採集(中村・笠野 1975)されている。円形壇上に特 殊壺形・器台埴輪が置かれ、これらを使用した祭祀が行なわれたことが窺い知れる。

5.小結

大和地域における 200m を超える前期大形前方後円墳には、いずれも、壇と埴輪による祭式が行な われたことが認められる。竪穴式石室と壇の築成の先後関係をみれば、第 4 表のように整理できる。

箸墓古墳、西殿塚古墳の壇と埋葬施設の関係をみれば、埋葬施設構築以前に壇が築成されていた