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異 質 性 を 歓 待 す る テ ク ノ ロ ジ ー は 可 能 か

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Academic year: 2022

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(1)異質性を歓待するテクノロジーは可能か. クローン・ヒツジ誕生のニュースが世界を驚惜させたことは記憶. 支配の確立という意味においてであれ︑あるいはペシ一︑︑スティック. オプティミスティックに︑テクノロジーを通じての人間による世界. キマイラニアクノロジーが突きつけるもの1. に新しい︒これを受けて︑世界各地で様々なクローン動物の誕生を. に︑人問による領有化・纂奪という意味においてであれ︒しかし︑. 透. 見た︒こうした流れのなかで︑日本でもクローン技術にかんする法. キマイラニアクノロジーが人間にとって異質なものをつくりだすの. 高橋. 律が制定され︑二〇〇一年六月に︑﹁ヒトに関するクローン技術等の. 議論があったが︑クローン規制法の場合には︑クローン.ヒツジそ. た︒脳死・臓器移植についての法律が制定されたときには︑大きな. 規則に関する法律﹂︵以下︑﹁クローン規制法﹂と呼ぶ一が施行され. だすテクノロジーにはどのように取り組むべきだろうか︒さらに︑. のように受け止めていけばよいのだろうか︒そして︑これをつくり. るのではないだろうか︒今や﹁来たらん﹂としているキマイラをど. であれば︑このようなテクノロジー観の見直しを追られることにな. ^1︶. のものは騒がれたものの︑法律にはさほど関心が寄せられていない. テクノロジーというものはどこへ向かおうとしているのだろうか︒. ものである︒完全には異質ではないにしても︑異質性を孕む生命体. そしていわゆる人間と人問以外の﹁キマイラ﹂をつくることについ. ﹁クローン規制法﹂は︑﹁ヒトのクローン﹂をつくることを禁じ︑. ﹁クローン規制法﹂︒キマイラについて. ように思われる︒ましてその法律の条文なかで扱われている︑人間 と動物のハイブリッド︑﹁キマイラ﹂についてはほとんどまったくと .言ってよいほど省みられることがない︒不気味な沈黙︒キマイラと. である︒人間のテクノロジーがこうした異質なものを生み出すので. ては︑一定の範囲でのみ制限している︒まずクローン技術とは何か︒. は︑人間と動物のハイブリッドなのだから︑人聞にとっては異質な. ある︒テクノロジーは往々にして︑世界の人間化︑つまり対象を人. 動物および人問のクローンには︑﹁受精卵クローン﹂と﹁体細胞ク. 三五. 間的なものへと取り込み同質化させることであると考えられている︒ 異質性を歓待するテクノロジーは可能か.

(2) ショックを与えて融合させる︒そしてこれをメス・ヒツジの子宮に. 出し︑核を取り除いておいた未受精卵と︑この体細胞とを電気. を採取する︒そしてヒツジ︵別でも同じでもかまわない︶から取り. が体細胞クローンのつくり方である︒まず成長したヒツジの体細胞. ローン﹂がある︒ドリーはこの体細胞クローンから生まれた︒以下. るのであれば︑ここで問題にしなければならないのは︑他者を排除. い︒それにもかかわらず︑自分と同じ︵遺伝子をもつ︶子孫を欲す. 生命体を生み出すクローンについては大きく取り上げることはしな. はない︑と言われている︒したがって︑小論ではこの同じ遺伝子の. ず︑育った環境や時代も違えば︑必ずしも同一の人間になるわけで. ローン人問が誕生したとしても︑遺伝子レベルで同一であるにすぎ. 一一一六. 入れる︒こうして体細胞クローンが誕生するのである︒通常の交配. する同一性に執着する欲望であろう︒. クローン動物作出の目的は︑したがって︑キマイラの作出である︒. では父と母の遣伝情報が混ざった子が生まれるが︑ドリーは︑体細. 胞を採取したメスの親ヒツジと同一の遺伝情報をもち︑父親なしに. ローン.ヒツジ﹁ポリー﹂についてである︒ポリーには﹁ヒトの遺. 題にしたいのはむしろ︑ドリーに引き続いて︑つくりだされたク. また﹁異種間移植﹂の場合も︑やはり動物にヒトの遺伝子を組み込. とを目論んでいる︒ポリーはまさにこのプロトタイプだったわけだ︒. 植﹂のためである︒﹁動物製薬工場﹂とは︑動物にヒトの遺伝子を組 ^6︶ み込んで︑その動物の﹁乳から人問に有用な医薬品を出させる﹂こ. キマイラ作出が重要視されるのは︑﹁動物製薬工場﹂と﹁異種問移. 伝子﹂が組み込まれている︒つまり︑ポリーは︑たとえ一部にすぎ. んで︑そしてその動物に人聞への移植用臓器をつくらせようとする. 誕生した︒これだけでも︑生殖の自然秩序を破壊するに充分な出来 ^2︶ 事である︒だが︑この意義についてはここでは論じない︒ここで問. なくても︑ヒトとヒツジのキマイラなのだ︒なぜクローン技術を. 企てである︒とくに後者の﹁異種間移植﹂はまだ技術的なハードル. ^3︺. 使って︑このようなキマイラを生み出すだろうか︒クローン技術の. が高いと言われているが︑しかしいずれにせよ︑キマイラ動物︵あ. 一4一. 目的は何なのだろうか︒﹁クローン動物を研究する目的は︑実は︑遺. 立っていることは︑つまり彼らが﹁来たらん﹂としていることは否 定できない事実と言えよう︒. るいは法的規制があるとはいえ︑キマイラ人聞︶がすでに戸口に. ︵7︶. 伝情報がまったく同じクローン動物をつくることというよりも︑何 ^5︶ らかの方法と目的で遺伝子を改変した動物を量産することである﹂︒ マスコミなどで騒がれたように︑同じ遺伝子をもつ子孫をつくる技. よ︑このようなクローン技術の確立を受けて︑日本の﹁クローン規. 同じ遺伝子の生命体を生み出すにせよ︑キマイラを生み出すにせ. 優れた科学者を誕生させたり︑ヒトラーのような人物を再来させる. 制法﹂も成立したわけである︒以下でその内容を概観し︑問題点を. 術としてのクローンをヒトに応用して︑アインシュタインのような. といったことが目的なのではない︒そもそも︑同じ遺伝子をもつク..

(3) に移植すること︑つまり子宮に移植して実際の個体を生み出すこと. ローン個体などの︑大雑把に言えばヒトが基礎をなす﹁胚﹂を母体. 浮き彫りにしよう︒この法律が﹁禁止行為﹂としているのは︑人ク. しいと考えられているが︑もし成功すれば︑動物を移植臓器の生き ^9︺ た︽培養室︾として使えるので︑実用的な価値は大きい﹂︒. 狙った臓器だけをヒト由来のものとする技術を開発するのは相当難. 部分は動物で︑一部にヒトの臓器をもったキマイラ動物が誕生する︒. だけである︒しかし︑これらの﹁胚﹂の作出は︑法律による﹁禁止. と言っている︒とりわけブタは︑異種問移植のさいの︑つまり動物. すでに見たように︑科学者たちはキマイラを医療に役立てるのだ︑. 臓器工場の有力侯補と目されている︒そうだとすれば︑将来的には︑. 事項﹂には当たらず︑後に定める﹁指針﹂に従うこととされている︒. さらに︑キマイラの場合には︑胚の作出も︑胚を母体に移植するこ. 小林泰三の﹃人獣細工﹄に描かれているような︑人問の皮膚の下に. ては︑a﹁ヒト動物交雑胚﹂︑b﹁ヒト性融合胚﹂︑c﹁ヒト性集合. かでない個体﹂︑﹁交雑個体﹂と表現されている︒キマイラにかんし. けを見てみよう︒ちなみにキマイラは︑﹁人と動物のいずれかが明ら. て問題にしているが︑ここでは直接﹁キマイラ﹂にかかわるものだ. クローン規正法は﹁特定胚﹂と呼ばれる九種類の新胚作成につい. なのだろうか︒その者が︑言葉は悪いが﹁ブタ野郎﹂などと言って. るのではない︒とはいえ︑ブタから臓器移植を受けた者は﹁人間﹂. 定できない︒すぐに述べるように︑わたしはキマイラに反対してい. 人閻とブタのキマイラさえ実際に出産され︑存在する可能性さえ否. いのかも知れない︒それどころか︑法的には問題があるとはいえ︑. 継ぎはぎだらけのブタの臓器をもった人物が現れても不思議ではな. ^10︶. とも法律による﹁禁止事項﹂ではなく︑﹁指針﹂に従うように定めら. 胚﹂︑d﹁動物性融合胚﹂︑e﹁動物性集合胚﹂の五種類が挙げられ. 蔑まれることもありうるであろうし︑また︑そうした誹諾中傷を免. ^8︺. れている︒. ているが︑ここでは︑cとeについて︑響堂新著﹃クローン人間﹄. C﹁ヒト性集合胚とは︑ヒトの胚に動物の胚から採取した細胞を. 想像に難くない︒なんといっても︑こうした移植治療の延長線上に. にLアイデンティティー・クライシスを来たすであろうことは. れるにしても︑1物心もつかないうちに移植された場合などとく. 注入してつくったキマイラ胚のことだ︒子宮に戻して育てれば︑体. は︑誕生はしないかもしれないにしても﹁キマイラ﹂が存在してい. の解説を参照してみよう︒. の一部は人間で︑一部に動物の臓器をもつキマイラ人間が誕生す. ︑. ︑. ︑. るのだから︒考えてみるに︑DNAの解析が明らかにしたように︑. すべての生物がDNAという共通の遺伝子をもっているのであれば︑. る﹂︒. e﹁動物性集合胚は︑動物の胚にヒトの胚から採取した細胞を注. 少なくとも理論上は︑あらゆる生物が相互に入れ替え可能なのであ. 三七. 入してつくったキマイラ胚を指す︒子宮に戻して育てれば︑体の大 異質性を歓待するテクノロジーは可能か.

(4) ろうし︑すべての生物がキマイラ化される可能性を孕んでいると言. ^12︶ 品種.人種︑︿交雑個体﹀︑別の生命体です﹂︒キマイラ誕生の可能性. においてあれほど語られた外部の他者とは︑現行の人閻とは異なる. 一一一八. わねばならないだろう︒クローン技術は︑この可能性の一部を現実. に直面した人間は︑他者性を人間の他者にまで拡大して考慮しなけ. いる問題の本質なのだ︒すなわち︑人問とその他者︒. ればならなくなつたのである︒これが︑クローン技術が突きつけて. 化するものにほかならない︒. しばしば指摘されるように︑﹁クローン規制法﹂の目論見はあいま. いである︒この法律は︑人クローンやキマイラが人間や社会に悪影. いるのか︑この点が現時点ではあいまいなのである︒おそらく後者. あるいは人間のための医療に役立つという理由で推進しようとして. え込むことによって︑人間はもはや安閑と﹁人問﹂でありつづける. 人間が抱え込む異質性であり︑他者性である︒こうした他者性を抱. ン技術であり︑言うまでもなく﹁人間﹂の技術である︒キマイラは︑. ところで︑﹁キマイラ﹂を生み出す︵可能性がある︶のは︑クロー. の医療目的が真意なのであろうが︑しかしいずれの場合であれ︑こ. ことはできず︑次第に変質していかざるをえなくなる︒しかも︑身. 響を及ぼすからという理由でそれらを規制しようとしているのか︑. の法律が﹁人の尊厳の保持︑人の生命及び身体の安全の確保並びに. 体からして︵今のところ︑脳は別にしても︶︑文字通り人問とは違っ. ^u︺. 社会秩序の維持﹂を︑つまり人問を判断の根本基準に据えているこ. たものになっていくのだ︒こうして︑人間は自分のもつ技術によっ. ︑. ︑. ︑. 死を招き入れるわけである︒キマイラが提起する問題は︑このよう. ^13︺. をもたらしもするのである︒技術は︑原理上︑生を欲望しながら︑. を豊かにするという側面をもつとともに︑究極的には人問に﹁死﹂. するが︑同時に﹁人間﹂を終わらせもするのだ︒技術は︑人間の生. て︑自分を変質させてしまう︒技術は︑人問を﹁豊かに﹂しようと. とに変わりはない︒なぜなら︑悪影響阻止の場合も︑医療目的の場 合も︑その中心は人間であり︑すべては人間のためだからである︒. しかしながら︑﹁キマイラ﹂という事態に直面しながら︑はたして. ︑. ﹁人の尊厳﹂という近代の﹁人聞中心主義﹂に由来する言葉を︑今な. ︑. お平穏無事に使い続けることなどできるのだろうか︒人問の生命︑ ︑. に︑技術一般が提起する問題圏にまで及ぶ︒以下では︑キマイラ問. ︑. 分なのであろうか︒ポストモダンと言われる思想運動がいわば理論. 題に発想を得ながら︑技術一般について考察する︒技術は︑人間が. 人聞の身体の安全︑人間の社会の秩序維持だけを考慮するだけで充. 的な形で論じてきた﹁人問の死﹂︑﹁人問の終末﹂︑そして﹁他者性﹂. われる︒しかし︑キマイラの例が示すように︑技術は他者を︑つま. 対象を意のままに加工し自己の所有物に変えていく手段であると言. いると言っても過言ではない︒﹃生殖の哲学﹄で小泉義之は言ってい. り人間の意のままにはならない異質なものを生み出す可能健をも秘. といった問題圏が︑ここではいわば事実問題として突きつけられて. る︒﹁他者とは人間の他者です︒外部とは人間の外部です︒二〇世紀.

(5) めているのである︒. 技術論としての﹃グラマトロジーについて﹄. 技術の問題を考えるにあたって︑ジャック・デリダの﹃グラマト ^14︶. ロジーにっいて﹄のエクリチュール論をよりどころにする︒今では エクリチュール. あまりにも当たり前のものとなっているが︑文 字も技術だからで ^15︺. ある︒文字を知ったときのギリシャ人たちの大いなる困惑は︑プラ トンの﹃パイドロス﹄を読んだだけでも想像に難くない︒この状況 は︑バイオテクノロジーを目前にした現代も同様である︒デリダの 言う﹁エクリチュール﹂は︑ごく普通の意味の﹁文字﹂でもあるが︑. それにとどまるものではない︒長くなるが︑デリダを引用しよう︒. ﹁⁝⁝パロール︹音声言語︺は自己への充溢的現前を夢想し︑自己. 自身の引き受け直しとして体験される︒これは︑自称言語︑いわゆ る生きたパロールの自己産出である︒こうしたパロールは︑ソクラ テスによれば自己白身に立ち会うことができ︑自己自身において自. 己自身の父だと信じているロゴスであり︑かくしてパロールは︑書 かれた言説の上位へと高められる︒この書かれな言説は︑尋ねられ ても答えることのできぬ未熟で︑不具なものであり︑︿つねにその父. ︑. ︑. ︑. の立会いを必要としている﹀︵﹃パイドロス﹄ミ竃︶︒それゆえ︑パ ︑. ロールは︑一つの断絶︑最初の国外追放から誕生せざるをえない︒ 異質性を歓待するテクノロジーは可能か. ︑. ︑. ︑. ⁝:自称言語︑つまり自分がまったく生き生きしていると思い込ん. ︑. ︑. でいるパロールは︑暴力的であって︑他者を︑まずは自己の他者を. 追放し︑それをエクリチュール︹文筈言語︺という名のもとに外部. に追いやり貯かかことによってはじめて︑︿自己を守ること﹀ができ. るのである︒⁝⁝いわゆる生きたパロールがそれ自身のエクリ. チュールにおいて空問化に適合しうるということ︑このことこそが︑ ^帖︶ このパロールをそれ自身の死と根源的に関連させるのだ﹂︒. ^17︶. これは︑後に﹃プラトンのパルマケイアー﹄でもっと詳細に取り. 上げ直される主題であり︑すでに的確な解説が施されているテーマ. であるが︑今一度︑簡単に要点を押さえておきたい︒周知のように︑. ソクラテス︵プラトン一は︑イデア界/感性界︑存在/生成︑真理. /仮象等といった対立項に世界を二分し︑記号一/一の上の項を下. の項に対して優位にあるものとして位置づける︒パロールとエクリ. チュールの関係も︑これと同じ図式で説明される︒多少ラフに説明. すれば︑パロール︑すなわち話された言葉︑音声言語は︑その話し. 手がいつでもそばにいるので︑その真意が誤解されたり︑曲解され. たりする可能性が生じたとしても︑その話し手が︑すぐさま訂正を. おこなうことによって︑そのような曲解や誤解から﹁自己を守る﹂. ことができる︒パロールは誤解や曲解を白分白身で退け︑こうして. 自己自身でありつづけ︑﹁自己自身に立ち会うことができる﹂のであ. る︒このようにして︑パロールはオリジナルの﹁生き生きとした﹂. 一一一九.

(6) 意味を保持しうる︒これに対して︑エクリチュール︑つまり文字︑ ^18︶. 書き言葉は︑オリジナルから離れて︑一人歩きをしてしまう︒一人. 歩きをすることでエクリチュールは︑言ってみれば独立独歩で意味 を保っているかのように振舞う︒しかしエクリチュールは︑様々な 解釈︑誤解︑曲解などに晒され︑﹁尋ねられても﹂自分では何一つ正. しく﹁答えること﹂ができず︑結局はそれを書いた者︑つまり﹁そ の父の立会いを必要﹂とし︑父に守ってもらわねばならない︒絶え. ず誤解や曲解を招くエクリチュールが被る意味の変質は止まるとこ ろを知らない︒エクリチュールは究極的には︑意味の失速︑意味の ﹁死﹂を招来するのだ︒エクリチュールがこのような﹁死﹂の危険を. 孕んでいるため︑みずからを﹁生き生きとした﹂ものであるとみな すパロールは︑自己を守るために︑エクリチュールを外部へ追放し︑. 距める︒ここから︑右記のような︑パロール/エクリチュールと いった﹁階層秩序的二項対立﹂図式が生じるのだ︒しかしながら︑. どのようにしてもパロールは︑エクリチュールによる意味の変質を. 免れることはできない︒パロiルは形相に︑エクリチュールは質料 に相当するが︑パロールがどれほど質料から離れた純粋な形相であ ろう試みても︑パロール自身が音声言語であるかぎり︑必ずなんら. かの質量的な要素を伴って表現されざるをえない︒この意味でパ ロールは必然的にエクリチュール的要素を内包しているといわざる. をえないのだ︒パロールはこうしてエクリチュール化を内在させて いるのであり︑エクリチュールという︵意味の︶死の要素によって. 四〇. 汚染されざるをえないのである︒﹁いわゆる生きたパロールがそれ. 自身のエクリチュールにおいて空間化に適合しうるということ︑こ. のことこそが︑このパロールをそれ自身の死と根源的に関連させる のだ﹂︒. このような意味で︑パロールにはエクリチュールがとり掻いてい. る︒パロールはエクリチュールから離れ純粋なパロールであろうと. するまさにそのときに︑エクリチュール化され︑自己とは異なるも. のに︑﹁自已の他者﹂に変質していくのである︒以上から確認できる. ことは︑①エクリチュールを離れた純粋なパロールはありえないこ. と︒つまり︑そうした純粋性はありえず︑パロールはつねにエクリ. チュールによって侵食され︑混ざり合い︑浸透されていること︒②. このように︑パロールがエクリチュールによる侵食から﹁自己を守. る﹂ことができないということは︑エクリチュールは︑パロールに. は統御し尽くせない異質性であるということである︒つまりエクリ. チュールとは︑パロiルには領有化・自己所有化しえない異質性・. 他者性を意味しているのである︒もっと言えば︑エクリチュールは. 異質性.他者性を招来し︑それらに対してオープンな構造をもって いるのだ︒. エクリチュールも技術であることを勘案して︑これら二点をテク. ノロジーの文脈に翻訳してみよう︒σプラトンは︑パロールを生き. 生きとした言葉であると定義していたのだから︑パロールは﹁生き. 生きとした生﹂あるいは﹁純粋な生﹂といった表現に置き換えるこ.

(7) に述べるように︑すべてをテクノロジーに還元する﹁テクノロジー. よって侵食され浸透されていることになる︒︵とはいえ︑これはすぐ. 代哲学で呼ばれてきた﹁純粋な﹂主観性の領域もテクノロジーに. 活世界もない︒したがって︑人問の﹁主体性﹂とか﹁自主性﹂と近. しには成り立たないし︑テクノロジーから切り離し可能な純粋な生. すぎないことを意味する︒人問の生活は当然ながらテクノロジーな. を離れた純粋な生あるいはナチュラリズムといったものは夢物語に. ロールはありえない﹂ということは︑エクリチュール︑つまり技術. とができるだろう︒そうすると︑﹁エクリチュールを離れた純粋なパ. がむしろ︑人問の主体性を凌駕し︑同じものの反復ではなく異質性 ^20︶ を産出する装置となる逆転現象が生じているかのような観さえある︒. テクノロジー﹂といった表現に見られるように︑テクノロジーの方. 御するという古典的図式が︑単純には成り立たなくなり︑﹁暴走する. が︑テクノロジーという反復装置︑﹁自動装置︵彗8昌註9︶﹂を制. ひとつである︒ここでは︑人問という﹁自主的主体︵弩けO昌昌<︶﹂ ^19︶. ではキマイラがテクノロジーの制御不可能性を形作っている現象の. を生み出してきた︑というのが正確であろう︒いずれにせよ︑現代. とともに異質性を人間の制御下に組み込み︑さらにまた別の異質性. れていることを考慮するならば︑テクノロジーは異質性を生み出す. このテクノロジーは︑人間とその他者のハイブリッドを︑つまり端. い︒少なくともそうした装置にとどまるものではない︒なぜなら︑. クノロジーはもはや同じものを反復する装置とみなすことはできな. しかし︑バイオテクノロジーによって﹁キマイラ﹂をつくり出すテ. れらの装置は︑人問の意のままになる道具であると思われている︒. などは︑反復と再生のための装置としての色合いが強い︒さらにこ. セットニァープ・レコーダ︑CD︑写真︑カメラ︑ビデオ︑DVD. 機械的な反復のイメージで見られてきた︒たとえば︑レコード︑カ. である︒伝統的にテクノロジーは︑同じものを繰り返すにすぎない. σ先に述べたように︑﹁キマイラ﹂は︑人問とその他者の﹁混交﹂. のように︑テクノロジiは領有化であるにとどまらず︑さらに︑領. があり︑人問はこれを危険と感じているということなのである︒こ. ここには︑人問が自分の制御下に置き尽くすことのできない他者性. をもたらすのは︑ほかでもなく人問に対してである︒ということは︑. ジーを暴走させよ︑と言っているのではない︒この暴走が﹁危機﹂. われているものの姿なのである︒とはいえ︑もちろん︑テクノロ. 要素もあるのだ︒そしてこの異質性が﹁テクノロジーの暴走﹂とい. テクノロジーには︑人間が領有化しえない異質性を生み出すという. あるにとどまらない︒この側面があることは確かである︒しかし︑. 有用なもの︑つまり人間の所有欲・征服欲を満たす領有化の手段で. したがって︑テクノロジーは︑よく言われるように︑人問に有益で. 至上主義﹂といった意味合いで述べているのではない︶︒. 的に言えば︑異質性を生み出すからである︒あるいは︑当時は驚樗. 有化し尽せない︑つまり制御不能な異質性を生み出しもするのだ︒. 四一. を引き起こした文字が︑いまでは人間の制御下にある技術とみなさ 異質性を歓待するテクノロジーは可能か.

(8) 1 ︵したがつて︑①で述べた︑人間の主体性や自主性がテクノロジー. によつて侵食・浸透されているという事態は︑すべてをテクノロ. メディアトウテ︵四︶. 四二. ^22︶. ﹁直接︹1−無媒体H即時︺性﹂︵以下﹁直接性﹂とする︶であり︑﹁全. て動物はちょうど水の中に水があるように存在している﹂︒動物た. あって︑彼らには︑後の人問たちが身につけていくような自己と物︑. ちはお互いに﹁食べる/食べられる﹂という連鎖のなかにいるので. ようとするテクノロジー至上主義を意味しているのではない︒それ. 主体と対象︑主観と客観といったような区別だてはない︒人問も当. ジーのうちに飲み込み︑テクノロジーによって人間の支配を樹立し. が意味しているのは︑人問がテクノロジーを通じてすべてを支配下. 性を拒み︑そこから抜け出すにしたがって︑人問はみずからの動物. 初はこのような直接性のなかにいるのであった︒しかし人問が動物. を通じて生み出され︑人問はこうした異質性を自己のうちに抱え込. 性をも嫌悪するようになる︒動物性はこうして﹁禁止﹂される︒し. に置こうとするやいなや︑制御し尽くせない異質性がテクノロジー. み孕み込まざるをえなくなる︑ということである︶︒. かし禁止されたものは︑かえって魅惑し惹きつける︒それは禁止に. 対する﹁侵犯﹂を誘発するのである︒動物性はいまや禁止の対象で. キマイラという存在には︑どのような嫌悪感と︑どのような誘惑が. 問性﹂を捨ててまで生きつづけようとする欲望とは何なのだろうか︒. 医療のためというが︑動物から臓器を移植され︑言ってみれば﹁人. てなぜ動物に接近し動物との融合まで企てようとするのだろうか︒. を確立してきた︑と言えるだろう︒それにもかかわらず︑ここへ来. あるいは伝統的に人間は︑動物から自分を引き離すことで﹁人問性﹂. することであるが︑このことの意義について考えてみたい︒一般に︑. ここで少し視点を変えてみよう︒キマイラは︑人間が動物へ接近. なる﹀動物性﹂であり︑神的な動物性である︒︿聖なる﹀動物は︑バ. べき領域であるとともに︑光輝に満ちた魅惑でもある︒それは﹁︿聖. 的な領域をそこに据えるこの俗なる世界にとっては︑眩量を生じさ ^鵬︶ せるほど危険なものとして現れるのである﹂︒動物性は︑暗い嫌悪す. るものは︑この明断かつ俗の世界にとって︑つまり人間がその特権. もっていることは疑問の余地がない︒しかしそれと同時にその聖な. 義的である︒聖なるものが魅惑すること︑ある比類のない価値を. 種の無力な怖れを味わうのである︒この怖れ11嫌悪﹇ぎ胃①胃﹈は両. るもの﹂と呼んでいる︒﹁人問は聖なるものという感情の中で︑ある. 動物性ならびに道具について. 働いているのだろうか︒周知のように︑﹃宗教の理論﹄でバタイユは︑. タィユが指摘している﹁トーテムズム﹂の神性たちにとどまらず︑. あるとともに︑魅惑の対象となる︒この動物性をバタイユは﹁聖な. 太古に人間が動物佳から身を解き放った時期について︑以下のよう. たとえばギリシャ神話に登場する様々な︑神と動物のあいの子たち. ︵24︶. に述べている︒ここで必要な範囲でまとめてみよう︒動物性とは.

(9) を想起させる︒二ーチェは︑﹁聖者であるよりは︑サテユロスであり. いやられるのである︒こうして人問は︑人間ではないものを︑異質. くして﹁人の尊厳﹂を剥奪されて︑まさに動物的な生の近くへと追. は︑自分がかつて忌み嫌い捨て去ったはずの動物性を抱え込む︒か. ^25 ︶. たい﹂と言っていた︒サテユロスとはもちろん︑ギリシャ神話に出. だから︑それは﹁テクノロジーの暴走﹂の場合と. 四三. 断されるということである︒したがって︑﹁下等﹂であることは侮蔑. ﹁人の尊厳﹂の絶対化が︑つまり人間以外の他者の排除が妨げられ中. に抱かせるのである︒﹁下等﹂な動物性を人間が抱くということは︑. に揺さぶりをかけ︑﹁下等﹂であると思われている﹁動物性﹂を人間. る動物という異質性である︒キマイラニアクノロジーは﹁人の尊厳﹂. からである︒しかも︑この異質性は﹁下等﹂であると考えられてい. 同じように︑人間にとって危険であると感じられるのだ1ものだ. 異質性に晒す. この眩目軍こそ︑人間を︑人間の制御下に置き尽くすことのできない. ちへ引き込むのである︒この眩葦から逃れようとしてはならない︒. 現代のキマイラニアクノロジーも︑わたしを︑あの危険な眩量のう. を見失い眩葦を覚える︒太古の﹁︿聖なる﹀動物性﹂と同じように︑. しは自分が人間であるのか動物であるのか判然としなくなり︑自分. 揺れ動くこのような欲望の奔流に流されていくことによって︑わた. 間と動物との二極間で揺れ動かざるをえない︒二極問を止めどなく. だから︑この異質性はわたしにとり掻いてやまない︒わたしは︑人. る︒しかし︑わたしの生命は動物性を抱え込まねば成り立たないの. ﹁人問﹂として生きつづけたいと願い︑この異質性を排除しようとす. 性・他者性をみずからのうちに内包することになるのだ︒わたしは. てくる﹁精霊﹂であり︑キマイラである︒キマイラとしての﹁︿聖な る﹀動物﹂︒このキマイラに人問は︑嫌悪と魅惑とを同時に感じてい るのだ︒. このようなキマイラは︑現代のキマイラニァクノロジーとどのよ うに関係しているのであろうか︒現代のキマイラ・テクノロジーは︑. なによりもまず医療を目的とするといわれている︒つまり人問の ﹁有用性﹂のためであるというのだ︒それはたしかにそうであろう︒. しかしたとえそうであっても︑やはり動物臓器工場によってつくら れた臓器を移植されることには︑気持ちの上でのなんらかの抵抗が. まったくないといえば︑やはり偽りになるのではないだろうか︒た とえ部分的にせよ︑自分がキマイラになった気分がするのではない. だろうか︒しかしそれにもかかわらず︑患者は生きる欲望を充足さ せたいと考えるであろう︒そしてこれは当然のことである︒またと. くに︑動物から移植された臓器によって人問の通常の臓器よりも強 力な臓器が得られるとするならば︑キマイラ化への欲望は高められ るに違いない︒それでもやはり受け取る臓器はなんらかの形では動 物からのものであり︑自分がキマイラになることは︑言いかえれば ある仕方では﹁人問﹂ではなくなり﹁人問性﹂を﹁供犠﹂に供し﹁死﹂. に晒すことは避けられない︒人問として生を享受しようとすれば︑. 人間でなくならざるをえないのだ︒動物からの移植によって︑人問 異質性を歓待するテクノロジーは可能か.

(10) を意味しているのではない︒異質な他者は︑往々にして﹁下等﹂で あるとみなされるが︑そうであれば﹁下等﹂な他者を受け入れるこ ^26︶. とこそ︑他者を真撃に受け止める挙措にほかならない︒ さて︑バタイユによれば︑﹁動物性﹂の世界から人問を引き離すの ^η︺. は﹁道具﹂である︒道具を使うことによって人問は︑自分と物︑主 体と対象を区別し始める︒人問が道具を使うことによって︑﹁自然は. 人間の所有物となるが︑それによって自然は人聞にとって内在的 ︹つまり直接性・筆者注︺であることを止めるのである︒人問にとっ. てそれが閉ざされているという条件において︑自然は人問のものな ^28︶. のである﹂︒道具を使い始めた人間には︑直接性の世界は閉ざされて. しまった︒道具は人間に役に立つものをつくりだし︑人間の﹁有用 性﹂に奉仕する︒こうして人問は原理的に有用性の観点から対象を︑ ︵四︶ そして人問自身をも眺める姿勢を身につけることになる︒以上がバ タイユの道具論である︒. 人間がかかわりをもつ﹁自然﹂は﹁直接性﹂の世界ではなく︑道 具を使う人問の所有物であり︑有用性の観点から眺められた対象で. ある︒人聞は直接性の世界から閉め出されてしまった︒しかし︑人 問にとって﹁︿聖なる﹀動物性﹂が魅惑し︑ある比類のない価値を もつている﹂かぎり︑人問は︑︿聖なるV動物性の世界に︑つまり直. 接性の世界に惹きつけられ︑そして決して到達することはないとは いえ︑そうした世界へと至ろうとしてやまない︒ここでは詳述しな ︑ミ︑ 0︶ レ カ 有用性として見られた﹁自然﹂あるいは︵対象︶物を﹁一 供3犠 ﹂. 四四. を通じて破壊することが︑直接性の世界へと向かう道であるとバタ. イユは考える︒だとすれば︑有用性の観点から見た﹁自然﹂の背後. には︑﹁直接性﹂の世界が見え隠れしていると言ってよい︒そうであ. るならば︑人問が道具を使って﹁自然﹂に対して働きかけるという. ことは︑ある意味では︑人問は道具という媒体を通じて直接性の世. 界と関係をもっているということにもなる︒バタイユ自身は︑おそ. らく︑﹁道具﹂に︑このような意味合いを与えてはいないと思われる︒. しかし人聞が道旦ハを使って︑自然界に︑ひいては直接性の世界に何. らかの仕方で働きかけているかぎり︑道具は︿聖なる﹀動物性への. 通路となる可能性を秘めている︑と言うことができるであろう︒そ. うだとすれば︑道具は︑有用性に奉仕する手段から︑︿聖なる﹀動物. 性へと向かう︵決して到達することはないけれども一通路へと︑そ. ■ディア. の役割を変更しうると考えられる︒道具はく聖なるV動物の世界へ. の媒体なのである︒そして︑道具がそれ以降のあらゆるテクノロ. ジーの始まりであるとすれば︑現代テクノロジーもこうした媒体で. ある︒テクノロジーは︑もともとからして︑︿聖なる﹀動物への︑要. するにキマイラヘの媒体なのである︒人間は︑道具を使うことに. よって︑︿聖なる﹀動物性へと恐れながらも接近する︒人問は︑テク. ノロジーという媒体に乗って︑あるいはテクノロジーそのものと. なって︑キマイラとなることを恐れながらも欲しているのである︒.

(11) 異質性を歓待するテクノロジー. 以上の分析に立脚して問うてみよう︒実際にキマイラ人間をつく. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. 出されたキマイラが︑﹁人問﹂の基準にそぐわないからといって抹殺. されるならば︑それは人間の他者との﹁共生﹂にはならないし︑な. によりもテクノロジーが人閻の他者に対してオープンであるべきだ︑. という要請に低触する︒このような態度の裏にあるのは︑人間中心. ともとキマイラをつくりたいと欲望しているのは︑人聞である︒キ. ているように見えようとも︑両方の人々は人間中心主義の絶対化と. 者が︑どれほど一般市民や社会による﹁人権尊重﹂の要求と対立し. 主義の絶対化である︒この点では︑そうしたキマイラをつくり出す. マイラは人問の欲望から生まれるのである︒とすれば︑ここには︑. いう点では同じことをしていることになる︒わたしは︑﹁人権﹂が尊. るべきなのだろうか︑それともつくるべきではないのだろうか︒も. 他者を生み出したいという欲望が働いているはずである︒そうであ. 重されなくてよいなどという暴力的なことを言いたいのではなく︑. ︑. ︑. ︑. けるのであった︒人間が︑技術を用いざるをえないかぎり︑あるい. したように︑エクリチュール︑つまり技術は異質性を生み出しつづ. ことを見てきた︒そしてデリダのエクリチュール論のところで分析. キマイラニアクノロジーには︑異質なものを招来する側面がある. 当であると考える︒. だすことは︑徐々に慎重におこない︑キマイラに慣れていくのが妥. 主義の絶対化への根深い傾向を考えると︑実際にキマイラをつくり. られねばならない︑と主張したいのである︒右記のような人間中心. ﹁人権尊重﹂のためにも︑人問の他者に対してなんらかの余地がつく. れば後になってこの欲望を全面的に否定することは理にかなわない︒. けれどもそれと同時に︑人間が異質なものに対して排除の論理を働 ^訓︶. かせざるをえないことも事実である︒人聞は︑異質性と自己性のあ いだのこうしたダイナミズム的な揺れ動きのなかに立たされている︒. それゆえわれわれは︑このような揺れ動きをそのものとして受け止 ^32︶. め︑自己性を維持しながらも︑異質性に対して同時に余地を開けつ. ︑. ︶﹂︑と述べている︒歓待はあ. づけていかねばならない︒デリダは﹁歓待︵巨oω亘邑ま︶敵意 ︑. ︵ぎω⁝邑︑敵意の歓待︵ざ09膏︷§§. る地点で必ず︑自己を守る姿勢へと︑つまり歓待の反対である敵意 へと転化せざるをえない︒歓待とは︑このように︑自己を守りつつ. はバタイユが示したように︑人問が道具・技術を使うことによって. 人問となるのであるかぎり︑人問は制御不能な異質性を内包せざる. も︑他者に対してオープンであろうとする挙措のことなのである︒. 事態がこうしたものであるならば︑キマイラをつくり出す技術を. をえなくなる︒キマイラニアクノロジーには︑技術あるいはテクノ. 四五. ロジー一般がもつ︑異質性へと開けたこうした構造が刻み込まれて. もつ者たちが考えるべきことは︑キマイラを歓待し︑キマイラと ﹁共生﹂する準備が整っているかどうかであろう︒興味本位につくり 異質性を歓待するテクノロジーは可能か.

(12) いる︒そして︑ここでは論じることはできないが︑近年︑研究と実 ^鴉︶. 験の進む﹁サイボーグ﹂をつくり出すテクノロジーもまた︑こうし た異質性へとオープンなテクノロジーであると言えるだろう︒なぜ なら︑サイボーグとは人問と機械の︵あるいはさらに動物との︶ハ イブリッドであるかぎり︑異質性を孕まざるをえないからである︒. キマイラ.テクノロジーとサイボーグニアクノロジーは︑他者性を. 歓待するテクノロジーなのである︒しかし︑テクノロジーはつねに 他者を排除し︑領有化・人間化を遂行するものでもある︒だからこ. そ︑キマイラに対しては︑つまり異質な他者に対しては繰り返し ﹁来たれ﹂と言わねばならない︒さもなければ︑他者は人間化の波に. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑ ︑. 革﹂を︑つまり﹁他. イノペーション. 飲み込まれてしまうであろう︒テクノロジーは﹁来たるべき﹂テク ︑. ノロジーとして恒常的に他者を歓待する﹁変. 者﹂を﹁発明﹂することをおこないつづけなければならないのであ る︒. ︵3︶. 法律の全文は︑文部科学省のサイト︵巨貫\\姜昌震冨ρ宣で見るこ. これについては︑小泉義之﹃生殖の哲学﹄︑河出書房新社︑八六−九二頁. 粥川準二﹁クローン動物﹂︑﹃生命操作辞典﹄︑緑風出版所収︑二六二頁︒. 底的に揺さぶられると論じている︒. から︑従来の性︑セクシュアリティー︑ジヱンダーといった問題設定が根. 参照︒ここで小泉は︑クローン技術による生殖がオスを不必要とすること. 一2︶. 文が掲載されている︒. とができる︒なお︑響堂新﹃クローン人問﹄︵新潮選書︶の巻末にも︑同全. ︵ユ︶. 註. 四六. なお︑組み込まれた遺伝子は﹁ヒトの血液凝固因子の第九因子をつくるも の﹂︒. 動物と人間の混交一般を表すのに︑﹁キマイラ﹂を用いた︒生命科学用語. ︵6︶. ︵5︶. 粥川準二﹃クローン人問﹄︑前掲書︑五六頁︒なお︑このように病気の治. 粥川準二﹁クローン動物﹂︑前掲書所収︑二六一頁︒. 粥川準二﹃クローン人聞﹄︑光文社新書︑五二頁︒. の﹁キメラ﹂は混同を避けるために用いなかった︒. ︵4︶. 一7︶. 療目的でクローン技術を用いることを﹁治療用クローニング︵撃實8①呈o. ⊆O昌轟︶﹂と呼び︑これに対して︑クローン人問をつくることを﹁生殖ク. ﹁禁止行為﹂に違反した場合は︑﹁十年以下の懲役若しくは千万円以下の. ローニング︵亮肩O旨O葦①〇一〇邑長︶﹂と呼ぶ︒響堂新︑前掲書︑一〇五頁 参照︒. ^8︶. 罰金に処し︑又はこれを併科する﹂なっており︑これに対して﹁指針﹂に. 違反した場合には︑﹁一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する﹂と. なっている︒︵﹁ヒトに関するクローン技術等の規則に関する法律﹂第ニハ. 以上︑響堂︑前掲書︑一四六頁︒なお︑﹁二〇〇一年十二月に出された文. 条および第一七条︶︒. ^9︶. 部科学省の指針では︑当面︑動物性集合胚の作製だけを認めることになつ. ﹁ヒトに関するクローン技術等の規則に関する法律﹂第一条︒この点につ. 小林泰三﹃人獣細工﹄︑角川ホラー文庫︒. た﹂︵上掲の文部科学省サイト︑ならびに響堂︑前掲書︑一四七頁︶︒ ︵10︶. ︵u︶. 小泉︑前掲書︑二=一頁以下︒本拙稿は︑この︑小泉義之﹃生殖の哲学﹄︑. いてはさらに︑小泉︑前掲書︑九四頁参照︒ ︵12一. つまりキマイラ問題から少なからぬ示唆を受けた︒なお︑筆者は﹁他者と. なかでも第二章﹁生殖技術を万人のものに−︿交雑個体﹀を歓待する﹂︑. 二五四−二六五頁において︑﹁自然﹂を﹁他者性﹂という観点から考察する. しての神︑他者としての自然﹂︵﹃現代思想﹄五月臨時増刊号一九九九年︑. ことを試みた︒.

(13) ︵13︶. テクノロジー社会における生と死については︑拙稿..=︷巴ωU塞︸一. U竃芽一ω二︷何.;o窒ζω①;.閉b;ぎ§§唱彗︷︑§眈まΦ肉竃︑二自§︸&9. き§§gg套ぎ§吻§§葦く0FN戸88.でアプローチを試みた︒. ある︑と言つている︒︵プラトン﹃パイドロス﹄︑藤沢令夫訳︑岩波書店︑. ︵14︶ プラトン自身がエジプトの神話を引き合いに出して︑文字は﹁技術﹂で. ミδ以下︑二三二頁以下参照︶︒なお︑プラトンにとってはエクリチュー ルだけでなく︑パロールも技術︵⁝﹁ディアレクティケーの技術﹂︶である︒. 両者の区別も︑イデア界/感性界︑パロール/エクリチュール等の区別に 対応している︒. ︵15︶プラトン︑同前︑ミδ以下︑二≡二頁以下参照︒ ^16︶宙8亮ωU雲ま団もΦ§O﹃9§§s§o9$畠.宗≦o巨ぎH8メP蟹.睾. ジャック・デリダ﹃グラマトロジーについて﹄︵上︶︑足立和浩訳︑現代思. 高橋哲哉﹃デリダ﹄︑講談社︑とくに第二章﹁形而上学とは何か﹂︵四九. 潮社︑八三頁︒ ^17︶. ソクラテスは言っている︒書き言葉は﹁転々とめぐり歩く﹂︑と︒︵プラ. −一一四頁︶を参照︒ ︵18︶. トン︑前掲書ミ竃︑二二六頁︶︒ ︵㎎︶ ﹄①目目罵①﹃Ωo目N堅0N一向目色色o邑目旧O竺︺oH胴︸o2①ω一H目Q嘆げ恥§§旨富︑Φ眈射Φ99軸さ. ①匝﹄−望一十︸奈冒①鼻雰星o島9Noooら.蟹N.θ冒畠竪﹃姜§ミ︷−. §§Φ§ざ§﹄昌匡a潟L㊤o.9p5pからの再引用︶参照︒ このような倒錯的な逆転現象が生じるから︑ソクラテス^プラトン︶は︑. ま学芸文庫︑二一頁︒さらに湯浅博雄﹃バタイユ﹄講談社︑とくに第一章. ︸9邑一P申S早P8Φ.バタイユ︑同前︑二三頁︒動物性の世界について. ﹁動物性と人問性﹂︑第三章﹁聖なるもの︑宗教性︑エロティシズム﹂を参. 照した︒. のバタイユのこうした記述は︑人問には知りえないはずの﹁直接性﹂を︑. ︵22︶. 記述しているのは︑直接性︑つまり無−媒介なものは︑分節n媒介を本質. あたかも知ってるかのように語ることを目的としているのではない︒彼が. 湯浅︑前掲書︑一九四頁︒. 巾讐顯⁝P§︷3o.ωS.バタイユ︑同前︑四六頁︒. とする人間の言語には語り尽くせないという状況である︒. ︵24︶. ω肚日暮−oす①ミ①H斤9団匝.9巨岬く1Ω.Oo=μ戸く・くo自巨.. ︵23︶. 向ま①匹ユoチ乞−①一Nωoす①. ﹁人問的なもの﹂と﹁非人問的なもの﹂を﹁アウシュヴィッツ﹂との関連. 量Hボ霧﹃;H竃9ω︑轟2二ーチェ﹃この人を見よ﹄川原栄峰訳︑講談社︑. ︵妬︶. 一〇頁︒. ︵26︶. 残りもの﹄︵上村忠男他訳︑月曜社︶の︑とくに第四章︑ならびに西谷修. で論じたものとしては︑ジョルジョ・アガンベン﹃アウシユヴェイッツの. 巾印邑=Poφ婁■も・轟べ序バタイユ︑前掲書︑三四頁以下︒. ﹃不死のワンダーランド﹄︵講談社学術文庫︶の第六章を参照︒ ︵27︶. たとえば臓器移植において︑人間の臓器が闇市場においてにすぎないと. 望叶団昌9き甫3o■ωo9バタイユ︒前掲書︑五三頁︒. ︵29︶. ︵28︶. はいえ︑売買の対象となるのはここに淵源がある︒. ︵30︶霊邑一亘§§.ら.ωoドバタイユ︑前掲書︑五五頁参照︒. ︵20︶. 文字という技術に対して非常に慎重に対処したのであり︑技術の暴走を制. ︵3ユ︶. 四七. むことにほかならない︒冒頭でも指摘したように︑これはもちろん︑自己. こと︑つまり異質な遺伝子は排除しもっぱら自分の遺伝子のみの存続を望. 合以外一響堂新︑前掲書︑九一頁以下参照︶は︑﹁単性生殖﹂を絶対化する. うる︒クローン人問をもちたいと思うことは︑﹁通常の﹂妊娠が不可能な場. クノロジーと同じものである︒したがって︑前者は後者へと容易に転換し. キマイラ人問を生み出すテクノロジーは︑クローン人聞をつくりだすテ. 御しようとしたわけである︒したがって正確に言えば︑この逆転現象は現 代テクノロジーに特有のものであるというよりは︑技術自身にはじめから. 内在する現象であって︑それが現代ではキマイラをはじめとする現象にお いて如実に現われていると一言うべきであろう︒. 昌讐oL竃Φら8H.ジョルジュ・バタイユ﹃宗教の理論﹄湯浅博雄訳︑ちく. ︵21︶ Ooo﹃旧o︸津邑=9↓すΦoユ①o①5冨旨①qμoPヲS§e﹃①防oo§も竈9⑮申くHH一Ω邑=.. 異質性を歓待するテクノロジーは可能か.

(14) た︑クローン人間をつくろうとする欲望が︑﹁優秀な﹂人間のみを作り出す. 愛の肥大化.絶対化に︑他者・異質性の排除に直結しうる行為である︒ま. ラ.テクノロジーは︑こうした同じものの再生産的なクローンニアクノロ. という﹁優生学﹂の再来を惹起しかねないことも論をまたない︒キマイ. ジーへと︑つまり異質性排除の﹁バイオ・ファシズム﹂へと容易に変化し. テクノロジーであることを考えるならば︑﹁テクノ・ファシズム﹂とでも呼. うるし︑そしてさらにこうしたバイオ・ファシズムを可能にしているのが. に反転する構造が刻み込まれているのである︒. びうるものへと容易に変化しうる︒異質性への欲望には︑同質性への執着. 富oO自窃∪①胃δ戸b⑯−︑ざo毫甘§§皿O竺冒凹昌目−ピΦξし⑩竃一P紅蜆ージヤツク・. デリダ﹃歓待について﹄廣瀬浩司訳︑産業図書︑七七頁︒﹁敵意の歓待﹂と. ︵32︶. 訳されたぎω巨q童豪は︑﹁歓待︵ぎω昌筆邑﹂と﹁敵意︵ぎω葦邑﹂か. これについてはもちろん︑ダナ・ハラウェイ﹁サイボーグ宣言﹂﹃猿と女. らなる合成語︒ ︵33︶. とサイボーグ﹂︵高橋さきの訳︑青土社所収︑二八五−三四八頁︶を参照︒. 四八.

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