鞄 ο
図
44
仙 台 城 二 の 丸 跡 第9地
点 I期の遺 構 配 置 図Fig.44 Distribution of features at卜 mp(phase I)llM9 i.e.Location 9 of Mコ omartr(he secOnd citadel of Sendai Castle)
Ib期
/
/
/
96
図
45
仙台城二の丸跡第9地
点 Ⅱ期の遺構配置図Fig.45 Distribution Of features at W19(phase Ⅱ)
さて、第
9地
点で検 出された遺構群 を考えると、Ⅲ期の遺構 は、後 に詳述するが、元禄年間 の拡張以前の二の九の範囲内に入るため、二の九築造以前には宗泰の屋敷地であった可能性が 高い。そこでまず、 Ⅲ期以前のIa期
・Ib期
・ コ期の年代 について検討 したい。Ia期
・Ib期
の遺構群 を埋 めている埋土や整地層出上の遺物 は、Ia期
を埋 めるものには 織部が含 まれず、Ib期
では織部が入 るとい う違いがあ り、後者の方が若千新 しい様相 を示す が、いずれ も17世紀初頭 に限定 される。 これ らの出土遺物の様相 か ら、Ia期
の開始時期が、慶長
5年
(1600年)の
本丸築造開始か ら大 きく下ることは考え難 く、おお よそ同 じ頃に、この 地区の屋敷の造営がなされた もの と考えてお きたい。 Ц期の遺構 は、寛永15年 (1638年)の
二の九造営 に伴 う大規模 な整地層によって埋められてお り、その下限は確実である。この間のI
a期
か らIb期
、Ib期
か らⅡ期への移 り変わ りが、何時であったか については、出土遺物か ら限定することは困難である。次 に詳述するが、隣接する第4地
点の状況 を合 わせて考えると、Ib期
の調査 区北端で検 出 された16号溝 は、北側 に造 られた西屋敷 と宗泰の屋敷 を区画す る溝 と考 えられることか ら、 この溝が造 られる以前のIa期
は、少 な くとも元和6年
(1620年)ま
では下 らない と考 えられる。 しか し、これ以上、各期の年代 を限定することは困難である。宗 泰が江戸 に上がる寛永3年
以前 に宗泰の屋敷があ り、寛永3年
以降が 口期 に相当する可能性 も97
師一 師一 師
図
46
仙 台城 こ の丸跡第4地
点下層検 出遺構Fig.46 Disttibution Of features at NM4(earlier phase)N 蟄ie.Locaticyn 4 of州了nOmartx(the secOnd citadel of Sendai castle)
考 え られ るが確 実 で はな く、その辺 りの詳細 な状況 は不 明 とせ ざる を得 ない。 また、政宗が仙 台城本九 の築造 を開始 した時期 は、宗泰 の生誕す る前であ り、 も しその頃 に施設が造 られてい た場合 には、宗泰 の屋敷以外 の施設 であ った こ とを想定 しなけれ ばな らない。 したが って、宗 泰 の屋 敷 として この場所 が使 われていた として も、
Ia期
〜 Ⅱ期 の全 ての期 間が、宗泰 の屋敷 で あつた とは限 らない。 しか しなが ら、宗泰 の上記 の ような立場 か ら、仙台城の近辺 に屋敷が あ つた可能性 は高 く、いず れかの時期 に宗泰 の屋敷 として、第9地
点 の遺構 群が使用 されてい た もの と推定 され る。 したが って、以下 で は便 宜 的 に、I期
・ コ期 の遺構 群 を、「伊 達宗泰 の 屋 敷」 と呼称 す る。②
第
9地
点 と周辺の調査地点 との関係この第
9地
点I期・ Ⅱ期の遺構 を考えるにあたっては、隣接する第4地
点の調査成果が重要 である。隣接す る第4地
点で も、二の九造営時 と考 えられる大規模 な整地層の下か ら遺構が発 見 されている (図46)。 第4地
点の下層遺構 としては、調査 区南端 に8号
溝があ り、その北側 に7号
溝・6号
溝がほぼ平行 して存在す る。 この6号
溝 と7号
溝 を含 む幅15m程
の範囲は、浅 い堀状 になっている。2本
の溝 にはさまれた部分 は、低湿な状況であった と推定 され、6'7
号溝 は、浅い堀状 の掘 り込みの中で、〕F水を目的 とした溝の可能性が考 え られる。 この浅い堀 状の部分 と、その南側 に平行する
8号
溝 との関係 については、ち ょうどこの部分が、明治時代 の石組溝 によって壊 されてお り、時期差があるのか、あるいは同時存在かは、直接 は不明であ る。年報7で
は、同時存在 として検討 していたが、再検討の結果、時間差がある可能性が考え98
Y=+2000
図
47
仙台城二の丸跡第9地
点周辺のこの丸造営以前の遺構変遷模式図 Fig. 47 0udine of ttansition of features arotand M19 whi(れ are dated before 1638 られる。す なわち、二の丸造営時の整地がなされた段階で、8号
溝がほ とん ど埋 まっているの に対 して、浅い堀状 の部分 は、あ ま り埋 まっていない ことか ら、8号
溝 か ら浅 い堀状 の部分(6'7号
溝)と
い う前後関係が想定で きる。 また、位置関係か ら見て、第9地
点の16号溝が、第
4地
点の8号
溝 に続 くと考 え られる。第9地
点の16号溝 は、ある程度堆積が進 んだ段 階で、7a層
の整地が なされ、その上面 に Ⅱ期 の遺構 が展 開す る。第4地
点8号
溝 の埋土 の最上層 と した ものは、 この7a層
に類似 し、一連の整地層であると考 えて差 し支 えない。従 って、第4 地点の浅い堀状の部分 (6・7号
溝)は
、第9地
点の Ⅱ期 に相当す ると考 え られる。 したが っ て、第9地
点 とその周辺の遺構 の関係 は、図47のように整理で きる。Ia期
は、第9地
点で7号
建物跡が検 出されているだけである。 この7号
建物跡 より北側 の 様相 は明確 ではないが、次 に述べ るように、第9地
点 より北側 は、五郎人姫の西屋敷が置かれ た範囲 と考 えられることか ら、これ よ り北側 に建物が展開す る可能性 は低い もの と推定 される。宗泰の屋敷の中で も、端の方 にあたる ものであろう。
Ib期
は、前述の ように、第9地
点の16号溝が第4地
点の8号
溝 につ なが る と考 え られる。この16号溝 (第
4地
点8号
溝)の
東側の推定位置 には、本年報で報告 した第10地点lA区
があ る。 このlA区
では、工事で破壊 される深 さまで しか調査 を行 っていないため、二の九期以前 の遺構 は検 出 されていない。 しか し、東端 の南壁際で ご く小規模 な深掘 り調査 を行 ってお り、二の九造営時の整地層の下か ら焼土が検 出 されている。 これ より下 は調査 を していないため、
不明な点が多いが、16号溝が ここでは検 出されない可能性 もある。 しか し、16号溝 自体が、両 岸 とも直線的に伸 びず、複雑 に屈曲 していることか ら、第10地点の
lA区
深掘 り部分 にはかかつ てこないだけか も知れない。年報7で
検討 したが、 この16号溝、あるいは次の Ⅱ期の浅い堀状ら荼