—— 『 M*A*S*H—— マッシュ』 ( 1970 )における拡声器の音声
はじめに
『M*A*S*H——マッシュ』(M*A*S*H、1970)は、朝鮮戦争下の野戦病院で繰り広げられる出来事 を描いたコメディ映画である。この映画によって、アルトマンは初めて商業的な成功を収めることに なる。また、本作はこれまでのアルトマン研究において、音響の面でも比較的論じられることの多か った作品である。というのも、1970年代半ば以降の作品において結実することになる「重なり合う会 話」の技法が、技術的な制約を受けながらもすでに本作において試みられていたからである。
しかし、序論でも述べた通り、本論文の関心は「重なり合う会話」には向けられていない。そうで はなく、アルトマン映画の複雑なサウンドトラックを特徴づける別種の要素である、装置を媒介した 音声に着目し、その機能の解明を目指す。本章で取り上げるのは、『M*A*S*H』における拡声器を介 した音声である。この音声は、リチャード・フッカーによる原作小説『マッシュ』(MASH: A Novel About Three Army Doctors、1968)には一度もあらわれないのであるが、映画版では、軍医たちに向けたアナ ウンスやラジオ放送といった形式をとりながら、20回以上にわたって繰り返し使用されている1。さら にその約半数は、スピーカーをクロースアップで捉えたショット(図1)を伴って聞こえてくる。こ のような映像との連動によって、ここで聞こえてくる音が、キャンプ内に設置された拡声器を音源と して拡散していることは明白であるように思われる。しかし、これから検討するようにある理由から、
それが全体を通じて物語世界の内外という対立軸を用いたとしても正確には捉えられない領域に位置 していることがわかるのである。
図 1 拡声器のクロースアップ
こうした論点は、アルトマンの作品をめぐる歴史的コンテクストを考慮しても妥当であると言える。
ゲイル・シャーウッド・マギーはアルトマン映画のサウンドトラックを論じるにあたって、彼に影響
1リチャード・フッカー『マッシュ』村社伸訳(角川文庫、1970)。ちなみに、パトリック・マクギリガンによれば、映画 版でも当初は拡声器を多用する予定ではなかった。しかし、ポストプロダクションの段階においてアルトマンがこのアイ デアを思いつき、付け加えられることになったという。Patrick McGilligan, Robert Altman: Jumping Off the Cliff: A Biography of the Great American Director (New York: St. Martin's Press, 1989), 310.
を与えた映画やラジオ・ドラマ、および同時代のニュー・ハリウッドの作品にも目を向けている。た とえば、アルトマンが生まれて初めて劇場で見た作品であると発言している『キング・コング』(King Kong、メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シェードザック監督、1933)が取り上げられるのだ が、まさにこの映画の冒頭、主人公たちが髑髏島に到着する直前から聞こえてくる音楽がそうである ように、マギーは、それらの作品の中で、物語世界内外の境界線上にある音響が使用されているとい う事実にたびたび言及している2。だが、他ならぬアルトマン本人の映画において、このような音が繰 り返し用いられている点について、マギーは論じていない。本章では、『M*A*S*H』の拡声器の音声 が、まさにそのひとつのパターンであることを示す。
本章では、拡声器の音声が占める特異な位置を検討するにあたって、そこにいわゆる「映画的語り 手」の介在を見出す。ただしこの概念に対しては従来多くの問題が指摘されているため、議論の前提 として、最初に本論文の立場を明らかにしておく(第1節)。次に、先行研究を批判的に検討した上で、
『M*A*S*H』における拡声器の音声のほぼすべてに共通する特性や機能について、その位置に着目し ながら議論を行なう(第2節)。最後に、中盤のあるシーンにおける拡声器の例外的な使用法を分析す る。そこでは、主人公たちが映画的語り手の行為を模倣することによって、新たな物語を創造してい る可能性について論じる(第3節)。
1. 映画的語り手
本章の目的のひとつは、『M*A*S*H』における拡声器を介した音声の位置を明らかにすることであ る。その際に基準となるのが「物語世界(diegesis)」の概念である。この概念は従来、様々な分野で用 いられてきた3。ここでは、その経緯を踏まえた上でなされたクラウディア・ゴーブマンによる再定義 に従う。すなわち物語世界とは、「物語によって含意された[implied]、行動と登場人物にかんする時 空間的世界となるもの」である4。映画音響を論じる場合に一般的に使用される、物語世界内の(=物
2 Gayle Sherwood Magee, Robert Altman's Soundtracks: Film, Music, and Sound from M*A*S*H to A Prairie Home Companion (Oxford: Oxford University Press, 2014), 13-14, 23-24, 37-38. マイケル・スロウィックは、『キング・コング』冒頭の音楽が占め る位置の不確定性を、「物語世界からの撤退(diegetic withdrawal)」と呼ばれる、初期のトーキー映画における音響的なコ ンヴェンションとの関連において論じている。Michael Slowik, "Diegetic Withdrawal and Other Worlds: Film Music Strategies before King Kong, 1927-1933," Cinema Journal 53, no. 1, (Fall 2013): 1-25.
3物語世界の概念は、エティエンヌ・スーリオが映画美学の分野で創出し、その後ジェラール・ジュネットが文学的語り 手の分類に援用したことで広く知られるようになったという経緯を持つ。その経緯については、以下を参照のこと。John Pier, "Diegesis," in Encyclopedic Dictionary of Semiotics: Tome 1 A-M, general ed. Thomas A. Sebeok (Berlin : Mouton de Gruyter, 1986), 209-211. Eleftheria Thanouli, "Diegesis," in The Routledge Encyclopedia of Film Theory, eds. Edward Branigan and Warren Buckland, (London: Routledge, 2014), 133-137.
4 Claudia Gorbman, Unheard Melodies: Narrative Film Music, (Bloomington: Indiana University Press, 1987), 21. また、ジェラー ル・ジュネットが述べているように、物語世界と物語内容はしばしば混同される。そのため、ここではあらかじめ、ジュ ネットの定義に従って両者の差異を明確にしておきたい。すなわち、物語内容とは「出来事および/または行為の連鎖」
であり、物語世界とは「物語内容が生起する空間」を意味する。つまり、「物語内容は物語世界の中にある」のであって、
語世界的な)音と物語世界外の(=非物語世界的な)音は、それぞれ、音源が物語世界の内部と外部 のどちらにあるのかによって区別される5。そしてエドワード・ブラニガンが述べているように、物語 世界とその外部との関係性についての考察は、映画の語りにかんする問題と密接な結びつきを持つ。
なぜなら「どのような種類の「他の世界」を起点として、物語世界が創造され、登場人物が提示され、
出来事が叙述されているのか」といった、語りの源泉に対する問いに通じるからである6。
こうした語りの源泉としてしばしば参照されるのが「映画的語り手」である。ただし、語りの動作 主としての映画的語り手を認めることが正当であるか否かについては、これまで多くの議論がなされ てきた。その主要な論者としては、映画的語り手の存在を肯定するシーモア・チャトマンやセアラ・
コズロフ、否定的立場のデイヴィッド・ボードウェルやブラニガンが挙げられる。なかでも本章の立 場と最も近いのが、チャトマンの議論である。
チャトマンが提出した語りのシステムとは、テクストから推論された現実の作者のペルソナである
「内包された作者(implied author)」が物語を創造し、その要求に従って映画的語り手が物語を提示す る(語る)というものである7。それに対しボードウェルは、物語の創造や伝達にかかわる動作主の存 在を否定し、観客がシュジェート(=物語言説)やスタイルを元にファーブラ(=物語内容)をまと め上げるというモデルを提示した。観客によるこういった物語構築のプロセスを、ボードウェルは「語
り(narration)」と規定した8。しかし、チャトマンは観客の能動性を充分に認めた上で、ボードウェル
の議論に対して以下のように反論している。「映画は——すでに「まとめ上げられていて」——どう いうわけか劇場に到着して映写されている。〈何か〉が「送られて」いるのだ」。すなわち、物語はす でに構築されており、その後、観客によって再構築
...
される9。
木下耕介が述べているように、映画における語り手の有無をめぐる議論は、「語りの権限を観客と作 品と作者のいずれにどの程度認めるものであるか」というものである10。ボードウェルのように語りの
両者の水準は明らかに異なる。ジェラール・ジュネット『パランプセスト――第二次の文学』和泉涼一訳(水声社、1995)、 503。
5映画においてこの概念が有効性を失うケース、つまりある音がどこから聞こえるのか判別不可能であるような状況につ いては、以下の論考を参照のこと。Robynn J. Stilwell, "The Fantastical Gap between Diegetic and Nondiegetic," in Beyond the Soundtrack: Representing Music in Cinema, eds. Daniel Goldmark, Lawrence Kramer and Richard Leppert (Berkeley: University of California Press, 2007), 184-202.
6 Edward Branigan, Narrative Comprehension and Film (London: Routledge, 1992), 36.
7シーモア・チャトマン『小説と映画の修辞学』田中秀人訳(水声社、1998)、215-216。
8 David Bordwell, Narration in the Fiction Film (Madison: The University of Wisconsin Press, 1985), 53. ただし、このモデルは古典 的ハリウッド映画にかんするものであり、ボードウェルはアート・シネマにかんしては語りの源泉としての「作者」の存 在を認めている(Bordwell, Narration in the Fiction Film, 211)。しかし第2節で述べるように、本章では古典的ハリウッド映 画とアート・シネマという構図を回避するため、ここでは広く知られている古典的ハリウッド映画にかんするボードウェ ルのモデルと、それに対するチャトマンの反論を議論の中心に置くことにした。
9チャトマン『小説と映画の修辞学』、211。引用内の山形括弧は原文。
10木下耕介「劇映画における「語り手」の修辞について」『映像学』67号(2001): 74。