2018 年度
博士学位申請論文
〈初期ロバート・アルトマン映画〉における 音響のナラトロジー的研究
立教大学大学院 現代心理学研究科 映像身体学専攻 博士課程後期課程 6 年次
学籍番号:13WY004M
山本祐輝
目次
序論 〈初期アルトマン映画〉とは何か………1 1. 映画音響と物語
2. 物語とは何か 3. 物語の複数性
4. 〈初期アルトマン映画〉のサウンドトラック 5. 映画史のなかのアルトマン
第1章 葛藤する物語
——『雨にぬれた舗道』(1969)における聴取と内的焦点化………25 はじめに
1. 映画と焦点化
2. 視点ショットによる欲望の表象
2-1. フランセスの視点
2-2. 青年の視点 3. フランセスの心的葛藤
3-1. 3人の女性たちの会話と聴取
3-2. フラッシュバックと聞こえてくる現在
3-3. 母親への同一化と分身の消去
おわりに
第2章 映画の〈混成的な語り〉
——『M*A*S*H——マッシュ』(1970)における拡声器の音声………49 はじめに
1. 映画的語り手
2. 拡声器を介した音声の位置 3. ホーリハン/ホットリップスの声 おわりに
第3章 交錯する複数の世界
——『ギャンブラー』(1971)における〈サウンド・ブリッジ〉………64 はじめに
1. 『ギャンブラー』における3つの世界 2. 交錯する世界
2-1. クロスカッティングと〈サウンド・ブリッジ〉
2-2. 神話の崩壊
2-3. 2つの世界をつなぐ〈サウンド・ブリッジ〉
2-4. 2つの世界の断絶 おわりに
第4章 批評的アダプテーションと語り
——『ロング・グッドバイ』(1973)の〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉…………79 はじめに
1. 『長いお別れ』の物語内容と物語言説 2. ヴォイス・オーヴァーへの擬態
3. 〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉の批評的機能 おわりに
第5章 〈潜在的な物語〉を語る音
——『ボウイ&キーチ』(1974)におけるラジオ音声………96 はじめに
1. 原作小説と『夜の人々』
2. 〈潜在的な物語〉としての銀行強盗——第1、第2の強盗シーン 3. 〈物語〉の破綻——第3の強盗シーン
おわりに
第6章 ステレオのパラドクス
——『ナッシュビル』(1975)における宣伝カーの音声………112 はじめに
1. 非ステレオ的音声としてのウォーカーの声 2. 物語の統合と2つの「外部」
2-1. ケニーへの追随
2-2. 「暗殺者」としてのケニー
おわりに
結論 フィクションの新たな叙述に向けて………128
初出一覧………132
ロバート・アルトマン フィルモグラフィ………134
引用文献・映像資料一覧………136
序論 〈初期アルトマン映画〉とは何か
1. 映画音響と物語
映画は物語を語ることができる。これは、多くの人々に共有された事実であるに違いな い。だが、それはどのようにして可能であるのか。また、映画によって語られる物語とは 一体どのようなものであると規定できるのか。このような問題にかんして、映画の映像的 側面が大きな役割を果たしているのは言うまでもない。たとえば、異なる複数のショット がある原則に基づいてつながれるとき、一連の映像は独特の効果を獲得する。それは従来、
コンティニュイティ編集やクレショフ効果、モンタージュといった用語によって説明され てきたわけだが、それらによって登場人物のアクションから内面に至る様々な事象が表現 される。1つの作品においてそのようなプロセスが積み重なっていくことで、結果として、
物語と呼びうるような有意味な出来事が紡がれることになるのである。
では、映画を構成するもうひとつの側面である音響はどうか1。映画の音響が持つ物語的 機能にかんする研究は、少なくとも欧米においては1980年代以降、もはや珍しいものでは ない2。ヴォイス・オーヴァー・ナレーションと語りの権威との関係性はフェミニズム映画 理論における主要なテーマのひとつであり続けている3。また、映画音楽が映像の意味産出 にどのように関与しているのかということもつとに論じられてきた4。
しかしながら映画学は、音響と物語との関係性について、未だ解明されていない2つの
1 本論文では、映像の対概念として「音響」あるいは「音」という語を用いる。映画における音響は、大 きく分けて「声」、「物音」、「音楽」の3つに分類することができる。とりわけ本論文に深く関係するのは
「声」である。この語は、俳優の身体から発せられる響きであることを強調する場合に使用し、特定の意 味を持つ話し言葉としての「台詞」と区別する。また、「音声」という用語は、通常は肺や咽頭、口、鼻と いった人間の器官から出される言語音を指す。だがこの論文では、スピーカーやマイクロフォンを備えた 何らかの機器から発せられる音に対して、その媒介性を強調する場合にのみ、「音声」を用いることとする。
2 欧米とは異なり、日本国内における映画音響にかんする研究の蓄積は、まだ充分であるとは言えないの が現状である。だが、2014年に長門洋平による国内初と言える映画音響の学術的研究書が刊行された。対 象がやや音楽に偏っているとは言え、そこでは映画が内包する様々な音が有する映像に対する効果が、詳 細なテクスト分析に基づいて議論されている。長門洋平『映画音響論——溝口健二映画を聴く』(みすず書 房、2014)。
3 代表的な研究としては、メアリ・アン・ドーンやカジャ・シルヴァーマン、近年ではブリッタ・ショー グレンによる研究を挙げることができる。メアリ・アン・ドーン『欲望への欲望——1940年代の女性映画』
松田英男監訳(勁草書房、1994)。Kaja Silverman, The Acoustic Mirror: The Female Voice in Psychoanalysis and Cinema (Bloomington: Indiana University Press, 1988). Britta Sjogren, Into the Vortex: Female Voice and Paradox in Film (Urbana: University of Illinois Press, 2006).
4 たとえばミシェル・シオンは「付加価値」の概念によって、そしてクローディア・ゴーブマンは「投錨」
の概念によって、映画音楽が映像の意味を固定し、物語を補強するという機能を説明している。長門はこ れらを「異化効果」と対置させることで映画音楽の持つ効果を概念的に整理している。また、音楽の抽象 性をユートピアと結びつけて論じた、カリル・フリンの著作も参照のこと。ミシェル・シオン『映画の音 楽』(小沼純一・北村真澄監訳、伊藤制子・二本木かおり訳、みすず書房、2002年)、183-184。Claudia Gorbman, Unheard Melodies: Narrative Film Music (Bloomington: Indiana University Press, 1987), 32. 長門『映画音響論』、
56-57。カリル・フリン『フェミニズムと映画音楽——ジェンダー・ノスタルジア・ユートピア』鈴木圭介
訳(平凡社、1994年)。
重要な問題を抱えている。第一は、映像と音のヒエラルキーにかんする問題である。映画 において音響は映像に従属しており、二次的なものであるという考えは、セルゲイ・エイ ゼンシュテインやベラ・バラージュ、クリスチャン・メッツなど古くから存在していた。
驚くべきことに、ブリッタ・ショーグレンによれば、女性登場人物の声について主題的に 論じたカジャ・シルヴァーマンでさえも、実は「視覚に基づく隠喩」に依拠しており、映 像優位のバイアスを拭いきれていないという5。それに対して、リック・アルトマンの『サ イレント映画の音』や、ジェイムズ・ラストラの『音響技術とアメリカ映画——知覚、表 象、モダニティ』といった研究は、歴史的な観点からそのようなヒエラルキーを転覆させ ようとする試みであった。映画が純粋に視覚的な経験としてのみ存在したことはかつてな かったということを実証したのである6。だが歴史研究ではなく作品分析のレヴェルでは、
このようなヒエラルキーにかんする議論が尽くされてきたとは言えないのが現状である。
確かに、メアリ・アン・ドーンがメッツを参照して述べているように、「見えるものが聞こ えるものよりも上位に置かれるということは、映画特有の現象ではなく、もっと一般的な 文化的所産である」。しかし同時に、「音はほとんど常に映像との関連において論じられる けれども、このことが自動的に音を従属的なものにするとは必ずしも限らない。別の観点 から見れば、(サウンド映画においては)どの映像にせよ、音による屈折を受けていないな どということは疑わしいのである」7。主として映像によって語られる、作品全体が提示す る物語の意味を、音響がどのようにして変容させるのか。視覚偏重のヒエラルキーを転覆 させるために、作品分析を通じてそのような音の持つ力を検証することが要求されている のである。
第二の問題は、映画のナラトロジー(物語論)という領域において音響がどのように論 じられてきたのかを振り返ってみたときに、議論がヴォイス・オーヴァーに集中している ということである。たとえば、シーモア・チャトマンの『小説と映画の修辞学』を参照し てみても、サウンドトラックへの言及はほとんどヴォイス・オーヴァーに限定されている し、またセアラ・コズロフの著作のように、ヴォイス・オーヴァーのみを議論の対象とす ることで、ナラトロジーという分野の研究書が成立してしまうのである8。このようなナラ トロジーとヴォイス・オーヴァーとの関係性を最も明白に示しているのは、注における短 い言及ではあるのだが、トム・ガニングである。ガニングはバイオグラフ時代のD・W・グ
5 Sjogren, Into the Vortex, 12-13.
6 Rick Altman, Silent Film Sound (New York: Columbia University Press, 2004). James Lastra, Sound Technology and the American Cinema: Perception, Representation, Modernity (New York: Columbia University Press, 2000).
7 メアリ・アン・ドーン「映画における声——身体と空間の分節」松田英男訳『「新」映画理論集成——② 知覚/表象/読解』岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編(フィルムアート社、1999)、316。
8 シーモア・チャトマン『小説と映画の修辞学』田中秀人訳(水声社、1998)。Sarah Kozloff, Invisible Storytellers:
Voice-Over Narration in American Fiction Film (Berkeley: University of California Press, 1988).
リフィスを論じた著書において(したがって音響が直接の対象となることはないのである が)、「記号が自然に語る性質を持っている文学的テクスト」とは異なり、「過剰なリアリズ ム」を備えた極めてミメーシス的な媒体である映画が、どのようにしてディエゲーシス(語 ること、ないし報告それ自体)へと変容するのかを理論的に検証している。ガニングは、
映画が「写像的な原料」を「物語化(narrativization)」するプロセスにおいて、音響が重要 な役割を果たす可能性を示唆している。「サウンドトラックは、ここでは説明されていない 技法であるが、最も明白なところではヴォイス..............
・オーヴァーを通じて..........
、多くの時間的関係 を打ち立てることができる」9。この引用からわかるように、物語的機能という観点におい ては、音のなかでも明らかにヴォイス・オーヴァーが特権的に扱われているのである。な ぜこのような主張がなされるのか。それは、暗黙のうちに焦点が当てられているのが、ヴ ォイス・オーヴァーの音響的側面ではなく言語的側面であり、この技法が文字テクストの ようなものとして認識されているからであると思われる。まさにガニング自身が指摘する ような、自ずと語ってしまう文字テクストの性質がここでは強く作用しているのではない か。この点を踏まえると、映画のナラトロジーが音を扱うときに要求されるのは、次の2 つであると言える。まず、ヴォイス・オーヴァーに限定されない音を対象とすること。そ して、音響の言語的側面ではなく、質あるいは木目(grain)が物語性の構築にどのように 影響しているのかを探ることである。言い換えると、音の内容ではなく形式に着目するこ とが求められる。
このように、本論文が議論の対象とするのは、言葉によって何かを語る技法や、あるい はすでに映像によって提示されている物語の意味を音楽を介して固定するというような機 能ではない。音響の在り方それ自体
..........
が物語を語るという可能性である。たとえば、登場人 物の台詞の内容ではなく、話される事柄を伝達する媒質(メディウム)としての俳優の声 それ自体が、何かを物語ることはないのだろうか。これから本論文で探求していくのは、
このような、音響の在り方が特定の人物や事象と関連づけられ、物語として生起するとい う状況である。そのプロセスを解明することで、ナラトロジーという領域にとって、映画 の音響的側面が映像的側面と変わらない重要性を持つということを示す。
その具体的な研究対象として本論文が取り上げるのは、映画監督ロバート・アルトマン
(1925-2006)による、1960年代後半から1970年代半ばにかけて公開された作品群である10。
9 Tom Gunning, D. W. Griffith and the Origins of American Narrative Film: The Early Years at Biograph (Urbana:
University of Illinois Press, 1994), 17-18, 29-30n35. 傍点は引用者。
10 本論文は、いわゆる「作家論的研究」である。だが、実在の人物としてのアルトマンの意図を明らかに することを目的とはしていない。今日の映画産業において、実際には多くの場合「作者」なる概念が死ん ではいないということは、ティモシー・コリガンやダドリー・アンドリューが論じた通りである。しかし、
本論文が関心を寄せるのは、作者が意図していたものを凌駕するような事態が、作品においてたびたび生 じることがあるという現実である。したがって本論文においてロバート・アルトマンという人物は、ミシ
アルトマンの作品が独創的な音響的スタイルと物語形式を持つということは、一般的によ く知られている。さらには、これから見ていくように、その両者の関係性自体が議論の的 となることもしばしばである。しかし、音が有する響きが物語を語ることの可能性につい ては、必ずしも議論が掘り下げられているとは言えない。本論文が企てるのは、このよう な観点から映画のサウンドトラックを聴くことによって、従来とは異なるような、アルト マン映画における物語の様相を浮かび上がらせることである。
2. 物語とは何か
かつてロラン・バルトが述べたように、物語は、「ほとんど無限に近い[……]形をとり ながら、あらゆる時代、あらゆる場所、あらゆる社会に存在する」11。物語るという行為自 体は普遍的な営みである。にもかかわらず、「物語」という用語はしばしば多義的かつ曖昧 に使用される上に、それを一体どのように定義できるのか、今もなお意見の一致を見ない ままである。
『改訂 物語論辞典』のなかで、ジェラルド・プリンスは物語を次のように定義した。
物語とは、一・二名あるいは数名の(多かれ少なかれ顕在的な)語り手(narrator)に よって、一・二名あるいは数名の(多かれ少なかれ顕在的な)聞き手(narratee)に伝 達される一ないしそれ以上の現実の、あるいは、虚構の事象(event)の(結果と過程、
対象と行為、構造と構造化としての)再現表象を言う。12
ここで使用されている「事象」とは、「「〜を行う」とか「〜が起きる」というかたちでの 経過陳述(process statement)によって、物語言説(discourse)に表示される状態(state)の 変化..
」を意味する13。そのような物事の変化を語るという意味において、物語なるものは極 めて時間的であると言うことができる。プリンスによれば、ある時点から別の時点へと向 かう状況の変化を伴うような、「時間的な連鎖」こそが「物語の最大の特徴である」という
14。実際に、古代ギリシアから現代に至るまで一貫して、物語を規定するものとして繰り返
ェル・フーコーに倣い、あくまでも「機能としての作者」として扱われる。Timothy Corrigan, A Cinema Without Walls: Movies and Culture After Vietnam (New Brunswick: Rutgers University Press, 1991), 135-136. Dudley Andrew, "The Unauthorized Auteur Today," in Film Theory Goes to the Movies, ed. Jim Collins, Hilary Radner and Ava Preacher Collins (New York: Routledge, 1993), 80. ミシェル・フーコー「作者とは何か」清水徹・根本美 作子訳、『フーコー・コレクション2——文学・侵犯』小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編(ちくま学芸文庫、
2006)、371-437。
11 ロラン・バルト「物語の構造分析序説」『物語の構造分析』花輪光訳(みすず書房、1979)、1。
12 ジェラルド・プリンス『改訂 物語論辞典』遠藤健一訳(松柏社、2015)、122。傍点は引用者。
13 プリンス『改訂 物語論辞典』、65-66。傍点は引用者。
14 プリンス『改訂 物語論辞典』、123。ただしプリンスは、時間的な連鎖「それだけが物語を物語たらし
し論じられてきたのは、このような時間性である。アリストテレスは『詩学』において、
悲劇を「一定の大きさをそなえ完結した一つの全体としての行為、の再現」と定義した上 で、そのような全体とは「初めと中間と終わりをもつものである」と論じた15。また、ツヴ ェタン・トドロフは1970年代に均衡と不均衡のモデルを提示し、そのなかで、最初にあっ た均衡が破られ、最終的にはそれが回復されるに至るまでを5段階に区分し、それを物語 の最も基本的な型として規定した16。そして1990年代、エドワード・ブラニガンは物語を 定義するにあたって、このトドロフのモデルを全面的に踏襲している17。
しかし一方で、リック・アルトマンは『物語の理論』のなかで、このようなアリストテ レスからトドロフ、ブラニガンへと至る「伝統的な物語の理解」に批判を加える。リック・
アルトマンによれば、それは、「限定された資料体に基づいていて、単一の特徴のみを強調 し、物語のひとつのタイプをすべての種類[の物語]を代表するものとして捉えている」18。 そうではなく、より幅広い解釈をも許容するような、柔軟な定義が必要だと主張している のである。そこで提起されるのが、「追随(following)」の概念である。これは、リック・ア ルトマンが「語りの活動性(narrational activity)」と呼ぶレヴェル——「物語の素材[material] を提示および組織化することができるような、物語っている審級にかんする存在に関係し ている」レヴェル19——に位置づけられており、彼の物語の定義において最も重要な概念で ある。ところが、それが指し示しているのは、驚くほどに簡潔な状況である。
語り手が特定の登場人物への追随を開始して初めて、テクストは物語として認識でき るようになる。あるいは、より正確に言えば、特定の登場人物が追随されて初めて、
我々は語り手の活動を感じ取るのであり、それによってテクストを物語と定義するの である。20
したがって追随のプロセスは、登場人物と語り手に対して同時に、物語世界と語りに 対して同時に光を当てる。物語を構成するのは、まさにこのような2つの異なるレヴ
めるのではない」と発言していることを付け加えておく。だが、この辞典における「物語」の項目を、「要 するに、物語は、時間性と時間的存在たる人間とを説明するものなのである」という文言で締めくくって いることからも、事象が持つ時間性を最も重要視していることは間違いない。プリンス『改訂 物語論辞 典』、123、125。
15 アリストテレース、ホラーティウス『詩学・詩論』(岩波文庫、1997)、39。
16 Tzvetan Todorov, "The Two Principles of Narrative," Diacritics 1, no. 1 (1971): 39.
17 Edward Branigan, Narrative Comprehension and Film (London: Routledge), 1992, 4-8.
18 Rick Altman, A Theory of Narrative (New York: Columbia University Press, 2008), 9. なお、混同を避けるため、
本論文ではリック・アルトマンを参照する際には必ずフルネームで表記する。したがって、単に「アルト マン」とだけ記されている場合はロバート・アルトマンを指している。
19 Altman, A Theory of Narrative, 10.
20 Altman, A Theory of Narrative, 15-16.
ェルの同時的な強調なのである。21
すなわち、言葉であれ映像であれ何らかの媒体において、まさに特定の登場人物を追いか けるような——あるいは特定の登場人物に焦点を当てた——表現が行なわれていれさえす れば、そこには物語が発生しているというのである。
この「追随」は、従来の文学研究において使用されてきた「視点(point of view)」とは異 なる概念である。リック・アルトマンの説明によると、「視点」は、「情報の二次的なフィ ルターとして登場人物を用いることに常に関係して」おり、限られたテクストにしか適用 することができないという問題を抱えている。一方で「追随」は、適用可能な物語のカテ ゴリーをほとんど選ばないという利点を持つ22。それゆえ、テレビのチャンネルをザッピン グしているときなど、「各テクストの一部分だけに触れるときであっても、我々はそれが物 語テクストであるかどうかをあっさりと決定してしまう」というケースさえも説明するこ とが可能となるのである23。これだけに留まらない。この概念の最大の特色は、物語を生み 出すその源泉を、「内包された作者」や語り手といった何らかの主体に求めるのではなく、
「追随」という機能あるいは作用として規定した点である。それによって「追随」は、映 画における物語がどこで生み出され、どこから伝達されてきているのかという、これまで 長きにわたって議論されてきた問題に対して24、1つの簡潔明瞭な答えを与える。「追随」が 意味するのは、行為者としての登場人物と、それを捉え、提示するものとの関係性
...
であり、
それが物語を成立させるのである。つまり、映画における俳優と、彼/彼女を捉えるカメ ラやマイクとの関係性を成り立たせているような作用そのもののなかから、物語は生起す るのである。これらの有効性に鑑みて、本論文ではリック・アルトマンによる物語の定義 を採用することにする25。
では、映画において追随はどのように生じるのか。リック・アルトマンはこの概念を説
21 Altman, A Theory of Narrative, 16.
22 Altman, A Theory of Narrative, 22.
23 Altman, A Theory of Narrative, 17.
24 「映画的語り手」などの、映画における物語る主体の問題については、第2章第1節で詳しく論じる。
25 ただし、本論文には必ずしも時間性による「伝統的な」定義を排除するという意図はない。ある人物へ の「追随」が行なわれているから時間性が生じているのか、もしくはその逆であるのか、必ずしも決定で きないケースが存在するからである。また、アンドレ・ゴドローは、「伝統的な」定義を援用した上で、シ ョットという単位が常に時間の連鎖を表象しうる点に着目し、最初期のリュミエール兄弟の作品群である
『工場の出口』(La Sortie de l'usine Lumière à Lyon、1895)、『ラ・シオタ駅への列車の到着』(L'arrivée d'un train en gare de La Ciotat、1896)、『水をかけられた散水夫』(L'ArroseurArrosé、1895)を一種の物語として捉え ようと試みた。だが、これらの作品で「追随」が生じているかどうかを判断するのは極めて困難である。
本論文で議論する余裕はないが、そのような観点からゴドローの議論を再考する必要もあるだろう。André Gaudreault, "Film, Narrative, Narration: The Cinema of the Lumière Brothers," trans. Rosamund Howe, in Early Cinema: Space, Frame, Narrative, ed. Thomas Elsaesser with Adam Barker (London: BFI, 1992), 68-75.
明する際、移動する人物をカメラが追い続けるという状況を引き合いに出している26。提唱 者自身がそのような視覚的な例を持ち出している点からも明白であるように、映像におい ては追随が容易に可能であるということはひとまず言えるだろう。ならば、もうひとつの 要素である音響はどうか。この点こそが、本論文が探求する根本的な問題に関わっている。
各章で行なう個々の映画作品の分析を通じて明らかにするのは、音響を用いた表現によっ て、特定の登場人物に追随することが可能だということである。それが意味するのは、映 画の音響は映像とは異なる仕方で物語を語ることができるという事実であり、ひいては、
映像と音響の緻密な連関(あるいは乖離)によって、映画は複数の物語を同時的に語るこ とができるということである。これらがどのようにして達成されうるのか、本論文では具 体的なテクスト分析に基づき検証していくことで、他の芸術媒体とは区別されるような、
これまでに指摘されてこなかった映画の新たな特性や可能性の提示を目指す。
3. 物語の複数性
ロバート・アルトマンの映画が特異な物語形式を有しているということは、批評であれ 学術的な研究であれ、この映画監督の研究において最も主要なトピックのひとつであり続 けてきた。特に注目されてきたのは、群像劇タイプの作品が他の映画作家に比して非常に 多いという点である。『ナッシュビル』(Nashville、1975)、『ウエディング』(A Wedding、1978)、
『ショート・カッツ』(Short Cuts、1994)などの作品は、2000年代に流行した、いわゆる
「アンサンブル映画」と呼ばれるような作品群に対して大きな影響を及ぼした。そのよう な経緯もあって、これらの作品は、しばしばアルトマンという監督を特徴づける物語構造 を持っているとみなされているのである。だが、『グランド・ホテル』(Grand Hotel、1932、
エドマンド・グールディング監督)のように、群像劇の形式を持つ映画はアルトマンに先 立ってすでに存在していた。ではアルトマンによる群像劇の新規性とは、どのようなもの であったのか。たとえば四方田犬彦は、『ポパイ』(Popeye、1980)以前のアルトマン作品の 特徴について次のように述べている。
アルトマンはもとより物語を単線状に、わかりやすく説明してゆく監督ではない。い くつもの物語を同時進行的に進め、物語どうしが競合したり、衝突したりして立てる......................
唸り..
というか、磁力を帯びた曖昧な雲のようなもののなかへと観客を導いてゆく作家 のはずだった。27
26 Altman, A Theory of Narrative, 16.
27 四方田犬彦「ロバート・アルトマンを悼む」『俺は死ぬまで映画を観るぞ』(現代思潮新社、2010)、284。 傍点は引用者。
またジェイムズ・モナコは、アルトマンに対して感謝の意を述べるという一風変わった方 法で、彼の映画の特質を述べる。
ありがとう、ロバート・アルトマン。スクリーンとサウンドトラックの限界ぎりぎり まで実に多くの生を詰め込んでくれて。更にはそれを重ね合わせたり、競い合わせた
......
り.
、群がらせたりしてくれて。そしてその偉大で、穏やかな滑稽さに対する大きな理 解にも感謝している。28
この2人の言明に共通するのは、ひとつの映画作品の中で、複数の登場人物たちそれぞれ の物語や生というものが相克する状況が生み出され、それこそがアルトマン映画を特徴づ けているのだという主張である。単に、異なる場所で生じている複数のプロットがばらば らに進行していくというだけではなく、それらが複雑に絡み合うことで軋轢が生じ、それ によって作品を新たな意味へと開いていくような語りこそがアルトマンの特性なのである。
ところで、先に引用した四方田とモナコの文章には、もうひとつ、興味深い共通点が存 在する。それは、必ずしも群像劇タイプの作品だけを念頭に置いて書かれた文章ではない という点である。四方田はあくまでも『ポパイ』以前の作品という括りであるし、モナコ も(特に『ナッシュビル』に強い感銘を受けているとは言え)1970年代までの全作品を対 象としている。そして、そのなかには当然ながら群像劇ではない、明確な主人公を持つ作 品も数多く含まれているのである。つまり2人の文章は、非群像劇タイプのアルトマン作 品においても、複数の物語が存在していて、それらの間で葛藤や競合が生じていることを 示唆しているように思われるのである。
ただし、ある1つの作品の内部に物語が複数存在するという状況は、決してアルトマン の映画に固有のものであるというわけではない。文学を中心とした従来のナラトロジー的 研究では、すでにいくつかの事例が検証されており、理論的な整理が行なわれている。こ こでは2つの研究を概観しておく。
第一は、リック・アルトマンの「複数焦点の物語(multiple-focus narrative)」である。「複 数焦点の物語」とは、テクストが1人の主人公ではなく、複数の登場人物に追随するとき に立ち現れる物語の形式を意味している。その事例として、リック・アルトマンはピーテ
28 James Monaco, American Film Now, Rev. and updated ed. (New York: New American Library, 1984), 325. 傍点 は引用者。「群がること、競い合うこと、重なり合うこと(crowding, jostling, overlapping)」という3点にか んして、モナコはイギリスの演出家ピーター・ブルックの言葉を参照している。
ル・ブリューゲルの絵画を中心に論じている29。第二は、パトリック・オニールの「複雑焦 点化(complex focalization)」の概念である。「焦点化(focalization)」については第1章で検 討するので詳細な説明は省略するが、簡単に定義するならば、特定の登場人物の知覚や感 情、知識を介することによって、物語の情報を制限する状況を意味する。オニールの「複 雑焦点化」とは、ある物語切片が、どの登場人物の内面に寄り添った表現であるのかが不 確定となるような事態——言い換えると、「焦点人物(focalizer)」が決定不可能となるよう な事態——を指している。それゆえに、複雑焦点化が起こった場合、テクストが複数の登 場人物の主観性へと開かれていくことになる30。
この「複数焦点の物語」と「複雑焦点化」の2つは、ある共通した特徴——もしくは問 題点を抱えている。それは、いずれも解釈の多様性に依拠した概念であるということであ る。リック・アルトマンは、「複数焦点の物語」が読者/観客の読み次第では単一焦点
(single-focus)や二元的焦点(dual-focus)の物語に還元されてしまう危険性に注意を促し ている31。またオニールは、「複雑焦点化」の利点をもっぱら解釈の許容範囲を広げるとい う点に求めている32。つまりこれらはいずれも、テクストが複数の物語を提示していること をあらわしているわけではなく、あくまでも、読者や観客といった作品の受け手による受 容を経て発揮されるような効果を説明するための概念なのである。たとえこれらの概念に よって物語の複数性が示されたとしても、それはテクストのなかではなく、能動性を持ち 合わせた、すなわち限定された受容者の思考や想像力のなかに存在しているということに なってしまうのだ。
では、従来のロバート・アルトマン研究はどうであるか。前述した四方田やモナコ以外 にも、物語の複数性を詳細に論じた研究はたしかに存在しており、しかもそれらは作品の 音響に着目している点において、本論文と関心を共有してもいる。だが、それらもまた、
音響の物語的機能を、最終的には観客による受容の仕方や解釈の多様性の問題として処理 してしまっている。
ここでは2つの議論を概観するが、前提として、アルトマンが多用した「重なり合う会 話(overlapping-dialogue)」の技法——複数の俳優を同時に発話させる演出法——と音響技 術との関係性を踏まえておく必要がある。映画監督としてまだ駆け出しであった1960年代、
アルトマンはすでに重なり合う会話の使用を試みていた(その具体的な事例は、次節にお いて論じる)。ただし、複数の俳優による同時的な発話を1本のブーム・マイクで録音する
29 Altman, A Theory of Narrative, 191-241.
30 パトリック・オニール『言説のフィクション——ポスト・モダンのナラトロジー』遠藤健一監訳、小野 寺進・高橋了治訳(松柏社、2001)、126-130。
31 Altman, A Theory of Narrative, 242-243.
32 オニール『言説のフィクション』、128-130。
ことはいくつかの問題を内包していた。たとえば、マイクとの距離がそれぞれ異なってし まうために、同時に話す俳優たちの声の響き方や音量に差が出てしまうという音質の問題 や、画面上の構図が制限されてしまうといった点である。これらを解決したのが、1974年 公開の『カリフォルニア・スプリット』(California Split、日本未公開、DVDタイトルは『ジ ャックポット』)における無線マイクと多重録音機の導入という技術革新であった。アルト マンの製作会社の名前をとって「ライオンズ・ゲート・8トラック・サウンド・システムズ」
と呼ばれているこの技術革新によって、俳優たちは自由に動き回りながら台詞を発するこ とができるようになり、さらには録音した台詞の音質や音量を撮影後に調整することも可 能となったのである33。このようにして洗練された「重なり合う会話」は、1975年公開の『ナ ッシュビル』において発展を遂げる。群像劇の形式をとるこの映画には、プロットを前進 させるような物語の軸となる登場人物が複数存在することと、「重なり合う会話」によって 同時に提示される複数の台詞が連関することによって、特異な物語が生み出されているの だ。
この「重なり合う会話」の技法について、どのようなことが論じられてきたのか。最初 に取り上げるのは、リック・アルトマンの議論である。技術革新を経た「重なり合う会話」
では、音質が均等となることによって、同時に提示される複数の台詞のうちのひとつだけ が特権化されることがない。つまり、観客はどの台詞を聞くべきか能動的に選択しなけれ ばならず、それに応じて何通りもの物語内容が構築されうるということになる。リック・
アルトマンはこれを「音の民主化」と呼び、それによって、『ナッシュビル』では古典的な、
すなわち直線的な物語とは異なるタイプの物語が生み出される可能性があったのだと述べ ている(ただし最後のシーンにおいて「音の民主化」が行なわれず、古典的なサウンドト ラックを持つ古典的な物語として結ばれてしまう点を痛烈に批判している)34。
第二は、小野智恵による議論である。技術革新後の「重なり合う会話」では、画面の前 景にいる人物と背景にいる人物との声の響きが均質になる。それによって、画面の前景と 背景、あるいは中心と周縁が「絶えず入れ替わる可能性をはらむ」ことになる。そして、
同様のことが『ナッシュビル』の物語構造にも言えると論じられる。「重なり合う会話」に よって、物語の中心と周縁が実は「等価値」であることが露呈し、それによって、(「脱中 心化」というよりもむしろ)中心が至る所に存在するような「多元的な物語」が成立して
33 小野智恵『ロバート・アルトマン 即興性のパラドクス——ニュー・シネマ時代のスタイル』(勁草書房、
2016)、46-53。大﨑智史「重なり合う会話——『ナッシュビル』における音声編集」『美学芸術学論集』10
号(2014): 93-94。
34 Rick Altman, "24-Track Narrative? Robert Altman’s Nashville," CiNéMAS: revue d’études cinématographiques 1, no. 3 (1991): 102-125.
いるのだと結論づけられる35。
この2つの議論は、アルトマン作品の音響が持つ物語的機能を論じた重要な論考であり、
一定の説得力を持っている。しかし一方で、「重なり合う会話」がもたらす効果については 議論の余地が残されていることも事実である。たとえばジェイ・ベックが指摘しているよ うに、複数の台詞を同時に聞かせようとすることによって、逆説的にそれらすべてが聞き 取り不可能になるという事態も大いにありえる36。実際にアルトマン自身も、「必ずしもス クリーンで言われた台詞のすべてが聞こえなくてもいいんだよ」、「観客が全てを聞きとっ たかなんてことを私はあまり気にしていない。[……]一言漏らさず聞こえるとか、理解す るとかなんてことは大して重要じゃない」と述べている37。このように観客には、重なり合 って提示されるどの台詞も聞かずにいるという選択肢も残されている。にもかかわらず先 に挙げた先行研究は、そのような可能性をあらかじめ排除してしまった、テクストの意味 産出に能動的に関与しようとするいわゆる「理想的な観客」を前提とした議論であり、そ のために、そこで論じられているような「重なり合う会話」の機能は十全なものであると は言えない38。また、大﨑智史の論考によれば、『ナッシュビル』における「重なり合う会 話」は、「非階層的にデザインされたように」みえて、実際には「画面との連関によって再 び階層化され」ているという39。つまり、観客がどの音を聴くかという選択それ自体が、映 像との関係性においてすでに決定されているという側面も見逃してはならないのだ。そし て、先行研究が抱えるもうひとつの問題は、作品が多様な解釈へと開かれているという事 実の指摘に留まっている点である。観客の能動的な聴取や、画面や物語の中心と周縁の入 れ替えによって、どのようなストーリーの構築が可能となり、作品に対する理解がどのよ うに刷新されるのか、必ずしも具体的に検証されているとは言えないのである。
ロバート・アルトマンの映画が、観客の能動性を刺激するようなテクストであることは 確かである。しかし、この論文が目指すのは、アルトマンの作品が多様な解釈に開かれて いるという事実を指摘することでもなければ、考えられうる様々な解釈のヴァリエーショ ンのひとつひとつを取り上げ、説明することでもない40。そのような映画の受容にかんする
35 小野智恵「ロバート・アルトマン作品における音と物語のプルラリズム——オーヴァーラッピング・ダ イアローグからオーヴァーラッピング・ナラティヴへ」『映画研究』4号(2009): 78-80、87。
36 Jay Beck, "The Democratic Voice: Altman's Sound Aesthetics in the 1970s," in A Companion to Robert Altman, ed. Adrian Danks (Malden: Wiley Blackwell, 2015), 205.
37 ロバート・アルトマン『ロバート・アルトマン——わが映画、わが人生』デヴィッド・トンプソン編、
川口敦子訳(キネマ旬報社、2007)、47。
38 リック・アルトマンの場合は言うまでもないが、小野の議論では観客については一切言及されていない。
しかし、「重なり合う会話」は画面や物語の中心と周縁を入れ替える「可能性」を生み出すに過ぎず、入れ 替える行為の主体として、暗黙のうちに観客を想定しているように思われる。いずれにせよ、中心と周縁 が入れ替わった結果、具体的に何が生み出されるのが論じられるべきではないだろうか。
39 大﨑「重なり合う会話」、99。
40 本論文は観客の能動性を否定するものではなく、むしろストーリーが構築される場合において、それは
問題ではなく、それ以前にテクストに内在している物語の複数性について明らかにするこ とである。そのような意味では、たとえばミハイル・バフチンの「ポリフォニー性」の概 念を参照することも可能であるかもしれない。バフチンによれば、「ドストエフスキーの長 篇小説の基本的特徴」としての「ポリフォニー」とは、「自立しており融合していない複数 の声や意識、すなわち十全な価値をもった声たち」によって構成される。そして、「自分た ちの世界をもった複数の対等な意識」が組み合わさることで、「ある出来事という統一体」
が生み出されるのである41。ただし、バフチンが小説を構成する複数の個人的な言説の「共 存」を重要視しているのに対して42、アルトマンの映画に存在する複数の物語はそのような 関係にあるのではない。そうではなく、互いにせめぎ合っているのである。次節では、そ のような物語の葛藤状態を生み出すアルトマン映画の音響がいかなるものであるのかを検 討する。
4. 〈初期アルトマン映画〉のサウンドトラック
この論文が対象とする1960年代から1970年代半ばにかけてのアルトマンの作品群では、
基本的には1本の作品につき明確な主人公が1人存在する。『雨にぬれた舗道』のフランセ ス、『ギャンブラー』(McCabe & Mrs. Miller、1971)のマッケイブ、『ロング・グッドバイ』
(The Long Goodbye、1973)のマーロウなどである43。映像はそのような人物の行動を捉え 続け、そうすることで、彼らの経験する出来事が軸となりプロットが構成されている。言 い換えると、映像による主人公への追随が生じていて、そのような意味で主人公に帰する ことができるような物語が語られている。この論文が指摘するアルトマンの映画の特性と は、主人公に対する追随が生じているその最中において、端役であるような別の人物への 追随を同時的に可能とするような独特な演出が行なわれているということである。それは、
映像とは異なる次元である音響によって行われる。映像によって主人公の物語が、音声に よって別の人物の物語が同時に語られることによって、両者が拮抗するような場が生み出 される。そうすることでアルトマンは、安定した物語構造に亀裂を入れ、作品を複数の世 界へと切り開いていくのである。これが、アルトマン映画における物語の複数性であり、
物語的葛藤である。
必要不可欠であるとさえ考えている。だが、デイヴィッド・ボードウェルやブラニガンに代表される認知 主義的な物語理論のように、観客による能動的な認知プロセスを語りの本質をなすものとは考えない。そ うではなく、語りはあくまでもテクストの側に存在する。ボードウェルらに対する批判については、トム・
ガニングの議論を参照のこと。Gunning, D. W. Griffith and the Origins of American Narrative Film, 22-25.
41 ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの創作の問題』桑野隆訳(平凡社ライブラリー、2013)、18。
42 バフチン『ドストエフスキーの創作の問題』、62。
43 『M*A*S*H』には例外的に、複数の主人公が存在すると言える。だが映画は、彼らを個別的にではなく、
近似した性格を持つ1つの集団として描いている。その意味で本論文では、この映画を群像劇とは看做さ ない。
このような物語的葛藤は、位置が決定不能であるような音によって引き起こされる。そ れは、アルトマンのフィルモグラフィーにおいては、『雨にぬれた舗道』から『ボウイ&キ ーチ』までの間に一貫して見出されるのにもかかわらず、これまでその存在さえも指摘さ れてこなかった音である。
アルトマンは1974年、2月公開の『ボウイ&キーチ』と8月公開の『カリフォルニア・
スプリット』という2本の作品を発表している。この2本は同じ年に公開されたのにもか かわらず、その間にはある技術的な断絶が存在する。『ボウイ&キーチ』まではサウンドト ラックがモノラル方式であったのに対して、その次作『カリフォルニア・スプリット』以 降はステレオ方式が採用されるのだ44。前節において「重なり合う会話」に言及した折に説 明した通り、ステレオ期におけるアルトマン映画では、サウンドにかんする様々な技術革 新や実験的な試みがなされており、とりわけ『ナッシュビル』を中心に注目を集めてきた。
一方でモノラル期については、『M*A*S*H——マッシュ』(M*A*S*H、1970、以下『M*A*S*H』
と略記)、『ギャンブラー』、『ロング・グッドバイ』といった代表作を多く含みながらも、
音響の在り方という観点からは、これまで積極的に評価されてきたことは決して多くはな い。アルトマンが独自のサウンドを構築したとされる『ナッシュビル』が1つの到達点で あるならば、モノラル期の作品群における音は、相対的に未発達であったと暗黙のうちに 看做されているようにも思われる。しかしそこには、技術的に未発達であったからこそ可
44 インターネット・ムーヴィー・データベース(IMDb)を参照すると、『カリフォルニア・スプリット』
のサウンド・ミックスはモノラルであると記載されているし、公開当時のアメリカにおいてモノラルで上 映されていたことも事実である。しかしジェイ・ベックによると、実際にアルトマンや音響技師たちは本 作をステレオの作品として製作した。具体的には、ジム・ウェッブが8トラックの多重録音機で録音した 音を、リチャード・ポートマンが3チャンネルのステレオ(左・中央・右)としてミックスしたのだとい う。このような経緯を経て、上映には、磁気式のステレオ・プリントが使用された。ところが、1974年当 時——すなわち、ドルビーによる光学式ステレオ・システムが登場して、ステレオが全米の映画館に定着 する直前の時期である——、アメリカにはこの映画をステレオ音響として上映できる環境を備えた映画館 はほとんど存在せず、上映はモノラルであった(磁気式のステレオ・システムの変遷については、本論文 の第6章第1節を参照)。ただし、現在流通している『カリフォルニア・スプリット』のDVDは、明らか にステレオ方式であり、冒頭のシーンですでに、音が左右から分かれて聞こえてくる。あくまでも憶測で あるが、製作の経緯を踏まえると、ソフト化にあたってマスターとして使われているのは、オリジナルの プリントなのではないかと思われる。このように、アルトマンたちが当初から意図していた音響はステレ オであるということ、そしてそれは公開当時は聴くことのできないものであったが、現在はDVDにおいて 聴くことができるという理由から、本論文では『カリフォルニア・スプリット』をステレオ作品に分類し、
〈初期アルトマン映画〉の範疇には含めないものとする。また、IMDbには1972年の『イメージズ』(Images) がステレオ、1977年の『三人の女』(3 Women)がモノラルであると記載されており、本論文で行なった時 期区分とは異なっている。この2作品の録音にかんする技術的背景については、詳しいことはわかってお らず、今後調査を行なう必要がある。ただし、少なくともDVD版では、前者はモノラル方式、後者はステ レオ方式が採用されている。"California Split (1974) Technical Specifications," IMDb,
https://www.imdb.com/title/tt0071269/technical?ref_=tt_dt_spec (accessed December 28, 2018).
Beck, "The Democratic Voice," 198-199.
"Images (1972) Technical Specifications," IMDb, https://www.imdb.com/title/tt0068732/technical?ref_=tt_dt_spec (accessed December 28, 2018).
"Sannin no onna (1977) Technical Specifications," IMDb,
https://www.imdb.com/title/tt0075612/technical?ref_=tt_dt_spec (accessed December 28, 2018).
能であったような、数多くの特異な音響実践が確認できるのだ45。
この論文では、アルトマンが監督したモノラル期の作品群を〈初期アルトマン映画〉と して規定する。モノラル期を初期と言い換えるのは、この時期を特徴づけるものが音響と いう側面のみに収斂するものではなく、ステレオ期とは別種の物語を形成するような語り の機能にまで拡張されるからである。ここからは、作品中の具体例や技術的な背景、理論 的な問題などを総合的に踏まえつつ、〈初期アルトマン映画〉のサウンドトラックがいかな るものであるのか、その特性を整理していく。
前述の通り〈初期アルトマン映画〉は、1969年の『雨にぬれた舗道』から1974年の『ボ ウイ&キーチ』までを指す。だが、モノラルであった時期ということであれば、それ以前 の『非行少年たち』(The Delinquents、1957、日本未公開)や『宇宙大征服』(Countdown、 1967)、あるいはアルトマンが手掛けたテレビ・ドラマの各エピソードも含まれてくる。確 かに、そのような駆け出しの頃の作品において、独特な音響的技法をいくつか確認するこ とができる。たとえば『宇宙大征服』におけるホワイト・ハウスの会議室のシーン——急 遽発足した月への有人ロケット発射計画において、誰を乗せるべきかをめぐって、NASA 側とアメリカ政府側の4人が協議するシーン——では、白熱する議論のなかで幾度か俳優 たちが同時に台詞を発している。さらに、その後のパーティーのシーンでは、プールサイ ドで会話する4人の人物の台詞が重なり合うのみならず、そこに屋内でギターの弾き語り をする男の演奏や、それに対する歓声、自由におしゃべりを楽しむ人々のざわめきなどが 絡み合い、より複雑なサウンドトラックが形成されている。また、テレビ・ドラマの領域 では、『コンバット!』(Combat!、1962-1967)の第1シーズン第9話「一人だけ帰った」("Cat and Mouse"、1962)において、一風変わった試みがなされている。このエピソードでは、主 人公たちが身を隠す小さな廃墟に偶然ドイツ兵たちがやって来て、敵である主人公たちが いるとは気づかずにそこを一時的な拠点としてしまうことで、濃厚なサスペンスが展開さ れる。そこでは常に、廃墟の外にある水車が回転する軋んだ物音が聞こえ続けており、こ の音がストーリーに独特な緊張感を与えている。それだけでなく、これは、サウンドトラ ックを音で満たそうとする後のアルトマンの傾向があらわれた、最初期の事例として捉え ることもできるかもしれない。しかし、アルトマンが初めて映画製作における全行程にか んして最終的な決定権を持ったのは『雨にぬれた舗道』であるし、実際に映像や音響にお
45 映画音響にかんする技術的に未発達な状況が、作品内部において特異な効果を上げていたことについて、
ロバート・スパドニは、サイレントからトーキーへと移行してすぐの時期に公開されたユニヴァーサルの ホラー映画を対象とし、議論を展開している。扱う対象やアプローチの仕方は大きく異なるが、技術的な 未発達をあえて肯定的に評価しようとする点において、スパドニの論考はこの論文にとっての重要な参照 点である。Robert Spadoni, Uncanny Bodies: The Coming of Sound Films and the Origins of the Horror Genre (Berkeley: University of California Press, 2007).
いて彼の作家性が十全に発揮されるのもこの映画が最初である。このような経緯もあって、
多くの先行研究がこの映画を「最初のアルトマン映画」と看做している46。しかも、アルト マン映画に特有の物語の複数性および物語的葛藤が立ち現れるのも、この映画が最初なの である。
〈初期アルトマン映画〉における物語的葛藤を生み出す音とは、ダビング音である。な おかつ、それがモノラルという条件によって位置が決定不能であるような音と化したとき、
特殊な語りの機能を持つことになる47。一般的にロバート・アルトマンという人物は、リア リスティックな、生々しい音声に強いこだわりを持った人物として認知されている。実際 に彼はインタヴューにおいて、「時にどうしても必要な場合もある」と断りつつも、「いま だにダビング、アフレコは蔑視している」と発言している48。しかしながら、1970年代のア メリカは、同時録音による聴覚的なリアリズムの追求と部分的なアフレコの使用という、
相反する2つの傾向が混在していた時代であった。したがって、アルトマンが(意図的で あろうがそうでなかろうが)両者を巧みに使い分け、織り合わせていたとしても、何ら不 思議ではないのである。
ここでジェイ・ベックによる整理に基づいて、そのような同時録音とアフレコの混在に ついて、技術的な背景を概観しておこう。まず、ポーランド人のエンジニアであるステフ ァン・クデルスキーによって1958年に開発されたナグラ3(Nagra Ⅲ)というレコーダー によって、アメリカにおける映画製作の現場に同時録音のシステムが普及し始めることと なる。本機は、それ以前に使用されていた35ミリの磁気テープ用のレコーダーとくらべて はるかに軽量で持ち運びがしやすく、カメラとの容易かつ正確な同期を可能とした。ナグ ラ3によってもたらされた聴覚的なリアリティの向上は、いわゆる「ダイレクト・シネマ」
にも直接的な影響を及ぼすことになる49。一方で、1960年代はイギリスから多くの映画監督 たちが渡米してきた時代でもあった。トニー・リチャードソンやジョン・ブアマンなどで ある。ベックは、イギリス人映画作家たちの渡米によって、イギリス映画の慣習がいつの
46 Robert T. Self, Robert Altman's Subliminal Reality (Minneapolis: University of Minnesota Press, 2002), 25. David Sterritt, "Breaking the Rules: Altman, Innovation and the Critics," in Danks, 96-97. David Melville, "'One is both the same': Fantasy and Female Psychosis in Images and That Cold Day in the Park," in Danks, 350-351. 特にセルフは、
『雨にぬれた舗道』の前作『宇宙大征服』を古典的な物語映画と看做しており、そこに明らかな断絶があ ると論じている。
47 ゲイル・シャーウッド・マギーはアルトマン映画のサウンドトラックを論じるにあたって、アルトマン に影響を与えた映画やラジオ・ドラマ、および同時代のいわゆるニュー・ハリウッドの作品のなかで、物 語世界内外の境界線上にある音が使用されているという事実にたびたび言及している。しかしながら、ア ルトマン自身の作品における音響の位置の不確定性を指摘した論考は、管見では存在しない。Gayle Sherwood Magee, Robert Altman's Soundtracks: Film, Music, and Sound from M*A*S*H to A Prairie Home Companion (Oxford: Oxford University Press, 2014), 13-14, 23-24, 37-38.
48 アルトマン『ロバート・アルトマン』、47。
49 Jay Beck, Designing Sound: Audiovisual Aesthetics in 1970s Amrican Cinema (New Brunswick: Rutgers University Press, 2016), 30.
間にかアメリカ映画へと取り込まれていった可能性を指摘している。それが、部分的なア フレコの使用である。イギリスの演劇および映画では、伝統的に、観客に対して台詞を明 確に聞かせようとする。なぜなら、アクセントや訛りこそが、登場人物の階級や所属する 地域を最も端的に表すからである。そのためにアフレコが多用されてきたのである50。アル トマンが実際にどのような機材を使用していたのか、また、イギリス映画に影響を受けて いたのかどうかについては定かではない。だが、雑音さえもそのままに残した生々しいサ ウンドトラックを軸として、部分的にアフレコなどのダビング音を被せるという試み自体 は、この時代の録音技術や文化的な背景から考えるに、不自然なことではない。さらにこ のようなサウンドトラックには、アルトマン本人でさえ自覚していなかったような、特異 な物語的機能が備えられることとなるのである。
リック・アルトマンはロバート・アルトマンの映画のサウンドトラックの特色として、
次の4点を挙げている。⑴即興の会話、⑵副次的な会話や環境音の過度な強調、⑶装置を 介した音の多用、⑷多数の独立した音を同時に使用するという全般的な傾向51。なかでも本 論文が主題的に取り上げるのは、⑶装置を介した音声である。これは、従来アルトマン映 画全般にかんする特徴としてしばしば言及されてきたにもかかわらず、その機能について はほとんど論じられてこなかった音である。とりわけ重要なのは、〈初期アルトマン映画〉
において装置を介した音声は、同時録音ではなく、ポストプロダクションの段階でダビン グされた音であるということだ。そうすることで、この音はブーム・マイクによって録音 されたサウンドトラック全体とは分離した、異質な音として鳴り響くのである。そして〈初 期アルトマン映画〉に存在するダビング音は、装置を介した音声だけではない。そこには アフレコの声も含まれる。これは一般的には撮影後、スタジオで録音された声を指す。だ がここではその意味を拡張し、ロケーションで録音されたにもかかわらず、ポストプロダ クションの段階で編集を加えられた声も含むことにする。作品毎の具体例は以下の通りで ある。
装置を介した音声は、
• 『M*A*S*H』における拡声器の音声52
• 『ボウイ&キーチ』におけるラジオ音声 アフレコによる声は、
• 『雨にぬれた舗道』の中盤における、端役の女性たちによる会話
50 Beck, Designing Sound, 13-17.
51 Altman, "24-Track Narrative?" 111.
52 『M*A*S*H』における拡声器の音声がダビング音であることは、パトリック・マクギリガンによるアル トマンの評伝で述べられている。Patrick McGilligan, Robert Altman: Jumping Off the Cliff: A Biography of the Great American Director (New York: St. Martin's Press, 1989), 310.