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批評的アダプテーションと語り

ドキュメント内 2018 年度 博士学位申請論文 (ページ 83-100)

—— 『ロング・グッドバイ』 (1973)の〈疑似ヴォイス・オーヴァー〉

はじめに 

第1作の『大いなる眠り』以来、レイモンド・チャンドラーによる私立探偵フィリップ・

マーロウを主人公=語り手とした長編小説のほとんどが映画化されてきた1。その際に、原 作の大きな特徴であるマーロウの一人称の語りを再現するために、映画版は様々な技法を 用いてきた。たとえば、1944年の『ブロンドの殺人者』におけるヴォイス・オーヴァーと フラッシュバックの併用や、1947年の『湖中の女』における全編を通じた視点ショットの 使用である。ただしこれらの技法は、単に小説の語りを形式的に映画固有の技法に置き換 えているだけであるようにも思われる。西村清和が指摘する通り、このような場合に「問 題となっているのはもちろん、小説の言語と映画の映像ということなったメディア、こと なった記号体系それぞれの「語り」のちがいや、それがもたらす意味作用やイメージ形成 の異同」なのである2。その点、本章で取り上げるアルトマンの『ロング・グッドバイ』(The

Long Goodbye、1973)は、小説と映画の媒体の差異にかんして洗練された処理を施していて、

マーロウものの中では例外的な作品である。一見するとこの映画は、原作の語りに対して 無関心である。しかしながら、原作の語りを再現するのとは別の形で、それに対する言及 を行なっているのだ。

従来、『ロング・グッドバイ』は繰り返し「フィルム・ノワール」の文脈で論じられてき た。そしてその論点のひとつとして、このジャンルを特徴づけるとされるヴォイス・オー ヴァー・ナレーションが使用されていないということが、ことさらに指摘されてきた。た とえば、セアラ・コズロフは「アルトマンのノワールであるチャンドラーの『長いお別れ』

1 ここでマーロウものの映画化作品をリスト・アップしておく(括弧内は原作の情報)。

⑴『ファルコン制覇す』Falcon Takes Over、アーヴィング・レイス監督、1942、日本未公開(『さらば愛し き女よ』Farewell, My Lovely、1940)

⑵『殺しの時』Time to Kill、ハーバート・I・リーズ監督、1942、日本未公開(『高い窓』The High Window 1942

⑶『ブロンドの殺人者』Murder, My Sweet、エドワード・ドミトリク監督、1944(『さらば愛しき女よ』)

⑷『三つ数えろ』The Big Sleep、ハワード・ホークス監督、1946(『大いなる眠り』The Big Sleep、1939)

⑸『湖中の女』Lady in the Lake、ロバート・モンゴメリー監督、1947(『湖中の女』The Lady in the Lake1943

⑹『高い窓』The Brasher Doubloon、ジョン・ブラーム監督、1947、日本未公開(『高い窓』)

⑺『かわいい女』Marlowe、ポール・ボガート監督、1969(『かわいい女』The Little Sister1949

⑻『ロング・グッドバイ』The Long Goodbye、ロバート・アルトマン監督、1973(『長いお別れ』The Long Goodbye、

1953

⑼『さらば愛しき女よ』Farewell, My Lovely、ディック・リチャーズ監督、1975(『さらば愛しき女よ』)

⑽『大いなる眠り』The Big Sleep、マイケル・ウィナー監督、1978(『大いなる眠り』)

なお、このリストを作成するにあたっては以下を参照した。William Luhr, Raymond Chandler and Film, 2nd ed.

(Tallahassee: The Florida State University Press, 1991), 194-197.

2 西村清和『イメージの修辞学——ことばと形象の交叉』(三元社、2009)、134。

の映画版は、ナレーションの使用を避けている」と述べているし3、近年では小野智恵も「フ ィルム・ノワール」とこの映画の諸特徴を対照するにあたって『ロング・グッドバイ』に は「ヴォイス・オーヴァーは使用されない」と述べている4

このような先行研究とは異なり、本章は、この映画を「フィルム・ノワール」としてで はなく、原作との関係において捉える。この映画が「フィルム・ノワール」の文脈で論じ られる大きな理由として、1940年代において、『ブロンドの殺人者』、『三つ数えろ』、『湖中 の女』といったこのジャンルを代表する作品にチャンドラーが原作を提供してきたことが 挙げられる。しかし『ファルコン制覇す』のように、このジャンルに含まれることのない チャンドラー作品の映画化が存在していたことも事実であるし5、小野が詳細に述べている ように、『ロング・グッドバイ』における他作品からの引用は「フィルム・ノワール」に限 定されたものではなく、それ以外のジャンルからも見られる6。また、監督であるアルトマ ン自身が、1973年当時において、「フィルム・ノワール」というジャンルの存在を認識して いた可能性はほとんど考えられない。なぜなら、アメリカにおける「フィルム・ノワール」

の導入の契機となったのは、1972年に発表されたポール・シュレイダーの「注解 フィル ム・ノワール」であり7、「ノワール」という記号が浸透するのは1980年代においてである からだ8。『ロング・グッドバイ』の製作時において、このジャンルはまだ一般的なものでは なかったのである。付言しておくと、アルトマンのフィルモグラフィーにおいて初めて「フ ィルム・ノワール」の痕跡が明確に見出されるのは、最後の作品となった『今宵、フィッ ツジェラルド劇場で』(A Prairie Home Companion、2006)の冒頭においてである。そこでは

「ガイ・ノワール」と名乗る私立探偵が、ヴォイス・オーヴァーによって語り始める。こ のような理由から、『ロング・グッドバイ』と「フィルム・ノワール」とのつながりは、極 めて疑わしいものであると言える。そこで本章では、映画『ロング・グッドバイ』は「フ ィルム・ノワール」である以前に、クレジットで"From the RAYMOND CHANDLER Novel

"THE LONG GOODBYE""と明示されるように、小説『長いお別れ』の翻案であるという事 実に改めて着目し、両者の関係に焦点を当てる。

さらに本章では、この映画における主人公の声の特異性に注目する。この作品では、主 人公フィリップ・マーロウ(エリオット・グールド)の声が、物語世界内にとどまる通常

3 Sarah Kozloff, Invisible Storytellers: Voice-Over Narration in American Fiction Film (Berkeley: University of California Press, 1988), 38.

4 小野智恵「ポスト・ノワールに迷い込む古典的ハリウッド映画——『ロング・グッドバイ』における失 われた連続性」『交錯する映画——アニメ・映画・文学』杉野健太郎編(ミネルヴァ書房、2013)、267

5 中村秀之『映像/言説の文化社会学——フィルム・ノワールとモダニティ』(岩波書店、2003)、151-152。

6 小野「ポスト・ノワールに迷い込む古典的ハリウッド映画」、261-262268-269

7 ポール・シュレイダー「フィルム・ノワール注解」細川晋訳、『FILM NOIR——フィルム・ノワールの光 と影』遠山純生編(エスクァイア マガジン ジャパン、1997)、10-31

8 中村『映像/言説の文化社会学』、206-210。

の台詞なのか、それとも物語世界外へと向けられた彼の心の声であるのかが不分明になっ ている箇所が存在する9。先に挙げた先行研究が指摘している通り、確かにこの映画でヴォ イス・オーヴァーは使用されていない。通常この技法を使用する場合、その声がリップ・

シンクしていないということを明示するような演出が行なわなければならない。『ロング・

グッドバイ』では、必ずしもこのような演出なされていないために、主人公の声は物語世 界における通常の台詞として捉えられてきたのだと考えられる。しかし、映画の導入部分 において、彼の声の音質にある変化が生じる。さらに、この変化と映像との連関により、

その声が画面上に映されているエリオット・グールドの口から発せられているものである とは断言できない状況が生み出される。本章は、この特異な声を独自に〈疑似ヴォイス・

オーヴァー〉と名づけた上で、それが映画および小説の語りという問題系においてどのよ うな意味を持つのかを探求する。さらに重要であるのは、その声が〈初期アルトマン映画〉

を特徴づける物語的葛藤をもたらすという点である。そこでは、第2章で論じた『M*A*S*H』

において試みられてはいたものの、完全に達成されることのなかった、語りの権限をめぐ るせめぎ合いが生じているのである。

これらを論じるにあたって、第1節では、映画版の分析の前提として、原作『長いお別 れ』の物語内容について、とりわけ映画版との差異を中心に概観する。その上で、他のチ ャンドラー小説とは区別されるような、この小説の物語言説の特色を指摘する。第2節で は、『ロング・グッドバイ』冒頭における特異な声が、ヴォイス・オーヴァーに擬態する過 程をテクストの形式面、そしてその発話内容という2つの側面から検討する。第3節では、

物語内容との関わりという観点から、その特異な声が持つ、原作に対する批評的機能につ いて明らかにする。最後に、小説の映画化における語りと声の関係性にかんする、新たな 視点を提示するとともに、〈初期アルトマン映画〉という枠組みにおける本作の意義を述べ る。

1.  『長いお別れ』の物語内容と物語言説 

ここでは小説『長いお別れ』を、物語内容(何を語るか)と物語言説(どのように語る か)という2つのレヴェルから分析する10

9 本章と着眼点が類似していると言えるのが、ミシェル・シオンによる議論である。彼は、映画における、

同一人物による実際の発話と「心の声(mental voice/internal voice)」とをシームレスに切り替える技法につ いて論述する中で、簡潔にではあるが『ロング・グッドバイ』を取り上げている。そこでは、「フィルム・

ノワール」への言及なしで、最初の数分間におけるマーロウの発話が「あたかも大声で考えているかのよ う」であると述べられる。Michel Chion, Film, a Sound Art, trans. Claudia Gorbman (New York: Columbia University Press, 2009), 342–343.

10 Seymour Chatman, Story and Discourse: Narrative Structure in Fiction and Film, Ithaca: Cornell University Press, 1980), 9, 19.

ドキュメント内 2018 年度 博士学位申請論文 (ページ 83-100)

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