博士(農学)堀尾 学位論文題名
ホウレンソウ根腐病菌 (Aphanornyces cochlioides) の生態に関する化学的研究
学 位 論 文 内 容 の 要 旨
剛
北海道におけるホウレンソウ(Spinacia oleraceaL.)の主要な土壌病害のひとつに根腐病 がある。これ は卵菌綱に属する糸状菌のAphanomyces cochlioidesによるものである。この 菌ぬホウレン ソウ,シ口ザ(Chen〔)podium albumL.),テンサイ(Beta vulgarisL.var. saccharif era)などのアカザ科植物を主たる宿主としており,宿主の生育ステージ全般にわた り感染する。また,本菌はその生活環において,水中での運動性を有する遊走子を形成し,これ が宿主への直接の感染源となる。その感染過程において,遊走子は宿主植物から滲出されている 成分に対して誘引性を示すことが知られている。しかしながら,本菌を含め植物病原糸状菌の遊 走子の誘ぢI物質を明らかにした研究例はきわめて少ない。本研究は,主としてホウレンソウを実 験材料に用い,遊走子の誘引活性物質を明らかにすることを目的とし,得られた結果は次の通り である。
1.遊走子誘引活性に対する生物検定法(担体法)の確立
誘引物質の分離に先立ち,生物検定法を確立した。すなわち,ガスクロマトグラフィーの担体 で あるChromosorbWAWを 被 検体 溶液 に浸 し, こ れを 風乾 後, 遊走子懸濁液中に 投下し,
この担体近傍への遊走子集合の有無を観察する方法である。その際,基準となる集合の度合を决 めておき,その活性を与える破検体溶液の最低濃度を破検体の活性の強さ(比活性)とした。こ の検定法は,疎水性化合物の混合物に対しても,従来用いられていたキャピラリー法に比較し,
再現性が高い 。担体法が植物病原菌の誘 引試験に用いられたのは本研 究が初めてである。
2.植物体地下部抽出物からの遊走子誘引物質の分離
生鮮重22. 9kgの収穫期のホウレンソウ地下部のメタノール抽出物をエーテル/水により分配し たところ,エーテル可溶部に誘引活性が見られたが,水可溶性画分には活性は見られなかった。
この活性画分を先に確立した生物検定法を用いて誘引活性を指標に分画したところ,活性本体を 結晶として14. 7mg単離に成功した。各種機器分析および化学合成によりその構造を决定し,
cochliophilinA(1,CA)と命名した。すべ ての分離操作を通して,活性画分重量の滅少に 伴い比活性が上昇していたので,.抽出物が示す活性の本体はCAであると結諭した。また,き わめて低濃度(10―9〜10 ‑10 1'110l/1)のCA溶液で処理した担体に対しても,A. cochlioides の 遊走 子は 顕著 な誘 引 現象 を示 した が ,他 のAphanomyces spp.に対してはCAが高濃度で あっても誘引活 性を示さなかった。これはCAが特異的にA. cochlioidesのみを誘引している ことを示すものである。
次に,アカザ科のシロザにっいても,その地下部抽出物から遊走子誘引活性物質の検索を行つ たところ,活性 成分としてCAが分離された 。シ口ザにおいてもCAが抽出 物の示す誘引活性 の本体であった。CAはテンサイにも含まれていることが知られており,アカザ科植物の広い範 囲 にわ たっ て含 まれ る 成分 と考 えら れ る。3例と は いえCAの 植物 界 での分布範囲と,A.
cochlioides宿主範囲との間に相関があることは,A.cochlioidesの宿主特異性を説明する一助 となるものであ る。さらにシロザからはCAとは構造的にまったく異なる誘引活性化合物,N・ trans ‑feruloyl・4一〇−methyldopamine(2)も分離された。化合物(2)は10‑niol/1で 活性を示した。一方,2の類縁体であり,ホウレンソウおよびテンサイに含まれていることが知 られているN‑trans―feruloyl一3―〇‑ methyldopamine(3)は,2の1/3000程度の活性し か示さなかった。これは,遊走子が活性化合物中の特異的な構造を感知していることを示してい る。
3. ホ ウ レ ン ソ ウ 地 下 部 滲 出 物 中 に 含 ま れ る 遊 走 子 誘 引 活 性 物 質 に っ い て iH・NMR測定 の応 用により,微量 のCAを検出・定量する方法 を確立した。この方法によ り,水耕栽培お よびヴァット栽培したホウレンソウの滲出物中にCAが存在することを見いだ し,CAがホウレンソウより滲出されていることを確認した。さらに,その定量を行ったところす 1個体・1日当た り20―30 ngのCAが滲出され ていることが分かった。根圏内での蓄積も考慮 すると,この滲出量は遊走子の誘引には十分な量と考えられた。一方,根滲出物中に含まれる誘 引活性物質の分離を行った。活性成分の検索を生物検定を指標に行ったところ,活性成分は滲出 物の水溶性画分には存在せず,工一テル可溶性画分に見いだされた。水耕培養によりこの疎水性 画分を大量に得 ,活性画分の分画を行った。その結果,この活性本体はCAであることが明ら かとなった。
以上述べたように, A. cochlioides遊走子が示すホウレンソウ根への誘引現象は,根から滲 出されるCAが示 す誘引活性によるものと結論した。宿主植物の成体を試料として,植物病原 菌遊走子の誘引物質を明らかにしたのは,本研究が初めてである。また,アカザ科植物に対する
誘引現象にも,CAが重要な役割を果たしていると考えられる。
本研究により,A. cochlioidesの宿主植物への誘引現象はCAを中心とした化合物を媒介と した生物間相互作用であることが明らかになったが,この事実は化学生態学的にも興味がもたれ るところであり,また本菌の感染機構および宿主特異性の解明に対しても,有益な知見を与える ものと考えられる。
O O
OHO 1
H O
OCH3
CONH
Ri 2: R1 OH, R2‑OCH3 3: R1=OCH3, R2"OH
学位論文審査の要旨 主 査 教 授 水 谷 純 也 副 査 教 授 市 原 耿 民 副査 助教授 田原哲士 副査 助教授 川端 潤
R2
本論文は和文で記され,図47,スキーム19,表61,引用文献74を含み,総頁数156からなり 内容は緒論,実験材料および方法,実験結果および考察,総合考察,ならびに要約の5章に分け
られ,英文の概要が付してある。ほかに参考論文2編が提出されている。
北海道におけるホウレンソウ(Spinacia oleracea L.)の主要な土壌病害のひとっに根腐病 がある。この 病原菌は卵菌綱に属する糸状菌の1種Aphanomyces cochlioidesによるもので,
本菌はその生活環において水中での運動性を有する遊走子を形成し,この遊走子は宿主植物から 滲出する化学物質に誘引されることが知られている。そこで著者は,主としてホウレンソウを実 験材料に用い,遊走子の誘引活性物質を明らかにする目的で本研究に着手した。得られた成果は
次 の通り である 。
先 ず,誘 引活性 物質 探索の 指標と なる生 物検 定法を 確立し た。ガ スク口 マト グラフィーの担体 で あ るChromosorbWAWを 被 検 体 溶 液 に 浸 し , こ れ を 風 乾 後 , 遊 走 子 懸 濁 液 中 に 投 下 し , こ の担体 近傍へ の遊走 子集 合の有 無を観 察する 。その 際, 基準と なる集 合の度 合を决めておき,
そ の活性 を与え る被検 体溶 液の最 低濃度を被検体の活性の強さとする検定法である。この方法は,
従 来 用 い ら れ て い た キ ャ ピ ラ リ ー 法 に 比 べ て は る か に 再 現 性 の よ い こ と が 分 か っ た 。 次 に,収 穫期の ホウ レンソ ウ地下 部22. 9kg(生 鮮重) から,先に確立した検定法を指標に溶媒 抽 出・分 配・各 種クロ マト グラフ ィーを 駆使し て,遂 に活 性本体14. 7mgの単離に成功した。各種 機 器 分 析 およ び 化 学 合 成に よ り , そ の構 造 を5・hydroxy―6,7―methylenedioxyflavoneと 決 定 し ,cochliophilinA(1,CA) と 命 名し た 。 き わ めて 低 濃 度 (10‥ ―10―lorriol/1)の CA溶 液で 処 理 し た 担 体に 対 し て も ,A. cochlioidesの遊 走 子 は 顕 著な 誘 引 作用を 示し たが,
他 のAphanomyces spp.は 高 濃 度 で あ っ て も 誘 引 さ れ ず ,CAが 特 異 的 にA. cochlioidesの み を誘引 するこ とを見 いだ した。
一 方 , 同 じ ァ カ ザ 科(Chenopodiaceae)の シ 口 ザ (Chenopodium albLLm L.) 地 下 部 から も , 遊 走 子誘 引 物 質 と してCAと 新 規化 合 物N‑trans・feruloyl→4−〇・methyldopamine(2) を 単 離 同 定 し た 。 化 合 物2は 活 性 が 弱く ,10‑'mol/1で 活 性 を 示 した 。CAはア カ ザ 科 の テ ン サ イにも 含まれ ている こと が知ら れてお り,ア カザ科 植物 の広い 範囲に わたっ て含まれる成分と 考 え ら れ ,A. cochlioidesの宿 主範 囲と相 関があ ること を見い だし たこと は,こ の病原 菌の 宿 主 特 異 性を 説明す る一助 にな ると思 われる 。また ,2の類似 体で あり, ホウレ ンソウ および テン サ イ に 含 まれ て い る こ とが 知 られ てい るN‑trans−feruloyl一3ー〇−methyldopamine(3)は,
2の1/3000程度 の 活 性 し か 示さ な い と こ ろか ら , 遊 走子 が誘引 活性 物質の きわめ て特異 的な構 造 を識別 してい ると考 察し た。
で はホ ウ レ ン ソ ウ の根 か ら 本 当 にCAが 滲 出 して い る の で あろ う か 。 そ れを 調べる ために , 著 者 は 先 ずCAの 微 量 定 量 法 を 確 立 し た 。 種 々 検 討 し た 結 果 ,'H−NMR測定 法 の 応 用 によ り CAの 分析 が 可 能 で あ るこ と を 確か め,こ の方法 により 水耕 栽培お よびヴ ァット 栽培 したホ ウレ ン ソ ウ の 滲 出物 中 にCAが存 在 す る こ とを 見 い だ し た。 さ ら に そ の 定量 を 行 っ た とこ ろ ,1個 体 ・1日 当た り20―30 ngのCAが滲 出して い.る こと が分か った。 根圏内 での蓄 積も 考慮す ると こ の滲出 量は遊 走子の 誘引 には十 分ナょ量と考えた。著者は,さらに生物検定を指標に根滲出物中 に 含まれ る誘引 物質の 分離 を行い ,その 活性が 水溶性 画分 ではな く,工 ーテル 可溶性画分に見い だ された ところ から, 水耕 培養に よりこ の疎水 性画分 を大 量に得 ,活性 画分の 分画を行った。そ
の 結果, 活性 本体がCAである こと を明ら かにし た。
以 上 の よう に , 著 者 はA. cochlioides遊走子 が示 すホウ レンソ ウ根へ の誘 引現象 は,根 から 滲 出 さ れ るCAの 誘 引 活 性に よ る も の であ る と 結 論 した 。 宿 主 植 物 の成体 を試 料とし て,植 物 病 原菌遊 走子 の誘引 物質を 明らか にしたのは,本研究が初めてと思われる。また,A. cochlioides 遊 走 子 が 広 くア カ ザ 科 植物 に誘引 される のも,CAによ ること を示唆 した。 これ は植物 ・微生 物 間 相 互 作 用 に植 物 の 二 次 代謝 産 物 で あ るCA( フラ ボンの1種 )が重 要な役 割を 果たし ている こ と を示し たも ので, 生態化 学の分 野に 貴重な 新知見 を提出 するば かり でなく,将来の生合理的作 物 病害防 除を 考える うえで も示唆 に富 み,今 後の展 開が期 待され る。
よ っ て 審査 員 一 同 は ,最終 試験の 結果と 合わ せて, 本論文 の提出 者堀尾 剛は 博士( 農学) の 学 位を受 ける のに十 分な資 格があ るも のと認 定した 。