N13区
No 2 TM2 N2区 泥炭層 (上 位 )
植物の種子 と思 われるものはあるが、昆虫の遺体 は含 まれていない。
INo 3 TM2 N2区
泥炭層 (中位)(a)ク
ロマメゲ ンゴロウ?
左上Mの
一部 ・後胸腹板 の一部上翅 は疱端約
1/3が
欠 けている。翅長 (推定)約
52mm、 辺幅約2241m、 後胸腹板 の長 さ約23Hlm、 推定幅36nlm。
①上翅表面は黒色で微細刻印があり、②
3列の弱い疎′ 点刻列があり、③翅の大きさ、後胸腹 板の形などからゲンゴロウ科であり、③からクロマメゲンゴロウに最も近似する。
しかし、点刻がやや大きく、より疎であり、辺幅からみて体長がやや細長いように見える点
で、現生種 と異 なっている。(b)コ
ガムシ?
前胸背板左 側 の一部①表面 は一様 に′点刻 を密布 し、②前、後縁角 に小点刻群があ り、③前縁近 くに内側 に向か う 点刻列がある。
これ らの特徴か らガムシ科であることが考 えられる。 さらに推定体長は15mmぐらいであるの で、 コガムシに最 も近いが、決定す るにはエゾコガムシとの比較が必要である。
(C)キ
ヌツヤ ミズ クサハムシ?
右上辺疱端部①点刻にともなうシワは深く、②第一間室は高く隆起し、③青藍色の金属光沢がある。
84
これ らか らミズ クサハムシ属 と考えられる。②からキヌツヤ ミズクサハムシとシラハ タミズ クサハムシが該当するが、上辺の一部か らの同定は難 しい。
現在両種の分布 は、シラハ タミズクサハムシは,ヒ海道 にはかな り分布 しているが、本州では、
山形県、岩手県 に産地があるが きわめて局所的である。キムッヤ ミズクサハムシは北海道か ら 本州 にかけて広 く分布 している。
配
4 TM2 N2区
泥炭層 (中位)植物化石のみで昆虫化石は含 まれていない。
陥
5 TM2 N2区
泥炭層 (中位)(a)エ
ゾォォ ミズクサハムシ?
左上翅基部の断片①第
H間
室はするどく稜状で、②l、 11間室 にわずかに弱い横ジワがあり、③肩部はよくも り上がってぃる。これらのことからcOnstticicollis(オ オ ミズクサハムシ
)種
群 と考えられる。②か ら、シナ ノオオミズクサハムシとエゾォォミズクサハムシが考えられるが、現生種の分布では、シナノ オオミズクサハムシが福島・群馬 。新潟・長野各県の産地に分布するのに姑 し、エゾオオミズ クサハムシは北海道南部から青森・岩手 。宮城・山形・福島と東北地方に厚 く分布 している。配
6 TM2 N2区
泥炭層 (下位)(a)ゾ
ウムシ科の一種の上翅断片および腹板の一部①上翅点刻列は浅い条溝をともない、②最外側の点刻列は基部で
2本
に分かれてお り、間室 は小点刻 と不規則なシワがあり、③上辺は中央後で強 く隆 くもり上がってお り、④第1・2腹
節腹板 に粗大点刻がある。これらのことからゾウムシ科 と思われる。推定体長 3〜5 Hl14の微小種で、種の決定は困難で ある。
随
7 TM2 N2区
泥炭層 (下位)(a)エ
ゾォォミズクサハムシ?
上辺片(b)ゲ
ンゴロウ科の一種上12̲片、後胸腹板の一部
①上疱の縦溝 は明瞭で′点刻 をそなえてお り、②小 点刻 を散在 し、③等径的微細刻F「がある。
後胸腹板の形か らゲ ンゴロウ科 と考 え られるが、上翅 に縦スジをもつ種 は、セスジゲ ンゴロ ウ属 と、ゲ ンゴロウモ ドキ属である。大 きさか ら考えて前者に属すると思われるが、種 の同定 は困難である。
(C)ゾ
ウムシ科 の一種上翅片及び腹板 の一部 No 6(a)と同一種であろう。
85
配
8 TM2 N2区
泥炭層 (下位)(a)エ
ゾオォ ミズ クサハムシ?
上翅片、腹板 の一部(b)ゾ
ウムシ科の一種上翅片、腹板の一部 血6(a)と同一種であろう。
ネクイハムシ亜科の ミズクサハムシ属や、ゲ ンゴロウ科、ガムシ科の種が産出したことか ら、
開水面のある、あま り深 くない水草の多い池沼 とそれをとりまく湿地があ り、湿地にはハ ンノ キの疎林 と林床 にスゲ属の植物が生 えているような環境が考えられる。ゾウムシ科の種 も、イ ネ科、スゲ属の植物 に関係 を持 った もの と考 えられる。種の同定が出来ていないのが残念であ る。おおむね、現在 の東北地方か ら北海道南部の平地か ら低 山地に発達 した低湿地 に相当 し、
気候 もやや冷涼であった と思われる。
86
5.ま
とめ最後 に、 2ケ 年の試掘調査 と、1985年度 に実施 した第1次調査 も含めて、 これまでの試掘調 査の結果 をまとめてお きたい。図40に、8層の泥炭層の推定分布範囲 と一緒 に、 これまでの調 査で確認 された遺構 ・遺物 についてまとめた。
研究施設南狽1では、三神峯丘陵に近い南側 ほ ど削平が著 しく、研究棟 に近い北側ではほとん ど削平 されていない。研究棟北狽1と実験施設周辺 も削平がなされているが、場所 によって削平 の深 さはさほ ど深 くない と思われ、遺構 は残存 している。実験施設の北東側 は、ほ とん ど削平 を受けてお らず、盛土が厚 くなされてお り、遺構が存在すれば、保存状態 は良い もの と推定 さ れる。西側の職員宿舎の南側では、第1次調査 において
A'区
を設 けて調査 しているが、時期 不明の ピッ トが5基
検 出 されただけであ り、遺物 も盛土内に入 っていた もの以外 は出土 してい ない。 この ように、AR‑5区
やN12区
な ど、 ピッ トや土坑が比較的密集 して存在す る地 区 も あるが、全体 としては遺構密度 は低 い と言 えるであろう。削平 を受 けている部分が多いが、深 い遺構 は残存 している可能性があ り、その点注意が必要である。時代別 に見 る と、縄文時代の遺物 は
AR‑12区
とN8区
で出土 している。残念 なが ら、遺物 の保存状態が悪 く、細かな時期 は不明である。 これ以外 の縄文時代の遺物 は、全 て本来の位置 を保 っていない盛土 などか らの出土である。古墳時代の遺構 ・遺物 は、N12区
でのみ発見 され ている。 これ以外 には、1986年度調査のB'区
において円筒埴輪片が1点出土 しているが、 こ れは研究施設造成時の大規模 な盛土層か らの出土であ り、かな り動か されているもの と思われ る。縄文時代・古墳時代 の遺構 ・遺物 は、 これ までの調査では、広範囲に分布す る状況 はあ ま り想定で きず、比較的小規模 な範囲に分布す るのであろう。平安時代 の遺物 は、1975年の考古 学研究室の調査 によって竪穴遺構 などが発見 され遺物 もまとまって出土 している他、第1次調 査 において もB区
の ピッ トの中か ら遺物が まとまって出土 している。実験施設の東側か ら北東 側 に、主 に分布する と見 られ、比較的広い範囲に分布す る可能性 もある。8層の泥炭層 については、人工遺物 は発見 されなかったが、古環境 を知 る上では、貴重 な資 料 となった。
NH区
では、保存状態の良好 な根株 も発見 され、 この泥炭層中に森林の跡が生 々 しく残 されていることが確実である。花粉分析結果では、比較的冷涼 な気候が想定 されてお り、今後樹種 なども含 めて検討 してい きたい。泥炭層の形成年代 については、
C年
代測定で約3 万3千
年前の年代が出ているが、泥炭層直上で発見 された火 山灰 は、 この年代では対応するテフラが無 く、 さらに検討が必要であろう。
富沢遺跡では約
2万
年前の埋没林 と石器 などが発見 され、当時の環境 と生活 を考 える上で重 要 な成果 となったが、本遺跡の泥炭層 は、 これ より年代が遡 る可能性が高 く、異 なった年代の データを比較することが可能 になった とい う点で も、意義が深いであろう。V
考察編 ―仙台城二の九跡 の考古学的調査 ― 1.仙
台 城 の 考 古 学 的 調 査 の歴 史(1)仙
台城の概容仙台城 は、本丸、二の九、三の九か らな り、遺跡登録範囲は、二の九北側の武家屋敷の一部 や三の九東側の追廻馬場 を含め、約10万 m2にお よぶ。 この城郭は、仙台市西部に張 り出す青葉 山丘陵の東縁辺 とその裾 にひろがる段丘の上に位置する。その地形は、広瀬川の形成 した
3面
の河岸段丘がい く筋 もの沢で開析 され、複雑である。本九 は、標高
H5〜 140mの
青葉山の高位段丘面 にあ り、東の達下 を広瀬川が流れ、南 には深 さ90m程
の竜の口渓谷がのびている。西 には、標高120mを
越す青葉 山丘陵がひろが り、天然 の要害 となっている。二の九は、本九の北西、約60m下
が った標高61〜78mの
中位段丘 にある。三の九 は、 さらに一段低い段丘面に位置する。青葉山を背 にした防御性の優れた城郭である。
仙台城の東 には、仙台平野がひろが り、ほぼ中央 を流れる広瀬川の流域 には、古代の郡山官 衛遺跡、陸奥国分寺跡、国分尼寺跡 などがある。 さらに北方、20kmほ ど離れて平野の北辺 には 多賀城市浮島、市川 に国府多賀城跡、その附属寺院跡 などがみ られる。周辺には、岩切城や新 田遺跡の ような中世城館跡 も遺 され、古代か ら中世、そ して、江戸時代へ と都市的景観が一貫 して保 たれていた集住地域、文化拠点 といえる。また、奥州街道に沿った交通の要衝でもある。
本九 は、慶長
5(1600)年
に伊達政宗 によって築城が開始 され、慶長15年には大広 間が竣工 し、その完成 をみる。本九 は、東西135間 (245m)、 南北147間(267m)の
広が りがあ り、大 広間を中心 に、御書院、懸造の眺成閣、艮櫓、巽櫓 など多数の建物群が設けられた。そ して、二代藩主忠宗 は、寛永
15(1638)年
に幕府 に本九下の「屋敷構作事」 を願いでてそ の許可 をえ、二の九造営に着手する。ほぼ同 じ頃、三の九 にも多数の蔵が造営 され、御蔵屋敷 が設 けられる。二の九は、17世紀中頃には北側 にひろが る江戸時代初期の五郎人姫の「西屋敷」を整地 し、その敷地 を拡大 し、元禄年間に最 も整備 された様相 をみせる。その後、火災、地震 な どによって、造成、改修が繰 り返 されるが、その主要構造は、幕末まで大 きく変化 しない。
これ らの二の九の建物は、明治15年に火災で大部分が失われた。 さらに、昭和20年には、明 治15年の火災 を免れ、最後 まで残 っていたつ【山様式 を伝 える大手門が戦災で炎上、消滅 した。
(2)仙
台城調査の歴史このような仙台城跡については、正保3、 4(1645、
6)年
に作成 された「奥州仙台城絵図」(斎藤報恩会蔵
)を
はじめ として、5つ
の絵図が残 されてお り、城郭の構造 とその変遷を知る89