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交錯する複数の世界

ドキュメント内 2018 年度 博士学位申請論文 (ページ 68-83)

—— 『ギャンブラー』 ( 1971 )における〈サウンド・ブリッジ〉

はじめに 

凄腕のガンファイターであると噂される男が、寂れた町へと流れ着く——この西部劇の 典型的な導入が、『ギャンブラー』(McCabe & Mrs. Miller、1971)では用いられている。こ のような噂話、すなわち物語世界に拡散する神話を生み出すのは、酒場に出入りする男た ちの会話である。薄暗く混雑した店内にあって、彼らの声は重なり合って聞こえるため、

具体的にどの人物から発せられたものであるのか、視覚的な同定が回避される。こうして 彼らの噂話は誰のものでもない言葉として物語世界の中を漂い、いつの間にか町の人々に 共有された既成事実としての神話へと生成する。

このような音響を用いた演出によって、突然現れた男が凄腕のガンファイターであると いう神話が生み出された後、物語が展開するに従って画面へと映し出されていくのは、こ の男の弱気な姿や、物事を上手に運ぶことのできない不器用さである。多くの古典的な西 部劇とは異なり、『ギャンブラー』において「凄腕のガンファイター」という噂=神話の信 憑性は決して保証されない1。それどころか本作のプロットの根幹をなすのは、このような 神話が徐々に崩壊していくプロセスを開示することである。

本作をジェンダー論的観点から分析した藤田秀樹は、前述した男たちの会話内容を詳細 に分析することで、この「凄腕のガンファイター」にかんする神話が映画の冒頭において すでに、「実は根付く実体を欠き虚しく浮遊する単なる像あるいはペルソナ」にすぎないも のとして提示されていることを指摘している。それを糸口として、藤田は、本作において 男らしさの誇示が冷笑や揶揄の対象とされること、女性登場人物たちが男性登場人物に従 属することなく、自立の道を模索するということを物語の展開に沿って検証する。その上 でこの映画が、西部劇のコンヴェンションを内部から突き崩すような作品として成立して いることを論じている2。ヘレン・キーサーもまた、ジェンダー論的観点から西部劇という ジャンルの解体を論じているという意味では、概ね藤田と同様の議論を展開していると言 える。ただし、そこではアルトマンの作家性を強く意識した議論が行なわれている。第2 章でも言及したように、これまでしばしばアルトマンの作品は女性嫌悪的であると批判さ

1 ただしフィリップ・フレンチによれば、(物語において神話それ自体が否定されないにしても)「ヒロイ ズムの概念そのものに挑戦」し、「勝利や成功ではなく敗北を一段と強調する」西部劇は、ニュー・ハリウ ッドの時代に先立つ1950年代からすでに存在していた。たとえば、ヘンリー・キング監督の『拳銃王』(The

Gunfighter1951)が該当する。フィリップ・フレンチ『西部劇・夢の伝説』波多野哲朗訳(フィルムアー

ト社、1977)、64-65。

2 藤田秀樹「西部劇の黄昏——ジェンダー視座からロバート・アルトマンの『ギャンブラー』を見る」『富 山大学人文学部紀要』52号(2010): 161-175。

れてきた。それに対してキーサーは、フェミニストの立場からアルトマンの映画を擁護す る。『ギャンブラー』については、入浴する娼婦たちの身体がエロティックな表象を免れて いる点や、ヒロインであるコンスタンス・ミラー夫人(ジュディ・クリスティ)について、

彼女が娼婦としての仕事を終えたシーンにおいても、決してその裸体が提示されない点に 着目している。このような女性の裸体との距離の取り方がアルトマンに固有の映像表現の ひとつであり、そういった細部によって、本作に登場する女性たちが性的な見世物となる ことを回避しているという事実が明らかにされる3

これらの先行研究は、ジャンルとジェンダーの関係という点から、主人公のマスキュリ ニティやヒロイズムの脆弱さを論じている。このような観点は、本章の議論とも深く関わ るものではある。しかし、この章が関心を寄せるのは、『ギャンブラー』という映画の語り のシステムにおける、主人公という機能の脆弱さであり、それが弱められるプロセスであ る。この映画では、主人公とその世界は、町の人々の声と風の音によって埋没させられる ことになる。このようにして本作の語りでは、音響の独特な使用が主人公の運命を決定し ている。本章の目的はその技法を分析し、その技法がこの作品にとって持つ意味を明らか にすることにある。

第1節では、『ギャンブラー』のあらすじを確認するとともに、結末部分に依拠して本作 を3つの世界に区分する。それらの関係性を整理した上で、第2節では、この映画の最終 シークエンスの具体的な分析を行なう。第1項では、議論の前提として、クロスカッティ ング、そしてサウンド・ブリッジという本章のキーワードとなる2つの映画技法の機能に ついて概観し、後者の定義の拡張を試みる。第2項では、このシークエンスで多用される 視点ショットを手掛かりに、本作の男性主人公のヒロイズムを検討する。第3項では町の 人々の声、第4項では風の音を対象としてテクスト分析を行なう。最終的に、これらの音 声が物語言説のレヴェルにおいて果たす機能として、3つの世界をどのように関係づけてい るのかを明らかにする。

1.  『ギャンブラー』における 3 つの世界 

20世紀初頭のワシントン州、寂れた鉱山町プレスビテリアン・チャーチにジョン・マッ ケイブと呼ばれる賭博師(ウォーレン・ベイティ)がやって来る。ビル・ラウンドツリー という男を殺した凄腕のガンファイターであるという噂によって、彼はすぐに一目置かれ た存在となり、この町に娼館を建て、一山当てることを目論む。ところが、どうにも娼婦 たちを管理することができない。そこへ、ミラー夫人という娼婦が町へやって来て、マッ

3 Helen Keyssar, Robert Altman's America (New York: Oxford University Press, 1991), 175-200.

ケイブに娼館の共同経営を持ちかける4。ミラー夫人の剣幕に圧倒されてしまったマッケイ ブは、その話を断ることができない。しかし、彼女の商才のおかげで経営は軌道に乗り始 める。あるときマッケイブは、よその町の鉱山会社から娼館の買収話を持ちかけられる。

断ったら血を見る羽目になるというミラー夫人の忠告にもかかわらず、彼はオファーを蹴 ってしまう。そのため、鉱山会社に雇われた3人の殺し屋から命を狙われることになる。

決闘の朝、マッケイブは負傷しながらも何とか2人の殺し屋を倒す。そのとき、町の教 会から火の手が上がる。町の人々が消火活動にあたる中で、マッケイブは最後の1人、殺 し屋のリーダーであるバトラー(ヒュー・ミレイ)に勝利する。しかし致命傷を負ったマ ッケイブは、雪に埋もれて孤独に死んでいく。一方でミラー夫人は阿片窟にいて、陶酔し ていた。彼女がマッケイブの運命に気づいていたのか、気づいていなかったのか、それと も気づいていないふりをしていたのか、彼女の思いははっきりと示されないまま、映画は 幕を閉じる。

本章ではこの結末部分に依拠して、『ギャンブラー』を一定の秩序を持つ3つの世界に区 分する。すなわち、決闘の末に孤独に死んでいくマッケイブの世界と、消火活動を行なう 町の人々の世界、そして阿片窟で陶酔するミラー夫人の世界である。これらは出来事とし ては接点を持つことがない。さらには、この映画の全体を見渡してみても、3つの世界が取 り結ぶ関係性が希薄であることがわかる。まずは町の人々の世界を、男たちの世界と娼婦 たちの世界に分けた上で、それぞれがマッケイブの世界とどのように関わっているのかを 検討する。

前述したように、映画の冒頭、凄腕のガンファイターであるという噂によって、マッケ イブは酒場に出入りする男たちの注目を集める。新参者でありながらポーカーを取り仕切 っている点から、この時点ですでにマッケイブが町の男たちのコミュニティにおける中心 的存在となったことは明白である。ところがその後、両者に目立った交流は見られない。

マッケイブは、酒場の店主シーハン(ルネ・オーベルジョノア)に持ちかけられた共同経 営の話を退けるし、男たちを娼館の建築に必要な人材、あるいは娼館の客としてしか看做 していない。このような経緯で彼らはマッケイブの世界から離反し、そのことが物語の結 末へと結びついていく。つまり、殺し屋に狙われるマッケイブに味方する者が誰一人とし て現れないという事態である。一見するとその理由は、単にそのとき彼らが消火活動とい う別の行動をとっていたからであるように思われる。しかし実際には、マッケイブと町の 男たちはそれぞれに異なる秩序を生きているということに動機づけられているのだ。

4 『ギャンブラー』においてミラー夫人の婚姻歴は不明なままである。一方で原作小説では、実は一度も 結婚しておらず、既婚者を装っているということ、そして上品さを身にまとうために結婚指輪をしている ということを、マッケイブは彼女本人から聞き出す。Edmund Naughton, McCabe (New York: Leisure Books, 1991), 23.

ドキュメント内 2018 年度 博士学位申請論文 (ページ 68-83)

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