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勝 次 郎

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Academic year: 2022

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(1)第5巻第2号(2004年12月) 早稲田社会科学総合研究. 良心とO02ωO冒オO■. 古賀 勝次郎. ってさえ拘束されないのだから︑もともと侵されることなどあり得. ない白由なものであるはずである︒このようになったのは︑8宇. 要であることは言うまでもない︒しかし︑良心︑文字通り解するな. 思想や言論の自由といった概念は理解できるし︑そうした自由が必. 彗o彗昌堕昌o邑ωg器とある︒それ故に︑守①&◎目o︷8富q88. 8富o︷g8を引く︒すると︑8易α竃gは︑8冨9o冨馬霧o?荷軍. のではないか︒そこで同氏は︑﹃オックスフォード英語辞典﹄で. 邑88を良心と誤訳したため正確な意味が伝わらなくなっている. ら良い心あるいは良︵まこと︶の心︑に何故白由が必要なのであろ. は﹁倫理意識の白由﹂あるいは﹁道徳感の自由﹂と訳した方が正し. 私は久しい間︑﹁良心の自由﹂という概念がよく分からなかつた︒. うか︒こうした疑問を持っていたのは私だけではない︑例えば丸谷. かった︑と丸谷は言うのである︒. 念を構成しにくい︒﹃大言海﹂によれば︑良心とは︑﹁物事ノ是非善. 理解できる︒だが︑良心と自由とが結び付けられると︑整合的な概. →︺ 丸谷は以下のように言っている︒﹁良心﹂も﹁自由﹂も個別には. 通じないことからも明らかであろう︒管a8易q彗8は良心に疾. ω998を良い良心︑σ邑8寡998を悪い良心と訳しても意味が. い﹂という価値的性質がない︑と言っている︒それは︑︸qOa09−. また湯浅泰雄も︑西洋の8畠o庁昌①には東洋の良心のように﹁良. 万一. 才一もその一人である︒. 悪の判別ヲ︑己レガ利害の外二︑正シクサバク天賦ノ心﹂︑とある︒. しくないという意味であり︑ず邑8冨q雪8は良心が答めること・. 百︺. もし良心が︑そのような﹁天賦ノ心﹂ならば︑﹁己レガ利害﹂によ.

(2) 遣徳法則に一致しておれば困o38冨9昌8の状態になり︑そうで. で︑大きく言って三つの可能性が考えられる︒即ち︑①神と共に知. 良心が共に知ることであるならば︑誰と共に知るかということ. 然であろう︒. なければず邑8易ら彗8の状態になる︒一般的にいえば︑西洋の. る︑②世間一他者一と共に知る︑③自己白身と共に知る︑である︒. 良心の呵責ということを意味する︒自己の行為が社会規範としての. 8婁ユ彗8は道徳判断の問題を中心にしているのに対して︑東洋の. 石川は︑①を神律的良心︑②を他律的良心︑③を白律的良心︑と呼. んでいる︒これら三つの良心の中で︑良心の白由が叫ばれたのは︑. 良心は人間の本性を中心にしている︒﹁西洋の8冨998は社会 ︵外界︶と対抗する自我意識の作用を示しているのに対して︑東洋. 代わって︑近代的良心として唱えられたのが︑自律的良心であつ. 神律的良心に対してであった︒近代社会が良心の白由への要求から. 8易α窒8を良心と訳したことにハッキリと疑問を呈しているの. た︒他律的良心は恐らく古くからあつたもので︑現在もあり︑それ. の良心論は︑⁝⁝外界にかかわる意識︵放心︶の根底に良心を位置. は︑カント研究者の石川文康である︒明治以降︑多くの欧米語が日. が自律的良心としばしば抵触してきたという事実もあるが︑良心の. 始まったというのは︑そういうことである︒そして︑神律的良心に. 本語に訳されてきたが︑日本語に相当する語がない場合には︑中国. 自由が叫ばれたのは︑直接的には神律的良心に対してであったので. づけている﹂︑と湯浅は言っている︒. の古典の中に訳語が求められた︒8易9雪8もその例で︑良心とい. ある︒. には︑﹁共に知ること﹂という8易9彗8の原義が欠けているから. 8富q彗8とは﹁似ても似つかない﹂語と一一一日わねばならない︒良心. 紀半ばあたりまでの西洋の良心論の歴史を簡単に振り返ってみるこ. られねばならなかったのかを中心に︑古代ギリシア時代から十九世. そこで先ず︑中世の神律的良心に対して︑何故良心の白由が唱え. ^4︺. う語が﹃孟子﹄から取られ︑その訳語となった︒しかし良心は︑. である︒確かに︑8富q88はラテン語の8姜q彗まに由来してお. とにしよう︒. ◎曽によると8冨9雪8には次のような意味がある︒H﹂自峯印邑ぎo至−. 丸谷才一﹃文章読本﹄︵中公文庫︑昭和五十五年︶︑七五. 六頁︒. ︵1一. 石川文康﹃良心論−その哲学的試み﹂一名古屋大学出版会︑平成十一. 湯浅泰雄﹃日本人の宗教意識﹂一講談社学術文庫︶︑三五四. 六六頁︒. ︵3一. 年一︑九頁︒. ︵4︶. ○げ碗oミ四昌o①1. ①O胴蜆M−Oo目ω⊆〇一﹄ω目①ωωoHユ胴=一四目〇一胃o自胴一峯o﹃巴ωo目ωoωIOo目ωoげ冒饒9﹄ω. ︵2︶. 注. り︑更にそれはギリシア語のω⁝①己8赫に淵源する︒そして何れの. 語にも﹁共に知ること﹂という意味がある︒日本において︑いまだ に﹁真の良心の概念﹂が定着するにいたっていないのは︑そうした ところに大きな理由がある︒それ故︑﹁わが国の場合︑﹃共に知る﹄. という意味での良心の樹立︑さらには白己白身と共に知るという意 味での近世ヨーロッパに見られる厳しさの定着が急務であろう﹂︑. と石川は言うのである︒カント的思想に立つ同氏の発言としては当.

(3) 良心とCONSCIENCE. ︷2︺. し︑過ちを犯した者は︑刑罰が始終眼の前にちらつくように思うほ. 教的色彩を帯びている︒﹁いつの日か自然が私のいのちを取り戻そ. どなのだ﹂︑と言っている︒これに対して︑セネカの良心は些か宗. ︵←古代ギリシ ア か ら ル タ ー ま で. うとするか︑あるいは理性がそれを放免しようとするか︑いずれに. 西洋におけるOO乞ωO冒ZO向の歴史. 8易αg8のギリシア語源はω昌①巨霧オであるが︑これも共に. せよそのときには次のように証言のうえ︑この世を去っていこう. 二. ︵ω旨︶知ること︵①巨邑ω︶を原義としている︒ω彗9宗ωげの最も古. 使用されていた︒ω昌①巨易尿がしばしば現れるようになるのは︑紀. 死んだ後神々の手中に置かれているとされる刑罰と結びつけられて. ように言っている︒﹁以上記したゆえんはすべて︑おまえがあの人. った﹂︑と︒マルクス・アウレリウスはその﹃自省録﹄の中で次の. 由も私により制限されなかったし︑私の自由も少しも制限されなか. −私は疾しくない良心を愛し︑良い仕事を愛した︒また︑誰の白. 元前一世紀末ごろからで︑ディオドロスによって一般的に使われ. のごとく︑一点の良心の疾しさもなく︑最後の期を迎えるように︑. い用例はデモクリトスの断片だとされる︒そこではω冒9宗色ωは︑. た︒ω昌①註①多は先ず何よりも自己自身の行為の評価に伴う意識で. 7一 とのためである︒﹂. ギリシアでも見られていたのであって︑詩人のメナンドロスは︑. ていた中世においてである︒しかしその萌芽的なものは︑既に古代. 神律的良心が展開されたのは勿論︑キリスト教︵神学︶が支配し. ^ヨ︺. あり︑とりわけ自己の悪行についての不安や恐れを伴う時︑8冒− ω998の概念になる︒このようにω冒色宗色ωとは人間の知・情・. 意の総体としての内面の意識ということになる︒. 古代ギリシアの偉大な哲学者であるプラトンやアリストテレスに. 書﹂にも良心といった観念は見られたが︑だが十分な良心の考えは. ﹁我々のすべてにとって良心は神である﹂︑と言っている︒﹃旧約聖. スの﹁無知の知﹂には﹁白己白身と共に知る﹂という意味の良心が. 展開されなかった︒これはヘブライ語に良心に相当する語がないこ. 彗鳥巨gげという語が見られないのは意外である︒しかしソクラテ. 窺える︑と石川は言う︒良心について議論されるようになるのは︑. とと関係があるともいわれる︒それでもω昌9宗穿の用例は二・三. →一. 古代末期で︑ポリスが崩壊し︑社会が大きく変動して︑人々が否応. みられ︑例えば﹃外典﹄の中に︑﹁悪が本来怯儒なものであること. は判定を受けるとき証明される︒さらに良心に責められるとき悪は. なく自己の内面を見つめなければならなくなつてからである︒. ストア学派のキケロにとって︑良心は道徳上の指針であって︑生. キリスト教の神律的良心としては︑パウロのそれが代表的なもの. その苦しさを加える﹂︑とある︒. ﹁良心の力は強い︑審判人諸君︑しかもどちらの側にしても強いの. である︒﹁たとえ律法を持たない異邦人も︑律法の命じるところを. 涯正しい良心に違背してはならぬものであった︒キケロはまた︑ だ︒だから︑何の罪も犯さなかった者が怖じ気をふるうこともない.

(4) 白然に行えば︑律法を持たなくとも︑自分白身が律法なのです︒こ. ういう人々は︑律法の要求する事柄がその心に記されていることを. あることが知られる︒﹂だが良心の働きは︑その根源である能力態. ︵ぎ事毒︶に従属することもある︒﹁はたらきの根源は能力態であ. るというところから︑時としては﹃良心﹄という名辞が︑第一の本. こから形を受ける能力態は多々あるとしても︑やはり然し︑これら. ︑. 示しています︒彼らの良心もこれを証ししており︑また心の思い. 性的な能力態たる良知に帰属せしめられることもある:::良心がそ. 一﹁ローマ書﹂二・十四︑十五一︑とパウロは説いている︒. のすべてが︑或る一つの第一なるもの︑すなわち︑良知と呼ばれる. ︑. も︑互いに責めたり弁明しあって︑同じことを示しています︒﹂ アウグスティヌスの良心は︑人間の内面だけでなく神にも向かう. ﹃諸々の第一基本命題についての能力態﹄巨巨巨ω肩ぎo;昌. 一5一. ものであった︒即ち良心は︑自己を自己の面前に立たせると同時 ティヌスは神の恵みを受け入れるには︑人間は自己の無力を自覚せ. である︒言うまでもなく︑良知は良心と同じく︑﹃孟子﹄に出てい. この文章に出てくる良知がシンテレーシス︵毫暮撃窃亘の訳語. 一7一 冨昌亘02冒にその有効性を仰いでいる︒﹂. ねばならぬとするが︑この自覚の主体が良心とされる︒アウグステ. る言葉で︑特に良知は陽明学派によって最も重んじられた用語であ. に︑自己を神の面前に立たせ︑自己の全てを晒す︒また︑アウグス. ィヌスは﹃告白﹄の中で以下のように語る︒﹁わたしの主よ︑わた. った︒良知の訳語の適否については︑良心のそれと共に︑後に詳し くみることにする︒. しの良心は︑それ自身の無垢によるよりも︑むしろあなたのあわれ. みに希望をつなぐことによって︑安んじて日々あなたに向かって告. では︑シンテレーシス︑即ち︑良知はどういうものであろうか︒. 一6一. 白するのである⁝⁝︒﹂このようなアウグスティヌスの良心論は︑. トマスは言う︒﹁我々に本性的に与えられた﹃観照的なことがらに. 力君一g3に属しているわけではなく︑ただ︑一つの特殊な本性的. パウロの良心概念を継承するものであり︑ルタiの良心論を準備す. 中世最大の神学者トマス・アクィナスは︑良心を個別的な﹁他の. な能力態臣事ε畠巨邑示に属しているのであって︑こうした能力. ついての諾々の第一基本命題﹂というものは︑決して或る特殊な能. ものにつながる知﹂とする︒即ち︑良心は能力ではなく働き︑つま. 態を我々は良知ω着宗冨ωげと呼んでいるにほかならない︒だからし. るものであった︒. り︑知を何ものかに対して秩序づけることである︒トマスは次のよ. て良知は﹃善へ励ます﹄とか﹃悪につぶやく﹄とかいわれるのであ. ︑. うに言う︒﹁﹃良心﹄8冨q雪夢とは﹃他のものにつながる知﹄昌昌. って︑つまりは我々が︑発見へと進むにも︑見出されたことがらを. ︑. 昌oωq彗旨の意である︒だが何ものかに対する知の適用と・いうこ. 判断するにも︑これらの第一基本命題を用いるものなればこそであ. ︑. とは︑何らかのはたらきによっておこなわれるものにほかならな. る︒かくして︑良知が能力ではなく︑却って本性的な能力態である. ︑. い︒かくて︑こんなふうに名辞をもとにしても︑良心がはたらきで.

(5) 良心とCONSCIENCE. ことは明らかである﹂と︑このようにトマスはシンテレーシスを説. 百﹈ 良心は教会の支配下に置かれるようになった︒ルターがヴォルムス. ンテレーシスを︑怒り︑欲情︑理性とは区別される︑それら以上の. ﹃エゼキエル書注解﹂で初めて使った︒そこで︑ヒエロニムスはシ. トマスも言うように︑シンテレーシスという語はヒエロニムスが. るのです︒私は取り消すことができないし︑またそうしようとも思. された時︑次のように言った︒﹁私の良心は神の言葉に縛られてい. つまり異端審問の問題があったのである︒ルターは上のように勧告. 良心論によつたのである︒ここに中世カトリック教の最大の問題︑. なたの義務に従い良心を棄てなさい﹂と勧告されたのは︑かような. の国会で︑﹁マルティンよ︑良心が過誤に陥っているのだから︑あ. 能力︑即ち神酌法則の保持者として誤ることのないものとした︒ト. いません︒なぜなら白分の良心に反して行動することは危険である. 明する︒. マスは︑シンテレーシスを最高能力の理性と一体化させ︑その能力. し︑正しくないからです︒﹂. このルターの答弁の中に︑ルターの良心論と宗教改革の核心が明. 態とし︑誤ることのないものとしたのである︒これに対して︑良心. 瞭に表現されている︒即ち︑ルターにおいては良心は︑神との関係. は︑その能力態のうちに保持されている法則を特殊な個別的場合に. 適用する働きとされたのである︒中世において︑詳しくシンテレー. せられていたのか︒それは︑中世の神学においては︑良心は個別知. の中で﹁実存的に﹂捉えられているということであり︑そしてそう. このように︑シンテレーシスは良心の根源であり前提である︑つ. であって︑普遍知であるシンテレーシスに従属する概念であった. シスについて論じたのは︑ラングトンやフイリプスなどであるが︑. まり良心を個別知とすれば︑シンテレーシスは普遍知ということに. が︑実はそれが教会が人々の良心の支配を正当化する理論となり︑. した良心は︑中世の教会の権威から白由でなければならない︑とい. なる︒良心はいってみれば︑三段論法の結論として論じられるので. 教会がそれを利用したからである︒即ち︑教会は良心の過誤を防止. 何れにしても︑シンテレーシスは道徳的価値の基準を指令し︑生得. ある︒即ち︑その三段論法は︑﹁普遍知を提示するシンテレーシス. するという名の下に︑人々の良心を指導し︑人々の良心を教会の支. 的に与えられたものであり︑良心はシンテレーシスの具体的・個別. の大前提と個別知を示す小前提︑さらに良心が適用されて行う結. 配下に置いたのであった︒ルターの実存的良心が︑教会の権威から. うことである︒何故︑中世においては︑良心は教会の権威に従属さ. 論﹂とからなる︒そこでは︑大前提は不可謬の真理を述べたもので. 良心の自由を叫ばしめたのは当然であった︒そしてそれは︑ルター. 的ケースヘの適用 と さ れ た ︒. あるので誤ることはない︒従って︑良心に過誤が生じるとすれば小. の神学からシンテレーシスを排除することになった︒. もっともルターは︑最初から︑シンテレーシスを排除していたの. 前提に誤りがある場合である︒ところで︑中世の教会では︑﹁良心 の過誤﹂を防止するために︑﹃良心の事例大全﹄によって指導され︑.

(6) から直ちに良心が登場するのではない︒シンテレーシスから離れた. ら︑シンテレーシス概念は使われなくなった︒だがシンテレーシス. シスの考えを受け容れていた︒しかし︑﹃ローマ書講解﹂の中頃か. ではなく︑﹁ローマ書﹂を講義する頃までは︑伝統的なシンテレー. は︑カントの良心論が︑スミスのそれに似ているということであ. しく論じたので︑直ちにカントに行くことにしよう︒興味深いの. た︒注目されるのは︑スミスの良心論だが︑これも別のところで詳. が︑彼らにおいては︑良心は﹁道徳感覚﹂と略々同じものであっ. ットを介して︑道徳感覚学派の人々によって継承されることになる. る︒. 良心には︑自己の欲望を神の意志とする危険性がある︒ルターにお いては︑先ず﹁試練における言い表わしえない御霊﹂がシンテレー. カントの良心論は自律的良心論であるが︑また良心法廷説ともい. 近代初期の西洋において良心を論じた者として逸してならないの. 一2一近代西洋の良心論. 者からは良心が理性に発するものであるということを︑そして︑後. 良心論を継承したものであることを示している︒即ちカントは︑前. どの近代合理主義の良心論を受け継ぎながら︑他方でキリスト教の. シスに代わって登場し︑その後︑良心へと移行するのである︒. は︑ホッブズ︑ロックなどであるが︑彼らの良心論については既に. 者からは良心が法廷であることを︑それぞれ継承し独白の仕方で発. われる︒それは︑カントの良心論が︑一方でデカルトやヴォルフな. 別のところで詳しく論じているので︑ここでは要点だけを極く簡単. 展させたのであった︒. の自由を説いて止まなかったが︑しかしロックは神との関係を絶た. ころにもそれを認めていたのであろう︒ロックは最晩年まで︑良心. ズの政治理論に専制主義への傾向を見ていたが︑恐らくそうしたと. 解体することになろう︑というところにあった︒ヒュームはホッブ. 的良心に従属しなければならない︑もしそうでなければ市民社会は. 心﹂と﹁私的良心﹂に分け︑市民社会においては︑私的良心は公共. 言うのであるが︑カントはその神律的良心論を近代的な自律的良心. ち︑﹁律法を持たなくとも︑白分自身が律法なのです﹂︑とパウロは. かし︑カントはその神律的良心を近代的な良心へと転回させる︒即. 述べたようなバウロの神律的良心の考えが受け容れられている︒し. え︑あるいは弁明しあう﹂のである︑と︒ここには明らかに︑上に. その内的法廷の前で︑人間の﹁もろもろの思いが互いにあるいは訴. カントは言う︑﹁人問の内なる内的法廷の意識が良心であ﹂り︑. ^g︺. に述べるに止める︒ホッブズの良心論の核心は︑良心を﹁公共的良. れた良心というものを許さなかった︒ロックにとって︑良心の白律. 論へと転回させていくのである︒しかしそれは︑近代合理主義の白. 一10︺. 化は︑人間が傲慢になること︑人間が神になることであった︒これ. 律的良心論ではなかった︒. カントによれば︑法廷︵a;目︶には︑二種類ある︒人間の法廷. は︑ルターがシンテレーシスから離れた良心に危険性を感じていた ことと何か通じるものがある︒ロック以後の良心論は︑T・バーネ.

(7) 良心とCONSCIENCE. われ白身を自分の心術という点から裁かねばならないということ以. そして神的法廷について考えられることは︑まさにわれわれがわれ. われをわれわれの心術そのものという点から判定するからであり︑. あり︑良心は神的法廷の代弁者である︒何故なら﹁内的法廷はわれ. る︒そして︑カントによれば︑内的法廷は現世における神的法廷で. 廷︵︷o2冒8冨98夢①︶である内的法廷︵申o;目ぎ苛﹃昌昌︶であ. 体ではなく主体だけに関係するのである︒従って︑カントの良心は. したり断罪したりする実践理性﹂だからである︒従って︑良心は客. 用するいちいちの場合に︑人間のまえにその義務を示して︑彼を赦. る︑というのと同じであろう︒というのは︑﹁良心とは︑法則を適. ねばならないというのは︑義務を認めるべき義務を自ら持ってい. もと道徳的存在者として良心を自分の内に持っている︒良心を持た. 要するに︑カントにとって良心は実践理性であった︒人間はもと. えられるのである︒. 外ではないから﹂だ︑と︒良心は︑それ故に︑神の前で果たすべき. 白律的良心と言ってよい︒しかし︑忘れてならないのは︑そこには. ︵家;昌巨昌彗目昌︶である外的法廷︵a昌昌異討昌自昌︶と良心の法. 責任の主観的原理と考えられねばならない︒周知のように︑カント. 神なる理念が要請されていたということである︒. カントが︑良心を法廷と理解するのは︑人間の中に二つの白己が. 良心をあくまで主観の内部で議論した︒カントのこうした良心論を. カントの良心論には神学的側面がかなり残っていたが︑カントは. 一11一. にとって神なる理念は︑実践理性の要請するところであった︒. 存在するとしているからである︒例えば︑カントは注においてであ. 批判して人倫的良心とも言うべき良心論を展開したのがへーゲルで. ︑. るが︑以下のように言っている︒﹁良心において自己を告訴し裁判. ︑. あった︒へ−ゲルの良心論も︑前期から後期へとその展開を見るこ. ︑. ︑. する人間は︑自分自身を二重の人格性において考えなければならな. ︑. ︑. とができる︒前期の﹃精神現象学﹂では︑良心は︑主観的確実性に. ︑. ︑. いが︑この二重の自己⁝⁝ということは説明が必要である︒1原. ︑. よる道徳的自己意識とされた︒即ち︑﹁良心が︑自分自身で白分の ︑. 告でありしかも被告である私は︑まさに同一の人間である︒しか. ︑. 真理をもっているのは︑自分白身の直接の確信においてのことであ 竈︺. ︑. し︑白由の概念に基づいており︑人間がそこにおいては彼が白分自. る︒自己自身をそのままで︑具体的に確信していることが︑良心の. ︑. 身に与える法則に臣従するところの︑道徳的立法の主体としては︑. 本質である﹂︑と︒しかし︑そのような良心には客観的内容が欠け. ︑. ︑. こうして後期の﹃法の哲学﹄では︑良心の内容の客観性が強く説. ︑. 人間は︑理性を賦与された人間として︑感覚的人間とは別の人間と. ていることが指摘されていた︒. ︑. 考えられなければならない﹂︑と︒このように︑カントにおいては︑. ︑. 裁判官としての白己と被告としての白己の二人の自已が存在するの. ︑. かれることになる︒﹁良心は︑それが真実であるか否かという判断. ︑. である︒前者を叡知的自己︑後者を感性的自己といってよいだろ. に服せしめられているのであって︑良心がただおのれの白己だけを. ︑. う︒勿論︑こうしたことは︑実践的視座においてのみそのように考.

(8) の権利︑つまり利己的人間の権利︑人間および共同体から切り離さ 口一 れた人間の権利にほかならない﹂ものであった︒. 引き合いに出すのはとりもなおさず︑良心がそうであろうと欲する もの︑つまり︑理性的で即白かつ対自的に適用する普遍的な行為の ︑. 良心が階級史観に従属するものであることをハッキリ論じている. ︑. 仕方という規則︑に反している︒それゆえに国家は良心を︑その独 ︑. のは︑﹃ゴータ綱領批判﹄においてである︒即ち︑マルクスは言う︒. ︑. 自的な形式においては︑すなわち主観的な知としては︑みとめるわ. 当代の﹁文化闘争﹂時代に︑﹁良心の白由﹂という標語が意味を持. ︑. けにはいかない﹂︑従って︑﹁真実の良心は︑人倫的な心がけのなか. ︑. つのは︑﹁各人が宗教的並びに肉体的︹欲望︺をば︑警察から余計. 一B一. ︑. にふくまれている︒﹂つまり︑真実の良心は︑国家のような具体的. ︑. な干渉をされることなしに︑成就しえなければならぬ﹂︑という形 ︑. な人倫組織において実現され得る︑とへーゲルは言うのである︒こ. ︑. でのみである︒しかし︑﹁労働者党は︑ブルジョア的﹃良心の白由﹂ ︑. のように︑へーゲルの良心論は︑カントの良心が説かれていた主観. はあらゆる可能な種類の宗教的良心の自由の認容以外の何ものでも. ︑. の領域を越え︑客観的な社会の領域でも論じられることになったの. ないこと︑そして労働者党はむしろ宗教的幽霊から良心を解放する. ことに努力するものであることについて︑彼等の自覚を発表しなけ. ︑. である︒. へーゲルの良心論を極端まで推し進めたのがマルクスであった︒. は﹃ユダヤ人問題に寄せて﹄において良心の自由の問題を取り上げ. ものであった︒従って︑その良心と階級史観との関係は︑中世のカ. このように︑マルクスにおいては︑良心は階級史観に従属される. 元一 ればならなかった﹂︑と︒. ている︒先ずマルクスは︑﹁公民の権利﹂と区別される﹁人間の権. トリック神学における良心とシンテレーシスとの関係に似ているの. 即ち︑良心は階級史観に従属するものとされたのである︒マルクス. 利﹂の中に︑﹁良心の白申すなわち任意の祭祀をおこなう権利﹂. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. キケロ﹃ミロτ弁護﹄︵﹃キケロー選集﹄2所収︑岩波書店︶︑三八九 頁︒. マルクス・アウレリウス﹃自省録﹂︵﹃世界の名著﹂13所収︑鈴木照雄. 金子晴勇﹃恥と良心﹂︵教文館︑昭和六十年一︑五四頁︒. 新共同訳﹃聖書﹂︵日本聖書協会︑昭和六十三年一︑二七五頁︒. 訳︶︑四七一頁︒ ︵5︶. 四四頁︒. である︒. ︑. 石川文康﹃良心1その哲学的試み﹂︑三二. が含まれている︑と言う︒そして例えば︑ペンシルヴァニア州憲法 第九条︑第三項を引用する︒﹁すべての人間は︑その良心のすすめ に従って全能の神を崇拝する不滅の権利を自然から受■けとったので. ある︒⁝⁝人間的権威は︑それがいかなるもの︑いかなる場合で ︑. も︑良心の問題に干渉したり︑精神の力を支配してはならない︒﹂ こうしてマルクスは︑﹁信仰の特権は一般的な人権の一つなのであ る﹂︑と論ずる︒だが︑マルクスはその頃には既に︑唯物史観にか. なり近づいていた︒それ故︑その人間の権利も︑﹁市民社会の成員. ?↑注. 43.

(9) 良心とCONSCIENCE. アウグスティヌス﹃告白﹄︵下︑服部英次郎訳︑岩波文庫一︑七頁︒ トマス・アクイナス﹃神学大全﹄6︑大鹿一正訳︑創文社︑一八一. ルタ﹈の以下の議論は︑金子晴勇﹃ルターの人間学﹄一創文社︑昭和. ヒュームのホッブズ批判は以下参照︒宛・↓膏ダ.︑5Ro旨9昌︑︑ぎ 以下︑カント﹃人倫の形而上学﹄一﹃世界の名著﹂32﹃カント﹂所収︑. へーゲル﹃精神現象学﹄︵﹃世界の大思想﹄12︑樫山欽四郎訳︑河出書. マルクス﹁ユダヤ人間題によせて﹂一城塚登訳﹃ユダヤ人によせて・ へーゲル法哲学批判序説﹄︑岩波文庫一︑四〇−二頁︒. マルクス﹃ゴータ綱領批判﹂一西雅雄訳︑岩波文庫︶︑四三−四頁︒. ︷1﹂. ができる︒﹃孟子﹄尽心章句に﹁人の学ばずして能くする所の者は︑. 其の良能なり︒慮らずして知る所の者は︑其の良知なり﹂︑とある︒. 一2一. 朱子は﹃孟子集註﹄で︑﹁良者︒本然之善也︒程子日︒良知良能︒. しく論じられるようになるのは︑王陽明からである︒正しく陽明. 皆無所由︒乃出於天︒不繋於人﹂︑と注釈している︒良知がやかま. は︑自らの学問の根底に﹁致良知﹂を置いた︒それは︑﹃大学﹄の. ﹁致知﹂の知を孟子のいう良知とし︑それを学間の根本としたので. あった︒陽明は﹃伝習録﹄の中で︑良知について色々と説いてい. ︹ヨ一. る︒﹁凡そ意念の発するや︑吾が心の良知は自ずから之を知る︒其. の不善ならんか︑亦惟だ吾が心の良知白ずから之を知る﹂︑と︒ま. 一4一 た︑﹁良知は即ち是れ天理﹂︑﹁良知は是れ天命の性﹂︑と︒このよう. に︑陽明の良知は個人的なもののようでもあるし︑超個人的なもの. のようでもある︒しかし︑陽明の良知は︑シンテレーシスのような. 普遍知ではなく︑寧ろ︑主観的な傾向の強いものである︒これは︑. 陽明の学問が理の普遍性を説いた朱子の学問に対抗して築かれたも. のであることを考えると︑当然のように思われる︒. 上で見たように︑日本ではω着箒篶色ωは良知︑8姜q雪8が良心. ば︑﹃翁問答﹄の中で︑﹁うまれつき愚にして迷ひふかきものも本心. といわれる中江藤樹も良知が学間の根本であるとした︒藤樹は例え. 王陽明の学問は︑日本にも大きな影響を与え︑日本の陽明学の祖. と訳されているけれども︑良知も良心も古くから使われてきた言葉. の良知あきらかになれり﹂︑また︑﹁身をたて道をおこなふ本は良知. 東洋・日本の良心. であり︑独白の意味を有していた︒それらが適切な訳語であるかは. を鏡として独を慎むにあり﹂︑と述べている︒王陽明も良知を鏡に. に説いているようだが︑それでも藤樹の良知説は︑主観主義を大き. ^5一. 後で見るとして︑初めに良知と良心が︑これまで東洋・日本でどの. 例えていた︒良知については︑藤樹の方が陽明よりも超個人主義的. 先ず良知であるが︑良知も良心と同じく︑﹃孟子﹄まで遡ること. ような意味で用いられてきたかを見ることにしよう︒. 三. ︵15︶. ︵14︶. ︵13一 へーゲル﹃法の哲学﹂︵﹃世界の名著﹄35︑藤野渉・赤沢正敏訳︑中央 公論社︶︑三四〇−六八頁︒. 房一︑三六三頁︒. 一12一. 二頁︑参照︒. 森口美都男・佐藤全弘訳︑中央公論社︶の五五五−六頁︑五九八−六〇. 一11︶. ごミ亀§昌ぎo印昌雪壷胴①d目川く.零鶉ωら.菱くー. ︵10︶. ︵9︶ ホッブズなどの良心論は︑拙稿﹁D・ヒュームの経験論的人間学の研 究二十五﹂︵﹃早稲田社会科学総合研究﹂第四巻第一号一参照︒. 五十年︶︑一九七頁以下参照︒. ︵8︶. 九〇頁︒. 76.

(10) 心という語は殆ど使っていない︒これに対して︑古学派の伊藤仁斎. く超えるものではない︒しかし︑藤樹は良知は多用したものの︑良. と知とはかなり隔たりがあるように思える︒. どの昌o邑ω雪需により近い概念ではないだろうか︒しかし︑ω彗ω①. ていない︒陽明の良知は︑イギリス道徳感覚学派のシャフツベリな. 儒学が支配的学問であった江戸時代には︑多くの優れた儒学者が. は︑以下に見るように︑良心を多用し重んじたが︑王陽明の良知説 は批判した︒即ち︑﹁人之良知良能︒而本出於所不学不慮︒達之天. し︑﹃孟子古義﹂では︑﹁孟子の学は︑仁義の良心を存するを以て本. の諸経典の中で﹃論語﹄を最も尊重したが︑また﹃孟子﹄も重視. 輩出したが︑伊藤仁斎もその一人である︒そして仁斎は︑良心を多. 明治以後︑中村正直︑西周︑西村茂樹などが8易9彗8を﹁良. と為﹂と一一一日っている︒また︑﹃童子問﹄の中でも同様のことが言わ. 下︒是為仁義而已︒⁝⁝近世陽明王氏︒専講良知︒而不知仁義之. 心﹂と訳すようになって︑そのまま定着したが︑﹁良心﹂も良知と. れており︑聖人のいう心は﹁皆仁義の良心を指して言﹂ったもの. 用し︑儒教において占める重要な概念であるとした︒仁斎は︑儒教. 同じく︑﹃孟子﹄に出ている︒﹃孟子﹄巻第十一告子章句上に︑﹁人. ^11︺ で︑﹁仁義の良心を放失﹂したのが﹁放心﹂だと仁斎は言っている︒. ^6︺ 本︒其亦惇干孟子之旨也︒﹂︑と︒. に存する者と難も︑豊仁義の心無からんや︑其の良心を放する所以 ^7一 の者︑亦猶斧斤の木に於けるごときなり﹂︑とある︒朱子は﹃孟子. しかし︑荻生狙棟は仁斎を批判して次のように言う︒﹁本心亦出於. 一10一. 集註﹄の中で︑﹁良心﹂を注釈して︑﹁本然之善心︒即所謂仁義之心. 孟子︒観其以郷与今対言︒其意但謂其初時之意耳︒宋儒以為心之本 ⑰一. 豆一. 也﹂︑とする︒良知説を唱えた王陽明は︑良知ほど良心を使ってい. 為に︑箇の良心の萌動する処を指出して︑他をして此より培養し将. ている︒﹁孟子の夜気を説くも︑亦只だ是れ其の良心を失へる人の. ようにも思える︒例えば陽明は︑﹃伝習録﹂の中で次のように言っ. 平宛の書簡に出ている良心はどうであろうか︒同書簡には︑森有礼. 冒頭には次のようにある︒﹁幕庭御悔悟良心被為発︑誠に恐悦の至 ^M一 也︒⁝⁝御良心御培養是第一の所希也︒﹂しかし︑横井佐平太・大. 多用していて注目される︒主著﹃国曇二論﹂の中には︑﹁側但の良 竈一 心﹂といった表現が見られる︒また︑﹁新政に付て春嶽に建言﹂の. 幕末に活耀した知識人の中で︑横井小楠は良心という語を比較的. 然︒仁斎先生以良心︒皆不知辞者已﹂︑と︒. ち去かしむ︒今已に良知を知得ること明白にして︑常に致知の功を 百一 用ひば︑即ち已に夜気を説くを消ひず﹂︑と︒このように良心は良. などから聞いた話が書かれている︒アメリカの宗教家ハリスは︑. ないが︑しかし良心が良知と何らかの関係があるように説いている. 知を獲得する前提の心の状態といっな言葉として使われている︒周. 之事を真知し︑是より自家修養良心培養に必死にさしはまり︑誠に. ﹁二十四︑五歳にて天然の良心を合点いたし侯︒人倫の根本此に有. 知のように︑王陽明の良知は︑道徳の究極的判断をする先天的な能. 力のことである︒その意味では︑良心よりも良知の方が8屋9雪8 に近いと一一一己える︒だがその良知にも︑﹁共に﹂という意味は含まれ.

(11) 良心とCONSCIENCE n. る・故︑絶て性悪の説を云に暇あらず︒⁝⁝先己の性を真に善と篤. て性悪を主張する者ありとも︑其人々の就て其本然の良心を引起さ. 心を引起し︑大欲ありと云へば︑心に快きかと云︒故に孟子の前に. 善にあらずや︒其人若し好貨好色好楽と云へば︑衆と共にするの良. で︑良心という用語を使っている︒﹁汝已に仁義礼智を具す︒是性. また︑吉田松陰も﹃講孟割記﹄の孟子の性善説を論じたところ. 当であろう︒. 簡に見られる良心もやはり儒教的な意味での良心と理解するのが妥. 多くのキリスト教徒が出たことを考えると興味深いが︑しかし同書. のか︒森有礼などの話として書かれていること︑小楠の弟子筋から. の異論か有らん︒﹂ここに出ている良心が8屋q彗8と同じものな. 大いに相違すれども︑良心を磨き人倫を明にするの本意に至りて何. 人物︑不及ながら拙者存念と符節を合せたり︒然し道の人る処等は. 蘇の本意は良心を磨き人倫を明らかにするにあり︒⁝−・扱々感心之. 専ら良心を磨き私心を去る実行を主とし﹂て︑﹁ハリスの見識︑耶. 非常之人物﹂で︑その教えも︑﹁書を読むを主とせず講論を貴ばず︑. 儒教系の啓蒙思想家だったので︑当然︑﹁良心﹂という語の由来や. て活躍した中村正直︑西周︑西村茂樹などであった︒彼等は何れも. さて︑8畠q雪8を良心と訳したのは︑幕末から明治初期にかけ. ない︒もっとも︑明治以降になると︑例えば︑清沢満之などに見ら 飛一 れるように良心を多用する者が出てくるが︒. 仏教徒︑仏教学者で良心という用語を使っているのは殆ど見かけ. とめおこなふぞ︑則人道を修るなりける︑良心を振起し︑古意をた ^u︺ づね︑真理によりて事業に勧苦するは︑人道を修るなり﹂︑と︒. 道に入ることはえあたはぬものぞ︑此心を振起して真理のま・につ. て︑邪正も弁へかぬるまでなれば︑⁝⁝本心に立かへらざれば︑正. り︑それにからめられて︑本然の良心やうくにくもり誓き. いさ・かもまじらぬをいふなり︑大かた世人の心異端邪教にまじこ. うに書いている︒やまとご・ろは︑﹁つゆはかりも︑儒意・仏意の. は当然のことであったろう︒﹃撞賢木﹄の中で︑鈴木雅之は次のよ. まとご・ろこそ良︵まこと︶の心n本心とする国学者にとってそれ. た︒雅之は︑良心をやまとご・ろ︵日本心︶と読み直している︒や. いないことはなかった︒幕末の国学者・鈴木雅之もその一人であっ. 元一. 信し︑良心の発見︑側隠差悪恭敬是非等を拡充し︑或は物欲邪念起. 意味を知悉していたはずであり︑その上で8冨9雪8を良心と訳し. ヤマトココロ. ることあらば︑速に良心を尋ね来り︑其白ら安んじ自ら快き所を求. たと思われる︒中村が明治五年に刊行した﹃自由之理﹄は︑J・. ト. め︑悔吝のなき如くすべし﹂︑と︒﹁衆と共にするの良心﹂という言. S・ミルのQミミざミ︵富電︶を要約的に訳述したものだが︑その. 尿自o目斗員巴8目目⑦x巨o目一︺g峯8目ω守o目的−昌o己ω①ω︸目︷印考①陣斤. ホ. い方は注目されるが︑基本的には儒教的意味で良心は使われてい. 中に8富q昌8が良心と訳されている箇所がある︒例えば︑掌g①. このように︑良心という用語を使ったのは︑殆ど儒学者であっ. 8冨α88︑の文章が︑﹁強キ願欲ト︑弱キ良心トノ問二︑白然の連. 元︺. る︒. て︑それはその由来からして当然のことであるが︑儒学者以外にも.

(12) れている︒また︑8富q;竃窃ωが良心と訳されているところもあ. れている︒しかし︑他の箇所では︑天良ノ心︑是非ノ心などと訳さ. 一握邑き昌︑が︑﹁凡ソ思想意見︑及ビ自ラ知ルノ良心二属スルモノ ^岨一 ハ︑律法ノ外ニシテ︑官府コレト相ヒ関カラズ﹂︑とそれぞれ訳さ. 〇豆邑昌一8豪色雷8しO肩彗ざ昌①:::旨宥皇争昌二訂名ぎ亮O︷. 続セルモノハアラズ﹂︑また︑︑≧一目算8易﹃巴隻目胴8↓ぎ目胴巨一. 見られる︒西村は真理探究法の一つに﹁良心判断法﹂を挙げ以下の. てはクールであった︒主著﹃日本遣徳論﹄の中にも良心という語が. はいえるだろう︒西村は仏教であれキリスト教であれ︑宗教に対し. と大体同じように理解していたが︑西村の方がより儒教的だったと. ヲ作為セル時二心性中に根植シタル者﹂と述べているように︑中村. 西村茂樹も8畠9昌8を良心と訳し︑﹁良心ハ造物主が我等人類. 理にして︑警えば途中にて壮大の男子︑幼弱の童子を打螂して其所. ように言う︒良心判断法は︑﹁吾良心を以て直接に判断し得るの真. また中村正直は︑明治一一十年の論稿﹁漢学不可廃論﹂の中で次の. 持せる物を奪はんとするを見るときは︑吾良心を以て直ちに其曲直 壷一. る︒. ように述べている︒﹁道心ハ︑コンシンス一良心︑天良︑是非之心︑. ている︒しかし︑次の﹁生死論序﹂を読むと︑中村の思想が随分深. リ﹂︒ここには儒教的キリスト教徒としての中村の面目が躍如とし. 帝ノ法律二比較スベキモノナレバ︑即チ大禺護ノ道心ナルモノナ. リ︑即チ中庸二天命之謂性ノ性ヲ具フルモノナリ︑又タ良心ハ︑上. シ︑/以上西哲ノ語二拠レバ︑天命ノ性二根ザシテ生ズルモノナ. ノ智識ナリ︑⁝⁝此ノ智識即チ良心は︑原告者並二裁判官ナルベ. 告ルニ真神ノ旨ヲ以テセリ︑良心ハ︑人ノ白己ノ心思行為ヲ察スル. されるものであると理解していたようである︒﹁生性割記﹂の中で︑. している心と把握していたのに対し︑西は良心を経験によって獲得. ない︒中村や西村が良心をどちらかというと︑人間が生まれつき有. ど違いを認めていなかったということで︑注目してもよいかもしれ. 邦訳していたということは︑良知と良心の間に意味の上で︑それほ. 心論を展開した啓蒙思想家であった︒西が︑8富9彗8を良知とも. じ意味の語と理解していた︒そして恐らく日本で最も早い時期に良. 西周は︑8目己88を独知とも訳し︑良心︑良知︑誠意などと同. も判断することを得るなり﹂︒. く東洋思想に基づいていたことが理解される︒﹁嘗聞基督教士之説︒. 例えば西は次のように論じている︒﹁独知之状︑難未顕乎他面︑其. 自知之心︶二当タルナリ︒/⁝:サウス日ク︑良心ハ明ラカニ我二. 日信者得救︒不信者擬罪︒信者得永生︒不信者受永苦︒鳴呼︒不問. 瞬問既有知覚︑有感動︑随有意思之判決可知也︑特称謂之良心︑又. 玩一. 其人之善悪︒而特甑別於信不信之問︒以為賞罰︒是豊公平之道耶︒. 独知者唯指応事物之初頭有一点之感動也︑⁝:其感動萄渉再三︑而. 変為思慮︑:::其嘉善行悪不幸我心之本然⁝⁝夫嘉賢悪不幸︑是社. 至運計較力︑運思惟力︑以用理性固有之判決即良心斯止︑独知之状. 今読伝仁先生生死論︒日善人之魂当永生︒悪人之魂当死滅︒此其為 説︒以善悪為生死之別︒参之於儒仏︒而無太抵梧︒験於良心︒而不 玩一 生疑惑︒庶乎公平之遣実︒﹂.

(13) 良心とCONSCIENCE 巧. 会常習︑理勢使之然者也︑謂之歴世之経験導以至於斯則可也︑謂之. 発於良心者︑即何以通国之良心︑与孟子之良心相齪齢之甚也︑故余 憂一. 日︑良心之功夫限局之︑僅就吾人零細制行上︑取決於白己心裡者︑. 依其力亦可也︑荷事渉他人之是非︑以上即良心不足以決之也﹂︒小 泉仰はこのような西の良心論について次のように言う︒即ち︑西の 良心論は︑.﹁孟子の先天的良知良能論を疑おうとしなかった同時代. の思想家と異なり︑常に批判的な態度をとり︑狙旅学とイギリス経 験論に共鳴する立場から展開された良心限局論であった﹂︑﹁こうし 易一. た良心の限局論は︑西が訳したJ・Sニミルの﹃利学一只旨冨﹃㍗ 彗討昌︶﹂に展開された良心論にあるていど対応するものであった﹂︑ と︒. 明治以後︑良心について最初に本格的に論じたのは大西祝であ. 中江藤樹﹃翁問答﹂︵﹃日本思想体系﹂29︑岩波書店一︑七九頁︑一五. 同右︑三一二〇頁︑五九〇頁︒. 伊藤仁斎﹃孟子古義﹂一﹃日本名家四書注釈全書﹂孟子部︶︑二九三頁︒. 七頁︒ ︵6︶. 内藤熊一郎﹃孟子﹂︑三九二頁︒ 朱子﹃孟子集註﹂︑二一九頁︒. 王陽明﹃伝習録﹂︑三〇九 ︑○頁︒ 伊藤仁斎﹃孟子古義﹄︵﹃日本の思想﹄11﹃伊藤仁斎集﹄所収︑筑摩書. 九〇頁︒. 清沢満之﹃清沢文集﹂岩波文庫︒例えば一二〇頁︑一四九頁など参. 中村正直﹃自山之理﹂一﹃明治文化全集﹂第五巻﹃白由民権篇﹂所収︶︑. 一頁︒. 中村正直﹁漢学不可廃論﹂︵﹃明治啓蒙思想集﹂筑摩書房︶︑三一一一〇−. 中村正直﹁生死論序﹂︵同右所収︶︑二九二頁︒. 四〇頁︒ 西周と大西祝の場合﹂一﹁良心−道徳意識. 西村茂樹﹃日本道徳論﹄︵岩波文庫一︑一一一七頁︒. 小泉仰﹁近代日本の良心論. 西周﹁生性割記﹂︵﹃西周全集﹄第一巻︑宗高書房︶︑︑三八. ドストエフスキーと. の中で︑神の存在︑. ﹁良心の白由﹂. ドストェフスキーは︑﹃カラマーゾフの兄弟﹄. 四. の研究﹄日本倫理学界論集12︑昭和五十二年一︑一〇二頁︒. ︵20一. 四七頁︒. 一19︶. 昭⁝︒. 一18︶. 年︶︑三四九頁︒. 鈴木雅之﹃撞賢木﹄︵﹃神道大系 論説編二十七﹄所収︑昭和六十三. 吉田松陰﹃講孟余話一割記︶﹄岩波文庫︑一四九頁︒. 横井小楠﹁小楠書簡﹂一同右所収一︑四八九. 横丼小楠﹁新政に付て春嶽に建言﹂一同右所収︶︑四六六頁︒. 横井小楠・佐久間象山﹂岩波書店一︑四四三頁︒. 横丼小楠﹃国是三論﹄︵﹃□本思想大系﹂55︑﹃渡辺畢山・高野長英・. 荻生狙株﹃弁名﹂一﹃日本思想大系﹂36︑岩波書店︶︑二四三頁︒. 伊藤仁斎﹃童子間﹂岩波文庫︑二一一頁︒. 房︺︑三四一頁︒. 10987 13 12 11 17 16 15 14. 24 23 22 21. り︑大西は明治二十三年二十六才の時︑﹃良心起源論﹂を発表して. いる︒大西の良心論は︑既に︑西洋思想の枠の中で展開されてい る︒. 内野熊一郎﹃孟子﹂一﹃新釈漢文大系﹂4︑明治書院︑昭和三十七年一︑. 朱子﹃孟子集註﹂︵瀧川亀太郎纂標︑松雲堂書店︑昭和四十八年︶︑二. 四五三頁︒. 王陽明﹃伝習録﹄︵﹃新釈漢文大系﹂13一︑八頁︒. 五五頁︒. ︵2一. ↑注. 543.

(14) の議論を通して︑具体的には︑カトリシズムと社会主義を批判しよ. つである︒そして︑ドストエフスキーは良心の問題を取り上げ︑そ. と︒アリョーシャはその理由を尋ねる︒イワンは︑子供たちの苦悩. 神が創造した世界︑神の世界なるものを認めることはできない︑. 叡智も目的も認めているし︑人生の秩序や意味も信じている︒だが. う︒自分は神の存在を認めないのではない︑いや認めている︒神の. うとしたのであった︒勿論良心の問題は︑ドストエフスキーの他の. にだけ話を絞って説明する︒どんな子供でも愛することができる. 罪︑魂の救済など様々な問題を扱っているが︑良心の問題もその一. 作品︑例えば︑﹃悪霊﹄や﹃罪と罰﹄でも扱われている︒. ネチャアエフ事件は︑もし見る人に良心が働かなければ︑ネチャア ^1﹈ エフ白身に於けるが如く︑問題とはなり得ない﹂︑と︒また︑﹃罪と. 為が出来たか︑といふ問題を︑力を尽くして究めようとした︒:⁝. 何故︑あのやうな高遭な思想を抱いて︑あのやうな卑劣な残酷な行. ﹃悪霊﹄の中で︑﹁ネチャアエフといふ青年革命家をモデルとして︑. で答える︒そして以下のように続ける︒﹁その人︵キリスト︶なら. えしするだけなんだよ︒﹂. 認めないわけじゃないんだ︑アリョーシャ︑ただ謹んで切符をおか. いならば︑自分は未来への切符は返上せざるを得ない︒﹁俺は神を. その建物を作るために︑罪のない子供たちが苦しまなければならな. し︑何の罪もないからだ︒イワンは︑ブルガリヤ人から聞いた話︑. 罰﹂のラスコーリニコフと︑﹃カラマーゾフの兄弟﹂のイワン・カ. すべてを赦すことができます︑全てのことに対してありとあらゆる. 小林秀雄も言うように︑ネチャアエフ事件を題材に書かれた﹃悪. ラマーゾフとが︑同じような人間として登場している︒ラスコーリ. ものを赦すことができるんです︒なぜなら︑その人白身︑あらゆる. 殺人犯リシャールの話︑身分の高い教養豊かで礼儀正しい夫婦など. ニコフは︑金貸婆さんとその姪を殺した︒しかし彼は︑本当は殺人. 人︑あらゆるもののために︑罪なき白己の血を捧げたんですから. 霊﹂は︑根本のところで︑良心が問題とされている︒小林は︑その. ができるような人間ではなかった︒これに対して︑イワンは父フヨ. ね︒兄さんはその人のことを忘れたんだ︑その人を土台にして建物. の話を持ち出し︑多くの幼児虐待の例を挙げる︒もし未来の幸福︑. ードルを殺すことこそしなかったが︑心中では︑殺したいという欲. はつくられるん﹂です︑と︒こうして︑第五編のその四﹁反逆﹂は. 小品﹁良心﹂の中で次のように言っている︒ドストエフスキーは. 求を持っていたのである︒それだけに︑イワンは良心というもの. 終わり︑その五﹁大審問官﹂に入る︒. さて︑﹃カラマーゾフの兄弟﹄の中で︑・良心の問題が最も鋭い形. スペインのセヴィリア︑毎日のように多くの異教徒が焼き殺される. ﹁大審問官﹂はイワンが作った劇詩である︒舞台は︑十五世紀︑. .これに対して︑﹁それは反逆ですよ﹂︑とアリョーシャは小さな声. に︑そして神に直面せざるを得なかったのである︒. で展開されているのは︑第五編﹁プロとコントラ﹂で︑特にその五. という異端審問の最も恐ろしい時代︒そこにキリストは気づかれな. 一2︺. の﹁大審問官﹂においてである︒イワンは弟のアリョーシャに言.

(15) 良心とCONSCIENCE 巧. いようにそっと姿を現す︒しかし不思議なことに︑民衆はその正体. しい人間種族の目から見て︑天上のパンを地上のパンと比較できる. い︾:⁝お前は彼らに天上のパンを約束した︒だが︑・⁝:永遠に卑. ::−いや︑われわれにとっては︑かよわい人間も大切なのだ︒彼ら. を見破り︑キリストの後についていく︒大審問官はキリストの影響. かつて悪魔が荒野でキリストに三つの問いを発した︒﹁この荒野. は罪深いし︑反逆者でもあるけれども︑最後には彼らとて従順にな. だろうか︒かりに天上のパンのために何千︑何万の人間がお前のあ. の石をパンにかえてみよ﹂︑﹁この宮殿の頂上から身を投げてみよ﹂︑. るのだからな︒彼らはわれわれに驚嘆するだろうし︑また︑われわ. 力の大きさを恐れ︑キリストを捕らえ︑牢に入れる︒大審問官はそ. ﹁悪魔である白分にひれ伏せば︑地上のすべての王国と栄華を与え. れが彼らの先頭に立って︑白由の重荷に堪え︑彼らを支配すること. とに従うとしても︑天上のパンのために地上のパンを黙殺すること. よう﹂︑と︒だがキリストはこれらをことごとく拒否した︒人間か. を承諾してくれたという理由から︑われわれを神とみなすようにな. の牢の中でキリストを審問する︒しかし︑キリストは二一己も答えよ. ら自由を奪わぬために︑人間が良心によって従うことを望んだから. ることだろう︑⁝⁝人問にとって良心の白由ほど魅力的なものはな. のできない何百万︑何百億という人間たちは︑いったいどうなる?. である︒だが大審問官は︑このキリストの拒否に反論する︒ここで. いけれど︑同時にこれほど苦痛なものもない︒:⁝何が善であり何. うとしなかった︒それで︑大審問官は︑白ら問いそして答えた︒. は︑第一の問へのキリストの拒否に対する大審問官の反論のみを見. が悪であるかを︑自由な心でみずから決めなければならなくなった. のだ︒だが︑選択の白由などという恐ろしい重荷に押しつぶされた. ることにする︒. ﹁お前は世の中に出て行こうと望んで︑自由の約束とやらを土産. なら︑人間はお前の姿もお前の真理も︑ついにはしりぞけ︑反駁す. 最早や︑詳しい説明は不要であろう︒大審問官は︑ローマ・カト. に︑手ぶらで行こうとしている︒ところが人問たちはもともと単純. 間社会にとって︑自由ほど堪えがたいものは︑いまだかつて何一つ. リックと社会主義︵マルクス主義一を表象したものである︒ロー. るようにさえなってしまうことを︑お前は考えてみなかったの. なかったからなのだ! ⁝⁝われわれがいなかつたら人間どもは決. マ・カトリックと社会主義においては︑良心の自由は許されない︒. で︑生まれつき不作法なため︑その約束の意味を理解することもで. 彼らが白由で. か?﹂. して︑決して食にありつくことはできないだろう−. そこでは︑良心は︑シンテレーシスあるいは階級史観に従属せしめ. きず︑もっぱら恐れ︑こわがっている始末だ︒なぜなら︑人間と人. ありつづけるかぎり︑いかなる科学もパンを与えることはできない. られるからである︒. 日本では普通︑ω着箒馬ωぼが良知︑8妻q彗富が良心と訳されて. だろう︒だが︑最後には︑彼らがわれわれの足もとに自由をさしだ. して︑︽いっそ奴隷にしてください︒でもたべものは与えてくださ.

(16) 16. いるが︑それぞれ両者の意味は非常に異なるものであり︑まして や︑良知と良心の間には︑ω着討﹃霧尿と8姜q88との間にあるよ. うな支配・服従の関係はないのである︒. 小林秀雄﹁良心﹂一﹃小林秀雄全集﹄12︑新潮社︑ 平成十一二年︶︑八六. 以下のドストエフスキー﹃カラマーゾフの兄弟﹂ からの引用はすべて. 新潮文庫一原卓也訳︶からのものである︒. 一2︶. 頁︒. ↑注.

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参照

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