大 恐 慌 期 の イ ギ リ ス 労 働 党 内 閣 論
R ・ ス キ デ ル ス キ ー 著 ﹃ 政 治 家 と 大 恐 慌 ﹄
犬
D 里
一 男
大 恐 慌 期 の イ ギ リ ス 労 働 党 内 閣 論
筆 者 は ︑ か つ て 東 京 大 学 大 学 院 に 在 学 中 に 両 大 戦 間 の イ ギ リ
ス 労 働 党 を 研 究 課 題 と し ︑ 未 熟 な が ら も 学 位 論 文 と し て 大 恐 慌
期 の イ ギ リ ス 労 働 党 内 閣 の 政 策 を 主 題 と す る 論 文 を 書 き ︑ 後 に
(1)こ れ を ﹃ 国 家 学 会 雑 誌 ﹄ に 連 載 し た ︒ こ の 労 働 党 内 閣 が 倒 れ た
一 九 三 一 年 と い う 年 は ︑ 筆 者 が 本 誌 第 六 巻 第 一 号 の D . カ ー ル
ト ソ ﹃ マ ク ド ナ ル ド 対 ヘ ソ ダ ー ソ ソ 第 二 次 労 働 党 内 閣 の 外
交 政 策 ﹄ で 触 れ た よ う に ︑ イ ギ リ ス 政 治 史 に お い て も ︑ イ ギ リ
ス 労 働 党 に お い て も ︑ 大 き な 歴 史 的 転 換 点 と な っ た 年 で あ る ︒
一 九 二 九 年 六 月 に 成 立 し た 第 二 次 労 働 党 内 閣 が ︑ 大 恐 慌 の 嵐 に
押 し 流 さ れ ︑ ダ イ ナ ミ ッ ク な 経 済 政 策 を 形 成 し え ず ︑ 一 九 一一 =
年 八 月 金 融 財 政 恐 慌 に よ る 政 治 的 危 機 の 中 で 瓦 解 し ︑ 労 働 党 指
導部は分裂して挙国一致内閣(ツ嗣帥け一〇瓢帥一〇〇<O﹃コヨOコ侍)が成立したのである︒そこでイギリス労働党内閣は何故に崩壊した
かということが︑同時代におけるドイツ︑スウェーデソ︑フラ
ソス︑アメリヵにおける革新政権ないし民主的政権との比較の
視座から︑また︑その後における第二次大戦後のイギリス労働
党内閣との比較の視座からも問題に︑されるのである︒最近の第
二次労働党内閣にかんする研究は︑本稿で紹介するロバ1ト.
スキデルスキーにしても比較研究の方法をとり入れているとい
えよう︒
第二次労働党内閣に関する主要な研究としては︑一九五〇年
代までについてはノース・ウェールズ大学のチャールズ.モワ
ヅト(Oゴ帥﹃一〇Qo︼﹁ζO≦帥叶)ロソドソ大学のR・バセヅト(押
じロ器器障)ワシソトソ・リー大学のハーヴェイ.ホウィーラー
(2)(こ母ミ①団芝ず①鮎嘆)などの研究が挙げられる︒勿論︑これ
らの研究に筆者は学び︑その内容については︑前述の論文で言
及しているので︑ここではその内容にまで立ち入ることは避け
たい︒本稿では︑筆者とほぼ同時期から大恐慌期の労働党内閣
について研究をはじめ︑一九六〇年代からその成果を公表する
に至った比較的若い世代に属する歴史家ないし政治学者の研究
を問題にしたいと思う︒こうした研究成果が近年つぎつぎに発
表されている︒その注目すべきものを年度順にみてゆけば︑ま
ず最初に挙げられるのは︑ロバート・スキデルスキー(死︒σ④詳
ω誠αo一ω犀︽)の著書﹃政治家と大恐慌ー一九二九i一九三一年
の労働党内閣﹄(℃O一一二〇冨コのロ包窪①ωξヨ℃.目げo}むσO舞Oo<①;臼Φ箕ohちb︒¢1一⑩ω一矯竃︒・Oヨ日鋤ご)である︒これは一
九六七年筆者が学位論文を提出した直後に刊行された︒続いて
一九七〇年には︑ディヴィド・カールトソの著書﹃マクドナル
ド 対 ヘ ソ ダ ー ソ ソ ー 第 二 次 労 働 党 内 閣 の 外 交 成 策 ﹄ (哨 ご ≦ 二
6鋤ユδ量寓霧Uo壼一位くo﹁誓㏄=①&Φ屋︒p︑一.一さ閃o箒硲コ
℃o嵩o楓ohひΦω①8口傷じ帥びoロ﹁Ωo器同ごヨo茸"三霧ヨ厳oコ)
が出版された︒なお︑一九七〇年五月九日にロソドンで開催さ
れたイギリスの労働史研究会(ω06器蔓ho畳夢Φωεユ︽O隔
ピロげo霞出一︒・8蔓)の年次総会においては︑第二次労働党内閣
がその主要論題となった︒そこでは︑R・スキデルスキーとデ
ィヴッド.マーカソド(U印く乙︼≦母ρ=餌口α)の報告に基づいて
討論が行なわれている︒このカールトソの研究書については︑ すでに本誌上で紹介しているので︑本稿では︑入キデル入キー
の﹃政治家と大恐慌﹄について紹介したい︒
なお︑労働史研究会の先に触れた総会における報告と討論に
ついては︑今回は紹介することを割愛し別の機会に譲りたい︒
また︑一九七三年夏には︑アメリカの比較政治学者であるスタ
ソフォード大学のG.アーモソド(O鋤σ噌一〇一㌧r凡〜一︻昌O=﹂)や
フ戸リダ州五大学のs.c.フラナガソ(の8雰O・コm;四σ︒磐)
ら の 共 著 に よ る ﹃ 危 機 . 選 択 . 変 化 ‑ 政 治 的 発 展 の 歴 史 的 研
究﹄(Oユ・︒グOぎ8pきαO冨ロαq︒¶顛︒︒8同一︒巴Q︒ε象窪oh勺o藁剛︒︹二∪︒<巴︒や日︒簿矯い一三︒辱o薯訂)が出版された︒この
中でイギリスの一九三一年の危機に関する論文も収められてい
る︒しかし︑この論⁝文については︑筆者はこの原稿執筆・の時点
で未だこの書を入手したばかりであるので後日何らかの機会に
論評したいと思う︒
二
R . ス キ デ ル ス キ ー の ﹃ 政 治 家 と 大 恐 慌 ﹄ は 極 め て 論 旨 明 快
な 論 又 で あ る ︒ 著 者 は ︑ 経 済 政 策 構 想 お よ び 経 済 政 策 に お け る
保 守 と 革 新 と に 第 二 次 マ ク ド ナ ル ド 内 閣 時 代 の 政 策 作 成 者 ( 政
治 家 ︑ 官 僚 ︑ 経 済 学 者 な ど か ら な る ) を ク リ ア ・ カ ッ ト に 分 類
す る ︒ 政 党 に ょ る 分 類 で は な く 政 策 構 想 に 基 づ く 保 守 と 革 新 の
分 類 で あ り ︑ 労 働 党 に 属 す る 社 会 主 義 者 の 多 く が ︑ 問 題 認 識 に
お い て 全 く 失 敗 し ︑ 政 策 選 択 を 誤 ま っ た こ と を 鋭 く 指 摘 し て や
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大 恐 慌 期 の イ ギ リ ス 労 働 覚 内 閣 論
ま な い ︒ こ の 四 百 ペ ー ジ に も 及 ぶ 大 論 文 で 極 め て 論 理 的 に 政 治
史 を ド ラ イ に 割 り 切 っ て 論 じ ︑ し か も 首 尾 一 貫 し て 乱 れ る こ と
な き 政 治 史 の 論 文 は ︑ イ ギ リ ス の 歴 史 家 に は 大 変 珍 ら し い こ と
の よ う に み ら れ る ︒ し か し ︑ そ れ は ス キ デ ル ス キ ー が そ の 名 の
如 く 舞 の イ ず ス 人 で な く ︑ ※ イ ず ス で 育 っ た 初 代 の ヨ ー 悌
ッパ大陸のロシア系の人であるので大変理論的な性格をもって
いることによるのかもしれない︒
※ロバート・スキデルスキーは︑一九三九年満州に生まれ︑
三年間中国で暮らした後英国に移り︑箔︑こで育った︒学歴と
教歴についてみればブライトン・カレヅジ大学でオックスフ
ォード大学の公開奨学生(ObΦ鵠ωOげO富錺ゴ首)の資格を得
て同大学ジーザス・カレヅジ(密︒・蝦ωOo嵩o㈹①)を卒業し︑
それからナフィールド・カレッジ(窯蝿諜貯冠60コΦ鵬o)に
入り︑一九六五年から同大学の研究員(図ゆωo母67鴫巴ざ芝)
の地位についている︒
ちなみに︑このような堅い内容の本が︑一九七〇年にはペリ
カソ・ブヅク(℃oぎきじd8吋)として新書版で出版されるに
至っているのは︑生粋のイギリス人とは肌合いの違う研究者に
よって書かれたユニークな書であることに起因するであろう︒
違った眼でみたイギリス政治史といえば︑一つには︑比較の観
点を大なり小なり有しているということにもなるが︑そうであ
るからこそ︑この国の内でもまた外でも意外によく読古ホれると
いう傾向がある︒そうした本として二︑三の例を挙げると︑戦 前にはエゴソ・ウェルタイマー(国㎎oコ≦葭簿魚資霞)の﹃労働
党の肖像﹄(℃︒葺曳︒;︒§自﹃℃四量㌔琶ゆう.ω︒︒︒昌・陰
謹¢)やアソドレー・¥グフリード(﹀巳みω圃oσq強9)の
﹃英国の危機﹄(穿讐巳.︒・9圃︒・圃・・し︒薬冨・o昌Φ・一§)
などがある︒
ところで︑スキデルスキーの著書でとられている分析方法に
は・二つの重要な︑そしてある意味ではユニークなものがあ
る︒その一つは︑照明する時期の点であり︑もう一つは︑基本
的な政策選択(oげo一8)をめぐる経済的保守(08影︒罠68鵠,
︒︒葭く9二く¢)と経済的革新(Φ8き巳o話巳$一)による政党
ライソに基づかぬ二分法による分析である︒
まず・分析対象となる時期についてみょう︒従来の一九五〇
年代までのモワットやパセットらの研究では︑一九三一年夏の
挙国一致内閣の成立に導いた出来事とその意味づけに問題関心
が集中している傾向があるが︑スキデルスキーの研究ば︑蕩︑れ
では一九三一年の政治危機と政変を理解するにしても極め一,︑不
十分であるというところから出発している︒
本書の序文においてスキデルスキーは次のように述べる︒
﹁これ(一九三一年危機のこと︒筆者)に先立つ二年の政治的
諸事件が︑危機それ自体にあてられた照明によって隠されてい
る︒これらは殆んど十二︑三ページかあるいは標準的通史にお
ける如くにしか述べられていないし︑この間における争点と選
択の複雑さはポソド危機のドラマに関する研究に比較できる研
(3)究となっていない﹂︒また︑結論の章においても︑﹁マクドナル
ドと彼の同僚への批判は通常一九三一年の金融危機への処置に
ついて始まり︑二︑‑れに先立つ二年間における彼等の失敗から始
まるものではない︒しかし︑一九二九年と一九三一年の間に政
府には多くの有効な選択が開かれていたのに対して︑一九一三
篭 は 金 本 位 制 を 保 持 す る 必 要 性 に 學 る 実 質 的 一 致 が あ っ
た﹂と述べる︒そしてまた︑﹁リアルなマクドナルド推判は︑
彼がナショナル・ガヴァメソトを結成したということではな
く︑彼のリーダーシヅプの下に労働党政府が極めて小さな選択
し か 芒 え な い 地 位 に た ち 養 た こ と で 臥 嶺 ご と 論 じ て い
る︒
このように︑一九三一年夏の危機に先立つ二年間を重要視す
る問題関心は︑筆者とも共通するものである︒なお︑筆者は労
瀕 喋 政 権 の 座 に 上 る 以 前 の 野 党 期 の 肇 構 想 を も 問 題 に し て
いるが︑スキデルスキーは一九二九年六月以前からの労働党の
いわゆる対失業政策を問題にしている︒本書の第一章﹁経済的
背景﹂では︑大恐慌以前の一九二〇年代にイギリスは﹁解決で
きない百万人﹂(ハる一昌叶﹃ゆO叶9σ一Φヨ一一一一〇b[噌)と呼ばれた︑一九一=
年の一九%を除けば︑被保険労働者の一〇%にあたる失業者を
抱・兄ていて︑これをどう解決するかが重大問題だったと指摘す
る︒つまり︑伝統的な正統派の対失業政策に代るダイナミック
で革新的な政策が形成されていたかどうかを問題にするのであ
る︒第二章﹁社会主義者と失業﹂では︑労働党における失業問 題解決のプラソの有無が問題にされる︒ベァトリス・ウェヅブ(田W①9什憎一〇〇≦Oげび)が一九〇八年に救貧問題王立委員会の
﹁少数派報告﹂のなかで述べている公共事業計画︑低消費を不
況の原因とみて賃金引上げを説いたJ・A・ホブスソ(冒ゴコ
︾陣︒鉱コω¢︒げσω8)の理論︑そして彼の影響を受けて作成さ
れた一九二〇年代の独立労働党(ILP)の生活賃金綱領など
に︑景気循環と失業に対抗しうる革新的政策の萌芽とも言うべ
きものがあった︑と著者は指摘する︒しかし︑労働党指導部に
おいては︑資本主義体制の中で経済的現実に対応し︑失業問題
を解決しうるプログラムは考えられていなかったという︒とり
わけスノーデソ(剛ず二一一℃ω口O♂く自ゆ昌)は︑労働党で第一級の財
政家として知られていた人であるが︑それは正統的なグラヅド
ストーソ的財政に立脚するものであった︒
次に︑政策選択をめぐって保守と革新との二分法によるスキ
デルスキーの分析方法についてみよう︒
彼の論文におけるもっとも重要な分析方法は︑一九三一年危
機に至る二年間の諸局面における政策選択に関して検討し︑い
かなる選択が可能でありえたかを探る点にある︒彼は基本的な
選択は︑社会主義か資本主義かという体制選択ではなく︑資本
主義の枠内における経済的革新か経済的保守か︑即ち︑国家介
入の資本主義か自由放任の資本主義かにあったと論じて転罷︒
そしてこの二分法に基づいて政党ライソを取り払った分析をし
ている︒この書にょれば︑経済的革新に属する政策作成者は︑
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大 恐 慌 期 の イ ギ リス 労 働 党 内 閣 論
自由党にはJ・M・ケイソズ(智げ嵩︼≦餌︽起a国①嘱昌窃)︑ロ
イド・ジョージ(U帥く箆ピδ矯山OΦo﹁σqΦ)︑経済学者のH・ヘ
ソダ!ソソ(甲{¢げΦ圏齢鵠①5匹①﹁ωO爵)︑保守党にはR・ブースビ
ー(囲四〇げφ﹃鈴︼WOO轡げげ︽)︑H・マクミラソ(=鋤︻O置7貯∩ヨ鵠置ゆ)
0・スタソレー(()一一くΦ﹃ω樽帥昌囲①嘱)など若手の下院議員らが
いた︒そして︑労働党には後でやや詳しく述べることになるオ
ズワルド・モーズリ(○︒・ミ騨置冨oω9①嘱)と彼と一派をなした若
手代議士たちやTUC総評議会幹部のE・ベヴィソ(閏巽菌︒︒齢
じdOく写)︑経済学奢G・D・H︒コール(OΦO戦σqOUO爆ぴQ﹃の
}団零霞画∩o一︒)らがいた︒そして経済的保守に属するのは︑
労働党内閣ではスノーデソに代表され︑大蔵省の経済官僚がそ
れを支え︑保守党と財界の主流︑そして自由党の反主流などで
あった︒勿論︑経済的保守が強力であったのである︑
このような分類法は︑筆者が︑前に紹介した筆者の論文で行
なった状況形成型と状況追随型へのリーダーシヅプの分類とも
重なりあう︑経済政策に即した分類といいうるであろう︒
三
そ れ で は ︑ ス キ デ ル ス キ ー の い う リ ァ ル な 政 策 選 択 の 可 能 性
は 一 体 ど こ に あ っ た か ︒ 彼 は 労 働 党 内 閣 が 成 立 し た 時 点 か ら 倒
れ る ま で の 間 に ︑ 後 に な る に つ れ て 選 択 の 幅 は 狭 ま る が ︑ 最 後
ま で あ ら ゆ る 局 面 に リ ア ル な オ ル タ ー ナ テ ィ ヴ の 選 択 の 可 能 性
が あ っ た と 論 じ て い る ︒ 本 書 の 第 四 章 ﹁ 選 択 ﹂ か ら 以 下 に そ れ ら が 述 べ ら れ て い る ︒ そ の 主 な も の を 取 り 上 げ て み よ う ︒
第 一 に ︑ 一 九 二 九 年 か ら 一 九 三 〇 年 に か け て ロ イ ド ・ ジ ョ ー
ジ が 提 起 し て い た 大 担 な 失 業 克 服 政 策 を 展 開 で き る 選 択 可 能 性
が あ っ た ︒ 第 二 に 経 済 諮 問 委 員 会 (団 6 0 ぎ 葺 o ︾ 山 く δ o 蔓 O 守
ヨ 巳 舞 ① Φ ) を 政 府 の 経 済 政 策 作 成 機 関 と な す べ き 可 能 性 も あ っ
た ︒ 第 三 に ︑ 一 九 三 〇 年 の モ ー ズ リ の 政 策 提 案 に 端 を 発 す る 経
済 政 策 転 換 の 可 能 性 が あ っ た ︒ 第 四 に ︑ 一 九 三 一 年 の 金 融 財 政
危 機 が 接 近 す る 中 で い か に そ の 機 先 を 制 す る か と い う 選 択 が あ
り え た ︒ 第 五 に ︑ そ の 危 機 が 到 来 し た と き に お い て は ︑ ﹁ メ イ
報 告 書 ﹂ の 取 扱 い 方 次 第 で は そ の 危 機 の 深 化 を 防 ぐ こ と も 可 能
だ っ た し ︑ ケ イ ソ ズ や ベ ヴ ィ ソ ら の 代 案 を 受 容 し た 緊 縮 予 算 案
を 作 る 可 能 性 も あ っ た ︒ 以 下 に そ れ ら に つ い て 述 べ よ う ︒
ま ず 最 初 に ︑ 労 働 党 内 閣 成 立 後 と ら れ る べ き 経 済 政 策 の 問 題
に つ い て み よ う ︒ 第 三 章 ﹁ 労 働 党 の 政 権 掌 握 ﹂ と 第 四 章 ﹁ 選 択 ﹂
で 述 べ ら れ て い る よ う に ︑ ロ イ ド ・ ジ ョ ー ジ の 下 に 自 由 党 が ケ
イ ソ ズ を 始 め と す る 経 済 学 者 を 政 策 委 員 と し て 作 成 し た 革 新 的
国 内 経 済 政 策 が ︑ 一 九 二 九 年 総 選 挙 で そ れ を 遂 行 す る 意 志 の な
(8)
い 労 働 党 に 盗 用 さ れ ︑ 総 選 挙 は 失 業 問 題 を 克 服 す る 革 新 の 自 由
党 及 び 労 働 党 と 保 守 の 保 守 党 と の 対 決 に な っ た ︒ 総 選 挙 の 結
果 ︑ 革 新 が 圧 勝 し ︑ 進 歩 的 多 数 派 が 議 会 内 外 に 形 成 さ れ ︑ ロ イ
ド ・ ジ ョ ー ジ が 大 胆 な 経 済 政 策 を 揚 げ て い た 一 九 三 〇 年 ま で 失
業 問 題 で 政 府 は 自 由 党 の 支 持 を 受 け る 可 能 性 が あ っ た と マ ク
ド ナ ル ド の ナ シ ョ ナ ル 路 線 を 正 当 化 し た R ・ バ セ ッ ト の 解 釈 と
(9)対立する解釈をしている︒自由党のプログラムは二年間に二億
五千万ポソドを投じて公共事業等を起し六〇万人を雇用すると
いうものであった︒が︑マクドナルド内閣はこれを政策化しえ
なかった︒失業問題担当閣僚トマス(一.一国.円ずOヨOω)が作成
したトマス計画は︑アプローチの仕方において保守党と共通の
もので︑政府が直接に公共事業を行なうという自由党の政策で
はなく︑企業や植民地などの経済活動を援助する計画であり︑
(10)何よりも貿易の振興を狙ったものであった︒労働党閣僚にとっ
て自由党のプラソは余りにもラディカルなものであった︒だか
ら失業問題は両党提携の争点とはなりえず︑自由党が切望し
た︑選挙改﹁革の問題が両党を提携せしめたのである︒そこで一
九二九年一二月に選挙改革のためのアルスワター委員会(ご寧
に'く碧興Ooヨヨ一一80)が設置されたのである︒労働党内閣は失
業対策によってではなく︑選挙改革問題で自由党の支持を得
ていく︒しかし︑労働党は比例代表制には反対で第二投票制(鶴#興き二くo<9Φ)で自由党と歩みよるが︑それにも初めか
ら余り乗気ではなかった︒そうしたことからスキデルスキーの
解釈によると︑ロイド・ジョージの斬新な経済政策をはねつけ
た形でマクドナルド内閣のナショナル路線が︑筆者が理解して
(11)いたよりも早い時期から始まっているのである︒
第五章﹁イマジネーショソの欠如﹂もこの労働党内閣初期の
トマスをはじめとする失業問題委員会による政策形成を問題に
している︒ここでは先にも若干触れたトマス計画のみならず国
内 政 策 の す べ て が ︑ 建 設 的 イ マ ジ ネ イ シ ョ ソ を 欠 い た も の で あ
っ た と 論 ず る ︒ ト マ ス 計 画 も 保 守 党 政 府 の そ れ を 踏 襲 し た も の
に す ぎ な い と い う ︒ そ れ は 筆 者 の 論 文 で は ︑ 前 政 府 の そ れ と は
比 較 に な ら ぬ ほ ど 大 規 模 な も の で あ っ て 二 十 万 人 を 雇 用 し ︑ 少
な く と も 大 不 況 で な い 経 済 状 態 の 下 で は 一 定 の 効 果 を 収 め え た
(12)であろうと筆者は評価しているのだが︑スキデルスキーは政府
が直接財政責任をもつ幹線道路建設その他の公共事業計画がネ
グレクトされたので大不況がこなくても無意味なものであった
というような見方をしている︒このような国の公共事業計画
は︑ロイド・ジョージが唱え︑政府内では失業対策委員会の一
員であったモーズリがすでに一九二九年一〇月一七日の覚書で
提案しているが︑トマスの下にあってトマスを動かしたという
官僚H・ウィルソソ(辺﹃=O窮60〜≦﹃O詳)が反対し︑運輸
相H・モリソソ(一一〇﹁げO一,ドン一〇﹁一,一㏄O=)も反対して実現しなか
(13)った︒ウィルソソは︑反動的保守的官僚とみられていた人であ
(14)
り ︑ 政 府 の 失 業 政 策 に 影 響 力 を 及 ぼ し た と い う ︒ 概 し て 労 働 党
閣 僚 は 行 政 経 験 に 乏 し か っ た の で ︑ 各 省 庁 の 高 級 官 吏 の 影 響 を
強 く 受 け た の で あ る ︒
第 六 章 ﹁ 最 初 の 蹟 践 め き ﹂ は ︑ 労 働 党 内 閣 の 国 内 政 策 の 貧 し
さ へ の 批 判 が 次 第 に ト マ ス 国 電 尚 書 に 集 中 し ︑ ト マ ス が 一 九 三
〇 年 六 月 植 民 相 へ 更 迭 さ れ た 経 過 な ど を 述 べ て い る ︒ 一 方 ︑ 大
不 況 は イ ギ リ ス 経 済 に 深 刻 な 影 響 を 及 ぼ し て く る ︒ 政 府 は 大 不
況 に 対 応 す る 政 策 を 作 り 出 す こ と を 迫 ら れ た ︒ そ こ で マ ク ド ナ
(244}5[コ
大 恐 慌 期 の イ ギ リ ス 労 働 党 内 閣 論
ルド首相は一九三〇年二月彼が自ら議長となる経済諮問委員会
(EAC)を発足させた︒第七章﹁大恐慌の衝撃﹂は︑このE
ACについて詳しく述べる︒
EACはH・ヘソダーソソ︑ケイソズ︑コール︑ベヴィソ︑
R・H・トーニィ(閃■甲即︑﹃餌芝昌O望)らを含む一五人で構成
された︒しかし︑このイギリス首相のシソク・タソクは︑プレ
ーソ・トラストとしての機能を発揮できなかった︒そこでは経
済的保守と経済的革新の見解の対立が余りにも著しく︑そのた
めに諸問題について統一見解を導びき出せなかった︒革新派の
ケイソズ︑コール︑ベヴィソらは︑不況からの脱出は貿易の復
活(門oくそ巴)では不可能であり︑関税︑輸入統制︑国内投資が
必要だと主張した︒が︑A・バルフォア(︾憎簿霞ゆ巴ho霞)や
英波石油会社会長のJ・キャドマソ(冒ゴ昌O彙︒αヨ鋤昌)ら保守
派は︑高賃金︑社会サービス費︑労働組合の強い影響力(その実
行恒轟良ドΦと述ぺられているが︑これは争議とか賃金決定に
おける影響力とみられる︒)等が︑この国の経済危機の根底にあ
るとみ︑もっぱらそれらを除去し︑輸出貿易の回復に期待をか
(15)けていた︒スノーデソ蔵相もこの後者の例であった︒こうした
両派の対立ゆえに︑EACは労働党内閣の政策作成機関として
⁝機能しえなかった︒それは委員数の多さ︑その超党派的人事︑
そしてスノーデソに代表されるように︑経済的政策決定者がす
べて経済的保守の正統派であったことによる︒第十章﹁政党と
大不況﹂でもEACによる国際経済の分析とか︑経済学者ピグ ー(帳〆︑○・℃一αqo¢)とケイソズとのEACの小委員会におげる
論 争 が 再 現 さ れ て い て 興 味 深 い ︒ E A C ξ い て は ︑ Z フ ㍊ 翫 )
パロヅクにょるベヴィソの伝記でかなり詳しく述べられている
が︑本書はこれまでの研究書の中でもっとも詳細なものと言・昆
よう︒
第八章﹁モーズリの叛乱﹂は︑ラソカスター公領尚書でトマ
スの内閣失業対策委鼠会に属していたオズワルド.モーズリ
ボ︑ケイソズやロイド・ジョージのような進歩的アイデアをも
ち︑経済危機打開策として政府が直接財政責任を負う積極的な
公共事業の推進を軸とし︑保護関税︑帝国内の結合の強化を閃
るプラソを提起したものの︑これが内閣に容れられず一九三〇
年五月大臣の地位を辞任する経過等について述べている︒彼が
内閣に提出したモーズリ・メモラソダム(本書の附録として収
められている)に代表されるモーズリの政策にもとずく運動
は︑労働党のみならずこの党の外部においても意外な反応を生
んだことを本書は明らかにしている︒とくに︑労働党内に・おい
て彼の政策主張にひかれた下院議員やその他の党員は決してそ
う少なくはなかったことが読者の関心を集めるであろう︒ちな
みに︑この書の著者は︑本書刊行後はモーズリの伝記を執筆して
いるといわれ︑モーズリについては大変よく知っている人であ
る︒モーズリ・メモラソダムが︑トマス国憲尚書に提示されぬ
ときに内閣失業対策委員会でトマス以外の大臣に見せられ︑か
つ党外にも出されたがために︑トマスの怒りと反感を買って内
閣で拒絶されるに至ったというその経過に関する事実も筆者に
とっては初めて知ることである︒但し︑これは筆者の不勉強の
せいかもしれない︒だが︑その後まもなく︑労働党を去って新党
を結成し︑一九三二年には︑イギリス・ファシズムの首領とな
るモーズリの思想との関連性についてはどうも明確ではない︒
議会制デモクラシーをモーズリボ如何にみていたか︑そして労
働党内閣の大臣をしていたとき︑彼のデモクラシー観なり制度
イメージがどう変ったのかという問題である︒
第九章﹁首相による直轄﹂は︑トマス更迭後︑失業問題は首
相が委員長となる失業対策委員会によって担当されるに至り︑
自由党との二党会談による連携の強化にもよって公共事業が拡
大されて行ったことを述べている︒しかし︑選挙改革での両党
の交渉は︑五月に失敗していたので︑両党の関係が極めてよく
なったというわけではない︒失業保険制度の問題では︑自由党
と保守党は労働党と対立することになる︒失業者の増大ととも
に失業手当の支給資格や支給期間などが問題とされてくるが︑
この問題に関するかぎウ︑労働党が他党と共通の立場をとるこ
・診﹂は困難であった︒だが︑まだ一九.二〇年まではロイド・ジョ
ージも政府の投資による大規模な公共事業を主張していたの
で︑政府がそれに応ずる経済政策を打ち出せば︑労・自両党で
困⁝難な情勢に対処していくことも可能であったであろうと著者
は示唆している︒けれども︑第十章で述べられているように︑
ヤクドナルド首相がモーズリ辞任後に新経済政策を求めて受げ たEACからの助言は︑全く矛盾する二つの側の助言であり︑
(17)首相を混乱させただけだったという︒
第十一章﹁中枢の破産﹂は︑一九三〇年一〇月の議会再開か
らその年末までをフォローし︑とくに労働党内部にマクドナル
ド内閣への失望が生じ︑批判が強まっていたこと︑失業保険問
題王立委員会の設置︑ナショナル・ガヴァメソトへの動きなど
について述べている︒そして︑第十二章﹁危機の深化﹂(℃o一簿
︒{Z︒閃簿霞口)は︑一九一↓二年に入って失業者は激増し︑世
界危機の深まりを見るなかでいかなる政策選択がありえたかを
論じている興味深い章である︒ここで次のような重要な見解が
提示されている︒
﹁一九三一年までにイギリスにとってデフレーショソと不況
の悪しき循環を破る問題が重要になってきた︒世界貿易が近い
将来に回復しなければ︑イギリスは国際収支と国家予算の危機
に直面しただろう︒この二つの危機が︑為替相場に大きな圧力
を生み出すということはリァルな問題であった︒だが︑政治的
困難は︑労組幹部を例外として誰も金本位制を破棄する備えδ
なかったという事実から起った︒このことは︑スターリソグへ
の圧力が増大するにつれて金融財政的地位を正す積極的政策へ
の要請は強まり︑さらにその上︑政府がそれを引き延せば︑そ
れだけ一層︑金融財政的平衡を回復する最短かつ最も直接の途
として︑生活水準を切り下げる緊縮への叫びが大きくなる︑と
いうことを意味するものであった︒しかし︑このコースに労働
(246)52
大 恐 慌 期 の イ ギ リス 労 働 党 内 閣 論
党が確実に抵抗することは明らかだった︑オルターナティブは
この危機に先んずる政策であらねぽならないし︑または︑少な
くともその危機が到来したとぎ︑政府は︑必要とされるような
緊縮措置への代償として提起しうる︑代りの政策を打ち出すと
(18)いうことを確実にせねばならないであろう︒﹂
実際︑オルターナティブとしての政策を保守党も自由党もも
っていた︒保護関税プラス緊縮が保守党︑緊縮プラス借入れが
自由党︑であった︒保守党︑モーズリ派︑労組幹部は︑自治領
および植民地とのより緊密な通商関係を求めていた︒しかし︑
労働党内閣だけが何も提案しうる政策がなかったのである︒そ
して︑すべて決定を先に延ばす方式をとった︒スノーデソ蔵相
とグレーアム商相は︑膨脹政策もデフレ政策もとりえない混乱
した状態であった︒著者は︑これを政治家における建設的思考
(19)
の 欠 如 と 指 摘 す る ︒
し か し ︑ そ れ で も ま だ 労 働 党 内 閣 に チ ャ ソ ス は あ っ た ︒ 三 月 か
ら 四 月 に か け て 内 閣 の 人 的 再 編 成 の 必 要 が 生 じ て き た ︒ そ の 中
で ス ノ ー デ ソ が 三 月 中 旬 前 立 線 症 の 手 術 を 行 な い 病 床 に あ っ た
の で 蔵 相 の ポ ス ト を 動 か す こ と を 酋 相 も 案 じ て い た ︒ そ の 頃 ︑
内 閣 の 超 党 派 路 線 が 強 ま る な か で 自 由 党 と の 連 立 内 閣 の 可 能 性
が 生 じ て い る ︒ 勿 論 ︑ こ れ は 自 由 党 内 の 分 裂 状 態 と か ︑ と く に
労 働 党 の 態 度 で 実 現 し な い ︒
さ て ︑ 八 月 の 危 機 が 到 来 し た と き の 労 働 党 内 閣 に つ い て は ︑
第 十 三 章 ﹁ 労 働 党 内 閣 の 崩 壊 ﹂ で 叙 述 さ れ て い る ︒ 著 者 は こ の
危機は政治的危機であったとして︑政治指導を問題にするのてある︒失業手当などの負担により一億二千万ポソドの国の予算
赤字を予告し︑緊縮措置を勧告した﹁メイ報告﹂についても︑
政府が何らコメソトすることなしに金融恐慌が始まっていると
ぎに刊行したこと︑それから十余日も金融危機に何ら措置しな
かったことも見逃せない︒﹁メイ報告書﹂については︑ケイソ
ズ︑H・ヘソダーソソ︑ベヴィソらが批判しており︑代案,.一し
てかれらが委員として入り作成し︑七月に刊行された;ク︑︑︑
ラソ報告書﹂に基づく政策をあげている︒ケイソズの政策は︑
賃金・物価の引下げに反対し︑輸入を規制する関税を導入し︑
世界の価格水準を引上げる国際通賃行動を起すというものであ
った︒これは長期的政策となるが︑金融危機における代案とし
て彼が提示したのは︑歳入関税の導入と減債基金の停止であっ
樋 こ う し た 肇 は ・ ベ ヴ ィ ソ も 甦 T U C の 肇 と し て 内 閣
に 提 案 し て い る ︒ 著 者 は べ ヴ ィ ソ を 経 済 的 革 新 と し て 高 く 評 価
(21)している︒この章は︑失業手当・給与のカットを含む緊縮案に対するケ
イソズやベヴィソの代案の存在を浮彫りにしている点で興味深
い︒労働党内閣の総辞職と挙国一致内閣の結成が現実的なもの
となったのは︑緊縮案をめぐって閣⁝議が不統 におちいり︑ニュ
ーヨークとパリの銀行からのクレジヅトを受ける条件を満たさ
なくなった八月二十二日頃までであるとされており︑そうした
意味でスキデルスキ!は︑挙国一致内閣がかなり前から計画さ
(22)れたという説を否定している︒
四
最終章(第十四章)﹁結論﹂のところで注目されるのは︑比
較論的に第二次労働党内閣が位置づけられていることである︒
議会の地位においても︑経済情勢においても︑類似するところ
のある一九六四年の労働党内閣と比較すれば︑ウィルソソ内閣
(23)の方が議会操作に長じていたと指摘している︒それからスウェ
ーデソ国家には国家が直轄する積極的国家介入が伝統化してい
たが︑イギリスにはそれがなく︑大蔵省とは経済政策を作成す
る経済問題省という観念が全くなかったことが︑ロイド・ジョ
← や モ 支 リ の 政 策 を 実 現 さ せ る こ ﹀ ﹂を 妨 げ た と い う 鰯 も
またおもしろい︒
また︑労働党内閣の敗北主義は自ら科したものであったこ
と︑官僚の意図する方向へ閣僚が動かされたこと︑この党の閣
僚が統治の知識のないプロパガソディストだったことなどを述
べ︑適切な移行琿論のないこの党は環境のなすがままに敗北主
義者となったと論じている︒
以上にスキデルスキーの﹃政治家と大恐慌﹄について紹介を
してきた︒勿論︑筆者のこの紹介が︑この著書の重要なすべて
をフォローしたとは言えないが︑すでに述べた問題関心にした
がってこの書の骨組みとも言える部分を紹介したことにはなる
であろう︒ この書を読んで考えさせられる問題点は︑全体としてスキデ
ルスキーは余りにもケイソジアソで︑ロイド・ジョージやモー
ズリの政策構想をイギリスで実現しうるリァルな選択として評
価しすぎているきらいがある︒イギリスのニュー・デールはそ
の後もなかなか実現しないのであるが︑それはこの国が高度工
業国でしかも輸出貿易に負うところの大ぎな国であるからであ
ろう︒なお︑国家の積極的介入は第一次大戦の時期に経験してい
るし︑福祉国家へと進んで行ったわけだから全く知らないもの
ではなかった︒また︑社会主義者は︑産業の国有化とか国家統
制という経済構造の変革につながる政策構想をもち︑それを一
九三〇年代に重要視して来るのだが︑G・D・H・コールに代
表されるこうした社会主義的再編成の方向をスキデルスキーは
余りにも軽視しているようにみられる︒確かに労働党は︑ロマ
ソチックなユートピア社会主義から現実的社会主義の方向に転
じつつあったのであり︑長期的視座でみるならば︑それもリア
ルな選択といえないでもないだろう︒著者のロイド・ジョージ
派自由党をはじめ経済的革新びいきから︑一例をあげると︑失
業対策の公共事業について︑﹁自由党が政府よりも積極的な革
新的政策を有していたので政府はそれに劣等感を抱き︑そのよ
(25)うな政策をもてなかった﹂と述べているが︑これは彼の偏見か
らくる創作であろう︒ドラマティックな表現が多くみられるの
もこの書の特徴である︒
しがしながら本書は︑マクドナルドに指導♪盛﹂れた第二次労働
(248)LL
n"恐 慌 期 の イ ギ リ ス 労 働 党 内 閣 論
党内閣を本稿のはじめに述ぺた分析方法で研究した現代イギリ
ス政治史研究に寄与しうる論文といえよう︒EACの果した役
割︑モーズリの行動︑政策決定に影響ある官僚と閣僚の関係な
ど従来余り知られなかった部分が第一次的史料に基づいて証明
されていることが注目されるのである︒
最後に︑スキデルスキーがこの論文を書くに当って参考に
し︑引照したりした史料について需えば︑政府文書はまだ﹁五
〇年規則﹂のために用いられていないが︑重要と思われる第一
次史料をはじめ︑新聞︑雑誌︑政府および労働党の刊行物など
が史料とされていて︑かなり実証性の高いものとなっている︒
マクドナルド︑ケイソズ︑モーズリ︑ウェッブ︑ローシアソ︑
H・ヘソダーソソらの手書きの文書(勺昌o話)が使用され︑従
来空白であった歴史の部分を埋めたという点が評価されよ・り︒
カールトソと並んでスキデルスキ1の研究は︑何よりも第一次
史料の豊かさという点で注目されるものである︒
(1)論題は﹁一九三一年危機に至るイギリス労働党1ー︑政
策作成者の状況認識と構造認識を中心として﹂というもの
で︑﹃国家学会雑誌﹄第八卜一巻第十一・十二号︑第八卜
二巻第三・四号︑同第七・八号に連載された︒
(2)ρピ﹂≦o≦讐憎切ユ$ぢげ①件≦①o口窪︒乏騨﹁ω一めQ︒一‑
一ゆ腿OリピOコOO鵠一一ゆ切㎝.
力卿切帥6自ω窪ゴ一㊤ωご℃9騨剃O鎮Oユ鞠摩騨"ピO野二〇量累切うq・ }{.芝げ①巴Φさ什70∩o旨ω9<讐ぞoOユo︒一9団コ臓一勢鵠鋤.も︒
嗣ヨ℃帥匂りω①oh一ゆもゆ一冒♂く麟もゆゴ一つ㈹εP
その他の研究書については︑﹃神奈川法学﹄第六巻第一
号の拙稿の一〇〇頁に挙げられているので参照されたし︒
(3)皆σ象し︒歪①算ざ勺︒囲三︒奮︒・きα壽︒︒一§亨
やメ一・
(4)ぎ葬‑や︒︒︒︒刈・
(一〇)一})三・
(6)園家学会雑誌︑﹄第黛L巻第二.,写の拙稿〃参照
きれたし︒
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もり犀剛瓢O﹃ぎ甲.甥O℃'6=こづ℃.×一,×=・
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拙稿︑註(6)の論文第三章第三節を参照されたし︒
同︒
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(一九七四年二月)
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