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社会的安全保障の観点

ドキュメント内 難民問題と安全保障 (ページ 86-92)

第 6 章 社会的安全保障と「ロヒンギャ」難民

6.3 社会的安全保障の観点

6.3.1

大規模人口移動と社会的安全保障概念の浮上

本章冒頭に述べたコペンハーゲン学派の理論によれば、社会的安全保障の観 念はある集団がアイデンティティを意識する時に共有される。すなわち、その 集団に対する外部からの影響に起因する何らかの変化あるいは変化の可能性 が、当該集団のアイデンティティを侵すものと認識されるか、あるいはそれが 当該集団存続の脅威であると集団の構成員が考える時に、社会的安全保障の意 識が形成される。したがって、ある集団の規範の根拠が特定のアイデンティテ ィの共有に立脚しているとすれば、その集団には、混入した他者を同化する か、あるいは排除して自らのアイデンティの維持を図ろうとする力学が作用す る。そして、社会的安全保障と人口流入との関係に関する議論の結論として、

この大規模人口流入は経済や社会の負担となり、受け入れ側における軍事によ

の規定による利益の享受を要求することができない。

243 Imran, Mian, op. cit., pp. 226, 232, 236, 243.(脚註241参照)

244 Thomas Fuller, “Crisis in Myanmar Over Buddhist-Muslim Clash,” The New York Times Asia Pacific, June 10, 2012.

245 Report of the independent international fact-finding mission on Myanmar, A/HRC/39/64, Human Rights Council Thirty-ninth session, 10–28 September 2018, pp. 16-17.

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らない安全保障上の脅威となり得る点を指摘している。

大規模人口流入が安全保障上の脅威となる可能性については、すでに

1980

年に先駆的議論が行われており、第

2.3.1

項に述べたコールスによる「大規模 な難民流入は社会秩序と国家安全保障に加えて国際間の平和と安全保障すら危 険にさらす深刻な問題を生み出す」との所見を重要な問題提起として指摘する ことができる。

コペンハーゲン学派の議論にも通底する上記のコールスの問題提起は、翌

1981

年開催された

UNHCR

の会合において関係各国と共有されたが、特に注目 されることはなかった。コールス報告書の背景となったヴェトナム戦争は、すで に

1975

年にサイゴン陥落によって終結しており、当時は

1979

年に米ソ間の戦 略兵器制限交渉(

SALT

)が調印され、

1981

年には同じく中距離核戦力(

INF

) 削減交渉が始まるという冷戦のさなかであり、国際社会の関心は難民問題には なかった。

6.3.2

ミャンマーの抱くロヒンギャに対する安全保障上の恐怖感

近年のロヒンギャ関係の報道を通じ、国際社会はミャンマーにおいては回教 徒と仏教徒が激しく対立しているとの印象を抱いたが、歴史的にこれを見れば 少なくともかつてはそうではなかった。

3

度にわたる英緬戦争の結果、

1834

年 にビルマは英国に併合されたが、それ以前の回教徒はラカイン州やテナセリム の沿岸部にコミュニティを形成して交易に従事し、一部の者は宦官として宮廷 にも使えた。また、港湾や税関の高官も多くは回教徒であった 246。王国は仏教 以外の他の宗教にも寛容で、各地にキリスト教会やモスクが併存しており 247、 この状況は、英国のビルマ領有以降も変わらなかった。

6.2.1

項に述べた通り、ラカイン州は

1826

年のヤンダボ条約によって英国

に割譲されて以来、英領インドのベンガル地方と一体であった。

1937

年にビル マが英連邦の自治区となり、名目上ラカイン州はビルマ領に区分されたが、ベン ガル地方とラカイン州の事実上の一体性は変わらず、ベンガル地方の回教徒は ラカイン州に流入した。この時期にはベンガルからの移住者に対する迫害等は 一切なく、むしろこの当時英領インドの回教徒は英国の支援を得ていたため、ラ カイン州においても有利な立場にあったと推定される248

246 Yegar, op. cit., pp. 2-10. (脚註177参照)

247 バインナウン王(Bayinnaung, 在位1550-1581)は回教に対して寛容とは言えなかったと 言われ、1559 年にペグーにおいて回教徒による山羊や鶏の屠殺を見てこれを禁じ、また牛 の生贄を禁じ、仏教への改宗を強く奨励した。しかし、回教徒を迫害した記録はない。Yegar, ibid., p. 12.

248 英国は1906年に「全インド・回教徒連盟(All-India Muslim League」を創設したが、そ の意図はヒンドゥー教徒を中心とする「国民会議派」を牽制することであり、回教徒を親英 勢力として育成し、ヒンドゥーと回教を巧みに対立させて民族運動の弱体化を図る、いわゆ る「分割統治」政策に基づくものであった。第5.2.1項参照。しかし英領インドにおける英

82

2

次世界大戦の開始に際してビルマは日本軍に協力したが、一方ビルマ国 内の回教徒及びヒンドゥー教徒も又、スバス・チャンドラ・ボース(

Subhas Chandra Bose, 1897-1945

)の「インド独立連盟(

Indian Independence League, IIL

)」運動に参加する者が多く、この構造の下でビルマ人と回教徒の関係は良 好であった249。要するに社会的安全保障の観点からこれを見れば、ビルマ社会 にとって回教徒はアイデンティティを脅かすほど異質であるとは考えられてい なかったと言って良い。

しかしながら、ラカイン州における状況は異なっていた。英国はこれらラカ イン州北部の回教徒に、対日軍事行動に協力する見返りにラカイン州北部を

「回教徒領域(

Muslim National Area

)」として、ビルマからの分離を容認して いた250。英国の目的が日本軍であっても、ラカイン州の回教徒による日本軍へ の敵対行動は、すなわち日本軍を背景とするビルマへの敵対行動でもあった。

ところが、回教徒領域の分離は第

2

次世界大戦が終結しても実行されなかっ た。このため、ビルマ人に対して大戦中の敵対感情を引きずるラカイン州の回 教徒は、近々出現する予定の独立ビルマにおけるマイノリティとしての共存に 不安を感じ、

1947

年の英領インド独立に際しては、ラカイン州北部を東パキス タンへ併合しようと企図した。これがジンナーの拒否によって失敗すると、次 には独立したばかりのビルマに対して、「聖戦士団」を組織して武装闘争を挑 み、実力を以ってラカイン州北部の分離を図ろうとする勢力も出現した。ラカ イン州北部には

1950

年代初頭まで中央政府の力が十分に及ばず、東パキスタ ンから単純労働力としてラカインに流入したベンガル人の一部には、東パキス タンへの統合に失敗した勢力とともにビルマに対する武装反乱に走る者もあっ た。他方で、ビルマにおいて生きることを選択した穏健派の回教徒は自らのア イデンティティを強調するために、上記第

6.2.2

項に述べた、ウ・ヌー首相あ ての書簡に敢えて「ロヒンギャ」の名を用いた。ロヒンギャという名称を頻繁 に用い始めたのはこの頃からである。

これらの動きをビルマの観点からすれば、異なる言語と習慣を固守してビル マ社会と一線を画するラカイン州北部の回教徒集団の姿勢は、ビルマ社会のア イデンティティに対する挑戦であり、すなわち社会的安全保障上の懸念であっ た。加えて、英領時代にはラカイン州の回教徒が英国の支持を背景に優越した 立場にあり251、第

2

次世界大戦が終結してビルマが悲願の独立を達成する前後 の弱体の時期には、国家主権の象徴である領土すら分離しようとした。これら の事実はいずれも、ミャンマー政府と国民に不信と恐怖の念を与えるものであ

国の意図が何であれ、これはラカイン州における回教徒にとっては有利な状況であった。

249 Yegar, op. cit., p. 68. (脚註177参照)

250 6.2.2項参照。

251 脚註248参照。

83

った。

6.3.3

ミャンマーの「最も厄介な問題」

英領ビルマの独立後も、しばらくの間はベンガル地方から肥沃なラカイン州 へ不法移民の流入が続いたことに加え、

1971

年に起きた第

3

次インド・パキス タン戦争(バングラデシュ独立戦争)の際にも、ベンガル地方からラカイン州に 多くの難民が流入して、今日ではすで

3

世代が交代している。一般に、条件の良 い土地に長期にわたり生活基盤を定めれば、もはや移動は容易ではない。第

2.3.1

項に述べた

1985

年当時の国連難民副高等弁務官スマイザーは「フォーリンアフ ェアーズ」誌への寄稿論文の中で、現在の難民保護の負担に関する「最も厄介な

問題(

most worrisome

)」は、その膨大な数もさることながら滞在国への長期間

の逗留である旨の所見を述べている252

一方で、大多数のミャンマー国民が数世紀にわたり社会規範を共有し、この規 範ゆえに英国の統治下にあってもアイデンティティを失わず社会の秩序を維持 し得た事実は明らかに存在する。それゆえに社会的安全保障(

societal security

) とは、「アイデンティティの保全(

identity security

)」と言い換えることもでき る 。従ってミャンマー社会が自らのアイデンティティを保全するためには、次 の手段があることになる。

① ロヒンギャに対してミャンマー社会への適応を求める。

② 適応を拒否する者を排除して自らのアイデンティの維持を図ろうとする。

ミャンマー政府が、ロヒンギャはミャンマー社会への適応を拒んでいるとし て②の「排除」の選択肢を採り、これが国際社会の激しい批判を招いたことは既 述のとおりである。

ミャンマーにおけるロヒンギャ問題の紛糾の理由は、その長期間の逗留によ ってロヒンギャのどの部分がラカイン州に土着のミャンマーの「少数民族」であ るのか、あるいはベンガル地方からの流入者であるのか、誰にもわからなくなっ てしまった点にある。ロヒンギャが不法滞在者であるとのミャンマーの主張は、

たとえそうであったにしても、国際社会に証明し納得させることは今日となっ ては極めて難しい。この長期間の逗留こそが、まさにミャンマーの抱える「最も 厄介な問題」となっている。

6.3.4

バングラデシュの観点から見たロヒンギャ難民

社会的安全保障とは、序論において述べたように、端的にはアイデンティティ の問題であるが、その根底に存在する経済の要素を無視することはできない。社

252 Smyser, op. cit., p. 157. 脚註60参照。

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