粋 ∽
mA ピット1埋± 25Y6/4 1こぶい責色 シルト 粘性弱 しまり強 基本層Ⅲ‑lc層に類似するがきわめて硬質 ―型°Om B ピット2掘方埋± loY571 灰色 粘土質シルト 粘性中 しまり中 V層起源のプロックを少量含む C ピット2柱痕跡 10YR4/1 褐灰色 粘土質ンルト 粘性中 しまり弱 D 落ち込み埋土 基本層Ⅱ‑2b層とⅡ‑2c層に炭が混じる層 E 石敷の充填± ltlYRFD/3 にぶい黄褐色 砂質シルト 0 2m
降 約 m 雪
Eを140m 卜 60 0tlm
ケーブル 埋設部 Ⅱ‑2a6100m Ⅲ‑lb Ⅲ‑2b 6000m
‑3 60 0tlm 図
13
仙台城二の丸跡第10地点2区
断面図 Fig.13 Cross sections of Grid 2 at hlM10 馘アスファルト I ib赫
用 されてお り、明治以降には使 われていない。 このため
V層
は、二の九存続期、あるいは二の 九造営時の整地層 と考 えられる。②
検 出遺構
2区
において検 出 された遺構 としては、石敷遺構 ・石組溝 ・ピッ トがある。【石敷遺構】
2A区
か ら2B区
にかけて検 出 された。後述す る石組溝 を埋め、石組溝 の側石 をはず して造 られている。南北端 で後述す る石組溝 にほぼ直交す る。南北 の幅 は5,7mで
ある。扁平 な河原 石や、扁平 な亜角礫 をその まま利用 しているが、少数なが ら、一部 を打 ち欠いて使用 している 例がある。ほ とん どの礫 は、本来の形 を巧みに利用 して、石 と石の間に隙間がで きない ように 敷 き詰めるが、場所 によっては、隣の石 にあたる部分 を、その部分だけ打 ち欠いている。石敷 の上面 レベルは、北端が南端 より5 cmほど低 く、わずかに北側 に傾斜 している。北端の石がほ ぼ似通つた大 きさの ものが一列 に並ぶ他、 これ とほぼ直交す る方向に石 の 目地が通 る場所があり、作業工程 を示す もの と考 えられる。
【石組溝】
2B区
において、両側 に石 を組 んだ溝が検出された。2B区
検 出の溝 は、その南端が石敷遺 構 によって破壊 されているが、2A区
の南端の、石敷遺構 の南側 にも、石敷遺構上面 よ り高い レベルか ら礫 が並 んで検 出された。 この石列 の方向が、2B区
検 出の溝 と一致す ることか ら、石組溝の延長であ り、その西側の狽J石か ら裏込め部分であると考 えられる。検 出された長 さは、
北側で2.Om、 南側 で1.9mであるが、本来 は石敷遺構 の部分 も一連でつ なが っていた と考 えら れることか ら、合計9.6mと なる。南北 とも調査 区外 に伸 びて行 く。方向は
N‑25°
一Wで
ある。幅 は上端 で30〜40cm、 下端で50cmと 、ややオーバ ーハ ング している。深 さ60cmを計 る。上幅 120cmの掘 り方の中に、下半分 は小振 りの石 を積み、上半分 は30〜50cm前 後 のやや扁平 な石 を
2段
積 んでいる。底面 は径数cm〜拳大 の円礫 や扁平 な河原石 を敷いている。側石の上面 には、地表 に露 出 していた時 に形成 された と考 えられる腐食土の薄い層が認め られた部分があつた。
西側の現存す る側石 の南側 に、側石 の抜 き取 り痕が検 出されている。 この抜 き取 り痕の一部は 石敷の石 に覆われてお り、石敷遺構が造 られる際 に邪魔 になる側石が抜 き取 られていることが 明 らかである。その際 に、石敷遺構 の上面 レベル と同 じ高 さまで埋 め戻 されている。遺物 は、
埋土か ら土師質土器の皿 などが出土 しているが、年代 の判明す る遺物が出土 していないので、
埋 め られた時期 は不明である。
【ピッ ト1】
2A区
の中程東壁沿いで検 出された もので、 Ⅲ層上面か ら掘 り込 まれた、径50cm程 の ピッ ト である。底面 は石敷遺構 の石敷面 に達 している。掘 り込み面か ら、明治15年以降に掘 られた も%
のである。これ以外にも、い くつかのピット状の落ち込みが、Ⅲ層上面で検出されている。
【ピッ ト
2'
2C区
のV層
上面から掘 り込まれたもので、南半分は調査区外 となり、北半分だけの検出で ある。径40cm前後を計る不整円形の柱穴の底面に、径30cm程の、上面が扁平な石を据えて、こ の石の上に柱を立てている。底面に石を据える構造の掘立柱は、これまでには二の九期に見 ら れる構造で、明治以降には見 られないことから、このピット2は 二の九期の柱穴と考えられる。また、前述のように、
2D区
の東端で径40cmの大 きな石が検出されている。上面が平 らなこ とから柱の礎石の可能性があるが、礎石を据えるための掘 り方は検出されていない。③
小結
以上の
2区
検出の遺構 と層序関係 を簡単にまとめてお く。石組溝 と石敷遺構 との構築の前後関係は、石組溝を埋めて石敷遺構が造 られていることから 明確であるが、石組溝の機能が全 く失われたかどうかについては別である。石組溝は石敷遺構 上面のレベルまで埋め戻されてお り、25cm程の深さが残っている。2 C ttV層上面・
2D区
Ⅳ 層上面の標高が、石組溝の上面 とほぼ同じで、石敷遺構の部分だけが25cm程、すなわち石組溝 の深さだけ低いことになり、石敷遺構 と石組溝が一連のものとして機能することは可能である。また
2D区
Ⅳ層が明治に入ってからの整地であったとしても、地山のⅥ層上面のレベルは、石 敷遺構の上面より、なおloc/m以上高い。 したがって、石敷遺構にたまった水 を排水するための 溝 として、石組溝はその機能を残 していたものと考えたい。ピツト2は 二の九期のものであることが確実であ り、
2D区
東端の礎石?も その可能性があ る。 しか し、これらの遺構が石組溝・石敷遺構 と同時に存在 したのかどうかについては確定で きない。Ⅲ
‑3層
からまとまって出土 した陶磁器類は、後に出土遺物の項で詳述するが、幕末から明 治初頭ごろのもので占められることから、石敷遺構の機能が失われ、これらの遺物が大量の炭 と共に廃棄 されたのもこの頃であると考えられる。二の九が本来の機能を有 していた時点で、このような廃棄物が捨てられることは考え難いことから、明治になってからのことであろう。
また、Ⅲ
‑lb層
の焼土が明治15年の火災によると考えられることから、Ⅲ‑3層
の形成はこ れ以前の可能性が高い。Ⅲ‑3層
の大量の炭が明治15年の火災によるものであ り、Ⅲ‑3層
か ら皿‑1層
にいたる層が、火災の後かたづけに伴 う一連の整地層であるという解釈 も可能であ る。 しか し、Ⅲ‑3層
中の炭が、大 きさがそろい、火災の廃材のようなものが含まれていない ことは、Ⅲ‑3層
が明治15年の火災 とは別に、それ以前に形成された可能性が高いことも示 し ている。このような点を踏まえて、明治初頭から明治15年の間で、二の九建物群の使われ方が 大 きく変化するような事象 としては、明治2年
の勤政庁の設置か、あるいは明治4年
の廃藩置"
県 によって旧二の九が兵部省の管轄下 に入 り東北鎮台が設置されたことがあげられる。このい ずれかを判断することは困難であるが、明治
2年
ない し4年
以降、二の九建物群の使 われ方が 大 きく変化 した結果、 Щ‑4層
。Ⅲ‑3層
(Ⅲ‑2層
も含む?)の
整地が行 われ、その後明治15年の火災 に見舞われた と推定 される。
以上の検討結果 をまとめると以下の通 りとなる。
石組溝
二 の丸期 ピツ ト2 ↓
石 敷遺構
│
二の九建物群の機能変化 (明治
2年
勤政庁設置・明治4年
廃藩置県=東
北鎮台設置)↓ ↓ ↓