序論
第 1 章 研究の目的と意義 第 2 章 従来の研究 第 3 章 研究の範囲と方法
序論 第 1 章 研究の目的と意義
第 1 章 研究の目的と意義
本研究は、韓国における歴史的建造物のあり方を再評価するために、その前提となる 20 世紀 前半の植民地朝鮮における歴史的建造物の保存と修理工事を取り巻く諸状況を明らかにすること を、研究の目的とする。
植民地朝鮮における歴史的建造物の保存の黎明は関野貞の韓国建築調査から始まっている。関 野貞による韓国建築調査及び遺跡・遺物の保存のための等級付け、建造物の編年区分などがその 後の韓国建築史研究や歴史的建造物の保存に及ぼした影響は非常に大きい。例えば、関野貞の朝 鮮文化に関する低い評価は関野個人の歴史観に止まらず、第 2 次世界大戦後の韓国の学界にまで 長く影響を及ぼした。韓国建築史研究においてはそれを正すための関野貞研究が行われてきたが、
それは結果的に関野批判へと繫がった。歴史的建造物の保存に関する研究でも未だに関野研究に 偏重している傾向があるのはそのためであろう。しかし、本研究では歴史的建造物の保存史を通 史的に記述するのが目的ではないため、関野貞に関する言及は関連する点のみを取り上げている ことをここに記しておく。
本論文で事例として挙げている修徳寺大雄殿1の修理工事は、朝鮮総督府の小川敬吉技手が工事 監督を務め、1937 年から 1940 年にかけて建物の調査及び全解体修理工事が行われ、その結果、
建物の創建年代(高麗忠烈王 34(1308)年)2が明らかになるとともに破風板撤去と建具の変更 などが行われ、現在の大雄殿の姿を整えるようになった(図 0 − 1、図 0 − 2)。それ以前の修 理としては朝鮮時代に行われた中宗 23(1528)年の彩色補修、英祖 27(1751)年と英祖 46(1770)
年の補修、純祖 3(1803)年の大雄殿背面の飛檐垂木と破風改修などがあり、また 1930 年代以 降の修理としては、一部の補修はあったものの、植民地時代の修理のような大規模な修理は行わ れていない。すなわち、この時期の工事は日本人の修理技術者の監督下で行われた近代的な解体 修理工事であったにもかかわらず、当時の工事の詳細についてはあまり知られていないのが現状
1 韓国忠清南道礼山郡徳山面斜川里に位置。正面 3 間 側面 4 間、単層、切妻、瓦葺きの柱心包式の木造建築。
2 修徳寺大雄殿は、組物の形式から見ると浮石寺無量寿殿や鳳停寺極楽殿などと同様に柱心包式の組物を持つ 最古の木造建築であるが、その中でも記録史料(墨書)によって建立年代が分かる唯一のものである。従っ てこの建物は、他の高麗時代の木造建築の建立年代を判定する際の一つの基準となる遺構として重要な意味 を持っている。現在韓国では鳳停寺極楽殿が 12 〜 13 世紀初と推定され、韓国最古の木造建築として位置づ けられているが、1972 年の鳳停寺極楽殿解体修理以前には、浮石寺無量寿殿が韓国最古の木造建物である とされていた。浮石寺無量寿殿の美的及び歴史的価値を初めて発見し、紹介した人物は関野貞で、その後、
杉山信三によって浮石寺無量寿殿の建立年代は鳳停寺極楽殿と修徳寺大雄殿の間に該当するという指摘がな された。しかし、杉山以降現在に至るまで韓国の国内で浮石寺無量寿殿の建立年代を明らかにするための研 究や議論が本格的に行われたことがない。
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図 0 − 1 礼山修徳寺の位置 礼山修徳寺
図 0 − 2 修徳寺大雄殿の全景
(左上・右上:2006 年 11 月筆者撮影、左下・右下:京都大学所蔵『小川敬吉資料』)
序論 第 1 章 研究の目的と意義
である。
また、修徳寺大雄殿は朝鮮総督府官房告知によって 1935 年に「宝物第 238 号」として指定さ れ、1962 年に韓国政府によって「国宝第 49 号」と指定変更された。1900 年代初めごろの関野 貞の韓国古建築調査ではこの建物が挙げられておらず、この建物が歴史的建造物として注目され はじめるのは 1930 年代以降のことである。その価値をはじめて見いだしたのも小川敬吉技手と して知られており、小川は修徳寺大雄殿の建造物としての価値判断から保存修理工事に至るまで 一貫して関わった人物である。小川は 1916 年に渡鮮して以後、1921 年に朝鮮総督府技手となり、
1944 年まで朝鮮の古蹟調査及び保存事業、建築設計などの活動を行った人物でもある。
小川が蒐集した朝鮮古蹟調査関連資料(『小川敬吉資料』)は、現在、京都大学吉田建築系図書 室と佐賀県立名護屋城博物館の 2 ヶ所に所蔵されており、本論文ではそれらの資料を主に利用し た。近年に『修徳寺大雄殿− 1937 年保存修理工事の記録−』(徳崇叢林修徳寺、2003)という 出版物が刊行されたが、これは京都大学所蔵の『小川敬吉資料』のうち、修徳寺大雄殿工事関連 資料を中心に解説を付け加えたものに過ぎず、佐賀県立名護屋城博物館所蔵の資料については紹 介こそあるものの、内容については触れられていない。
上記のような研究背景をふまえた上で、本論文では、韓国歴史的建造物の保存修理工事の記録 を通して、当時の日本国内の歴史的建造物保存修理の制度や手法が植民地朝鮮のそれに及ぼした 影響、すなわち、適用段階における具体的な様相について考察した。また、佐賀県立名護屋城博 物館が所蔵する新資料「宝物建造物修徳寺大雄殿工事報告」に初めて保存史学上の価値を与える とともに、韓国の歴史的建造物保存において小川敬吉が果たした役割について考察を行った。
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第 2 章 従来の研究
植民地朝鮮における歴史的建造物の保存に関する研究は数少なく、研究史を検討するのは難し い。
建築史と関連した研究は建築史学分野と美術史学分野に分けられる。建築史分野での研究はそ の数が少なく、独立した研究として行われるより、建築史研究の各下位分野、すなわち様式史研 究や仏教建築研究などで先行研究概観の一部分として行われたものである。これらは、関野貞を はじめとする日本人の官学者らの研究成果に対する批判的な検討を通して植民史観を克服しよう とする試みが主である3。一方、杉山信三が体系づけた韓国木造建築様式論に対する継承と克服 も主なテーマとして多く扱われたと思われるが、これは植民地時代に遂行された研究が持つ性格、
すなわち当時の研究が考古学的・文化財的に価値のある個別建物の木構造的な研究と分類に偏っ ていたこととそれを集大成したのが杉山信三であるという理由からだと考えられる4。美術史分 野で進められた研究5は建築史分野と同様に、主に美術史研究史の初期官学者らの植民史観が及 ぼした影響に注目する研究である。
その他に、資料紹介を中心とした研究が幾つかあるため、代表的なものをここに記しておく。
まず、美術史分野で黄壽永編集の『日帝期文化財被害史料(考古美術資料第 22 集)』がある6。 建築史分野では、申榮勲の「日政期文化財保存事業録」7があり、博物館に対する補修記録に関す る資料整理が一部試みられたが、その後、体系的な研究が行われず、2002 年に『我が建築 100 年』
に再び発表された。また、韓国文化財保存技術振興協会で『韓国文化財保存攷−日政期資料集成
Ⅰ』8という本を出版したが、それは植民地時代に発表された資料などを集めて翻訳し、収録した
3 韓再洙『韓国建築史学の変遷過程に関する研究』、漢陽大学校学位論文、1987
韓三建・青井哲人「1902 年から 1910 年までの韓国建築調査について(戦前日本の東洋建築史学に関する 研究 2)」『日本建築学会大会学術講演梗概集』F̶2、日本建築学会、1994.9
中西章「『韓国建築調査報告』に見える関野貞の韓国建築観」『建築歴史研究』13̶1、韓国建築歴史学会、
2004.3
姜賢「関野貞と建築文化財保存̶韓国建築文化財保存との連関関係を中心として̶」『建築歴史研究』14-1、
韓国建築歴史学会、2005.3
4 韓国建築歴史学会編『韓国建築史研究Ⅰ̶分野と時代』、図書出版バルオン、p.63 5 文明大『韓国美術史学の理論と方法』、悦話堂、1977
ジョ・ソンミ「日帝治下における日本官学者らの韓国美術史学研究について」『美術史学Ⅲ』、学研文化社、
1991
6 黄壽永 編『日帝期文化財被害史料(考古美術資料第 22 集)』、韓国美術史学会、1973 7 申榮勲「日政期の文化財保存事業録」『張起仁先生回甲(還暦)記念論叢』、張起仁会、1976
8 社団法人韓国文化財保存技術振興協会『韓国文化財保存攷−日政期資料集成Ⅰ(韓国建築史叢書Ⅲ)』、韓国
序論 第 2 章 従来の研究
資料集の性格が強いものであった。
このように既往研究が少ない事実の理由として最も考えられるものは、植民地朝鮮における歴 史的建造物に関する 1 次資料が韓国国内外の研究機関に分散して保管されており9、体系的な整 理が行われていなかったことと、整理され目録が発表された場合にも資料管理は閉鎖的に運営さ れており、研究者のアクセスが容易ではなかったことを挙げることができる。しかし、最近は 1 次資料の発掘が持続的に進められ、またそれを再編修した 2 次資料10の利用が可能となってきて おり、最近の研究はこのような流れに負うところが大きい。以下に、近年の研究について紹介する。
・李明善「朝鮮古蹟調査と「古蹟及び遺物保存規制」について−植民地時代韓国における古建 築物保存政策(その 1)」(『日本建築学会計画系論文集』第 557 号、日本建築学会、2002.7)
および同氏『韓国における建築文化財成立過程の研究』、東京大学学位論文、2003
後者は建築文化財の概念形成という観点で植民地時代から 1990 年代までを全般的に扱った論 文である。その中で、植民地時代は本論の第 1 章で扱われており、関野貞の調査と『朝鮮総督府 官報』などの資料を利用し、歴史的建造物の保存の制度的な変化などに焦点が置かれたものであ る(前者の論文ですでに発表された内容)。しかし、当時の歴史的建造物保存の核心的な事項だ と言える建造物修理に関しては全く考察が行われておらず、大まかな流れの分析に止めている点 が限界であると思われる。
・趙賢貞『韓国建造物文化財保存史に関する研究− 1910 年以後修理された木造建造物を中心 として−』、韓国:明知大学校大学院修士論文、2005.6
この論文は前記した 2 次資料を積極的に利用し、植民地時代から近年に至るまでの文化財保存 に関する通史を試みたものである。しかし、修理事例一つ一つにおいては詳しい分析を避けてお り、修理工事に関する詳細内容までには触れられていない。
文化財保存技術振興協会、1992
9 その所蔵先として現在まで確認されたところは、韓国国立中央博物館、韓国の国家記録院(旧、政府記録保 存所)、旧蔵書閣所蔵資料を保管している韓国学中央研究院、関野貞の資料を所蔵している東京大学、小川 敬吉資料を所蔵している京都大学と佐賀県立名護屋城博物館、藤田亮策のガラス乾板を所蔵している成均館 大学などがある。
10 京都大学所蔵の「故小川敬吉蒐集資料」のうち、一部の写真資料をまとめた図録『(海外所在文化財調査書 第 5 冊)小川敬吉調査文化財資料』(韓国:文化財管理局文化財研究所、1994)と同じ資料を用いて修理工 事報告書の形式をとった杉山信三編修の『韓国古建築の保存−浮石寺・成仏寺修理工事報告−』(韓国古建 築の保存刊行会、1996)、『修徳寺大雄殿− 1937 年保存修理工事の記録』(徳崇叢林修徳寺、2003)がある。
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・姜賢『日帝強占期建築文化財保存研究』、韓国:ソウル大学校大学院学位論文、2005.8 関野貞の朝鮮古蹟調査活動、歴史的建造物の保存関連制度及び法律、修理工事など韓国の植民 地時代の建造物保存活動全般にわたって分析を加えた論文である。しかし、膨大な量の資料を分 類する過程で論旨が判然としないまま、関野貞の古蹟調査がその後の修理に及ぼした影響にまで は関連づけることができていない。また、実際の修理工事に関する分析も単に資料の提示に終わっ ており、その詳細については言及されていない。
・金在国・朴彦坤「1897 〜 1945 年の文化財保存政策に関する研究」(『大韓建築学会論文集(計 画系)』21 巻 7 号、大韓建築学会、2005.7)
・金在国「1910 〜 1965 建造物文化財補修工事の施工特徴に関する研究」(『建築歴史研究』第 15 巻 1 号、韓国建築歴史学会、2006.3、pp.77 〜 99)
・金在国『日帝期の高麗時代建築物保存研究』(韓国:弘益大学校大学院学位論文、2007.6)
金在国の学位論文は前者の 2 本の論文の内容をふまえた上で、植民地時代に行われた高麗時代 建立の木造建造物の修理工事における「工事内訳書」を、近年の「仕様書」と比較・分析した最 も新しい研究成果である。
・田中禎彦「20 世紀前半の朝鮮総督府による朝鮮の歴史的建造物の調査保存事業について」(『日 本建築学会計画系論文集』第 594 号、日本建築学会、2005 年 8 月、pp.207 〜 214)
韓国の植民地時代の歴史的建造物の調査とその保存事業について制度や行政、法令などを分析 するとともに修理事業の概要をまとめた論文である。
現在までの韓国の歴史的建造物の保存史研究は関野貞の古蹟調査や保存活動に集中していた傾 向があった。これは当時の歴史的建造物保存に関する残存公開資料の不足を最大の原因として挙 げることができるが、「保存問題」が建築史研究の一分野として位置づけられるのが遅くなった ことも一つの原因である。その結果、韓国の歴史的建造物の保存の黎明として関野貞の調査を挙 げ、その後は朝鮮総督府による保存制度の整備と変遷の記述とそれらの批判に終始するのが現状 である。近年に入って、修理工事に注目した研究がいくつか見られるようになったが、修理事例 の紹介や事例ごとの比較考察にとどまっており、その研究蓄積はまだ薄い。
序論 第 3 章 研究の範囲と方法
第 3 章 研究の範囲と方法
以上のような研究状況において、本論文は歴史的建造物の保存及び修理工事に携わっていた
「人」、即ち「修理技術者」に注目し、修理技術者が残した 1 次資料を用い、修徳寺大雄殿修理工 事における緒状況を明らかにするとともに、植民地という特殊な時空間の中で修理技術者が目指 したものとその成果が歴史的建造物の保存環境に及ぼした影響について解明する。
本論文で利用している 1937 〜 1940 年修徳寺大雄殿修理工事関連の公開資料は表 0 − 1 のよ うになる。最も多いのは京都大学吉田建築系図書室と佐賀県立名護屋城博物館所蔵の『小川敬吉 資料』であるが、その他に韓国国家記録院と修徳寺槿域聖寶館所蔵の資料がある。
また、前章で述べた既往研究の問題点をふまえた上で、本論文の構成を図式化すると図 0 − 3 のようになる。
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表 0 − 1 1937 〜 1940 年修徳寺大雄殿修理工事関連資料
10
本論文の構成は、序論で研究の目的と意義、従来の研究、研究の範囲と方法について述べた後、
本論 5 章と結論となっている。
本論の第 1 章「植民地朝鮮における歴史的建造物の保存制度の形成と変遷」では、「寺刹令」
の施行(1911 年)から「古蹟及遺物保存規則」の制定(1916 年)を経て、「朝鮮宝物古蹟名勝 天然記念物保存令」(1933 年)に至るまでの近代的な保存関連法令の整備について述べる。
第 2 章「植民地朝鮮における歴史的建造物の保存修理工事とその記録」では、工事関連記録が残っ ている修理工事の事例を時代順に並べ整理し、その工事の特徴を明らかにしていく。また、ここ に紹介する工事関連記録の多くは『小川敬吉資料』に所収されているもので、その中には「修理 工事報告書」に当たるものが幾つかあるため、その構成内容についても考察を行う。
第 3 章「1933 年以降における宝物建造物の保存及び修理工事」では、「朝鮮宝物古蹟名勝天然 記念物保存令」(1933 年)の制定後の修理工事のあり方について論じる。特に、京都大学所蔵の『小 川敬吉資料』に所収されている資料「宝物建造物修理施行準則」を紹介するとともに、日本の「国 宝建造物修理施行準則」との比較を試みる。また、『小川敬吉資料』所収の「修徳寺大雄殿修理
図 0 − 3 既往研究の問題点と本研究の構成 本研究の構成 従来の研究
1. 原因
① 公開資料の不足 ② 保存史 < 建築史
2. 問題点
① 修理の歴史に関する記述 の欠如
② 関野貞以外の研究者や技 術者に関する研究の不足
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・近年の研究動向:修理工事に注目
・関野貞の古蹟調査及び保存に集中
・保存制度を中心とした記述
第 2 章 修理工事と記録
第 3 章 工事執行と規定
第 4 章
事例:修徳寺大雄殿工事
第 5 章 小川敬吉の役割 第 1 章
保存制度の形成と変遷
① 保存制度
② 修理工事
③ 修理技術者
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キーワード:
序論 第 3 章 研究の範囲と方法
工事取扱手続」(附則には、昭和 12 年 2 月 26 日より施行と記載)と「宝物建造物長安寺四聖殿 保存修理工事取扱手続」(附則には、昭和 13 年 2 月 日より施行と記載)という 2 件の文書を 比較考察する。
第 4 章「『小川敬吉資料』からみる修徳寺大雄殿の修理工事(1937 〜 1940 年)」では、新出資料「修 徳寺大雄殿修理報告」を紹介するとともに、修徳寺大雄殿が全解体工事に至るまでの経緯や、工 事担当者、工事日程、その工事内容、修理方針などについて分析し、考察を行う。
第 5 章「韓国歴史的建造物の保存修理事業における朝鮮総督府技手小川敬吉の役割」では、まず、
小川敬吉の履歴について検討する。小川については朝鮮総督府の技手であったということと『小 川敬吉資料』の存在しか知られておらず、韓国の歴史的建造物の保存史において語られることは なかった。しかし、『小川敬吉資料』の資料としての価値や本論文の本論第 1 章から第 4 章まで の内容をふまえると小川に対する評価は再考する必要があり、それについて考察を試みる。
結論では、まず本論で扱った各章の内容の相互関係を示すことで、本論文の全体像を表す。