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第3章 畿内地域の竪穴式石室の研究―古墳時代前期の政治動向―

第2節 竪穴式石室基底部構造の類型と変遷

基底部構造は竪穴式石室を構成する一要素である。竪穴式石室はほかにも平面形態、石室横断面 の形状を規制する壁体部および控え積みの構造、天井部の構造、使用する石材の種類(註7)等を 踏まえて、総合的に類型化する必要がある。

しかし、検討してきたごとく、竪穴式石室基底部で執り行われる儀礼は「古墳祭式」の中で重要 な位置を占める。そうして、埋葬施設構築後における竪穴式石室の基底部の構造は、墳形、埴輪な どとは異なり「全く人目に触れる機会がなく、またその地域から他の地域に移動する」(北野 1967)

ことのないものである。このような特質をもつ石室基底部構造の型式が、地域を越えて類型化でき れば、極めて重要な意味をもつと捉えざるを得ない。その意味するところは石室基底部で執り行わ れる首長霊継承儀礼に立会い、儀礼次第を共有化していたと把握できる。そこには、共通のイデオ ロギーに基づく思想があり、古墳に埋葬される各首長相互間の親疎な政治的な動向が表現されてい るものと捉えることができるであろう。

先学の成果(註 8)に多くを負った前述したような認識のもとで、畿内地域における竪穴式石室 基底部の諸型式を検討していきたい。

畿内地域の長大型竪穴式石室は、粘土棺床とその四周や下部に礫石や板石する基底部がほとんど であり、その点については共通している。しかし、細部の構造については、地域的特性が認められ、

類型化できる。ここでは、第2章第2節で分類した長大型Ⅰ-a群の基底部構造の諸型式の歴史的 意義を検討していきたい。

1. A型式

墓壙底に板石を使用することが、主要な基底部構造を採用している石室を A 型式とする。A 型式 は粘土棺床の下部のみに板石を敷くものはこの型式と捉えていず、墓壙底の全面にわたって板石を 敷く型式と把握している。

この型式は、従来、特異な型式、あるいは、非類型的な基底部構造(田中 1973)と捉えられてい たものであるが、この型式の古墳の内容に一連の共通する要素が指摘できる。また、他の型式の基 底部構造にその影響が看取できる故に、A 型式としてその構造をみていきたい。

その典型例の初現は、どうも吉備地域にあると捉えて方がいい状況が看取される。その古墳は、

吉備地域の岡山県浦間茶臼山古墳(前方後円墳、墳長 130m)の後円部石室である。この石室は平坦 な墓壙底全面に僅か 5cm ばかりの礫石を介在させ、板石を敷き詰め、板石上の中央に粘土棺床を設 置している。そして、粘土棺床と墓壙壁との間に棺床肩部のレベルまで角礫と粘土をつめ基底部を

形成している。壁体の基礎は粘土上にある。石室は大きく破壊されていたが、裏込めの礫石の位置 から測って、高さは 1.7m と推定されている。

岡山県七つグロ 1 号墳(前方後方墳、墳長 45m)もこの型式と捉えてもいい要素をもつが、墓壙底 が僅かに U 字形に浅く掘り窪め、墓壙底ほぼ全面に板石を直接設置している構造であり、奈良県桜 井茶臼山古墳後円部石室(前方後円墳、墳長 207m)と同じように複合型式とみることもできるが、

墳形と墳丘規模が違いすぎる。

七つグロ 1 号墳が吉備地域に築かれた古墳であること、吉備地域にある弥生墳丘墓の短小型の石室 である岡山県金敷寺裏山墳丘墓(長方形墓、長辺 11m)や岡山県宮山墳丘墓(前方後円形墓、墳丘 長 39m)に墓壙底中央を U 字形に掘り窪める形態や都月 1 号墳(長方形墓、長辺 20m)のように墓壙 底を逆台形に掘り込む類型があることを考慮して、E―1 型式と分類しているが、A 型式と捉えても 違和感はない。

畿内地域では、桜井茶臼山古墳後円部石室(上田・中村 1961)、近江地域の滋賀県瓢箪山古墳後 円部中央石室(梅原 1938)において、その構造の詳細が判明しており、その特徴をよく把握できる。

桜井茶臼山古墳石後円部石室は、墓壙底中央を若干掘り窪め、墓壙底全面に直接板石を敷き並べ ている。板石の上下には礫石を使用せず、板石上に直接粘土棺床を設ける(註 9)構造である。

瓢箪山古墳中央石室は平坦な墓壙底の棺床下部にあたる中央部を除いて、板石を敷き並べ、つぎ にその板石間の中央部に礫石を充填し、さらにその上に板石を載置する。板石上の全面に粘土を貼 り、中央部に粘土棺床を設置する構造である。両古墳の間には構造上に微妙な差異があり、瓢箪山 古墳石室の方が複雑な様相を示しおり、後出的と捉えられる。筒型銅器を副葬していることから前 期後葉の築造であり、整合している。

桜井茶臼山古墳石室の壁体部の基礎は板石であるが、瓢箪山古墳中央石室の壁体部の基礎は粘土 である。

B 型式、C 型式、D型式の竪穴式石室(註 10)における壁体部の基礎は、礫石上にあることが多 数である。

A 型式の石室壁体部の基礎に礫石を使用せず、板石あるいは粘土上に基礎をおくことは、この類 型の竪穴式石室は定型化する以前の古式の様相をとどめる基底部構造と捉えるべきかもれない。

次に、従来、この型式の範疇で捉えられることの多い京都府椿井大塚山古墳後円部石室(梅原 1964)、同府長法寺南原古墳後円部石室(梅原 1936、都出編 1992)を検討していく。

椿井大塚山古墳石室は墓壙底に板石を二重に敷きつめ、その上に砂礫を介在さして礫石を置く。

粘土棺床はこの礫石の直上に設ける。壁体部と基底部の関係をみると、壁体部の基礎は桜井茶臼山 古墳と同様板石にある。調査は墓壙底全面に及んでいないため、墓壙全面に板石が使用されていた か否かは判然としないが、壁体部と基底部の関係から前者と推定したい。

長法寺南原古墳石室は粘土棺床の下部を方形に囲堯する一列の板石を並べ、板石と壁体の間に礫 石を充填している。このような粘土棺床下部のみに配列される板石列は、B 型式の元稲荷古墳後円 部石室、大阪府玉手山 5 号墳、C 型式の寺戸大塚古墳後円部石室にも認められ、ひとつの型式にお ける固有の特徴とはいえない。長法寺南原古墳石室の壁体の基礎は墓壙底に置いている。以上から

判断すると、椿井大塚山古墳石室は A 型の範疇で捉えることが可能な要素をもち、長法寺南原古墳 はこの型式に含めることを保留せざるを得ない。

A 型式の竪穴式石室の高さを検討すると、桜井茶臼山古墳石室は石室を高くするために壁体部上 部に若干加工した大型板石を積み上げるといった手法を採用しており、また椿井大塚山古墳石室も 2.8m という竪穴式石室では最大の高さをもつ。この型式の基底部構造の石室は概して石室を高くす ることに意を注いでいることが指摘できる(註 11)。また、前期古墳の中でも古い時期に編年され る古墳の竪穴式石室にこの傾向がみられる。その意味するところは現段階では明らかでない。

この A 型式の古墳は、前期古墳の中では 150m を超える大形前方後円墳に採用されており、中でも 大王クラスの墳丘規模をもつ古墳が含まれている。このことは石室の高さとともに、この型式の特 質といえるであろう。副葬品、墳丘形態等からみて出現期古墳の浦間茶臼山古墳、七つグロ 1 号墳、

椿井大塚山古墳があり、前期前半の桜井茶臼山古墳、前期後半の瓢箪山古墳と継続されて構築され ている。

2. B 型式

墓壙底中央に基台と呼ばれる細長い長方形の壇を造り出し、基台の四周の凹部に礫石を充填する 基底部構造をもつものを畿内石室 B 型式と分類する。B 型式は細部の特徴から3小型式に分けて捉 えることができる。

北野の分類するところは、墓壙底四周に周溝を造り出す型式を B―1 型式。周溝を造り出さないも のを B―2 型式とする。

B―3 型式は、今回、新しく設定した型式であり、少し複雑で説明を要する。奈良県立橿原考古学 研究所が大和地域東南部にある広義の大和古墳群を 1993~2000 年にかけて行われた発掘調査の成 果によって明確になってきた型式である。それまでにも、讃岐地域の香川県丸井古墳第 2 石室(大 山・松本ほか 1983)や播磨地域の兵庫県権現山 51 号墳(近藤編 1991)でこの型式の存在は知られ ていたが、その位置づけがいまひとつ明確に捉えられず、類型化がなされていなかった。

その後、近江地域の滋賀県雪野山古墳後円部石室(福永・杉井ほか 1996)、吉備の美作地域の岡 山県日上天王山古墳(近藤編 1977)でもこの型式であることが明らかになり、以外と地域性を超え て広い分布をもつ型式である。

この B―3 型式は、墓壙底中央にきわめて低い基台を造り出す基底部構造をもつ竪穴式石室である。

その低い基台の上に設置する粘土棺床や壁体基礎が粘土にあるのか、礫石にあるのかによって二つ 細分することも可能である。

大和地域の奈良県中山大塚古墳後円部石室(橿考研編 1997)、奈良県小泉大塚古墳後円部石室(橿 考研編 1997)は低い基台状施設の上に礫石を介在させることなく粘土棺床を設置する。

同じく、大和地域の奈良県黒塚古墳後円部石室(橿考研編 1999)、同県下池山古墳後方部石室(橿 考研編 1997)は低い基台状施設の直上に厚くない礫石を敷き、礫石の上に粘土棺床を設置する構造 である。

後者は畿内石室 C 型式の礫石式の範疇に捉えて型式分類することも可能であるが、広義の大和古 墳群においては、古墳時代前期の中で、中山大塚古墳→黒塚古墳→下池山古墳と順次築造されてい