第 4 章 難民問題の政治化と難民保護
4.3 人道主義への回帰と再政治化
45
界大戦とは無関係であるとの立場であり、
IRO
がパレスチナ問題に関与するこ とはIRO
の業務自体に混乱を招くとの危惧から、IRO
が予定された活動範囲と 期限を越えてそれ以上の責任を負うことに反対した134。米英及び関係諸国はこのような議論の末に、結論としては
IRO
の責任範囲を 拡大するよりも別の体制によって問題の解決を図ることが適当であるとの合意 に達し、翌1949
年12
月8
日の国連総会決議第302
(IV
)号 により「国際連合 パレスチナ難民救済事業機関(United Nations Relief and Works Agency for Palestine
Refugees in the Near East, UNRWA
)」が設立された。このようにUNRWA
は当初より
IRO
の枠外にあってパレスチナ難民救済のみに職務及び権限が及ぶものと された。これは今日でも後述のUNHCR
とは別の組織であり、第3.2.4
項に述べ たかつての國際聯盟の下の両難民機関並立と同様の形態となり今日に至ってい る。46
の条約(
The 1951 Convention Relating to the Status of Refugees
)」であった。特に、この
1951
年の難民条約において難民の定義を初めて明確に示したこと は活動実施に際しての重要な根拠となった。また、ニューヨークにおけるUNHCR
の設立に前後して、ジュネーブにおいては戦時国際法についての会議が開かれていた。注目すべきは、「戦時における文民の保護に関する
1949
年8
月12
日のジュネーブ第4
条約(Fourth Geneva Convention Relative to the Protection to
Civilian Persons in Time of War
)」において、文民保護との名目により、明確に難民の保護に関する項目が含まれている点であり、これは軍隊による難民保護の 根拠となった。
ところがこの
1951
年の難民条約第1
章第1
条B
項によれば、条約締結国は本 条約の署名、批准、または加入の際に自国の義務を履行する範囲について、「1951
年1
月1
日以前に欧州において生起したもの」か、又は「1951
年1
月1
日以前に 欧州又は他の地域において生起したもの」のいずれかを選択することができる とされていた。前者を選択した締結国は、その後でも国連事務総長に通知することにより後 者を再選択し義務を拡大することが出来るとされていたが、現実の問題として 進んで義務を拡大する加盟国は無く、事実上この
1951
年条約はアジア、アフリ カ、アメリカ等の非欧州地域における問題、あるいは欧州における事象であって も将来の事態にまで責任を負うものではなかった。ところが
1951
年条約の、言わば「欠陥」は間もなく表面化することとなった。その最初は、ソ連の圧迫による
1956
年10
月のハンガリー動乱であり、西欧社 会はこの動乱で発生した20
万のハンガリー難民への対応を迫られた 136。また1950
年代末には、フランスからの独立を求めるアルジェリアの情勢が悪化し、20
万の難民がチュニジアやモロッコへ、一部は地中海を越えて宗主国フランス や他の西欧諸国にまで脱出するという状況になった。更には1949
年の中華人民 共和国の成立以来、共産党政権から逃れる中国人の英領香港への脱出が続いて いたが、これらはいずれも「1951
年1
月1
日以前に欧州で生起した事象」とい う枠を超えるものであった。1954
年にUNHCR
はノーベル平和賞を授与された が、その受賞スピーチにおいて当時の難民高等弁務官へリット・ヤン・ファン・フーベン・フートハルト(
Gerrit Jan van Heuven Goedhart
)は「主として欧州に、136 ハンガリーは、第2次世界大戦後はソ連圏にありながら共産主義に対する反発が強かった。1953 年のスターリンの死後、1956年2月のソ連共産党第20回大会において、フルシチョフ第一書記が行ったスタ ーリン批判をきっかけに共産主義体制に対する反発や不満が激化し、ブダペストを中心に市 民による反ソ暴動が発生した。これを見たソ連は直ちに正規軍を投入してこれを制圧し、親 ソ政権を樹立したが、この動乱ではブダペストにおいて1,800から2,000人、ハンガリー全土では 2,500 ないし3,000人の民間人の死者を出した。United Nations Report of the Special Committee on the Problem of Hungary General Assembly Official Records: Eleventh Session Supplement No. 18 (A/3592), 1957, p. 68.
47
しかし又近東および極東に今なお多くの難民が存在する137。」と述べて暗に
1951
年条約の欠陥を訴えた。この欠陥は、
1966
年12
月の国連総会において、「難民の地位に関する1967
年 の議定書(1967 Protocol Relating to the Status of Refugees
)」制定の決議によって 是正され、その議定書は1967
年1
月31
日に正式に成立し、同年10
月4
日に発 効した。1967
年議定書の意義はひとえに1951
年条約の適用範囲の時間的および 地理的制限を除いた点にあり、これをもって同議定書加盟国はいかなる時も、ま た、世界のいかなる地域においても難民保護に応分の責任を有することとなっ た。既述のように、これまでいくつかの国際機関が難民問題に対応したが、いずれ にも戦争の影響による政治の力学が作用していた。このような中で、
1951
年1
月の
UNHCR
の発足は大戦終結後5
年を過ぎて国際社会が多少とも余裕を取り戻したという条件があるにせよ、難民問題への対応が人道主義へ回帰したこと を示すものであった。だがそれでもなお、人道主義の理想に対して、政治がしば しば複雑な影を落とす現実もあった。
4.3.2
冷戦の終結と難民前節において述べた
UNHCR
の創設を通じ、今日では1951
年条約と1967
年 議定書が難民保護の2
大根拠法規となり 138、更に地域の特殊事情に基づく取極 めを加えた一連の国際規約が難民にかかわる国際人道活動の法的根拠として整 備されている。これら地域的取極めの主要なものに、1969
年の「アフリカにお ける難民問題の特殊な側面に対応するOAU
条約(OAU Convention Governing the Specific Aspects of Refugee Problems in Africa
)」と1984
年の「難民に関するカル タヘナ宣言(Cartagena Declaration on Refugees
)」がある。これら2
件の地域的取 極めにおける難民の定義では、1951
年条約と1967
年議定書に定めるところに加 え武力紛争及び大規模騒擾などの要因から逃れた者も難民に含められている。これは
1951
年条約の難民の定義に事実上加えられ、今日の難民保護の基本的思 想として広く受容された考え方となっている139。137 Address by Dr. Gerrit Jan van Heuven Goedhart, United Nations High Commissioner for Refugees, on the occasion of the award of the 1954 Nobel Prize for Peace to UNHCR, 10 December 1955.
138 1951年条約と1967年議定書への加盟は同時又は別個に行われ、2017年10月現在1951
年条約加盟国は145カ国、1967年議定書加盟国は146カ国、条約と議定書の双方に加盟す る国は142カ国、少なくともいずれか一方に加盟する国は148カ国である。日本は1981年 10月に条約へ、1982年1月に議定書へそれぞれ加盟した。なお、米国は1968年11月に議 定書にのみ加盟した。膨大な数のアフガン難民を受け入れたパキスタンや、インドシナ紛争 に際してカンボジアなどからの多数の難民を受け入れたタイ、あるいはチベット難民、スリ ランカ、ミャンマー、ブータン、アフガニスタン、バングラデシュ等から多数の難民を受け 入れているインドは、条約又は議定書のいずれにも未加盟である。UNHCR GLOBAL APPEAL 2018-2019, UNHCR, 2017, pp. 198-199.
139 例えばアフガン国内の騒擾および内戦によるパキスタン・イランへの多数の避難民に対
48
今日なお続く人道上の大きな懸案のひとつにアフガン難民問題があり、これ は
1979
年12
月のソ連によるアフガン侵攻に端を発している。アフガン出兵の 当初はソ連自身すら早期の事態収拾と可及的速やかな撤収を意図していたと言 われているが 140、結果としてアフガンの戦闘はソ連の予測を超えて長期化し、冷戦終結の一要因ともなった。この過程でアフガニスタン全土にわたって戦火 が広がった結果、パキスタンへ
300
万以上、イランへ150
万とも言われる難民 が国境を越える事態となった。この事態に際して各人道機関はアフガニスタン 及びその周辺諸国への職員の増派と緊急予算の投入、ならびに国際社会に対す る支援要請等の対策を講じて対応した。この間に米ソ首脳による
1989
年12
月のマルタ会談により冷戦が終結したた め、国際社会はこれを以って核戦争の悪夢から逃れることが出来たと考え、また 相前後してソ連軍のアフガンからの撤収も行われ、難民問題の最終的な解決も 間近いものとの期待が浮上した。しかしながら皮肉なことに冷戦の枠組が外れると共に世界の各地では大小さ まざまの紛争が火を噴き始めた。それはアフガンにおいても例外ではなく、ソ連 軍撤退後には国内諸派閥がそれぞれに主導権を主張したため、アフガン全土に 亘る内戦が生起して安全保障は再び破綻し、難民数はさらに増加していった141。
4.3.3
軍隊による人道活動従事者の庇護及び協同冷戦終結後
UNHCR
が経験した最初の大規模人道支援活動は、1991
年4
月、フセイン政権下のイラクからトルコ領へ脱出しようとした
40
万のクルド難民が、国内にクルド分離独立問題を抱えるトルコによってイラク領内に押し戻された 事件であった142。これに対処するため、国連は同年の安全保障理事会決議第
688
して、UNHCRは個別の難民認定審査は行わず一括して難民と認定した。これを「prima facie
determination(一見認定)」、あるいは「一応の認定」と呼ぶ。
140 1979年12月25日ソ連軍がアフガンへの侵攻を開始すると、直ちに安全保障理事会が招
集されたが、ソ連の拒否権発動によって、何らの決議も採択されなかった。ソ連は、決議の 後ではむしろ政治的に兵を引きにくくなるため、この際は国連を無視してもアフガン情勢 の安定という政治目的を達成し、早急に撤兵することが得策と判断した模様であった。脚註 22参照。こうして、ソ連のアフガン侵攻に対する国際社会の懸念は翌1980年1月の国連緊 急特別総会に持ち越された。総会においては常任理事国による拒否権の制度が無いため、ソ 連の反対にもかかわらず結局決議が採択され、「全ての外国軍隊」 の撤収と人道支援が訴え られた。かくして事変初期に引き際を見失ったソ連はその後10年に亘りアフガン戦争に国 力を消耗し、1989年12月の冷戦終結宣言を経て、間もなく連邦自体の解体に至った。
141 アフガン難民に限らず難民数の算定は単純ではなく、統計の取り方によって大きな差が 生ずるが、いくつかの資料を総合すれば、1980 年頃は全世界で約750万とされた難民数は 同年代末にはUNRWA管轄のパレスチナ難民を含め約1400万に達したと推定される。この 数字は冷戦終結後もさらに増加を続け、1990年代初期には約1750万にも達したと推定され る。今世紀に入りやや減少したが、間もなく増加に転じ、国内避難民や無国籍者など庇護を 要する者の総計は2017年10月現在6770万人とされる。UNHCR, op. cit., 2017, pp. 2-3.(脚 註138参照)
142 後述のコソヴォ紛争に際して、隣国マケドニアへ逃れた約 30 万のアルバニア系コソヴ