——『ボウイ&キーチ』 (1974)におけるラジオ音声
はじめに
1930年代のアメリカ南部に生きる銀行強盗の姿を描いたエドワード・アンダーソンの小 説『俺たちと同じ泥棒』(Thieves Like Us、1937)は、これまで2度映画化されている。1度 目はニコラス・レイによる1948年の『夜の人々』(They Live by Night)、2度目はロバート・
アルトマンによる1974年の『ボウイ&キーチ』(Thieves Like Us)である。主人公とその恋 人との恋愛を主題としたために大幅な改変が施されているレイの作品とは異なり、アルト マンは物語における出来事や台詞にかんして、比較的原作に忠実な翻案を行なっていると 言える1。しかし『ボウイ&キーチ』は、原作とも『夜の人々』とも大きく異なる、ある特 徴的な音響を内包している。それは、ラジオ音声の使用法である。この映画のサウンドト ラックは、1930年代に実際に放送されたことのある多くのラジオ音声で満たされており、
その使用回数は20回を超える。それらは1930年代という時代背景の描写に奉仕している だけではない。これまで本論文において検証してきた〈初期アルトマン映画〉における数々 の独特な音と同じく、映画の音響的スタイルへと改めて注意を向けさせるものとなってい る。さらには、〈初期アルトマン映画〉に特有の物語的葛藤をも生み出しているのだ。
『ボウイ&キーチ』において繰り返し使用されるラジオ音声は、従来、登場人物たちが 聞いている物語世界内の音として位置づけられてきた。たとえばポール・ジャイルズやロ バート・T・セルフは、本作について論じた論考のなかで、このことがあたかも自明である かのような記述を行なっている2。確かにこの映画では、ラジオの受信機がはっきりと映り 込むショットが幾度もあらわれるし、登場人物がそれを操作するショットもたびたび見受 けられる。そのために、全体的な印象としてラジオ音声が物語世界内で生じ、登場人物た ちがそれを聞いていると考えるのは不自然ではない。しかし、映像と音響の細部に注意す ると、物語世界内の音声であることが疑わしいケースが存在する。3回行なわれる銀行強盗
1 アルトマンはインタヴューで、原作に惹かれ、それを映画化したいと強く望んでいたことを明かしてい る。ただし『夜の人々』については、『ボウイ&キーチ』の製作に入るまで見たことがなかったという。ロ バート・アルトマン『ロバート・アルトマン——わが映画、わが人生』デヴィッド・トンプソン編、川口 敦子訳(キネマ旬報社、2007)、112-113。
2 ジャイルズは、『ギャングバスターズ』や『国際秘密警察員』といった物語を、登場人物たちがラジオで 聞いていることを前提に議論を進める。しかし本章の第2節で明らかにするように、この2つこそが、登 場人物たちが聞いているかどうかを示す根拠に欠けるものである。またセルフは、この映画のラジオ音声 を一括して、「様々な形でストーリーの展開に注釈をつけるような物語世界内的な存在[an internal diegetic
narrative presence]」と看做す。その最初の例として「『ギャングバスターズ』という警察もののラジオ番組
が、最初の銀行強盗シーンの間に放送される」と述べている。Paul Giles, American Catholic Arts and Fictions:
Culture, Ideology, Aesthetics (Cambridge: Cambridge University Press, 1992), 320. Robert T. Self, Robert Altman's Subliminal Reality (Minneapolis: University of Minnesota Press, 2002), 183.
のシーンである。そこで聞こえるラジオ音声は音源が明示されず、物語世界内の音かどう かを決定できないのだ3。
本章の目的は、このような特性を備えた、3つの強盗シーンにおけるラジオ音声の機能を 明らかにすることである。これらのラジオ音声が他のシーンとは異なる語りを生み出すこ とによって、強盗シーンは『ボウイ&キーチ』という物語内の出来事の一部であるだけで なく、そこに別種の〈潜在的な物語〉を露呈させる。その〈物語〉とは何かということを 考えるにあたって参照するのは、トマス・エルセサーが提起した「動機を持たぬ主人公
(unmotivated hero)」の概念である。エルセサーは、1970年代の多くのアメリカ映画の主人
公が有する特色——すなわち、内面や行動原理が古典的ハリウッド映画の主人公とくらべ て不透明であること——をこの概念によって説明した4。『ボウイ&キーチ』の主人公ボウイ
(キース・キャラダイン)は、まさにこの「動機を持たぬ主人公」に該当する。しかしこ の映画には、明確な動機のもとに行動する人物も存在する。それはボウイの強盗仲間のチ カモウ(ジョン・シャック)である。彼はある種の〈物語〉の主人公になりたいという欲 望を抱き、それに従って行動するのだ。この欲望が実現される場が、強盗のシーンなので ある。
第1節では、『ボウイ&キーチ』の特異性を脚色という観点から明らかにする。具体的に は、原作小説および『夜の人々』を参照し、それぞれの語りのモードやラジオと強盗シー ンの描かれ方、ボウイとチカモウの人物造形を比較検証する。第2節では『ボウイ&キー チ』における最初の2つの強盗シーンを分析し、そこでの映像と音響の連関がチカモウの 潜在的な自己の〈物語〉を露呈させることを指摘する。第3節では、3番目(最後)の強盗 シーンにおいて、第2節で検討した〈物語〉がついに挫折するという事態を解明する。
1. 原作小説と『夜の人々』
原作小説と『夜の人々』、『ボウイ&キーチ』は主題こそ異なるものの、大まかには物語 の全体的な流れを共有している。1930年代のミシシッピ州を舞台とし、ボウイ、チカモウ、
T-ダブの3人が脱獄したところから物語は始まる。彼らは、チカモウの兄が住むモブリー家 に身を寄せ、ボウイはその家の娘キーチに惹かれる。3人は銀行強盗を幾度か成功させるが、
3 この3つに加えて、ボウイが交通事故を起こす直前、彼とチカモウがそれぞれ自動車を運転する際に聞 こえるブルース調の音楽も位置を決定することができない。また、冒頭、タイトルが表示される際に流れ るアメリカ合衆国国歌の前奏が唯一、本作において物語世界外の音声であることが明白な例である。しか し両者ともに音楽という形式をとっているがゆえに、そもそもラジオ音声であるかどうかが判別不可能で あるため、本章では議論の対象としない。
4 Thomas Elsaesser, "The Pathos of Failure: American Films in the 1970s: Notes on the Unmotivated Hero," in The Last Great American Picture Show: New Hollywood Cinema in the 1970s, eds. Thomas Elsaesser, Alexander Horwath and Noel King (Amsterdam: Amsterdam University Press, 2004), 280-281.
ある日ボウイは交通事故で大怪我を負ってしまいモブリー家で療養することになる。そこ で彼はキーチと再会する。2人は恋仲となり、山奥の家を購入して同棲を始める。キーチは ボウイに強盗から足を洗って欲しいと伝えるが、ボウイはチカモウやT-ダブとの関係が壊 れることを恐れ、再度銀行強盗に加担する。
物語の結末にかんしては、2本の映画はいずれも原作とは異なる翻案を行なっている。原 作では、ボウイが刑務所に送られたチカモウを脱獄させるが、2人は喧嘩別れし、ボウイと キーチが警官に射殺されるというエンディングが用意されている。『夜の人々』においては、
ボウイとチカモウの決別自体は描かれるものの、チカモウの逮捕やボウイによる彼の救出 など、その前後の過程が削除されており、キーチを残して旅立とうとしたボウイが警官に 射殺されて幕が閉じられる。『ボウイ&キーチ』は、ボウイとチカモウの決別とそれに至る 経緯は原作を踏襲しているが、最終的にボウイだけが警官隊の一斉射撃に遭い、生き残っ たキーチ(シェリー・デュヴァル)の旅立ちのシーンが追加されている。
このように3作品とも大まかな筋は共有しているが、『夜の人々』はボウイとキーチの恋 愛を前景化するためになされる、細かい設定や出来事にかんする原作からの改変が非常に 多い5。たとえば原作では、モブリー家へ向かう道中、ボウイを車で迎えに行くのはチカモ ウの兄で、ボウイは警戒して車を見送るが、『夜の人々』では、迎えに来るのはキーチであ り、ボウイはその車に乗る。一方で『ボウイ&キーチ』は、キーチが生き残ること以外は、
物語内の出来事とその流れにかんして、原作への忠実度が高いと言える。それでも、表現 技法としては、全体的な語りのモード、ラジオの使用法、強盗シーンの描き方の3点、さ らにはボウイとチカモウという2人の人物の性格にかんする大きな改変が見られる。まず はこれらの観点について、原作と『夜の人々』を比較する。
原作は「三人称の語り手」によって語られている。ただし提示される出来事は、基本的 にはボウイが経験するものに限られている上に、かなりの頻度で使用される自由間接話法 によって、ボウイの内面が彼自身の言葉で詳細に示されている6。したがって、焦点人物を ボウイとした極めて「一人称」に近い語り、すなわちジェラール・ジュネットの分類にお ける「内的固定焦点化」の物語言説であることがわかる7。また、新聞の文面が7回引用さ
5 レイは、『夜の人々』を恋愛の物語として構想していた。そのことは1946年8月6日に書かれたシナリ オ草稿の冒頭、次のような但し書きがあることから明らかである(以下は、ベルナール・エイゼンシッツ によるレイの評伝からの引用)。「これは暗黒街の映画ではない
....
[……]。やさしさに満ちており、冷笑的な ものではない。悲劇的なのであって、残忍なのではない。“ラブ・ストーリー”であり、また“教訓物語”
——ただしわれわれの時代のテンポを持った——でもあるのだ」。ベルナール・エイゼンシッツ『ニコラス・
レイ——ある反逆者の肖像』吉村和明訳(キネマ旬報社、1998)、148。傍点は原文。
6 たとえば、3人で初めて強盗を行う前夜、なかなか寝つけないボウイの心情が彼自身の言葉を交えながら 語られる。Edward Anderson, Thieves Like Us (n. p. : Black Mask, 2008), 46.
7 ジェラール・ジュネット『物語のディスクール——方法論の試み』花輪光・和泉涼一訳、水声社、1985、 222。