インドの民間医療保険の動向
福 岡 藤 乃
■アブストラクト
インドの経済は近年著しく成長しており,世界2位の11億8000万人の人口 を抱えていることから,巨大な保険市場として注目されている。
インドでは医療サービスが全国民に公平に行き渡っていない。公的医療機 関では薬以外は無料で治療を受けることができるが都市部にしかなく,広い 国土の農村地域には行き届いていないため,多くの人が民間医療機関で治療 を受けている。現在医療費は上昇しており,医療保険の需要が高まっている。
民間の医療保険は主に損害保険会社で販売されており,実損填補の医療保 険が主である。損害保険の中で医療保険は自動車に続く主力商品となってお り,過去5年で3倍以上に増加した。しかし競争の激化と医療費の高騰から 損害率が高くなっており,十分な医療費データと良質な医療機関のネットワ ークの確保が重要となっている。
■キーワード
インド,医療保険1.はじめに
インドは低迷する日本経済に比較して,中国とならんで
GDP
(国内総生 産)の上昇率が高く,世界第2位の11億8000万人(2008年)の人口を抱えて いることから,巨大市場として注目されている。インドでは階層制度が今も 残り,貧富の差が著しいが,IT産業の成功に伴う中間層の拡大により,保/平成23年8月31日原稿受領。
険購買層も拡大し,民間医療保険の役割もそれに伴い増加すると考えられる。
本稿では,まずインドの医療制度⑵と保険市場と医療保険市場⑶を考察す る。次に民間の医療保険の動向⑷を考察し,最後に医療保険市場に参入する 上での課題について検討したい⑸。
2.インドにおける医療制度
インドの医療制度には3つの問題点がある。公的医療機関の不足,国民の 過大な自己負担,医療費の高騰である。
インドの公的医療機関は,政府が運営しており誰でも無料で治療を受ける ことができ,薬だけが有料である。すべての人が公的医療機関に行くことが できれば,患者の自己負担はほとんどなくて済むはずであるが,都市部には 公的医療機関があるものの,地方では公的医療機関,医師,設備が不足して おり,全国民に医療が公平に行き渡っていない。そのため多くの人が公的医 療機関を利用できず,民間の医療機関に頼らざるを得ない状況にある。政府 の医療政策が進まないため,民間の医療機関が年間20%以上の割合で増加し ている。民間の医療機関は,特に公的医療機関の少ない地方で増加している。
インドの医療機関従事者全体の70%から80%が,民間の医療機関で働いてお り,公的医療機関で働く医師の多くも自分のクリニックなどを開設している。
民間の医療機関は,サービスが良く待ち時間が短いことから,公的医療機関 を利用できる都市部においても中間層や富裕層は民間の最新式の医療機関を 好んで利用している。
インドの
GDP
に占める医療費の割合は4.1%(2007年)と低く,政府が 負担している医療費の割合は26.2%と極端に少ない。インドは人口が多いた め,人口一人当たり医療費でも中国や東南アジア諸国と比べても少ない金額 である 。さらに政府が負担していない医療費,すなわち民間が負担してい1) 2007年の人口一人あたりの政府の医療費支出は,インドが29ドル(PPP:購 買力平価)であるのに対して,中国104ドル,インドネシア44ドル,マレーシ ア268ドル,フィリピン45ドル,タイ209ドルである (
WHO,
2010)。186
る医療費のうち,89.9%が患者の自己負担となっており(図表1参照),過 大な自己負担が問題となっている。
また,日本のように統一された診療報酬が決まっていないため医療費が病 院によって異なり,現在医療費がインフレ状態で急激に高騰していることな どが,大きな問題となっている。それでもインドの民間医療機関の医療費は,
欧米の医療機関に比べて80%も安い 。そのため,インドは欧米や中東から のメディカルツーリズム の目的地となっており,治療のための専用ビサ もある。このことが医療費をさらに高騰させる要因にもなっている。
2) 例えば米国では,平均的に心臓バイパス術が13万ドル,心臓弁置換術が16万 ドルかかるが,インドでは各々1万ドル,9000ドルと格安である。(
Deloitte,
2008)3) メディカルツーリズムとは,医療費の高い欧米などの地域から,医療費の安 い東欧,ロシア,中南米,アジア,中近東地域などに治療に行く,医療ツアー である。家族を帯同し,観光とセットしても米国での治療費より安いため,米 国では急増している。デロイトの推計では2007年米国から海外に治療のため75 万人が渡航。2010年には600万人に上ると予想されている(Deloitte,2008)。
4) 治療を受けるための医療ビザがあり,滞在期間が1年までで,さらに1年間 延長も可能である。患者の付き添いビザもあり,家族2名までが患者本人と同 じ期間まで滞在できる。
図表1:インドの医療費
GDP
に対する医療費の割合(%)国民医療費に対する政府の負担割合(%)
国民医療費に対する民間の負担割合(%)
民間負担の医療費に対する患者負担割合(%)
民間医療費に対する医療保険割合(%)
国民一人あたりの医療費(PPP:ドル)
出典:WHO, World Health Statistics2010
,
201066 109 1.0 2.1 92.2 89.9 75.5 73.8 24.5 26.2 4.4 4.1 2000年 2007年
3.インドの保険市場と医療保険
2000年8月にそれまで国内産業保護政策により閉ざされていたインドの保 険業が民間に開放 された。その後インドの著しい経済成長に伴い,2000年 に2.32%(生命保険1.77%,損害保険0.55%)だったインドの保険普及率 は2009年には5.39%(生命保険4.73%,損害保険0.66%)に上昇した。保険 会社は全体で政府所管の6社から48社へ増加している。このうち,民間の生 命保険会社は22社,損害保険会社は17社で,損害保険会社には医療専門保険 会社の3社 が含まれる 。近年はインドの経済成長と巨大人口が誘因とな って,インドに進出する外資系保険会社が増加している 。インドの総元受
5) インドでは国内産業保護政策によって,1956年にそれまで約240社あった生 命保険会社を統合し,政府所管の生命保険会社
Life insurance Companyだ
けとした。また1972年に,約100社あった損害保険会社を統合し,政府所管の 損 害 保 険 会 社General Insurance Company
と そ の 子 会 社 4 つ(UnitedIndia Insurance Company, Oriental Insurance Company, National Insur- ance Company, New India Company
)だけにして,保険市場を独占した。しかし,その後インドは産業不振となり,国の財政が困窮し1991年に経済開放 へ 政 策 転 換 を 行 っ た。保 険 に 関 し て も1999年 に
IRDA
法(InsuranceRegulatory and Development Authority
)法を制定し,2000年8月に保険業 が民間に開放されるようになった。6)
GDP
に対する保険料の割合で計算7) 医療保険専門会社と し て 承 認 さ れ て い る の は,Star Health and Allied
Insurance社, Apollo Munich Health Insurance社, Max Bupa社の3社で
ある。Max Bupa社は2010年3月に承認されたばかりである。8) 損害保険会社では政府所管の再保険会社と信用保険専門の
ECGC,農業保
険専門のAIC
がある。この他に郵便局が日本の簡易保険と同じように保険を 販売している。郵便局の生命保険は約1000万件の契約があり,保険金額は約 7,300億ルピーある。地方の郵便局では,1年間で保険料が15ルピー(約30円)で,保険金額が10万ルピー(約20万円)の生命保険を販売する(Asia Insur-
ance Review,
2009)。9) 現在外資系の持株割合は26%であるが,2008年12月22日に,上限を49%に引 きあげる内容の保険法を修正する法案が議会に提出された。しかし,今のとこ ろ26%のままである。
188
保険料は,2009年には,生命保険が26,450クローレ(約3兆7,100億円),損 害保険が34,620クローレ(約6,400億円)に成長した(図表2参照)。
政府所管の保険会社の独占時代が長かったため,政府所管の生命保険が 70.10%,損害保険が59.40%(2009年)を占めるなど依然としてシェアが大 きいものの,保険市場全体が伸びるに従いそのシェアは次第に小さくなって いる。
インドでは医療保険は主に損害保険業界で扱われている。損害保険の保険 料全体で,医療保険の保険料に占める割合は21.12%である(図表3参照)。
損害保険業界の医療保険の総保険料は2005年の2,222クローレ(約407億円)
から2009年には8,305クローレ(約1,521億円)と5年間で3倍以上に増加し た(図表4参照)。
医療保険専門会社と損害保険会社の収入保険料のシェアでは,政府所管の 損害保険会社の4社でシェアが6割を超えている。民間の保険会社では
ICICI Lombard社が11%,医療保険専門会 社 の Star Health社 が 8 %,
図表2:インドの総元受保険料(単位:クローレ(千万インドルピー))
出典:IRDA “Annual Report”2004‑2005,2006‑2007,2007‑2008,2009‑
2010から作成
Bajaj Allianz
社が4%と競争が激しい(図表5参照)。図表3:損害保険料の種目別割合(2009年)(単位:クローレ(千万インド ルピー))
出典:IRDA “Annual Report”2009‑2010
図表4:損害保険の医療保険料の伸び(単位:クローレ(千万インドル ピー))
出典:IRDA “Annual Report”2009‑2010 190
インドの医療保険の成長は著しい一方で医療費が標準化されずに高騰して いるため,医療保険の損害率は好ましくない。政府所管の保険会社では110
%以上,民間医療保険会社は80%以上となっており,さらに上昇傾向にある。
損害率が悪い理由は,医療業界の規制がないことと保険会社側の激しい競 争と経験不足にあり,具体的には,①医師と病院に対する規制の欠如 ②治 療の内容と医療費の標準化の欠如 ③医療費のデータ未整備 ④激しい競争 による不適切な保険料設定 ⑤代理店による不適切な販売 ⑥医療費の管理 不足 ⑦査定担当者の教育と査定システムの不足である。
損害率が高いため,多くの保険会社がインドの医療保険市場が今後巨大市 場になる可能性があることを理解しながらも,参入することに消極的である。
さらに保険会社が損害率を意識して既往症の被保険者の支払拒否をする割合 が高いため,医療保険に対して良くない経験をした人が多く,それにより医 療保険に対して否定的なイメージを持つ人も多い。
図表5:医療保険の会社シェア(2009年)
出典:IRDA “Annual Report”2009‑2010
4.民間医療保険の動向
インドでは公的医療保障制度は公務員やフォーマルセクターの企業,貧困 者など,国民の一部しか対象としていない。公的医療制度を含めて,医療費 を保障する方法として大きく4つに分類される。①雇用主による団体医療保 険,②民間の保険会社による個人医療保険,③中央政府や州政府による公的 医療保障制度,④地域の共済方式である。民間の医療保険会社は雇用主によ る団体医療保険や民間の個人医療保険だけでなく,公的医療保障制度のうち の貧困層向け医療保険と,地域の共済方式にも参入することが可能で,それ がインドの民間医療保険において重要な特徴である。
筆者は2011年2月にインドにおいて医療保険を販売する民間保険会社や
NGOにインタビューを行う機会を得た。民間の保険会社は,インドの医療
費が高騰していることと,都市部において販売競争が激しくなっていること から,自社の体力や医療保険市場における経験に合わせて,ターゲットとす る顧客層や地域を慎重にかつ戦略的に選択していた。ターゲットとする顧客 層は富裕層と中間層を主とするが,近年では貧困層や貧困層すれすれの中間 層などもターゲットとして注目されている。⑴雇用主による団体医療保険と民間の個人医療保険
①環境
他の新興国と同様に,民間の医療保険を販売する保険会社では,都市部の 富裕層と中間層を主なターゲットとして団体医療保険と個人医療保険を販売 している。しかし近年都市部では,団体医療保険の競争は激しく,医療保険 の引き受けだけでは利益を得ることが難しくなっており,特に医療保険専門 会社では,医療保険の豊富な経験データと高品質な医療機関のネットワーク を利用して,富裕層の個人マーケットを主なターゲットとしているところも ある 。
10) 医療保険専門の
Apollo Munich Health Insurance
社は,医療機関Apollo192
政府は社会保障の代替として民間の医療保険を拡大する方向であり,2009 年6月には新しい商品加入時または契約更改時に65歳までカバーしなくては ならないと定めた。また,2011年4月から医療保険会社を自由に変えられる 制度により,今後さらに競争が激化することが予想される。従来は医療保険 会社を変更することによって,既往症の待機期間などが再設定されるなどの 被保険者の不利益が生じており,医療保険会社を変更しにくい理由となって いた。民間の保険会社では既に他社から変更してきた場合に他社の保険を前 年度の保険とみなすなどの対応を行っているところもある。
医療保険の主な販売チャネルは,団体保険ではブローカー,ダイレクトな どで,個人は代理店であったが,最近ではバンカシュランスやテレマーケテ ィング,インターネットなどが拡大している。政府所管の損害保険会社の1 つである
New India社では小売店で保険を販売している。
医療費の実費を支払う医療保険では,病院に対する支払いについてキャッ シュレスサービスを提供していることが一般的である。またコールセンター で医療相談などのサービスも行っている。キャッシュレスサービスを行うた めには,医療機関のネットワークが重要となる。各保険会社は医療機関と直 接契約する他に第三者機関(TPA:Third Party Administrations)を利用 し,医療機関のネットワークを構築している。インドでは第三者機関が病院 のネットワークやキャッシュレスサービス,治療の医療管理などを保険会社 から委託を受けて行うのが一般的であり,第三者機関も
IRDA(Insurance Regulatory and Development Authority
)の認可が必要となっている。一方,政府所管の損害保険会社4社 は従来行っていたキャッシュレス サービスを2010年7月15日に中止することを決定した。デリーやムンバイ,
ハイデラバードなどの民間医療機関が自由に高額な医療費を請求する た グループ内の50病院を含め,831都市で約4000病院のネットワークを構築して いる。
11)
National Insurance社,New India
社,Oriental Insurance社,UnitedIndia
社12) 約3000のネットワーク病院のうちの11%に当たる350病院が全体の保険金請
めである。キャッシュレスサービスを中止することによって,患者はいった ん自己負担してから保険金請求をしなくてはならなくなるため,保険金が減 るのではないかと期待されている。政府所管の損害保険会社は医療保険のシ ェアが6割ある一方で,100%を大幅に超える損害率となっており対策が必 要といわれていた。
②第三者機関(TPA)
現在,医療保険の第三者機関は27機関が
IRDA
の法に基づく認可を受け ており,ネットワークの病院は全体で約1万以上となっている。第三者機関 は保険会社から委託を受けて医療機関との間に入り,主に①キャッシュレス サービス,②コールセンター運営,③医療費の管理,④保険金支払いの管理 の4つの役割を行っている。第三者機関を利用する利点は,保険会社は効率 的で費用効果的なサービスを行えること,医療機関としては医療費を適時に 受け取れること,患者としては医療費の支払いを心配しなくてよいという点 がある。IRDA法では第三者機関に7日以内の支払いを求めているが,保険 会社の支払いは平均121日かかっており,支払業務の外部委託は早い支払い を可能にすると考えられている。2009年度に第三者機関が受付した保険金請 求件数は,約337万件で前年度の約245万件と比較して38%増加,1カ月以内 の支払いが全体の7割である(図表6参照)。また医療費が標準化されてい ないインドでは,第三者機関が医療費のデータを持つ唯一の機関として,医 療保険を扱う保険会社からは情報源としても重要な提携先と考えられている。第三者機関に対する保険会社からの委託料は,保険料に対する割合で5.5%
である。
一方で第三者機関の問題点としては,第三者機関によって医療機関のネッ トワークの規模が大きく異なる点である。ネットワークが大きい第三者機関 では2,040病院,小さい第三者機関では58病院で規模に大きな差がある。ま たその他の問題点として,医療費の支払いにおいて,医療機関と汚職や談合 をするなどの問題が発生している。さらに第三者機関への委託料は,結果的
求の80%以上であることが判明した。
194
には契約者に転嫁される上,利用によって損害率が劇的に減少しているわけ でもいないことも問題となっている。
政府所管の損害保険会社4社は共同で効果的な保険金請求の管理を行って 損害率を低減しようという目的で第三者機関を2011年7月に立ち上げること を予定している。
⑵公的医療保障制度と民間医療保険会社
多くの新興国と同様に,公的医療保障制度には公務員のための制度である 中央政 府 医 療 制 度(Central Government Health Scheme : CGHS) と,
フォーマルセクターの企業従業員を対象とした従業員の州保険 (Employ- 図表6:TPAの保険金支払件数
出典:IRDA “Annual Report”2009‑2010
13) 中央政府が公務員とその家族のために創設した医療保険である。2010年現在 25都市で利用されている。2010年には中央政府雇用者およびその退職者年金受 給者医療制度という新しい制度の草案が作られた。この新しい制度は現在の公 務員やその退職年金受給者は任意であるが,新しい公務員は強制になる予定で ある。
14) すべての従業員をカバーしているわけではなく,政府が定義した工場などで
eesʼState Insurance
)がある。これらの制度には民間保険会社は関与する ことができない。2008年4月から,中央政府は貧困線以下の貧困層向けに公的な保障制度を 開 始 し た 。こ の 制 度 は
RSBY
制 度(Rashtriya Swasthya Bima Yo-jana
)と呼ばれる制度で,中央政府が75%,州政府が25%の保険料を負担し,運営費用は州政府が負担する。この制度が他の公的医療保険制度と全く異な るのは,民間の医療保険会社が入札制度により参加できる点である。
インドでは,人口の4割にあたる人が貧困ライン以下で生活している 。 また人口の7割は農村地域に居住しており,農村地域や社会的弱者に保険を 広める必要があるため,2002年に
IRDA
は保険会社に対して,農村地域 と社会セクター (都市部の経済的弱者)への保険販売義務を設けた。1999 年IRDA
法以降に開始した保険会社(民間の保険会社すべてが該当する)は,各年度に農村地域と社会セクターで一定割合の保険を引受することが義 務となっている(図表7参照)。既存の保険会社は2002年3月31日に終了す る年度の数値を下回ってはならないと定められた。保険会社や営業網の大き さに関係なく義務化され,達成しないと罰則が与えられ,違反を繰り返すと 免許が取り消される。
働く従業員を対象としている。中央政府医療制度と従業員の州保険をあわせて も人口の約5%に過ぎない。インドのほとんどの被雇用者はこの制度の対象外 で医療保障がない状態である。
15) 連邦政府が行う
RSBY
制度以外に,州政府が独自に行う制度もある。And-hra Pradesh
州 のRajiv Aarogyasriや Tamil Nadu
州 のKalaignar制 度 な
どである。16)
World Bank Dataによれば,インドで2005年に2ドル以下(PPP)で生活
する人は76%,1.25ドル以下(PPP)で生活する人は42%に上る。17) インドの国税調査の内容に基づき一定の条件(人口密度,農業従事者割合な ど)を満たすところが,農村地域と定められたが,保険会社からの要望によっ て,定義が改定された。新しい定義では州政府などがある都市部以外のところ と定義された。
18) 都市部または農村部の経済的弱者または下層階級の組織化されていない労働 者。
196
従って,この
RSBY
制度に参加することは,貧困層市場への保険販売義 務を果たす手段の一つになるため,制度開始当初は様子見だった多くの民間 の保険会社が,入札に注目しはじめている。Apollo Munich Health Insur-ance社では,データをよく検討し収支に見合った保険料で入札し落札する
ことができれば魅力的な市場と考えており,農村地域と社会セクターの規則 を遵守するために活用していくと語っている 。RSBY
制度では,民間の医療保険会社は,州が行う入札に参加し一番安 い保険料を提示することができれば,幾つかに分けられた地域のうち一番事 故が少ない有利な地域を選択することができる 。保険会社は貧困層と個別19) 2011年2月にグルガオンの
Apollo Munich Health Insurance社で筆者が
聴取。20) 入札は一番安い提示額が基準となり,その金額を提示した保険会社が一番に 有利な地域を好きなだけ選択することができる。二番目の金額を提示した会社 は,二番目に地域を選択する権利が可能であるが,一番目の提示金額と同じ金 額で引き受けなければならない。保険料がその地域のリスクに見合っていない と判断した場合には,引受を拒否することができる。その場合には,選択権が 図表7:インドにおける保険会社に対する農村地域と社会的セクターの
達成義務 1.農村地域
⑴生命保険 決算年度
⑵損害保険
2.社会的セクター
1年目 2年目 3年目 4年目 5年目 その年に引き受けた証券の割合 7% 9% 12% 14% 16%
その年の総保険料(リトン)の割合 決算年度
出典:N.
Lalitha “ Readings in Microfinance”
2008 5%3%
2%
3年目 2年目
1年目
被保険者数 (人) 決算年度
20,000 15,000 10,000
7,500 5,000
5年目 4年目 3年目
2年目 1年目
契約をするのではなく,州政府と契約を行うため,煩雑な事務手続きを行う 必要はなく事務コストも最小限で済む。毎年入札が行われるため,その契約 の収支が合わないと判断するのであれば,次の年の入札を値上げする,入札 に参加しないなどの判断も可能である。この制度の中で保険会社が行う役割 は,主に病院のネットワーク管理とキャッシュレスによる保険金支払いであ る。収支に見合った保険料で入札に参加することが可能であるため,参加す る保険会社が増加している。制度開始1年目の145地域は下記の図表8の6 社が引き受けていたが,最近では11社が引き受けしており,入札にはさらに 多くの保険会社が参加するようになった。
次へ繰り下がって行き,引受手がいなかった地域については,再度入札が行わ れる。
保険料は地域の医療費相場や罹患率などによってさまざまで,400ルピー程 度から800ルピー程度と幅広い。
出典:RSBYホームページ(http://
www.rsby.gov.in
) 図表8:RSBY制度の開始1年目の保険会社シェア(%)198
この制度では,連邦政府と州政府が保険料を負担し民間保険会社に支払い を行うが,政府は貧困層に無料でこの制度を提供するのではなく低額な負担 を求めており,5人家族(夫婦と子供3人まで)あたり,30ルピー(約60 円)の年間保険料を徴収する。加入した場合には年間3万ルピー(約6万 円)までの入院医療費と交通費が保障される 。2011年の3月までに4,300 万世帯の貧困家族のうち,約5割にあたる2,300万世帯が
RSBY
制度に加入 し,スマートカードと呼ばれる被保険者カードを持つようになった。これに より約8,000万人が被保険者となり,すでに約150万件の入院医療費の支払い が行われた。この制度ではスマートカードを使って,現在398地区で3,279の民間病院と 1,105の公的病院でキャッシュレス医療を受けることができる。カードがあ れば,どの保険会社が管理する地区であっても,ネットワーク内の病院で入 院治療を受けることができる。カードの作製費一人あたり60ルピー(約120 円)は中央政府が負担する。このカードは不正を防止するために最新式とな っており,性別,年齢,氏名,写真と指紋が記録されている。対象となる貧 困層は,医療費として支払う手持ちのお金がなく,文字を書けない場合が多 いことから,キャッシュレスとペーパーレス対応が不可欠であるため,退院 時には生じた医療費がカードのデータから差し引かれ,患者はお金を支払う 必要がなく書類の記載も不要である。RSBY制度の医療費は治療内容ごと に政府により定められている。医療費は病院から保険会社に直接データで請 求され,保険金支払までペーパーレスで行うことが可能となっている。
⑶地域の共済制度と民間医療保険
広大なインドでは地域のコミュニティを利用した保険販売も有効な方法と
21) 入院医療費と交通費(100ルピー)を保障する(交通費は年間合計1,000ルピ ーまでで3万ルピー(約6万円)の上限に含まれる)。既往症は免責ではなく,
年齢制限もない。
して注目されている 。筆者が訪問した
NGOでは,コミュニティファンド
が保険販売を行い,保険料を徴収し,そのプールから医療費の支払を行う方 法をとっていた(図表9参照)。保険会社はこのコミュニティファンドをグ ループとして団体保険を引き受けている。経験料率で引き受けており,扱う 保険会社はリスクと事務コストを下げることができる 。ここで扱われる医療保険は定額医療保険ではなく,医療費を支払いする実 損填補の医療保険であった。医療費は病院に対して出来高払いのキャッシュ レスサービスで支払われる。医療費が上昇しないようにネットワーク病院と の間で手術費などは細かく規定することが重要な点となる。ほとんどのコミ ュニティファンドで保障の対象となるのは,入院した場合の医療費であるが,
医療以外にも所得補償や世帯主の死亡保障なども行われる。この仕組みでは 病院に対してコミュニティファンドから医療費が支払われるため,病院側か らの請求は控えめに行われる点で,医療費の高騰を抑えた持続可能な仕組み となっている。
22) 2011年2月にムンバイの
SwissRe社で筆者が聴取。
23) 2011年2月にムンバイの
Swathにて筆者が聴取。
図表9:共済を利用した医療保険の仕組み
200
5.医療保険市場に参入する上での課題
⑴医療費管理と病院ネットワークの徹底
インドでは政府の医療政策が不十分なため,医療のレベルや医療費が安定 しない状況にあり,急騰する医療費が民間医療保険の損害率に大きな影響を 与えている。医療費そのものを支払う医療保険の場合には,民間の医療保険 会社にとって,①一定以上の医療の質を持つ医療機関のネットワークの保持,
②病院と医療費についての事前契約,③医療費のデータ集積による適切な保 険料算出,④医療費査定と管理の徹底,⑤
TPA
利用の場合,優れたTPA
との契約などが,健全な医療保険経営のために重要な点となる。現在,医療 保険協会の設立が検討されているが,そのような保険会社全体での活動を強 化し,医療政策の改善を政府に依願していくことも,長期的視点から必要で あろう。⑵ターゲットとする地域と顧客層の選択
今後経済発展により中間層が拡大すると考えられるため,中間層以上をタ ーゲットとしていくことが現実的である。また広大な国土で州や地域によっ て医療レベルや罹患率,生活習慣も異なることから,事前の十分な調査が必 要となる。都市部では医療費の高騰と医療保険の激しい競争から,医療保険 で利益を得ることがすでに困難になっているため,利便性だけではなく地域 の特性や市場可能性をよく見極め,自社の得意とする形で参入することが好 ましい。
通常の医療保険市場で一定の経験を積んだ後,農村地域と社会セクターへ の保険販売の義務を満たすため,あるいは新規の市場を開拓するため,
RSBY
制度や農村部への参入も考えられる。貧困層や農村部に参入するた めには,販売チャネルを銀行ではなくマイクロファイナンス機関にする,代 理店を農村部に新設する,保険商品を顧客に合わせて費用保険型にするか定 額保険型にするか検討するなど新たな取り組みが必要なる。地域のコミュニティを利用する場合には
NGO
など地域を良く知る組織と協力関係を築き,情報の収集と地域での信頼の獲得を図ることが必要となる。今後,インドの 経済発展に伴い中間層人口が多くなることや地方の医療費が比較的安定して いることなどから,参入地域と参入手法を慎重に選択すれば,医療保険にお いても十分に利益をあげることができると考えられる。
⑶中長期的戦略の必要性
医療費を支払う医療保険では,病院ネットワークの構築や病院とのキャッ シュレスサービスの取り決め,医療費査定や医療費管理の徹底などさまざま な施策が必要となり,傷害保険や日額型の医療保険と比較して参入障壁が高 い上,利益をすぐに上げることが難しい。そのため中長期的な戦略で参入し なければならない。現地でのインタビューでは,いずれの組織も医療保険で 利益を上げるには5年はかかると見ておくべきだとの見解だった 。
調査を通じて民間医療保険会社が注意深く参入するのであれば,人々に医 療を提供しながら持続可能な経営を行える可能性が大きいことがわかった。
インドは国土が広いため農村地域がまだ多く取り残されており,そういった 農村地域では人々は病院に行くことが少なく治療費も安い。すなわち,民間 医療保険会社が注意深く参入地域を選択し,適切な医療データを利用して保 険料を算定する技術的な要件が揃い,意見が一致できる地元組織とパートナ ーを組んで保険販売が可能であれば,中長期的には医療保険で利益を上げる ことが可能である。
インドの医療制度が課題を多く抱え,社会保障が発展途上であることを考 えると参入は慎重であるべきという意見も多いが,インドの国内は地域によ って環境や文化が異なり,パイロットプログラムなどに時間がかかることや,
条件が良い地域や地元組織はすでに欧米の保険会社などが参入していること を考えると,参入するのであればできるかぎりすみやかに検討に入るほうが 良いだろう。インド政府が医療制度と社会保障をどのように発展させるのか,
24) 2011年2月にハイデラバードの
BASIX
社他にて筆者が聴取。202
民間の医療保険の役割をどう拡大するつもりなのかという点が,民間の医療 保険市場の将来に大きく影響を与えるため今後も注目していきたい。
(筆者はあいおいニッセイ同和損害保険株式会社勤務)
参考 献
ASSOCHAM
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伊藤成朗(2009) インド−普及の進まない公的医療保障の実態− アジアの医療保険 東京大学出版会