〈翻 訳 〉
マ ル セ ル ・ ジ ュ ノ ー
一一人 の 『第 三 の 兵 士 」 と して
ブ ノ ワ ・ ジ ュ ノ ー 著 大 川 四 郎[訳]
〔訳 者 は しが き2004年51J611に ス イ ス連 邦 ジ ュ ネ ー ブ 州 郊 外 の ジ ュ ッ シ ィ ー 町 舎 で マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー 博i二生 誕rl周 年 をol己念 し て 特 別 展 示 が 開 催 さ れ た,マ ル セ ル ・ジ ュ ノー 博isは,エ チ オ ピ ア 戦 争,ス ペ イ ン 内 乱,そ して 第2次 世 界 大 戦 中 のis要 な 戦 場 を 赤 卜字 国 際 委 員 会 派 遣 員 と して 視 察 し,国 際 人 道 活 動 に 従'ド した 。 特 に,敗 戦 直 前 の 目 本 に 来1!し,ii本 降 伏 後 の 連 合 国 軍 俘 虜 へ の 救 援 とIrl帰 還 業 務 に た ず さ わ る か た わ ら, 赤 卜字llq際 委 員 会 駐 日 代 表 部 首席 代 表 と して 当 時 の 連 合 国 軍 最 高 司 令 部 と 交 渉 し,被 爆 直 後 の 広 島 へ の 組 織 的 救 援 活 動 に 尽 力 した こ と で 有 名 で あ る,,こ の 間 の 経 験 は 後 に 『第 三の 兵Lエ チ オ ピア のukガ スか ら ヒ ロ シ マ の 原 爆 ま で 』 と 題 さ れ た 回 顧 録 に ま と め ら れ て い る(日 本 語 版 は 丸 山 幹IE訳 『 ドク タ ー ・ ジ ュ ノ ー の 戦 い 一 エ チ オ ピ ア の 毒 ガ ス か ら ヒ ロ シ マ の 原 爆 ま で 」,勤1∵〔,f}房,1981年 門)。 更 に,ジ ュ ノ ー 博 量二はll本 赤 卜字 社 の 要 請 で1959年 に 再 訪llし,在il朝 鮮 人 帰 還 問 題 の 解 決 に も 協 力 して い る。
以 ド訳 出 し た ブ ノ ワ ・ ジ ュ ノ ー 菩 「マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー 一 一 人 の 「第 モの 兵1.』 と して 」(BenoitJUNOD,《iVlarcelJunod:un'troisiemecombattant'》)は,ジ ュ ノ ー 博 Lに 関 す る 最 新 の 評 伝 で あ る 。 ジ ュ ッ シ ィ ー の 特 別 展 示 に て 配 布 さ れ た 冊f「 ヒ ロ シ マ の 証 人 赤 卜字 国 際 委 員 会 派 遣 員 と して 世 界 各 地 で の 人 道 活 動 に 貢 献 し た 医 師 マ ル セ ル ・ ジ ュ ノー(1904‑1961)の 生 涯 とそ の 業 績 』(《Temoin(Hiroshima‑1'Odvseed'un
delegueduCIC'R‑Dr.ルlarcelJunocl(1904‑19G1)》,Mai2004,NlairiedeJussy,60p., plaquettepuhlieelorsducentenaireanniversairedelanaissanceduDr.MarcelJunod delegueduCICR)の 中 に収 録 され て い る。
原 著 者 の ブ ノ ワ ・ジ ュ ノ ー(BenoitJunod)氏 は,マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー 博1:の 長 男 と して1945年10112611,母 親 の 滞 在 先 で あ る 英lqロ ン ドン で 生 ま れ た 。1971年 に ジ ュ ネ ー ブ 州 疏 大 学 法 学 部 を 卒 業 後,英 国 放 送 協 会(BBC)で の ジ ャ ー ナ リ ス ト活 動 と ス ペ イ ン ・バ ル セ ロ ナ 大 学 で の ス ペ イ ン語 研 修 と を 経,1972年 に ス イ ス連 邦 外 務 省 に 入 省 し て 外 交 官 の 道 を 歩 ま れ た 。1996年 に 在 ベ オ グ ラ ー ド駐 在 ス イ ス 公 使 の 要 職 に あ ら れ た が,
旧 ユ ー ゴ ス ラ ビ ア 紛 ノr蒔 の 本 国 政 府 か ら の 訓 令 に 抗 議 して,外 交 官 の 職 を 辞 さ れ た 。 1997年 よ り,外 交 ・F:;u代に 培 わ れ た 経 験 や 人 的 つ な が り を 元 に してTheEU‑Balkans workinggroupと い うNGO紐 織 を ジ ュ ネ ー ブ に 設 、8五して,ス イ ス,EUそ して1目東 ヨ ー
ロ ッパ 諸 国 間 で の コ ンサ ル タ ン ト業 に従 事 して お ら れ る、,
ブ ノ ワ ・ ジ ュ ノ ー 氏 が 本 稿 の 執 筆 に 取 り掛 か ら れ た の は2003年8月 で あ る 。 夏 休 み 明 け に 頂 戴 し た 私 信 に,「1'1宅r根 裏 部 屋 を 整 理 し て い て,40年 以1:ほ こ り を か ぶ っ て い た 亡 父 の 手帳 類 をll溌 見 した 」 とあ り,訳 者 は 少 な か らず 驚 い た。2001年4月 に ジ ュ ネ ー ブ で お 会 い した 時 に 訳 者 が 確 認 した と こ ろ,関 連,㌣ 類 は 総 て 赤 卜字 国 際 委 員 会 附 属 文i1 館 に 寄 贈 し た と の 回 答 だ っ た か ら で あ る 。 原 著 者 に よ る 執 筆 中,訳 者 は,3点(ジ ュ ノ ー 博iと 共 に シベ リ ア 経 山 で 来 日 した シ ュ ト レー ラ ー 女 史 の 出 自,ジ ュ ノ ー 博i.に 先IJ,っ て 広 島 入 り した ビ ル フ ィ ン ガ ー 派 遣 員 に ス イ ス 公 使 館 臨 時 職 員 ヴ ァ イデ ン マ ン 博f:が1司 ifし て い た 肇 実,ジ ュ ノ ー 博1:死 後 のll本 政 府 か らの 叙 勲 理 由)に つ い て 調 査 した 結 果 を 連 絡 した 。 評 伝 の 第 一・稿 は2004年1月15日 に 完 成 し た。 そ の 後,訳 者 か ら は 広 島 滞 在 中 の ジ ュ ノー 博1:に 随 行 し た 松 永 勝 医 師 の:「記 の フ ラ ン ス 語 訳 を 提 供 し,柳 川 実 郎 医 師(広 島 県 医 師 会 常 任 理'1̀)が1945年9月 に 襲 来 した 枕 崎 台 風 に よ る 広 島 で の 被 害 状 況 に つ い て の デ ー タ を 提 供 さ れ た 。 こ れ ら を も踏 ま え,大 幅 な 修IE加 筆 の ヒ,2004年4月 に 原 菩 者 が 完 成 さ れ た の が 本 稿 で あ る 、,
今 回,ブ ノ ワ ・ジ ュ ノ ー 氏 の 御 諒 承 の ドに,マ ル セ ル ・ ジ ュ ノ ー 博 ヒの 評 伝 を こ こ に 訳 出 す る 理 由 は 次 の2点 で あ る。
第1に は,第2次 世 界 大 戦 中 の11三1際人 道 活 動 の 第 ・線 に あ っ た ジ ュ ノ ー 博1:の 経 歴 の 全 貌 に つ い て は 従 来 か ら必 ず し も 明 ら か で は な か っ た 。 今 回 の 評 伝 は,42年 ぶ りにr;宅 屋 根 裏 部 屋 か ら 再 発 見 した ジ ュ ノ ー 博L生 前 のT一帳 類 を も と に,原 著 者 が 各 国 の 関 連 ア ル ヒ ー ブ 所 蔵 史 料 を 丹 念 に 閲 覧 し て ま と め ら れ た 労 作 で あ る 。 特 に 被 爆 直 後 の 広 島 を 視 察 した'11時 の ジ ュ ノ ー 博isの メ モ が 引 川 され て い る(原 菩 者 は,1945'1="i時 の 博Lの 手 帳 を 整 理 分 析 のi‑,(英 訳 化 す る こ と を も 含 め)何 ら か の 形 で 広 島'F和 記 念 資 料 館 に 寄 贈 す る こ と を 検 討 して お られ る、,こ の 点 に つ い て は2004年8月4it付V経 新 聞 第25面 記 Bド 「元 赤{'字 駐IIi'̀i席 代 表 ・ ジ ュ ノ ー 博Lのr一 帳 原 爆 投 ドll'〔後 の 広 島 鮮 明 に ス イ ス のrl宅 」 を 参 照)。
第2に は,ジ ュ ノ ー 博isの 足 跡 と,博t.が 属 し て い た 赤 卜字 国 際 委 員 会 の 人 道 活 動 は, 国 際 人 道 法 史 と い う観 点 か ら す る と,法 制 史1の 新 た な 研 究 対 象 と して の 意 義 を 有 す る か ら で あ る(例 え ば,現 赤 卜字 国 際 委 員 会 法 務 部 長 フ ラ ン ソ ワ ・ビ ュニ ョ ン 博1:の 大 著
「赤1・ 字 国 際 委 員 会 と 戦 争 犠 牲 者 保 護 』(FranCoisBUGNION,Le('O/)2LCPinternational delaCroix‑Rougeetlaprotectiondesuictimesdelaguerre,Comiteinternationalde
laCroix‑Rouge,2000,1444p.)が フ ラ ン ス法 制 史 学 会 誌t塾多評 欄 で 取 りisげ ら れ て い る (Cf.,Compterendu《FrancoisBUGNION,《LeComlε ∂internationaldρlaCroix一
マ ル セ ル ・ ジ ュ ノ ー 一 一 人 の 『第 三 の 兵L』 と して
Rougeetlaprotectiondesvictimesdelaguerre≫,ComiteinternationaldelaCi・oix‑
Rouge,2000,1444p.≫par・VeroniqueHAROUEL,dansRevued'histoiredudroit
∫rαηぐαεsρ亡6̀rαηgρ八vol.79(1)janvier‑mars2001,pp.93‑94))。 現 に,我 が 国 で も ジ ュ ネ ー ブ 条 約 の2つ の 追 加 議 定 瀞 が 近 時 批 准 さ れ た こ と に よ り,国 際 人 道 法 史 に 対 す る 関 心 が 高 ま っ て い る(例 え ば,2004年5月1日 付 朝ll新 聞 朝11」第15面 に 掲 載 さ れ た 令 国 抑 留 者 補 償 協 議 会 会 長 芋 内 良 男 氏 に よ る 投 稿 記 事 「ジ ュ ネ ー ブ 条 約 人 道 法 の 精 神 理 解 深 め よ 」 を 参 照)。
本 誌 で は 本 翻 訳 と は 別 に[資 料 編]と して 原 テ ク ス トを 掲 載 し た 。 第1に は,広 島 滞 在 中 の ジ ュ ノ ー ・ メ モ の 原 文 は そ れ 自 体 と して 史 料 的 価 値 が あ る か ら で あ る。 第2に は, 原 文 中 で 第2次 イ タ リア ・エ チ オ ピア 戦'firにつ い て 仏 英 両 語 で 記 述 した 簡 所 が あ り,孟 語 ヒの 差 異 を 必 ず し もii三確 に 訳 出 し得 た と の 確 信 が 訳 者 に は な い か ら で あ る。 邦 訳 と原 テ ク ス トと の 対 照 を 容 易 に す る た め,()の 中 に 太̀fで 原 テ ク ス トで の ペ ー ジ 数 を 掲 げ て お い た 、,訳注 の 略 語ACICRは 赤1・字 国 際 委 員 会 附 属 文 詩館(ArchivesduComite111‑
ternationaldelaCr()1X‑Rouge)を 意 味 す るQ
本 稿 の サ プ タ イ トル に つ い て 一・言 して お き た い 。 「第 三の 兵1:Jと は ジ ュ ノー 博bの 回 顧 録 の タ イ トル 「第 この 兵Lエ チ オ ピア の 毒 ガ スか ら ヒ ロ シ マ の 原 爆 ま で 』 に 由 来 す る 。 「第 この 兵1:」 と は,原 著 者 が 以 ドの 翻 訳 の 冒 頭 で 引 川 して い る よ う に,戦 闘 の 最 中 に あ っ て 黙 々 と 人 道 活 動 に 従 事 す る 赤 一卜字 職 員 の こ と で あ る。 原 箸 者 は こ れ に 不 定 冠 詞 を 付 し,「 一 人 の 「第 三の 兵is』 と して 」 と い う フ レー ズ に して お られ る 。 これ に よ り, 原 著 者 は 亡 父 の 事 績 の 相 対 化 を 試 み て お られ る の で あ る。
渡 辺 晋 医 師(広 島 県 大 竹1!∫医 師 会 劇ll】,前 広 島 県 医 師 会 常1壬理 事)お よ び 太 川 成 美 氏 (日 本 赤 卜字 社 国 際 部 翻 訳 ボ ラ ン テ ィア)御:方 は 訳 稿 を 」'寧に検 討 して ドさ っ た 。 赤 卜 字 川 語 に つ い て は 太 川 氏 が 多 々 助 言 し て ドさ っ た 。 ま た 医 学 川 語 に つ い て は 柳 田 実 郎 医 師 が 点 検 して ドさ っ た 。 特 に,生 前 の ジ ュ ノ ー 博1:に 直 接 接 し た 日 本 側 関 係 者 の お ・人 で も あ る 太m氏 は,在li朝 鮮 人 帰 還 問 題̀'jO}の こ と を 語 って ドさ っ た 。lii国 新 聞 に 掲 載 さ れ た 松 永 勝 医 師 の 投 稿 記 事 に つ い て,中 国 新 聞 読 者 広 報 セ ン ター 、 愛 知 大 学 名llf屋 校 舎 図}ii館 の 長 谷 川 淑t一 さ ん の おilヒ話 に な っ た 。 こ こ に 記 し て 御 礼 中 しLげ る(2004年9 月311欄 筆)。〕
(p.13)
「戦 い に は 常 に 双 方 の 敵 対 者 が い る だ け で あ る 。 しか し彼 ら の 近 く に 一 そ して 時 に は 彼 らの 内 に 一 突 如 と して 第 三の 兵bが 現 れ る 。
彼 は 人 の 戦 い が 破 壊 す る す べ て の もの を 守 る た め に 戦 う。 彼 は 悲 惨 な 境 遇 に 置 か れ, 敵 の 意 の ま ま に 取 り残 さ れ た 人 々 が い る所 に は ど こ で も現 れ る 。 彼 の 唯 一一の 目 的 は, 勝 者 が 誰 で あ ろ う と,敗 者 に 対 す る 冷 酷 な 迫 害 を 阻 止す る こ と に あ る 。」(マ ル セ ル ・
ジ ュ ノ ー 菩 丸lll幹IE訳 「 ド ク タ ー ・ ジ ュ ノ ー の 戦 い エ チ オ ピ ア の 毒 ガ ス か ら ヒ ロ シ マ の 原 爆 ま で 』,勤 聾'蟹'工,1寺房,1981年,p.285)
青 年 時 代,1904‑1935
マ ル セ ル ・ジ ュ ノー は1904年5月1411に ス イ ス連 邦 ヌー シ ャ テ ル 州 に 生 ま れ た。 父 親 リ シ ャ ー ル ・サ ミュエ ル ・ジ ュ ノ ー(1868‑1919)の 出 自 は ヌー シ ャ テ ル 州 リニ ィエ ー ル の 新 教 牧 師 の 家 系1細"で あ っ た 。 他 方,母 親 ジ ャ ン ヌ ・ マ ル グ リ ッ ト ・ボ ネ(1866‑1952)の 出r1は ジ ュ ネ ー ブ州 トネの 出 自で あ っ た 。 そ の 家 系 は 偉 大 な 白然 科 学 者 シ ャ ル ル ・ボ ネllMlゴ1にま で さ か の ぽ る。
父 リ シ ャー ル が そ の 牧 会 活 動 を 始 め た の は ベ ル ギ ー の 鉱 山 町 に お い て で あ っ た。 そ れ は ヌ ー シ ャ テ ル の 独 立系 教 会 か ら の 派 遣 に よ る。 次 い で 彼 が 赴 い た 任 地 は ヌ ー シ ャ テ ル 近 郊 シ ェザ ー ル ーサ ン ーマ ル タ ンそ し て(P.14)シ ョー 一
ド ーフ ォ ンで あ る。 い ず れ の 地 に お い て も彼 が 担 当 した 教 区 に は 貧 民 街 や 町 の 郊 外 そ して 中心 街 が 含 ま れ て い た 。 マ ル セ ル ・ ジ ュ ノー は これ ら の 地 に お い て 幼 少 期 と学 齢 期 と を6人 の 兄 弟 姉 妹 と 共 に 過 し た 卿t。 彼 は5番 目 のrで あ っ た 。 彼 ら の 生 活 は 質 素 で あ っ た 。14歳 の 時,マ ル セ ル は 夏 休 み を 使 っ て レ ン ガi二場 で 働 い た 。
1919年 に 父 リ シ ャ ー ル が 亡 くな っ た た め,母 ジ ャ ン ヌ はt一供 た ち を 連 れ て ジ ュ ネ ー ブ に も ど る こ と に した 。 マ ル セ ル そ して 下 の2人 の 姉 ら が 母 方 の ジ ュ ネ ー ブrfiLt権 を 回 復 す る こ と が で き た の は 法 律 の お か げ で あ る が,今 日で は そ の 法 律 は 廃ILさ れ て い る。 一一家 が 落 着 い た の は フ ロ リサ ン街 で あ る 。 こ こ で 母 ジ ャ ン ヌはf1!Lた ち を 養 う た め に 長 期 滞 在 者 用 ペ ン シ ョ ン の経 営 を 始 め た 。 彼 女 の 姉 妹 で あ る マ リー 一ア ン トワ ネ ッ ト ・ボ ネ か らの 助 力 が 得 られ た。 一 家 の さ さ や か な 蓄 え も家 業 の 一 助 と して 使 わ れ た(ボ ネ 家 は 先 祖 代 々 腕 の 良 い 箱 組
、γ職 人 で あ り,20世 紀 初 頭 に は,ジ ュ ヴ ェナ 時 計Iakaの 所 有 者 で あ った)。
コ レー ジ ュ ・カ ル ヴ ァ ン に 入 学 後 の マ ル セ ル は そ の 聡 明 な 頭 脳 と快 活 な 振 舞 と で 注 目を 集 め た 。 彼 は 独 創 的 に 物 事 を 考 え る こ と が で き た ば か り か,そ れ で い て どの よ う な 人 と も打 ち 解 け る こ と が で き た 。 トカ ゲ を1匹 飼 う よ う に な り, 彼 は これ を シル ペ リ ッ ク と名 づ け た 。 シ ル ペ リ ッ ク は そ の 名 を 呼 ば れ る と,飼
i三の 前 に 姿 を 現 した もの で あ った 。i司 じ人 間 が 惨 め な 境 遇 に 置 か れ て い る こ と に 無 関 心 で い られ な く た っ て い た マ ル セ ル は,「 飢 餓 の 日 々 」 と い う慈 善運 動
マ ル セ ル ・ ジ ュ ノ ー 一 一 人 の 『第 三 の 兵 十 』 と して
に 加 わ り,1922年 に は ロ シ ア のf供 た ち を 支 援 す る 運 動 の リー ダ ー の1人 を も 務 め た 。1923年,ラ テ ン 語 と現 代 語(英 語,ド イ ツ語,イ タ リ ア 語)の 分 野 で 大 学 入 学 資 格 を取 得 した。 マ ル セ ル は 医 学 を 修 あ る こ とを 熱 塑 して い た 。 そ の き っか け と な っ た の は 大 切 に 保 管 し て い た 父 リ シ ャー ル の ノー トで あ る。
そ れ は,1883年 に リ シ ャ ー ル が ま だ15歳 の 時 に丹 念 に 書 き と め て い た 生 物 学 の ノー トで あ っ た。Y一 い に も 叔 父 ア ン リ ー ア レ ク サ ン ドル ・ ジ ュ ノ ー 卿 中 か らの 寛 大 な 援 助 が 得 られ,マ ル セ ルの 希 望 は か な え られ た 。 こ う して,ジ ュ ネ ー ブ と ス トラ ス ブ ー ル で 医 学 を 修 め た 後,彼 は1929年 に 医 師 資 格 を 取 得 し た 。 ジ ュ ネ ー ブ 大 学 医 学 部 卒 業 に あ た っ て 彼 が ま と め た 卒 業 論 文 の タ イ トル は 『偶 発 症 候 医 学 に お け る 乾 癬 』";!繭1であ った 。
マ ル セ ル は 外 科 医 の 道 を 歩 む こ とを 決 意 し,ジ ュ ネ ー ブ 州 立 病 院(今iIの ジ ュ ネ ー ブ 大 学 医 学 部 付 属 病 院)外 科 研 修 医 と な っ た。 彼 の 指 導 に あ た った の はE・
ク ラ ー マ ー 教 授 で あ る 。 次 い で,1931‑1935年 の4年 間 に わ た り,フ ラ ン ス 領 ミ ュ ル ー ズ 市 の 民 間 病 院 の 外 科 で 外 科 医 兼 研 修 医 の 修 行 を 続 け た 。 そ して, 最 後 の 年 に は,外 科 専 門 医 と して の 認 定 資 格 を 得,270床 を 受 け持 つ 外 科 部 門 のi三任 を 任 さ れ た 。
(p.15)
疲 れ を 知 らぬ ス ポ ー ツ マ ン で も あ った マ ル セ ル は,余11段 に は ス キ ー を した り, オ ー ル さ ば き も あ ざ や か に ボ ー トに 乗 っ て ジ ュ ネ ー ブ か らは る か マ ル セ イユ ま で ロ ー ヌ川 を ドって 地 中 海 に 出 た り,ゴ ル フ や 馬 術 に も興 じた。 マ ル セ ル ・ジ ュ ノー の 二人 の 甥 で あ る ベ ル ナ ー ル ・ジ ュ ノ ー と ペ ー タ ー ・セ レ ゾー ル は 「ス ポ ー ツ を して 筋 肉 を つ け る よ う に 」 と い う叔 父 の 助 ぼ を 記 憶 して い る。 当 時11歳 で あ った ペ ー タ ー ・セ レ ゾ ー ル の た め に,マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー は(ス ポ ー ツ 器 具 の)滑 車 を 回 転 さ せ な が ら 叫 ん だ も の で あ る。 「こ こ に 町 の つ わ もの あ り一 」, と。 ほ ど ほ ど のi!り 声 を も加 え て … … 。 彼 はiG楽 を も愛 好 した 。 天賦 の 才 が あ っ た の か,ど の よ う な 楽 器 で も こ な した 。 後 年,マ ル セ ル は ピ ア ノ に 熱 中 した 。 そ のT一ほ ど き を し た の が,従 妹 に あ た る 優 れ た ピア ニ ス ト,ジ ャ ク リー ヌ ・ブ
ラ ン キ ャ ル ドで あ る。
第2次 世 界 大 戦 の 勃 発,1935‑1945
1935年 。 イ タ リ ア 軍 が エ チ オ ピ ア に 侵 攻 を 始 め た 。 赤 卜字 国 際 委 員 会 は 現 地 に 派 遣 す る派 遣 員 と して 若 い 医 師 を 探 して い た。 ジ ュ ネ ー ブ の 友 人 か ら電 話 が あ り,数 週 闇 後,マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー は ア フ リカ に 向 け て 出 発 した。 そ して, 彼 は 同 僚 シ ドニ ー ・ブ ラ ウ ン と 共 に ア ジ ス ・ア ベ バ に 到 着 し た 。
マ ル セ ル ・ ジ ュ ノー の 著 書 『第 三 の 兵 上』(1947年 に 出 版 さ れ て か ら,約10 の 言語 に 翻 訳 さ れ て い る)は 今 日 で も赤 卜字 国 際 委 員 会 の 総 て の 派 遣 員 に と っ て 座 右 の 書 と な っ て い る 。 同 書 の 中 で 彼 は 赤 十 字 国 際 委 員 会 派 遣 員 と して 世 界 各 地 を 旅 した 経 験 を あ ざ や か に か つ 雄 弁 に物 語 っ て い る。 最 初 の 派 遣 地 で あ っ た エ チ オ ピ ア で は,ま だ 発 足 して 問 も な い 同 国 赤 卜字 社 を 組 織 化 し,国 内 は お ろ か 外 国 か ら提 供 され た 救 急 車 の 采 配 に もつ と め た 。 赤 卜字 国 際 委 員 会 は 両 交 戦 当 事 者 に 人 道 援 助 を 申 し出 た の で あ る が,イ タ リア 軍 側 は これ を 辞 退 した 。 そ して,現 地 に お い て,マ ル セ ル ・ジ ュ ノー は 次 の 光 景 を 月 撃 した。 す な わ ち, 負 傷 した 民 間 人 や 戦 闘 員 を 救 援 中 の イ ギ リ ス,ス ウ ェー デ ン 等 々 の 各 国 赤 十.f 社 の 救 急 車 め が け て イ タ リア 軍 機 が 空 爆 して い た り,1936年3月18日 に は 毒 ガ ス が 使 用 さ れ て い た 。 こ の 時 に 使 用 さ れ た イ ペ リ ッ ト ・ガ ス は 明 らか に 1925年 の ジ ュ ネ ー ブ 条 約 議 定 書 に 違 反 した も の で あ っ た 。 国 際 連 盟 は そ の 証 拠 と して,特 に ジ ュ ノー 報 告 書 の 提 出 を 赤 卜字 国 際 委 員 会 に 対 して 要 請 した 。 しか し,赤 卜 一,.国際 委 員 会 は この 要 請 を 受 け 入 れ な か っ た 。 と い うの は,同 委 員 会 は こ の 問 題 に つ い て な お も 両 交 戦 当 餐 者 ら と 交 渉 中 だ っ た か らで あ る 。 彼 自 ら も が 何 度 か 死 線 を く ぐ っ た ほ どで あ る。
ジ ョ ン ・ メ リ ー を リー ダ ー と す る イ ギ リ ス 赤 卜字 社 救 急 車 の 活 動 報 告h;till"
は ジ ュ ノー に つ い て 次 の よ う に 言 及 して い る(フ ラ ン ス語 に ニ ュ ア ン ス を 翻 訳 で き な い の で 以 ド英 文 テ キ ス トの ま ま を 引 川 す る)。
(p.i6)
「ア ジ ス ・ア ベ バ に あ っ て ジ ョ ン ・メ リ ー は 全 員 か ら 「北Lす べ き だ 』 と の 合 意 を 得 た 。 第1に は,そ れ は エ チ オ ピ ア 皇帝 ハ イ エ ・セ ラ シ ェ か らの 要 塑 で も あ った 。 第2に は,北 ヒは 政 治 的 緊 張 を 和 ら げ る こ と が 予測 さ れ た か らで あ っ た 。 第3に は,ジ ュ ネ ー ブ に 本 部 を 置 く赤 卜字 国 際 委 員 会 か ら派 遣
マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー 一 一 人 の 『第 三 の 兵 士 』 と し て
さ れ て き て い る ブ ラ ウ ン が そ の よ う に 主 張 して い た か ら で あ った 。 な お,そ の ブ ラ ウ ンを 補 佐 して い た の が,や は り ジ ュ ネ ー ブ か ら 派 遣 され て き て い た
ジ ュ ノー で あ っ た。 ジ ュ ノ ー は よ く し ゃべ り,エ ネ ル ギ ッ シ ュで 人 好 きの す る 男 だ っ た 。
(メ リ ー)『 道 は ど うな って い る の だ?』
(ジ ュ ノー)「 グ ラ ン ト ・ リュ ッ ト ・ア ム ペ リア ー ル ・オ ・ノ ー ル'」{洞1が建 設 中 じ ゃ な い か 』
(メ リ ー)『 我 々 は 一 体 ど こ ま で 行 く こ と が で き る だ ろ うか?』
(ジ ュ ノ ー)「 デ シ ィ エ ま で は た ど り着 く こ とが で き る よ』
(メ リ ー)『 デ シ ィエ か ら先 は ど う な ん だ ね?』
(ジ ュ ノ ー)『 我 々 は 馬 車か,ミ ュ ー ル 訳'撹か,そ う だ な あ,ア ー ン 」1洞を 見 つ け る さ。 モ ン ・ヴ ュ 川111,移 動 に 役 立 つ な ら ど ん な 乗 物 で も い い さ。 な あ,メ リー,メ レー,お い,聞 い て い る の か … … 』 ジ ュ ノ ー は 愉 快 な 男 だ 。
この 人 物 は 語 学 の 才 に 恵 ま れ,幾 つ か の 言 語 を 話 す こ と が で き た 。 そ う い え ば,我 々 赤 十 字 団 は7力 国 か ら の 混 成 部 隊 で は な か っ た か?し か し,英 語 に 関 して 言 う と,彼 は得 意 で は な か った 。 例 え ば,『 私 は エ ッ ト訳{隔を 話 す こ と が で き な い 。 だ か ら そ れ が ど う した と い う の だ。 私 が い つ も 前 に して い るの は 負 傷 者 た ち だ 。 モ ン ・ヴ ュ 川 引̀b』,彼らが どれ ほ どrt一しん で い る こ と か 。 負 傷 者 た ち は メ デ ィ カ モ ン'鰍 丁しも,水 は お ろ か 食 料 す ら 欠 い て い る 。 我 々 は 彼 ら に ヌ リ チ ュ ー ル 」こ伽1や メ デ ィ カ モ ンd;,P'si'を1一え て や る べ き だ 』 と い う 具 合 で あ っ た 。
この よ う に 英 仏 両 語 混 合 で ま く した て て い る時 の ジ ュ ノ ー の 真 剣 な 顔 に は 汗 が 吹 き 出 て い た 。 両 眼 に も心 か ら の 憐 欄 の 情 が 見 て 取 れ た 。
(ジ ュ ノ ー)『 ス テ フ ァ ン,ど う か 負 傷 者 た ち を 思 い や っ て くれ な い か 。 何 と い った もの か,君 が 先 導 す る ん だ 。 事 情 を 説 明 した ヒで 北 へ 進 む べ き だ 』
こ う して 赤 卜字 団 は 命 令 を 受 け て,ア ジ ス ・ア ベ バ を あ と に 北 へ と 向 か っ た … … 」)h;!II[71
イ タ リア と エ チ オ ピ ア 両 国 間 で の 武 力 衝 突 問 題 が ひ と ま ず 落 ち着 くや,マ ル セ ル ・ジ ュ ノー は 直 ち に 赤 卜字 国 際 委 員 会 の 派 遣 員 部 長 と して スペ イ ン内 戦 の
現 場 に 派 遣 され た 。 そ こ で は,ス ペ イ ン人 同Lが 殺 し合 っ て い た 。 赤 卜字 国 際 委 員 会 派 遣 員 部 長 と い う 並場 を 使 っ て,彼 は 両 陣 営 と 共 に 赤 卜字 国 際 委 員 会 の 活 動 拠 点 を 築 き ヒげ 協定 締 結 に ま で こ ぎ つ け た 。 マ ル セ ル ・ ジ ュ ノ ー は 両 陣 営 と の 交 渉 の 結 果,バ ス ク地 ノ1で第1回 俘 虜 交 換 を 仲 介 した 。 次 い で,彼 は スペ イ ン 共 和 国 に駐 在 す る 赤 卜字 国 際 委 員 会 代 表 部 首席 派 遣 員 と して ロ ラ ン ・マ ッ テ ィ博 士(1909‑1978)と 共 に バ レ ン シ ア,バ ル セ ロ ナ で 勤 務 した 。 マ ル セ ル ・
ジ ュ ノー が 重 要 な 役 割 を 果 た した の は,留 守 家 族 か らの 通 信(計500万 通)を 俘 虜 へ 配 送 す る シ ス テ ム を 作 り1:げ た こ と に あ った 。 ま た,彼 の 尽 力 に よ り, 5,000名 の 俘 虜 が バ ル セ ロ ナ で 解 放 され た 。 彼 ら の 生 命 を 危 う く して い た 戦 闘 の す ぐあ と に,バ ル セ ロ ナ は 陥 落 した 。
ピエ ー ル ・マ ル ケ ス 著 「ス ペ イ ン(p.17)内 戦 中 の 赤 卜字 活 動(1936‑
1939)一 人 道 の 伝 道 者 た ち』(フ ラ ン ス ・ア ル マ ッ タ ン 社,2000年11j)で は スペ イ ン内 戦 中 の 赤 卜字 活 動 の こ とが 精 査 され て い る。 著 者 マ ル ケ ス は 次 の よ う に述 べ て い る。 す な わ ち,「 行 動 的 な 人 材 が 登 場 した 。 そ の 典 型 的 人 物 が ジ ュ ノ ー 医 師 で あ っ た 。 そ れ は,派 遣 員 部 長 と して の 彼 の 経 歴 が 示 す と お り で あ っ た 。 彼 の 着 任 と と も に 人 々が 驚 嘆 させ られ た の は,ジ ュ ノ ー 医 師 の 決 断 力 と事 務 処 理 能 力 が 迅 速 だ っ た こ と で あ る。 彼 の ドした 対 応 策 も 事 態 を 先 取 り した も の で あ った 。 ま た,交 渉 者 と して の 彼 の 並 外 れ た 能 力 は 必 然 的 に 赤 十 字 国 際 委 員 会 へ の 信 頼 を 高 め る こ と に な った 。 任 務,そ して,様 々 な 交 渉 一 特 に フ ァ シ ス ト軍 陣 営 内 に お い て で あ る が 一 に お け る 派 遣 員 部 長 に 賦 与 さ れ た 権 限 と に つ い て 議 論 が あ った と は い え,そ れ は,赤 卜字 国 際 委 員 会 の 方 針 案 お よ び理 念 に ジ ュ ノ ー 医 師 か らの 影 響 が あ っ た こ と を 決 して 否 定 す る も の で は な い 」
(マ ル ケ ス 著 前 掲 書,pp.378‑379)。
レ オ ポ ル ド ・ボ ワ シ エUi!iLIH1は次 の よ う に 記 して い る 。 す な わ ち,「 こ の 武 力 紛 争 に お い て,u.1時 既 に 発 効 して い た ジ ュ ネ ー ブ 諸 条 約 の 中 に は,赤f字 国 際 委 員 会 派 遣 員 らが 両 交 戦 当 時 者 の 間 に あ っ て 中 立的1 1̲場に 立 つ 調 停 者 と して の 役Ilを 完 全 に達 成 す る た め の 手 段 を 具 体 的 に は 規 定 して は い な か った 。 そ れ に もか か わ らず … … マ ル セ ル ・ ジ ュ ノー は,そ の 使 命 感 に 燃 え な が ら,本 来 の 任 務 以 ヒの こ と を 成 し遂 げ た の で あ った 。 絶 え ず 両 交 戦 当事 者 の 間 に 調 停 者 と し て 介 入 し,熾 烈 な 戦 い の 中 に あ って も 人道 的 側 面 に 訴 え か け る こ と に よ り,何
千 人 もの 人 命 を 救 う こ と に 彼 は 成 功 した の で あ った 。 マ ル セ ル ・ジ ュ ノー の 尽 力 に よ り,政 治 犯 は 釈 放 さ れ,人 質,死 刑 囚 は 救 出 さ れ る か ま た は 交 換 さ れ た
マ ル セ ル ・ ジ ュ ノ ー 一 一 人 の 『第 三の 兵L』 と し て
の で あ る⊥lil'擾。 こ れ ら 囚 わ れ の 身 か ら解 放 さ れ た 者 の 中 に は,ア ー サ ー ・ケ ス トラ ー が い た 胴 曲 。 マ ル セ ル ・ ジ ュ ノー が ス ペ イ ン 内 戦 時 の 両 交 戦 当 事 者 か ら勝 取 る こ とが で き た もの に 依 拠 して,内 戦 時 に お け る 保 護 諸 規 範 の 整 備 が
可 能 と な った 。
1939年 に 第2次 世 界 大 戦 が 勃 発 す る と,マ ル セ ル ・ ジ ュ ノ ー は,'11初,ス イ ス国 軍 衛 生 部 隊 に 軍 医 中尉 と し て編 入 さ れ た 。 しか し,数 ヶ月 後,赤 十 字 国 際 委 員 会 側 か らの 要 請 に よ り赤 卜字 に 復 帰 した 彼 は,ド イ ツ へ 派 遣 さ れ た。 そ し て,1939年9月27C1,ド イ ツ 国 内 の ポ ー ラ ン ド兵 俘 虜 収 容 所 を 視 察 した 。 次 い で,ベ ル リ ンを 基 点 と して,ド イ ツ 国 内 で は,連 合 国 軍 俘 虜 や 連 合 国 国 籍 民 間 人 が 収 容 さ れ て い る収 容 所 を,ベ ル ギ ー お よ び フ ラ ン ス で は,ド イ ツ 兵 俘 虜 が 収 容 さ れ て い る 収 容 所 を 視 察 して ま わ っ た。1940年,マ ル セ ル ・ジ ュ ノー は フ ラ ン ス,ド イ ツ を 相 次 い で 訪 れ た 。 そ れ は,「 ドイ ツ軍 空 挺 部 隊 兵 上 ら が 銃 殺 さ れ た 」 こ と を 理 由 と す る ドイ ツ 側 の 報 復 措 置 を 阻 止 す る た め で あ っ た。
赤 一卜字 国 際 委 員 会 で の 同 僚 で あ り友 人 で も あ っ た ク ロ ー ド ・ピ ィユ ー は 当 時 の マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー に つ い て 次 の よ う に 語 って い る。 「1940年 ,赤 一{一字(p.18) 国 際 委 員 会 に 人 っ て 日 が ま だ 浅 か っ た 私 で は あ る が,マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー の 指 揮 の ドに 勤 務 す る 機 会 に恵 ま れ た 。 … …1940年6月17日,ラ ジ オ 報 道 に よ る と フ ラ ン ス政 府 が 休 戦 交 渉 を 提 案 中 と い う時 期 で あ っ た が,'̀iCIの 午 後,彼 と 私 は 自動 車 で フ ラ ン ス ・ボ ル ドー に 向 け て 出 発 した 。 何 百 名 もの ドイ ツ 兵 俘 虜 に 接 見 す る許 可 を フ ラ ンス 側 か ら取 り付 け ね ば な らな か っ た 。 な ぜ な らば ,ド イ ツ 兵 ら の 待 遇 次 第 で ドイ ツ 国 内 に て 囚 わ れ て い る 何T一名 もの フ ラ ン ス 兵 俘 虜 の 待 遇 条 件 が 決 ま って くる か らで あ っ た 。 さ な が ら敗 残 兵 の よ うな 状 況 に 置 か れ た 私 た ち の 進 路 は は か ど ら な か った 。 な ぜ な ら ば,行 く手 を 埋 め 尽 く して い る 難 民 の 群 れ を ど う にか こ う に か 避 け て い か な けれ ば な らな か っ た か らで あ る。
しか し,ジ ュ ノ ー は く じ け な か っ た。 彼 は 一 晩 中 ハ ン ドル を 握 り続 け,一 一睡 だ に しな か っ た 。 一 刻 も 早 く現 地 に 到 着 して 調 停 に 入 らな け れ ば,ド イ ツ軍 当局 は フ ラ ン ス 兵 俘 虜 を 解 放 しな い か ら で あ っ た 。 結 局 の と こ ろ,丸2rl間 を 要 し て,私 た ち は ボ ル ドー に 到 着 した 。 ジ ュ ノ ー は フ ラ ン ス軍 側 責 任 者 に 面 会 して 説 得 した 。 そ して,f1く も そ の 翌 日 に ドイ ツ軍 将 校 用 俘 虜 収 容 所 を 訪 れ,ジ ュ ネ ー ブ宛 に 赤 一卜字 国 際 委 員 会 を 安 心 させ る 知 らせ を 打 電 す る こ と が で き た 。 直 ち に そ の 他 の ドイ ツ 兵 俘 虜 収 容 所 を も視 察 し終 え るや,私 た ち は 体 む 間 も な く
ジ ュ ネ ー ブ へ 帰 還 した 。 私 た ち は へ と へ と だ った 。 しか し,ジ ュ ノー は 直 ち に
ベ ル リ ン に 向 か って 出 発 した 。 ドイ ツ 側 に 囚 わ れ て い る フ ラ ン ス 兵 俘 虜 に つ い て 交 渉 す る た め で あ っ た 」(1961年6月18日 付 ジ ュ ル ナ ル ・ ド ・ ジ ュ ネ ー ブ 紙)。
ほ ど な く して,フ ラ ン ス 兵 俘 虜 が しば しば 転 居 を 余 儀 な く さ れ て い た そ の 留 守 家 族 と の 間 で 消 息 を や り と りす る 制 度 を ジ ュ ノー が 発 足 させ た 。 つ い て は, 俘 虜 情 報 局 に よ る 「ク リー ニ ン グ」(追 跡 調 査)が 実 施 さ れ た 。 そ して マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー は 総 て の 俘 虜 が 俘 虜 情 報 局 宛 に第2信 目 の 「俘 虜 通 信 葉 書 」 を送 っ て も よ い と の 許 可 を ドイ ツ 軍 当 局 か ら取 り付 け る こ と が で き た 。1940年,空 路 が 閉 ざ さ れ か つ 空 爆 の 最 中 で は あ っ た が,マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー は リ ュ シ ー ・ オ デ ィエ 女 史 騨 川 と 共 に ロ ン ド ン に 赴 い た 。 そ れ は,ド イ ツ 領 内 の 俘 虜 に 対 す る 救 価 品 を 海 ヒ輸 送 に よ り 手配 す る た め で あ っ た 。 次 い で 彼 は ス ウ ェ ー デ ン に 渡 り,飢 餓 に 瀕 した ギ リ シ ア 国 民 の た め の 救 価 品 を 輸 送 す る た め の 大 規 模 な 計 画 を 組 織 した 。1941年9月,マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー は トル コ に 赴 い た 。 そ れ は,東 部 戦 線 で 火 ぶ た が き られ た こ と に よ り業 務 停1Lを 余 儀 な く さ れ た 俘 虜 情 報 局 を 立 て 直 す た め で あ った 。 ジ ュ ネ ー ブ と ア ン カ ラ と の 間 を2度 往 復 し た 末 に,ト ル コか ら ギ リ シ ア宛 に救 援 食 糧 の 海L一輸 送 を 可 能 に す る た め の 調 停 活 動 に 奔 走 した 。 次 い で ア テ ネ に 派 遣 され た マ ル セ ル ・ジ ュ ノー は ギ リ シ ア 人 孤 児 達 を エ ジ プ ト,ク レ タで 受 け 入 れ 救 済 す る こ と を 組 織 した 。 な お,ク レ タ 島 で は,イ タ リ ア軍 権 内 の 俘 虜 収 容 所 を 視 察 して い る。3度 目 に 彼 が トル コ を 訪 問 した 際 に は,ド イ ツ軍 権 内 の ソ 連 兵 俘 虜 陶刷2幽 と,こ れ と は逆 に な る が,ソ 連 軍 権 内 の ドイ ツ 兵 俘 虜 に 関 す る 問 題 を 解 決 す る こ と に あ た る よ う 要請 さ れ て い た。 そ の の ち に ベ ル リ ンを 経 て ス トッ ク ホ ル ム に 赴 い た マ ル セ ル ・ジ ュ ノー は ・ (p.19)移 動 先 で ギ リ シ ア へ の 救 援 を 大 々的 に 呼 び か け た 。 よ う や くベ ル リ ン で の 赤 卜字 国 際 委 員 会 駐 独 派 遣 員 の 任 務 に 復 帰 した 彼 は,lq際 人 道 法 の 遵 守 と そ の 啓 蒙 の た め に 休 む こ と な く活 動 し続 け た の で あ った 。
全 然 休 暇 な しの 丸4年 間 の 勤 務 で 疲 れ は て た マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー は 赤 卜字 国 際 委 員 会 を 離 れ て,1943年 か ら1944年 に か け て ジ ュ ネー ブ で 生 活 した 。 こ の 間 の 彼 の 身 分 は,ス イ ス 国 民 労 災 保 険 ジ ュ ネ ー ブ地 区 担 当 の 専 門 医 で あ った 。 マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー の 離 任 に 際 し,マ ッ ク ス ・フ ー バ ー は 彼 に 次 の よ う な 瀞 簡 を 送 って い る。
「貴 兄 の 離 任 した い と い う 御 決 心 が 固 く,そ の 理 山 も 重 々 承 知 して は お り ま す が,貴 兄 が 離 任 な さ る 日 が 近 づ くに つ れ て,貴 兄 の 離 任 に よ り私 ど も が
マ ル セ ル ・ ジ ュ ノ ー 一 一 人 の 『第 一三の 兵 士 』 と し て
失 う もの が い か に 大 き い か を 痛 感 して お り ま す 。
な ぜ な らば,親 愛 な る ドク タ ー よ,こ の7年 と6ヶ 月 の 問,私 ど も の 赤 卜 字 活 動 に 最 も忠 実 で あ りか つ 最 も献 身 的 で あ っ た 派 遣 員 の お 一 人 が 貴 兄 な の で す か ら。 常 に 戦 争 の 最 前 線 に あ り,し ば しば 困 難 で 時 と して は 危 険 な 状 況 の 中 に あ る遠 方 の 国 々へ 短 時 間 の 間 に 出 発 で き る よ う に 常 に ス タ ンバ イ して お られ た 貴 兄 は,私 ど もへ の 御 協 力 を 一 度 た り と も拒 ま れ ま せ ん で した。
ア フ リ カ,ス ペ イ ン に お い て,そ して 第2次 世 界 大 戦 中 に は ヨ ー ロ ッパ 諸 国 に お い て,数 多 くの 重 く そ して 微 妙 な 諸 問 題 を 貴 兄 は 成 功 裡 に 解 決 さ れ ま した 。 行 動 す る人 と して の 様 々 な 資 質,そ して エ ネ ル ギ ー ゆ え に 貴 兄 は あ ま た の 難 問 を 克 服 し,赤 卜字 に輝 か し い ま で の 貢 献 を 為 し得 た の で す ゴ朗II"。
専 門 医 と して の 成 功 を 願 って い る 旨 を 述 べ た あ と で,フ ー バ ー は 更 に 次 の よ う に 記 して い る。 す な わ ち,「 今 後 数 ヶ月 後 に な っ て 私 ど も で 必 要 が あ る場 合 に は,貴 兄 の 御 勤 務 先 に 支 障 が な い 限 り,一 定 の 御 協 力 を して ドさ る と い う こ と は 私 ど も に と り願 って も な い こ と で す 。 こ れ か ら も 貴 兄 の お 力 を 拝 借 で き る と い う こ と で うれ し く存 じま す 。 貴 兄 に 御 礼 申 し ヒげ ま す 」。 しか しな が ら, 数 ヶ月 後 に は,ジ ュ ノ ー の も とに マ ッ ク ス ・フ ー バ ー か ら の 要 請 が 届 い た 。 … …
か く して ジ ュ ノ ー は 占 巣 で あ る 赤 一卜字 国 際 委 員 会 へ 復 帰 す る こ と に な り,在 ジ ュ ネ ー ブ の 本 部 で1年 間 を 過 し た。1944年12月,マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー は ジ ョル ジ ェ ッ ト ・ユ ー ジ ェニ ィー ・ペ レ(1915‑1970)と い う 女性 と結 婚 した 。 当時, 彼 女 は 赤 レ字 国 際 委 員 会 中 央 俘 虜 情 報 局 イ ギ リ ス人 部 門 に 勤 務 して い た 。
1945年6月,彼 は 身 亟 の 妻 を ス イ ス に 残 した ま ま 再 び 国 外 に 旅 立 た ね ば な らな か っ た。 と い うの は,赤1・ 字 国 際 委 員 会 は,こ れ よ り1年 以 上 前 に 死 亡 し た パ ラ ヴ ィ チ ー 二 博 七川1"[」の 後 任 と して,マ ル セ ル ・ジ ュ ノー を 日本 へ 派 遣 す る こ と に な っ た か ら で あ る 。 シベ リ ア経 山 で 極 東 に 向 け て 出 発 した 彼 は,ま ず,満 州 に て,目 本 軍 の 許 可 を 得 て,米 軍 の ウ ェ イ ン ラ イ ト少 将,英 軍 の パ ー
シ バ ル 中 将 の み な らず,日 本 軍 権 内 に あ った そ の 他 の ア メ リカ 軍 俘 虜 に 面 会 す る こ と が で き た の で あ った 。
(p.20) ヒ ロ シ マ,1945
1945年8月9FI,マ ル セ ル ・ ジ ュ ノ ー は そ の 助 手 で あ る マ ル ゲ リ ー タ ・ シ ュ
トレ ー ラ ー と共 に 満 州 か ら 東 京 に 到 着 した 。 父 親 が 貿 易 商 で あ った こ とか ら, シ ュ トレ ー ラ ー(1898‑1961)は そ の 娘 時 代 の 大 半 を 横 浜 で 過 して い た 。 東 京 に 到 着 す る や い な や,彼 女 は 赤 卜字 国 際 委 員 会 駐fl代 表 部 の 事 務 担 当 と して 辣 腕 を ふ る っ た。 と い う の は,シ ュ トレ ー ラ ー は 俘 虜 に 関 係 す る 豊か な 実 務 経 験 を 積 ん で い た か らで あ る 。 す な わ ち,彼 女 は1939年 以 来 ジ ュ ネ ー ブ の 赤 一卜字 国 際 委 員 会 俘 虜 中 央 情 報 局 に勤 務 して お り,な か で も 日 本 軍 権 内 の ア メ リカ 兵 俘 虜 を 対 象 と す る 部 課 の1三任 で あ った 。 そ の1:,シ ュ トレー ラ ー は 口 本 語 を 流 暢 に 話 す こ とが で き た 川 曲 。
マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー と シ ュ ト レー ラ ー が 到 着 した 時,赤 卜字 国 際 委 員 会 駐U 代 表 部 は 首席 代 表 を 欠 い て お り,機 能 を 停il:し て い た 。 「日 本 国 内 で2個 の 原
∫・爆 弾 が 投 ドさ れ 広 島 で は 人 道 に 関 わ る惨 事 が 起 こ って い る 」 と の 噂 を 耳 に す る が,IE確 な 情 報 は 伝 わ っ て こ な い 。 連 合 国 軍 最 高 司 令 部 は こ の 事態 に つ い て
「ブ ラ ッ ク ・ア ウ ト」(空 白状 態)訳測 を 設 け,被 害 地 域 へ の 外 国 人 に よ る 立 入 を 禁 止 し だ 川 曲 。 そ して 連 合 国 軍 俘 虜 に つ い て の 調 査 報 告 書 と 緊 急 援 助 一 こ れ ら こ そ が 日 本 が 無 条 件 降 伏 して か ら の 救 価 活 動 の 最 優 先 課 題 で あ っ た に マ ル セ ル ・ ジ ュ ノ ー は 忙 殺 さ れ て い た 。8月2911付 の 「イ ブ ニ ン グ ・ス タ
ン ダ ー ド」 紙 の 紙 面 で は 「ジ ャ ッ プ は 我 ノ∫に 俘 虜 の 完 全 な リス トを提 出 した 」 と い う メ イ ン タ イ トル の ドに 次 の よ う な サ ブ タ イ トル を 掲 げ て い る。 す な わ ち,
「東 京 地 ノ1の俘 虜 と被 抑 留 者 の 氏 名 が よ う や く連 合 国 軍 側 に 提 供 。 完 全 な リ ス トを 本 口提 供 した の は 赤 一卜字 国 際 委 員 会 駐(1代 表 部 の ス イ ス人 派 遣 員 マ ル セ ル ・ ジ ュ ノ ー 博 十:」,と 。
同 じ1‑1に,マ ル セ ル ・ジ ュ ノー はU本 在 住 の 一・ス イ ス 人 ビ ジ ネ ス マ ン 訳洞31 に ス イ ス公 使 館 臨 時 職 員 マ ル ク ス ・ヴ ァ イ デ ン マ ン博is(1910‑??)訳̀lqllと
日 本 人 通 訳1名 訳「lI151を随 行 さ せ,広 島 に 向 け て 派 遣 した 。 こ の ビ ジ ネ ス マ ン に は 現 地 か ら報 告 を 送 る よ う に指 示 し,こ の た め に 必 要 な 許 可 を 取 り付 け た 。 翌8月30日,マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー は 一 通 の 電 報 を 受 信 し た 。 そ こ に は 被 爆 後 の 惨 状 が 次 の よ う に 述 べ ら れ て い た 。
(p.21)
「宛 外 務 省 東 京6(課?)鈴 木 公 使 川1̀"を 介 し て ジ ュ ノ ー 博f:に 以 F伝r乞 う 。8月30日,私'kilX17は 広 島 に 入 っ た 。 恐 る べ き 惨 状 で あ る 。 街 の80%が 破 壊 さ れ て い る 。 総 て の 病 院 が 倒 壊 し て い る か 又 は 深 刻 な 損 害 を
マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー 一 一 人 の 『第 三の 兵1:』 と し て
被 って い る。 私 が 仮 設 病 院2棟 を 視 察 した と こ ろ,そ の 状 況 は 言語 に 絶 す る 。 爆 弾 の 破 壊 力 は 想 像 を は る か に通 り越 して 甚 大 で あ る 。 一 見 回 復 に 向 か い つ つ あ る 多 くの 負 傷 者 の 容 態 は 白 血 球 減 少 と他 臓 器 内 部 損 傷 の た め 急 変 し,今 や そ の 相 当 数 が 死 に 瀕 し て い る 。 な お も10万 名 以 ヒの 負 傷 者 が 市 周 辺 の 臨 時 救 護 所 に あ りな が ら包 帯 ・医 薬 品 を 全 く欠 い た 悲 惨 な 状 態 に 置 か れ て い る。
貴 職 は連 合 国 軍 最 高 司 令 部 と 交 渉 し,直 ち に 街 の 中 心 部 に救 援 の 医 薬 品 を 落 ド傘 に て 投 下 す る よ う に 要請 さ れ た い 。 救 急 川 品 は 以 ドの と お り で あ る。 大 量 の 包 帯 ・外 科 川 ガ ー ゼ ・火 傷 用 軟 膏 ・ス ル フ ァ ミ ド ・du漿 及 び輸 血 川 器 材, 以 一ヒで あ る。 貴職 に お か れ て は 直 ち に 実 行 に と りか か られ る よ う 切 望 す る。
医 療 調 査 団 の 派 遣 も 望 ま し い … … 」)廓1川{'団8
同 じ8月30[‑i木 曜i‑iに ジ ュ ノ ー の も と に ガ イ ム シ ョ ウ,す な わ ちil本 政 府 外 務 省 よ り被 爆 後 の 広 島 と 長 崎 の 惨 状 を お さ め た 一 連 の 写 真 が 届 い た 。 こ れ ら の 写 真 に は,広 島 の 現 地 で ジ ュ ノー が 口 本 陸 軍 船 舶 部 隊 の 軍 医 大 尉 か ら入 手 し た もの が 加 わ り,1946年 に ジ ュ ネ ー ブ に送 られ た。
9月1日is曜U,彼 は 在 横 浜 の ニ ュ ー グ ラ ン ド ・ホ テ ル を 訪 れ,ウ ェ イ ン ラ イ ト少 将,パ ー シ バ ル 中将,フ ィ ッチ 准 将,マ ー カ ス大 佐,フ ァ レル 准 将,オ ー タ ー マ ン大 佐 と 会 見 し た。 こ こ で ジ ュ ノ ー が 広 島 へ の 救 援 問 題 を 取 り ヒげ た の は 当 然 の こ と で あ っ た 。 ジ ュ ノ ー は お そ ら く長 崎 へ の 救 援 問 題 を も提 起 し た こ と で あ ろ う。 しか しな が ら,連 合 国 軍 最 高 司 令 部 に 対 してIE式 な 申 し人 れ を 行 う こ とが で き た の は よ う や く9月4日 に な っ て か らで あ っ た 。 そ の 際 に連 合 国 軍 最 高 司 令 部 側 の 担 当 者 と な っ た の は フ ィ ッチ 准 将,そ して 軍 医 総 監B。P.ウ ェ ブ ス ター 軍 医 人 佐 で あ る。 ジ ュ ノ ー は 彼 ら に 対 して 救 援 活 動 の 実 施 を 即 座 に 要 請 した 。 ウ ェ イ ン ラ イ ト少 将 を も 含 め,か つ て 日 本軍 配 ドの 満 州 で 俘 虜 に な っ て い た ア メ リカ 軍 将 兵 へ の 救 援 を 行 っ た こ と を 後 ろ 盾 に し た 彼 は,こ の 問 題 を 連 合 国 軍 最 高 司 令 官 マ ッ カ ー サ ー 元 帥 に よ る 緊 急 の 検 討 に ま で 持 ち込 む こ と が で き た の で あ っ た 。 そ の 結 果,3日 後 に な り,マ ッ カ ー サ ー 将 軍 は ジ ュ ノ ー に 対 し て,1」 本 側 医 師2名 却11̀"を 加 え た ア メ リカ 軍 医 療 調 査 団 と 共 に12ト ソ';'Tl̀1̀'幽の 医 薬 品 及 び 衛 生 品 を た ず さ え て 広 島 人 りす る こ と を 許"∫ し た 。 こ う して9月8nに 広 島 に 向 か っ た マ ル セ ル ・ ジ ュ ノー は 次 の よ う に 記 して い る。
「離 陸 して か ら1時 間 も す る と,富lj山 の 東 側 のIL 腹 に 沿 って 飛 行 して い
ま し た。 あ の 堂 々 と した 噴 火 口が す ぐ近 くに あ り ま した 。 次 い で,名 占屋, 大 阪,神 戸 と い っ た 大 都 市 の 上空 を 通 過 し ま した 。 こ れ ま で の爆 撃 に よ る連 日 の 火 災 を 辛 く も免 れ た 数 少 な い 市 町 村(p.22)が あ ち こ ち に 点 在 す る 中 で,空 襲 の 爪 痕 を 残 して い る こ れ らの 大 都 市 は,さ な が ら途 方 も無 く大 き な 錆(さ び)の 染 み で あ る よ う に 私 に は 思 え ま し た。 こ う した 様 子 は,た し か に 痛 ま しい も の で し た が,お よ そ 想 像 を絶 した 広 島 の 廃 城 の 光 景 と は 比 べ よ う も あ り ま せ ん で し た 。 高 空 か ら観 察 した と こ ろ,か つ て は 人 口 が40万 に 達 し,市 内 に は7つ の 川 が 流 れ て お り,太 旧 川 の デ ル タ上 に 築 か れ て い た こ の 町 は,並 外 れ た 力 に よ っ て 吹 き飛 ば さ れ て い ま し た 。 町 の 中 心 部 は,巨 大 な 白 い 染 み で しか あ りま せ ん で し た。 そ の 周 囲 は,被 爆 後 に 起 こ った 火 災 の 跡 な の で し ょ うか,褐 色 化 し た地 帯 が え ん え ん と 続 い て い ま した 。 遠 方 に 目 を 向 け る と,港 の 付 近 に,丘 に 遮 られ て い た た め か,無 傷 の ま ま残 っ て い る 建 物 が 幾 つ か 見 え ま し た。 広 島 市 の ヒ空 を 旋 回 し た 後,6機 の 輸 送 機 は す ぐ に 着 陸 し,10分 後 に 私 た ち が 降 り 立 っ た と こ ろ は,日 本 海 軍 の 航 空 隊 基 地 で あ る 岩 国 飛 行 場 で した 。 医 薬 品 が 輸 送 機 か ら降 ろ さ れ ま した 。 調 査 委 員 会 の 責 任 者 で あ る フ ァ レル 准 将 か ら私 は 医 薬 品 の 管 理 を 任 さ れ ま した 。 リ ス ト は あ り ま せ ん で した が,医 薬 品 の 総 重 量 は15ト ン に も達 して い ま し た。 こ れ ら の 医 薬 品 をri本 海 軍 の 一 上官 に 託 して,そ のIIの 夕 方,私 は(最 寄 り の)
III陸 軍 司 令 部 を 訪 れ ま した 。 そ して,こ こ で は,翌 日 の 広 島 入 りの 準 備 を 整 え て くれ ま し た 。fl曜 日に あ た る 翌9月9口,私 た ち は 破 壊 しつ くさ れ た 町 に 入 りま した 。 そ して 多 方 面 か らの 証 言 を 聴 い て 回 りま した 」)鮪8{嗣㍗
マ ル セ ル ・ ジ ュ ノー は5日 間 に わ た り広 島 に 滞 在 し,あ ら ゆ る病 院 を 視 察 し て は,医 薬 品 が 最 善 の 形 で 配 給 され る よ う に 監 督 して ま わ り,不 足 品 を 確 認 す る と そ れ ら の 物 品 を調 達 し,医 師 と して 自 ら直 接 に救 援 活 動 に 従 事 したN;tiFUK?。
広 島 の 都 市 基 盤 は潰 滅 して い た の で,彼 は 美 し い 宮 島 に 宿 泊 した 。 ち な み に 宮 島 は 原 爆 に よ る 被 害 を 免 れ て い た 。 ジ ュ ノ ー が 東 京 に も ど っ て か らの2日 後 に 襲 来 した 枕 崎 台 風 に よ り広 島 県 で は 更 に2,000名 の 犠 牲 者 が 出 た ば か りか,周 辺 地 方 だ け で も犠 牲 者 は3,800名 に お よ ん だ … … 。
マ ル セ ル ・ ジ ュ ノー は 手 帳(日 記)を つ け て お り,そ の 中 に 業 務Lの こ と を 克 明 に 記 して い た 。 こ の 期 間 の こ と に つ い て は,次 の よ うに 記 録 して い る。
マ ル セ ル ・ ジ ュ ノ ー 一 一・人 の 『第 三の 兵1∴ 』 と し て
9月4日 火 曜 日。Il記 を 見 る 。 為 さ ね ば な ら な い こ と が た くさ ん 有 り,書 く だ け の 時 間 が な い 。 広 島 行 の た め のT一続 を フ ィ ッ チ将 軍 の も とで 行 う。 進 駐 軍 が 大 挙 して 到 着 。 ブ ル トー ザ ー が 動 い て い る 。
9月5日 水 曜 日。 ア レ ク シ ス ・ ジ ョ ン ソ ン米 国 領 事 を 訪 ね る。
9月6日 木 曜 日 。 サ ム ス軍 医 大U.:'Tfl'18°1がII本側 知 事 宛 の 覚 書 の 写 しを 私 に 渡 して くれ た 。 我 々 の 管 理 ドに あ る医 薬 品12ト ン を 空 輸 す る 手続 き を 私 は 終 え た 。
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9月7日 金 曜 日。 都 築 教 授,本 橋 医 博,ブ リ ッ ク大 尉,ノ ー ラ ン 大 尉,フ ァ レル 准 将,ニ ュ ー マ ン将 軍,物 理 学 者 の モ リ ソ ン氏,オ ー タ ー ソ ン大 佐 に 合 流 。(広 島 で は)宮 島 に 宿 泊(r定)。 宮 島 と は 「神 聖 な る 島 」 を 意 味 す る。
9月8日 土 曜 日。09時30分,広 島 に 向 け て 離 陸 。Gen 。'kil1"?Uが東 京 に 到 着 。 12時oo分,(乗 機 は)広 島 ヒ空 に 達 す る 。G .Moi.'{̀ll231の 光 景 はiく そ の 通 り だ。 岩 国 飛 行 場 に 着 陸 。 医 薬 品 を(輸 送 機 か ら)降 ろ す 。 宮 島 に て 宿 泊 。 9月9日 日 曜 日。 広 島 に 到 着 。 病 院 に て 個 人 的 諸 記 録 訳液"を 閲 覧 す 、,広島 に 原 爆 が 投 ドさ れ た の は,8月61108時15時 。 広 島 市 を 一一瞬 に して 焼 け 野 原 に して し ま った 。 広 局 駅 で は,原 爆 投 ド時 刻 を 指 した ま ま時 計 が 停 止 して い た 。
9月10日 月 曜 日 。 広 島 県 知 事 高 野 源 進 氏 ,同 県衛 生 課 長 喜 多島医 師 に 出迎 え られ る。 知 事 は(原 爆 で)夫 人 を 亡 く して い た 。 同 知 事 は ・連 の 事 態 に 打 ち の め さ れ た 様t一で あ り,ア メ リカ 人 ジ ェ ン トル マ ン らを 出 迎 え る こ と は 拒 ん だ よ う だ 。 私 に 同 行 し た 記 者 も(原 爆 で)兄 弟 と 姉 妹 を 亡 く して い た。 9月11日 火 曜 日。 松 永 勝 医 師 と 落 合 う。 宮 島 の 神 社 を 訪 れ た 。 広 島 にて 各 病 院 を 視 察 して ま わ り,日 本 側 医 師 ら に 会 う。 宮 島 に 戻 る。
9月12日 水 曜 日。 今 朝 は,「 広 島 症 候 群 」川 蝉 の 複 雑 な 症 例 を 幾 つ か 診 た 。 症 候 群 と して こ の 症 状 が 広 く発 症 し て い る。II本 は 武 力 以iに 奇 妙 な 秘 密 (「広 島 症 候 群 」)を 抱 え 込 ん で い た 。 帝 国 大 学 の ナ カ ド医 師 川'23に 会 う。 尾 道 に 到 着 。
9月13日 木 曜 日 。1,:'1‑'t,善通 芋,新 居 浜 川 『26'各f昇虜 収 容 所 の 撤 収 を 視 察 。 Balian'川 〔27,トラ ッ ク,赤{一 ・;一:のマ ー ク を つ け た[1〔両,総 て が 順 調 で あ る。
業 務 は 円 滑 に 進 ん で い る。(こ れ ら の トラ ッ ク,1'1両 は)宇 野 港 に 向 け て 出 発 。
9月14日 金 曜 日。 尾 道 を 出 発 。 特 別 に 手 配 さ れ た 車 両 で 鉄 路,大 阪 川 榊 に 到 着 。 夕 刻,ジ ョ ン ソ ン領 事 に 会 う。 ブ ル ン ナ̲̲̲,a;;i,,,が中 国 人 ・ギ リ シ ア 人 俘 虜 らへ 救 血 晶 訳牌"を 配 給 す る こ と へ の 協 力 を 私 は 同 領 事 に 要 請 し て お い た 。
9月15日 土 曜 日。18時30分,東 京 に 戻 る。
こ う した 人 道 活 動 を 称 え,今 日,広 島 の 平和 祈 念 公 園 に一 外 国 人 を 顕 彰 し た 碑 と して は 唯 一 の マ ル セ ル ・ ジ ュ ノ ー 記 念 碑 が 建 立 さ れ て い る 訳̀1帥。 彼 が 口 本 か ら赤 卜字 国 際 委 員 会 に 持 ち 帰 っ た60葉 ば か り の 写 真 は 広 島 ・長 崎 の惨 状 を ヨ ー ロ ッパ に 初 め て 伝 え た の で あ る 。1982年,赤1一 字 国 際 委 員 会 は マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー が 広 島 視 察 に つ い て 記 した 遺 稿 を 「広 島 の 惨 虐 」 と 題 して 赤 卜字 国 際 雑 誌 に掲 載 し た1駅掴'い訳̀団。
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第2次 世 界 大 戦 後,1946‑1952
マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー は1946年4月 ま でLl本 に留 ま り,赤 卜字 国 際 委 員 会 駐 ll代 表 部 首 席 派 遣 員 の 任 に あ た った 。 ス イ ス帰 国 ま で 彼 は連 合 国 軍 俘 虜 の 本 国 帰 還 業 務 を 処 理 した 。1945年10月2611,息f一 ブ ノ ワ が 出 生 した 。 しか し, 父 親 で あ る マ ル セ ル ・ ジ ュ ノー は な お も 極 東 に あ った 騨2㌔
1916'1=,在 ベ ル ン の ア メ リカ 公 使 は ス イ ス外 務 省 宛 に ワ シ ン トン の 本 国 政 府 が マ ル セ ル ・ジ ュ ノ ー に 対 して 「自 由功 労 賞 」 を 授 与 した い 旨 を 通 告 して き た。 同 公 使 か らの 覚 書 は 次 の よ う に ア メ リカ 本 国 政 府 見解 を 伝 え て い る 。
「1945年8月 の 日本 降 伏 後 の 連 合 国 軍 俘 虜 の 所 在 地 を 確 定 し彼 ら の 本 国 送 還 に 尽 力 し,国 際 赤 一卜宇 活 動 に 従 事す る ス イ ス 市民 ジ ュ ノ ー 博 士 の 行 為 が 賞 勲 に 値 す る 大 き な 理 由 に つ い て 。
8月91iにn本 本Lに 赴 任 し た ジ ュ ノ ー 博L一は 直 ち に 赤 卜字 国 際 委 員 会 駐 11代 表 部 派 遣 員 ら と 連 絡 を と っ た 。 こ れ らの 派 遣 員 ら は1̲1本全 国 に点 在 す る 民 間 人 抑 留 所 お よ び 俘 虜 収 容 所 の 状 況 に つ い て 知 悉 し て い た 。 そ れ ゆ え に, 我 が 第 る艦 隊 が 相 模 湾 に 到 着 した9月28n,博r:は 抑 留 所 お よ び 収 容 所 に つ い て 正確 で か つ 詳 細 な 情 報 を 提 供 さ れ た 。 そ の 結 果,解 放 を 待 ち わ び て い た 被 収 容 者 ら に 食 糧 お よ び 衣 料 を我 々 は 友 軍 機 か ら の 投 ドで 提 供 す る こ と が