論 説
後 期 イ ギ リ ス
・クーiクェイカー企業者史研究のための覚え書きil・
エ イ カ ー 派 研 究 序 説
(下の一)
山 本 通
125
目次
一はじめに1問題の限定
ニイギリス・クェイカー史の四つの時期
A初期クェイカー︹以上﹃商経論叢﹄十九巻一号︺
B静寂主義の時期
C福音主義の時期︹以上﹃商経論叢﹄十九巻二号︺
D肩由主義の時期︹以下本号︺
三イギリス・クェイカー社会史の諸問題
A人口動態と人口移動
B社会層構成︹以上本号︺
Cリーダーシヅプ
四イギリス・クェイカー史と企業者史研究ーi研究の展望
D 自 由 主 義 の 時 期
E.イシチェイによれば︑一八七〇年代にクェイヵ1派の中で自由主義神学が形成され︑それが一八九〇年代にク
ェイカー派の主流を占めるようになった背景には︑十九世紀後半における諸科学の進展という事態がある︒特に︑ダ
ハユペーウィンの進化論と歴史研究による聖書批判の進展は︑福音主義神学の土台をなす聖書主義を打ち壊してしま(た︒
クェィカーにかぎらず当時の知識人キリスト教徒は︑めざましい諸科学の進展の成果をいかにしてキリスト教信仰と
矛盾なく結びつけようか︑と苦慮したはずである︒そしてその解答は多様であり得たであろら︒
クェイカー派は最終的には一八九五年のマソチェスター会議において自由主義神学の立場を確立したのであるが︑
キリスト教史において自由主義神学の代表者と考えられているのは︑ドイツの神学者アルプレヒト・リッチュルニ
(2)八二ニー八九年)とリッチュル学派の人々であり︑リッチュル学派の特徴としては︑ふっう①神学からのドグマ的形面
上学の排除︑②宗教の経験的・実践的件格の重視︑③キリストにおける歴史的啓示の強調︑④神の国の観念の強調な
どがあげられる︒これらのうち①〜③はクェイカー派自由主義神学のきわだった特徴でもあるのだが︑イシチェイに
よれば︑クェイヵー派内部での自由主義神学の興隆に直接の影響を与えたのは︑リッチュル学派の人々の著作ではな
亀・むしろ当時のイギリ歯教会の自由主義神学者たちーE・ケ了ド(二八三五⊥九〇八年)︑T・ア支キソ
(一七八八ー一八七〇年)︑J・M・キャンベル(一八〇〇ー七二年)︑F・W・ロバ!トソソ(一八一六1五三年)等iーの
諸著作であった︒
ハるしクェイヵ1派内部で自由主義神学の立場をはじめて鮮明に打ち出した著作は︑匿名氏による﹃合理的信仰﹄(一八八
四年)であった︒﹃合理的信仰﹄の著者は︑﹁キリスト教を神学の体系としてではなく︑一つの生き方として解釈するこ
後 期 イ ギ リ ス ・ク ェ イ カ ー 派 研 究 序 説 127
とを提唱し︑ドζに代えて体験的宗教を置くことを提唱きL・そして・﹃合理的信仰﹄における神学の藷は﹁漸
進的な啓示﹂(蔑o,q踏凱く①器く画巴︒自)という一句に凝縮されていた︒すなわち神は︑その御言葉を一つの堅固な静止的
な形態で固定されるのではなくて︑人類が成長するにしたがって漸進的に真理を顕らかにされる︑というのである︒
そして聖書は︑そのような漸進的な禁の過程における;の記録にすぎないものだとされ(魏・このような聖書観は・
聖書のドグマ的な理解が行われる根拠を取り除くとともに︑キリスト教理解を健全な理性や常識と調和させ︑諸科学
の発展にともなう人類の文化的発展を信仰と矛盾しないものと考えることを可能にさせた︒だが︑聖書が信仰の絶対
的根拠たり得ないならば︑一体何が信仰の根拠たり得るのだろうか︒﹃合理的信仰﹄の著看は︑それを人間の内的な
体験に求める︒すなわち︑信仰は宗教的体験という直接的な証拠ーー人々の心の中での神の本当の顕現1ーに依拠す
るのだから︑信仰の議は永遠に確かだ︑というので豪・こうして・今やあの﹁内なる光﹂が塵クェイヵi禦
の中核にす︑兄られることになった︒ただし注意すべきなのは︑クェィカー派自由主義神学における﹁内なる光﹂の概
念と十八世紀クェイカー派静寂主義神学のそれとが根本的に異なっている︑という点である︒すなわち本章B節にお
いて述べたように︑静寂主義神学においては﹁内なる光﹂は人間的な自然の理性や良心と矛盾すると考えられたのに
反して︑クェイカ幽由主義神学においては﹁内なる光﹂はそれらと啓寒掌零い・と考えられたので難・
﹃合理的信仰﹄の福音主義批判は︑すぐにクェィカー派内部で大きな反響を呼び︑クェィカー派の雑誌↓譜(卜§,
§)物蓋馬ミおよび§偽導ミ客ミ覧§職誌上で数年にわたって︑福音主義者と自由主義者のあいだで論争が展開さ
ム れた︒だが論争は︑新しい知的情況を踏まえた自由主義者の方に分があった︒特に↓譜奪ミ罫等獣§職誌の編集者は︑
一貫して自由主義者の立場を擁護した︒そして︑﹃合理的信仰﹄出版の二年後にはE・ワーズデル著﹃神の助力の福
(10)音﹄が出版されて︑自由主義神学の立場が補強された︒
﹃神の助力の響﹄における議論は﹃合理的締﹄に関して指摘してき藷論占{をほとん茎部踏蓬ていると思わ
れ る が ︑ 前 歪 お い て 更 に 畠 嚢 神 学 の 二 つ の 猿 が 明 ら か に な る . ; 幾 . わ め て 義 的 な 人 間 観 で あ る . ワ
ーズデルは普遍救済論を唱え・人が地上で本当の義人になり得る可能性を信じた︒.あよう藥観的な人問観は︑ク
ェイカー神秘主華クェイカー響義における悲観的な人間観とは対照的である︒イシチェイによれぽ︑畠主義
クェイヵ‑たちは原罪の教義を否定する傾向にあり︑のちに︑ある自由妻クェイ空は﹁心の内なる神の攣といセ
うクェイカーの教義は︑原罪の教義と完全に矛盾する﹂とさえ述べている︒
畠主義クェイカーはこのように原罪の教義を否定するのだから︑彼等は当然︑キリストの雛をも否定する︒む
しろ・キリストの地上での生涯の目的は聖なる生涯の模範を人類に示すことに在り︑キリストの死は自己犠牲の模範
お
を人類に対して示すことにあった︑とワーズデル等は考︑沌るのである︒
﹃合理的信仰﹄および﹃神の助力の福音﹄において唱えられた︑以上のような内容を持つ自由義神学は︑エドワー
ド・グラッ(塑やトマス・ポジキソ等の若手の指導者の台頭をともないつつ︑急速に︑しかも完壁にクェイカi派の中
に浸透した・一八九葦のマソチェスタ会議の開催は︑畠嚢神学がクェイカー派の正統派(9普鼠︒鍾)になっ
たことを示す画期的董件で鶴︑この会議において︑クェィヵ旅の賦取大の指馨としてのジョソ・ウィルヘルム.
ラウソト福(天六八⊥九〇五)の精力的な活動が開始されるのである︒
一八八五年に・クェイヵ旅の国内伝道委員ムムはヲレソズ協会の原則と実践に関する・・‑無知を払拭し︑伝道事
業への若いメソバゐ加入姦化するために︑努力がはらわれるべきであるLと結論し︑﹁.航らの問題を更に議論
するための特別会議の任命﹂を同年の・ソドン年会に婁した︒年会は.あ提案を受諾し︑国内伝道委員会に特別会
議開催の篇奏請した・この決定を知って︑ラソカシアーチ︑シア季会はこの特別会議を了・チ︑スターに嚢し
後 期 イ物 ス ・クaイ か 派 研 究序 説 129
た︒特別ム筑謹U月m日から皆まで六日間にわたって開催され︑その馨録の霧はイずス奎の有力新聞に掲藝れた︒会議への参袈は千名から千三百名と吋言われる︒ー﹂れ奪ンチェスター会議の難であ(魏・マンチ︑スター会議はシンポジゥム形式蓬められた︒すなわち︑あらかじめ七つのテ←が難され・各々ρアEマξいて数名の墾口者の墾︒が行われ︑それらを踏蓬て参袈を含めた鶉が行われているのである・難された七つ?アーマとは︑①﹁初期クェイカ契ムーその精神と力﹂②フェイヵ契ムは現代世界に対してメッセ←を持っているかL③晟人学校と伝峯会の関係︑およびフレンズ協会の組織L④﹁社会問題に対するフレン
ズ 協 ム 溶 の 態 度 ﹂ 讃 現 代 思 想 に 対 す る フ レ ン ズ 協 会 の 態 度 L ⑥ 霧 資 理 の よ り 有 効 な 提 示 L ⑦ 票 礼 拝
集会の活性化Lである︒最終日には﹁世界に対する㌻ス薮のメッ亨ジ﹂と題して・Tホジキン以下四名の講師が藩を行っているが︑以上の七つのテ←の題目の設定の仕方自体がぎわめて畠主藷な色彩を持ぞいる.そしてイシチェイによれば︑.︑れらの墾暑の大部分が畠主義神学の立場に立つ人々であつ癖マンチ︑スタi会議の中でとりあげられた諸魑の中味の欝については別の機会に譲りたいと思うが・ジョウンズはマンチ︑スタ去広議の意華次のように表現しているー﹁現代の馨点が真向うから取り扱われ・︹フレンズ︺協ム駁は︑箋︑苗馴進することを決定した.それ︹フレンズ協会︺は︑科学的︑歴史的な研究の塞な結論を喜んで受
幾 蕪 髪 難 嫁 侃難 ビ鍾 継 盤 鰯 惚綾 纏
の新しい時代の幕明けを.不す画期的事件であったのである︒
;チ︑スタームぶ議においてクェイカ羨の正統派になった畠主藷学は︑その後もζイや神学の正統派で
ありつづけている︒周知のよ・つに一九三・年以後︑カるバ雫(天八六⊥九六九年)やラインボルト三iパ
去天九二⊥九圭年)の聖書的・宗教改革的神学の復興が行われ︑彼等の神学は全キリスト教会に大きな影響を
与えたのだが︑クェイヵ毒彼等の影響を受ける.三がまっをな遣た.出兀全な超越的存在としての馨の神の
理解が・クェイヵ1の﹁内なる光﹂の概念と全然相容れないからであった︒
自由義神学が・クェイ空派の正統説になったためにクェイカ呉ムに起った変化としては︑笙に︑宗教の知
的な研究が開始されたこと蒙げられる︒クェィカ塵史家たちの関心は︑みずからの宗派の歴史︑特に初期クェィ
カ吏に箋った・一九〇三年には︑フレソズ歴史協会(津幽︒乱︒︒霞︒︒§ぎ巴ω8一㊥¢)が設妾れた︒また︑ジョソ.ウ
ィルヘルム・ラウソトリ!とル←アス・ジョゥンズ(天六三⊥九四八年)によって英米のクェイヵ乏ついての
通史の執筆企画され・前者の怨九・五年)後ジ・ウンズとw・c・ブレイスウ︑イトによって執筆.刊行された︑
いわゆる﹁ラゥソトリ!シリーズ﹂の諸著解︑現在でも標準的な通史としての価値を失っていない︒
クェイカー派に起った第二の変化は︑成人馨が組織的に推進されるようになった.﹂とである︒クェイヵ‑信徒た
ちを現代の情況ξいて無知にさせないために︑一八九七年にはじめてヨークシアのスカきブで成人のための夏季
学校が開設され・宗教警と社会問題に関する警が施されたが︑この種の夏翠纏まもなくイギリスの各地で開
校されるようになった・そし三九〇三年には︑・→‑ソガム郊外に永続的な成人警のための機関として︑ウッド
お ブルック・カレッジが創立された︒
第三の変化は・クェイ空派が教団として社喬題と懇的最り組むようになった.﹂とである︒もちろん︑初期
および響義の時期におけるクェイカ兆ちの社喬題への関心はかなり強く︑クェイカ表は多くの社会運黎
を生み出してきた・しかしながら︑彼等の活動は個々人の︑あるいは有志グ牛プの活動であって︑教団が組織的に
社会問題をとり上げることは︑それまでになかったのである︒ り ⁝⁝
後 期 イ 杓 ス ・ク ェ イ カ ー 派 研 究 序 説 131
自由主義の時期においても︑教会組織に関する幾つかの変化が見られたけれども︑それらのうちの一部は・宗教思
想上の変化を明らかに反映している︒
第一に︑一九二四年に︑牧会者を教会業務集会の文書に記録するという慣行が廃止された︒それは︑自由主義神学
の影響によって︑一定の見識のある人なら誰でも牧会者たり得るという考え方が定着し︑一定期間だけ牧会の仕事を
引きうける人が増え︑牧会者の公式記録の慣行が慧味になったからで輪・実際+九世紀後半以降においては・
教会業務集会における発言は﹁神からの直接の霊感﹂を受けて行われることは要求されなくなり︑常識で充分・とさ
(25)れるようになっていた︒
.︑の変化と関連して第二に︑冗〇六年に︑牧会と讐の問題の検討が・ンドソ年会とその下部の諸教会藩集会
の手に移された︒前述したように︑静寂主義の時期︑具体的には一七二二年と一七二七年のロンドン年会の決定によ
って牧会職と長老職は制度的に確立毒︑更に・一七五四年に牧会者良老年会が設定されると・牧会者や長老たち
の集会はロンドン年会を頂点とする教会業務諸集会のハイアラーキーとは別個のハイアラーキーに所属することにな
った︒静寂主義の時期において長老の発言力が非常に強くなったのは︑そのためであった︒しかし︑福音主義の時期
の終りの頃の一八七六年には︑牧会者・長老年会を頂点とする牧会集会のハイアラーキーが廃絶されて・代わりに牧
会.監督諸集会が設立された︒一九〇六年のロンドン年会の決定は︑この牧会・監督諸集会(鍔知O・ζ更ぎαq︒︒)の組織体委廃して︑季会および月会に牧会と警の責任を負わせるものだったのであ(麗・この決定も・第一の§鼠甚
ヨ一コ一︒︒蒔Φ憎.の慣行の廃止と同じく︑指導者層の固定化を防止するという効果を持った︒
第三の変化は︑前述した﹃忠告の質問﹄の主旨の変化であ毎﹄九二八年に行われた抜本的な改}訂においては・褒呈義的な言葉遣いが廃止されるとともに︑クェイヵ薮徒の社会的責任が強調されることとなつ摯
商 経 論 叢 第20巻 第1号132
ク ェ イ カ ー 史 年 表
イ
ギ
リ ス政 治 ・ 宗 教 社 会 ・ 経 済
1660王 政 復 古
ク ラ レ ン ダ ソ 法 典 に よ る
1 非 国 教徒 に対 す る弾 圧 ジ ェ イム ズ2世 即 位 名 蛍 革 命
信 教 寛容 令
理 神 論盛 ん
脳 舗 ー ー ㎜ 翠 1 ‑ ー 購 叢 蕩
メソ デ ィ ス ト運 動 の 開 始 ヵル ヴ ァ ン主 義 メ ソ デ ィ ス トの 分 離
ス コ ッ トラ ン ド啓 蒙 主 義
国 教 会 福 音主 義 盛 ん 審 査 律 の 廃 止
オ ッ ク ス フ ォー ド運 動 の 開 始
Y.M.C.A設 立 福 音 主 義 連 盟 の 成 立
キ リス ト教 社 会 主 義 起 る
17,?南 海 泡 沫 事 件
1769ア ー ク ラ イ ト水 力 紡 績 機 1779ク ロ ン プ トソ,ミ ュ ・一 ル
紡 績 機
1783コ ー ト,パ ドル 法
1蘇 靴 の進行
18251825年 恐 慌 1833工 場 法 1834新 救 宝ミ法
1839チ ャ ー一 テ イ ス ト運 動
,・
1846穀 物 法 撤 廃 18x7ベ ッセ マ ー 転 炉 法
ヴdク ト リア 繁 栄 期
そ の 他
1865救 既 軍 の 設 立
i
1
1873大 不 況 始 ま る 1884フ ェ ピ ア ン 協 会 成 立
X899ブ ー ア 戦 争 勃 発 1906労 働 党 の 成 立
1929世 界 恐 慌
h7567年 戦 争
〜67
1776ア メ リ カ 独 立 戦 争
^'S1
1797ナ ポ レ オ ン 戦 争
r.,
1815
i848マ ル ク ス 『共 麟 宣 言 』
1859ダ ー一ウ ィ ン 『種 の 起 源 』
1914第 一 次 世 界 大 戦
^V19
1917ロ シ ア 革 命
1939第 二 次 世 界 大 戦
〜45
133後 期 イ ギ リス ・ク ェ イ カ ー 派 研 究 序 説
〔 年 表1〕 イ ギ リ ス ・
d
ヘ
ク ェ イ カ 一 史重 要 項 目
1652ク ェ イ カ ー 運 動 の 開 始 165bEristo(Venture
1660年 代 多 く の 指 導 者 死 去
神
1fi50
初
期
静寂主義の
nUAUgnUρ07夢
‑1専‑ 0571
:!1
]8:3i1
1850
1890 ユ900
1950
1時
期
福爵坐義の時期自由主義の時期
1682Pennsylvania植 民 開 始
1691GFOx死 芸
1760
1895 1903 1903
紀会る員よ委にの会め年たンのド化立ン強設置律の
マ ソ チ 轟 ス タ ー 会 議 歴 史 協 会 の 設 立 ウ ッ ドブ ル ッ ク 大 学 の 創 立
1676Barc1&y『 弁 明 』
学 教 会 組 織
1667全 国 に 月 会 ・季 会 ・婦 人 集 会 を 設 立
〜68
1676MeetingforSufferirigsv設 立 .)
1678ロ ン ド ン 年 会 の 設 立 1682最 初 のQueri㈱
1825J.J.Gurney
』1
1886E.Wcusderl
r神 の 助 力 の 禰 音 』
1722μ ン ド ン 年 会 が す べ て の
早 劉 蝋 鞭 齢
1737membershipの 規 定 1738BookofExtractsの 作 成
X752月 会 の 整 理 統 合 開 始 1754牧 会 者 ・長 老 年 会 の 設 立
1783BOQkofExtractsの 印 刷 1784婦 人 年 会 の 設 立 179GeneralAdvicesの 発 行 1?94準 備 会 の 機 能 の 明 確 化
1857年 会 の 議 窮 録 の 公 闇 1859ク 苗 イ カ ー 派 の 会 堂 に お
脇 鞭 雛 との儲 式
1860r趣d}びcesandΩueriesセ こ 変 更 が 加 え ら れ た
1861BoQkofDisciplineの 完 全 な る 改 訂
1862信 教 徳 統 計 の 作 成 1868フ レ ソ ズ 海 外 伝 道 協 会 の
設 立
1876牧 会 者 ・長 老 年 会 を 廃 止 しM&0集 会 を 設 立
・rf・ 国 内 伝 道 委 員 会 の 設 立 1896男 子 集 会 と 嬬 人 集 会 の 統
合
1906M&0集 会 を 廃 止 1924recordingministersの 慣 行
を 廃 止
1926フ レ ン ズ ・ハ ウ ス の 設 立 1940L'irthrightMembershipに
つ い て の 新 し い 制 魔 1959離 「fightMember・hipの
〔図2〕THE]R.ELATIONSHIPOFFRIENDCOMMITTEES
QUARTERLYMEETING
MONTHLY MEETING
YEARLY MEETING
「
OMESERVICE iH COMMITTEE
RIENDSSERVICE IF COUNCIL
FRIENDS t EDUCATIQN
CDUNCi1
YEARLY MEETING AGENDA
「 .M.CLERKS NOMINATIONS
MARRIAGEAND i PARENTHOOD COMMITTEE
CHRISTIAN i RELATIONSHIPS
COMMITTEE
MEETINGFOR SUFFERINGS
PREPARATIVE MEETING
DRAYT4N 1 HOUSE
FINANCEFRIENDSLIBRARY lil TRUSTSLTD.
S.C.WITTINGTRUST l
PREMISESi
l OFFICE ARRANGEMENTS
OMINATIONS iN
PARLIAMENTARY i l SWARTHMOORHALL
f
AUSTRALIAAND NEWZEALAND
WORLDCOMMITTEE i AFFAIRS BOOKCENTRE i iE
AST‑WEST RELATIONS
1NDUSTRIALAND 1 SOCIALORDER
I
PEACE
一 「 RACEPENAL l RELATIONSREFORM
議 室 ︑ 常 設 諸 委 員 会 の 事 務 室 等 が 設 置
二十世紀にはロンドソ年会︑あるいは受難対策集会に直属する多くの常設の
委員会が設立され︑一九六五年の時点
では︹図2︺のような諸委員会が存在
していた︒また一九二六年には︑ロン げるが︑それらはむしろ単に組織上の
合理化の所産と言えそうである︒
第一は︑中央行政機構の発展である︒ い︒以下にそのうちの主要なものを挙 教思想において自由主義神学が主流を
占めるようになったこととは関係がな 二十世紀のクェイカー派においては︑
以上の他にも多くの組織上の変化が起
ったが︑それらは︑クェイカー派の宗
(30)された︒
第二は︑男子教会業務諸集会と婦人教会業務諸集会の統合である・これは天九六年の年会において決定さ勉・
第三に︑生得教会資格(切算ぎσ・琴ヨ①ヨげ⑦蓉向噂)をめぐる変化がある︒二十世紀において子供たちへの教会員資格の
付与について︑何度かの改正が行われたが︑最終的には一九四〇年にロンドソ年会は次のような二者択一方式を決定
した︒すなわち︑両親が生れた子供に生得教会員資格を与えることを望む場合には︑その子供の生得教会員資格が認
可される︒他方︑子供が成人してからその子自身に教会員として留まるか否かの選択をさせたい両親の子供には︑暫
(32)定的な教会員資格(齢Φヨ竃嵩曙ヨ㊦ヨげΦ臣窪唱)を認める︑というものである︒
後 期 イ ギ リス ・クsイ カ ー 派 研 究 序 説 135
以上︑四つの時期に区分して論述してきたイギリス・クェィカ!史の概観は︑あまりにも単純・明快にすぎる概
観かも知れない︒しかしながら︑ここでは︑三五〇年に及ぶイギリス・クェィカー史の大きな流れ︑その大まかな時
期区分︑それぞれの時期におけるクェイカリズムの基本的性格の把握だけが問題なのであって︑それらの諸点につい
ての我々の理解には︑ほぼ誤りがないものと信じる︒最後に︑イギリス・クェイカー史に関する以上の論述の理解を
(33)助けるために︑︹年表1︺を付す︒
(1)羅剛鑓冨子圃訟07①㌍︿ぜ帖専︑ミ着Oミ幕恥蕊輸じ舅山8"一り刈OこウωPまた︑男ロh房属.㎞oロ窃℃8ぎb匙ミ諭隷◎魯ミO§却ミ璃ミ℃一δ巳oP一〇bこ一・'
器鳴一艮&8唱ざ≦婁陽昌Ooヨこ一〇刈P",8心︒.をも参照せよ︒
(2)リッチュル学派は︑リッチュルの主著﹃義認と和解﹄の第三巻が出版された一八七四年以来︑彼に追随する一群の神学者によって形成され︑
だいたい一九〇〇年頃までドイッにおける有力な学派として君臨し︑イギリス︑アメリカにも多大の影響を及ぼした︒だが︑自由主義神学の
担い手はリッチュル学派につきるわけではない︒自由主義神学は広い意味では︑ドグマティズムに反対して人間の主体的な活動の意義と余地
を認める神学的立場をいうのであって︑その特徴は︑聖書やキリストや儒仰の理解を︑批判精神や科学的な歴史研究や宗教的経験や信仰の実
存的把握と結びつけることに存する︒したがって広い意味での自由主義神学の先駆は︑シュライエルマッハーの神学やへ1ゲル哲学に見い出
される︒そして自由主義神学の流れは現代のブルソナーやブルトマソの神学にまで及んでいる︑と言える︒
(3)イシチェイによれば︑リッチュルの著作が英米でよく読まれるようになったのは︑一八九〇年代になってからである︒︻︒,一︒﹃Φ一.qや昏暮︑マω卿
(4)ぎ︒コニ︾§働§ミぎ螺︑幅らミ︑§毬︑ミ§§題"導§ミぎ§垂[︒§・;・︒鉾その匿名の著者は︑﹁§∩一・︒閃.喜・≦=醇旨
℃島胆註および窯晒田餌ヨ臣語乱↓霞器﹁の一二名である︒
(5)冒嵩餌§●ら︑鴨ごワ8膳輻
(6)きミニ寧8㎝・
(7)憲軸鐸bΨゆ①㎝伽
(8)む鼻旦もサ黛∬掌︒︒①・クェイカー自由主義神学におけるこのような﹁内なる光﹂の理解の仕方を︑クェイヵリズムの初期において先取り
していたのがジョージ・ビショップである︒本稿(上)﹃商経論叢﹄十九巻一号︑五七‑五八頁を参照せよ︒
(9)﹃合理的信仰踊をめぐる論争については︑甘器︒・噂oや自ご唱.①①㎝ふ刈.を見よ︒
(10)国山零鶴巳芝o﹁a①一㌍寒O&驚︑鳥︑b魯軸Ψ罷ミ︑︾ピ8匹oP一◎︒G︒9
(11)憲ミニ署噸お‑Q︒ρ一2曙O沖臨︒冨劃q︾含野噂やω軌旧ω鉾
(12)団幽≦場三C口δ署P類罵ミ艦§職(一りし︒ωア70◎︒91.9註冒霞︒﹃90︾職Nこマωφ・
(13)尊弓幽≦o鼠亀噂§︒無馬二署.Q︒O融・臼巴ぎ聾o冨計o︾ら軸蝋二つω刈・
カヘへ(14)彼はO§譜︑跨ミ魯捻軋ミ糺義讐ヒ辱魯鳶h︒︒q斜8孟oロ・一⑩ωOの著[者イザベル・グラップのいとこにあたる︒
(15)圃・︒瞬6冨詑q㍗ミご㌘お周
(16)彼は﹃クェイカリズムー過去と現在﹄の著者ジョン・スティーヴンスン・ラゥントリーの弟でチョコレート企業家の︑ジョゼフの長男で
ある︒つまりジョソ・ステイ!ヴソスンは彼にとって伯父にあたる︒ラウソトリー家の人々については拙稿﹃商経論叢﹄十七巻二号︑一〇三︑
一〇五頁を見よ︒またジョソ・ウィルヘルム・ラウソトリーのリーダーシッ︒フについては︑}oロ①9ミ}巳ら鴨野づマリ刈Q︒あ刈,を見よ︒
(17)葡軸鷺ミミ.︑ミOミ艦ミ軸ミ価:・書︑噂:ミ︾♂ミ︑︑舘鷺♪ドo巳雲・一Q︒8二署﹂亨く・
(18)きミこ唱や.丘ー≦一﹂
(19)寓爵o㌍も︾ミ・︑や幽一曹なおマソチェスター会議におけるジョン・ウィルヘルム.ラウントリ!︑トマス・ポジキンおよび自然科学者シルヴ
ァヌス・P・トムスンの報告のサワリの部分は︑﹄80ω・oやミニ噂,㊨刈ω‑¢♂にまとめられている︒
(20)一8霧"亀︾a卜㌧やΦ謡・
(21)匿葺o㌍も︾無ご亨禽"
後 期 イ ギ リス ・クxイ カ ー 派 研 究 序 説 737
(22)﹁ラウソトリi・シリーズ﹂の諸著作とは︑次の六点を需う︒即竃し呂鍋的ミき吻ミ9・罫帽q﹄尋︑膏臥§し80⁝謁.竃.}自窃り戸oり匿琶霧窪畠
﹀・琴Oロヨヨ震ρ寒Oミ曹葛ミ馬註墨ミ偽︑導額謎6ご§§9お一一⁝≦已剛p︒ヨOごコ邑昏甫oぎ鴨§帖し口碍ミミ︑お軌ミO§隷ミ騎ミ℃一鎗蝉戸竃・甘ロ窃場
智ござミ奪ミ磁蕊§︑曹嵐篤}§職謡きO僑ミミ軸訂晒一〇一分芝.ρロロ邑夢笥昌p寒留昏§職評篭ミ&Oミ書︑傍葺一㊤一〇叫戸竃一〇ロ窃噂審
いミミ謹醤偽魯ミO§細ミ器ミ(悼くoす)噸一給一・
(23)ウッドブルック・カレッジ創立の計画を推進したのはジョン・ウィルヘルム・ラウントリーであり︑ヵレッジ創立のために土地と建物を提
供したのはバ!ミンガムのチョコレート企業家︑ジョージ・キャドベリーであった︒ウッドブルック・ヵレッジの現状については︑拙稿
﹁≦8α耳8ぎOO蔚鴨留学記﹂︾薦旧O富麗鵠ン①蕊(英日ニュース)英日文化協会第七号(一九八〇年)を見よ︒
(24)r即Oo匿藁辞O§悉箋O発§隔ざへ覧§§翫切義蝋謹動い§ミ践譜き9巳8噂一り㎝G︒・殖唱,躍‑紹.
(25)ぼ畠︒帥矯§・袋計唱窄Q︒甲o︒ω.
(26)本稿(上)﹃商経論叢﹄十九巻一号︑五九頁︑注(12)︒
(27)08$・︒鼻矯o︾無罰や8幽
(28)本稿(上)﹃商経論叢﹄十九巻一号︑五九頁︑注(14)︒
(29)臨§驚禽§職Oミ試題︑一零劇巴三〇串二,9
(30)Ooロ$・・§鴇§.ミニ唱.韻鴨
(31)奪ミ℃ワ駐鹸(32)奪ミ婚,㎝仲
(33)︹年表1︺の作成については︑妻︑正子の手をわずらわせた︒
三イギリス・クエイカー社会史の諸問題
本章では︑興隆期から現代に至るまでのイギリス・クェイカー史の社会史的な諸問題として︑人口動態と人口移動︑
社会層⁝構成の変化︑およびリ!ダーシップの変化の問題をとり上げて論じたい︒ただし前もって指摘しておかなけれ
ばならないのは︑十八世紀イギリス・クェイカリズムについては以上のような問題の解明に役立つ統計史料が全く存
在しないし︑統計を作成するためのデータさえ存在しない︑ということである︒これは十八世紀イギリス・クェィカ
ー派において静寂主義が主流を占めたことの悪しき結果である︒
A 人 口 動 態 と 人 口 移 動
イギリス・クェィヵ‑派の信徒楚関する︑現在のところ最も績出来る数値を年代順に並︒へたのが︹表‑︺であ
〔 表1〕 イ ギ リス ・ク ェ イ カ ー 派 信 徒 数
1661 ..1 :11
̀・i
1851 1861 187
..
..
1911
約 約 約
30,000人 so,000
19,soo 16,227 14,016 13,859 14,021 15,113 19,612
供をも含めて・約三万人から四万人と推定する︒この鷺簑祖ジ.←.フォックスなどは藩を免れてはいるも
のの・大半の成年男子クェイカふ播されている.また︑興隆期においてクェイカ乏なった者は︑3︒歳ムロ︑
台の者が多く・家族そろってクヱイカ乏なるという例も興隆期においては少ない
おけるクェイヵ‑信徒数として︑ブレイスウェイトが考える数値の輻の下限を播しようと思う
その後・王政復古期を通してクェイ濃の信籔は︑大迫喧ロにもか鴫ず︑増加し続けたようである.そして︑
クェィカー信籔が最高の数値を示すのは︑=ハ八〇年頃だと言われている︒ア一フン.コゥルは=ハ八〇年頃にはク る 興隆期におけるクェイカ旅信徒数の増架かなりのものであった.︺とは想像に
難くないが・その実数を推計するデ表は一六六一年にならないと現われない︒す
なわ皇覆裏の=ハ杢年百に第至国派の中の武闘派ヴ︑詳振数+名
が蜂起して・その全員が虐殺あるいは逮捕される︑という事件が起った︒この事件
はヴェソナ⊥派だけの蜂起であったのだが︑支配階覆.﹂れを大規叢陰謀の氷
山の一角とみなし・クェイぞ派︑浸礼派︑会衆派の一斉逮捕を開始した︒この時
に逮捕されたクェイヵゐ人数が約四千二百名だったが︑逮捕されたのは成年畢
のみであったので︑ブレイスウェイトはこの当時のクェイヵ‑信徒数を︑女性と子
(3)
40歳(4)・したがって私は︑一六六一年に
︑O
後 期 イ ギ リス ・ク ェ イ カ ー 派 概 究 序 説 X39
(6)エイヵーの信徒数は一六六一年の約二倍(すなわち︑六万人から八万人)になったと推計しているが︑一六八〇年頃の信
徒数を算定するためのデータは何も現存しない︒一六九六年に匿名氏によって著わされた反クェイカー派の書物﹃草
の中の蛇﹄では︑当時のクェイカ!派の信徒数は十万人を越える︑と記されているが︑これにはかなりの誇張が含ま
(7)れているであろう︒他方︑ダルリンプル伯の回想録にもとつくならば︑当時のクェイヵ1派信徒数は︑約五万人とな
(8)る︒しかし︑これは過小評価のように思われる︒というのは︑ダルリソプルは︑当時の非国教徒の総数を約二十万人
と見積もる調査結果を採用しているのだが︑これは国教会当局の調査発表だから︑非国教徒の総数は意識的に過小評
価されるのが当然だからである︒ジョソ・S・ラウソトリーは︑﹃草の中の蛇﹄およびダルリンプルの回想録の両者
の数値をにらみながら︑一六八〇年頃におけるクェイヵ1派信徒数を︑イソグランドだけで六万人以上︑イギリスと
(9)アイルラソドで約六万六千人︑と推計している︒これは大体妥当な推計のように思われる︒
〔衷2〕1851年 に お け る 信 徒 数 国 教 徒
メ ソ デ ィ ス ト諸 派 会 衆 派
バ プ テ ィ ス ト派 ク ェ イ カ ー 派
約2,300,000人 約694,000 約515,000 約353,000
14,016
〔表3〕
1767年 1771
1781 1791 iaol 1811 1821 1831 1841 1851 1861 1871
..・
.
1891 1901 1906
メ ソ デ ィス ト派 信 徒 数 と 対 全 人 口 比(イ ン グ ラ ソ ド)
22,410人 26,119 37,131 5fi,605 91,825 143,311 215,466 288,182 435,591 4go,000 513,628 570,936 630,575 sgo,a22 732,668 500,234
1.6%
2.3 2.9 3.4 4.5 4.4 4.1 4.1 4.0 3.8 3.5 3.6
〔出 典 〕A.D.Gilbert,op.cit.,pp.31‑32, Tables2.2よ り 作 成 。
イギリス・クェイカー派の
信徒数は︑しかしながら︑十
八世紀中に急激に減少して︑
ラウントリーの推計によると︑
一八〇〇年には約一九︑八〇
(10VO人となった︒一八四〇年に
おける信徒数一六︑一一二七人
は︑ラウソトリーが実際に算
(11)定した結果である︒︹表1︺の
〔表4〕 会衆派 と浸 礼派 の信徒数(イ ギ リス)と 対 全人 ロ比
対全 人 口比
漫 礼 派
対全 人 口比
会 衆 派
年代
x.09°0 1.29 1.24 1.26 1.3玉
].≫25 1.19 1.14 1.11
zo,000 20,00(?
27,000 100,UOO 140,000 153,000 170,000 201,04U 221,000 239,114 266,224 264,923
0.65%]..38 1.52 1.56
}
1.27 1.23 1.21 15,000
26,000 35,000 127,000 165,000 180,000
257,435 257,952 289,545
17501790 :11
..
.・
1851 1863 1870 ::1 1890 1900 1930 1914
〔出 典 〕A.D.Gilbery,oρ.citりP.37,Table2。4よ り 作 成 。
中の一八五一年における信徒数としては︑同年に行われた国勢調
査の結果を記載した︒この国勢調査によって明らかになった他の
へ12)諸宗派の信徒数は︹表2︺に記されるが︑これを見ると︑クェイ
カー派がまったく取るに足りない弱小セクトになってしまってい
ることが︑よくわかる︒国勢調査の結果は︑クェイカー派の指導
者たちに大きな衝撃を与え︑一八六一年以降は毎年︑信徒数の公
(13)式の統計が算定されるようになった︒
以上を要するに︑イギリス・クェイカー派の信徒数は︑初期に
おいて上昇を続け︑一六八〇年頃にその最高値を示すが︑十八世
紀を通じて減少を続け︑一八六〇年頃にその最低値を示し︑以後
わずかながらも着実に増加した︑と言うことが出来る︒
このようなイギリス・クェイカー派の信徒数の増減の様子は︑
他の非国教徒の信徒数の増減の様子とは全然異なったパターンを
示している︒︹表3︺および︹表4︺は︑メソディスト諸派︑会衆
派および浸礼派の信徒数の変化と︑各派の信徒数のイソグラソド
(14)(あるいはイギリス)の総人口に対する百分比を示したものである︒
これらのうち︑メソディスト派の運動は一七四〇年代から本格的
になった︒他方︑会衆派と浸礼派は十七世紀の四〇年代に形成さ
14」 後 期 イ ギ リ ス ・ ク ェ イ カ … 派 研 究 序 説
〔図3〕
Quaker
八lethodist
‑■ 欄 燭隔脚 藺騨CongregatiQna1
騨。嘲■■口.■■■障o}3aptist
ク エ イ カ ー
1,1徒 教
(単 位千 人) 60
30
20 15 is 5
8ト一
〇α︒㊤州
OO⑩H O霞桝 OOαoH
Oα︒謡
メソテヤス ト
会 衆 派
浸 礼 派
信 徒 教
(単 位 「 ・ 人) saa
700
60Q
Sao
XOO
1300
//'
/!
11/200 〆1//
零O
oaOOioo
JOど÷
鷺①H
OO曾
れ︑十七世紀後半と十八世紀の前半にはアメリカへの移住の影響で信徒数が減少したと推測されるが︑この期間の信
徒数の変化については︑これらの表からは何も知ることが出来ない︒しかし︑︹表3︺および︹表4︺を見ると︑一七
五〇年以降におけるこれら非国教徒主要ヨ派め‑信徒数の変化が︑ほとんど同じパターソを示していることがわかる︒
すなわち︑これら三派の信徒数は大体一七八〇年ごろから一八四〇年ごろまでの期間(この時期が大体イギリス産業革命
の時期であることに注意せよ!)に急増し(メソディスト派は約11倍︑会衆派は6倍以上︑浸礼派は5倍以上)︑一八四〇年頃に
は対全人口比において一定の水準に達し(メソディスト派は約4%︑会衆派は約B〜M%浸礼派はM〜B%)︑それ以後︑
十九世紀末にいたるまで︑イギリスの総人口に対する信徒数の比率をほぼ一定の水準に保ちつつ︑その信徒数を伸ぽ
していったのである︒以上のような三派の信徒数の変化のパターソとクェイカー派の信徒数の変化のパターンの相違
(15)は︑それらの数値を折れ線グラフにして示した︹図3︺によって︑ますます明らかになるであろう︒
それでは︑メソディスト派︑会衆派︑パプティスト派の三派の信徒数の変化とイギリス.クェイカー派の信徒数の
変化がこのように極端に異なったパターソを示すのは何故だろうか︒まず︑三派の信徒数が一七八〇年ごろから一八
四〇年ごろにかけて急上昇をとげる原因については︑簡単に一般的で常識的な回答を引き出せる︒すなわち︑この
期間はイギリスにおいて産業革命と農業革命が同時進行した時期であって︑この時期に土地を失った農民が大量に労
ヘヘへ働者として新興の諸工業都市に吸収されたのであった︒会衆派︑浸礼派︑そしてとりわけメソディスト派は︑これら
の都市の労働者に対する伝道を積極的に展開して︑その信徒数を伸ばした︒他方︑クェイカー派はそのような伝道を
行わなかったし︑当時のクェイカー派は︑そもそもそのような伝道を行えるような体質を持っていなかった︒
しかし︑問題はそれだけで解決するわけではない︒イギリス・クェィカー派の信徒数は一六八〇年ごろから一八六
ヘヘヘヘヘヘへ一年まで︑その絶対数において減少を続けたからである︒そして我々がすでに本稿の第二章B節において検討したよ
後 期 イ ギ リス ・ク ェ イ カ ー 派 研 究 序 説 143
うに︑イギリス・クェイヵー派信徒教の減少の原因の解明こそが︑J・S・ラゥソトリー著﹃クェイカリズム!ー過
去と現在﹄へ一八五九年刊)の課題であったのである︒彼によれば︑イギリス・クェイカー派の信徒数の減少の根本的
な原因は︑十八世紀全般および十九世紀初頭のクェイカー派が静寂主義思想を信奉する人々によって指導されたこと
にあったのであり︑この一世紀余りの期間︑クェイヵー派の伝道や宗教教育の活動は極めて不活発であったばかりで
なく︑信徒のアメリカ植民地(のちに合衆国)への移住と︑破門の執行によって︑その信徒数を減少させ続けたのであ
る︒
それでは︑アメリカ植民地(のちに合衆国)への移住者と︑破門された信徒の人数はどのように変化したのだろうか︒
ー残念ながら︑前にも述べたように当該時期のデータそのものがほとんど存在しないために︑信徒数の減少の諸原
因についての統計数値を示すことは︑不可能なのである︒しかしながら︑きわめて断片的なデータは現存している︒
ここでは︑それらの断片的なデータを利用した諸研究を紹介しながら︑推計可能な範囲を示してみたい︒
第一に︑クェイカー信徒のアメリカ植民地(のちに合衆国)への移住の規模については︑J・S・ラウソトリーの研
究がある︒彼によれば︑アメリカ植民地へのクェイカー派信徒の移住は{六七六年のウェスト・ジャジー植民地の設
(16)立から一七七五年のアメリカ独立戦争まで継続して行われ︑一六七六年から一七〇〇年までは年平均五〇〇名の信徒
(17)が移住した︒したがって十七世紀中のクェイヵ1移住者の総計は︑約一二︑五〇〇名となる︒十八世紀には非国教徒
への迫害は行われなくなったのだから︑年平均の移住者数は減少したであろうが︑十八世紀におけるクェィカi移住
者数はまったく不明である︒しかし︑一六七六年から一七七五年までの百年間のクェイカー移住者数は大体一一万五千
人から三万人のあいだぐらいだ︑とみなすのが適切であろうと思われる︒
第二に︑破門されたクェイヵ1信徒数についても︑十八世紀におけるデータは皆無である︒しかし︑十九世紀前半
〔 表5〕
Meeting
婁
轟
お
Ou
話
1
駕 畏O 雲工 δ
聾
缶 嚢
霧 婁
…0
A
cd
芝
琶 謹
0 cd
章 汐
,鵡
養琶
≧z
ぎ 田5覇
卜
O1801年 信 徒 数
『 一一 一1G6 84
一 一 一 一1851年 信 徒 数
s ㎜ 『80 112
一
一
X30
一一 一302
自 発 的 脱 退
一一}64
[
26 7 19
一}一12 4
一19
一 一 一 一
破 門 総 数 27 293 2.53 3G 45 177 14i 76 170 60
結婚 に よる もの
L
163 97 120 12 18 U8 68 26 84 26
そ の 他 の 埋 由
112 196 133 24 27 59 79 50 86 34
集 会 に 欠 席
一0 48
} 一17 Q 3 24 4
教 義
0 0
一 一 一U U 0 {} 0
意 見 の 相 違
一4 0 .̲ilO
IE
0 0 0 n
不 品 行
一35 54
一 一14i50
i16 11 13
詐 欺 行 為
『0 0
肯̲一2
1 0 0
1
5 1
酒 の飲 み す ぎ
}U 0
一 』0 n 5
一一
1
0
1破 剃 一}78 31
} ̲125」12 16 26 13
1軍 隊 に 入 籍'1 一i
90 0
一 一1 0 0 7 0
十 分 の̲̲̲.税
i 引 ・ 0
一 一
0 Q 1 4 0
iそ の 他
1 一
79 0
一 一0 17 9 8 3
隔 計
f
112 196
1
133 24 27 59 79 50 86 34
1
)一
一,ニロ
!ー︑
(1532)
(732) (800)(193+α)
(201+α)
〔出 典 〕[り ・Hall,op.cit.,AP・9&99.,Table1お よ びTable3よ り 作 成 。
注 意1)一 一 部 分 は 不 明
2)DevonshineHouseは1800‑‑1853年 の,Pontefractは1800‑1845年 の
,Warwickshire Northは,1800‑1850年 の 統 計 数 値 で あ る 。
後 期 イ 判 ス ・ク ェ イ カ ー 派 研 究 序 説 145
におけるデータはかなり充分に存在しており︑ラウントリーはこれらのデータを利用しつつ︑一八〇〇年から一八五
六年の間に破門された信徒とみずから教団から脱退した信徒の合計を約八︑四〇〇名と推計している︒他方︑同じ期
間に改宗してクェイカー教徒になった人と︑以前クェイカー派を脱退したけれども再びクェイヵー派に戻った人との
合計は︑約六︑○・○名と推計されてい(磁・クエイカ旅において破門の執行がさかんになったのは宅←ハ○年頃か
らであるから︑一六八〇年から一八五〇年頃までに破門あるいは脱退によって失われた信徒数の延べ人数は︑一万五
千名から二万名のあいだぐらいだ︑と推定できる︒
次に破門の理由について見よう︒J・S・ラウントリーは︑破門の細目ごとの破門者数の統計を﹃クェイカリズム
ーー過去と現在﹄の中で示していないけれども︑彼が集めたデータはJ・S・ラウソトリー.ペイパーズとして・ロ
ンドンのフレンズ.ハゥス図書室に所蔵されている︒D・J・ホールはこのラゥソトリi・ペイパーズを使って最近︑
幾つかの月会の管轄地域について︑一八〇一年から一八五一年までの期間のクェイカー信徒の破門の理由についての 統計を作成した︒︹表5︺はD・J・ホールが作成した統計表をまとめ直したものである︒イギリスにおけるクェイ
カー派の月会の数は一六九一年に一五一に達し︑一七五二年以降︑整理統合が行われて一九五七年には六九にまで減 少したのだが︑一八〇一年から一八五一年の間の全国の月会数については筆者にはわからない︒多分︑八〇ー一〇〇
位の数であったのだろう︒︹表5︺はわずか10の月会管轄地域の信徒に関する統計であるが︑その中にはブリッグハ
ゥス月会︑ブリストル月会︑デヴォンシァ・ハウス月会などの大規模な月会が含まれていることに注意すべきである︒
なお︑.︑れらのうちの六つの月会の︑この期間における出生者総数は︑同期間の死妄総数を若干上まわってい遡
さて︑︹表5︺を見ると︑表中の十の月会管轄地域における一八〇一年から一八五一年までの破門者総数は一︑五
三二名であり︑信徒数のうちで破門された者の割合は︑二割から︑多いところでは六割を占めるようである︒破門の