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G文学部 日本 文化 研 究施骰 教育 学部 大 学教 育 開放 セ ンター
図
43
伊達宗泰の屋敷 と西屋敷の遺構Fig.48 Feames estimated to be he rttiden∝ Of VII12り瘤3V and Nib・hサ郷r2ゴたi the residence of rrohaね ゴme
(3)二
の丸期の遺構 と絵図との対比これまでの調査で発見された二の九期の遺構 と、絵図に見える施設 との対比については、年 報 7に おいて、それまでの調査結果に基づいて検討 を加えた。ここで、あらためてその概要を 記す と以下の通 りとなる。
第
5地
点で発見 された門跡は、二の九中奥北側の門に相当 し、門跡の東側で検出された多量 の柱穴は、門から東に伸び、中奥北側を画する塀跡 と、その脇に造 られた「腰掛」に相当する。門跡か ら北偵Jは、道路や「中奥馬場」 を経て、二の九北側の堀 に至る区域にあたる (付図
1参
照)。 この第5地
点発見の門跡 を基準にして、第2地
点・第3地
点の検出遺構 を再検討 したところ、第
2地
点は「小広間」の西側の、「伺公之間」 と「時斗之間」 にはさまれた「御稼通」に相当 し、第
3地
点は「元御書院」か ら、その南側の部分にあたると推定 された (図51)。 こ れまでの調査で検出された二の九期の建物は、ほぼN‑25度
―Wの
方向を示すことが判明 して お り、二の丸造営の基準がこの方向であると想定 して、検討 した結果である。以下の検討でも 同様に、N‑25度
―Wの
地割 りと考えて検討する。①
二の九建物の
1間
の寸法について二の九 を描いた絵図の中には、
1間
ごとの方眼 を描 き、その上 に建物 などの施設 を描いてい る ものがあ り、 これ を利用す る と、距離 を算 出す ることがで きる。その場合、1間
の長 さが、どれ くらいであるかが問題 となる。昭和20年 (1945年
)7月
の仙台空襲 まで残 つていた大手門 では、戦前 に実測が行 われてお り、1間
三6尺 5寸
であった (佐藤巧1967)。 これ までの調査 では、1間
を6尺 5寸
と見た方が遺構 と良 く姑応す るため、 この寸法で検討 して きた。 しか し なが ら、1間
が6尺 5寸
あるいは6尺 3寸
のいずれかではないか との見解 もある (年報1、 p.132)。 実際、年報
7に
おいて、1間 =6尺 5す
と仮定 して絵 図 と対比 させ た結果、幾分かの誤差が出ている。そこで、年報
7で
検討 した、第5地
点 と第2地
点の遺構 間の距離 と、絵図か ら 計算 した距離 との比較 を、改めて行 ってみたい。第5地
点の中奥北側 の塀が門跡西端 にあたる 位置 (図49点A)と
、第2地
点の「小広間」の周囲をめ ぐる廊下の西側の北端 (図49点B)と
の間の距離 を比較す る。前 回の検討では、
1間
の寸法 を6尺 5寸
(197cm)と した比較だけで あったので、 ここでは6尺 3寸
(191cm)の場合 もあわせて比べ てみたい。 なお、実寸の計測 は、二の九の地割 りがN‑25度
―Wで
あるとして、縮尺1/500の
図上で計測 した ものである。遺構 間実寸
南北
2082m
東 西 116.Orn文化元年図
南北
109間 20819m
東西63間 120.33m (1間
三6尺 3寸
)文化元年図
南北
109間 214.73m
東西63間 124.1lm (1間 =6尺 5寸
)享和三年図
南北 lo8.5間
207.235m
東西64間 122.24m (1間 =6尺 3寸
)享和三年図
南北
1085間 213.745m
東西64間 126.08m (1間 =6尺 5寸
)103
日
脳 祗
︱日 H 日 日 H H 日 H H U
図
49
享和 二年 之御 家作御絵 図写 (『近 世武士住 宅』 よ り、一部改変)Fig.49 A transcript of construction plan for^晦 OmarLI(Originally dra― in 1802)
1餌
1第5地点 6号建物跡(西屋敷期)
1間=6尺3寸 1間=6尺5寸
スケ ールの1目盛 は1問
2.第2地点
礎石建物(二の九期)
仙 台城 二 の丸地 区検 出礎石建物 の柱 間間隔
the building constructed on fomdaion stones fomd at心 Cnο口ar u 寸 寸 尺 一 尺 一 間
図50 Fig tt Spaces of pillar.s of
6尺 5寸
と見た場合、最大で5間ほどの誤差がでる。6尺 3寸
では、最大で3間
ほ どの誤差 でお さまる。特 に文化元年図の場合、南北ではほとんど一致 し、東西で2間ほ どの違いでお さ まっている。 これを見 る限 りでは、1間 を6尺 3寸
と考えた方が良 く対応す る。一方、実際に調査で検出された遺構の柱 間の寸法は、
1間
を6尺 5寸
と考 えた方が良 く姑応 す る。元和6年
に造営 された西屋敷の時期 と考 え られる、第5地
点Ia期
の6号
建物跡 では、西側桁行で
H間
分の礎石据 え方が検出 されている。図501こ示 したように、1間
を6尺 3寸
とす る とずれが大 きくな りす ぎ、1間 =6尺 5寸
であることはほぼ間違いない。ただ し、 この建物 は二の九造営以前の建物であるため、二の九期 とは異なっている可能性 も全 くない とは言い切 れない。二の九期の建物跡では、塀や門跡は、柱間間隔が 1間 ごとでは無い場合が多 く、検討 が難 しい。 また、掘立柱建物の場合、柱痕跡が明確でない と、正確な検討は困難である。その ため、第2地
点で検 出された礎石建物跡 を検討 したい。図50に示 したが、6尺 3寸
ではややず れが有 り、6尺 5寸
とした方が良 く対応す る。 しか し、両者の差は、1間
でわずか6伽
程度で あ り、限定 された調査 区内で検出された遺構群の位置関係だけで確定することは難 しい。この ように、
6尺 3寸
とした場合、絵 図でのずれはほ とん ど無 くなるが、実際の遺構 の柱間 寸法 とは、あまり合 わな くなる。 またこの場合、二の九造営以前 と、二の九期では、柱 間寸法105
が変化 した と考 えざるを得な くなる。一方、
6尺 5寸
と考 える と、 このような問題 は無 くなる が、逆 に絵図 とのずれが大 きくなる。絵図 とのずれは、絵図に記載 される際に、微妙なずれが 累積 した結果 と考 えられる。現状では、 どちらとも決定 し難い。以下の検討では、両方の可能 性 を考慮 しなが ら進めてい くこととするが、記述の煩雑 さを避けるために、特 に記 さない場合 は、1間
を6尺 5寸
と想定 した場合 とし、6尺 3寸
と仮定 した場合 にのみ、その旨記述す る。なお付 図1では、
1間
三6尺3寸
にほぼなるように縮尺 した図を使用 したが、これは二の丸 が6尺 3寸
を1間としていた と断定 したわけではない。絵図のずれが累積 した結果 と考えた場 合、遺構 に合 わせ るために、 どの部分でず らして行 くべ きかの判断が難 しいためで、あ くまで 便宜的な措置である。また、方眼 を描 いた絵 図の中では、宮城県立図書館所蔵の「文化元年御家造絵図写」(1804 年
)が
、建物の柱配置や、部屋の中の施設 まで、一番細か く描かれている。そのため、今後の 検討では、この文化元年図を基本的に使用 し、必要 に応 じて、その他の絵図 も使 うこととす る。②
第司0地点検 出遺構 と絵図 との対比
ここでは、前号の年報8で報告 した第
9地
点 と、本年報で報告 した第10地点について検討す る。順序 は逆 になるが、第2地
点 に近い場所 である第10地点 について、 まず検討 し、次 に第9 地点 について検討 を加 えることとする。第2・
3地
点の絵図 との対比 をもとに、文化元年図に第10地点2・ 3・4区
の位置 を対応 さ せ たのが、図51である。第10地点の2区
は、「御奉公衆御留置所」 と「御奉公衆狭箱置所」の 前 に東西 にのびる2本
の廊下 に挟 まれた部分 と、その周辺 にあたる。文化元年図では、 この2 本の平行す る施設 には名称が書かれていないが、「享和二年之御家作御絵図写」(図49、 宮城県 立図書館所蔵)で
は、「廊下」 と記 されている。第10地点
2区
検 出の石敷遺構 は、2本
の廊下 に挟 まれた、建物のない露地の部分 に、ほぼ位 置が相 当す る。ただ し、 この文化元年図では、2本
の廊下の間が、2間半 (4.8〜4.9m)で
あ るのに対 して、石敷遺構 の南北の幅は5,7mでほぼ3間
である。 また、調査 区東端で検 出 され た底面 に扁平 な礫 を据 えた掘立柱柱穴であるピッ ト2も 、2本
の廊下の西側で交差す る南北廊 下の柱 の位置か ら、半間西 にずれている。次 に、斉藤報恩会所蔵の「御二九御家作水抜御絵図」 に対応 させたのが図52である。 この絵 図では、文化元年図 とは微妙 に間数が異 な り、第
2地
点 と第3地
点の関係では、文化元年 図の 方が良 く対応する。第2地
点の位置 を基準 に合 わせ ると、第10地点2区
は、先 に見 た文化元年 図 とは、逆 に東 に半間ずれるところに姑応す る。 この絵図は、名称の通 り、二の九内のつ'水 関 係の溝 などが描かれている。第10地点
2区
に対応す る部分では、2本
の廊下の中央 に直交す る 形で、溝が南北 に走 ってお り、 これが2区
で検 出された石組溝 に姑応すると考 えられる。溝の106
位置 は、絵図の方が東 に半間ずれている。絵図ではこの溝 は、廊下 にはさまれた露地の部分の す ぐ北側で、西側 に斜 めに分岐 しているが、検出遺構 では、その ような分岐は発見 されていな い。 また、
2本
の廊下 に挟 まれる露地の南北の長 さは、3間 とな り、 この点は、遺構 の実態 に 良 く対応する。文化元年図 と水抜絵 図 ともに、細かな部分では異 なる点 も残 るが、全体の位置関係 としては、
良 く姑応 している と考 えて良いであろう。文化元年図で建物の柱割付 を見 る と、必ず しも 1間 の倍数ではな く、柱 間が半間や 1間 半 などになる場合 も多い。場所 によっては、3間半の距離 を
4間
に割 つているような場合 もある。絵図 と遺構 との微妙 なずれは、建 て替 えによって、位 置が若干ずれている場合 も考 え得 るが、絵 図に記載す る際 に、微妙 に実際 とのずれが生 じてい る可能性 も考 え られる。3区
の壁面で確認 された遺構 については、平面精査 を行 つていないので、検討 は難 しいが、「小広 間」 の北東 にある「御客之間」 と「御次」 の南側 の部分 に関わる遺構 である可能性が、
位置関係か らは考 えられる。
4区
で検 出された溝状の遺構 は、「中之間」 の西裏手 にある「腰 掛」 に対応するが (図51)、 これ も遺構 の様相がほ とんど明 らかでないため、確実ではない。③
第
9地
点 Ⅲ oⅣ ・V期
の遺構 と絵図 との対比第
9地
点では、 Ⅲ・Ⅳ・V期
の遺構が、二の九期 の もの と考 えられる (図53・ 54)。 この内Ⅲ期 は、Ⅳ期
,V期
とは土地利用のあ り方が大 きく変わるため、 Ⅲ期が元禄年間の二の九改造 以前、Ⅳ期・V期
は元禄年間の改造以降にあたる可能性が高い。 また、Ⅳ期 とV期
の境 は、文 化元年 (1804年)の
落雷 による火災で、二の九が全焼 し再建 されたことに対応す る可能性が考えられる。
まず Ⅲ期 の遺構群 を、元禄年間の改造以降の状況 を示す ものではあるが、文化元年図を使い、
第
2地
点の位置 を基準 に対応 させ ると図55‑1の
ようになる。ただ し、第10地点では、東西方 向で半間ほど遺構 との対応がずれていたため、その分、西 に半間ず らして対応 させてみた。一 方、第5地
点の中奥の問を基準 に対応 させ る と図55‑2の
ようになる。図561ま、1間 =6尺
3 寸 となるように縮尺 した もので、第2地
点 を基準 に対比 した ものである。図55の 1と 2のずれ は、前述の ように、そ もそ も第2地
点の位置推定 と、第5地
点の門跡の位置が、最大で10mほ
どずれることによる。第