第 8 章 コソヴォ紛争に見る安全保障と難民問題の交錯
8.3 NATO 軍の「人道的介入」
故チトーは民族主義の台頭によって連邦体制が破綻することを常に危惧し、
特に連邦内の大国であるセルビアの突出を抑制するために 345、コソヴォ地区を 自治州としてセルビア国力の希薄化を図り、併せてコソヴォのアルバニア民族 主義の軟化を図った。しかしながら、やがてコソヴォ州人口の大部分を占めるア ルバニア系住民により、同州内の少数派であるセルビア人を排除する動きが相 次ぎ、結局はコソヴォ州のアルバニア民族主義は更に台頭した。この動きにより、
国内に相当数のアルバニア系住民を抱えるモンテネグロ、マケドニア両国から は、後述の「大アルバニア主義」に対する危惧が高まり、セルビアは
1990
年に 憲法を改正し、コソヴォ州の自治権を大幅に制限した。当然ながら、コソヴォ州内のアルバニア系住民の不満は高まり、少数派のセル ビア人に対する迫害が相次いだため 346、治安に責任を有する為政者側の取り締 まりは、結局セルビア政府とアルバニア系コソヴォ人の対立の構図となった。こ れは当初はセルビア治安機関と「コソヴォ解放軍(
Kosovo Liberation Army, KLA
)」 と称する非正規かつ小規模なコソヴォ武装勢力との治安レベルの問題であった が、1997
年頃から隣国アルバニアの余剰武器を入手したKLA
は、州内各地でセ ルビア治安機関への襲撃や破壊活動を激化したため、セルビア側によるアルバ ニア系住民に対する警戒や圧迫も強くなり、迫害を逃れるため主として隣国ア ルバニアへの難民が増加した347。343 “The Crisis in Kosovo from a Humanitarian Perspective” Talk Back, Volume 1, #2, International Council of Voluntary Agencies, 1999, P. 13.
344「人道的介入」の国際法上確立された明確な定義はない。しかしながら、一般にこれは現 在まさに行われている平和破壊行為をともかくも止めるための緊急避難的武力介入と考え られ、最上敏樹は英国のアダム・ロバーツ、米国のマイケル・ウォルターの所見を紹介して いる。最上敏樹『人道的介入-正義の武力行使はあるか-』岩波書店、2001年、10頁。シ ョーン・マーフィは、「人道的介入」の定義づけは「簡単にもピッタリにもいかない(neither easily nor succinctly achieved)」としつつ詳細に議論している。 Sean D. Murphy, Humanitarian Intervention, University of Pennsylvania Press, 1996, pp. 8-20. その一方で、武力介入の是非につ いては、たとえば最上敏樹は国連主導によって行われるなら、それは少なくとも法的には十 分であるとする。最上、同上、序iv頁。また、米国国務省のダニエル・ウォルフは、国家 が自国民に対して行う大量殺害は人道上のみならず法的にも許容されない、とする「正戦論」
を述べている。Daniel Wolf, “Humanitarian Intervention,” Michigan Journal of International Law, Volume 9, Issue 1, University of Michigan, 1988, p.334. なお、コソヴォ空爆の際のNATO軍の 主力は米軍であった。脚註350参照。
345 脚註316参照。
346 1996年頃から、コソヴォ武装勢力によるセルビア官憲、セルビア系コソヴォ住民、親セ
ル ビ ア と 見 な さ れ る ア ル バ ニ ア 系 住 民 に 対 す る 襲 撃 事 案 が 頻 発 し て い た 。Amnesty International, Amnesty International Report 1999 - Yugoslavia, 1 January 1999.
347 1998年までに約5万人がアルバニアへ避難していた。UN Consolidated Inter-Agency Flash Appeal for Humanitarian Assistance Needs related to the Kosovo crisis, United Nations Office for the
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西欧社会では、わずか数年前のボスニアやクロアチアの紛争で多くの難民に 対処せざるを得なかった経験から、コソヴォ難民に同情を寄せつつも、これらの 問題は極力その地域で処理すべきとの意識が強かった 348。これらの輿論を背景 に、
NATO
軍は人道危機の解決のための「人道的介入」であるとして 349、1999
年3
月からNATO
空軍によるコソヴォ地域を含むセルビア全土のセルビア軍事 施設及び経済インフラに対して空爆を開始したが 350、この軍事行動は国連によ る授権を得ずにNATO
独自の判断で実施されたものであった 351。このため、NATO
内部においてすらこの空爆の法的正当性には疑問の声があったが 352、最 終的には、緊急事態あるいは人道目的の武力行使では違法性が阻却されるとの 見解が疑問や議論を押し切った353。8.3.1 NATO
軍介入の経緯前項で観察したように、西欧社会は負担を厭う心理を根底に有し旧ユーゴの 避難民は旧ユーゴの域内に収容すべきと考えており、この点からもコソヴォ問 題の解決に向けた努力にはコンセンサスがあった。また、一般論として、セルビ ア治安勢力に対しては弱者であるコソヴォ難民に同情を抱いていたが、その背
Coordination of Humanitarian Affairs, 17 Jun 1998.
348 Suhrke et al., op. cit., February 2000, p. ix.(脚註340参照)
349 当時のコソヴォにおけるセルビア系住民とアルバニア系住民の迫害行為は相互的なも のであり、NATO が「人道的介入」を主張するなら、双方を攻撃しなければならなくなる、
との根本的疑問を呈する所見もある。最上、前掲(脚註344参照)、101-102頁。また、NATO は軍事介入を正当化するために、コソヴォにおける人道事案を誇大に喧伝したのではない かとの所見もある。饗場和彦「NATOによるコソボ空爆の実体と人道的介入を巡る議論:マ ス・キリングに対応する国際社会?」『三田学会雑誌』慶應義塾経済学会、Vol.94、 No.4、 2002年、104頁。更に、コソヴォ紛争初期の西欧輿論はコソヴォ難民に対する同情とともに セルビアに対する反感が強かったが、やがて徐々に中立的となり、2019 年にはコソヴォ側 による敵側セルビア人捕虜の臓器密売疑惑が浮上した。脚註355参照。
350 NATO軍のコソヴォ介入は、ランブイエにおける和平交渉の段階から米国主導で実施さ
れた。参戦航空兵力の 59%は米軍機であり、使用された爆弾とミサイル総数の 83%は米軍 によるものであった。河野健一「NATOによるコソボ争介入の教訓-政治と軍事の視点から
-」『ロシア・東欧研究:ロシア・東欧学会年報』第31号、ロシア東欧学界、2002 年、95 頁。
351 脚註306参照。
352 例えばJavier Sorana, “NATO’s Success in Kosovo,” Foreign Affairs, vol. 78. No. 6, November/
December 1999, p. 118.
353 ニューヨークタイムス紙はNATOによる武力発動に際し、1999年3月24日の社説でこ れを支持している。Jane Perlez, “Conflict in the Balkans: The Overview; NATO Authorizes Bomb Strikes; Primakov, in Air, Skips U.S. Visit,” The New York Times, March 24, 1999. また、英国のブ レア首相は1999年4月24日の「シカゴ経済会(Economic Club of Chicago)」においてDoctrine
of the International Communityと題する講演で、「コソヴォで何が起きているかを知る西側諸
国において、NATOの軍事行動の正当性を疑う者はいない。(No one in the West who has seen what is happening in Kosovo can doubt that NATO’s military action is justified.)」と述べて、NATO の軍事作戦の正当性を主張した。一方、ノーム・チョムスキーは NATO の武力介入の思想 を『「正しいと思う」ときには文明国家は武力を用いるべきであるとする教理』として独善 性を強く批判している。ノーム・チョムスキー『アメリカの「人道的」軍事主義 コソボの 教訓』益岡賢ほか訳、現代企画室、2002年、30頁。
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景には、セルビアが第
1
次世界大戦の口火を切ったとする遠い記憶に加え、ボ スニア紛争の報道において繰り返された「民族浄化(ethnic cleansing
)」の実行者 としてのセルビアに対する国際的批判や 354、これにより形成されたセルビアに 対する負の先入観があった。加えて、セルビア側は欧米メディアに非協力的であ ったため、ユーゴ内戦の結果発生した多くのセルビア難民についての報道は極 めて少なかった。これに対し、ボスニア難民の悲惨な映像は次々に報道され、欧 米一般市民の同情を集めた355。一方ユーゴスラビア連邦南部では、ナショナリズムの昂揚を警戒するセルビ アにより
1990
年にコソヴォ州の自治権が制限されていた。また、セルビア治安 組織によるアルバニア系コソヴォ住民に対する管理強化に比例して、コソヴォ 州内各地に小規模の戦闘が生起した。このため州内の他地域に多くの住民が逃 れるのみならず、すでに国外へ逃れる難民も発生しており 356、これを放置すれ ばことは単に人道問題にとどまらずコソヴォ域内においてセルビア治安機関とKLA
の武力紛争が激化することは明らかであった。その場合、1995
年11
月の デイトン合意によってせっかく収束したユーゴ紛争の火の手が再び上がる可能 性もあり、そうなればさらなる難民の流出が予想された。それゆえ、西欧諸国に とってはコソヴォ難民に象徴されるコソヴォ州の問題を解決してユーゴ紛争を 最終的に収束させ、「欧州の火薬庫」から火の気を取り除くことが焦眉の急とな った。このような背景の下に
1999
年2
月6
日、パリ南西約40
キロのランブイエに おいてコソヴォ和平交渉が開始された。セルビア側はコソヴォ州を自国領土と 主張しつつも、国連平和維持軍(PKO
)をコソヴォに展開する案までは受け入れ た。しかし、米国代表が交渉期限の間際に、国連PKO
ではなくNATO
軍の、コ ソヴォを含むセルビア全土への展開と治外法権を要求するという、客観的に考 えてもセルビアが受諾不可能な条件の加重を提示した。このため、セルビア側は これを事実上の国土占領であると反発して交渉が中断した。交渉は翌3
月15
日354 いわゆる「民族浄化」は、ボスニア政府の依頼により、アメリカの広告代理店ルーダー・
フィン(Ruder Finn)社のジェームス W. ハーフ(James W. Harff)が用いた、セルビアを一 方的に糾弾するため国際社会に向けたプロパガンダであり、1992年7月以来米国の主要紙 に頻繁に用いられる表現となった。これはナチスのホロコーストを連想させるように「慎重 かつ巧妙な」手法を応用したものであった。高木徹『戦争広告代理店〜情報操作とボスニア 紛争』講談社、2005年、88-105頁。
355 しかしながら2019年に至り、旧ユーゴスラビア戦争犯罪特別法廷は、コソヴォ紛争中の KLAによる敵側セルビア人捕虜の臓器密売疑惑に関し、当時KLA幹部であったラムシュ・
ハラディナイ(Ramush Haradinaj)コソヴォ共和国首相に事情聴取のため出頭を要請した。
「コソボ首相辞任 特別法廷聴取で セルビア側歓迎 捕虜の臓器密売容疑」毎日新聞、
2019年7月20日、Associated Press, “Kosovo PM resigns before questioning at The Hague,” The Guardian, 19 Jul 2019. https://www.theguardian.com/world/2019/jul/19/kosovo-pm-resigns-before-questioning-at-the-hague. 2019年9月15日最終閲覧。
356 1998 年 7 月までに約 13000 人のアルバニア系コソヴォ難民が隣国アルバニアへ避難し
た。Concerns in Europe January - June 1998, Amnesty International, September 1998, p. 78.