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コソヴォ紛争とコソヴォ難民

ドキュメント内 難民問題と安全保障 (ページ 119-124)

第 8 章 コソヴォ紛争に見る安全保障と難民問題の交錯

8.2 コソヴォ紛争とコソヴォ難民

113

ニア独立に伴う「

10

日間戦争」、

1991

9

月から

1995

8

月の「クロアチア内 戦」、

1992

3

月から

1995

11

月の「デイトン合意(

Dayton Agreement

)」318 に至るまでの「ボスニア内戦」として焦点を絞る説もある 319。いずれの区分に おいても、特にボスニア・ヘルツェゴヴィナとクロアチアの戦火は住民レベルで の激しい憎悪の応酬となり、陰惨な戦闘が繰り返された。

かくして、ユーゴスラビアは解体に至り、

1991

6

月の紛争勃発から

1995

11

月の上記のデイトンにおける和平合意までの間、

230

万人が戦火を避けて 他国や他地域に脱出する事態となった320。この和平合意で辛うじて小康状態を 保っていたバルカン半島であったが、

1999

年に発生したコソヴォ難民問題は、

新たな紛争の始まりであった。

8.2

コソヴォ紛争とコソヴォ難民

114

後もその事実に承服しないセルビア人の心理の背景には、コソヴォ平原におけ る悲劇的英雄譚の民族的共有がある。

オスマン帝国には優越集団としての回教徒と従属集団としての非回教徒とい う二つの集団の区分があったが、しかしながら宗教には寛容であり 323、属国の 民となったセルビア人に正教から回教への改宗が強制されることは無かった。

むしろ異教徒に対し極めて厳しい姿勢と警戒心を示したのはヨーロッパであっ た。ハプスブルグ皇帝は免税特権と自治権を条件として、コソヴォのセルビア人 をハプスブルグ帝国のバルカン国境に配置してオスマン帝国に対する警備任務 に就かせた。このため

17

世紀末から

18

世紀初めにかけて、コソヴォのセルビ ア人は脚註

322

に示すラザル公の柩と共に、一族

4

万家族以上を挙げてスラヴ ォニア(今日のクロアチア東部)に移住した 324。セルビアの見解によれば、こ の大移住の結果セルビアの故地でありながら空白となったコソヴォには、正教 から回教に改宗した南方のアルバニア人が移住して来たとされる。

他方でコソヴォとアルバニア本国双方のアルバニア人による歴史叙述では、

アルバニア人は紀元前

1000

年ごろバルカン半島に定住したイリュリア人の末裔 であって、ゆえにコソヴォの先住民はアルバニア人であると結論付ける 325。こ れに対してセルビアの研究者は、

19

世紀のドイツやオーストリアの研究者間に 今日のアルバニアの主張に類する学説が存在したことは認めつつも、今日では その説には疑問が持たれているとする326

誰が先住者であったかとの議論はさておき、現実としては、

1912

年の第

1

次 バルカン戦争の結果、オスマン帝国の勢力がバルカン半島の大部分から撤退す るとともに、セルビア人は再びコソヴォ地域の支配権を回復した。しかしすでに コソヴォ地方の人口の大部分はアルバニア人によって占められており、コソヴ ォとアルバニア本国のアルバニア人はともに、上述の「イリュリア人の末裔たる アルバニア人」のコソヴォ先住民説を主張し、更にコソヴォ州のアルバニア人は、

人口が同州の僅々

1

割を占めるに過ぎないセルビア人の政治的優越に対して反 感を抱いていた。

正教会を巡回し、大いにセルビア・ナショナリズムを高揚させた。柴宜弘『バルカンを知る ための66 2版』明石書店、2016年、26-27頁。

323 岩木秀樹、「帝国から国民国家へ─オスマン帝国における共存形態の変容と崩壊─」『東 洋哲学研究所紀要』第30号、東洋哲学研究所、2014年、225-229頁。

324 この移住は「Velika Seoba(大移動)」と呼ばれる。柴、前掲(脚註321参照)52頁。

325 この主張は、例えばブレンディ・バローリ(Blendi Barolli “An Overview of the Albanian History: with Main Emphasis on Economy,” 『現代社会文化研究』第34号、新潟大学、2005年、

245頁。

326 Vladislav B. Sotirović, “National identity: who Are the Albanians? the Illyrian Anthroponymy and the Ethnogenesis of the Albanians,” History Research, Vol. 1, No. 2, 2013, p. 5. また、2世紀のプ トレマイオスの著書にAlbanoiと呼ばれるイリュリア人の一部族名が記載されているが、彼 らは今日でもアルバニア北部に居住しており、これがアルバニア人のイリュリア人末裔説 の根拠となり、更にコソヴォ先住民主張の根拠になったと考えられる。Ibid., p. 18.

115

8.2.2

ユーゴ紛争とアルバニア人

ユーゴスラビア連邦の中でもセルビア共和国コソヴォ自治州は連邦中最貧地 域であり 327、同州人口の

9

割以上を占めるアルバニア系のコソヴォ住民はその 現状をセルビア人による支配体制に起因するとして、しばしばセルビア治安当 局と摩擦を起こしていた。不十分ながらも軽火器を保有する一部住民は自然発 生的に各地に小集団を組織し、治安機関に対して実力で抵抗する場合もあった。

やがてこれらの組織は「コソヴォ解放軍(

KLA

)」としてアルバニア系コソヴォ 人の武装勢力となったが328

1990

年代中期頃までは統制のとれたものではなく、

セルビア当局にとって

KLA

による活動は小規模治安案件の範囲に留まっていた。

このため、ボスニアやクロアチアにおける紛争の時期にも連邦北部の戦火がコ ソヴォにまで拡大することはなかった。

一方で、第

2

次世界大戦による国土の荒廃から立ち直るきっかけを掴めず、

極度の経済不振が続いていた隣国アルバニアは、共産党政権による鎖国政策が

1990

年に崩壊的に終わりを告げ、社会は秩序を失ったまま

1992

年には共産主義 体制自体が終焉を迎えたが、各地に小規模の暴動を伴うこの混乱の間に多くの アルバニア人がアドリア海対岸のイタリアへ逃れた 329。イタリア政府は当初こ れらの避難者を政治難民と見なす姿勢を示したが、

1991

年夏の僅か

1

か月足ら ずの間に約

3

5

千人の難民が流入するという急激な展開に加え、その数が今 後どれだけ増えるか予想もつかなかった。これに加えて、当時冷戦体制崩壊後の 東欧からの大規模難民流入を危惧していた西欧諸国からの圧力もあった。この ためイタリア政府は、アルバニア政府に対して帰国者を処罰しないという確約 を取り付け、対アルバニア経済援助を条件としてこれらを難民と認めないこと として、以後すべての到着者をアルバニアへ送還した330

アルバニアは自由主義に移行した後も市場経済に適応できぬままであったが、

折から生起したユーゴ紛争により急激に需要が増大した武器の密輸が最大のビ

327 例えば1964年のコソヴォ地区の1人あたりGNPは旧ユーゴスラビア連邦平均2219

ドルの36.2%であったが、1984年にはこれが同じく5887ドルの26.2%に低下した。同時期

のスロヴェニアではそれぞれ185.3%201%であった。町田、前掲(脚註314参照)19頁、

及びMaddison Project Database, University of Groningen, 2018. なお、2017年の世界銀行資 料によれば、コソヴォ共和国のGDP per capita3,877米ドルであった。

328 KLAはその後19996月の国連安保理決議第1244号によってコソヴォ防護隊(KPC

及びコソヴォ警察(KPS)に発展解消した。Armend R. Bekaj, The KLA and the Kosovo War: from Intra-State Conflict to Independent Country, Bergh of Conflict Research, 2010, p. 26-31.

329 15 世紀にオスマン帝国に敗れた際に多くのアルバニア人がイタリアに逃れているため、

アルバニア人にとって地理的にも意識的にもイタリアは近いとされ、アルバニア系と自覚 するイタリア人がイタリア南部に居住しており、数的根拠は明確ではないがその数は約 10 万とも言われる。竹内啓一『イタリアにおけるアルバニア集落とアルバニア系イタリア人: パレルモ県における事例』一橋論叢、1996年、599-602頁。

330 竹内、前掲(脚註329参照)603頁。

116

ジネスとなった。この密輸の原資は国民の過半数が加入した無限連鎖講を通じ て募った投資であったが 331、ユーゴ紛争が終結して武器の地下市場が消滅する とたちまち償還不能となり、債権者の不満が爆発してついに

1997

1

月には暴 動に発展した。この暴動は間もなく内戦の様相を呈し人口

300

万のこの小国に おいて死者は

2

千にも及び、この混乱の中で武器約

100

万点が略奪された332。 これらの武器の多くはコソヴォに流出して、セルビア軍と警察に対抗する

KLA

に供給され、

KLA

を中心とするアルバニア系コソヴォ人とセルビア治安組織と の間の紛争が規模、頻度、範囲ともに拡大する原因となった。

アルバニアにおけるこの様な状況の下で、約

1

3

千人のアルバニア難民が アドリア海対岸のイタリアへ逃れた 333。しかし難民の流入を警戒するイタリア 政府は、難民流出元の安定がより重要と考え、国連事務総長あて

1997

3

27

日付書簡を送り 334、アルバニアの状況に対応するためにイタリアが中心的役割 を果たす用意がある旨を表明した。それに対し翌

28

日、安保理決議第

1101

号 が発出され 335、同決議に基づき

3800

名のイタリア軍を主力として

11

か国から 構成される総兵力

7265

名の多国籍軍が編成され 336、「日の出作戦(

Operation Alba

)」を発動してアルバニアの秩序回復と治安維持に当たった。

8.2.3

コソヴォ紛争における「難民戦士」の問題

コソヴォにおいてはその後もアルバニア系学生や住民によるデモが続いた。

一方、連邦北部のスロヴェニア、クロアチア、ボスニア等の独立に影響を受けた アルバニア系住民強硬派が組織する

KLA

は、しばしばセルビア治安機関や職員 を散発的に襲撃していたが、前項に述べた隣国アルバニアの無限連鎖講の崩壊 の結果

1997

年頃からコソヴォに流出した武器弾薬を入手して急速に装備を強化 した。このため、

KLA

とセルビア治安機関との衝突は頻度、規模、地域共に拡 大した。ところが、

KLA

は元来が自然発生的であったため当初は制服がなく337、 構成員と一般住民の識別は困難である場合が多く、セルビア治安機関による鎮

331 この無限連鎖講の規模はアルバニア国内総生産の半分に達した。Christopher Jarvis, The Rise and Fall of Albania's Pyramid Schemes, International Monetary Fund, 1999, p. 4. これら無限 連鎖講を主宰する組織の一つXhafferi社は、1,188,000名の会員を擁し、月利47%の配当を 謳っていた。Ibid., p.13. 投資の原資調達のため多くは住宅や家畜を売却した。Ibid., p. 15.

332 Ibid., p. 18. 警察や軍の武器庫からの略奪に加え、地下市場を失った在庫の武器弾薬と

1985年までのホッジャ政権時代の国民総武装政策による各家庭装備武器の相当部分が流出 した。

333 Amnesty International, Concerns in Europe: January -June 1997, 1 September 1997.

334 The letter of 27 March 1997 from the Permanent Representative of Italy to the United Nations to the Secretary-General, S/1997/258, 27 March 1997.

335 United Nations Security Council Resolution 1101, S/RES/1101, 28 March 1997.

336 COL. Riccardo Marchio Operation Alba: A European Approach to Peace Support Operations in the Balkans, US Army War College, 2000, p. 5.

337 Henry H. Perritt, Kosovo Liberation Army: The Inside Story of an Insurgency, University of Illinois Press, 2010, p.127.

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