ゲーテ﹃自然と象徴一自然科学論集﹄
︵高橋義人編訳︑前田富士男訳︒冨山房百科文庫33一九八二年︶
古
賀 勝 次郎
一
ゲーテの自然科学論については︑以前︑W・ハイゼンベルグの﹃ゲーテの自然像と技術・自然科学的世界﹄ ︵b禽
≧Qミさ馬ミO︒恥ミ禽§匙貯ら隷ミ魯壽−ミミミミ8§円きミミらミきタ一㊤O刈・﹀ω①三く①二9αq.︶という論文を読んだことが
あり︑それ以来興味を抱いていたのだが︑今度︑冨山房から︑ゲーテの自然科学論を集めた論文集が出たので︑良い
機会だと思って読んでみた︒本書は︑第一部﹁自然観﹂︑第二部﹁方法論﹂︑第三部﹁形態学﹂︑第四部﹁色彩論﹂と︑
四部から成っていて︑ゲーテの諸作品の中に羨められている彼の自然科学に関する珠玉の文章が︑非常に要領よく纏
められている︒また︑本書のはじめに高橋義人氏の﹁解題﹂が載っているが︑実に簡潔に︑しかもわかりやすく︑ゲ
ーテの自然科学論の解説としてはこれ以上のものはないであろう︒更に︑巻末に付されている︑用語解説兼索引︑人
名解説兼索引︑ゲーテ年譜なども︑読者の理解を大いに助けてくれるものである︒
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二
さて︑ハイゼンベルグは︑﹁ゲーテの自然像と技術・自然科学的世界﹂と題する論文の中で︑ゲーテの真理︵毛9︒ぽマ
ゴ①δは︑価値概念とは切り離し得ないものであった︑と述べている︵ぐ雫願 =Φ一ωΦ口げ①﹁簡四二 〇娼● O一一ご O.H刈●︶︒そしてゲ
ーテは︑ニュートン以後の自然科学が︑この価値概念を切り離し︑つまり抽象化を推し進めていることに危険を感じ
ていた︒﹁抽象︵﹀げω酒壷自8︶への恐怖﹂︑こごこそ︑ゲーテと近代の自然科学とを立腰と区別する地点である︒ハ
イゼンベルグによれぽ︑この抽象とは︑一︑複雑な現象の中に量的に把握できる単一な事象を認識すること二︑諸現
象を数学を利用することによって表現すること︑であった︵ぐ﹃︒ 団Φ一ωO口げ①同σq二 〇℃. O一一二 〇〇︒ 刈IQo・︶︒
ゲーテは︑﹁数学の有効性﹂の問題について︑エッカーマンに次のように語っている︒﹁私が数学を尊敬するのは︑
それにふさわしい場で用いられているかぎり︑数学は最も高尚で最も有効な学問だからなのです︒しかし褒められな
い場合もあります︒それは︑全く無関係な領域にあるものに対しても数学を濫用しようとする場合です︒そうなると
この高貴な学問もたちまち馬鹿げて見えてくるわけです︒まるで数学的に証明できるものしか存在していないかのよ
うに考えているのですからね﹂︵本書︑三三四頁︶︒だが︑近代の自然科学の発展は︑こうしたゲーテの警告におかま
いなく︑ますます抽象化の道を辿り︑数式化をもってその最大の成果と見倣すようになっていったのである︒ゲーテ
の文学は︑実に絶大なる影響力を与えたのであるが︑彼の自然科学の思想は︑極く少数の人々を除いて︑殆ど知られ
ることがなかった︒ゲーテの時代においては︑自然科学の発展も︑そのプラスの面ぽかりが目立っていたのである︒
しかしゲーテは︑そうした時代にあって︑抽象化がそれに相応しくない領域に適用されていくとどうなるかについ
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ゲーテr自然と象徴一自然科学論集』
て︑他の誰よりもはっきりと知っていた︒それは︑ ﹃遍歴時代﹄をはじめ︑彼の色々の文章の中に出ているが︑要す
るに︑機械化であり︑平均化であり︑それによって︑人間がますます不安に陥っていかざるを得ないようになる時代
の到来を予想するものであった︒
ではゲーテは︑自然をどのように理解しようとしたのか︑﹁数学とその濫用および個別科学部門の周期的興隆につ
いて﹂の中に次のような文章がある︒﹁自分の資質とか境遇を勘有して考えても︑私にはごく若い頃からやむにやま
れぬ気持ちがあった︒それは︑最も純粋で最高の神秘にみちた根源的な自然の姿を︑数学の助力なしに観察し研究し
理解する立場を得たいという気持ちである︒﹂つまり︑ゲーテにおける自然科学は︑先ず何より︑﹁生ける自然﹂︵W.
ゾンバルト︶の解明をめざすものであった︒そして︑i先の﹁数学の有効性﹂について語ったところがらも明らか
なように一︑その中に含まれるような形で︑抽象化が可能な領域︑即ち︑﹁客観的自然﹂の科学的研究を説いたので
ある︒ここにおいて︑ゲーテの自然科学論は︑ニュートンのそれと著しい対称を現わす︒ニュートンは︑先ず自然を
宗数から切り離し︑次に︑自然を︑﹁生きた自然﹂と﹁客観的自然﹂とに分け︑自然科学の対象を﹁客観的自然﹂に限
定した︑といってよいであろう︒これに対しゲーテは︑生きた自然と客観的自然の分離を強く拒否した︒しかしそれ
は︑ゲーテが宗教と自然を切り離さなかった︑ということではない︒ここにいう宗教がキリスト教であるならぽ︑ゲ
ーテもニュートンと同じく︑自然と切り離した︒にも拘らず︑ゲ⁝テが自然を﹁生きた自然﹂と﹁客観的自然﹂とに
分けることを拒んだのは︑彼の宗教がキリスト教︵一神教︶と共に︑ギリシア的な汎神論︵あるいは多神教︶から成
っていたからと考えられる︒キリスト教においては︑神は自然と対置されているが︑汎神論においては両者は一体の
も㊨である︒そして↓たび︑宗教︵キリスト教︶と自然が切り離されると︑少なくとも自然現象においては︑生ける
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自然と客観的自然との区別は容易に行なわれる︒というのは︑自然を研究の対象としているのは︑ 一個の人間である 48 1からだ︒
この点で︑近代初期におけるイギリス経︐験論者達の社会科学と少し異なる︒彼らもニュートンと同じように︑宗教
と社会現象とを切り離した︒けれども︑彼らは︑社会現象を生けるものと客観的なものとに区別しなかった︒それ
は︑社会を構成して人間の数が単数でなく︑無数に近い人々から成っているからで︑人間と人間の関係が社会現象の
重要な要因になっていると考えられたためである︒しかしながら︑社会科学のその後の展開は︑その素晴しい成果を
もたらした自然科学の影響から免れることができなかった︒即ち︑社会科学もその対象を次第に﹁客観的社会現象﹂
に限定するようになっていった︒今日の社会科学が︑現実の諸問題に適切に対処できずに︑ますます迷路に陥ってい
るのはそのためである︒だが︑自然科学にしろ︑社会科学にしても︑それらがキリスト教にいう神と︑自然現象ある
いは社会現象とを切り離さねばならなかったのは︑それなりの理由が存したのであった︒即ち︑それらの対象とする
現象が︑それぞれ複雑になったからで︑現象の原因と結果の関係︑つまり因果関係を一義的に規定することが不可
能になったのである︒蓋し︑キリスト教における神は︑﹁信仰﹂の対象であったぽかりでなく︑すべての現象を﹁支
配﹂するものだったので︑因果関係が直接的に規定されるべきものーキリスト教は認識論的には﹁流出論﹂1で
あるとされていた︒イギリスの経験論者達が︑宗教と社会現象とを切り離した際︑彼らは︑前者︑つまり信仰の対象
としての神は︑これをそのまま存続させた︒しかし︑大陸の合理主義者達は︑それをも軽視︑ないし否定したのであ
る︒ 今日の社会科学の混迷は︑上に述べたようなニュートン的な自然科学的方法を︑無批判的にそれに相応しくない社
会現象に適用したところにその最も大きな原因がある︒しかし︑そこには︑いま一つの大きな原因があるのであっ
て︑それは︑キリスト教においては︑個人と神−これを社会科学的に表現すれぽ︑個人と人類一が直接結びつく
ため︑いわば社会の空間的重層性一家︑村︑町︑市︑国︑世界⁝⁝といったように自分に身近なところがら︑次第
に遠いところに向う空間の層が出てこない︒W・レプケは︑現代を﹁根なし草﹂の社会といったが︑そうなった根本
の原因は︑ここにあると思われる︒ここにゲーテの宗教観は︑重要な意味をもち得るのであって︑彼の宗教がキリス
ト教と汎神論︵あるいは多神教︶から成っていたことは︑普遍的存在としての人類と共に︑空間的な重層性が強調さ
れてくることになるからである︒それは︑ゲーテの宗教観が︑自然を生ける自然と客観的自然とに区別せしめなかっ
たことと同じような意義をもつ︑ものと思われる︒
三 ゲーテr自然と象徴一自然科学論集』
以上のように︑わたしは︑ゲーテの自然科学論は︑彼の宗教観からきていると解釈するのであるが︑次に︑彼の自
然科学論の内容を理解する上でも重要と思われるいくつかの概念を少しく述べておこう︒
ゲーテの自然科学論を理解する上で最も重要なのは︑ ﹁根本現象﹂︵q﹁9ぎ︒邑窪︶という概念である︒それは︑
﹁根本﹂︵q円︶といっているところがら︑自然の中に超越的なものを見る汎神論であるが︑また﹁現象﹂︵勺げ90ヨ窪︶
といっているところがら︑現実の多様な現象を把握しようとする態度が窺える︒ゲーテはまた︑﹁根本現象﹂を﹁一
と全し︵本書十一頁など︶といった表現をしたが︑要するに︑生ける自然と客観的な自然の両者を︑後者の中に含まれ
るような形で理解しようとしたのである︒だが︑ここで誤解してならないのは︑この﹁根本﹂とか﹁一﹂とかいった
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ものが︑多様な現象を理解する根本的︑唯一的法則といったものではないということである︒ゲーテは︑ブッテルに ヘ へ宛てた手紙の中で次のように言っている︒ ﹁根本現象は多様な結果解明してくれる根本的な法則と同等視されるべき
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へではなく︑そのなかに多様なものが直観される根源的な現象︵O﹃§αミ象ミ葺§頭︶である⁝﹂︵本書八二頁︶︒したが
って︑ゲーテの﹁根本現象﹂は︑決して﹁流出論﹂ではなく︑また︑素朴な合理主義の入る余地を与えていない︒ゲ
ーテは︑エッカーマンに次のように語っている︒﹁人間が到達できる最高のものは︑驚くということです︒⁝⁝根本
現象を見て驚いたら︑それで満足すべきなのです︒それよりも高度のものがあたえられるはずもなければ︑またその
背後にそれ以上のものを求めてもならないのですから︒ここに限界があります︒ところが普通人間は根本現象を見た
だけでは満足できずに︑もっとその先があるにちがいないと考えがちです︒これは子どもが鏡を見て︑それをすぐに
ひつくり返し︑裏側に何があるのかを見ようとするのと似ていますね︒﹂︵本書八六頁︶
ゲーテの﹁分極性﹂︵勺O一P同一一似け︶ の概念も︑以上のような﹁根本現象﹂の理解に基づいて解釈されねばならな
い︒ゲーテも十八世紀の自然科学者や哲学者に倣って︑自然界に見られるプラスとマイナス︑酸とアルカリ︑索引と
反接︑呼気と吸気︑統合と分離︑収縮と拡張のような根本的対立関係を﹁分極性﹂と呼んだ︒そして︑それらは︑等
しい力で引き合っている静止的な対立関係ではなく︑常に均衡の破られる動的な対立関係である︒ここに︑ゲーテの
﹁メタモルフォーゼ﹂︵9Φ蜜筥︒同職︒ω①︶の概念が出てくる︒自然は一方では︑類型に固執するが︑他方では︑変化
して止まないからである︒ゲーテは︑そうした考えを︑植物学や動物学の分野に適用した︒そして︑その分野で︑数
学者達が発見できなかったものを発見したのである︒けれどもこうした﹁分極性﹂あるいは﹁メタモルフォーゼ﹂の
概念は︑ゲーテにあっては人間や社会にも適用できるものである︒個々の人間にしろ︑共同体や国家にしても︑更に
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ゲーテr目然と象徴一自然科学論集』
人類にしても︑いたるところに︑この分極性とメタエ︑ルフォーゼは見られる︒だがゲーテは﹁何故﹂そうであるか︑
また︑そうなったのかについては︑問うことをしない︒ただ彼はそこに踏み止まろうとするのである︒ ﹁思索する人
間の最高の幸福は︑探求できるものを探求しつくし︑探究しがたいものを静かに敬うことである︒﹂︵本書一一五頁︶
とゲーテは︑﹃箴言と省察﹄の中で述べている︒
最後に︑自然科学ぽかりでなく︑社会科学の分野でも極めて重要な意味をもつ︑ ﹁分析﹂と﹁総合﹂の関係につい
てのゲーテの考えを塞く簡単に見ておこう︒ゲーテは︑ ﹁分析と総合﹂という文章の中で次のように論じている︒ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ﹁肝賢なことは︑分析が総合を前提としているということである︒⁝⁝分析家の陥る大きな危険は︑総合にもとつい
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へていないものへその方法を適用する場合である︒⁝⁝結局分析家は︑最終的にはふたたび総合に到達するために︑そ
の仕事をしているのであるが︑彼が扱っている対象の根抵に総合がないならぽ︑それを発見しょうとする彼の努力も
徒労に終る⁝︒﹂︵本書一三三−四頁︶このようなゲーテの考え方には︑今日の自然科学︑社会科学が学ばねばならな
い多くのものが含まれている︑といわねばならない︒
四
今日︑われわれが抱えている様々な問題は︑すべて︑人間と科学︵技術︶と社会の不調和からきている︑といって
よかろう︒その人間と科学の調和を取り戻そうとして︑ハイゼンベルグやヴワ︐イツゼッカー︑ボルトマン等は︑ゲ1
テの自然科学論を再評価しようとしている︒また︑社会科学者で︑西ドイツの戦後経済復興に大きな影響を与えたオ 雌ルドi学派の一人︑W・レプケもその一人である︒レプケは︑ゲーテの思想の中に︑人間と自然と社会を調和させる
思想のあることを直観的に知っていた︒現在︑評者が研究を進めているF・ハイエクも︑いろいろのところでゲーテ 慨の言葉を引用している︒わたしがいま考えているのは︑ハイエクの不十分なところを︑ゲーテの思想によって補お
う︑ということである︒
ゲーテが死んでから︑今年で丁度百五十年になる︒この百五十年の間︑ゲーテの自然科学論は︑極く一部の面々を
除いて︑あまり顧られることはなかったが︑しかし︑彼が警告していたことが︑今や現実の問題として︑われわれの
心に︑ますます重くのしかかってきている︒われわれは今や︑己を虚しくして︑ゲーテの思想を学ぶ必要があろう︒
ハイゼンベルグの次の文章をもって︑この書評の結びとしたい︒﹁歴史の発展をいま一度振り返ってみましょう︒ゲー
テ以後のこの世界は︑自然科学においても︑芸術と同じように︑ゲーテが危険だと感じ︑警告した道を歩いてきたの
です︒芸術は直接的な現実から︑入間の魂の内奥に退いてしまいました︒自然科学は︑抽象へと歩みを進め︑現代技
術の巨大な領地を獲得しました︒⁝⁝脱穀のようになった魂︑労働の非人間化︑愚かな現代兵器︑妄想への逃避など
を考えてみなさい︒⁝⁝われわれが今日でもゲーテから学び得るのは︑一つの器官にすぎない合理的分析のために︑
他のすべての器官をダメにしてはならない︑ということです︒寧ろ重要なことは︑われわれに与えられているすべて
の器官をもって︑現実︵<﹃一﹁閃=07犀①一一︶を把握することです︒そして︑この現実が︑本質的なもの︑即ち﹃ただ﹁つ
のもの︑善なるもの︑真なるもの﹄︵葛貯ρO蕪ρ芝鋤町Φ︑︶を反映しているということを信頼することです⁝⁝﹂
︵でく・ 出O一ωΦ嵩ヴΦ同隔四.噌 O℃・ O一け・一 b℃5 もQ卜σ1ω繭︶